四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root24・旧国道を行くみち~root25・宇摩平野 山すそのみち】

2015年12月1日
part1
 ≪豊田~実相寺~新長谷寺~八皇子社~入野池~荒神の森~光明寺(山田薬師堂)~三島公園~戸川公園(疎水公園)~第65番三角寺≫(16.4km)

            三島公園からは、眼下に伊予三島の街と瀬戸内海が望める。
          


  
 朝からの愛媛環24≪旧国道を行くみち≫を終え、まずは、豊田バス停を目指した。国道11号線へ出て暫く寒川(さんがわ)方面へと歩くと、またしても見覚えのある景色。その昔、毎週のように通っていて記憶の片隅に残っていた交差点だった。11時22分、そこが豊田バス停だった。すぐ手前の小道に“四国のみち”の道標が建っていた。ここからは、松山道が通る山裾への道へと向かうのだった。そして、先ほどまで辿って来た讃岐街道を抜けると、左手に東屋が現れた。

 
 路脇には“四国のみち(四国自然歩道)案内図”のある案内板が建っていた。その休憩舎の前には小学校があり、先ほどの道路のペイントは通学路の印だったのだ。小学校の裏には“今城宇兵衛遺跡”と、消えかけた案内板が建っていた。11時半、再出発後、先日出合った“四国のみち”の銘板との再びの遭遇である。

 
 ひたすら松山自動車道が通る山裾へと向かう。昨日の天気予報では『降水確率は10%』だったが、山には雨雲のような雲がかかっている。暫く行くと新しく造成されているような区画があり、新築の家も建っていた。そして、道は徐々に勾配を増していた。

  
 自動車道の高架に突き当たると、高速道路に沿って側道を行く。そして、11時40分頃には道路と同じ高さになった。左手には瀬戸内海が広がり、右手の高速道路はビュンビュンと車が走り抜ける。

  
 直ぐに実相寺の案内標識があり、眼下に大屋根が見える。時間は昼前、ここはパスして先を目指す。高速道路を挟んだ山際には、ニュータウンというか団地が望める。

   
 高架の下、車の通る道路だけじゃ無く、点検用の通路だろうかも通していた。高架に沿った道は二手に分かれて、その間には墓地があったが道はすぐ先で合流し、高架下を抜けていた。12時15分、新長谷寺に着いた。山門脇には
市指定文化財 新長谷寺仁王門

この門は、本瓦葺、三間一戸、格子窓付で仁王像を安置しています。桁行3間(680m)梁間2間(380cm)、折衷様式で多くの特色を持っています。
 まず、切妻造の屋根に寄棟造の上屋をのせています。この上屋には漆喰塗りごめで花頭窓が付いています。このような形式の山門は県下では見ることのできない珍しいもので高楼付建物の系統を引くものです。棟瓦に菊と桐紋をつけ、棟飾には鯱をのせ武家風の華やかさをたしています。妻飾りは、蕪懸魚で鰭は彫りの強い花模様となっています。入口天井の前半分は鏡天井、後ろ半分は格天井、仁王像の天井は棹縁天井となっており過去の修理をあらわしています。柱は6寸の角柱で面取柱とし、柱根に銅板性唐草模様付の根巻金具をつけ、礎石は自然石を用いています。軒回りは斗供を用いず軒下は疎垂木で全体に簡素な雰囲気を示しています。この門は昭和53年に解体修理されました。なお門内に保存されている古い仁王像は一本造で平安期の古様式を残す貴重なものです。
                     平成23年3月 四国中央市教育委員会


と案内されていた。また、山門の仁王像は太い格子に囲われていて良く見えない。山門を潜ると左手に黒板があり、坂村真民の

   十二月

すべては光る
光る光るすべては光る
光らないものは ひとつとしてない
光らないものは光を受けて
光る。
             と書かれていた。


 
 天国まで届くかと思うような石段は225段あるという。しかし、小生、息を切らすことも無く一気に登れた。そして相棒も同様。振り向くと、随分高くまで登ったものだ、高速道路が遥か下に見える。

 
 一通り参拝を終え、帰路は回り道で降りることとした。今年の紅葉がイマイチなのか、未だ時期が早いのかは判らないが、春の桜の時期にも訪れたいような雰囲気のあるお寺だ。

 
 帰路の参道脇には『新四国八十八ヶ所』が造られていた。回り道は、案外楽に降りれた。我々は門前にある東屋で昼食休憩とした。門前に建つ食堂や喫茶店は開いてなかった。また門前から山側へと林道が伸びていたが、その道を利用して本堂まで車で通行可能なのだろうが、参拝者が駐車出来るスペースは無さそうだった。

   
 20分ほどの昼食休憩を終え、13時、再出発である。新長谷寺から暫くは高速道路の山側の側道を行く。すると目の前に、下界から取り残されたように民家が現れた。その先で側道は高速道路の海側(進行方向の左側)を行くようになる。すぐ先に高架下を水路が通されていた。

  
 八皇子社には以下の標石が建っていた。13時22分、入野池だろう池に着き、ガードレールの手前には案内プレートが埋められていた。側で野焼きしていた畑仕事のオジサンに、四国のみちの事を尋ねるもイマイチ要領を得ない。みちは降っていく。次の目的地である“荒神の森”の端にあたる場所に≪坂上羨鳥(せんちょう)「福生庵(ふくしょうあん)」≫という市指定史跡(昭和六十三年二月 伊予三島市教育委員会)があるが、整備されていなかった。

八皇子社(別名八皇寺)
 この祠は白蛇を祭っています、時代は不明だが昔寒川の里に貧しいが正直で働らき者の漁師がいた。ある日海辺で「毎日働いても暮らしが楽にならんどうしたらよいものか」とつぶやいた時どこからともなく「お前の足もとにいる小さな白蛇を連れて帰り食事を与えよ白蛇が太るにつれ金持ちになれる」と声が聞こえた。漁師は祠を造って白蛇を入れ毎日「白蛇さま」と呼んでごちそうを食べさせたところ白蛇はぐんぐん大きくなった。ある日祠の前に「かめ」が一個不思議に思って中を見ると大判小判がいっぱいでお告げとうけ漁師は村一番の大金持ちとなった。すれから数百年漁師の子孫に欲深い人がいてごちそうのお供えを止めました。白蛇はしだいにやせて行くにつれ漁師のお金もなくなりある夜大きな音がして祠の戸が開き白蛇の姿も消えてしまった。漁師はまた貧乏になったといわれています。
             平成十年十一月吉日   奉納


  
 ここら辺りでは道に埋められたプレートに導かれて進む。荒神社を13時51分に通過。このもりが『荒神の森』と称されているのだろう。行く手に山門が見えて来た。

 
 13時59分、光明寺の山門に着いた。ここは山門のみで、仁王像は他に例を見ない眼差しの造りだった。

市指定文化財 木喰仏 所在地 中之庄町光明1279番地光明寺
 寛政11年6月(1799)木喰五行菩薩行道上人が日本廻国のとちゅう中之庄へたちよりここで二体の仏像をつくりました。一体は如意輪観音像で一木造、高さ86cm。長いずきんをかぶり右手を耳にあてた姿に見えるので、耳の観音様として信仰され、耳が聞こえるようになった人は石に穴をあけておそなえしました。もう一体は庭にそびえている槇の大木にほりこまれた子安観音像で、子供を守る生き木の観音様として信仰されてきました。
 木喰上人は甲斐の人で、54才のとき木喰の修行にはいりました。五穀を食べず、肉食をせず、冬といえども着物一枚ですごすというきびしいものでした。やがて、日本中に千体の仏像をつくり人々を救おうと決心して、全国をまわりました。中之庄村へきたのは82才のときでした。木喰仏は、創造性に富むすぐれた仏像として、広く全国的に知られています。
 なお、山門の仁王像は三島神社本殿の彫刻を手がけた三島の彫刻師松本新助の作で、持福寺にあったものをここへ移しました。木喰仏にふさわしい独創的な仁王像です。
また薬師堂の前には、むかし田に水を引く時に使用した日時計の石板もあります。

     平成5年                 伊予三島市教育委員会


 
 光明寺を後にして、14時8分、田圃の中へと案内されたが、右のプレートを最後にこの先で道を見失ってしまった。こうなれば、目指す方向へ歩いて元の道(四国のみち)へ出合うまで戻るしかない。そして、その先でバイパス風に新しく付けられた舗装道路に出た。

 
 すこしばかり降り過ぎていたようで、新しい道を戻っていくと14時20分、上掲の真新しい案内板に出合った。しかし、案内の方向(光明寺の矢印)が違うんじゃない~。これでは車で四国のみちを辿る人への案内だ。方向から云えば、地図に記された道はず~っと続く、田圃の中のみちだった筈。結局、10分余りの道迷いだった。

  
 暫くで国道319号線へ出たが、四国のみちは、真っ直ぐに進んでいる、国道を右手に行くと高速道路を潜って、法皇山脈へと抜ける国道だ。左手には国道11号線のバイパスが通る。遍路道と重なっていない四国のみちは、造成された場所や道路の新設や拡幅工事が為された場所では道を失う部分が多い。それに比し、旧街道などでは“みち”は、大切に保存されているのである。

  
 遍路道に出合うと、標石などは捨てられていない。前方に小高い山が現れた。どこの町にもある市街地を見下ろす公園・・ここが『三島公園』だろうことは誰もが推測出来るだろう。14時42分、公園へと入る道に着く。今までのみちと違って、散歩の人が行き交っていた。

  
 公園の道を歩いて行くと、剪定作業をしているオジサンが相棒に話し掛けて来た。「三角寺へ行くの・・」というような事だが、相棒は「今日はここで終わる予定なんだけど、四国のみちを歩いている」旨を云うと「四国のみちなんか知らんなぁ~」と、もう一人のオジサンが云うではありませんか、すぐ先に標識があるのに。広場の隅に喫茶店が開店していたので、小休止とした。マスターは未だ若い、気持ちの良い青年だった。「『四国のみち』を歩いている人には初めて会いました」と言っていた。


三島公園
 三島公園は、8.3haに及ぶ広大な敷地にピクニック広場、遊戯広場、展望所などがあり、昭和44年に完成されました。
 春には約450本の桜が咲き競い、桜祭りが催されます。ほかにも、つつじ、藤、松など150種類もの樹々が、訪れる人を一年中楽しませてくれます。
 また、この公園のある横地山は古代遺跡でもあり、頂上からは箱型石棺2基が発見されています。
  「しずけしや 春を三島の帆かけ舟    一茶」
  「考えを直せばふっと 出る笑い     伍健」



 
 コーヒーブレイクの後は帰るのみ。丘の上、ピクニック広場には小さな子供を連れた親子が遊んでいた。また、伊予三島の街並みと瀬戸内海が眼下である。また東の方向、遥か山の中の建物は三角寺だろうか?



≪帰路≫
   
 15時20分、帰路は公園内を散策しながら降りた。先ほど、喫茶店のマスターの話では「一番近いバス停は、ここから真っ直ぐ行った市役所辺りでしょうか」との話で、市役所から新道が抜けている事を教わっていたのである。その道は小生の地図には載っていなかった。公園を抜けた道路脇の自販機で“大山の水”を購入した。小生も相棒も水が切れていたのだ。

  
 公園から30分程で市役所前に着いた。さて、JRの伊予三島駅まではどの道だろうか?小生、車では通過した記憶があるが、歩くとなると近道がある筈。と、適当に駅の方向へと行く。微かな記憶に依れば、海側(旧国道11号線側)が駅の表側だったと・・、すぐ先で踏切を越えると、丁度、道路へ出て来た若い奥さん風の女性に駅の場所を尋ねるも「よく分かりません」との返答。JRの駅の場所を応えられない人が居るとは思わなかったが・・。時代は変わったのか?

  
 16時過ぎ、結局、ウロチョロして再び線路を渡って駅の裏側の道から高架を渡って、改めて駅の表側に行ったのは、切符売り場に“バス乗り場”の案内があったからなのだ。階段を下りてウロチョロ。しかし、客待ちのタクシーは何台も停まっているが、目的のバス停が見当たらない。仕方なく、駅前の店のご主人に尋ねると「たしかバスはその前に来る」と指を差すが、何とも頼りない。その場所に行くと張り紙があった。上の写真の張り紙には、小さな字で『バス停(標柱)は設置しておりません。ここがバス停です。』と書かれていた。16時52分、定刻にバスはやってきた。

 
 バスには、数名の乗客が居た。まだ17時前の時間なので、通勤に利用している人は乗り合わせていないようだが、この一年の間、バス利用が多くなった我々、未だ座れなかった事は無い。この時期、夕暮れが早い、関の原バス停で降車する17時25分には、日は暮れていた。


 
前記のバス時刻表だが、小生のネット検索でプリントアウトした時刻表には“15時37分発も載っていたが、貼りだされている時刻表には、15時のバスは無かった。実は、駅の待合所で待っている間「三島公園でコーヒーを飲んでいなかったら、15時台のバスに間に合ってたかもね」と、相棒と話していたのだった。そして、帰宅後、先日貰っていた時刻表(バスに無料で置かれていた)を見ていて事実が判明したのだった。それは、小生がプリントアウトしていたのは、『三島~関の原』の時刻表で、我々が待っていた停留所≪三島駅のバス停≫だったのだ。そして、川之江駅から三島駅の間の10駅ほどのバス停は、スルーされる時間帯があったのだ。


【指導標や標識など】

   

   

 

   

   

   

  

  

   

   

  


交通費など
高速道路ETC料金(川内~新居浜) 往復=¥2,760
せとうちバス(川之江・住友病院前、三島駅前~関の原) 一人=¥670


 環25宇摩平野山すそのみちへ