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60年代・70年代を検証する(図書新聞2907号2009年2月28日)


全共闘の時代、沖縄は燃えていた

知念襄二氏
(元沖闘委委員長)に聞く




▲知念襄二(ちねん・じょうじ)氏=1947年沖縄生れ。65年、東京大学理科Ⅲ類に入学。沖縄問題研究会やA・A・LA研究会を立ち上げる。全国的な「与那原君を守る会」運動を推進。その一方で東大全共闘の一員として闘う。69年7月、沖縄闘争学生委員会を結成し、渡航制限撤廃闘争を闘う。沖縄で琉球大学全共闘の結成にかかわる。中部地区反戦に加わり、70年コザ暴動に遭遇。76年東大医学部卒業、77年精神科医に。島成郎氏とともに新たな精神医療を追求、90年、那覇市儀保に福の木診療所を開設。就労支援の作業所、地域活動支援センターを設立し、地域社会での多様な援助とネットワークづくりをめざしている。
(聞き手・小嵐九八郎)

 今年は、全共闘運動の総力を傾注した、いわゆる1月東大砦戦から40年となる。この年9月には全国全共闘が結成された。同年11月の佐藤首相訪米・日米首脳会談が大きな闘争目標とされ、全共闘と反戦青年委員会が戦闘的なデモを積み上げていった。沖縄の本土復帰、核持ち込み、B52など米軍基地増強といった沖縄問題が初めて本格的な政治テーマにせり上がった。学園闘争から政治闘争への展開をめぐっては、さまざまな議論や分岐があった。その中で、在本土沖縄出身の学生・労働者が運動全体の戦線を担いつつ、独自の沖縄闘争を進めていった。今回は、沖縄闘争学生委員会の委員長として活動した知念襄二氏にインタビューした。(編集部)

東京に出る時、父が沖縄人としての覚悟を説いた

小嵐 知念さんは、東京大学の医学部の学生の頃、東大全共闘の闘争の渦中におられました。沖縄出身者として、沖縄闘争学生委員会を結成して、当時の70年安保・沖縄闘争に立ち上がっていかれました。その後は、沖縄で精神科医として精神科診療所、デイケア、作業所、就労支援作業所を立ち上げ、地道で精力的な活動を進めておられます。まずは、生い立ちのことなどからうかがいます。少年時代の生活の印象、ご両親、親族、友人などがどういう生活をされていたのか。あの沖縄戦の傷跡が深い頃ですね。

知念 私は1947年11月に沖縄の南部にある旧玉城村百名で生まれました。百名というのは、戦後に米軍が避難民収容所を作った地域ですね。おやじは、法律上で言う本妻を連れて満州(中国東北部)で軍属の仕事をしておったんですが、ソ連軍に追われて朝鮮経由で逃げてくるんです。戦後、46年に沖縄に引き揚げてくるんです。その少し後に、うちの母親も百名から首里に戻るんですが、おやじは力が無くて2人の女性を別々に住まわせることができないもんですから、一つ屋根の下に両方がいるという、それが幼少年時代ですね。5歳の頃まではまったく同じに住んでいて、小学校の3年ぐらいに最後の異母きょうだいが去って、私らだけの家族になるんです。それまでの家族の構成は、何ともよくわからない世界でしたね。
 母親が言うには、悪さばかりするというんで、1年早く小学校に行かされました。あの頃は戦後のどさくさですから、1年遅れの友達はもちろん、1年早いのもいるという状態でしたね。遊ぶのが楽しくて、毎日学校をさぼって、そのたびにおやじにリンチされるという、天井からつるされて叩かれるとか、逃げようとしたところに薪を投げつけられて顔面に当たったとか、ありました。小学校の5年までは、そういうことの繰り返しでしたね。
 だから、子どもたちも、1年違いのずれはかえって親しみがあってね。小学校の前半はそんな感じでしたね。

小嵐 僕は1944年生れ、秋田なんです。入学した時、子どもたちの三分の一は靴なんですが、三分の一は下駄、三分の一は裸足だったんですよ。知念さんのその頃は、どうだったですか。

知念 沖縄の子どもたちは、ゴム製の、全体がゴムでできていて、ひもで引っ張っているんですが、そういうのが良い方で、あとはみんなビーチサンダルみたいな履き物ですね。月星だったですね。

小嵐 なるほど。とすると、沖縄戦の傷跡はどう受けとめられていましたか。

知念 首里ですからね。教師に連れられて、首里城の崩れた石垣がかもし出すやりきれない世界とか、あるいは砲弾で倒された木の穴のほこらみたいな中にまた新しい木の根が出てきている情景とかを見て育ったんです。後で知るんですが、戦前の緑一杯の風景とはまるで違ってしまったものなんですね。あと、たまに狭い道を米軍戦車が悪戦苦闘しながら通るんですね。そういう時に、ある場所では、川に落ちたジープを拾い上げているんですが、畑の中を、百姓がやめろやめろと言うのを聞かずに大型車が押し入っていくんですね。50年代前半の朝鮮戦争の頃はスクラップが売れるものだから、戦争の砲弾の残骸を探し回って稼いだものです。米軍支配の沖縄という現実を子どもたちは見ているんですが、どちらかと言うと、首里地域は米軍存在の気配が薄い所だったんじゃないんですかね。

小嵐 少し飛びますが、大学に入る前の高校時代は、ベトナム戦争が始まるか始まる前の頃ですね。どんな雰囲気でしたか。知念さん自身は、青春前期、まだ思想が固まっていく前の時期でしょうが、沖縄をどう思っていたか。

知念 大学に入ったのは1965年です。その前から、とにかくこの狭い島を出たいという考えでした。これが一番の思いでしたね。高校2年の頃、航海士になって世界を股にかけたいと思ってましたね。ただ、船乗りの受験資格が裸眼視力が1.0以上でないとだめなので、あきらめましたがね。いまだに海、ネオンの海を旅してますよ。(大笑い)。

小嵐 その頃の那覇や首里はどういう自然、社会の環境だったのでしょうか。

知念 おやじがどちらかと言うと保守、中道派でしたからね、人民党、後に共産党に合流していきますが、その人民党と対立したりして、結構熱心に選挙事務所を担当したりして活動していました。母親が、選挙事務所を開いたりすると入る金よりも出る金の方が多いもんですから、いつも尻ぬぐいの借金が大変だと言ってました。僕らは、選挙のたびに沖縄そばが毎日食べられるので、嬉しかったですね。運動員に沖縄そばをふるまうわけですよ。僕らはそれが大歓迎でした。
 この頃ですが、瀬長亀次郎の演説を聴きました。選挙演説会というのに、演劇でも観に行くような感じで聴きに行きましたよ。亀次郎は熱弁をふるってましたよ。首里でも乱闘がありました。たとえば、保守の政治家の演説に学生が野次を飛ばすんですが、うちのおやじはその学生の首根っこをつかんで引きずり出して、痛めつけてましたね。いろいろなことが起こりましたよ。子どもながらに楽しかったですね。

小嵐 お父さんはその頃、仕事は何をなさっていたんですか。

知念 あの頃のおやじは、何をやってもうだつが上がらないで、事業をやっては失敗していました。変な日本主義と言うか、戦前の一中(第一中学校)を中退しているんですが、いわゆる体力・知力の求められるとされていた近衛師団の近衛兵に選ばれたというので、地元や身内の誇りみたいな風だったんでしょうね。その延長で、完全な日本主義だったところがありましたね。
 ただ、私が東京の大学に行く時に、彼は昔の自分の経験を語ったんですね。彼が東京に行った時に、「おい知念君、沖縄の原住民はどうかね」と問われて、「私が原住民であります」と言ったら、「いや君はそうじゃなくて、本土からの移住民だろう。もともとの土着の原住民がおるだろう」、「いや私がその原住民です」という問答をしたと言うんです。そして、「そういう所だから心して行け」と言いましたね。

小嵐 つまり、お父さんの意図するところは、沖縄人は沖縄人として差別されて扱われるということへの覚悟ということを言いたかったんですかね。

知念 「これから沖縄は観光産業に力をいれていく。君たちは観光バスに対して観光要素の自覚をもって道を歩きなさい」という皮肉を言った高校教師がいましたが、本土から移住した琉球人、土着の原住民というイメージで見られるから、そういうズレにぶつかるから、それを心して東京に行きなさいということだったんでしょうね。

小嵐 う~む。こちら側に刺さりますな。では、東大の理科Ⅲ類に入り、駒場の教養学部に行かれたんですが、その東Cは有名な日本の学生運動のメッカですよね。デモやストライキ、クラス討論などについて、教えていただきたいんです。東Cの駒場寮に入って、本土での生活の違和感とか、文化の相違とか、全国から学生が来るわけですから、食事や寮での共同生活など、いろいろあったと思いますが。


駒場で沖縄問題研究会を立ち上げた

知念 最初は駒場の北寮でした。あそこは部屋の単位がサークル制で、6人部屋だったです。たまたま僕の入ったサークルがワンダーフォーゲル部で、結構人気サークルで、入部希望者が30人ぐらいいましたね。彼らに連れられて尾瀬とか奥信濃に行きました。その後はそういう経験は乏しいのですが、初めて日本の自然に触れて、教えてもらった驚きとね、そこで初めて雪なるものを見ました。6月でしたか、残雪に出会いました。いい体験をさせてもらいましたね。

小嵐 東大教養学部でのストライキの経験は? 65年入学と言えば、日韓条約反対闘争の頃ですね。

知念 入った時はよくわからなかったです。日韓会談・日韓条約とか紀元節復活とかがありましたね。自治会からの話を聞いてもわかったような、わからないような感じでしたね。
 結局ね、翌年だったですかね、何とかして沖縄を本土の人たちに分かってもらおうというので、沖縄問題研究会というサークルをつくるんです。実際には、駒場祭の時などに、中野好夫さん(英文学者)やその弟子の新崎盛暉さん(沖縄近現代史)などを呼んで講演会活動をやるというのが中心でした。当時は、沖縄問題というのは、社会党、共産党の専売特許みたいになっていて、民族主義的運動とされていて、新左翼運動の中では評価されなかったんです。でも、私が大学入学の前の年にトンキン湾事件があり、翌年の2月にアメリカによるベトナムに対する北爆が始まります。それには沖縄の米軍が出撃していくんです。
 それと、67年2月に沖縄で教公二法闘争(地方教育区公務員法案、教育公務員特例法案)があって、ちょうど東京では雪が降っていましたね、沖縄の教職員に対して政治活動禁止、争議行為禁止を定めようとしたことへの抵抗運動です。その時に、立法院を包囲して、警備する警官隊をゴボウ抜きして法案を実力で阻止したんです。このニュースが大きく流れて、おおっとなりましたね。新左翼の人たちからいろいろ聞かれて、僕らもよく説明できなくてね。それからですね。単なる啓蒙的な活動ではなくて、自分らも何かやらなければと考え始めていたんです。  その頃に、その年の10・8の佐藤首相のベトナム訪問に反対する羽田闘争で、たまたま中核派(マルクス主義学生同盟・中核派)の学生の中に九州大学にいた沖縄の与那原恵永という学生がいて、彼が逮捕されたんです。僕らは当時留学生身分でしたから、彼が国費を打ち切られるという処分があったんです。政治活動をしたというのでそんな処分を受けるのはいかがなもんかというんで、処分撤回運動を起こすんです。僕らは東京で、彼のいた九州や広島、山口で、それぞれ運動を進めました。彼らが68年3月に那覇の港でパスポート提示を初めて拒否して強行上陸して捕まるというところにまで行ったんです。処分撤回運動から始まって、次の課題の渡航制限問題が僕らの中で見えてきたんですね。それから、啓蒙活動から自分らなりの運動をやっていくという流れができたんです。

小嵐 那覇の港でパスポートを捨てて強行上陸したという闘いは、どういう意味をもっていたんですか。

知念 これをやったのは、与那原君の処分撤回を進めていた「与那原君を守る会」の広島と山口の、沖縄の学生グループなんです。「渡航制限撤廃」を掲げて、パスポート提示を拒否して上陸して捕まるわけです。あの頃は、「沖縄も日本だ」と言いながら米軍支配下で渡航が管理され制限されるのはいかがなもんかという、ごくごく素朴な思いだったんですね。「守る会」運動の延長上に、渡航制限撤廃へ進んだんです。僕らは何度も文部省へ抗議・要請に行きました。沖縄と沖縄人が受けている処遇がおかしいじゃないか、差別じゃないかという思いですよね。

小嵐 う~ん、なるほど。

知念 駒場では、学生の運動というのも、クラスというより寮ですね。当時は、ML派(社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派)で沖縄問題に熱心な人がいて、その人らと一緒にA・A・LA研(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ研究会)というサークルをつくったわけです。学内的というより、もう少し広く国際的な視点をもって活動していこうということでしたね。

小嵐 沖縄からアジアと世界を見ていたんですね。僕なんかは、国内の問題しか見てなくて、やっとベトナム戦争を見ていただけでしたから、知念さんは先進的だったんですね。では、本郷には68年に進まれたんですね。医学部闘争が始まっていたと思いますが、東大医学部闘争について、どんな風に受けとめられましたか。


東大医学部闘争と沖闘委の運動へ

知念 僕らは単純に、本郷に行ってみたらストライキが行われていた、事が始まっていまして、自然とその中に入っていきました。闘争の大事な場面では、重要な一票ですからクラス決議で処分に反対してストライキを支持するとかやりましたが、日常的にはあまりかかわってはいないですね。特別な行動で物理力が必要であるとかの時は出て行きましたよ。
 与那原処分撤回運動を起こす前から、東京の沖縄学生連合会みたいなのがあるんですよ。与那原処分問題で一緒に処分撤回をやろうじゃないかと言ったら、「いやあれはトロツキスト分子だから」と言って拒否されて、それで違った形の運動をつくらんといかんなということになりましてね。全国的に沖縄学生の新しい運動をどうつくっていくかということが課題になっていったもんですから、3分の2を沖縄闘争に、3分の1を学内の闘争にかけるという感じだったですね。
 沖縄闘争学生委員会をつくっていくんです。準備期間の方が長かったですが、正式には69年の7月に結成しました。夏休みに沖縄に帰る前に、京都に集合して結成大会をもちました。京都でやったのは、関西方面には京都、神戸、大阪、岡山と、沖縄から来ている学生が多かったんです。全国全共闘が結成された9月5日より前のことでした。

小嵐 東大闘争は69年1月18日、19日に安田講堂を始めとする籠城・砦戦を闘うのですが、これをどう担われていたのか。

知念 その直前までは、安田講堂のバリケードの中で集会をやったり、会議をやったりで出入りしていました。うちの沖闘委のグループにはいろんな党派のメンバーがいて中核派が一番多かったのですが、そのうち安田攻防戦に入っていったメンバーも数人いました。党派的な配置ということもあったんでしょうね、入ったのは中核派やブント(共産主義者同盟)の人らですね。
 僕らは、最終の闘争目標は、69年の秋、つまり佐藤首相がアメリカに行って日米会談をやり、それが沖縄・安保問題の節目となる時であるという認識でしたから、そのピークに闘うということでしたね。東大闘争のピークで闘うというのと、僕らみたいに4・28や秋の沖縄闘争に向けて準備するというのに分かれていったんですよね。
東大闘争というのは、あまりにも明らかな不当処分でありながら、それを認めて謝罪することがまったくないという、教授会の権力性に対して、東大の学生らは当然にも怒ったわけですよ。権力のシステム、体制というものが、ちょうど日米安保問題とも重なって、学生に見えたわけです。


本土で渡航制限撤廃・パスポート闘争を実現

小嵐 なるほどね。知念さんは、いわゆる70年闘争の多様で複雑な要素を体現されていたわけですね。後でふり返ると、69年1月の東大闘争がピークだったとか、中核派に騒乱罪がかけられた68年10月の新宿騒乱闘争がピークだったんじゃないかとか、いや69年9月の全国全共闘結成が山だったとか、いろんな評価がありますが、67年10・8から佐世保エンプラ闘争、三里塚闘争と実にいろんな事がありましたが、意外と短かったんですよね。その中で、69年の4・28沖縄闘争には、革共同の本多延嘉氏──後に革マル派に殺されたんですが──やブントの仏徳二氏らに破壊活動防止法がかけられました。

知念 あの頃は、新左翼というか70年闘争の全体的な流れがどうかということは別にして、自分たちの運動はどんどんどんどん勢いがついていくんですよ。その時の4・28に初めて沖縄から大量に300人ぐらいの復帰協の上京団が来るんです。それを迎えて合流して、国会デモをやったんです。本土復帰のエネルギーが高まっていくんです。僕らのグループは、たしかに渡航制限撤廃のパスポート闘争などいろいろやりましたが、最後はやはり沖縄で基地撤去闘争・復帰闘争をやってピークを迎えようという思いがありました。
 渡航制限撤廃のパスポート闘争は、べ平連やさまざまな団体が参加して、実ににぎやかでしたよ。本土での沖縄闘争ということで、大きな位置がありましたね。
 その間の過程は、68年3月のパスポート闘争で突入した逮捕者を支援する、弁護士を手配するとかあって、そのために沖縄の琉球大学学生会といろんな連繋をしていったんです。その年の春、夏はまあ非常に牧歌的な関係でしたが、それが壊されていくんですよ。琉大学生会からすると、この沖闘委グループなるものは中核派が隠れ蓑にしているんじゃないかという疑心暗鬼で見ていたかと思いますね。本土の党派とくに中核派が沖縄に乗り込むための隠れ蓑だとね。全国的には各党派が分解していく中で、うちのグループだけは同じ沖縄同士だということで仲良し的にいろんな党派がいて、一緒にスクラムを組んでいたんです。それで革マル派支配下の琉大学生会ともつき合っていったんです。それがぶち壊されていくんですよ。
 69年8月2日に、東京の晴海港から沖縄に向って出発する船を見送る闘争があって、向こうの那覇港でまたパスポート問題で渡航制限撤廃闘争をやる学生たちを壮行する闘いですね。そこには革マル派も中核派もその他の党派もいるんですが、この時に革マル派が中核派に殴り込みをかけて、乱闘になって混乱しましたね。彼らは、中核派の沖縄乗り込みへの不安が最高につのっていたんでしょうね、中核派への牽制だったんでしょう。
 前の日に法政大学で中核派の壮行決起集会がありました。革マル派の弁明では、中核派からの攻撃準備情報をキャッチして、自己防衛的に対処した、と言っていましたが、やはり沖闘委と沖縄地元との関係を解体する覚悟の方針だったと思います。沖闘委には革マルが10人ぐらいいましたが、彼らはそれ以後、分かれて独自のグループをつくっていきました。
 あれで僕らも結果的には反革マルという立場をとらざるをえなくなって、秋には、そういう方針で沖縄に行くわけです。僕らの物理力を背景にしながら、琉大全共闘は登場しえたと思います。その前から、沖縄大学の全共闘の運動がありましたが、琉大全共闘は僕らとの縁で公然と登場したと思います。琉大では、ベ平連を見ても、演劇集団やいろんなサークルを見ても、その中に革マル分子が入っていて、何か革マルによってコントロールされている感じでしたよ。その意味で、琉大全共闘は、沖縄における新左翼運動が閉鎖的になっているところに風穴を開けていく形になったんじゃないかと思います。琉大全共闘は沖大とも共闘して、米軍基地突入闘争などもくり返しやっていくんです。

小嵐 本土の中核派の学生が8月14日に、嘉手納基地突入──沖縄での基地突入は初めてのことだったようですが──をやります。この時は、パスポートはどうしたんですかね。
知念 パスポートの偽造はよくやられていたんじゃないですか(笑)。本土の問題学生にはパスポートが下りませんから、パスポートの写真の証明印の型をペーパーにこすりとり、別の写真の裏から針でつついて印字を押し出し、写真を貼りかえるという具合で、簡単にできたんです。最初はていねいにていねいにやってましたが、あまりに簡単なんで、雑になって、これではばれるんじゃないかというのもあったんですが、おそらく沖縄の入管職員も渡航制限に疑問をもっていたんじゃないですか、徹底して点検するということがなかったんでしょう、みんな通過してましたよ。


琉球大学全共闘からコザ暴動へ

小嵐 ところで、69年の10月22日に、琉大の正門前で逮捕されていますね。

知念 あの時は、琉大全共闘準備会として琉大構内で結成大会をやろうということで行ったんです。革マル支配の琉大に反革マル連合が公然と登場したわけです。その前に、10月20日に琉大の正門前で決起集会をやって、構内で構える革マルとにらみ合って、そしてその後、沖闘委と沖縄県反戦が嘉手納基地突入をやって、次の日には沖縄の10・21反戦デーをやって、その勢いの中で琉大全共闘結成に向かったんです。革マルとは激しくぶつかり、機動隊が介入して、逮捕されたのは凶器準備集合罪ですよ。僕らは坂下から行き、革マルは坂の上です。琉大の学生たちがいっぱい出て、見ている中でやったんですよ。だから、琉大全共闘の大宣伝戦でしたね。

小嵐 知念さんが逮捕された後、沖縄では11月13日に佐藤訪米に抗議して全島ゼネスト情勢がつくり出され、与儀公園に15万人が集まって戦闘的なデモをやります。

知念 どこでもそうだったのかも知れませんが、沖縄は69年秋にピークを迎えたんです。そして、その後、僕らのグループとしてはちりぢりになっていくんです。もともと党派にいた人たちは党派に戻っていって党派活動を継続していく、そうでなかった人たちも党派化していく。本当に党派化せずに、沖縄にとどまって、頑張り続けたのは多くはないですが、僕を含めて5人いましたよ。
 その延長上で、沖縄の中で、たまたま米軍基地ゲート前でピケットを張っている所に行くと、黒いヘルメットをかぶっていて、よく聞くと中部地区反戦というので、じゃあ議論してみようというので、そこに合流していくんです。それが、70年の1月か2月の寒い時季でしたよ。

小嵐 つまり、東大在学中に中部地区反戦のメンバーとなって活動していったんですね。そしてコザ暴動が起こる。

知念 そうです。その後は中部地区反戦で活動していくんです。
 70年のコザ暴動の時は、中部地区反戦の集会のポスターを貼って回っていたんです。たまたまその発端の現場に遭遇したんですよ。一部始終を知ってます。その前に、9月に、糸満ロータリーで米軍兵士が酔っぱらい運転で女性を殺したのにそれが無罪になったことへの怒りが高まっていました。あの時も、コザで米軍兵士が軍労働者をはねたんです。それを米軍が放置して、勝手に引き揚げようとしたところ、そんな行為が見ていた人たちの怒りに火をつけたんです。まあ、高級車がどんどんひっくり返される、火がつけられる。燃えている車を押してゲートまで突っ込んでいく、それをガードマンのいるチェックボックスにぶつけたり、すごいものでした。アメリカ人もただ茫然と見ているだけですよ。アメリカ人に対する個人的な対応はなかったですよ。Aサインで働いている若い青年が野次馬的に参加しているのを兄貴分がやめろとしょっぴいていくというのもありました。たぶん米軍相手の商売している業界の人間でしょうけどね。投石があり、威嚇射撃があり、そして騒乱罪が発動されるんです。


70年沖縄闘争をふり返ってみて

小嵐 話は前後しますが、本土にいた時は、4・28闘争には参加されていたんですよね。

知念 沖縄より先に本土復帰した与論島(鹿児島県)と沖縄本島の最北端の辺戸岬との国境線で、27度線ですが、そこに両方から船を出して海上交流するというのは、前からあったんです。
 東京に行って見て、沖縄問題というのはあまり関心を持たれていなかったんですよ。関心を持たれていないから、僕らが一生懸命訴えて、本土で取り組んでいこうと呼びかけたわけです。4・28闘争もそうだし、東大闘争と平行して、絡めながら、沖縄問題の運動をやっていたんです。
 ただ、67年の教公二法闘争は沖縄の学生にとっても衝撃だったし、本土にいた僕らにも大きな転機だったんです。その頃から、社会党・共産党の専売特許と見られていた沖縄闘争に日本でも関心が高まっていったと思います。その後、沖縄問題がしっかり注目され、運動が展開されていく。そこに、ベトナム戦争の最大の動員基地が沖縄だという問題が重なって、ベトナム反戦と沖縄闘争が結びつくわけです。

小嵐 う~ん。知念さんがさきほど沖縄問題の啓蒙活動と言われましたが、それは、新左翼を含めた本土の沖縄問題への無知、無自覚への啓蒙であり、告発であったということですね。本土と沖縄の温度差は著しかったということですね。

知念 後でふり返ると、不思議なくらいに無関心でしたよね。共産党は沖縄・小笠原返還同盟とか熱心にやっているんですが、社会党は頑張っていても迫力がないんです。
 さっきの与那原問題の前に、東大と中大と早稲田で沖縄問題の連合会をつくろうとしたんです。広がりをつくろうとしている時に、与那原処分問題が起こるんです。沖縄の自分たち自身の変革、変化をよぎなくされていくという、時代の流れがありましたよね。

小嵐 沖縄問題では、革マル派は沖縄で勢力が強かったんだけれど、党派の自己保身のために沖縄闘争をやってほしくなかったんだね。ブントも社青同解放派も、沖縄問題、琉球処分の歴史などについて、認識が遅れていたよね。その分、中核派は進んでいたんだよ。

知念 たまたま与那原君が中核派だったということはあるんですが、在本土の沖縄の学生たちはいろんな形で運動を追求していたんです。僕らの関東は沖縄問題研究会とか連合体をつくろうとか、広島や岡山では与那原君を守る会の運動とか、大体2つの流れがあり、それが合流していったんです。
 三里塚闘争でも、一緒にいった沖縄の学生が機動隊に頭をなぐられて重態になって、マスコミも取り上げるということもありました。

小嵐 沖縄闘争は、日本への復帰の闘争と沖縄の独立-沖縄共和国を求める闘争と、現在にもその2つの流れがあると思うんですが。

知念 本土への復帰ということは、日本の国政への参加ということですよね。実感としては、ワシントンや東京に直接にものが言える、影響する力が失われて、東京政治に収斂されて、沖縄の独自性が無化されていくイメージでした。東京政府にしか、あるいは東京経由でしか、アメリカや世界に向き合えなくされてしまう仕組みに取り込まれてしまう、という思いですね。アメリカのアジア・世界政策の中で、地勢的に運命づけられてしまった戦後沖縄は、日本国の枠組みにどう位置づけられたり、はみ出したりするのか、いろいろな議論があるかと思います。
 僕は東大を卒業したのは76年でした。この時は、大学の事務官が「お前たちをなんとしても一掃してやる」と言ってね、残留していた8人ほどが追い出されたようなもんです。東京に戻ってきたのは71年だったと思います。

小嵐 いきなり飛びますが、75年7月17日に、ひめゆりの塔を訪れた皇太子に火炎瓶が投げつけられることがあり、本土でも大きな問題となりました。これについては……。

知念 彼らは、沖縄解放青年同盟[沖縄解放同盟(準)]と言って、川崎を中心とする沖縄青年労働者グループです。僕らは単純に、皇太子に対してこういうことが起こったということは、昭和天皇は沖縄に足を踏み入れることはとてもできないぞということの象徴的な現われと受け止めましたね。昭和天皇は無念の思いで死んでいったんでしょうが、結局、沖縄には来れませんでしたからね。天皇が来ていたらどんなことになったでしょうね(笑)。

小嵐 さて、72年5月15日の沖縄の復帰から37年が経とうとしているんですが、沖縄をめぐる現状について、どう考えられていますか。

知念 ここまで沖縄社会が変貌するとは、想像を超えていましたね。変貌というのはですね、何よりも、誰でも分かることですが、経済活動が本土系列化されますし、政治党派も本土系列化され、瀬長亀次郎なども共産党の副議長にまつり上げられて中央にしょっ引かれて行きました。それでかつての人民党も足元を失っていくんですよ。街の変わりようはすごいですね。つい数十年前には、裸足でいた「原住民」と言われた沖縄人の生活が変わってしまいました。
 アメリカ支配が世界、アジアに及び、沖縄もその支配下にあるんですが、軍事基地の存在によって、沖縄を世界に結びつけましたよね。だから沖縄の自己主張もストレートに世界に向けられることにもなります。沖縄の世界政治というのは、米軍によってその世界性を与えられたということで、世界の先端の文化、その良し悪しを含めて、それが持ち込まれ、沖縄のユタ(琉球の民間信仰で霊能力者)的な古代的な文化も全部重層化されたところがあります。これをこなすのにアップアップしてきたということですかね。
 でもね、琉球のウチナーンチュの感性と言うか、古代からの民族性のようなものはむしろ変わらないところがありますよ。アメリカ支配の結果、短い期間だったんですが、先っぽから足下までが変えられてきているんですがね。僕らの仕事でも、ユタ的な世界を無視しては仕事ができないというところもあります。ユタに救われた人は病院に来ませんよ。今も時々、ユタが患者さんを抱え込んでいて、病院に来るのが遅れたりするということもありますが。経験豊富なユタは、早めに、あんたはどこどこの医者に行きなさいと言うんですよ。実際に、僕のところにも「ユタに言われて来ました」という人がいますね。


精神科の医者として、島成郎氏の思い出など

小嵐 76年に東大卒業後に、精神医療に携わってこられました。精神科を選んだのはどうしてですか。

知念 77年に国家試験を受けて医者になりました。精神科というのは、斜に構えていれば関心のあるところですが、真正面からやるとなるとなかなか決断のつかないところです。いろいろと理由はあるんですが、迷ってもいたんですが、身近の親族で、うつ病の人が亡くなったというのが、最後の引き金でしたね。

小嵐 元60年ブント書記長の島成郎さんとは、沖縄で一緒に精神科のお仕事をなさったんですね。

知念 島さんのことは、ものの本でそういう人がいるらしいということは知ってましたよね。島さんが本土の学会で発言されたり、東大赤レンガ運動の中で話されたりしたことは、聞いてはいましたが、東大にいた頃は直接のおつき合いはなかったんです。沖縄に来てからですね。沖縄に来てから最初の2年間は沖縄県立精和病院に行き、それから83年5月から、島先生のいる宜野湾の玉木病院で勤務しました。5年半いて、その間、島先生は東京の陽和病院に移られたので、4年間は一緒だったです。
 島先生は、70年代の初めから、保健所の嘱託医として久米島の巡回医療(年に3回)をされていたんですが、玉木病院の開設(72年秋)に加わられ、保健所での勉強会を続けておられました。久米島の診療で多くの私宅監置されている人たちを開放しています。もう1つは、今で言う精神保健にかかわるいろんな人たちを集めて、「沖縄精神医療」という季刊雑誌(77年発刊)を出していました。定期的な勉強会をやっていて、そこで報告されたものをもとにして雑誌をだしたんです。勉強会の中では、自分たちのこんなちっぽけな経験を雑誌にして出していいもんかと迷う人たちを、実に的確に励まして書かせて、また実践していくんです。あの力はすごい力ですよね。もちろんご自身も精神医療の手本となる仕事をなされるわけです。こんな地味な、控えめな仕事を本にして世間に公にしてなんか言われるだろうと尻込みする人たちを、しっかりと導いていましたね。そういうのを見て、驚きましたよね。

小嵐 僕なんかにとっては、60年安保の島さんなんて神様みたいな存在であり続けましたよ。

知念 でも、沖縄の精神保健の関係者は、島さんの若い頃のことなど知らないですよ。もちろん知っている人は知っていますがね。保健所でやっている勉強会が終わると、毎回飲み会です。ジャズピアニストの屋良文雄さんがやっている寓話という店があって、大体そこに行くんです。勉強会には来ないけど飲み会には来るという人もいて、本土から来た人からは昔の運動の話などが出て、島さんもそれに答えていくということがあり、それでみんなも知っていくということでしたね。あの何とも言えない笑い声が印象に残っていますね。島節が聞きたい、島の笑い声が聞きたいということで、みんな集まってきたという感じですね。

小嵐 僕も『蜂起には至らず』の最後で島さんのことを書きました。島さんを知る人はみな悪く言う人はいないですね。「あいつはこんな小さな勇気をこれぐらいに(手を広げて)大きくしてくれる」と言うんですね。みんなこもごもそう言うんですよね。


診療所から出口を開き 地域のネットワークづくり

小嵐 さて、知念さんの福の木診療所はいつ、どうやって始められたんですか。

知念 福の木診療所は1990年4月の開設です。以前、病院医療をやっていて本当に困ったのは、良くなって退院させたいけども、家族は困っちゃって、退院されたら誰かが張りつかんといかんし、その余裕もないし、病院でもう少し面倒を見てくれという、そういう押し問答なんですよ。お互いに責任を押しつけあうという、この徒労感でしたね。もう1つは、精神科病院に来る前に、その前段で、もう少し相談しやすい関係があれば病状もまた違ったなという思いがあったんですね。病院からちょっと離れたところであるとか、勤務中には病院に行けないとか、そういう問題は結構大きいんですね。もっと行きやすい、来やすいということ、本人にしても家族にしても仕事を休まないで来れるような、土曜日も診療しているとか、夕方も診療しているという、地域生活を維持しながら病院を利用するような仕組みにしていくということで、始めたわけです。
 診療所をやっていて、5年後に精神科デイケアを始め、それが沖縄でのクリニックデイケアの第1号だったんですが、始めたらたちまちパンクですよ。あの頃は、病院デイケアが十分整備されていなくて、今でこそ病院の送迎システムもしっかりできあがっているんですが、当時は住んでいる所から遠いとか、通院しているクリニックにデイケアがないとか、那覇市内の病院デイケアよりこっちの方が雰囲気がいいとかといったことで、利用者が多くなり、パンク状態になったんです。精神科病院のように、デイケアを膨張することはできないので、出口を開くために、小規模作業所をつくりました。世間が作業所をつくらないからうちらでつくろうと、医療機関立作業所をつくったんです。全国的にも少なかったと思います。

小嵐 作業所をつくったのは?

知念 「あごら」は98年2月のスタートです。ちょうど11年ですね。「はんたぴあ」は01年1月です。3年前の障害者自立支援法を受けて、NPO法人を立ち上げ、分離したんです。
 もともとの思い入れとしては、デイケア医療費に金をかけるより、作業所に金をかけた方が社会的には意味があるのではないか、時代の流れで行政もそう認識していくだろうと期待していたんです。当時の沖縄での作業所補助金は、最高で年額330万円でした。同じことをやっていても、東京などは数倍する補助額なので、うらやましく思いましたね。それでも行政の認知、社会的な力が立ち上がっていくために、当分は自分たちが礎になろうと、職員に頑張ってもらったんです。自立支援法下で作業所は、地域活動支援センターになり、運営費(委託料)も多少増えました。そこに約2000万円の事業強化補助を得て、就労支援事業に移行する流れを、自立支援法は号令しています。しかし私たちは従来の延長である道をとりませんでした。長年の殻、これを脱皮するのはなかなか大変だぞ、という思いですね。何かと苦労はありますが、新しく場所も、発想も、手つきも変えていこうということで、07年5月に就労支援「あ・ん」がスタートしました。

小嵐 前は喫茶店がありましたよね。

知念 「あごら」ですね。それと「はんたぴあ」です。
 両方とも小規模作業所だったんですが、今は地域活動支援センターとなっています。新しく始めたのが、就労支援「あ・ん」です。

小嵐 作業所や就労支援センターでは何人ぐらいおられるんですか。

知念 去年はさんざん行政とやりあって、いじめられましてね。那覇市の要綱では、1日平均利用者数は10人以上という基準で、年間委託料が550万円です。10人を割ったら、委託料を300万に落とすと言うんです。本来は市町村がやらなければいけない事業をNPO法人「あごらぴあ」に委託するという形です。それが300万に減ると、月25万円です。そこから家賃、人件費、経費を払って、おいおいどうするのということですよ。去年からそうなっているんです。その後の実績で10人以上になっていますから、今年は委託料をちゃんと出すのかどうなのか。
 数字がどうというより、中身を考えてみて、何をやっているか、どういう人が利用しているか、この人たちにとって週に1日でも2日だけでも利用するということがどういう意味があるのかとか、人間が生きる中身を見なさいということですよ。行政は、結果としての10人という数値があるのかないのかという話ばかりするんですね。

小嵐 う~ん。問題ですね。ここに通ってくる患者さんは?

知念 デイケアは1日平均18人ぐらいですね。登録している人が35人から40人です。毎日来る人、週2日来る人と、利用の仕方はさまざまで、1日の利用者は、登録数の半分くらいです。「あごら」や「はんたぴあ」にしても同じですね。閉塞している生活から1日でも2日でも来るところがあるというだけで、意味が違ってくるんです。
 今は那覇市とやりあっているんですが、那覇市の作った要綱はおかしいんじゃないですか、変えなさいと言ってるんです。利用者の側に立った配慮をせよというさまざまな要求をしているんです。
 こういう行政ですから、応援する診療所の職員も大変ですけれど、職員はね、利用者のおかげで食い扶持を得て、いろんなことを経験させられ、考えさせられ、苦労させられ、鍛えられているんです。それが大事なことですよ。普通は修業はお金を出してやってもらうんですが、ここではお金をもらって修業させてもらっているんだから、こんなありがたいことはないと、冗談めかして職員にいつも言っているんです。
 
小嵐 全国の精神医療にたずさわっている人たちに発信するメッセージをどうぞ。

知念 発信するというほどじゃないですが、最初の5年間は外来診療をずっとやっていました。デイケアをやっていると、人間模様がこれでもかこれでもかというぐらい見えてきますよね。彼らの相互関係もなかなか迫力があるもんなんです。よく見えてくるし、情報も寄せられるし、悶着の仕方、決着の仕方、関係の再生の仕方、つくり方など、たくさん教えられるんですね。僕らの診療所は病院みたいに入院という弾圧装置をもっていませんから、彼らにつき従っていくしかないんです。コントロールなんかできないです。彼らの力に沿って、バランスをとりながら、教えられていくんです。
 こういうことが、人が生きるというんですかね。適切な医療というのはもちろん重要なポイントなんですが、その上で生きるということなんです。生きることをめぐる彼らの悪戦苦闘ぶり、ダメさ加減を含めて、そこがベースですね。病院医療というシステムでは、スタッフも、利用者も、たえず管理システムの枠組みの中で自己規制しながらふるまっていますから、なかなか難しいんです。僕らは、病院とは違って、本当の意味で、寄り添っていくというより、寄り添わさせてもらうと言うか、たくさんの発見をさせてもらいながらやっていくんですよ。こちらの思い入れをぶち壊され、いろんなことを新しく築いていけるんです。驚き、非力さ、うんざり……。断念しかかったり、気を取り直したりの連続で、それもいい経験なんです。


「死滅に向う」という若い頃のへ理屈を貫いて

小嵐 では、今の日本、沖縄の青年たちに託すメッセージをどうぞ。

知念 「あ・ん」を立ち上げましたが、どういう名称にしようかという時に、設立趣意書に書いてあるんですが、障害者とか高齢者とか健常者とか、何とか者と、人間が社会的に総括されていくようなことをいつか超えて、いろんな事情を抱えた人たちがその人たちなりに納得を得ていく生き方を支え合うことが可能になるかということを考えさせられました。たかだか6000年ぐらい前に始まった人類の文字言語がここまでコンピュータ一文化になってしまい、そして文明の発達と言えばそうなんでしょうが、とてもじゃないがついていけないというぐらい、疲れ切っていますよ。地球環境もそうですが、文明公害的に精神も疲労していますよ。そんなところでみんなおつきあいしているんですけれど、たしかに「あ・ん」は就労支援という大義名分がありますが、何も就労とか作業それ自体が大事じゃなくて、もちろんうまくなりたいとか、稼ぎたいとか、充実感を得たいとかはあっても、最終的には自分なりの納得、こんなもんでいいかという納得を得ていくプロセスとして、就労や作業があるのかな、そういう場所なんだと思うんです。
 僕らが若い頃には、ある意味で輪郭がわかりやすくって、生き方の選択も何か分かりやすかった気がするんですね。今の若者は大変な時代に生きていますよ。本当にご苦労様と思いますね。

小嵐 全共闘の運動、沖闘委の闘い、中部地区反戦、琉大全共闘と駆け抜けた時代の知念さんが今にどうつながり、どうつながっていないのかというあたりはどうですか。

知念 診療所のスタートの頃は、自分なりに医療の限界、街の中でクリニック医療をすることの積極的意義とか夢を見て、始めました。その後は、もう成り行きにまかせて、行き当たりばったりに生きておるんですよ。人生そんなもんかなと思っているんです(笑)。やっと、形ができましたからね。当初考えた、自分たちが用済みになる社会の仕組みが立ち上がっていくようなという夢が、形は違うんですが、それに近い仕上げになるかなとは思っているんです。
 若い時も今も、権力性への異議ですね。いい意味での権威はいいんですが、それが権力に転化するとおかしなことになるんです。腐るんですよ。それと、当時は国家の死滅とか、死滅に向うとか言いましたが、用済みになるということですね。用済みになる仕組みを立ち上げるために一生懸命頑張っていくということですね。そのへんは、若い時に考えていたへ理屈ということなんですね。今は職員も頑張っているんですが、自分たちが頑張らなくてもいい仕組みをしっかり成長させて、その中で、自分たちが退くのか、要らないところを追い払っていくのか、そこはわかりませんが、一見相矛盾するような生き方をやっていこうということですね。若い頃に考えていた感覚がやはりあるんですかね。

小嵐 知念さんが青春時代からのパワーを今も生かして活躍されているんですね。志が貫かれているんですね。今日は勉強になりました。どうもありがとうございました。(了)

(インタビュー日・1月5日。沖縄・那覇市儀保の知念襄二氏の診療所にて。)



沖闘委の闘い

強行突破(上)<知念襄二>


「人権弾圧」と闘う覚悟/一般客の支援受け下船

 1968年8月、沖縄から東京の晴海ふ頭へ向かう「ひめゆり丸」。2等船室の一画に夏休みを終え、日本の大学に戻る沖縄出身学生たちの姿があった。一行は、米国民政府の発給するパスポートを持たずに強行上陸を試みようとしていた。
 のちに沖縄闘争学生委員会を組織した当時大学2年の精神科医の知念襄二さん(61)は、「広島と山口の沖縄出身学生らが那覇港で強行突破を図ったのを皮切りに、沖縄と東京間でも強行突破が決行された」と話す。米軍統治下の人権弾圧の象徴、渡航管理制度への若者たちの実力闘争だった。
 当時、渡航拒否にあった学生が他人のパスポートを使うのは当たり前だった。沖縄の入管はあえてそれを見逃しているように受け止められていた。「パスポートへの疑問は学生だけでなく管理する側にもあったのではないか」と推測する。
 強行突破をしても「日本は沖縄の潜在主義をもつと言う以上、罪に問われてもせいぜい公務執行妨害にしかならないだろう」と踏んでいた。もしもの場合は、渡航管理制度による人権弾圧を、法廷で闘う覚悟でいた。
  ■       ■
 那覇港を出発してから晴海までは数日の船旅。到着が迫った時、当時大学2年生だった詩人の高良勉さん(59)は強行上陸の行動隊員に選ばれた。
 「パスポートは、海に捨てるか火で焼くかする。逮捕を覚悟するように。いいか」「はい!」。任務の重さに、返事に力がこもった。
 23日昼すぎ、船はデモ隊を回避するため数時間遅れで入港した。学生たちの決死の覚悟を知った一般乗客が、署名やカンパ金を手渡した。乗客の1人が荷札に「渡航制限撤廃」と書き胸に付けようと言うと、多くが賛同した。荷札を首にさげた人々が、口々に「学生がんばれ」と声を掛け、下船していった。
 数時間にも及ぶ乗客の荷物検査が終わろうとしていた。船内には隊長の知念さん、高良さんら黒いヘルメットの行動隊約15人が残るだけとなっていた。
 高良さんは「タラップの下には、警察官や入国管理官、青いヘルメットの警察機動隊が目を光らせていた」。その向こうに、行動隊員を迎え入れようと学生や労働者ら500人以上が人垣をつくっていた。
 乗船してきた入国審査官にパスポート提示を求められた学生らは、それを焼き捨てた。タラップ越しの長いにらみ合い。一瞬のすきを突き、支援の学生らが船に殺到した。警察官ともみ合いになり、行動隊員の何人かが人垣に飛び込んだ。高良さんは「タラップの後ろのほうでぐずぐずしていた僕は、気づいたら東京月島署の留置場に連れてこられていた。あたりはもう暗くなっていた」。

【渡航制限撤廃強行上陸闘争】1968年8月には沖縄出身学生、べ平連、全学連などが「8月沖縄闘争実行委員会」を結成。渡航制限撤廃を目指し、22日鹿児島、23日東京で強行上陸をした。当時の法務省は「法的手続きに従わなければ上陸させない」との方針を打ち出した。だが、学生が身分証明書(パスポート)を焼いたり、証印を受けずに上陸しても罰則がないとし、遺憾の意を表明するにとどまった。
(「27度線のパスポート4」沖縄タイムス2009.5.18)



強行突破(下)<高良 勉>

本土で沖縄問題に奔走/日本に幻滅 地元で運動

 「先輩、今日やまーまでぃ調びらったが(先輩、きょうはどこまで調べられたのですか)」
 「心配さんけー。我んにん何んあびてーねーんさ。ぃやーん気張りよー(心配するな。私は何も話してないから。おまえもがんばれ)」
 晴海ふ頭にパスポートなしで強行上陸した知念襄二さん(61)と高良勉さん(59)は、隣り合わせの留置場で、毎日沖縄の言葉でやりとりした。それを聞いた看守は「オイ、キサマらは朝鮮人か」と激怒したという。
 入国管理官への公務執行妨害容疑で取り調べをする警察に対し高良さんは11日間、黙秘を続けた。2人とも起訴されることはなかった。
  ■       ■
 「見えない監獄」と呼ばれた沖縄。そこから脱出した学生たちは本土で、沖縄の矛盾に気付く出来事にぶつかり、徐々に意識を高めていった。
 65年、大学進学のため東京に出た知念さんも「沖縄から脱出したい」という一心だった。
 状況が変ったのは67年。沖縄の教職員が、政治活動を禁止する教公2法案を実力で阻止した。周りの学生が沖縄について質問してきたが、答えられなかった。沖縄問題研究会で学び、やがて「本土にいる学生として何ができるか」と考え始めた。
 67年、佐藤栄作首相(当時)のベトナム訪問に反対した沖縄出身学生が国費打ち切りの処分を受けた。学ぶ夢を絶たせるなー、知念さんらは処分撤廃運動に取り組んだ。それが強行上陸闘争につながった。
 「思うようには生きられなかったけど、今の時代に比べたら幸せだったと思う」。知念さんは、運動に明け暮れた当時をこう振り返る。自分たちのことは自分たちで決めようと必死になって奔走した。沖縄問題を日本の問題として焦点化させる一端を担えたと思うからだ。
  ■        ■
 高良さんにとって留置場に入れられることは、政治的な意識を高める「成人式」になった。
 大学に戻り、あらためて日本社会には、朝鮮人やアイヌ民族や被差別集落の人々への差別が歴然とあることを知った。「日本に幻滅する一方で、日本社会全体を変えるんだという理想も捨てきれなかった」。
 だが復帰後も、沖縄に米軍基地が残ることを知り、まず沖縄を変えることが最初だと気付いた。70年、自由を制限する象徴のパスポートを再取得、休学し、沖縄へ飛び込んだ。
 72年以来、名刺に「琉球弧・南風原町与那覇」と刷っている。「沖縄県なんてものはない。僕は復帰を認めない」。施政権返還前と変わらぬ状況を維持するために沖縄と名のつく法律がいくつあるのか。その結果、沖縄の人々は人権侵害にさらされ続けている。27度線は消えていない、そう思うからだ。

【入域拒否】日本人が沖縄へ入域する場合、日本の旅券法では制限はなかったが、手続き的には、米国民政府から入域許可を取得し、内閣総理大臣による身分証明書の発給を受ける必要があった。民政府は政治的な判断などで入域を拒否。1960年1月~61年9月で176人(復帰協編『渡航制限の実態』)が拒否された。64年、琉大に招請された永積安明神戸大教授に対し、民政府が入域を拒否、抗議集会が開かれ撤回させた事件がある。
(「27度線のパスポート5」沖縄タイムス2009・5・19)

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