四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root18国分・唐子浜をいくみち〜愛媛root19・さざなみ探勝路】

2015年10月15日
≪第58番仙遊寺〜吉祥寺〜国分休憩地〜第59番国分寺〜脇屋義助公の墓〜唐子浜≫(Part-2)

≪唐子浜〜志島ヶ原(桜井休憩地)〜石風呂休憩地〜休暇村瀬戸内東予〜湿地植物群生地〜医王池休憩地≫


          

 先日、バス停までの歩きで地元の人の親切に助けられた形で終わった“みち歩き”であったので、今回は公共交通機関を利用しての踏破を・・と、まずはJR富田駅を目指した。

  
 JR富田駅に着いたのは9時半だった。駅前の広場の一角に『きっぷ売り場』の建物があり、老齢の婦人が座っていた。『区切り遍路をしているのですが、広場に車を置かせて貰えますか』とのお願いも、“区切り遍路”が旨く伝わらない。小生の言い方がまずかったのか、“繋ぎ遍路”と云えば良かったのかなぁ〜。さて何とか、広場の片隅に駐車を許されて(?)、準備を整え出発。すぐ前に県道156号沿いの瀬戸内バスのバス停“富田駅前”を確認して歩き出したのだった。

 
 小生の手持ちの地図を辿って、先日の四国のみちへと合流するのは難しい。山道の一本道とは違って、田園が広がる田舎の道は縦横に同じような道がある。歩き出して、すぐ先で道端に青サギの姿を見かける。しかし、9時45分、“四国のみち”の手書きの標識に出合う。歩き遍路の標識と四国のみちとのルートが違っているが、もう、我々はこのような事には慣れているのだった。

  
 田圃の中を通るみちに歩き遍路の標識がある。ここでデジカメを出していると、通りかかった軽四の人に詳しい道順を教えられる。頓田川の『土手沿いの道を県道156号線へと向かい橋を渡る』らしい。我々は、今日は未だコンビニには寄っていないので、そろそろコンビニを見つけないといけない。10時5分、県道沿いの“そごうマート”は見送って川を渡り、すぐ先のコンビニで用を足し、昼食と間食を調達して出発だ。

  
 小生の地図(四国のみちサイトからのダウンロード版)によると、この先、県道から外れて、複雑に国分寺へと辿ることになるらしい。が、その分岐の案内が見当たらない。どうも、県道の拡幅工事がなされて以降、標識が無くなっているようだ。適当に道を辿り、遍路標識に出合うと傍の家の方が『その道を真っ直ぐに行く・・』よう言われた。勿論、田舎の人が言う“真っ直ぐ”は、その道が曲がりくねった道であっても道なりに“真っ直ぐ”行くのである。決して、道を無視して真っ直ぐ行って、田圃の中を通る事だけは避けなければならない。

  
 10時36分、国分寺の裏へとたどり着いた道をぐるっと回り、再び、県道に合流し、広い有料駐車場を見送ると境内に続く石段に出合った。今日は、札所は一か所のみだが、白衣と杖、笠を被って歩いてきた。境内のベンチで一休みしてからのお参りは、丁度、先達の坊さんに導かれた10名余りの団体さんと一緒となった。大分、要領を心得てきた我々も、20分ほどで納経も終え、唐子浜へと向かった。

  
 11時14分、第60番・横峰寺への手印に従って歩くが、直ぐに県道へと出てしまった。またしても道を見失ってしまったのだ。帰宅後、ネット検索で判明したのは、この手印の後、歩き遍路の道順は県道を辿るように案内されているが、四国のみちは、県道には出ないで造成地の団地がある唐子台へと向かうのであった。


ちょっと 一息
 国分寺の[解説版]がどれなのかがはっきりしない。納経所の若い坊さんに尋ねると、寺の石段の下に役所が建てた物があります・・と言う。しかし、解説の文字は消えていて判別出来ない。以下は、国分寺さんのサイトよりの引用とした。

≪国分寺の歴史・由来≫

 伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
 国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(??862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。

 その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
 幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。
四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。



【四国のみち案内標識など】

   

   


 さて、11時37分、今治街道(県道38号線)へと出ても目的の唐子浜バス停が無い。結局、次ルートの最初の目的地へと無事に辿り着けるかは、次頁

環19さざなみ探勝路へは・・