『琉球・沖縄史の世界/日本の時代史 18』(吉川弘文館2003/豊見山和行 編)


琉球・沖縄史の世界/豊見山和行

 また、1475年にベトナム近海(トンキン湾か)に漂流した琉球船が、占城国の頭目波籠阿麻の軍勢に荷担して安南国を攻撃したものの、安南国側に撃退されるという事件が起こっている(『明実録』成化14年3月戊子条)。この内容は、安南国王黎?から明国皇帝への上奏文の中での言及であり、当時、圧力をかけられていたのは占城の側であったことから文面通りに受け止めることは問題であろう。また、琉球人がなぜ占城軍に加勢したのかもまったくの謎であるが、戦闘活動に参加したことが事実とすれば、漂到した琉球人らが単なる交易活動にのみ従事する商人的な存在などではなかったことを示す事例と言えよう。
 琉球国へ流入する中国人・朝鮮人・日本人がいる一方、福州へ流入・定住する琉球人や占城軍に協力して安南軍を攻撃する琉球人も存在した。これらは流動性の高い時代状況を反映した事象であったと思われる。
 ともあれ、琉球国ではこれらの事件やトラブルの防止策を講じる必要性に迫られたものと考えられる。結論的に言えば、その対処策として採られたのが、琉球人の国外居住禁止策であった。(P47)

 また、近世琉球の大きな特徴として、国家主導型の農業社会となっていたことがあげられる。古琉球期の琉球は朝鮮から東南アジア地域との広域かつ遠隔地との交易を活発に展開した交易型国家であった。しかし、薩摩支配下の近世になると農業を強く指向する国家へと変貌する。(P77)

 この安良城の民族規定(安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス1980)は、いわゆる人種や言語という原初的特性に基づく「原初主義」アプローチによるものである。

 現代の日本社会の中において、奄美諸島や宮古・八重山諸島の人びとが「沖縄人」(ウチナーンチュ)意識を常に共有しているかは問題であるが(通常はそれぞれの島への帰属意識を持つ)、ヤマト(日本)に対抗する際には、「奄美諸島から八重山諸島までの範囲」は「対ヤマト意識共有文化地域」として区別される文化領域であり、ヤマトとは峻別される意識を共有しているという興味深い指摘がある。(津波高志「対ヤマトの文化人類学」『民族学研究61-3』1996)
 また、「日本の国民文化が少なくとも、アイヌ・日本・琉球の3つの民族文化集団を軸に形成されている」(佐野賢治『キーワードで読み解く世界の紛争』河出書房新社2003)という指摘が一般化しているように、安良城の規定した段階とは大きく異なる民族規定の時代状況になっている。現代の民族問題の噴出は、琉球・沖縄史における「民族統一」の民族そのものを問い直す、さまざまな示唆を与えてくれるのである。(P83)

琉球貿易の構造と流通ネットワーク/真栄平房昭

 こうしてみると、17世紀以降の琉球貿易は朝貢制度の枠組みを継承しながら、従来の貿易パターンとは明らかに異なる特徴をもつ。第一に、古琉球にみる「中継貿易」依存型ではなく、王府が砂糖の国産化を進めながら、可能な限り貿易銀を資本調達したことである。つまり製糖業と貿易がリンクするかたちで、<内と外>の構造的な連関性を強めることになったのである。
 第二に、幕藩制市場に砂糖を出荷する見返りに、渡唐銀を入手するという琉球の経済構造は、必然的に日本との経済関係を緊密化した。第三に、昆布や鰹節など日本からもたらされた海産物が進貢貿易の輸出品に組み込まれたことが注目され、その意味で「貿易と漁業」の連関性を指摘することができよう。(P166)

世界市場に夢想される帝国/冨山一郎

 いかに奇妙に聞こえようと、流民としての歴史を、質量ともに持ち合わせている沖縄と沖縄人にとって、流民に「土着」とは、決して対立概念としては存在しない。つまり、「土着」にして流民であり、流民として「土着」であるという関係性において、問題は立てられるべきだと思われる。(新川明・「土着と流亡――沖縄流民考」『現代の眼』1973)
 この文章で新川明は、移民として流れ出ざるを得なかった「流民」に、新たな沖縄人を模索しようとしている。(P267)

 島にとどまる者を鎮圧しながら救済と振興の道を歩ませ、島を出たものを救済と振興の外に放り出していく。あるいは、振興の外にほうり出されるがゆえに、島を出ざるを得ないともいえるだろう。近代の初発において感知され、「ソテツ地獄」において具現するこの2通りの道筋は、戦後も継続しているのだ。最初に述べた「土着」と「流亡」とは、まずは資本主義と国家がおりなす帝国の統治権力の地政学的区分と対応するのであり、両者の切断こそが統治の結果に他ならない。だが「ソテツ地獄」を軸に描き出される痕跡は、「犯罪者」「ジャパン・カナカ」「なまけもの」「不良」などの多くの顔を持ちながら、「土着」と「流亡」を横断する「流民としての歴史」として登場するだろう。この者たちには帝国の正員としての名前を与えられることはないが、「帝国主義に終わりを告げる」(『暴力の予感』2002)のは、この者たちに他ならない。(P288)