2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅
長野県・茅野市尖石縄文考古館 ≪2018年2月15日≫

 『いくら何でもこの時期に信越地方の旅を計画するのは、無謀なんじゃ〜 ア〜リマセンカ?』

 との影の声を無視して今回の遺跡巡りは、この週末に東京での相棒の写真展に行く用事もあり、「どうせ東京へ行くのだったら、縄文巡りをしようか?」との誘いにのっての計画としました。その主目的は“国宝”としました。縄文文化で国宝指定されているのは、殆んどが遺跡から発掘された土器や土偶となります。後の時代の建造物や仏像や絵画・書などは、先人は未だ手に入れていない時代の事。

 この国宝については、土偶は5体で、それぞれ≪仮面の女神(尖石縄文考古館)≫≪縄文のビーナス(尖石縄文考古館)≫≪合掌土偶(是川縄文館)≫≪中空土偶(函館市・縄文文化交流センター)≫≪縄文の女神(山形県立博物館)≫という事です。上記の内、合掌土偶と中空土偶については既に目にしていますので、残りの三体にお目にかかりたいと、今回の計画を立てたのでした。

 そして、昨年暮れに出合えなかった≪火焔型土器1号≫のある新潟県の十日町市へ立ち寄る事としました。しかし、今年の寒波はどうなのでしょう。


【関連リンク先】 茅野市尖石縄文考古館


 
 ・2月14日(水) 
 松山  岡山 名古屋  塩尻  茅野市
 
 ・2月15日(木)  
 茅野市尖石縄文考古館  茅野  松本〜長野 高崎〜越後湯沢  十日町
 
 ・2月16日(金)  
 十日町市博物館 十日町市  越後湯沢  東京駅  御茶ノ水 
 ・2月17日(土)  
 御茶ノ水〜四ッ谷(写真展)〜御茶ノ水
 
 ・2月18日(日)
 御茶ノ水〜上野(国立博物館)〜東京駅  岡山  松山 
 

 今回の≪フルムーン 夫婦グリーンパス 5日間≫の旅は、土・日の東京での相棒所属の山岳写真協会へ出品していることで、所要の前に“縄文巡り”の計画したのでした。上掲の予定表のように、2月14日は

 松山〜岡山(しおかぜ8号)(7:20)(9:53)
 岡山〜名古屋(ひかり466号)(10:23)(12:34)
 名古屋〜塩尻(しなの13号)(13:00)(14:52)
 塩尻〜茅野(あずさ22号)(14:58)(15:17)との乗り継ぎでした。

 岡山駅と名古屋駅では、30分程度の乗り継ぎ時間があり余裕もありました。名古屋を出た特急は、岐阜県へ入ると山々には雪が覗けるようになり、女性運転手は汽笛(?)を鳴らしながら走るのです。やがて長野県へと入る頃、通りかかった車掌さんに塩尻での乗り換え時間が6分なので≪特急 あずさ≫への乗り換えのホームなどを尋ねると「ホームの後ろの高架橋を渡って移動して下さい」との事。

 さらに、塩尻駅へ到着前に「2分遅れで着く」・・との案内のアナウンスが流れました。先頭の方の車両のグリーン車から後方へ移動し降車。スーツケースを抱えて高架橋を上がってホームへ降りると、≪特急 あずさ≫は丁度、ホームに到着しました。私たちの乗車車両は前の方の車両です。結局、目的の車両に辿り着くより前に、手前の車両の入口から乗り込まざるを得ませんでした。

  昨日の乗り継ぎのバタバタ劇は想定外でしたが、前日までの寒波の影響の心配もなく旅を楽しめそうでした。今日の行程は、午前中の“縄文巡り”を終え、長野県の茅野市から新潟県の十日町への移動があります。この行程については、切符の手配後に事前に乗車列車の変更をして、一便後の便に変更していました。それは、先日、松山市の考古館へ行った際、見学に一時間半ほどを要したので、見学時間の変更をしたのでした。その事が、後に触れる出来事に即応出来たものと考えます。

 さて、開館時間の9時に間に合うように8時半頃に、駅のコインロッカーへ荷物を預けて階段を降りて行くと、先ほど2〜3台居たタクシーは、一台も残っていませんでした。バスの時刻表に貼ってあるタクシー会社へ連絡すると、2社とも「タクシーは居ないので、待っていてください」との応対でした。10分ほど駅の東口へ行ったりする間にタクシーが到着しました。行き先を告げ運転手との世間話は、開催中の冬季オリンピックに出場している、茅野出身の“小平菜緒選手(18日に、金メダルを獲得)”だけで充分です。


 タクシーでの雑談は「ここで近くの方が集まって応援しています」と、案内された公民館風の建物の傍には“マスコミなどの駐車場所”などと書かれている場所があります。そして、9時前に考古館へ着いたのです。昼頃に迎えのタクシーをお願いして入館。
 受付の女性の親切な応対で、ロビーにあるモニターにて遺跡の発掘の様子などを収めたビデオを見せてもらいました。一番手前の部屋は【常設展示室A】とあります。まず最初は、今回の目的の≪国宝≫の展示のある隣のコーナーの【常設展示室B】を見て回りました。ここでは、順にAからの紹介とします。



常設展示室A
  


≪左図 宮坂英弌氏の発掘調査≫ ≪右図 尖石遺跡の発見≫
 
≪尖石遺跡の発見≫
尖石遺跡一帯は、明治時代の開墾の際に土器や石
器などが多量に出土しました。このことから、世
に知られることとなりました。
「尖石」の名前は、遺跡の南側斜面にある三角錘状
の大きな石からつけられました。


 

 

 

 

 上掲の常設展示では、『縄文中期全般を通じて営まれた尖石・与助尾根遺跡は、曽利U式期を画期として、大きく2つの段階に区分することができます』として、第1段階・第2段階と住まいを変えながら住居を移っていく様子を解説しています。

 私が縄文遺跡を訪ねる中で疑問に感じ、欲しかった情報はこのような解析なのです。弥生以降の集落跡の形跡や集落については、私たちの身近に垣間見えることがあります。しかし殆んどの場合、縄文の集落については単体の集落跡しか掘り出されません。立地条件にもよりますが、当時の何千倍も何万倍もの人が所かまわず建物を立てているのですから、大型公共施設でも建設する時に発見しないかぎり、大規模な発掘は不可能でしょう。

 この場所の遺跡も、明治の開墾時に発見されて以降、近隣に次々遺跡が見つかったとのことなので、偶然の賜物でしょうが、最初の遺物を発見した人と、その事を受けた各級教育委員会の担当者の対応が、全てを決めるものではないのでしょうか。

 それにしても歓心するのは、縄文土器の精緻さです。幾何学的な文様や非幾何学的な文様、蛇や猪など動物を模した飾りなどなど、豊かな文化の創造です。これらの文様が後の信濃川流域の火焔型土器へと繋がっていくこととなるのでしょう。

 想像は、果てしなく拡がっていきます。




常設展示室B

 
   
 
 

 右図は縄文のビーナスの拡大写真ですが、何故拡大したのかというと、胸の辺りのテカリに、注目!

 「パール入りファンデーションで化粧したような、これは何?」と相棒がつぶやくのです。そこへ丁度見学に来たオジサマが、「雲母を練りこんでいる」と仰るではありませんか。信じられますか? 相棒が「女優さんの化粧みたいやねぇ〜」と感心しきり。多分、作っていた女性も、土偶と同様に雲母などで化粧していたのでは無いでしょうか。当時の人々はいれずみを施していたことは知られています。その伝統は代々受け継がれて、アイヌ民族などでは現代まで“ならわし”とも風習ともいえるのではないでしょうか。

以下に展示パネルから引用


【国宝「土偶」(縄文のビーナス)】

 この土偶は、昭和61年に茅野市米沢の棚畑遺跡から出土しました。遺跡の中央の小さな穴の中に、ほぼ完全な形で、横たわるように埋まっていました。
 作られた時期は、縄文時代中期前半(約5000年前)と考えられています。八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持つことや、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、平成7年に国宝に指定されました。
 こわされる土偶が多い中で、なぜこの土偶がこわされなかったのでしょうか。また、人びとはこの土偶になにを願い、なにを祈ったのでしょうか。


【中ツ原遺跡出土の「仮面の女神」】

 出土状態の大きな特徴は、胴体から離れた右足部が、元の位置からは回転してずれた位置で出土したことです。このことから、壊れている土偶を埋めるときに、足を元の場所に置いたのではないかと考えられています。
 これまで、土偶は安産や子孫繁栄のまつりに使われたとする説が有力でした。しかし、この土偶はお墓と考えられる穴から、しかも特別な出土状態で発見されたのではないかと推測されます。
 土偶の見事さもありますが、出土状況が、土偶の性格を知る重要な手がかりになるのではないかと、今、全国の研究者から注目されています。



 さて、この部屋の国宝の土偶に目を奪われていると、展示ケース内の土器の展示ラベルを見て驚きました。置かれている浅鉢などが国宝指定の土器と表記されているではありませんか。国宝はおろか、重要文化財さえも無い縄文展示館が多い中、いくつもの重要文化財や国宝の展示がある博物館は羨ましい限りです。




≪左図 国宝 浅鉢形土器≫ ≪右図 国宝 鉢形土器≫

 


≪下図 国宝 浅鉢形土器≫

 

≪国宝 縄文のビーナス≫


 

≪国宝 仮面の女神≫



 
 
常設展示室C

 

 

 

 

 

 

 

 

 ≪常設展示室C≫で目を奪われたのは、土器の文様でした。文様は一定ではなく、精緻でなおかつ創造的な文様なのです。蛇や猪などの飾りや、用途に応じた器や鉢類。また、その数にも驚かされます。『これが日用品なのか?』・・もちろん、祭祀などに使用したものもあるのでしょうが、明らかに火に炙った跡のある器も見受けられます。
 縄文土器を目にして、いつも相棒が口にするのは「何で(?)弥生土器は薄っぺらいの」という言葉です。主食が堅果や魚貝類から穀物に変わったからなのでしょうか?
 あの岡本太郎が『なんじゃこりゃ〜』と叫んだのは、火焔型土器を目にした際だったと聞きます。しかし、それらとは違った地に、・・八ヶ岳山麓に花開き繰り広げられた文化は、どうなのでしょう。


 さて、この部屋での驚きは土器だけには留まりませんでした。それは、≪吊り手土器≫と呼ばれる、今でいう燭台のような土器です

 また、土偶についても同様でした。土偶が作られた動機から、壊されて見つかるのは、どこの遺跡も同様です。その中で、お腹に手を当てている土偶・・これが、土偶の用途を物語っているように思えるのです。なんとも、造った女性の気持ちが推し量られる土偶ではありませんか。

≪精緻な造りの各種土器≫
 

 


≪欠けた土偶≫



≪尖石遺跡及び与助尾根遺跡≫

 

 

 

 考古館の受付の女性から「尖石も見て来て下さい」との薦めがあり、雪の中を見学しました。考古館を出て道路を横切って、案内標識通りに雪原の中の踏み跡を進みます。途中にある案内板は文字も薄くなって消えかかっていました。道は沢状の場所へと続いていて、階段状の場所を降りると右手に≪尖石≫が鎮座していました。傍らの看板には以下が書かれていました。


【尖 石】
 この石は、高さ1.1メートル、根元の幅1メートルで、先端のとがっているところから、「とがりいしさま」と呼ばれています。古くから村人の信仰の対象とされたものらしく、いつ頃からか傍らに石のほこらが祀られました。遺跡の名前もこの石の形からつけられたものです。
 この一帯は、明治25年頃桑畑にするために開墾され、その時見馴れない土器や石器が多量出土しましたが、祟りを恐れて捨ててしまったといわれています。また、この土器や石器は、大昔ここに住んでいた長者の遺したものであろうと、長者屋敷と呼びならわしています。
 そしてこの「とがり石」の下には宝物がかくされているとの言い伝えから、ある時期こっそり村人が掘ったところ、その夜たちどころにおこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。
 石質は八ヶ岳の噴出岩の安山岩で、地中に埋まっている深さは不明です。右肩の桶状の凹みは磨り痕から人口のものと思われます。縄文時代に磨製石斧を製作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代には石を重要な利器としたところから、地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうともいわれています。


 右図は、展示パネルにあった集落の移動を想定したものです。先にも触れていますが、田畑などで穀物を栽培する以前(時代で云えば、新石器時代以前と云う)の集落跡とはどういうものかは、判然としませんでした。こういう集落の移動は、この時代の特徴だと考えられます。つまり、日本列島に住む我々の祖先が、この時代同じ文化を共有していたことから、日本列島の隅々で同様の行動様式(半定住生活)だったと推測するものです。

尖石を後にして再び道路を横切って、考古館の裏から雪原の中の竪穴住居へと向かいます。そこは考古館のロビーから見えた遺跡でした。こちらの案内板の文字も消えかかっていますが、“与助尾根遺跡”と書かれています。しかし、一面は雪に覆われていて、スノーシューの跡が続いていました。
 
 遺跡を一回りし終えると、11時半過ぎでした。今日のこれからは

 茅野〜松本(あずさ11号)(12:04)(12:31)
 松本〜長野(しなの9号) (13:05)(13:53)
 長野〜高崎(あさま620号)(14:27)(15:14)
 高崎〜越後湯沢(maxとき325号)(15:30)(15:59) でしたが、事前に一便遅らせる変更をしていました。この変更が無ければ、ゆっくりと見学出来なかったということでした。そして、変更後は

 
茅野〜松本(あずさ13号)(13:13)(13:46)
 松本〜長野(しなの11号)(14:04)(14:56)
 長野〜高崎(はくたか566号)(15:20)(16:00)
 高崎〜越後湯沢(とき329号)(16:31)(17:00)
 越後湯沢〜十日町(北越急行ほくほく線)(17:08)(17:43)
 でした。

 行きにお願いしたタクシーは、12時前に迎えに来てくれました。そのお陰で、茅野駅でゆっくり昼食を済ませ、朝預けていたロッカーから荷物を取り出して駅の待合室へ着くと、『松本行きの特急、あずさ11号は人身事故で60分遅れで到着します』とのアナウンスが流れました。相棒と顔を見合わせて「この便に変更じゃなぁ〜」と、間髪入れず『緑の窓口』に並んだのでした。数名の方が並んでいましたが、12時前には係の人に乗り継ぎ便の事情などを伝えて、無事、間もなく来る(結局、68分遅れ)“あずさ11号”へと変更出来たのでした。奇しくも、この“あずさ11号”は、事前の計画変更前の便だったのです。

 変更後の乗り継ぎは順調に進んだのですが、最後の乗り継ぎの越後湯沢での乗り継ぎ時間が“8分”しかないのが心配でした。前日と同様、車掌さんにその旨を尋ねるとやはり「改札口は後ろ側にありますが、乗り継ぎの時間は8分ありますので、十分間に合います」との事。JRの車掌さんなのに、越後湯沢での“ほくほく線”の時刻表を見ていたのには感心しました。

 越後湯沢に着く前に後ろの車両(といっても、3両ほど)へと移動して、駅に着くとスーツケースを抱えて階段を上がって、乗り継ぎの改札を抜け先程車掌に聴いていた“0番ホーム”に降りて行き電車に乗り込みました。“切符は?” そうなのです、切符は要りませんでした。ワンマン電車だったのでした。


 そんな珍道中も、無事に十日町市へと辿り着けましたが、名にしおう雪国・十日町、続きは明日。