四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root22・歴史の散歩みち〜root23水の都の緑のみち】

2015年11月28日
≪旧西条市・小松町境界〜第63番吉祥寺〜阿弥陀寺休憩地〜石鎚神社〜第64番前神寺〜西条休憩地〜伊曽の橋(メロディー橋)≫(7,8km)

 今日は石鎚神社へ寄り道をした。
 
 今回の計画は、root21の際に寄った“小松総合支社前の旧小松町のせとうち周桑バス回転場”の跡地(小生の記憶に依れば・・である)に出来たコンビニ裏の有料駐車場にデポし、帰路、せとうちバスを利用しての計画だった。

  
 8時24分、コンビニ裏の有料駐車場に置いて出発だ。しかし、いくらも行かないうちに相棒が『ちょっとお腹の調子が・・』というではありませんか。直ぐに思いついたのはこの先の札所だ。国道を横切りお寺に着くと、早くも団体の巡拝者がお参りしていた。相棒の用が終われば、我々もお参りをして(納経はパスした)出発しようとすると、若者が二人、納経所へ入って行った。次の団体バスが着いたのだった。今日は土曜日なのだ。

 
 道の角には遍路の手印や丁石が建っている。すぐ先のJRの小松駅には石鎚山の登山口の案内などがあるのだが、このJRの駅を石鎚登山の出発地点にしている登山客は皆無と云って良いだろう。駅前に定番のタクシーが見えないのは特急や急行が停まらないからなんだろう。

  
 今回の出発点へは8時56分に着いた。すぐ先が旧西条市・小松町境界だが、今は西条市に合併してしまった。
この道が旧の讃岐街道(こんぴら街道)だろう事は想像に難くないが、旧街道の脇に建つ家並みはそこかしこに旧家が残されている。しかし、歩き遍路のシールは見えない。この辺りは国道と並行して歩くので、大半の歩き遍路の人は、真っ直ぐで安全で直線的に目的地に着くまで歩ける国道(ぐにゃぐにゃ曲がり、寄り道が多いのは旧道)へと導かれている

  
 道は札所に向けて左折していたが、すぐ先で“番外霊場 水大師堂”への案内で左へと案内された。ここには歩き遍路のシールが貼られていた。9時15分、狭い路地の傍らには真新しい大師堂が建っていた。

西条市名水・名木50選
 芝井(しばい)の泉
 この湧水は、古くから洗い場として整備されています。
 野菜を洗ったり選択をしたり、また井戸端会議の場所にもなってきました。
 地域の人々は「水大師さん」「お加持水」「長寿水」など親しみを込めて呼んでいます。
 湧水場所の上には、大師堂が建立されていて、弘法大師(空海)が祭られています。

     平成三年三月選定      西条市

 と書かれている。一部、読み難い箇所もある。しかし、“野菜を洗ったり、洗濯をしたり、井戸端会議に集まっている姉さん被りの”おネェーさんの姿は見えなかった。

  
 この辺りには古い標石がここかしこに残されている。9時23分、第63番霊場・吉祥寺に着いた。ここでは団体さんには会わなかった。先ほどの第62番に続いて国道11号線を横切って向かい側に札所がある。国道を通すときに設計したお偉方は、さて、どんな考えがあったのでしょうねぇ〜。旧国鉄の路線が開通後に道路が造られたものと想像出来るが、車社会となった現在、昔の街道の事なんか見向きもされないのだ。

   
 再び国道を渡って、旧街道を目指すが中々目的の道は見つからないが、民家の裏を辿りながらやっと旧街道へと出る。標石に逆打ちの案内があったり、“左 西條道”と刻まれた標石などにもあった。10時、旧街道脇に“たごり地蔵”と記された建物がある。

 
 10時17分、阿弥陀寺休憩地に着き小休止である。楢木と云えば、もう、40年も前から国道11号線を走っているとバス停が目に付き、ここらあたりだと氷見の次に記憶に残る地名だった。その楢木地区の人々が阿弥陀堂と記念碑を建立していたのだった。

  
 10時38分、冒頭の仁王像(小天狗と大天狗)が建つ石鎚神社に立ち寄るのは、小生が闘病中にお参りに来ていた経緯もあり、退院後、まだお礼参りを済ませていなかった事情からだった。

  
 本堂へと向かうべき石段を上がって、社務殿前を通り掛かると相棒が“あっ、XXさん”と、呼び掛けたのは夏場には石鎚頂上社に上がっているAさんとBさんだったが、白装束に編み笠姿の相棒を認識できる筈もなかった。暫くぶりの、それも思いがけず石鎚神社での出合いだったのだ。相棒は小生の闘病の事などを話し、遍路姿の事を伝えたのだった。

  
 第64番霊場・前神寺には11時7分に着いた。大師堂には、団体さんが先達に従ってお経を読んでいた。我々も団体さんに続いて納経を終えた。

石鉄山「前神寺」(64番札所)
四国霊場64番札所石鉄山金色院(いしづちさんこんじきいん)前神寺は、桓武(かんむ)天皇の勅願(ちょくがん)により建立され、明治初期までは現在の石鎚神社の位置にありましたが、新政府の神仏分離政策により廃寺となりました、その後、明治11年現在地にかろうじて「前上寺」の名前で再興が許され、元の「前神寺」の呼称が許されたのは明治22年でした。ここは、石鉄山東の遥拝所で、石鎚派修験道の本山として全国に30万人を越す信徒を抱えています。


  
 車道と駐車場のある道とは違って、裏側に当たる路脇に参道の石標が建っていた。そこから伸びる小道の先に休憩所があった。11時42分、『西条休憩所』と呼ばれる東屋で昼食休憩である。相棒は、昨日から“日本二百名山一筆書き”で四国を歩いている田中陽希君が『東赤石山〜笹ヶ峰』の足跡を確認していた。昨日の皿ヶ嶺では、愛大小屋で“空振り(田中陽希君の日本二百名山一筆書きをご存じ無かったようだ)”に終わっていたのだが、マイブームは終わらないのだった。その陽希君は、昨日は“ゆるぎの森”辺りで泊まっていたようだ。そして、東赤石の登山道を登っていたが、昨日からの積雪はどうだったのだろうか・・など要らぬ心配などもしている。相棒は『陽希君なら、東赤石から笹ヶ峰は道に降りずに縦走するよネ』と云っていたが、笹ヶ嶺からはどう降りるのだろうか・・と宿泊先などの心配もしていたのだった。

 さて、そんな昼食時間も終え、我々は12時過ぎに出発だ。直ぐに湯の谷温泉への案内があったが、無視して先を目指す。

  
 みちは一旦国道へと近付いたが、田圃の中に新しい家なども造成されていたりする。そこかしこに歩き遍路のシールが貼られている。ビニールハウスの脇の道を通り、カーブミラーに我々を写し撮影していると軽トラが停まり、オバサンが“お接待です”と、荷台に積んでいるミカンを差し出したのでした。相棒は「どうも有難う御座います」と受け取ったのでした。すぐ先で、民家の庭に出ていたオジサンが我々を見付けて話し掛けて来たのだが、この先にあるガードレールに貼っている遍路の案内標の説明をしたかったようだった。ここには、伊曽乃神社への案内があったが、我々は、今日は寄らないので左折し伊曽の橋(メロディー橋)を目指した。12時37分だった。ルート22は、この先の“伊曽の橋”までだ。


【指導標や標識など】

   

   

   

   

  

   
※へんろみち保存協力会編による≪四国遍路ひとり歩き同行二人≫に記されたみちには“遍路シール”が貼られているのです。しかし、我々が辿っているみちは≪環境省≫が指定したみちであり、整備などしてくれる奇特な人などは居ません。その明暗については、地域の生活道路として使われているか否かに掛かっているようです。