縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅

井戸尻考古館 ≪2018年10月11日≫

 小生“山登り”を趣味としていた関係で、自家用車を利用して『八ヶ岳』の山などに訪れていました。四国から2001年4月の『雪山教室で赤岳登山』、同年7月の『渋の湯から観音平までの八ヶ岳縦走』。転勤後の大阪からは、2003年2月の天狗岳、2005年9月末の北八ヶ岳

 そして時を経て、10数年後の今年2月には今回と同様の計画で『尖石縄文考古館』を訪れました。つまり、その全てが茅野を中心としたエリアでしたので、その経験が邪魔をしたのか、今回のトラブルの元となったのでしょう


 さて、岡谷ICから中央自動車道に乗って、諏訪湖PAで昼食を調達しました。カーナビは、小渕沢ICで降りて一般道へと誘導します。土地勘が無い小生、カーナビに従うのみです。


【関連リンク先】 井戸尻考古館 【新たに指定された長野県宝】


尚、小生が使用している時代区分を以下に記します。

【AMS法による区分】

  草創期   15,000〜12,000年前
  早期     12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前



 
 ・10月9日(火) 
 松山  岡山新大阪  金沢市(石川県埋蔵文化財センター) 金沢市
 
 ・10月10日(水)  
 金沢市  富山市(北代縄文館・富山県埋蔵文化財センター・富山市民俗民芸村考古資料館)
 富山  長野  松本  上諏訪 
 ・10月11日(木)  
 上諏訪   〜岡谷(岡谷考古館)〜富士見町(井戸尻考古館)〜北杜市考古資料館
〜釈迦堂遺跡博物館〜甲府市 
 ・10月12日(金)  
 甲府市  松本  長野  軽井沢  〜御代田町(浅間縄文ミュージアム)〜高峰高原ホテル 
 ・10月13日(土)
 車坂峠〜槍ヶ鞘(ピストン) 高峰高原ホテル  〜軽井沢  高崎市 
 ・10月14日(日) 
 高崎市  群馬県立歴史博物館 高崎市  上野(国立科学博物館) 上野   東京  
 ・10月15日(月)  
 東京  新宿〜京王多摩センター(東京都埋蔵文化財センター)  東京  岡山  松山  


 小渕沢ICを降りてからは随分と田舎(辺りが森や林、山裾じゃないという意)の景色の中を巡って、やがて辿り着いたのは井戸尻考古館でした。
 玄関には、以下のポスターが張られていました。


【日本遺産認定】

「星降る中部高地の縄文世界」
 ―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅ー


縄文土器5点が新たに長野県宝に指定されました! ≪井戸尻考古館≫


 玄関ホールからスリッパに履き替えます。男性の職員が受け付けていましたので、何時ものように『撮影は、良いでしょうか?』には『撮影禁止のシールが貼っていますので、それ以外は良いですよ』と、フツーの返事でした。入口の扉には次の≪展示概要≫が貼られていました。


【展示概要】

 井戸尻考古館は、八ヶ岳西南麓から発掘された新石器時代(縄文時代)の文化遺産を収蔵しています。
 およそ5,000〜4,000年前(中期)、この地方は中部高地から西南関東に展開していた民族と文化の中心舞台でした。
 展示の中心は国重要文化財の藤内遺跡出土品、長野県宝の曽利遺跡出土品をはじめとする、その時代の土器と石器であり、最新の研究成果に建って当時の暮らしと、ものの考え方の再現に勤めています。



 展示室に足を踏み入れると、棚一面に、それこそ所狭しと並んでいるのは土器でした。。


≪土器編年展示≫

縄文時代中期(およそ5000〜4000年前)を中
心として時代順、住居跡順に展示してあり、
一千年間にわたる土器の形や文様の変化、それ
ぞれの時期における器種の組み合わせを一望す
ることができる。



 

 

 

 
 
 ここまで土器を並べられると、少々、食傷気味となってきましたが、まだ続きます。そして、壁面上部にはパネルにて、遺跡や土器などの解説が続いています。


【井戸尻遺跡群の淵源】
  ー先井戸尻文化―

 八ヶ岳の裾野で井戸尻文化を担った人々は、いったいどこからやってきたのでしょうか。
 この問いに答えてくれたのが、平成8年に調査された坂平遺跡でした。およそ6,000年前、関東や東海の海沿いから内陸を目指した人々が、はじめてここに大きな集落を営みました。
 やがて人々は釜無川に近い扇状地から台地上に生活の舞台を移し、唐渡宮(とうどのみや)や机原三本松遺跡(平成7・8年調査)、机原遺跡(昭和55年調査)と、場所を少しずつかえながら、集落を形成していきました。
 昭和40年に発掘された日向(ひなた)遺跡、42年の籠畑(かごはた)遺跡、平成6・9年の中尾遺跡では、井戸尻文化直前段階の村の様子を知ることができました。この時期では、なぜか急な斜面を掘り込んで住居を営む“斜面集落”が特徴です。
 そして次なる時代、人々は平坦な台地の上に集落を展開し、井戸尻文化を開花させていったのです。


 上記に続いてのパネルには、地図上に遺跡を記し≪先井戸尻文化から井戸尻文化期≫として、≪およそ6,000年前、坂平に大きな集落が営まれます。ここから台地上へと生活の舞台を移し、地点を少しずつかえながら集落が作られ、井戸尻遺跡群が形成されていきました≫と解説されていました。

 この辺りの解説は、先に訪れた≪尖石遺跡≫での解説と同様でした。




 

 
 
重要文化財

≪双眼を戴く大深鉢≫




 壁面の棚に並べられている土器類には、順番に番号が付けられていました。また、土器の前に並べられている斧などの道具類にもまた、番号が振られています。そして、奥のスペースにはガラスケースに飾られている土器類が何ヶ所かに飾られていました。一番手前のケースを撮って向こう側へと回り込むと≪撮影禁止のマーク≫があるじゃ〜アリマセンか?

 その≪撮影禁止マーク≫は、どこに表示しているんじゃ〜。そして、次々に≪撮影禁止マーク≫のあるケースが並んでいます。それらは、≪県宝≫で≪国宝≫では無いのです。参考までに、私たちが見学した殆んどの土偶・土器の国宝でも撮影可能でした。撮影が出来ないのは個人所蔵品だったり、展示している館が、出土品を所蔵している館からの借り物だったりするものです。

 このような撮影禁止の展示は、全くもって納得いきません。そもそも、今回の旅は先の“東京国立博物館”での≪JOMON 一万年の美の鼓動≫では、撮影禁止だったために企てたのでした。さて、何のために展示しているんでしょうか?小生、縄文の土偶5点や土器などを該当の展示館を訪れて写真に収めているところですが、何か?


【双眼を戴く】

 一対の環を左右から立体的に合わせた造形は、異様に大きな眼である。同時期の蛙や神様の眼に同様な表現がみられる。
 ふつうこの種の造形は、真上から見ると手の平を合わせているが、左眼の裏側にはやはり環形の孔が空けられ、それと右眼とは平行にずれた位置関係にある。また右眼の裏側にはジグザグ文様がつけられ、正面から見るとその一部が角もしくは冠のように突出している。
 ぽっかりと大きな空洞をなすからには、これは目玉が宿るべき穴、すなわち眼窩を表したものにちがいない。
 そこで思い当たるのは、目が日と月に化したという神話である。古事記ではイザナギの左の目から日神アマテラスが、右の目から月神ツクヨミが出現する。同様な神話は汎世界的にみられる。古代人にとって目玉と日月とは一体の関係を有するものだった。
 暗く塞がれた右眼は光を失ったくらい月を、反対に明るく透けた左眼は光りに満ちた望月、ひいては太陽を表徴し、その眼窩は、月が暗闇の三日間の休息を得る晦の洞穴であろう。


 壁面の手書きと思しきパネルには、≪土器編年表示≫→≪井戸尻遺跡群の淵源(―先井戸尻文化ー)≫→≪先井戸尻文化から先井戸尻文化期≫→≪富士眉月弧≫→≪深鉢≫→≪浅鉢≫→≪有孔鍔付樽および壺≫→≪列島新石器文化の精華(―井戸尻文化ー)≫→≪蛙と半人半蛙像≫→≪みづち≫→≪蛇と月≫と続いて、上掲の≪双眼を戴く≫そして≪凹んだ眼≫→≪火山的世界観≫→≪土偶≫→≪香炉形土器≫→≪人面または人首の神≫また、≪四方に目をもつ大鉢≫→≪新しい月に抱かれた古い月≫→≪半球形の洞穴≫→≪太陰的世界観≫→≪先史世界の蛙と半人半蛙の図像≫、そして、≪1・2・3・4 縄文ライフ≫へと続いていました。


 その中には、上掲や下掲のような≪記紀≫に基づいたような記述もあります。小生、このような“論”には全く持って納得しません。事実に基づかないこれらの引用には、呆れかえります。土器が作られてから何千年後かに書かれたであろう“記紀”の記述には何の信頼性も無い事は、今や常説となっている筈です。今や、第二次世界大戦が終わって70年を経ているのですから・・。いいかげんに明治以降の皇国史観に基ずく歴史観を改めましょう。



≪火山的世界観≫

 香炉形土器と人面深鉢は、それぞれの造形が共通する。同様に古事記・日本書記の神話でもイザナミ、火のカグツチ、オホゲツヒメ、ワクムスとの四柱の神はきわめて近い関係にあり、屍体から何かが化生するという点で性格もよく似ている。火神はまたの名を火産霊といい、稚産霊(わくむすひ)に呼応する。
 火神と穀霊とは本来、ひとつ神の二つの顔だった。それは古く草・前期に遡る、焼畑農耕の観念を反映したものだろう。そして香炉形土器が人首を象るのも、神話の殺害で首が対象となるのも、欠き取られるワクムスヒの人面、すなわち穂首刈りの行為によってうなづかれる。
 国生み神話のなかでも火神の誕生以降の段は、格別に生彩を放つ。火の誕生つまり火山の活動を契機としてこの世の死がもたらされ、集落がはじまる。そこには、文化史上の一大事件が凝縮されている。
 ひるがえって、富士山が今日の姿に近い山容を整えたのは、およそ五千年前といわれる。当時の人々は毎日、その噴火活動を眺めていたはずだ。いったい数万年前の旧石器時代より、列島の先住民は大量の灰を噴き散らす火山の猛威の下で生活してきた。火山は山野を焼き尽くし、溶岩と降灰が大地を更新し、いつしか新たな草木が育まれる。そうした火山の活動は、人々の眼底深く焼きついてきたことだろう。焼畑農耕は、火山の応用ともいいうる。
 こうしてみると、太陰的な世界観に対地されるべきもうひとつの、火山神話の世界観が輪郭をあらわにしてくる。
 


 以上引用しましたが、上記のような記述を学者と思しき方が一般人に説く事には合点がいきません。個人がどういう考えなのかに口を挟むものではありませんが、事実に基づかない事を個人の独断で公共の施設に張り出す事の意味はなんなのでしょう。貴重な遺物を観ることが出来ても、このような記述に出合うと気がそがれてしまいます。



 



  

 

≪香炉形土器≫


 
 

 今回の“縄文の旅”を前にして、NHKの≪歴史秘話 ヒストリア −縄文1万年の美と祈りー 立たない土器と月の水≫が放送されました。そこに、当≪井戸尻縄文館≫館長が出演していたのです。そこでは、縄文土器のコーナーで『縄文の土器の登場は、およそ1万年前。あの「四大文明」よりも前で世界最古!!中でもひときわ古い土器は底が「とがっている」ものです。なぜ、すんなり置くことのできない土器が作られたのか――それは夜露「月の水」を集めるため』と番組は伝えています。
 しかし、小生はこの論証には同意しかねます。この土器と月の関係に関する考察は番組にも出演した“大島直行氏(北海道考古学会会長)”の持論でしょう。先にも触れたとおり、個人がどういう持論を展開しようが自由なのですが、こういう微妙な問題には、違った意見を持つ人も必要と考えます。もちろん、その論証が“科学的論拠”に基くものであれば、その限りでは無いでしょう。


 

≪左、再生への思帷≫≪右、居平遺跡の出土品≫

 

≪左、坂下遺跡に石器≫≪右、机原遺跡の石器、石爪鎌≫

 

≪左写真 左、四方神面文負荷鉢 右、蛇文方神深鉢≫

 
長野県宝

≪水煙渦巻文深鉢≫



 曽利遺跡1号住居址から出土した。当館を代
表する資料の一つです。造形の素晴らしさもさる
ことながら、同じく4号住居址から出土した6点の
土器とともに、曽利T式(約4500年前)の基準と
なる。学術的にも非常に価値の高い土器です。 


≪蛙文・みづち≫




 

2018年認定日本遺産【星降る中部高地の縄文世界】

 

―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅―

■ストーリー概要
日本の真ん中、八ヶ岳を中心とした中部高地には、ほかでは見られない縄文時代の黒曜石鉱山がある。鉱山の森に足を踏み入れると、そこには縄文人が掘り出したキラキラ輝く黒曜石のカケラが一面に散らばり、星降る里として言い伝えられてきた。日本最古のブランド「黒曜石」は、最高級の矢じりの材料として日本の各地にもたらされた。麓のムラで作られたヒトや森に生きる動物を描いた土器やヴィーナス土偶を見ると、縄文人の高い芸術性に驚かされ、黒曜石や山の幸に恵まれて繁栄した縄文人を身近に感じることができる。

■構成市町村
長野県(茅野市、富士見町、原村、諏訪市、岡谷市、下諏訪町、長和町、川上村)
山梨県(甲府市、北杜市、韮崎市、南アルプス市、笛吹市、甲州市)




 上掲は、岡谷考古館に掲げられていたパネルからの引用です。



≪井戸尻考古館 パンフレット≫




 観覧を終え相棒は、東京国立博物館で見て写真撮影を楽しみにして来たパンフレットに使用されている土器を撮影出来なかったので館内に張り出されていた“考古館編集のCD”の購入を受付の男性に申し込んでいました。それは≪藤内の縄文土器24選≫という表題が付けられていました。

 大抵の考古館で、展示の仕方や展示館の規模の違いには、自治体ごとの資金の有無や大小関連するのでしょう。そのことで、該当の自治体の文化程度が推し量れます。

 そのこととは別に、この考古館には残念な事象に出合ってしまったことは文中に記しました。



 上記CDを購入の際に『是非、隣の歴史民俗博物館へも行って下さい』との案内がありました。勧められなくても、当然、立ち寄るつもりでしたが、ここに改めて写真を載せるような展示はありませんでした。どこの町でもある歴史の展示でした。