四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛支4・四国カルストルート)】

2015年11月20日
≪小田深山荘〜古味〜大野ヶ原休憩地〜ブナ原生林(28.8km)≫

          

≪Part2≫
 『このルートは通しで歩けば28.8kmで、古味からは高度差750mの登りの道路歩きである。それに国道を含め、殆んど(大野ヶ原休憩地まで)が舗装道路を歩く事となる。そして、最終目的地には、公共交通機関やタクシー会社さえもが無いばかりか宿泊施設(旅館や民宿)までも無い。では、どうすれば実行出来るのか?それで思いついたのが、古味までの間をあらかじめ“やっつける”ことだった。』と、Part1でも述べたとおり、前回、10.1kmを稼いでいたので残りは15.1km+3.6kmだった。

 そんな事もあり捻り出した案は、一日目に古味からタクシーで支6の最終地点である国民宿舎天狗荘まで行き、逆方向へと歩き姫鶴荘で宿泊すれば、姫鶴平〜地芳峠〜大野ヶ原へと向かえば古味まで降りるのは可能じゃないか・・と。

 そして秋の長雨の合間の11月20日〜21日に決行すべく、あらかじめ18日に宿泊予定の姫鶴荘の下見も兼ねて出掛けたのだった。その下見により、当初から考えていた計画が実行可能となったのだ。それは、姫鶴荘のご主人の『もしもという時は、電話を掛けてくれれば迎えに行く』と、遅くなるようなら電話しろ・・・が、小生の背中を押してくれたのだった。下見の成果はそれだけに終わらなかったのだが、それらは後に触れることとしよう。

  
 先日の最終地点に愛車をデポし、出発は8時10分だ。今はこの辺りを地芳道路と呼ぶ国道440号線を行く、すぐ先に猪伏と高野へと標識があり、道が分かれているが、今日はそちらへは向かわない。横野トンネルは敢えて通らず、旧道を通ることとした。そこには“四国のみち”の標識が掲げられていたのだった。

   
 2005年3月に完成のトンネルだが、その先に続く道は高野川に橋脚を掛けた道が威張っている。旧道は既にその役目を終えているのだが、NHK・BSの番組に出ている火野正平さんは旧道を通ることになるのだろう。相棒に「こんな田舎の国道では狸が曳かれて無いなァ〜」との話題は、三坂峠に差し掛かった途端に、狸の死骸(交通事故死)を見たからであった。それも、古味までの間に三頭も犠牲になっていたのでこの話題となったのである。

 狸の事故と云えば、もう半年も前だっただろうか、国道11号線を走行中、桜三里のカーブで前を走っていた車が急に停まったので“何があったのだろうか”と、その地点まで来ると、ヨロヨロと狸が道路を横切るではありませんか。小生は当然、横切るのを暫く待ったのでした。その間、車が来なかったのでその場は無事通り過ぎたのでしたが、帰路、その場所には狸の死骸が横たわっていたのでした。小生が経験する事故は、猫の次に多いのが狸だ。人身事故には殆ど遭っていない。

  
 この先の地芳トンネルが開通後は、国道440号線はそちらへの道になった。今回はそちらへ取らず、右へと旧来の道を採ると、ここからは県道36号線へと名を変える。川成(こうなる)集落にこのルートの最後の自販機があるが黙って見送った。8時56分、中久保交差点で高野川を渡り左方向へと、地芳谷川沿いの道を旧440号を辿るのは地芳峠への道だ。

  
 我々はここは右へとヘアピンを行き、県道36号線を野村・大野ヶ原への道へと入る。車道は、大きく蛇行しているが、ここには以前、車道をショートカットする杣道があった。随分と近道の道だったが、10数年前に道路の岩石の崩落防止ネットで道の出口が塞がれてしまって、使用不能となってしまったのだったが、そんな道を利用していたのは“釣り人”だけだったのかもしれない。この道沿いの最後の集落の中久保へは未だ右へと入り上がらないと駄目なのだ。

  
 9時39分、工事場所に着いた。ここの通行可能時間は毎時00分から10分だが、これは車両の通行可能時間を示していて、徒歩での通行は制限していないのだ。工事の監督(?)らしき人が我々が近付くのをいち早く認めて作業の人に指示をした。我々は急ぎ足で工事個所を通り抜けるのだ。工事の人は皆、礼儀正しく我々を見送ってくれる。村人が“怪訝な顔”で見送るのとは対応が違うのである。やがて側壁のコンクリが苔に覆われた道に出合った。5年ほど前、大阪の友人を四国カルストへとお誘いした折、えらく歓心された風景だ。闘病中だったその友人は、一年もしない内に亡くなったので、今は想い出深いエピソードだ。

  
 10時14分、小休止。丁度、県道に入って初めての車が通り過ぎた。すぐ先に“西予市”の表示が出た。県道に入ってからはず〜っと高野川の左岸を通ってきたのだが、すぐ先に右岸へと道は変わる。

  
 10時34分、“おおのがはらばし”と名付けられた橋を渡り右岸の道を辿るのだが、この辺り、石灰岩の白い石が目に付くようになる。この辺りへは数度、相棒の撮影に来た事がある。川を越えた向こう側に葉が落ちた枝越に丸石山へと続くピークが垣間見える。

  
 道は、今までのダラダラ坂とは違って、ヘアピンを繰り返し、高度を上げている。山登りに使う道と違って、車道は10%を越える坂は稀だ。(以下は参考)
 
≪道路構造令に規定する道路(普通道路と小型道路)の最大縦断勾配は道路区分(第1種〜第4種)により規定されている。縦断勾配とは進行方向の勾配。道路最大勾配は普通道路にあっては9%そして小型道路にあっては12%となっている。道路の設計速度によっても変り、例えば、第3種小型道路で設計速度が60km/hの道路の最大勾配は8%。≫
 我々が山登りの際に良く利用する山道では、勾配の規定など無い。そして、農道や林道も同様に上掲の枠には入っていないのである。

  
 11時19分、広々と開けた地は開墾地である。ここは寺山という集落だ。

 
 碁石ヶ森、源氏ヶ駄馬、姫草の山々に囲まれた寺山集落には、以下の案内板が建っていた。もう季節は冬へと向かっている。酪農農家の人々は冬へと向かって、準備が忙しい時期でもある。
  
≪大野ヶ原の開拓≫
 源平時代の落人伝説や木地師(木工職人)の存在から、大野ヶ原は昔から
合戦や植林が行われていたと考えられます。明治時代に陸軍の演習場にな
り、第2次世界大戦中は、軍馬の放牧場になっていましたが、昭和25年か
ら正式に開拓地として入植が始まり、現在の集落の礎となりました。平均
高度が1,150mもあり、年平均の気温は8,9℃と冷涼な気候であるため、
農作物の栽培が難しく、当時の人々は苦労をしました、その後、酪農を中心
に開拓され、現在では、なだらかな兵陵地と豊富な草を利用して、牛乳の生
産地として有名です。     H22愛媛県


 集落の中の道を歩くと、11時46分、ず〜っと向こうに明日歩く予定である、四国カルストの五段城の山並みが望まれた。峠のような場所には民宿の案内があり、看板が建つ脇の建物は今は住む人は居ない。こちらの集落は小松と呼ぶ。

  
 今日は歩く予定は無い“ブナ原生林”への標識はパスする。11時52分、大野ヶ原休憩所の東屋に着いた。予定したより早く3時間40分ほどで着いた。ここで昼食休憩とした。足の疲れはピークとなっていたが、ここからの続きのルート(地芳峠への)は登りはそんなにはきつくは無い筈だ。


 四国カルストルート【支4】では、大野ヶ原休憩地からはブナ原生林へと辿ることとなるのだが、往復7、8qを歩くとなると今日の宿泊予約地の姫鶴荘へは、明るいうちには辿り付けそうも無い。返す返すも、ここ大野ヶ原での宿泊場所が無いのが残念だ。



【四国のみち案内標識など】

   

   

   

 



≪Part3 ブナ原生林を行く≫はこちらから→ 2015年12月28日