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【リードに代えて】 二〇〇九年は日本に於いては政権交代という政治史を画する出来事がありましたが、沖縄では、薩摩侵攻400年/琉球処分130年の節目の年でもありました。また、十一月六日には普天間即時撤去・辺野古新基地建設阻止の県民大会が挙行され、さらには今年一月の名護市長選挙では反基地派市長が誕生し、二月には県議会・全会一致で「普天間閉鎖・県内移設反対」の意見書が採択されました。鳩山政権の「迷走」や、新たな買弁勢力の登場などもありますが、基地撤去の「民意」は揺るぎないものとして、四月二五日には、「島ぐるみ」にふさわしい超党派の県民大会が予定されています。 他方、「道州制導入−上からの国家改造」に抗して、「沖縄の『特例型』道州制に関する提言」が、二〇〇九年九月二四日に提起され県知事に提出されました。「沖縄の世論を喚起し、21世紀の沖縄の未来を切り拓くにふさわしい沖縄の在り様について、沖縄の人々の合意形成の一助となれば」(提言「まえがき」)と奮闘し、この提言を発した「オール沖縄」の沖縄道州制懇話会を牽引した座長の仲地博さんに、過去から現在を踏まえ、更に未来への架橋とすべく、「沖縄が発信する新しい道州制のかたちと沖縄州のすがた」(提言・副題)について、お聞きしました。 【何をしなければならないかを考えざるを得なかった】 ―― 一九四五年のお生まれと言うことですが 仲地 六月一九日生まれです。沖縄戦の最も過酷なころで、沖縄で生まれていたら生を長らえることはなかったろうと思います。幸いというか、母親が疎開で熊本に居りました。八代生まれです。でも終戦の翌年沖縄に戻りましたから八代の記憶はありません。 今の首里駅あたりで育ちました。私の幼い頃は、艦砲射撃の跡に水がたまり池のようになっていて残っていたり、いたるところに砲弾の鉄くずがあり、そして、ちょっと藪の中に入ったら頭蓋骨があったりして、戦争の生々しい傷跡がまだあちこちにありました。 ―― 高校入学が六一年ですね。祖国復帰協議会の結成が60年です。全国的にはともかく、沖縄では復帰運動が盛り上がりつつある頃ですよね。 仲地 ええ、でも土地取上げに反対した島ぐるみ闘争のころとは異なり、私の高校生時代は、高校生がデモに出るというようなことは、少なくとも私の周辺ではありませんでしたね。先生方がデモしているのを、沿道で声援する(笑)ようなことはありましたが。高等弁務官が「沖縄の自治は神話である」と発言したキャラウェイの頃で、米軍政が破綻に向かいながらも相対的に安定して見える時期です。 ―― 一九六五年大学入学、大学は北海道(北大法学部)ですね。 仲地 よく、なぜ北大かと聞かれるのですが、当時の「国費留学生」です。全部で二〇〇人ぐらいいたのでしょうか、まぁ希望は出しますけれども、文部省(現文部科学省)が北は帯広畜産大学から南は鹿児島大学まで各国立大学に配置するんです。 その時、私が北大だと知らされると近所の同級生のお母さんが「博さん、行かんで良いのよ。誰もあなたを責めないからね」と言ってくれました。札幌には船で一日汽車で二日、まるまる三日がかりで行かなければならなかった時代ですから。後で気がつくのですが、そのお母さんの長男、私の同級生の兄ですが、その人も小樽商大に行っていたのです。母心というものをつくづく感じました。 私の北大の学生時代は「沖縄を知る会」というサークル抜きには語れないのですが、ガリ版で毎週毎週二〇ページの会誌を作るようなサークルでした。当時は、大学生が、人生と社会とのかかわり、知識人の役割というようなことを真面目に考え、口角泡を飛ばして議論する時代でした。青年が使命感を持つことができた時代で、そういう意味では今の学生に比べ幸せだったと思います。特に沖縄出身の青年はそうだったと思います。誰でも沖縄の現状に心を痛め、何ができるか何をしなければならないか考えざるを得なかったと言えます。 ―― 六九年卒業で明大大学院へということですが、その年の十一月が「佐藤・ニクソン」による日米共同声明ですね。 仲地 ええ、「一九七二年中に沖繩の復帰を達成するよう協議を促進」という内容でした。ほんとに七二年に返還されるのかにわかには信じられませんでしたが、ともかく「復帰」の足音が聞こえるという実感はありました。 卒業したら沖縄に帰ることは決めていましたが、いざ卒業するということになってみると、沖縄に帰って何をするのか自問しました。少しでも沖縄のために役に立ちたい、沖縄に不足しているものを持ち帰ろう、せっかく法学部なんだから、行政法を学んで、琉球政府の公務員になれば、お役に立てるのではないか、と考えました。 明治大学の大学院に入って当初修士の二年のつもりでしたが、明治大学で出会った和田英夫という先生が私を評価してくれました。人間というのは評価されるとそれに応えたいという気持ちになりますね。それで博士課程まで進んだというわけです。 ―― 「復帰」そのものに対してはどのようにお考えでしたか。 仲地 「パスポート」に象徴される自由や人権の問題、社会保険などの社会保障についてはこれで一安心、これで良かったという気持と、他方ではそれと裏腹に、本土の沖縄化、日米安保の「アジア安保」への転換など「こういう復帰を望んでいたのではない」という気持ちが複雑に絡み合っていましたね――沖縄住民の最大公約数的感慨だと思います。 まだ鮮明に思い出しますが、当日(一九七二年五月一五日)の午前零時に、習志野市にある沖縄出身者の学生寮の寮生でデモをしました。寮の五〇人ぐらいのうち半分ぐらいでしたかね、駅前といっても住宅街ですが、深夜「沖縄返還粉砕!」とかシュプレヒコールをしながらデモをしました。近所の人に怒られたりしながらね。でも、その怒った人も、沖縄の寮生とわかっていたのでしょう、このような情況の中で仕方がないかと思ったのか、一言だけ言って帰って行きました。なんか今思うと、「復帰」を象徴しているシーンだな。 【一〇年後――「復帰」を問い直しはじめた】 ―― そして一九七四年に沖縄に戻り、琉球大学での学究生活に入られわけですが、八一年の『沖縄自治憲章』(いわゆる玉野井試案)についてお聞きします。これは玉野井芳郎さんが中心になって提言されたものですが、「(平和をつくる沖縄)百人委員会」の中で反対されたと言うことはすでに有名な話として伝わっていますが、仲地さんご自身はこの自治憲章をどのようにごらんになっていましたか。 仲地 復帰運動の「(当時にあっての)今日的側面」を痛感させられました。 玉野井先生は七九年に雑誌『世界』に「地域主義と自治体『憲法』−沖縄からの問題提起」という論文を発表されていますが、その考えをもとに「自治体の憲法が作れないか」と、今、関西におります憲法学の大林(文敏・当時、沖縄国際大学教員)さんを通じて、私に声がかかり、あと政治学の西原(森茂、当時沖縄国際大学教員)先生とで、半年ぐらいでしたかね、勉強会から始めて、試案作成に携わりました。それも単なる作文に終わらせるのではなく、やろうと思えば条例化まで出来る内容のものとしてまとめ上げたわけです。 百人委員会というのは、研究者や文化人の啓蒙的運動団体で、平和や環境の問題について当時世論に対する強い影響力がありました。百人委員会自体、玉野井先生がリーダーシップを発揮していました。玉野井先生は、百人委員会の名で憲章制定の運動をしようと考えたのですが、他のメンバーからすれば玉野井先生が走りすぎたという感じがあったでしょうね。この自治憲章の内容を見た時に、沖縄言論界の長老の二人がとても強い拒否反応を示しました。豊平良顕(一九〇四〜九〇。沖縄タイムス元会長)、牧港篤三(一九一三〜二〇〇四。沖縄タイムス元専務)さんです。「独立しようというのか」「国から訴えられたどうするのか」と。そんな問題は生じないと説明しても、「また、沖縄を特殊な位置に置くというのか。戦前のような状況に戻ってしまう」と言うわけです。 私は百人委員会のメンバーではありませんでしたが、説明要員として集まりに参加しておりました。松田賀孝先生や宮城悦二郎先生が支援の発言をしてくれましたよ。しかし、その後、玉野井先生から「あれはもう封印する。」と聞かされました。なんでも豊平さんから「自治憲章運動をやるのなら私を百人委員会の代表から降ろしてからやってくれ」とまで言われたそうです。玉野井先生は、これで百人委員会を潰しては「元も子もない」、豊平さんたち長老を無視して事を運ぶわけにはいかない、ということで、「時期を見よう」という言い方をなさいました。先生ご自身は、その時期を見ることなくお亡くなりになってしまいましたが。 今から言えば隔世の感がありますね。復帰運動のリーダー達の果たした役割とか、限界とかが明らかになる一幕でした。 自治憲章はこのまま日の目を見ない事になるのかと思っていたら、新崎盛暉先生が編集にあたった『玉野井芳郎選集(第三巻 地域主義からの出発)』に、この「憲章」を収録するから私に解説文を書いてくれと依頼されました。あのまま完全に埋もれてしまうのを新崎先生が『選集』の中に収録してくれたことで、今日でもあれが読まれる契機となりましたから、新崎先生のお力は大きかったです。私もあの解説を書くことがなければ、あの「憲章」の意義付けをやってみようという気にはならなかったと思います。 【「沖縄自治憲章」の意義】 ―― 今、改めて「自治憲章」をどのようにごらんになりますか。 仲地 自治憲章のころは、「国を問い直そう」という動きが出てきて、伝統的な「復帰思想」とがせめぎあった時代でした。復帰思想−復帰運動については、六〇年代末ごろからでしたかね、新川明さんたちが「反復帰論」を唱えていましたが、これはごく一部の文化人や知識人たちに限られていました。しかし、復帰一〇年もすると、「復帰とは何だったのか」という思いが広く共有されるようになっていたということではないかと思います。「琉球共和国憲法」や「琉球共和社会憲法」(いずれも『新沖縄文学』四八号、一九八一年所収)が発表されたり、自治労(沖縄県本部)が「特別県制構想」(正式名称「沖縄の自治に関する一つの視点−特別県構想」)などを打ち上げていたのも大体同時代です。 さらに二十数年を経て今日的意義と言うことでいえば、第一点は、全国の自治体での「自治基本条例」の先駆をなした、ということです。ここ一〇年くらい、自治基本条例という形で「自治」を考え、自治を拡充する運動が各地で行われております。沖縄では石垣市で制定されていますが、自治体のいわば憲法としての「自治基本条例」制定の動きが広まっています。「沖縄自治憲章」の以前には、一九七三年、議会多数派によって廃案になりましたが「川崎市都市憲章条例」が一例あるだけです。 第二点目は、沖縄の自治のあり方を問い、さらに踏み込んで沖縄自立の精神を問うものだった、と言えます。「自治憲章」は、国家を相対化する視点を持ち、沖縄の自治の精神を謳い、自治体の政策として、個性ある沖縄を形作って行く道を提起しています。 三点目が、二点目と重なりますが、この「自治憲章」を通して「復帰への問いかけ」という思考基軸が立てられるのではないかと思います。沖縄の過去を見直し将来を展望しようとする時、ある意味で「復帰」はなお進行形であり、今日的テーマになりうると思います。現在の「道州制論議」など、まさにそうではないか、と思います。 ―― 「自治憲章」の中身の話を少しお聞かせください。 仲地 まず「平和主義」を中心に据えたことです。これは「沖縄」の「憲章」ですから当然です。そもそも正式名称が『生存と平和を根幹とする沖縄自治憲章』です。また、「沖縄における最高規範」として「憲章」を位置づけたことです。 |
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「第十六条 この憲章は、沖縄における最高規範であり、あらゆる条例、規則は、この憲章に適合しなければならない。国の法令を解釈する場合は、この憲章に背反することのないよう努めなければならない。」 |
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―― 憲章の民衆の抵抗権の宣揚は、「自決権」(今風に言えば「自己決定権」)から、いわば「革命権」に通底するものとして、私なんかは読みましたが。 |
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「第十八条 この憲章によって保障された基本権が、国および自治体の行為によって侵害されたときは、住民は、これに対し抵抗する権利を有する。/自治体の自治権が国の行為によって侵害された場合は、自治体は、これに対し抵抗する権利を有する。」 |
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仲地 「国」を自治の侵害者として規定しています。こういうところも復帰運動の指導者たちを刺激したんでしょうね。さらに、自治体そのものが住民の権利を侵害することがあることも前提にしています。もっとも「抵抗権」そのものの考え方は「日本国憲法」の中に流れているというのが、私たちの世代よりも上の先生方にはありました。その教えを受けた私たちの世代にも共有されています。条文としての「抵抗権」について書いたのは私ですが、玉野井先生は、東大の小林直樹先生などにも意見を求めたりしています。 「抵抗権」という言葉や概念については、むしろ「国家は絶対の存在ではない、国家を相対化する」ことでの意味というか、意義付けが大きかったと思います。 玉野井先生にしてみれば、私たち法律家が日本の法律の枠組みという話をしなければもっとラジカルな内容にしたかったのではないかと思います。それにしても二〇年ほど早すぎましたかね、玉野井先生の構想は。 ―― 「復帰一〇年」に自治憲章、特別県制、共和社会憲法の三つが発表されたというのは、すごいことでしたね。 仲地 この三者が影響を与えあったかという意味で相互の関係はまったくありませんでした。新崎盛暉先生の言葉を借りれば「日本になった沖縄」について、いろんな立場の人が自分の考えをまとめるまでに一〇年かかった。そして「日本になった沖縄」を見直してみたい、ということだったのでしょうね。三者は偶然に同じ時期に出ますが、この時期に出るのはある意味では必然だったのでしょう。 【共同体(意識)が残る島――沖縄】 仲地 自治憲章が、自治労や『新沖縄文学』の発想と違うところは、もう一つあります。それは玉野井先生の「地域主義」の考えを盛り込んだところです。特に「共同体」の重視ですね。それも抽象的なものではなく、具体的に「シマ」を大事にすると言う視点を入れたことです。 玉野井先生は沖縄で、「字」とか「公民館」とか「シマ」を見て、彼の地域主義を完成させて行きますけれども、それを『憲章』の中に盛り込んでいます。例えば「第二章 沖縄の生存と平和」の中の「第七条」として「シマの生活」という一項が設けられています。 |
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「第七条 自治体は、沖縄の社会的基層であるシマ(字、区)の生活文化と自治を損なわないように細心の注意を払わなければならない。」 |
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この第七条以外にも、第八条での「地域文化」、第十条での「相互扶助と共同性」、さらには第十一条(自然の共有)の中でも、「沖縄の自然は、住民共有の財産であり」とか「相互扶助と共同性の伝統に基づき」とか、いわば玉野井地域主義が全面展開されています。 でも、この共同体というのが、沖縄でも急速に崩壊して行きますね。玉野井先生は、まだ夢を見ることの出来る時代に沖縄に居られたということでしょうね。 ―― 「シマ」という言い方もそうですが、今でもヤマトから見ると集落−「字・公民館」の役割の大きさには驚かされます。もちろん、そこには様々な問題があるだろうとは思いますが。 仲地 共同体(意識)というのが残っているというのを実感するのは、「モアイ(模合)」ですね。モアイといいうのはもともと庶民の相互扶助の頼母子講です。今、「琉球新報」紙上で「ザ・模合」が連載されていますけれども、それを読みながら思うのは、「沖縄というのは共同体が残る島なんだなぁ」ということです。 ―― 二〇代三〇代の若い人達もやっていますね。たまたま居酒屋で若い女性たちの「モアイ」に遭遇しました。いえ、私は単なる飲み会だとしか分からなかったのですが、「あれは模合ですよ」と教えられてびっくりしました。 仲地 沖縄は、人のつながりを求める社会と言ってもいいのではないでしょうか。それが「モアイ」という形を取っている。学校を卒業した後同級生らが、どうやって定期的に会うことが出来るのか、「じゃあ、模合をしよう」ということになる。私の高校時代の同級生の話ですが、「金を出さないモアイ」をやってます。毎月集まっていますが、「金を管理するのはめんどくさいから金は出さないでモアイをしよう」と。これが沖縄社会だなあ、とつくづく思いましたね。 自治体で憲法を作るのは「良きしきたり」という表現を玉野井先生は使っていましたが、今、各自治体がようやくそういう問題意識にたどり着いたのではないかと思います。もちろん、共同体の崩壊や財政破綻などによる自治体苦難の時代に差し掛かっているという時代状況が大きく作用していますが。 沖縄自治研究会のように、研究者だけではない、数から言えば大学の教員よりもジャーナリストや公務員、そして市民などが一〇〇人レベルで集まって「自分たちの憲法を作ろう」という運動をやっているのは沖縄だけだと思います。そして今回の「道州制懇話会」のように、民間主導で「オール沖縄」の世論を作ろうなどと考えるのも沖縄だけでしょうね。 ただ、こういう問題もあります。 一九九七年に福岡高裁で「沖縄植樹祭問題」を巡って違憲判決が出ました。植樹祭には天皇が来ますが、それに反対するための集会をしようとした学生たちに対して、糸満市も豊見城村も公園使用を不許可にしました。この公園使用不許可が憲法違反であるという判決が出されたのです。沖縄で初の違憲判決ですし、「表現の自由」の侵害というレベルで非常に注目すべき判決なんです。 少数者の表現の自由が公権力によって侵害されたという大きな問題、沖縄の民主主義の質が議論されなければならない判決ですよね。にもかかわらず地元二紙は社説で採り上げることはおろか、解説記事で論評を加えることもしない。基地問題の大きな見出しと比較すると実に地味な扱いでした。これが、被告が国であったとしたら、新聞はどのよう紙面作りをしたでしょうか。これは被告が豊見城や糸満つまり身内だったから、こんな扱いになっている。国が沖縄の住民の表現の自由を侵害していたのなら、新聞も世論も一斉に反発したでしょう。これが沖縄の社会の特徴ではないでしょうか。「国」が絡んできたら沖縄は反発する。けれども、「内なる人権問題/内なる憲法問題」になると鈍感になる。つまり、沖縄の本質はある意味では「保守的」である、ということなんです。 佐藤優さんが、「守屋(元防衛省次官の汚職)」問題にふれて、沖縄の政治家が絡んだスキャンダルがあるはずだが、沖縄の新聞は何も書かないと。これもやはり共同体なんでしょうね。内に対しては甘くなる。それがですね、ある意味では沖縄の住み良さにもつながるということにもなるのでしょうか。人に責められない社会、人を責めない社会、欠点も含めて丸ごと受け入れるのが共同体なんでしょう。 【平成の琉球処分――道州制】 ―― 次に「オール沖縄」の沖縄道州制懇話会についてお聞きします。 仲地 全国で市町村の合併が相次ぎ、「平成の大合併」といわれるようになりました。 市町村合併の次は、都道府県の広域化という雰囲気も強くなりました。第二八次地方制度調査会(二〇〇四年に招集)が、〇六年には「道州制のあり方に関する答申」をおこない、都道府県の廃止と道州制導入を打ち出します。 そして内閣も、道州制担当大臣を置き、諮問機関として道州制ビジョン懇談会で議論を開始します。ビジョン懇には、各ブッロクの経済界の代表も出席するのですが、沖縄からは経済同友会の太田守明(現りゅうせき会長)さんが出ておりました。先程ちょっと触れた沖縄自治研の島袋純さんが案内して、太田さんが訪ねてこられました。ビジョン懇で発言する場合、沖縄の世論を踏まえたいというのです。本来県がやるべきだが、県がやらないので民間でやりたいと。そこで〇七年八月に「沖縄に相応しい道州制のあり方について、県民の関心を高め沖縄の総意に基づく提案の基盤づくりに資することを活動の目的」として沖縄道州制懇話会が発足しました。「これが沖縄の世論だ」と受け取ってもらえる集まり――「オール沖縄」でなければならないということで、委員には、大学の研究者、革新時代・保守時代の副知事経験者、与野党の県議会議員、市町長、商工会議所・経営者協会などの経済団体や連合沖縄、そしてNPO。加えてオブザーバーとして県企画部長などを網羅した道州制の検討機関が懇話会でした。 懇話会座長を引き受けましたが、最終的結論にたどり着けるか不安でしたね。でも、いろんな立場の人たちが一堂に会して、沖縄の将来像を書くための議論をしてみることだけでも十分に意義があると思っていました。とにもかくにも二〇〇九年九月には「提言」という形で最終的にまとめ上げました。発足当時新聞には「同床異夢」と書かれたりしましたが、議論を闘わし、「特例型沖縄単独州」がいいという結論を導きだした意義は強調されてしかるべきだと思います。 それに、私にはもう一つの危機感がありました。それは「道州制」以前に、国の制度設計に従っただけの「市町村合併」などの政策に無批判に追随する県のあり方でした。 ―― うるま市や南城市が生まれましたね。〇八年八月の沖縄県主催の「道州制に関するシンポジウム」で、県の企画部長が「市町村合併が全国より遅れており、合併を進める必要がある」という発言に対して、仲地さんが「沖縄州の仕事とは何かなど、県のあり方を考えた上で、市町村合併の議論はすべきである」と一喝していたのを「タイムス」で読ませていただきました。 仲地 現在の民主党政権は、「地域主権改革」を唱え、一括交付金も「沖縄をモデルにしてやる」と言ってます。しかし、それに対しても県は何も考えていない。 今、沖縄は発言力のもっともある地域になれるはずです。例えば「地域主権とはどうあるべきか」という問題についても、もっともっと発信すべきでし、提案できるんです。国は沖縄総合事務局(国の総合出先機関)廃止さえ、言ってます。とすれば「一国二制度」も含めて県は、総合事務局の仕事の「仕分け作業」を自分でやるべきだ、何は引き受ける、これはどうする、財源はどうなる、とか。 それどころか、二年前、国の分権改革推進委員会の委員が総合事務局の調査に来て「廃止」の方向を示唆したら、県知事は「当面残してくれ」と発言して、分権推進委員が怒っちゃいましたね。そして、去年ですか、前原(誠司。国土交通相・沖縄担当大臣)さんに「沖縄振興計画があと二年で切れるが、お力添えをお願いしたい」と「陳情」までしてます。現状維持なんです。沖縄県の知事は「分権の旗手」になることが出来る状態だけれども、基地問題も「国が決めてから」と言うばかりですね。よくいえば慎重、悪く言えば(政治家ではなく)官僚ですね。 【沖縄単独州による「新しい国のかたち」】 |
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【提言】「まえがき」:こうした状況の中、手をこまねいていては、自らの意思ではなく他からの力によって沖縄の形がつくられてしまう。すなわち新たな琉球処分となる可能性を否定できない。沖縄が、どのような将来構想を持つかが問われている。……そこでの議論を通して、地域の構成員はもとより地域社会とアジア諸国との信頼と信用のネットワークを築くことを前提として外海離島に位置する沖縄が単独で州となり、変革に果敢にチャレンジすることを通じて地域を活性化し、結果として沖縄州の経済・財政基盤を確立すると共に、道州制導入によるこの「新しい国のかたち」もつくることができるとの認識で一致した。 |
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仲地 新たな琉球処分をさせてはならないことを強調したこの「前書き」は誰でも納得してくれる内容です。が、どこに行っても聞かれるのは「経済・財政は大丈夫か」ということです。 懇話会では、最初の段階で、「この議論は後回しにしよう。まず、どうしたいのか、から始めて、その次にそれでは経済・財政はどうするかという順序で話そう」と合意しました。もちろん教育・福祉・医療などはどこにいても国が責任を持つべきだという、ナショナルミニマムの問題は道州制の柱に据えられています。 経済人にしてみれば、激動が予想される変革に対して、九州に含まれるか単独州か、どの形なら自分たちが生き残れるか、と発想するはずで、そこから単独州という結論に行き着いたはずです。 例えば九州政府が、どのくらい沖縄のことを考えられるのか、ということです。九州州になったら、そこでの沖縄の比重はどうなのか、九州州という単位を考えてみると、日本の中での沖縄という単位よりも、もっと小さなものになってしまう。 沖大シンポ(〇八年七月に沖縄大学土曜講座として開催された「第一回沖縄民衆会議」)で挙手を求めたら、百名以上の中で、九州州が二、三名で、東京州が七、八名でしたね。要するに九州への一体感がない。これは不思議なんです。いろんな組織で九州単位のものが沢山あるわけです。PTAにしろ、我々の学会でも「九州ブロック」だし、高校野球でも選抜は九州大会を経て決まります。「復帰」後三八年間、九州と一体化した組織を作り、一体化した運営を積み重ねながら、沖縄では九州との間で共同体としての意識はほとんど生まれませんでした。東京の方が身近になってしまった。東京の発信力・吸引力が強いということでしょう。奄美も九州を通り越して、中央志向になっていると聞いています。 ―― 奄美が出てきたので、お聞きしたいのですが、沖縄にとって奄美との距離感については如何でしょう。 仲地 奄美と沖縄は相互に近くて遠い。沖大でも一学年に一人ぐらいですね、奄美の出身学生は。奄美から来た人と話をしていたら、彼は沖縄で「疎外感」を味わうようなことを言ってましたね。 この前、奄美に行きましたら、その文化的基層は沖縄との同一性を多々感じますが、奄美の人は「我々は二重国籍だ」と言っていました、つまり、鹿児島と沖縄ですね。歴史的には、沖縄も鹿児島も、奄美の支配者ですよね。 道州制懇話会では、議論開始の当初、奄美のことが折りにふれ話題になるんですね。ですから、奄美については早めに一項目立てて、「これは奄美の人たちが決める」という考え方で行こう、と。 |
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【提言】:現在、奄美地域は、鹿児島県を構成しているが、例えば「琉球王朝」や「琉球諸島」などのように、歴史的な用語あるいは地理的な用語として琉球という場合は、奄美地域を含める場合もある。/地域の主体性を最大限に尊重することが最も重要であることから、奄美地域については当事者である奄美の人々が区域問題を判断することが前提であるが、沖縄としては沖縄と奄美の歴史的な経緯や共通の自然的・社会的条件等を踏まえ、奄美地域への親近感を持っており、道州制について共に議論し、地域的合意が得られるならば、共に一つの琉球州を構成したいとする意見も強い。 |
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奄美と沖縄は共同体意識を持てると思います。だから、分かれたものが一つに戻るような自然の流れがあればいいと思います。 ただ、沖縄州という小さい州を作るんだったら、少しでも範囲を広げて、奄美十二万を抱き込んでおきたいという「琉球中華思想」(笑)もあるんじゃないかなぁ、なんて私は思ったりもしました。沖縄は奄美と結びたいが、奄美住民の気持ちが第一というのが懇話会の立場です。 【「単独」「特例」、そして自立】 仲地 道州制のメリットとして、広域性ということが挙げられます。でも沖縄は海を隔てて遠く、九州州に入って広域のメリットは受けない。 単独で行くことに加えて「特例州」を掲げました。標準的な州であれば国の仕事となるものを、沖縄州では、沖縄州にさせよ、ということです。で具体的に例示したのが、国境管理を沖縄単独州がやる、という「特例」です。出入国管理や関税です。ただ、この「特例」が具体的にどのようなメリットがあるかは詰めきれていません。吉元さんなどは、産業規制など経済産業省の権限の中で、何を沖縄州知事の権限にしたら沖縄の経済はメリットを受けることが出来るのかを議論しよう、と言ってました。でも、残念ながら、その力はないわけです、懇話会には。沖縄の経済界もこれに期待するのだと思いますが、民間の任意組織の懇話会で出来るのはこのレベルまでだなぁ、と思いました。 ―― 道州制という、国の政策、私は「地方分権に名を借りた新たな中央集権」だ、と思っています。これを逆に千載一遇の機会と捉えて、国と対決することへ押し込んでゆく。そんな風に勝手に「外から」見ているんですが。 仲地 沖縄が問われているのは、その点です。道州制懇話会は、国の形が変わるかもしれないという時に、その対抗策を我々が持たなくていいのか、というところから始まったわけです。ですから、提言は「道州制の導入」ではなく、「州政府の設立」です。 中央レベルで道州制の導入に向けた論議が行われているこの段階までは「オール沖縄」で議論はまとまりました。今の段階は、国の形が道州制になるかどうかには関わりなく、沖縄の将来は州をめざすのか、ということが問われています。しかし、その議論に入ったら、「オール沖縄」のままで行けるかどうか、分解をしてしまう可能性が大です。 民主党が政権を取った後、「新報」の社説が、「懇話会には政権交代を踏まえた追加提言を期待したい」と書きました。しかし、懇話会はもう解散しています。それは本来「我々の政府」である県がやるべき仕事なんです。でも、仲井真知事という人は、そういう発想には立たない人なんでしょうね。 ですから、県がやらないなら、とまた考える必要がありそうですね。 【多様な社会、そこでは人も楽になる】 ―― 「同床異夢」から、一歩踏み込んで「似たような夢」を見ることが出来るチャンスではないか、と思いますが。 仲地 沖大シンポでは、「道州制が『琉球独立』のステップになる可能性がある」などとも語られました。シンポの司会者が、独立に賛成か反対かで挙手を求めたところ、おおよそ賛成三〇、反対五〇でした。私は、道州制論議を通して、沖縄の精神史に特徴的な「異化と同化のはざま」の中で、揺れを止揚する調和点を探って行くことが出来るのではないかとも思っています。 私がいつも思うのは、「住みたい人が住める沖縄」なんです。道州制も独立も、自立とか自治とかも、そのためのものであって、制度は事の半分ですね。せっかく地域主権がその政策の1丁目1番地という内閣になったのだから、「地域主権」の内実を取れれば、と思います。沖縄は、議論の蓄積はいっぱいありますから、これを活用して国にインパクトを与えるような考え−政策を出せたらと、そんな風に思っています。 これまでにも島袋純さんたちの沖縄自治研究会の地道な活動とその成果がありますし、大田県政時代の「国際都市形成構想」もあります。道州制懇話会もこれらの議論の蓄積があってのものです。 私は、独立に反対するというわけではありませんが、国家を求める必要はないだろうと思っています。目指すものは、国家のない社会だろう。しかし、それはユートピアだ。当面は国家の壁、国境というものを可能な限り低くすることが努力目標だろう。国家意識を強めれば強めるほど周辺との軋轢も強くなるわけです。その国境意識を低くすれば、尖閣や竹島をめぐる紛争なども生じないでしょう。そんな風に思っています。 提言では「地域住民に根ざした地方政府の設立」を「補完性の原理および近接性の原理の徹底」として「地域主権の確立−準連邦型国家」として提起しています。沖縄も北海道も、東京も特例州になり、多様な社会が出来れば、人間のあり方も楽になるに違いない。国家の役割を限りなく小さくして行く。「自治憲章」もそうでしたが、そこに暮らす人々にとって、何が一番良いのかを考える手がかりの一つとして、単独州は考えたい。 ―― 「沖縄(特例)単独州」を基礎に、制度を超えた仲地さんの展望をお伺いできました。長時間どうもありがとうございました。 (二〇一〇年二月二八日、沖縄大学・仲地研究室にて) |
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<『情況』2010年5月号【シリーズ】時代の転換を沖縄に聴く−苛政に育つ琉球弧の自己決定権 その3> |