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沖縄・記憶をめぐる戦争
『琉球電影影列伝』を振り返って

仲里 効
 昨年10月から11月にかけて山形国際ドキュメンタリー映画祭から始まって、東京、那覇を横断して行われた『琉球電影列伝』は、私たちに大きな文化的インパクトを与えた。昨年末の『沖縄タイムス』の文化回顧で「『琉球電影列伝』に衝撃」(比屋根薫)、「圧倒的な仲里、比嘉(豊光さん)」(屋嘉比収)と評価をうけたことも、もっともなことと思う。他方,日本社会では、この衝撃を受け止めた批評は、皆無に近いものであった。この文化的態度の落差や差異にも私たちは注意を向けたいと思う。
 しかし、その余韻は、今も続いている。その後も、映画『風音』(監督/東陽一、原作・脚本/目取真俊)封切り上映、第二回『カルチャラル・タイフーン』開催(7月琉球大)などの機会のたびに、改めて参照を求められることになった。かねて、仲里氏は「記憶をめぐる戦争」がはじまっている、との指摘をおこなってきた。さらに、『琉球電影列伝』の立ち上げに際しては、@沖縄戦の報復戦争を仕掛ける、A沖縄の戦後(復帰運動など)を再審にかける、Bアメリカナイズでもジャパナイズでもない彼方を目指すと発言している。その意味するところを考えると、私たち日本社会に生きるものは、自らの社会と歴史のありかたを振り返って、等質の問いを立てることを迫られるはずだ。
 今年の5月15日、沖縄の那覇市で開催されたOMB(沖縄五月旅団)のシンポジウムでは、仲里氏の講演を軸に『海の民 沖縄島物語』の上映をはさみながら、沖縄タイムスに連載された『琉球電影列伝―記憶と夢のスクランブル』(全一五回)をはじめ、仲里氏のエッセイなどを素材として意見交換が行われた。ここでは、仲里氏の講演録を紹介して、「沖縄の記憶をめぐる戦争」の深層に迫りたい。ときあたかも沖国大への米軍大型ヘリ墜落事件の渦中にあるが、仲里氏の言説には、既存の「反戦・平和運動」では包摂しきれない、沖縄の身体化された言葉を読み取ることができるだろう。(編集部)
 仲里です。一週間前から風邪をこじらせてしまいました。柄にもなく風邪をひいたのはもう10年ぶりです。沖縄で「チュウアタイ」と言いますけれども、強くこじらせてしまいました。3、4日前まで熱もでたり、まだちょっと喉の調子が悪く、聞き苦しいところもあると思いますが、我慢して聞いて欲しいと思います。
 我々の世代にとって、今日、5月15日というのは、特別な日なのです。1960年代から70年代の初めにかけて当時の社会的叛乱の渦中にいた人、あるいは沖縄からヤマトの方に行っていた人たちにとっては、余計そうでしょう。一般的には「沖縄が日本に復帰した日」というふうに言われるわけですが、もっとその実態と言いますか、踏み込んだかたちで72年の5月15日というものを捉えかえすならば、沖縄の日本への国家的な併合であったということで、僕などは、沖縄の戦後的な抵抗が終焉し、敗北したのかということ、その敗北の構造を、とくと解き明かさなければ、沖縄の復帰後の展開といいますか、復帰後の沖縄を考えるに当たって、なにか見誤るだろうということを常々考えておりました。日本国家が沖縄というひとつの地域をどのように併合して編成していくのかということ、特に沖縄側から見た場合、そのことについてこだらわざるをえないというものがあります。沖縄の今日の情況、あるいは今の日本国家の憲法改正の問題にしても僕などからみれば、やはりその根っこは、あの敗北にいきつくと思うわけです。
 前置きが少し長くなりました。5月15日という特別な日なものですから、横道にそれたわけですけれど、今日は、一本の映画を診てもらいます。1941年に製作された『海の民 沖縄島物語』という映画です。これについては『琉球電影列伝』、タイムスで連載した記事の二回目と三回目でふれていました。1930年代−1940年代にかけて制作された映画の一本です。制作された翌年の1942年には沖縄でも上映されております。この映画を観るにあたって、この映画の時代背景をちょっとみてみたいと思います。
 1930年代-1940年代にかけては、沖縄について撮られた映画というものがいくつもありまして、沖縄の内部でも、数十本ほど撮られています。1936年に『沖縄』という映画が、「東京日日新聞社」「大阪毎日新聞社」によって共同制作されております。それから『南の島 琉球』というのがありまして、これも同じ「東京日日」と「大阪毎日新聞社」の共同制作です。それと民芸協会の理論的なリーダーとして知られる、柳宗悦と式場隆三郎が監修した『琉球の民芸』と『琉球の風物』とういう映画が撮られています。当時、劇映画も数十本ほど撮られておりますが、ドキュメンタリーとしては、今言った映画が今の段階で確認できる映画となっています。これらの1930年代につくられた映画も、去年の山形国際ドキュメンタリー映画で「オリエンタル琉球」という括りにして上映したわけです。ところが、この『海の民 沖縄島物語』は、山形では上映できたのですが、沖縄ではちょっと事情がありまして上映できなかったのです。
 そういうこともありまして、今日は観ていただきたいと思います。なによりもこの映画を観て頂くには、今の時代を考える上でも示唆される「国民の物語」とそれを創造していくイメージ戦略の問題です。そのことを41年という段階で、非常にドラスティツクに描いている。当時は「大東亜共栄圏」構想のもと、「南進」制作が国家的なプロジェクトとして展開されております。軍国日本・帝国日本が南方へ展開していくにあたって、どういうイメージ戦略をたてながら展開していったのか、その「南進」の夢想というか、「大東亜共栄圏」をつくり上げていくために、沖縄というポジションがどういう文脈で戦略的にイメージ化されていくのか、というものをこの『海の民 沖縄島物語』は、象徴効果的に、当時の映画技法も駆使しながら表現しています。25分くらいの短編ではありますけれど、映画史的にみても、この映画はひとつの画期をなすような作品になっております。
 当時の時代情況もかいつまんで、この映画のポジションというものを知る上では必要かと思いますので、おさらい程度に確認しておきましょう。
 1936年に、第六師団長の長谷寿夫というひとが沖縄に来まして、「沖縄は国防上生命線である」と位置づけていくわけです。1937年には、日中戦争がおこり、翌38年、国家総動員法ができ、「東亜新秩序」の建設を表明していく。琉装全廃運動や沖縄的な名前などを変えていくことが組織的におこなわれます。翌年の1939年には,映画法というものができます。これは「大東亜新秩序」「国家総動員」への精神的動員のための布置といえます。監督や役者などを登録制にしたり、配給を規制したり、映画会社を統廃合していく。特に国家的な戦略にもとづき、―これはナチスのケースをみても分かるように、国民をといいますか、国家を総動員していく体制の中で、映画の持つちからというものを最大限利用したのがナチの戦略でありますが、それにならって――日本でも、特に映画のプロパガンタにおける重要性を利用して国家的戦略として展開していきます。
 この年はまた、沖縄においては、ユタを大量に検挙するということをやっております。152名のユタが検挙され、40年には「大政翼賛会」ができました。ちょうどこの年、先ほど紹介した柳宗悦と日本民芸協会が沖縄を訪れます。当時沖縄県庁が推進しておりました「共通語大運動」というものに対して、柳たち民芸協会が「それはいきすきじゃないか」と批判したことで、有名な「、論争」が日本民芸協会と沖縄県当局によって展開されていくのも、前後して起きている。近代の国民国家を形成していく中で、つまり一民族、一言語・一国家とういうような単一性に統合、編成していくためには、言語の強制的な統合というものがおこなわれるわけですけれど、この葛藤は沖縄において特に、1940年代になって、日本民芸協会と沖縄県当局によってかわされた「方言論争」の中にみることが可能です。この論争は中央の文壇も巻き込みながら(例えば荻原朔太郎なども『民芸』に書いたりしていて)ひとつの大きな事件といいますか、問題として扱われたものであります。
 そして41年という、これから観て頂く『海の民 沖縄島物語』がつくられた年は、南部仏印、フランス領インドシナ、ベトナム、ラオス、カンボジアに日本軍が侵攻しています。それまでの北進政策をとるか、南進政策をとるかというふうに揺れていた日本の軍国的な展開のベクトルが、南部仏印への日本軍占領によって南進政策にふみきった第一歩を印した年であったわけです。その年の12月に真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まります。中国大陸に代わって、南方への夢を誘導していくことが映像の世界においてもおこなわれていくわけです。そういう時代背景がありましてもおこなわれていくわけです。そういう時代背景がありまして、映画法が39年に適用されて、日本の映画界が国家統制下において国策を映像で遂行していく。まさにその渦中に、『海の民 沖縄島物語』が撮られていく。南進のイメージ戦略の展開にあたっても、この映画が非常に重要なポジションを占めているということです。
 かつて「戦争が露出してきた」という言葉を言ったひとがおりますけれど、これはなにも日本で戦闘がおこなわれているということではなくて、社会諸関係が戦争が出来る状態に組み直されているという意味のことでしょう。社会的諸関係や我々の心的な領域まで含めてみれば、まさに今の状態というものは、実際に戦闘がおこなっていなくても、戦争が露出してきているといえるのではないでしょうか。こういう中で、国家、国民とは何かということを、もう一度、沖縄ということろから捉え直していく、あるいは今日観て頂く映画から、どのように我々のイメージが戦略的に利用されていくのかということを見抜いて頂きたい、というふうに思っております。
 前置きはこれくらいにして、映画を観た後にまたディスカッションできれば、というふうに思っております。
ビデオ上映『海の民 沖縄島物語』
1942/モノクロ/35ミリ/27分
 沖縄戦が1945年に終わるわけですけれども、この映画は、沖縄戦の黙示録にもなっている。お気付きになったと思いますが、物語の筋立ては男性のナレーションと女性のナレーションによって分断され、構成されています。男性のナレーションの場合は非常に勇ましいナレーションと言いますか,いかにもプロパガンダを地でいくようにやっていくわけです。他方、女性のナレーションの場合は、この映画にエキストラとして出ていた沖縄県立第二高女の生徒達と対応しています。首里城を掃除したり、それか門中墓のところを掃除して、一列に並んで墓に向かって礼をしていくというところもあります。そういった意味では、県立二高女を登場させてくるあたりは、すでにしてひめゆりの学徒隊や女子挺身隊と言われる、ああいう学徒隊の動員のされ方みたいなものが、この映画の物語の構造として先駆的にやられているというふうに思います。また最後の、拓南訓練生が出征していくシーンなども、鉄血勤皇隊をイメージさせるような内容になっております。
 この映画で、すぐに思い浮かんだのが、「沖縄イニシアティブ」です。
 「沖縄イニシアティブ」については、皆さんすでにご存じだと思いますけれども、2000年、ちょうど沖縄サミットが開催された年の三月に、当時の小渕総理も含めて行われたフォーラムで、琉球大学の三名の教授が共同で執筆提案したものです。沖縄の位置を率先して利用しながら、新しい日本の国家像に貢献していく、そのために沖縄の主体性と、イニシアティブを発揮しなくてはいけない、という主旨のペーパーでした。「アジア太平洋地域のなかで沖縄が果たすべき可能性について」という副タイトルが付いていることからも分かるように、アジア太平洋における沖縄の位置と役割を展開しているわけです。この「沖縄イニシアティブ」の役割は、沖縄サミットが開かれたその年に、沖縄戦後史を沖縄から、ある意味ではゆるがし、再編していくと言う、非常に戦略的なペーパーであったわけです。短い文章でありますけれど、この中で述べられているのは、彼等の言葉で言えば「新たな文体」で編成し直していく、というふうなことであります。そのために日米安全保障条約の要としての沖縄基地の役割を積極的に評価していくということも述べられていますし、そのイニシアティブは今、国と県が、沖縄に展開しようとしている基地の新たな建設を言説において再定義していくということです。
 先頃、この中心メンバーのひとりである高良倉吉さんがアメリカの学会で、「15年問題はもう一度考え直してもいいんじゃないか」というふうな言い方をしたわけですけれども、これも非常に戦略的なやり方です。15年問題は稲嶺県政にとってデッドロックに近いような状態にあるわけです。それをわざわざアメリカで、県政のブレーンが「見直し」を遠隔操作のように言及することによって15年問題をまた別なところに誘導していこうという意図が読み取れます。「沖縄イニシアティブ」というものは、かなり計算されたやり方で、沖縄の言説史において、戦略的な役割を果たしたわけです。イニシアティブが出た後、沖縄の中で激しい論争も闘わされているわけです。これは沖縄にとっても無視できないような問題でであります。
 ちょっと話が脱線しましたが『海の民 沖縄島物語』にもどりますと、沖縄の移民史、それから東南アジアにまでその名が知られた糸満漁法と言われた、海の民の活躍を、日本の「南進」の文脈で定義し直しながら、「大東亜共栄圏」構想のひとつの結び目として、仲間のポジションというものを映像化していく、ということがあっただろうと思います。60数年前につくられた映画ですけれども、まさに、今を、現在というものをみるひとつの鏡にもなっているのではないかというふうに思います。
 『琉球電影列伝』に関しては、今日、1本しかお見せできなかったわけですが、山形国際ドキュメンタリー映画祭では、70本ほどの映画を集めまして、10のテーマで、それぞれテーマ分けしてみたわけです。この山形国際ドキュメンタリー映画祭で沖縄の特集のコーディネータの話があったときに、僕なりに、沖縄の戦後史なり近代史を、映像によって総括し直してみたいという思いがありました。映像の所在の調査とか、それから上映にあたっての権利者への交渉まで含めると、一年半くらいの時間を費やしました。これまで沖縄のに関しては、活字の形では様々に語られたり論じたりしてきたわけですけれど、近代日本にとっての、沖縄の記憶とイメージというものを、映像でもう一度解き明かしていく、捉え返していくということはなかったわけです。もちろん断片的にはあったわけですけれど、この際、沖縄の近代なり、戦後というものを映像でもって、見直していったらどうなるのか、ということで仕掛けるにあたっての基本的なスタンスというものは、ひとつは、沖縄戦の報復戦争を映像によって仕掛けていく、というふうなことがあったわけです。非常に過激なことを発言して、一部では顰蹙を買ったりしました。二点目は、どうしても沖縄の戦後というものをもう一度再審にかけていく、ということです。三番目には、アメリカニゼーションでもなく、ジャパナイゼーションでもない、沖縄の可能性みたいなものを映像でもって探っていけばどうなるんだろう、というふうな非常に欲張ったと言いますか、試みをやってきたわけです。  
 そこで、70本を越す映像の束でもって、観る人にとっては苦痛であったかもしれませんけれども、観ること自体が闘いである、観せることも闘いである、ということをこの映画祭でやりかったということが、ありました。これからも持続してやっていきたいと思います。今回の映画祭でやったのは継続して70本でありますけれども、まだ落としたものの中にも、たくさんありますし、これからもできたらやっていきたいというふうに思っております。
 とりあえず僕の話はこれくらいにして、後はディスカッションなりで深めていけたらと思います。
司会から『EDGE』次号について。
 もうすぐ出るはずです(注―2004年7月に第13号が発行された)
NDU『アジアはひとつ』が試みたような、日本帝国主義の南進論の足跡を辿ることを通じて、沖縄の位置を考える試みは、どう評価されるか? NDU作品以外では『海燕ジョーの奇跡』など。川田洋の「日沖関係からだけでは出でこないもの、アジア太平洋圏に相当するビジョンが求められる」という指摘。あるいはヤポシネア論について。かつての「ヤポシネア論には国家論がない」というコメントについての解説をお願いしたい。帝国主義論としてヤポシネア論を言う必要を感じていますが、これについてのご感想をお願いします。
 川田洋さんの話が出ましたけれど、学生時代、川田洋さんが『情況』で発表された、「国境・国家・第三次琉球処分」などは当時、僕らの問題意識とも重なりながら刺激を受けた論文のひとつです。あの時に、やはり日沖関係だけでは見えない、というかダメだというふうな言い方があるわけですけれど、それはその通りです。「国境・国家・第三次琉球処分」には、国民国家の論理を越えていくというものが問題意識としてくあったわけで、その越え方の中に日沖という二項ではないような、別な項というものを論理の中に組み入れていくというもの、これは常々考えているわけです。その場合、例えば、先ほどのアジア性と言う場合にジレンマもあります。そう語ることが逆に帝国の文脈と言いますか、そういうふうなところに取り込まれていくような、危険性をたえず持っているわけです。そうでないようなあり方をもちろん模索しなければいけませんが。『海燕ジョーの奇跡』は、あれは原作が佐木隆三だったと思いますけれども、あの映画がつくられたのは1980年代で、主人公はフィリピン人の父と沖縄人の母との間で生まれた子です。沖縄の戦後の一時期、フィリピンから労働者が、基地軍属として、たくさん来たわけです。そのようなフィリピン人から戦後に果たした役割は、例えば沖縄の音楽シーンでは無視できないようなポジションにあるわけです。『海燕ジョーの奇跡』は日本と沖縄の関係を超えていくものが意識されているといってよいでしょう。それを主人公のジョーがトラブルに巻き込まれながらも、国境を越えて、台湾からフィリピンに逃亡していくというふうな設定をしたわけです。そういう国家・国境を越える南への欲望というものが絶えずあるわけで、。「沖縄イニシアティブ」でも、ある意味では沖縄のポジションをリーディングイメージにした「汎アジア論」の一つといえるでしょう。例えばあの中で、二つの碑文をつくるべきだということで、「ここに日本尽き、アジア始まる」「ここに日本尽き、アジア始まる」というふうな言い方をしているわけです。つまり、アジア的なものと日本的なものの境界としての沖縄から橋を架けていくという発想が、多分彼らの中にはあると思います。しかしそれ自体、権力関係といいますか、国家論を抜きにすると、非常に危険なものをはらんでいるわけです。
 ヤポネシアの問題にしても、ふたつの側面があって、ひとつは中央集権的な画一的な「日本」という歴史観というか、堅い「日本」イメージというものを琉球弧を取り込むことによって、柔らかい「日本」というか、多系列な「日本」に開いていくという発想があります。また沖縄も含めた「日本」というものをネシアのひとつとして構想していくイメージ「喚起力」としては、素晴らしいものがあるわけですけれども、ただ、なぜ国家論がないのかな、という感想を抱いたのは、そこに権力の問題などが見えてこないと感じたからです。
 「沖縄イニシアティブ」を政治的なメルヘンと見ることも可能です。そういうのは権力のかくし方がこうだということです。非常に浪漫的に沖縄というものを物語化していく、ということを「沖縄イニシアティブ」を読んでその文体から感じるわけで、そういうふうな浪漫的な沖縄の語りの中に、非常にきな臭い現代の基地の問題というか、日本の国家のイメージとの絡み合いというのをうまく挿入しているだろうと言えると思います。
 だから「海の民」というのが本当にいたのかどうかというふうなことについては、この映画であれば、移民にしても糸満の漁業の展開にしても、輝かしい歴史として語りうるような人々の生活スタイルっていうわけではなかっただろうと思います。移民にしても、近代の土地所有制度が導入されて、私有が確立していくわけですが、私有制は、ある意味では人々の移動も自由にもなった。また他方では、私有制からはじかれていく過程もあったわけで、やむをえず土地から引き離されて移動していくということがあったわけです。糸満の漁民が南方まで出向いていったにしても、そういうふうに生きていかざるを得ない生活のスタイルとして確立されたのだろうと思います。『海の民 沖縄島物語』の場合、それを「南進」の文脈でと言いますか、当時の「大東亜共栄圏」と言うか、帝国の文脈にうまい具合に編成し直し、置き換えながら、イメージを戦略的に動員していくという意図があったのだろうと思います。だからそこで働くのは「物語の力」と言いますか、いかに戦略的に物語をつくり上げるかというのが、当時のプロパガンダ戦略としてあっただろうと、僕なんかは思います。
 最後に宣伝をやっておきます―お手元に配られた沖縄タイムスの連載『琉球電影列伝―記憶と夢のスクランブルは』15回で終わりましたけれども、40回位連載する予定はありました。15回で取り上げた作品は20本くらいです。代わりというわけではないですけれど『未来』という出版社のPR誌で、五月号から「沖縄 記憶と映像」というタイトルになっています。もちろん映像をテキストにしながら僕の「1972年論」というべきものを展開していくつもりです。これは先ほど言った沖縄の戦後を再審にかけていくことの一環でして、初回は、非常にセンチメンタルな立ち上げで書いております。次回からはもうちょっと冷静にやっていきたいと思いますので興味のある方は御覧になって下さい。
なかざと・いさお 1947年、南大東島生れ。『EDGE』編集長。沖縄の思想・文化・歴史・映像・音楽などの多様な分野で情報発信を続ける。
著書『ラウンド・ボーダー』『オキナワン・ビート』など。
(『情況』2004年10月号)

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