四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【root25(宇摩平野山すそのみち)〜県境を越える】

2015年12月18日
part-2 ≪豊田〜実相寺〜新長谷寺〜八皇子社〜入野池〜荒神の森〜光明寺(山田薬師堂)〜三島公園〜戸川公園(疎水公園)〜第65番三角寺≫(16.4km)

          
 今日の計画は随分と悩んだのだった。その理由については、以降の行間に溢れ出て行くこととなった。今回は計画の段階でその行程の厳しさから、まだ暗い内からの出発を予定していたのだった。目的の四国中央市へ近づくと、まだ明けきらぬ街から何本ものエントツから煙が出ていた。

   
 6時35分、愛車をデポして出発だ。この時期、今の時間は未だ未だ白んで来るのに時間が必要だ。そして、のちに出てくることになるのだが、暮れるのも早い。前回
(12月1日)、の最終地点の公園へ訪れた際『この道を通るお遍路さんは居ない』風な話をしていたが、お遍路さんに限らず理由も無くわざわざ遠回りとなる道は通らないのだ。我々をその唯一の例外として・・。まだ暗いのと、四国のみちの案内標識が見付けられないまま、お墓の上へと迷い込んでしまった。先ほどの指導標の場所まで戻ることとした。

  
 7時2分、やっと戸川公園の案内標識に出合った。犬にワンワン吠えられるだけで、未だ道を歩く人には出合わない。

  
 7時4分、銅山川発電所に着いた。この発電所の事は遍路のサイトで見たことがあったが、何故、ここに銅山川という名が?

  
 すぐ先に公園があった。ここが疎水公園と呼ばれる戸川公園だ。四国のみちを辿らないで三島公園から戸川公園へは10分ほどなのだが、道標を辿ると惑わされて余分な時間を食う、結局20分余りの寄り道だった。私たちはここで、トイレを借りた。そして、疎水公園の説明版には以下の説明だったが、戦前から戦後にかけた工事だった。驚くべきことに、遥か銅山川から法皇山脈を越えて引かれた疎水だった。そして、戸川を降る瀬戸内海の傍を通る国道11号線沿いに大王製紙三島工場がある。7時10分、疎水公園を出発。すぐ先、“あいさつ通り”と書かれた看板の脇、小学生が登校していたが、挨拶を交わす小学生は少数だ。『見知らぬ人とは言葉を交わすな』と云う、物騒な世の中になってしまったのか?


≪市指定名称 疎水記念公園(戸川公園)≫
 4年に一度大干害に苦しめられてきた農民にとって、銅山川からの疎水は百年前からの夢であった。疎水実現のため努力を重ねた松柏村村長森実実盛遠氏を始め多くの人々の願いがみのり、昭和12年よりトンネル工事がはじまり、昭和28年柳瀬ダムが完成し、多年の夢であった銅山川の水が戸川にたえ間なく流れ落ちてきた。この水は電力をはじめ農業用水、工業用水や飲料水として広く利用せられ、郷土の産業発展と市民生活の向上に多大の恩恵をもたらした。村上栄作氏は、ながく先人の偉業を伝えるため、この池に頒徳碑を建立し桜を植えこの疎水記念公園を設置された。園内には、四国遍路者を供養した文化5年の一石一字塔や光明真言二百万篇を記念した弘化4年の道しるべ。四国西国供養塔。水害で殉職された福田武太郎氏や松柏発展に尽力された村上栄作氏の銅像があり、毎年4月疎水感謝祭が行われて市民いこいの地となっている。
 平成9年3月吉日
                                       設置 財団法人      上柏交益会
                                       撰文 県文化財保護指導員 石川士郎



  
 疎水公園から暫くは遍路道を行くが、上柏集落で四国のみちと歩きと遍路の道は別れる。しかし、先の道は通行止めとなっているようで、怪しい。歩き始めると、軽トラのおっさんが「この先は行き止まりになっとる」と云う。事情を云い進んでいくと、また一台軽トラが停まり同様の事となった。すぐ先で道は怪しくなり、ウロチョロしていると先刻のオジサンが軽トラで降りてきて、すぐ先の小道を教えてくれたのだった。有難い。結局、少しばかりの寄り道だったようだ。しかし収穫は、先ほどの疎水の出口の場所に出合ったのだった。

  
 先ほどの迷い道からは当然の事ながら“遍路シール”には出合わない。しかし、いつの間にか明るくなった道路歩きで、確かな案内に出合ったのは、7時52分だった。

  
 遍路の石標は四丁と読める。前方に建物が現れて下からの道に出合った。


              
 8時22分、無事、三角寺へ着いた。



ちょっと 一息

 
 四国のみちのコースは、車道が出来る以前からの遍路道を辿っている。しかし、車が通るようになった現代、使われなくなったみちは廃れ、札所へは車で辿るみちの案内と、“歩き遍路”が使うみちの案内となっている。上記の案内のように“四国のみち”の案内は無くなり、工事業者の看板では判らなくなってしまったようだ。

 上、左の写真の案内図を無視して右へと進むと右の写真のプレートに出合った。その先で道を見失ってしまったのが、文中の“迷い道”の詳細だ。という事は、『四国のみちは、通行出来ませんので云々』の案内があっても良いのでは無いのか?愛媛県の場合は環境局自然保護課さん。


【指導標や標識など】

  

   

   

   



 環26三角寺から椿堂へのみちへ