縄文文化を巡る!  

 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅
新潟県十日町市博物館 ≪2018年2月16日≫
 十日町に国宝に指定された火焔型土器があることを聞いたのは、同じ信濃川流域の遺跡で長岡市にある馬高縄文館を訪れた際(2017年10月21日)、受付嬢に教えて貰ったのでした。そして、十日町市博物館に所蔵の“火焔型土器No.1”については、京都大学での展示では同じく京都の『国宝展』で出展されていて、出合えませんでした。そんなこともあって、わざわざ出向くにはNo.1の展示期間中に・・と、事前のチェックが必要でした。

 それは、十日町市博物館のwebサイトには、下記の案内があり、平成30年の展示予定が書かれていませんでしたので、問い合わせざるを得ませんでした。その結果、私たちが予定した日には、No.1の展示があるとの応対でした。


以下は、十日町市博物館のサイトより

国宝指定番号1の展示予定

国宝指定番号1は「縄文雪炎-じょうもんゆきほむら-」、「火焔型土器No.1」、「ナンバーワン」などの愛称で親しまれ、新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器57点に含まれる火焔型土器14点のなかでも、とりわけ異彩を放つ逸品です。
国宝に指定されている土器は多数あるため随時入れ替えながら展示しており、指定番号1は下記の期間に展示しています。ご来館の参考になさってください。なお、下記の期間以外では、国宝の中に含まれるほかの火焔型土器を展示しています。

平成29年

1月31日(火曜日)〜 3月5日(日曜日)
4月29日(土曜日)〜 6月11日(日曜日)
7月22日(土曜日)〜 9月3日(日曜日)

※都合により多少変動することがあります。
※お問合せは十日町市博物館までお願いします。
※メールまたはメールフォームにてお問合せの方は、お使いのメールソフトやウェブメール等の受信拒否
 設定等をよくご確認の上、お願い致します。
 博物館からの返信は、@以下city.tokamachi.lg.jpのアドレスから発信されます。
※上記以外の展示日程についてはお答えできません。



【関連リンク先】 十日町市博物館


・2月14日(水) 
 松山  岡山 名古屋  塩尻  茅野市
 
・2月15日(木)  
 茅野市尖石縄文考古館  茅野  松本〜長野 高崎〜越後湯沢  十日町 
 ・2月16日(金)  
 十日町市博物館 十日町市  越後湯沢  東京駅  御茶ノ水 
 ・2月17日(土)  
 御茶ノ水〜四ッ谷(写真展)〜御茶ノ水 
 ・2月18日(日)
 御茶ノ水〜上野(国立博物館)〜東京駅  岡山  松山 
 
 博物館には『国宝・火焔型土器を東京オリンピックの聖火台のモチーフに!』の垂れ幕が架けられていますが、十日町市の街中では、あちらこちらで同様のフレーズを見掛けました。また、16日から18日は丁度、『十日町雪まつり』イベントという事で、道路脇に雪像を造っている人たちもいます。

 事前に駅から博物館まで、徒歩での所要時間を尋ねると「10分から15分くらいですが、タクシーで来ることをお勧めします」との案内でした。そんな薦めもありましたが、私たちは、徒歩で向かいました。博物館の道路向かいの小学校では、生徒が運動場に出て来て、何かの声が聞こえていました。
 一方、博物館の入口辺りでは除雪に勤しんでいる方などもいました。9時前でしたが、受付を終えいつものようにゆっくりと見学です。

 


廊下のケース内の≪市指定文化財≫
   


左、廊下のエンブレム
  


 
 

 展示室へ入ると、まず十日町市の紹介の展示があり、直ぐの右手の廊下へと≪原始・古代展示室≫への案内がありました。私たちの目的の“ブツ”は、廊下に展示している≪市指定文化財≫ではありませんが、早々にカメラに収めて、次の部屋へと入ります。

 どこの博物館にも飾っている【古代から現代に至る歴史紹介パネル】なども掲げられています。そして、すぐ先のケースに収められていたのが右手の【国宝】の土器の一群でした。

 ただ、展示の方法ですが、他の博物館などで国宝の展示は個々に展示ケースに収められ、四方から見ることが可能な展示の仕方だったのですが、当博物館では壁面のコ−ナーに一括の展示だったのが、残念でした。しかし、見終わった後に聴いた話では、『新しく、博物館の建設をしている』との事でしたので、近々、立派な市営の博物館が出来上がるようなので、その折には改めて訪れる機会もあるものとも思います。

 下に掲げた≪国宝指定書≫の点数には驚かされました。土器の点数が57点にものぼります。先ほど述べた『ケースでの展示』についてですが、物理的には一個づつケース展示する訳にはいかないでしょう。しかし、No.1だけでも四方から見れるよう“ケース展示”を願いたいものです。


≪国宝展示コーナー≫

 

国宝指定書

新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器 五十七点

附 一 土器・土製品類     七十二点
  一 石器・石製品類  七百九十一点
  一 ベンガラ塊           八点


注:附とは・・つけたり(国宝に指定されたものが複数である場合、
一部は後年の作品の場合がある。
その作品を国宝とは区別し、附として指定することがある)


≪国宝 火焔型土器 No.1≫




≪国宝 王冠型土器 No.17≫ ≪国宝 火焔型土器 No.9≫

 


≪国宝 火焔型土器 No.12≫ ≪国宝 火焔型土器 No.10≫

 


左、≪国宝 深鉢型土器 No.43(下)、No.37(上)≫
右、≪国宝 深鉢型土器 No.34(上)、No.24(下)≫


 


左、≪国宝 深鉢型土器 No.45(左)、No.48(右)≫
右、≪国宝 深鉢型土器 No.31(左)、No.56(右)≫


 


左、≪国宝 浅鉢型土器 No.1(左)、深鉢型土器 No.41(右)≫
右、≪国宝 深鉢型土器 No.40(左)、No。53(右)≫


 


≪国宝 王冠型土器 No.20(左)、深鉢型土器 No.57(右)≫


 笹山遺跡から出土した上掲の国宝指定の土器には驚きました。殆どが4,500年前の時代の遺跡からの出土品とのことでした。前日に訪れた茅野市の尖石縄文考古館の縄文土器や土偶(縄文のビーナス)は【5,500年〜5,000年前】であり、仮面の女神は4,000年前とのことで、この地域で1500年にも及ぶ集落跡からの発掘でした。【尖石遺跡】とは違って、こちらは、同じ場所で長らく生活していた跡や、後の時代に同地域にて新たに生活をしていた痕跡が存在する複合遺跡ではないことになります。
 尖石縄文考古館の項でも触れていますが、縄文時代は一般に『定住を始めた時代』と言われていますが、まだまだ自然環境に左右されることが必然だったので、気候の変化とともに、集落を捨てなければならない文化レベルであったともいえ。縄文後期の冷涼化によって自然環境の変化で生活圏の移動を伴ったともいえます。このことから、小生は縄文の暮らしを『半定住化』と呼んでいます。この半定住化こそが、この時代の日本列島に於ける遺跡の発掘が“点”にならざるを得ないと考えています。定住は、時代が下がって本格的な稲作文化の導入の時代まで待たざるを得ません。

 しかし現代日本においても、弥生時代が終焉して以降、1,500年余を経ているに過ぎません。このことを考えると、気が遠くなる程の時の移ろいに改めて気付かされます。


 さて、文字による記録などに残っていない時代の縄文時代。この縄文時代と同じ時代に他の地域では新石器時代と呼ばれる文化が興りました。以下に引用します。



以下は、Wikipediaより引用
【新石器時代】・・新石器時代には、農耕や牧畜の開始によって社会構造が変化し、文明の発達が始まったことから、一連の大変革は新石器革命とも呼ばれている。


 この時代には主に磨製石器が使用されるようになったが、打製石器の使用も継続している。

※レバント(エリコ、パレスチナ)
 ナトゥーフ文化 10500年前以降

※中国の新石器時代
 長江文明 9500年前以降
 黄河文明 9000年 〃
 遼河文明 8200年 〃

※朝鮮の新石器時代
 櫛目文土器時代 8000年前以降

※台湾の新石器時代
 円山文化 4800年前以降



 上記引用の“新石器時代”という石器時代の終わる時期にあたる時代は、日本列島では縄文時代に該当します。その始まりは、現在では、15,000年前に花開いた文化という事です。既に、小生のサイトではその理由についての考察を述べています(あくまでも持論なのですが)。しかし、前項でも触れた、一時期・一地域での文化論に収束するかのような記述には抵抗があります。15000年の中の500年、1000年を、あるいは、日本列島の一地域の遺物の発見だけで全体を論じるのはいかがなものかと思います。
 それは、縄文以降の弥生時代以降の遺跡が見つかっている地域では、縄文人が居なかったはずがありません。つまり、人が住んでいなかった離島などへ移民や難民が移り住んで出来た文化では無い筈なのです。日本列島の隅々では、営々と繋いで来た祖先の息遣いがしている筈なのです。


 それにも増して、疑問が払拭しきれないのが土器の文様の変化にあります。縄文土器の精緻さや多様性に比し、弥生土器以降の簡素さとの比較です。

≪縄文人のくらしなど≫


 

 

 


≪弥生以降のくらしなど≫
 
 縄文時代から弥生、古代と続く時代の展示物を見終えると、順路は階段を昇り2階へと続いていました。こちらの部屋はこじんまりと、中性(鎌倉時代)から江戸時代にかけての展示となっていました。越後の国ですから、この時代のヒーロー武田信玄公などが出てきます。

 そして順路は1階へ降りて来て、最初のコーナーから廊下を元の部屋へと戻り、順路を辿ります。十日町らしい『雪の中でのくらし』コーナーや機織り器などの展示もありました。
   
 私たちが見学を終えた頃、団体さんが入ってきました。外を見ると、バスが停まっています。副館長と呼ばれる方が、ホールで博物館の紹介をしていました。観光目的なので、トンチンカンな質問にもかかわらず、副館長さんは丁寧に応えていました。玄関横では、オジサマが、雪の像を造っていました。そうなんです、ここ十日町では今日から≪雪まつり≫だったのです。

 さて、おまけの話題を一つ。
 右の切符は、十日町駅東口で購入した切符です。JRが発行した切符ですが、私たちが行き来したのは、西口です。昨日、≪ほくほく線≫で十日町駅に降り立ちましたが、ホテルのある東口に行くには、JRへの連絡が要りました。そして今朝、昨日と反対に、西口に行きたいとJRの窓口に云うと「切符が無いと通れません。外へ出ると地下の通路がありますのでそちらを利用して」とのつれない返事。

 そこで名案あり、昼過ぎに乗る予定の切符を購入し、駅の構内を無事に通過出来たのでした。