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りー(利)やんの植木屋までの足跡(和=輪=サークル)

 振り返ってみるとすべてが人とのコミニケーション(和)で繋がっていたような気がします。

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昭和○○年大阪市東淀川区国次町に生まれる。

国次町というのは現在の阪急淡路駅付近の旧町名です。淡路周辺も今駅前再開発とかで変わったのかな?昔はこの付近は商店街から少し離れた下町の雰囲気がありました。夏の夕方になると、うちわ片手に近所のおっちゃんやおばちゃんが井戸端会議でした。私たち男の子は棒を振り回し、ちゃんばらごっこに夢中で、暗くなるまで家に帰らず怒られる日々でした。

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日本アルミニウム工業株式会社就職そして退職。

国鉄の宮原操車場の近くでした。当時国鉄は全盛期(?)で貨物列車も多く、おお賑わいで20何両編成の長い貨物列車が頻繁に行き来しており、開かずの踏み切りも出たほどです。会社の先輩で皐月盆栽をしている人が居り時期になると食堂に皐月盆栽の展示会が開かれ、それは美しいものでした。そんな折に皐月の苗木を何本かもらったのが植物との出会いでした。私の人生に転機が訪れたのが昭和48年でした、宮原操車場がなくなり付近が開発されたんです。そう現在の新大阪駅です。工場が居れなくなった為、本社のみ残って工場移転になり滋賀県水口に移転しました。そして退職、いくつかの会社にお世話になりました。最後に勤めたのが造船関連の電機メーカーでしたが構造不況のあおりを受け社内転職になりそうな情勢でしたので、思い切って退職。

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青少年活動(ユースホステル)との出会い。

やはり工場と云うのは単調な日々です。旅行がしたくなり、調べました。当時月給も少なく、旅行費用を安くする必要がありました。が有りましたYH(ユースホステルの略)では1泊2食付で1000円台(だったと思います)2泊3日の旅行で交通費を入れても¥5000程度でOKでした。始めはそんな程度で入会したYH活動でしたが、入会してみるとこれが奥深く、高尚な理想の基にドイツで作られた活動である事が教えられました。

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東ドイツの小学校の教師であるリヒアルト・シルマン氏が自分の生徒たちを野外に連れ出し、生きた教育をと考えたのが始まりで有った。『シルマンは学校の教育は死んだ教育だ。あれでは良い人間は作れない。少年の心は、いつも太陽にあこがれ、新鮮な空気を求めて、緑の野原と森と湖を恋しがっている。そして、その自然の階調と喜びの中で、本能的に体を動かし、物事を知ろうとしている』と考え「太陽の光、自然のときがたい移り変わり、崇高で厳しい山嶺、湖や森の静けさ、穀物や果物の実り、美しい草花、そしてその中に住むあらゆる動物の生態、これらの森羅万象の実際は、教室の教科書の中で教えられるものではない。大自然を実験教室として、その中で教えられる教育である。」という教育の信念を持って、生徒を連れて旅をつづけた。しかしいつも宿泊問題に頭を悩ませた。1909.8.26 誰もいない学校の前を通り過ぎたときに、この空いている教室を宿泊所にしてはどうかと言う考えが閃いたのである。これがユースホステルの着想をした有名な話である。…セミナーAコース、テキストより(こんな事をいってもそれがどうした。と言われそうですが、どこか日本の現在に似ていませんか?)

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10代で入会したこの活動ですが仲間を求めてグループ活動、そして協会からの要請で協会のボランティアとしてこの活動の普及啓蒙に努めYH教室、みんな歩こう、など積極的に活動しましたが結婚と同時に引退。そんな私に20数年ぶりに便りがありボランティアが足りないので手伝ってほしい。(当時協会理事の故、長鎌氏よりの要請)で復帰、最初はウオ-キングジャンボリーの誘導係でした、要請に集まった仲間はたくさん居り中には古い顔なじみの人たちがたくさん見られ懐かしい思いでした。そしてその後常任企画委員になり現在も引きつずき活動を続けています。その中で知り合った仲間たち、それが一番の財産です。

 
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植木屋への転職。

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訓練校時代

話が少しそれましたが、退職を考えたとき最初に考えたのが定年。今まで培ってきた技術を生かして、転職しても約10数年で定年また一からの出直しになります。そんな時、職安で見た植木屋募集のカード。植木屋てどんな仕事かな?と調べてみると、草刈、石積、張石、ブロック積、門柱等の外構工事、植栽緑化、竹垣作成、そして造園、剪定等の維持管理作業、病害虫の防除(薬剤散布)いわゆる建物以外の庭に関するあらゆる作業を言います。なんと幅広く奥深い事。で、どんなものかよく見極めるつもりで大阪府立松原高等職業技術専門校、造園科に入学(昭和63年)しました。府下の職訓(現在はテクノセンターとカタカナで言います)では造園科は他になく松原だけでした。25名の生徒さんが興味半分(真剣に転職を考えている人)、義理半分(失業保険をもらう為だけに来ている人)で集まっていました。(失礼、みんな真剣やったと影の声)40歳代で学生いいですね。そうそう夏は半ドンや、夏休みも有りましたね。私たち造園12期は熱心で、授業が終わると何名ヶが居残りをして酒盛りをしていました。(どこが熱心やねん、影の声影の声、気にしない気にしない)ビールがなくなると校外学習を先生に依頼しました。大きい声では言えませんが個人邸の剪定をすると賃金の換わりにビール券をもらうことがありました。そうした事もあって大いに技術の向上が図れました。今では公務員の不祥事以来校外学習は禁止されたそうです。残念ですね。個人邸をするのと学校の木を剪定するのでは大いに差が有ります。実践に役立つんですがね。

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訓練校の先生

生徒さんも大いに個性のある人が多かったんですが、先生も個性がありました。U先生・・かごんま(鹿児島人はこういうそうです)で人がよく、細かい事に気にしない。人物ですね。この先生のお陰で春の花見会があります。同窓生(世代を超えて造園1期から現在の生徒まで)一緒になって同窓会をします。この人の輪(和)、この仕事では非常に大切な事です。1人で出来ない仕事のとき応援は常識だから。だから人の輪が大切なんです。M先生・・(詳しい事は聞かないように)これが口癖でした。しかし草花園芸については多くを教えてもらいました。特に水遣り3年と言いますが朝必ず水当番に言うことがありました。「草花の水を見てください」そうなんです一律に水を与えてはいけないんです。水をほしがっている木と、今ほしがっていない木があるんです。基本を教えてもらいました。お二人は常勤講師ですが、それ以外に非常勤でY先生・・現役の植木屋さんで、実際の造園技術はこの先生に教えてもらいました。熱心な人には熱心にそうでない人には、寝てて良いと言うほうで比較的個性の強い先生でした。普通、授業が終わると帰られるケースが多いのですが、生徒が希望すれば放課後でも付き合ってくれる事が多くカリキュラムにない崩れ石積み等多くを教えていただきました。もう1人の非常勤講師S先生・・測量、設計、土木等専門的な授業を担当されていましたが、後でわかったんですが、実はこの先生も造園科の先輩でした。生徒のIさんとの掛け合い漫才(失礼)はいつも生徒の緊張感を和らげる効果がありました。残念ながら昨年亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

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授業内容

授業は期間が半年という事もあってかなり忙しいものでした。半年と言う事で春組(4月入校)と秋組(10月入校)が有ります。私は4月入校でした。おかしな話です、植木のサイクルは半年ではないですよね。春組は新芽が出て葉のある状態で木を観察しますが、秋組は落葉期に入り葉のない状態で木を観察します。そんな矛盾もありますが、我々はまず覚える事は植木の名前です。週の始めに全員で植木畑に入り樹名札と先生の説明とで特徴(約20種)を記入していきます。そうした事が毎週続きます。もちろんそれだけでは有りません、午前中は学科、午後は実習があります。学科は水遣り、植物観察、樹木の病害虫、園芸、栽培管理法、造園施工法、庭園大意、設計製図、そして体育、(何をするねん、造園を教えてもらいに来たんでソフトボールをしにきたんちゃうで)色々と多岐にわたります。

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いよいよ専門授業

Y先生の授業が始まった。最初に出たことが『造園は芸術だ。』造園技術と美的センスがない人は、いくらやっても無理だ。えらい事になった。なるほど白紙の紙に絵を書くようなものだから創造性がないと無理なんだ、理屈でわかっても絵のセンスなんかないんだから、えらいところに来てしまったで。大丈夫かいな。多少の不安と後悔が頭をよぎる。でも退職してまではいったんやからなんとかついていかなしゃない。

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授業内容その2(M先生の授業)

私は前にも書いたように、ベランダ園芸を(盆栽も有りました)していた関係で草花や植木の事は少しだけの知識がありましたが、それが上辺だけの知識だった事を思い知らされました。最初の授業は、まず水遣り。水やり、ホースでサーとやったらええんやろ、え・・・ちがう?)まず 1. たっぷりと与える秋口からは潅水を控える(樹液濃度を高める事により低温障害を起こしにくい体質を作る。) 2. 土の温度と同じ水温が最適 高温時に冷水をかけると落葉する。潅水は日の出前または落日後がよい。朝の潅水は木の抑制効果があり、夕方は促進効果がある。 3. ほどほどに乾燥させる。 水が抜ける事によりガス交換が行われる。(えらい専門的やなー、だけど1番と3番とでは反対やで、どないしたらええんや)潅水は植木がほしがっているものは、たっぷりとそうでないものには、ほどほどに乾燥させる為に水を与えない。なるほどここがポイントやな。園芸。草花には名前がある。その名前は学名で呼ばれる。学名のつけ方は二名法による。二名法と言うのは、ラテン語またはラテン語化した文字を使って、その植物(種)の属名と種小名を並べて種名とする命名法で、普通その後に命名者の名前をつける。 「属名」+「種小名」+「命名者」=種名  繁殖法。繁殖法には栄養繁殖と実生繁殖とがある。実生繁殖は種子による繁殖。栄養繁殖とは挿し木(芽)、取り木、株分け、分球(専門的で詳しいけど草花なんかは新しい品種が出てないな…)

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お茶と造園

授業もいよいよ佳境に入り「造園施工法」「庭園大意」と進んでいきます。ところで庭園大意て、なんだと思いますか? わかりにくいですよね一口でいえば歴史です。庭の変遷というか時代につれ考え方も代わり庭も変わってきたということです。飛鳥・奈良時代にはじめて庭園らしきものが出来た、日本書紀に路子工(みちのこのたくみ)が須弥山の形と橋を作り蘇我馬子が飛鳥川のほとりに自分の庭園を作った。と記されている。これが日本の庭園の始まりとされています。(縄文時代のストーンサークルが最初という説もあります)

その後時代とともに庭園様式も代わり平安時代(寝殿造り庭園)鎌倉時代(書院式庭園?)室町時代(枯山水式庭園)安土桃山時代、江戸時代と移り大名庭に代表される回遊式庭園など、大きな庭園が出来てきた。一方茶人でもある千利休は豪華な美に対して「侘び」をいっそう徹底させた、茶室に付随する茶庭「露地」を考案し実用的な石燈籠や蹲踞を庭に持ち込むようになった。(時代の背景には信仰があり別の見方で分類すると須弥山信仰の蓬莱式庭園、浄土信仰から浄土庭、禅宗の教えから石庭、等など)漠然と見てきれいな・・・と思っていたんだが奥が深いなー

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夏休みと半ドン

4月に入学して4ヶ月、8月にもなると(8/5〜8/21まで)夏休みになり、その前後に短縮授業(半ドン)になります。もともと6ヶ月しかない訓練時間がここで大幅にカットされます。先生や事務員さんのことを思えば必要かもしれませんが、就職を真剣に考えるものにとっては、こんな休み必要ないんではと思いますね。でも・・やる気のあるものはこんなこと平気でした。時間外授業や植木屋さんへの押しかけで(無報酬)勉強してくるものなどやる気満々でしたね。

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免許

造園にとって免許とは、技能士、施工管理技師が有ります。それぞれ各段階があって当時は2級と1級でした。監督官庁が違うため同一にはいかないのですが1級施工管理が上とされています。そのほかには移動式クレーンや玉掛け、建設機械(ユンボ、高所作業車)などもあります。しかしどの資格も6ヶ月の訓練という理由により資格はいただけません。でも実際に仕事につくと技能士、施工管理技師の資格はなくても、なんら問題がない事もわかりました。

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最後の1ヶ月

夏休みも終わるともう1ヶ月ほどしかありません、そのころから現実に戻され、就職活動に精を出しあちらこちらの植木屋さんの情報を収集する事になりました。幸い私はボランティア仲間の長鎌さんの紹介で摂津の植木屋さんに面接をしており、「いつでもおいで」と言って貰っていたのですが、堺から摂津までそれも朝7時に毎日通うかと思うと近くの植木屋さんのほうが良いな・・・と思っていました所、U先生(就職活動担当)が黒土(堺市)にある個人邸95%?の植木屋に面接を受けたらとのことで、親方(この世界では会社組織でなければ社長とは言わない)の居るとき(早朝か、夕方)に面接、結局夕方事務所へ、2.3の質問のあと給料、日給月給で1日¥8,000と決め卒業したら来て下さいとの就職内定をもらい帰宅。前職のことを考えると比べ物にならないほどの金額(¥160,000/20日)ですが、望んで転職したんだから、がんばらなくては。・・・そんなことで残りの1ヶ月はすぐ過ぎて行き、土木の授業であり卒業記念の花壇造りが時間ぎれになり掛けた、そこで4班ある中で遅れているところは残業、応援をしてやっと完成し卒業。 (就職後はまた機会があれば書きます。)

新しい植木屋の誕生です。

(まだスタートラインに立っただけですが!)

卒業記念、花壇

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前途多難

昭和63年10月就職して最初の現場は泉大津市曽根にある旧家(元庄屋屋敷)で、さすがに植木が多い、そこでの親方の一言、『今まで訓練校で習ってきたことはすべて忘れろ、ただし有名な庭をたくさん見て良い物かどうかを見分ける目を養え』・・ええ、今まで6ヶ月掛けて習ってきたことはなんだったんや

 

 

 

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