縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 こだいのかお2・・平成29年度 公開承認施設認定記念特別展
於:松山市考古館
  平成30年2月3日(土)〜3月21日(水・祝日)
 2018年2月4日(日)

 昨年暮れから、松山市考古館が主催する各種イベントに参加していますが、右記催しの特別展に出向きました。歴史時代(ここでは、記録に残っていない時代のことを指します)の出土遺物の中で、主に石器類の狩猟・採集に利用したであろう石鏃・石斧・石錘・石核・敲石・砥石などなど。剥片石器から磨製石器へと狩猟具が改良され、やがて後に縄文土器と呼ばれる画期的な道具の発明によって飛躍的に発達した文明が興りました。
 それらの遺物は、利用種別により男女で作り手は違っていたものと考えられています。今回の特別展で展示されている土偶の多くは、妊婦など女性を模した物が大半です。右掲のパンフレット冒頭には、下記の書き出しで始まります。



はじめに

 松山市考古館は平成29年11月14日付で文化庁の公開承認施設に承認されました。
 公開承認施設の承認を記念し、当館キャラクター「ふんどう君」をお祝いするために、全国からたくさんの「かお」が集まってくれました!
 松山の「ふんどう君(分銅形土製品)」はにっこり笑顔が特徴で、今から約2,000年前(弥生時代)につくられたものです。「かお」の表現は、古くは縄文時代に作られた土偶や土面に見ることができますが、分銅形土製品も縄文時代の土偶がその起源であるとも考えられています。
今回の展示では「ふんどう君」の遠い祖先にあたる縄文時代の土偶や土面、「ふんどう君」と同じ弥生時代の人面文土器、「ふんどう君」よりも若い古墳時代の人物埴輪たちに表現された様々な「かお」を通して、「ふんどう君」のルーツや作られた目的・魅力などについて思いを馳せてください。
 
 
 常設展示室の手前の企画展示室には、以下のあいさつ文が掲げられていました。



ごあいさつ


 松山市を代表する「こだいのかお」といえば、松山市考古館のイメージキャラクターにもなっている、にっこり笑顔の『ふんどう君』(弥生時代の分銅土製品)です。
 今回は、公開承認施設の認定を記念し、学校の教科書や歴史の本などで見たことのある縄文時代の遮光器土偶や山形土器、弥生時代の人面文土器、古墳時代の人物埴輪たちに、全国から集まってもらいました。
 展示品をじっくりと観察すると、私たちの遠い祖先が「かお」に込めた思いやメッセージが伝わってきます。
 本展が古代の地域史紐解く一助になり、貴重な遺跡・出土品を後世に語り継ぐ機会になれば幸いです。
 展示会の開催にあたり、貴重な資料のご出展を快く承諾頂きました所蔵の各位、並びに格別のご配慮と、ご尽力を賜わりました関係の皆様方に心から御礼申しあげます。

      平成30年2月
      松山市考古館

≪重要美術品≫ 山形土偶
右図、千葉県江原台遺跡(約4000年〜3000年前) 明治大学博物館蔵

 


土製仮面
下図、岩手県大原遺跡(約3000年前) 辰馬考古資料館蔵

 


遮光器土偶/縄文時代晩期(約3000年前)
青森県亀ヶ岡遺跡 明治大学博物館蔵

 


遮光器土偶/縄文時代晩期(約3000年前)
青森県亀ヶ岡遺跡 辰馬考古資料館蔵

  


遮光器土偶/縄文時代晩期(約3000年前)
青森県亀ヶ岡遺跡 辰馬考古資料館蔵

 

≪遮光器土偶≫
以下に展示している国立歴史博物館所蔵の土偶は撮影禁止の為、
壁面の開設パネルのみの表示


   


≪弥生時代以降のかお≫
左図、人面文土器 右図、人物埴輪

 


下の土偶(青森県亀ヶ岡遺跡)は、国立歴史博物館で所蔵していますが、
本物は他に貸出中とのことで、安城市歴史博物館所蔵のレプリカを借りたそうです。

 

≪遮光器土偶(重要文化財)≫(青森県亀ヶ丘)
レプリカ(安城市歴史博物館蔵)

 
≪土偶って何?≫
 ヨーロッパ地方からシベリア地方にわたって作成された「ヴィーナス像」と呼ばれる象牙・骨、粘土で作られた女性像がその起源ではないかと考えられています。
 初期の土偶は、頭や手足の表現がないものが多く、女性像として豊満な胴体のみが表現されます。
 土偶の用途については、大半が豊満な女性像を象ることから、子孫の繁栄や安産を願う「女神像」と考える説や、故意に壊された状態で出土することが多いので、生命の復活の儀式に使用し、願ったとする説、共同祭祀に「神像」として利用されたとする説などがあります。

≪亀ヶ岡文化って何?≫
 北海道南部から東北地方(新潟県北部を含む)にかけて分布した縄文時代最終末の文化です。現在のところ東北地方北部にある馬淵川の流域が亀ヶ岡文化の中心地であると考えられており、そこでは土面や遮光器土偶などの信仰やまじないに関わる多くの遺物が見つかっています。
 そのうち、江戸時代から優れた土器が多数出土することで知られていた亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)は、亀ヶ岡文化の名称の由来となった遺跡です。

 企画展示室は有料でしたが、ぐるっと一回りの半時間ほどで見終えます。続いて常設展示場にも本展の主旨に則った企画の展示がなされているとの案内で、もう何回目かの展示室へと入ります。


 まず、壁面に松山市の歴史年表が掲げられていました。それには

旧石器時代 2万年前 
  松山平野に人が住み始める

縄文時代 8千年前
  瀬戸内海ができる
  松山市土壇原、興居島の田の尻
  などに人が住む

     3500年前
  松山市周辺の人口ふえる
  (遺跡数約30ヵ所)上野・窪田遺跡など

  縄文時代の終わりころ、松山に水田栽培の稲作つたわる





左図、≪重要美術品≫ 土偶 青森県亀ヶ岡遺跡
 右図、岩手県奥山≪屈折像土偶≫

縄文時代晩期(約2500年前)辰馬考古資料館蔵

 


以下は複製品

 



 中国・四国地方の「かお」
分銅形土製品


  
 【名前の由来について】
 分銅形土製品は、江戸時代に両替商が、秤にのせて銀貨の重さを量っていた「おもり=分銅」の形に良く似ていることから、その名称が付けられました。当時の両替商が使用していた看板には分銅の形がデザインされており、現在でも銀行の地図記号として使用されています。


 【分銅形土製品のルーツと役割】
 分銅形土製品は瀬戸内海沿岸や山陰地方に多くみられ、これまでは中国・四国地方の弥生中期文化の中で独自に生み出されたと考えられていました。近年の調査・研究により、弥生時代前期にさかのぼる資料の存在が明らかとなり、また自立するように基部(下の部分)を厚く作ったものがあることから、縄文時代の土偶の影響を受けて生み出されたのではないかと考えられるようになりつつあります。
 「かお」表現についても、まゆと鼻を一体で突出させて表現するなど、縄文時代の土偶との共通点が見られます。また、縄文時代の土偶と同様に完全なかたちでみつかることが少なく、最終的には打ち割られて廃棄されたのではないかとも考えられています。
 一方では、「かお」には入れ墨やヒゲの表現が見られないことから、女性像であることが考えられ、表面には赤色顔料が付けられたものがあることから、縄文時代の土偶と同じように人々が安産などの願いを込めて使用した祈りの道具だったとも考えられるのです。


 松山市内では現在までのところ、分銅形土製品の「かお」表現方法のルーツと考えられる縄文時代の土偶は見つかっていません。分銅形土製品は、縄文時代の文化全体の中で生み出され、伝わってきたと考えられるのです。



以下は≪まつやまの分銅形土製品≫

 

 

 

 

 

 
 


常設展示室の以降の展示は、今までと変更はありませんでした。

  


 




 今回の展示は、縄文時代の後期から弥生時代へと繋がっていく時代となります。丁度、その時期こそ現代日本へと繋がっていく文化の進展が興ることとなっているのでしょう。縄文時代の中期から後期へと移る際に日本列島で起きた現象は、縄文海進を経てヒプシサーマル期と呼ばれる温暖期に一気に縄文文化が花開く事となりました。それらの文化は、北海道南部から東北地方にかけての大集落遺跡跡にその痕跡を見出せます。
 そして、縄文中期以降の寒冷化に伴って、前記、北海道南部から東北地方にかけての大集落がその痕跡を消してしまいます。考古学者は「気候の寒冷化で、食料を得るために移動したのではないか?」と、それ以上の議論の進展はみられていません。


 気候変動によって移動を繰り返すのは、人類の宿命(否、動物たちの宿命でもある)なのです。それは、手に入る食料の変化であり、食文化も変わらざるを得ません。
 縄文時代を一括りに「縄文人はこのような生活をしていた」などの固定観念で言い表してほしくありません。北と南、日本海側と太平洋側、海辺と山間などなど、そして、縄文時代の草創期から晩期までの1万余年の時間軸があります。


 縄文時代に於ける土器文化や土偶文化の進展・変化や廃れるに至った経緯などは出土遺物からしか検証出来ません。それは、上記「定住生活の長短」との関連があるからです。研究に携わっている者がそれぞれに横どうしの繋がりが薄い点では、近年持ち上がっている『北海道・北東北の縄文文化の世界遺産登録』に、顕著に表れているのではないでしょうか。


 それは、文化庁の管轄下で各級教育委員会が主導していることにも一因があるのではないでしょうか。これら研究機関は利益を生み出す機関とは相容れないものです。しかし、貴重な文化遺産が見捨てられていく現代、“儲け”とは縁がない“文化の継承”に、どのような理解がある時代であり得るのでしょう。



【AMS法による区分】

 草創期  15,000〜12,000年前
 早期    12,000〜7,000年前
 前期    7,000〜5,500年前
 中期    5,500〜4,500年前
 後期    4,500〜3,300年前
 晩期    3,300〜2,800年前



 

 右のパンフレットは、平成27年度特別展のものです。この表紙にある仮面で、下の段の右から二番目にある≪土製仮面≫については、昨年末、徳島へ見に行ってきました。年末にも拘わらず開館していた徳島県立博物館にて展示していとのでした。このパンフレットでは、『日本最古の土製仮面』との紹介です。そして、このパンフレットの書き出しは以下で始まります。


はじめに

 松山市を代表する古代の「かお」といえば、松山市考古館のイメージキャラクターにもなっている「ふんどう君」(分銅土製品)です。松山のふんどう君はにっこり笑顔が特徴で、今から約2000年前(弥生時代)につくられたものです。
 わたしたちの遠い祖先は、主に粘土や木を利用しながら色々な「かお」を表現していますが、そこには一体どのような願いがこめられているのでしょうか?
 今回の展示会では、古代人のつくった「かお」を通して、当時の人々の生活や風習、願いなどについても考えてみたいと思います。