≪四国のみち≫ 【愛媛支1・四国カルストルート】
2015年10月26日
≪河合〜河合休憩地〜河口〜上黒岩遺跡休憩地〜御三戸嶽〜惣津山≫
今日のルートは、遍路道からは離れて行くルートで、松山市内から今治へと向けたルートと同様の“山岳ルート”となっている。また、このルートは最終的には高知県から愛媛県へと続く標高1,500mを越える山岳のルートへと続くのである。
久万高原町の下畑の川の交差点で県道153号線へと右折し、河合休憩地の傍の空き地を探した。農作業の人に空地への駐車をお願いしようと声を掛けると、“四国のみち”指導標が建つお家を紹介して頂いた。家人に声を掛け、事情を話すと『納屋の横へ置くと良い』との親切な対応にお礼を述べ、10時に出発である。
さて、当初は帰路の行程として・・“伊予鉄南予バス”の久万営業所まで戻り、乗り換えて“河合バス停”へと戻ってくる・・との計画を思い描いていたのだが、どうもバスの通るルートが違っていたようなので、変更することとした。しかし、その事がとんでもない結末を迎える事については後述する。
歩き出すと、直ぐに林の中の道に入った。すぐ先にリュックを背負った人が見え、挨拶を交わすと、道路の路肩を調査しているグループだった。この県道は有枝川沿いに“河口”まで山間の集落を縫って続く道だ。直ぐに前方が開け、集落が現れた。畑の電気柵には『電気が流れています。ふれないで下さい』と、感電注意の標識が建っている。
丁度、畑で作業していたご婦人たちに相棒が挨拶をする。傍らのバス停に書いているバス便のことなども話し、“四国のみち”の事を言うと『そこを入って行ったら良い』と、脇へと入る道の案内で『中野村は、草刈りをしとろうか?』と、暗に自分たちの地域は整備が行き届いている・・との話だったが、すぐ先の県道から離れて林の中に続く薄暗い道は、綺麗に整備されていた。
右手の渓流沿いには光が射して煌めく紅葉が垣間見える。そして対岸には、所々、県道153号線のガードレールも垣間見える。人の手で造られた人工堰から右岸に水路が引かれているのだが、すぐ先で、鉄の橋の下を鉄管に導かれて、水路は我々が歩いている左岸へと渡っていた。
10時44分、道と水路が離れ始めると、前方に田圃が現れた。もう稲刈りが終わった田圃だが、目に見える田圃の多くは現役のようで、頼もしい。
再び集落が現れる、ここが“中野村”と呼ばれる集落だろう。断じて、村の名ではありません。××市××町とあるのと同様の久万高原町にある中野村なのである。ここからは、県道209号線へと名を変えた。この事も、何かを暗示していたのだが、小生には解りようが無い。歩き始めて直ぐに見つけた、道路の真ん中に書かれた白線の矢印の意味も不思議に思っていたが、その訳は知る由も無い。
道端の“道祖神”を見送り、淡々と歩を進める。11時9分、歩き遍路の案内と岩屋寺への標識がある。ここが過日通った遍路道の“八丁坂”(ルート10)へと合流する槇谷の遍路道で、ガードレールに『この先、岩屋寺へは車では行けません(徒歩のみ)』の石丸建設の立て看板が建てられて『道路等分からない事があれば近くの従業員にお尋ね下さい。』とも添えられている。何故、建設会社がそんな案内をするのか・・・行政なら未だしも、また一つ疑問点が見付かった。また、四国のみちの標識は数百b毎に建てられていた。先日辿った、今治市内とは随分と扱いが違っている。
橋は道路を真っ直ぐに架け替えられるよう、工事がなされていた。現在の橋桁はアーチ状の恰好の良い橋なのだが・・。そしてすぐ先の路脇に“旧土佐道”の立て札がある。久万高原町は、いろんな団体が旧道の整備をしているようだ。
狭い道をダンプカーが行き来している。道端のススキ越しに狼ヶ城山から大川嶺だろう峰が垣間見える。また古ぼけた鳥居の奥に“天然記念物”らしき案内がある標識が、鬱蒼とした雑木に埋もれてしまっていた。
道端に、≪美川村自然環境保全指定地区(指定物件) 椋 円周 680cm≫との案内がある。普通は“幹回り”と案内されているが、微笑ましい表記である。暫く歩いていると昼のチャイムが鳴り始めたが、適当な休憩場所が見当たらないので尚も道路を行く。
道端の民家の前、犬小屋かと見ると“うり坊”が少し成長した子猪が檻の中で尻尾を振っていた。すぐ先が国道33号線で“河口バス停”に出合う。先ほどまでとは違って、交通量の多い国道を南へと歩く。そして、有枝川が合流した右の川は久万川である。この辺りは歩道が無いので、ビュンビュンと走る車に気を遣いながら歩く。12時半、上黒岩遺跡への案内があり、橋を渡る。
上黒岩遺跡の休憩所には東屋が建っていた。考古館は今日・月曜日が休館日だった。隣の山中家住宅も閉まっている。軽四に乗ったオバサンが近付いて来て「今日は休館日ですが、どちらから〜」に「松山の方から・・」と応えると「またお出で下さい」と云い走り去った。昼食を終えトイレを借りて、出発は13時だった。
国道沿いの“アユのオトリ”を売っていた小屋も、知る限り、もう十年以上は使われなくなったようだ。すぐ先の道の駅も今日が定休日だった。週休日のある道の駅は全国的には珍しいのでは無いだろうか。“四国のみち”の案内はこの先の美川支所へと指しているが、我々はパンフレットが示すとおりに先へと目指す。御三戸嶽が見える美川大橋は13時39分に通過。ここで、久万川と面河川は合流していて、この先、名を仁淀川へと変える。
橋を渡ると、国道33号線から離れて13時43分県道328号線へと入り、今は閉鎖された≪美川スキー場≫へと向かう。工事中の箇所をショートカットして、合流すると道端にタカサゴユリが咲いていた。
先ほどの河口から御三戸間のバス停には、伊予鉄とJRの二社の停留所が隣り合っている。国道33号線ではバス便は競合しているが、今の時間、JRの方が便利である。そのJRバスの時刻表では、次は15時22分だった。ということは、一時間40分の間に往復する必要があるので、目的地に着かなくても14時半には引き返す必要があった。道は今までとは違って、上り勾配の道である。最初の集落、民家の前ではご婦人が何種類かの“豆類”を干していた。
14時17分、四国のみちの案内標がある場所で今日は終了とした。案内標識の向こう側には中津明神山が聳えている。さて、道端の広くなった場所でコーヒータイムである。予定のとおり、14時半、来た道を引き返す。さすがに帰路、下りなので足は進む。
15時過ぎには、バス停に着いた。バスはほぼ定刻に来た。さて、少しばかりの不安を持ちながらも、バスのルートがはっきりとしない。ひょっとしたら久万営業所から国道33号線経由で河口廻りなのかも分からないが、まずは、往きに確認出来なかった河口で下車して、帰るみちみちバス停を探すこととする。
15時半、バスを降り歩き始めるが、やはりバス停らしきものは見えない。すぐ先で、道端の民家の庭先でオジサンにバス停の件を問うと「この道はバス便は無い。どちらまで行くのか」というので「河合まで帰るのだが、バス停があったのでここを通っていると思っていた」旨を話すと「その便は、野尻から入る便じゃろう」と云う。もう、出来るだけ歩いて戻るしか術はなくなった。16時、道の真ん中にUターンの印がある。山間の秋の陽はつるべ落としである。勿論、行き交う車も疎らだ。中野村の集落の端っこでオジサンにバス停の場所を教わる。16時半を過ぎていた。
朝方は通らなかった集落の中、近道を教えてもらって集会所を目指す。こういう集落ではバス停の場所は限られる。集会所の端っこを指し、相棒が「そこにバス停があるヨ」と・・16時39分だった。バス便は午後のみ3便。そして、16時21分は既に行った後だった。また、18時16分が最終だった。ここで、道路の白線に≪10K≫と≪ハーフ≫の文字を確認・・・マラソン大会用の表示だと分かった。(帰宅後、ネットで確認すると、10月25日に開催されていたのだった)
バス停で小休止。重い足を引きずりながら再出発だ。朝は辿らなかった県道の道を行く。今朝、県道から別れた道を過ぎると17時のサイレンが鳴り犬がサイレンに合わせて歌っているように鳴いている。民家から「今帰ってきたの」と、朝方、相棒が話したオバサンの一人が家から出てきた。16時のバスに乗ってなかったので・・・、と心配してくれていたようだ。「大根をもって帰らんか?」と、缶コーヒとのど飴を手渡されて、向かいの畑から大根を一本抜いてくれた。先日の今治でのお接待と云い、田舎の人の親切には頭が下がる。
暫く歩くと、朝の測量の人達に出合った。もう仕事を終える時間だった。そして、河合の愛車の駐車場所に帰り着いたのは17時23分だった。相棒が持ち主にお礼を述べ、帰路は上林峠を経由することとした。
結局、今日はその行程の大半を歩く事となってしまった。距離にして大凡≪(16.6km×2)−3.9km≫なので、29.3kmを歩いたこととなる。NHK-BSの自転車で各地を回るシリーズは、一日の自転車走行距離が15km程度なので、それに比べると凄い距離を歩いたこととなるが、こんな例えは相応しくはないのだろう。『それじゃ〜、NHK-BSの百名山一筆書きの番組はどうなんじゃ〜』とか言われると困まっちゃうし〜。一日で歩く距離は、全く比較にならないのである。
さて、冒頭にも記したバスの便であるが、久万高原町の町内を走るバスは伊予鉄道南予バスだが、国道33号線沿いのバス停間に限ると、JR四国バスの便数が多い。そして、今日の出発の地『河合』には、違ったルートで『河合バス停』と『下河合バス停』があるという事。小生のような道歩きをする場合、非常に計画が立て難いのである。そして、とあるブログで小生とは取り巻く状況は違えど、同様の悩みを発している“歩き遍路”の人がいる。
【費用】JR四国バス(御三戸〜河口)・・・・・一人 ¥270
上黒岩遺跡は“岩陰遺跡”とも呼ばれる。遺跡は1層から14層の及んで、縄文草創期(1万4,500万年前)から縄文後・晩期(4,500年〜2,500年前)・古墳時代の遺跡で、1961年から1970年までの間、発掘作業が行われたとの事だ。
発掘されたものの中に人骨や土器に混じって、多くの動物の骨も混じっていたそうで、現在は絶えてしまった“カワウソ”や“ヤマイヌ”などもある。そして、この辺りの山間では見られなくなった“ツキノワグマ”や“カモシカ”なども発掘されていた。
また、遺跡の直ぐ隣には≪山中家住宅≫がある。昭和45年に『岩陰 文化の里』の指定を受けて、“旧別子山村”から譲り受けて移築した家屋である。
【四国のみち案内標識など】
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