四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root-16(楢原山へのみち)】

2015年12月14日 ≪木地〜楢原山〜上木地〜下木地(9.4km)≫

      
 霊験あらたかなお山は、やはり静かな山歩きだったが、待っていたのは新鮮な出合いだった。

    
 先日、下見に来たトンネル前の広くなった場所に愛車をデポし、9時20分頃には鳥居の広場に着いた。今日は何台か車を止めている。植林の作業の人達の車だろう。登山口の龍岡木地(りゅうおかきじ)には、新たに“木漏れ日の橋登山口”と名付けられていた。やはり、その場所には木漏れ日が射していたのだった。

  
 木漏れ日橋と名付けられた橋には、石が敷き詰められていた。この橋には、今は木漏れ日は無い。前回も触れたとおり、17年前にこの登山口から楢原山に登っていたのだが、記憶が定かでは無い。直ぐの木道の階段も覚えが無いのである。

  
 陽が射さない箇所は階段に枯れ枝や枯れ葉が降り積もっていて、木道が隠れてしまっている。今日初めて傾斜の緩くなった場所に地蔵さんが置かれていた。10時8分だった。すぐ先で小休止とした。10時20分だった。

  
 再出発後、みちは横掛け道となった。尾根の西側をトラバース気味に続くみちは先ほどの階段と同様、枯れ枝や枯れ葉がうず高く積もっていた。

  
 10時40分過ぎ、細くなったトラバース道を過ぎ、落石注意の看板と手摺が付けられている箇所を抜けると尾根の道に出合った。そこには賑々しく案内標識が建っていた。右折し、尾根道は左下手からきたコンクリの道と合わさっていた。その道は“湯の谷林道”と云う。我々が帰路に・・と、考えている道である。林道の下に垣間見えるのは、鈍川温泉やその先に広がる今治の街のようだが、雲が覆い始めていた。

   
 路脇には六丁と刻まれた丁石とお地蔵さんが二体祭られていた。結局、道端に祭られたお地蔵さんは参拝道に置かれた丁石だったようだ。というのは、お地蔵さんに刻まれた文字の判読が難しかったので、あと何丁・・、と呟きながらの歩きとならなかったからである。道の直ぐ上には新しいアンテナ施設(地デジ用のアンテナと思われる)があり、すぐ先の林道終点の駐車場所には二台の軽四が停まっていた。参道入口の傍らには遊歩道の案内図もあり、≪よにあらば 光も月も 宿すらん 丹生玉川の清き流れに 長慶天皇≫と刻まれた奈良原神社の石柱を潜って歩き出す。

 
 陽が射すと靄が立ち上り、光芒が現れる。辺りからは荘厳な雰囲気が漂ってくる。参道の右手に大きな木の切り株が見える。どこかのサイトで“何本もの大杉が、何者かに切られ売られた”と載っていたと記憶している。さて、いつの時代のことだろうか。


≪奈良原神社≫
 楢原山(標高1,042m)の山頂にある奈良原神社は、昔、奈良原権現と呼ばれ、牛馬を守る神として信仰されていました。
 南北朝時代に長慶天皇が戦争に敗れ、牛に乗って楢原山深く逃げ延びたという伝説から、牛追、馬斬、千疋峠などの地名が残っています。
 また、奈良原神社経塚からは、国宝の銅宝塔(平安期)をはじめとする遺跡が見つかっており、町立玉川近代美術館で展示されています。


 上の案内標識で記念撮影をして“初代子持ち杉”の場所へ行くと、四名の方が降りて来た。挨拶を交わすと「この方は、宮司さんです」と男性から紹介された。宮司さんは白装束で女の方だった。「どちらからお出ででしょう」とか、挨拶を交わす。同行の男性は“玉川近代美術館”の館長と若い男女(美術館員と思われる)だった。

 
 すぐ先には≪初代・子持ち杉≫があった。すぐ下で、先ほどの宮司さんが男性登山者と何やら話していた。≪初代・子持ち杉≫には、真新しい“しめ縄”や案内などが掲げられていて、先ほどの御一行さまの仕事と思われる。
 
≪お子持ち杉≫
初代の子持ち杉は、幹回り十一メートルあり、樹齢千年以上といわれています。
 今は枯れてしまい、幹の中央に3代目の苗が育っています。
2代目はすこし山頂側左手にあり、幹回り六、五メートル、樹齢400年、天然記念物に指定されています。
共に水分神社(=児守神社、子授けの神様)の御神木です。


 
 頂上部に、奈良原神社の祠が建っており、左手には経塚発掘跡が祭られていた。先ほどの宮司さんが「納経をお願いします」との事だったのでで、参拝を終え納経帳に書き加えたのでした。

  
 頂上からは、葉を落とした木々の枝越しに、高縄山方面が垣間見える。また、経塚の裏から南尾根へと踏み跡が続いていた。頂上を後にすると直ぐに下から男性が上がって来た。相棒が皿ヶ嶺で会う見知った方かと思って「あっ」と声を掛けるが、改めてお顔を拝見すると違っていたようだ。挨拶を交わしている内に「ひょっとして、XXに勤めていましたか・・、XXですが・・」と仰るではありませんか。“びっくりポンです”・・、20年くらい前になるでしょうか、小生の仕事上で関連する職場での“お付き合い”で知り合った方で、2〜3年お世話になった先輩でした。その方は「歩き遍路をした後、10月ころから山登りを始め石鎚山やいろんな山へ行った。先週、石墨山へ行ったら雪が積もっていたので、ここなら雪が無いだろうと来た」との事だった。我々も「近頃は、四国のみちを歩いている」旨の話など、話は尽きません。「また、どこかでお会いできるでしょう」と別れ、11時36分、上木地との分岐へと踏み出した。

   
 真新しく伐採された木が現れたと思ったら、すぐ先、下方に道が見え前方に車が見えるではありませんか。11時45分、近付くと軽四が道を塞いでいて、横でオジサンたちが焚火を囲んでいた。挨拶を交わすと「塞いでしまって御免・・」と恐縮されていたが、我々の行程を話すと「よう歩くのう」と感心してくれたのだった。さて、間伐作業の人たちの作業道はどこから繋がっているのだろう。オジサンと別れて、すぐ先で昼食休憩とした。顕著な尾根の道は、間もなく右手へと下って行った。

  
 少し降ると尾根から外れて、掘割のような道をズンズン降りると、やがて、井戸のような人工物に出合った。そして、集落跡のような石垣の間の道を降りて行くと道路が見えて来た。

 
 12時42分、上木地の登山口へと降り立った。我々は四国のみちを歩いている。目的地が設定されているので、ここが終了点では無い。そして、下木地へと足を向ける。暫くで、軽四とすれ違ったが、乗っていたのは件の宮司さんの一行だった。車内から「ご苦労さんです」と礼を言われたのだった。

  
 左手の伐採跡地が墓標が林立しているように見え不気味だ。13時、橋の袂に林道ヨコグラ線の立て看板が建っていた。すぐ先で“千疋峠”への案内があり、橋が架かっていた。

   
 13時9分、朽ちかけた標識で『楢原山登山口』と書かれていた。これが上木地の登山道の北側尾根を辿るみちだろうと思われるが、今も道が健在かどうかは判らない。13時半、帰路に予定している湯の谷林道はパスして、下木地を目指す。そして、15分ほどで目的の終了地点の下木地の標識だった。




≪奈良原山経塚≫
 奈良原山経塚は、標高1042mを測る楢原山山頂に位置する。昭和9(1934)年8月26日、奈良原神社にて雨乞い祈祷に伴う清掃作業中に、東南隅の盛土から偶然発見され、調査により二基の経塚が造営されていることが明らかとなった。上部には花崗岩製の石製の石製宝塔(建徳二<1371>年銘)が置かれていた。
 当時の記録によると、石積みの下からたくさんの中国の銭貨が見つかり、掘り出したところ、地上より約45p下から九輪の層塔をもつ銅製の宝塔が発見された。経筒には種字曼荼羅(しゅじまんだら)が線刻されており、木製の蓮弁の台が残存していた。内部には砂と複数の経巻が残存していた。扁平な石を敷き、短刀を並べた上に宝塔が安置され、伏せた壺(かめ)で二重に覆われていたという。壺と宝塔の間には中国製の青白磁の小壺、銅鏡が、壺の周囲には檜扇(ひおうぎ)、短刀などが埋納されていた。
 さらに1.2m離れた場所からもう一基、伏せた壺に覆われた経筒が見つかった。経筒は平らな石の上に置かれており、宝珠の壺をもつ筒型の銅製経筒で、底部には鏡が嵌め込まれ内部には経巻が残存していた痕跡がみられる。壺の内部には青白磁の小壺、外側に銅鏡、檜扇、笄(こうがい)が、埋設されていた。

 檜扇には引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の男女の像や花など平安王朝の絵画が描かれていたことが明らかになっている。

 経塚造営の年代推定の手がかりになるのは、出土した土師器椀(はじきわん、内部黒色)と外容器の壺である。土師器椀は十二世紀前半と推定され、壺はいずれも十二世紀前半の香川県綾川町陶(すえ)の十瓶山窯(とがめやま)の製品と考えられる。
 出土した宝塔や銅鏡、檜扇は畿内で製作されたと考えられる工芸品で、とりわけ宝塔は京都鞍馬寺経塚出土銅製宝塔と双璧をなす優品である。平安末期に流行した末法思想の影響を受け、これらの経塚が造営されたと考えられる。
 経塚埋納品は平安末期の優れた工芸品として、一括で昭和12年に国宝保存法により国宝に指定され、昭和31年に文化財保護法により国宝に指定された。現在、今治市玉川近代美術館に保管されている。

<国宝 奈良原山経塚出土品(一括)>
     所有者  奈良原神社
     管理団体 今治市


≪帰路≫
 このルートの計画段階で具体化出来た案の最有力は≪龍岡木地〜楢原山〜上木地〜下木地〜鈍川温泉(バス)→散宿所前<乗り換え>〜木地口(徒歩)→龍岡木地≫という計画だった。しかし、乗り換えのバス便が何とも不便に設定されている。もともと、乗り換えを前提とはしていない時刻設定なのだ。そんなこともあって、計画を見直していると、相棒の『この林道を歩いて帰ったらどうなん』との助言に、ふと思い出したのは『林道を行ったら楢原山までは直ぐだ』との、
愛媛root-17を歩いた後に下木地を偵察に行った際に訪れた“ふれあいの森・森林館”の管理の人との話だった。改めて地図と睨めっこし、今回は、帰路を湯之谷林道へと採る事に決定。

  
 下木地から、湯之谷林道への分岐まで引き返す。再びの林道への入口は13時55分だった。林道の総延長は7.629kmとある、ここで小休止。軽四が上木地から降りて来たが、件の宮司さん御一行様だった。走り去る車内の姿に挨拶を交わしたのだった。そして、退屈な林道歩きである。林道の完成年度は不明だが、林道の銘板には≪昭和58年度≫とあったり、≪県民ふれあいの森林≫事業の案内には、H・15年度と付けられている。また、コンクリ柱と記念植樹はH・18年度や2006年度となっている。林道を歩き始めて直ぐに谷を渡ってから、右手の谷は遥か下を流れていたが、林道歩きに飽きた頃、沢音が聞こえて来た。コーヒーブレイクは10分ほどで再出発だ。

   
 15時10分、左手の沢の奥に小滝が見える場所、この脇に丁度林道の中間点である(登山口、駐車場ともに3.8km)との標識がある。この先から道は大きく方向を変えた。そして間もなく、軽四が降りて来た。下山時、出合った林業の作業の人達だ。車は次々に5台だった。少し先、左手の尾根沿いに道があり、作業道として使っているようで、これが先ほどの焚火の場所へと続いているのだろうか。右手には登山道らしき標識があり、楢原山まで1kmとの案内だ。暫くで林道の詰めに着き、小休止である。16時10分、龍岡木地へと下山する。

   
 既に暗くなり始めている。暗くなるまでに下山できるのか微妙な時間だった。未だ日没には時間がある筈だが、山間での日暮れは随分と早い。写真では暗く見えるが、未だヘッデンを出さなくても歩ける。人間の目の性能は大したものだ。

 

 随分と暗くなったが、川面は明るく光っている。辺りは暗くても、空が明るいからなんだろう。17時、相棒が登山口へ辿り着いた。もう日はとっぷりと暮れていた。


 結果的には、当初のバスで戻る案で決行したとしたら、鈍川温泉で二時間待ちとなり、乗り換えのバス停・散宿所前で一時間半待ちとなって、木地口に18時15分に着く。そこから出発点の登山口までは、二時間ほど歩かないと辿り着けない。つまり、今回の場合とでは5時間も遠回りとなるところだった。結局、今日のルートの9.4kmと林道からの帰路のみちの10kmを合わせて、19kmを歩いたこととなった。高度差、500mの上り下りを二度という事だろう。


≪案内標識など≫