四国のみちと遍路
                                                              
2015年10月3日【環17作礼山仙游寺へのみち(16,5km)〜環18へのみち(その1)】

≪下木地〜鈍川温泉休憩地〜奈良之木〜窓の峠〜仙游寺休憩地〜第58番仙游寺≫〜≪吉祥寺〜バス停≫



 今回もルートを歩いた後のアクセスの悪さに悪戦苦闘だった。計画段階では、実現可能だとは思えなかったが、兎に角、足を踏み出してみないと始まらない・・・。そんな“計画しても無いも同然”状態だったのだ。

          
 久々の“四国のみち”だ。今までの経験から、この“みち”歩きは山歩きとは違って道路歩きが主であり、遍路道を外れて山道に掛かると、その殆どが整備されていない事は自明である。

長距離自然歩道とは?≫
 四季を通じて手軽に、楽しく、安全に自らの足で歩くことを通じて、豊かな自然や歴史・文化とふれあい、心身ともにリフレッシュし、自然保護に対する理解を深めることを目的とした歩道です。環境省が計画し、国及び各都道府県で整備を進めています。 昭和45年(1970年)の東海自然歩道の整備に始まり、九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道がこれまでに整備され、現在、北海道自然歩道と東北太平洋岸自然歩道の整備が進められています。整備が完了すれば、全国の自然歩道の総延長は約27,000kmとなります。
 家族向けのコースから本格的な健脚コースまで、各地の見どころを楽しく歩けるようになっています。


 環境省によると前述のとおり唱っている事業(?)なのだが、旗揚げの45年前と様変わりしているのが“みち”が結び、人が住む行政区(市・町・村の地域)の荒廃だ。そして、“みち”の踏破に当たって、1990年にこの事業が始まって以降の顕著な様変わり振りを御覧じろ。
 環境省ルートの愛媛環17では、出発点は下木地となっている。しかし、ただの道路歩き区間の場合は、我々は駐車場所の関係から出発点と終了点については、行き当たりばったりにと決めている。しかし、未だ、我々の場合は自家用車を利用しているから融通は利く。これが、公共交通機関の利用だと全く不便だろう。

 
 9時43分、今日の出発は鈍川温泉休憩地とした。この辺りは観光地でもある。道路傍には≪今治越智地方ふれあいの森 滑川渓谷≫の案内板があり、渓谷沿いに遊歩道が設けられているようだが、整備が行き届いているかどうかは解らない。
 また、車をデポした場所には
≪注意≫
 このあたりで、車上あらしが頻発しています。車内に、貴重品を置かないようお願いします。
    玉川町 今治警察署

との看板が掲げられていた。

 
 滑川渓谷は、未だ紅葉は始まっていない。あまり通行量が多くない道路を歩き、間もなく鈍川温泉街へと入った。それぞれの宿泊所前の駐車場には、まずまずの数の車が泊まっていたので、宿泊客もまずまずいるものと思われる。

≪鈍川温泉≫
 この温泉は、奈良時代後期から湧出していたと伝えられ
ています。本格的に開発されたのは、今治藩主が湯治場を
建設したのが始まりで歴史的にも由緒ある温泉郷です。
 泉質は、フッ素および硫化水素を含む低張性アルカリ性
冷鉱泉で極めて肌ざわりがよく、神経痛、筋肉痛などに特効
があるといわれています。「山部ながらも鈍川名所道後
まがいのお湯が出る」とも俗謡にうたわれています。


 との案内がある鈍川温泉郷を10時10分に通過した。温泉郷を出て県道154号線を朝倉方面へと右折。玉川沿いのコンクリの道を緩やかに上っていく。

 
 川向うに小学校跡と案内されている建物が見える。鉄筋の大きな校舎と体育館それにプールも見えるが、その全てが使われていないのか?10時55分、道路標識の案内と手持ちの地図の表示が一致しないので、「猪のわらぐろ」の作業中の女性に尋ねると、目的の“奈良之木”は「ここを左折」が正しいとのことだ。小生の地図では直線のように見えていたので勘違いして見ていたようだった。ここから、県道163号線へ入る。

 
 作業中の像、こちらの藁の像の方が大きくて“本格的”で、右の写真の鈍川温泉にあるのは規模が小さい。県内でも、あちらこちらで同様の工作物が出来上がっている。そう云えば、何年前か徳島の田舎で民家の前や道端に飾られていた案山子(人形)が、現在、あちらこちらの田舎で流行っているのと同様だろう。


 
 11時8分、持参の案内地図にある≪奈良之木バス停≫の分岐に着いた。そう云えば、県道に入ってから何か所かバス停があったが、今もバスが通っているのか今一つハッキリしない。さて、ここで県道とは別れて、窓峠へと向かう道へ入る。すぐ先に左手へと案内があり、コスモスの咲く石垣のある家を過ぎると一台の軽四が停まり、助手席のご婦人に声を掛けられた。「お遍路さん、ご苦労さんです。これ“お接待”です」と、相棒に手渡せられたのだった。この道は本来、お遍路さんは通らない“四国のみち”の筈。遍路姿で歩く姿を見るのは稀なのに、ここは四国・・・と改めて再認識する。

  
 さて、窓峠らしい場所に着くが、案内標識の先は藪に覆われていた。ここを分け入る前に「昼にしようか」と、まだ11時半だが道端、曲がり角のところで・・昼休である。

   
 植林の中の道は陽が射さない。おまけに、小沢沿いに道を作っているようで、もう何年も除草作業もしていないようであり、雑草に覆われていた。おまけに、獣さえも通っていないようで、雑草は大威張りで生え放題である。歩くのはそれほど危なくはないのだが、公道を歩く先にこんな道を歩く事になると誰が予想出来ようか、しかし“四国のみち”を歩いてみようと思い立ったら、そんな場面は承知の助・・でないと駄目である。

 
 11時i50分にこの暗闇の小道に入ったが、12時8分には無事には出口の鎖を乗り越えて、光あふれるコンクリの道へと出られた。この道が先ほどの道に再び出合ったことは容易に推測出来る。

  
 直ぐに前方の視界が開けた。民家が現れあらぬ方向へと指導票が向いていると、つい、そちらの道へと導かれるが民家へと入っていくと「こりゃ、おかしい」と、引き返すのだ。12時39分、路が二手に別れていたが、指導票が設置されていない場合は、最近作られた道だと容易に察せられる。

  
 やがて前方に今治市内や来島海峡、瀬戸内の島々が眼下に広がってきた。12時59分、神社の傍にある集会所前で小休止だ。すぐ先に建つ半鐘は、もうその使命を終えている。半鐘と云えば、先日のNHK-BSの“火野正平の番組”の徳島編で、視聴者からの手紙で“火の見櫓”という表現をしていたので、地元の人にその存在を尋ねていた場面があった。勿論、、昭和の時代ではその呼び名は半鐘だった筈。そして、今日も朝から何個も見た半鐘には、もう鐘はぶら下がっていない。使命を終えた鐘の替わりにTVのアンテナなどが据え付けられていたりするのだった。

  
 再出発後、直ぐに“別所バス停”の場所に着いた。ここまで北へと道をとってきたが、ここから南へと引き返すこととなる。どうしてこういうルートを採用したのかは判らないが、今日の目的の場所・第58番の札所へ行く場合、第57番の手前で折り返すように設定されている。つまり、第57番へと寄らない理由については県の担当者に聞かないと判らないが・・・。兎に角、地図のルートを辿り、小高い山へと踏み出す。やがて、仙遊寺の休憩所に着く、それは広い道路の溜池の傍に建っていた。

   
 池の畔のソバナ・ワレモコウを撮ったりと、マイペースで歩く。道は徐々に登り勾配であるが、車が通る道は日陰も無く、鬱陶しい。そう云えば、未だ、例の“歩き遍路シール”に出合わないなぁ〜と、道路を歩いていると小道の分岐点でそのシールに出合った。

 
 13時51分、参道維持費として、通行料金(駐車場料金?)の立て札がありその先に山門が見えた。すると、大型バスが我々を追い抜いて行った。そうだ、今日は土曜日だったのだ。

 
 山門を潜ると、薄暗い木々のトンネルが続いていた。手摺が設けられた急こう配の道はやがて、石段の先に光が射していた。先ほどのバスでの参拝の人達だろう、大勢の読経の声が聞こえる。

 
 境内に上がると、傍らには“四国のみち”の案内図が掲げられていた。もう、随分、薄汚れて、判読が困難な箇所もあるが、案内図には4か所のバス停が書かれていた。つまり、≪第58番仙遊寺〜吉祥寺〜新田(バス停)〜松木(バス停)〜国分橋(国分休憩所・バス停)・・・≫との表示があった。今日の帰りの行程が決まっていなかった我々だが、この案内で決定である。

 仙遊寺からの帰路については、次ページに記す。バス停から愛車へと戻った後、このコースの始点の下木地から鈍川温泉休憩地まで歩いたのだった。途中、“ふれあいの森・森林館”へ寄り管理の人に楢原山の道のことなどを尋ね、情報を得たのだった。。



ちょっと 一息

作礼山仙遊寺(58番札所)
 この寺の本尊は、天智天皇の守護菩薩であった千手観音です。
 観音さまの像は、海から竜登川」を登ってきた女の竜が、一刀刻
むごとに三度礼拝して作り上げたといわれ、「竜女
一刀三礼の作」ともいわれています。また、阿防仙人
と称する僧が、ここで40年間仙人のような生活をした後、
雲のごとく姿を消してしまったといわれており、このことか
ら仙遊寺という寺号が付いたといわれています。


≪四国のみち案内標識など≫