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季刊『EDGE』

『EDGE』13が、2004年7月9日、発行されました。 2001年2月に12が発行されて以来、3年半、いやー、休刊のまま「歴史」となってしまうのか、 と思わないではありませんでしたが。 〈総特集〉として「イメージのイクサ場」を掲げ、特集・1[琉球電影列伝]をメインに、 特集・2[シャヒード 100の命]/特集・3[「フォトネシア」&「記録と記憶のトライアングル」]の150頁の堂々の刊行です。 12が「想像の共同体〈日本〉−〈沖縄の子ら〉はどのように日本人になった/されたか−」として、 「復帰運動」の総括(オトシマエ)を付けんとしたのに対し、 13は「共感の共同体」を剥き出しつつ、「沖縄戦」への報復戦争〈オトシマエ〉に到る−−[編集・発行 仲里 効]
定価:1500円 発行所:APO(Art Produce Okinawa) 那覇市西3-9-3・C803 Call&Fax098-862-8011

EDGE第13号(2004.7.9)目次

〈総特集〉イメージのイクサ場

特集・1[琉球電影列伝]
【座談会】〈翻訳〉と〈分有〉の鼓動/西谷修×鵜飼哲×港千尋/司会:仲里効
【インタビュー・高嶺 剛】沖縄の地・血・知・痴、そして〈ち〉/聞き手:仲里効
【座談会】「琉球電影烈伝」の波動/新川明×岡本恵徳×新城郁夫×若林千代/司会:屋嘉比収
【インタビュー・比嘉豊光】現場に立つこと、現場に戻すこと/聞き手:岡本由希子
特集・2[シャヒード 100の命]
9・11と9・4が交叉するところ/「命」と「死」の応答(鵜飼哲)
【シンポジウム】目取真俊×岡 真理×新城郁夫×田仲康博
特集・3[「フォトネシア」&「記録と記憶のトライアングル」]
イメージの熱い季節(翁長直樹)/我が中平卓馬(高良勉)/1000のピースで完成された「トライアングル」東京展(島袋陽子)/「記録と記憶のトライアングル」が私たちに残したもの(中條佐和子)記憶の座標軸(松本麻里)

〈境界〉に立つこと:Nexus of Borders(濱治佳)/〈マチブイ−場〉の粒子小−高嶺剛監督の諸作をめぐって(東琢磨)/ヤポネシアと西郷隆盛の夢(上村忠男)/『八月十五夜の茶屋』と『沖縄イニシアティブ』の間(新城郁夫)/肥大化した沖縄像に風穴を開ける(後田多敦)/『島クトゥバで語る戦世と『マウス−アウシュビッツを生きのびた父親の物語』の可能性(カイル・イケダ/仲間内の語りが排除するもの(屋嘉比収)/沖縄戦の報復戦争を仕掛ける歌(比屋根薫)/『ひめゆり戦史−いま問う、国家と教育』を観て(仲田晃子)/「祖国復帰運動」という軋み−映画『沖縄の声』を観て(土井智義)/歴史から託された言葉−森口豁『一幕一場・沖縄人類館』を観て(我部聖)/メディア化する日常−〈監視〉から〈自己管理〉へ(田仲康博)/小汚い事務所の用務員からの手紙(当山忠)/ブランド・バブル「沖縄」(安座間安司)/月とタコ/タケプロジェクト@沖縄・フィリピンプロジェクト(尾形希和子)/「よみがえる人類館」製作ノート(宮城歓)/想いのカタチを辿る(森華子)琉球電影烈伝からカルチェラル・タイフーンへ(多田治)
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 2002年から2003年の、ほぼ1年半にかけて沖縄から、そして沖縄を巡って立ち上げられた文化イヴェント。
 2002年7月の東松照明の「沖縄マンダラ」展と連動した「フィトネシア−光の記憶、時の果実」、03年6月から沖縄・ヤマト・韓国をほぼ北上するように移動して開催された、韓国・在日・沖縄の10名の写真家による「記録と記憶のトライアングル」展、9月には東京・京都から逆に南下して行われたパレスチナの第2次インティファーダの最初の犠牲者100名の遺品と遺影からなる「シャヒード 100の命」展、そして10月には、70本を越す沖縄の映像群が上映され、大きな波動を呼んだ「山形国際ドキュメンタリー映画祭2003」〈沖縄特集〉。この映像群は、東京を経由して沖縄にターンして、〈列伝〉が〈烈伝〉になり、沖縄表象を問い、再審にかける試みになった。
 これらの映像(写真/遺影/遺品/映画)に関わる文化的実績は「今の時代と過去のイメージを新たに組み換えることでどのように抵抗線を作り出すことができるか」(鵜飼哲)ということで共通していた。いずれも沖縄像に風穴を開け、〈記録〉と〈記憶〉、〈翻訳〉と〈分有〉と、〈抗い〉と〈合力〉の思想を内懐していた、と言ってもよい。
 時代が軋み始めた今、これから、いやすでに、イメージのイクサは始まっていることを実感させられる。このイメージのイクサ場に何をもって漕ぎだすことが出きるのか。改めてこれらの文化的実践を振り返り、「イメージを新たに組み換える抵抗線」について考えてみたい。


 季刊『EDGE』は「ディープな沖縄が見えるマガジン」と銘打った沖縄で発行されている雑誌。最新号(12/01.02.10発行)は"想像の共同体〈日本〉"と題して「沖縄の子らはどのように日本人になったか/されたか?!」を特集。
  発行所:APO(Art Produce Okinawa)
       那覇市久茂地3-16-3大平ビル202
       TEL&FAX098−862−8011


[簡単なコメント] 日本政府は、いち早く沖縄に「師範学校」を作る。これも「琉球処分」の重要な柱だった。戦前の「皇民化」攻撃の「尖兵」は「教職員」達だった。そして戦後の日教組運動がどうしてもいかがわしく思われた「少年」だった私は、まぎれもなく「全共闘世代」でもある。
 この『EDGE』の特集は、やっとタブーに日が当てられたとも思った。もちろん、沖青同たちがすでに70年代初頭に「方言札」を糾弾していたし、復帰運動の「尖兵」たる「沖縄教職員会」は、日共・革マルの牙城だった。(沖縄人民党から日共へ/沖縄マル同から革マルへの「本土一体化」はまだまだ解明されていない。)しかし、この問題を「大阪の中野五海」さんのように、"「復帰」運動の中での「日の丸」奨励や「共通語励行」をあと知恵によって裁断することだけは避けたい…"([anti-hkm 1546] 『飛礫』30号の宣伝と訂正/2001.4.2/anti-hkm@jca.apc.org)と書くことは問題をきわめて曖昧にしてしまうようです。参考:小熊英二『<日本人>の境界』新曜社1998


『情況』2002年6月号「特集:ポストコロニアリズム」

☆そして、「熱視線」が残った―<95年>と<9.11>の間で/チュン・リー(仲里効)

 ここに二つの作品がある。その一つは、沖縄の青年がアメリカ人の幼児を殺害し、自らに火を放ち、沖縄の不条理な現実を裂開してみせた目取真俊の「希望」であり、もう一つは、ベトナム戦争を背景に、沖縄に駐留する一人のアメリカ兵の行き場のない実存の迷宮が、スクラップ拾いの老人を猪と見立てて射殺する、軍事基地と絡み合うところから生まれる構造的なテロルを描いた又吉栄喜の「ジョージが射殺した猪」である。
(……)沖縄は今年、「日本復帰」30年を迎える。亜熱帯の風景は限りなく青に染まっている。…沖縄の風景に忍び込むものは、青い空をバックに砂浜に横になった顔をこちらに向け、意味ありげに傾けた若い女のまなこだ。…<コンディション・デルタ>の後の「熱視線」は一体沖縄の何に向けられているのか。…沖縄キャンペーンガールの「熱視線」は、むろん、「希望」の青年のテロルや「ジョージ」のテロルをくぐりはしない。その視線がまなざす向こうにあるのは不在の沖縄でしかない。

○目取真俊「希望」(『沖縄/草の声・根の意志』世織書房01.9.10所收)
○又吉栄喜「ジョージが射殺した猪」(『ギンネム屋敷』集英社81.1所收)


☆沖縄、リアリティの変容/田仲康博
 復帰30周年ということで、今年も沖縄では様々に催しものが企画され、メディアの注目度も高くなってきた。しかし、街を歩いていても浮かれ騒ぐ声はあまり聞こえてこないし、かといって抗議の声が聞こえてくるわけでもない。
(……)島尾[敏雄]が云う歴史のざわめきを引き起こすようなサインがもう沖縄の側から送られることはないのではないか。


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