四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root-15(北三方ヶ森へのみち)】

Part-2
2015年12月8日 ≪高縄寺〜北三方ヶ森〜水ヶ峠〜木地(10.5km)≫

          
 峠のみちにある、この杉は“胎児の木”とでも名付けよう。

  
 前回の環N本来のルートは、水ヶ峠から木地へと降り、環Oの楢原山へと向かうのであるが、出発点へ戻る為には手段も無く、止む無く米野町へと下山したのだった。そんな訳で、先日の続きと、次回のルートの偵察へと出掛けたのだった。
 このルートの最終で、次ルートの出発点の木地という地名は、近辺に何か所もある。旧玉川町(現在は今治市)には、龍岡木地(国道317号線沿いのバス停がある集落)と、楢原山を鈍川温泉側へ降りた地名が玉川町木地であり、林道の奥の登山口は上木地と呼ぶ、そこから鈍川温泉へと降りる(木地川の下流)と下木地がある。そして、こちらの木地(木地奥林道沿う)の場所は、前述の龍岡木地の集落より蒼社川の上流に位置するのである。

   
 13時過ぎ、賑々しく建てられている案内板の脇を上がると、道は谷を右へと渡った。敷き詰められた石には苔が付いているので雨の日などは『コケないように』歩かないと・・。直ぐに堰堤が現れた。その先で谷を渡ると小滝が現れる。

  
 道端に炭焼きの跡が現れた。木地師が活躍していた時代、未だ植林されていない時代に古道を利用していたのは集落に住む人だけでは無い。それは、ここが峠路であり、参拝道だからなのだろう。歩き始めて30分、ネットでも度々登場する杉が現れた。

  
 林道の起点からは40分ほどで、先日降りて来た水ヶ峠に着いた。峠の地蔵さんには、お賽銭が置かれていた。一円玉・五円玉・十円玉だけしか見えなかった。峠は風が吹き抜けていて、汗ばんだ体には長居は無用だ。下山に掛かる。

   
 何回の渡渉と何か所の堰堤があるか・・と、相棒と分担して数えながら降りることとした。小滝の辺りで単独の男性が上がって来た。足回りは地下足袋で、山仕事の人だろうか。14時8分、林道へ降りて来ると軽トラが停まっていた。尚、堰堤は5個造られており、渡渉は六回だった。


   
 峠から降りた後、楢原山への登り口の偵察に、徒歩で向かった。直ぐ先に短いトンネル(銘板が無い)があり地蔵さんが祭られていた。ここまでの林道脇にあった“木漏れ日の滝”の傍にある案内板に、≪地蔵型丁石≫との案内がある。そこには、“三十一丁”と読めるので3km余りである。つまり、奈良原神社までの距離であろう事は容易に推測出来る。

 トンネルの先には林業の作業場があり、傍には鳥居が建っていた。この鳥居の先に見える山が楢原山であろう。山へ登れない人は、ここから手を合わせるんだろう。そこから先へと行くと、何か大きな音が聞こえて来た。すぐ先、左手に案内標識があり谷を降りる道の先、蒼社川に架かる橋を渡って道が続いているようだった。
我々は、
1998年2月に訪れた記録がある。【参考までに、317号線の水ヶ峠トンネルは1997年に開通したのだが、トンネル掘削中の1994年の松山市周辺の干ばつの際、トンネル掘削で出た水の利用を問う報道も耳にしたのだった。】

 帰路、スコップを持ったオジサンが何か作業をしていた。ちょっと先に軽トラが停まっていて、オジサンに尋ねると「石が落ちとるから・・」と、林道の整備をしているようだった。相棒と“ちょっと荒れて、雨が降ると落石があるからなぁ〜”と、工事や作業などで汚れた道路などを綺麗に整備する人達と、空き缶やコンビニごみを公道脇に放棄する人達との違いはどこで起きるのだろうか。


≪案内標識など≫