四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち≫ 【愛媛root18国分・唐子浜をいくみち〜愛媛root19・さざなみ探勝路】

2015年10月15日
≪第58番仙遊寺〜吉祥寺〜国分休憩地〜第59番国分寺〜脇屋義助公の墓〜唐子浜≫(Part-2)

≪唐子浜〜志島ヶ原(桜井休憩地)〜石風呂休憩地〜休暇村瀬戸内東予〜湿地植物群生地〜医王池休憩地≫

          
 さて、唐子浜バス停に出合えないまま、今治街道(県道38号線)を南下する。

  
 今日はよく案内標識を見逃してしまう日である。こういう街中のみちを辿る場合は、もっと大きな(縮尺の)地図が必要だと改めて気付いた。しかし、今日の目的地は観光地だ。つまり結論から言うと、大きな道路には案内の標識があったのだ。結局、目的の網敷天満神社を無事に発見することが出来、志島ヶ原の案内板には11時57分に出合った。

  
 そして、桜井休憩地はすぐ先の筈・・と、先を急いだ。神社の広い境内には以下の看板が建てられていた。そして、『お台場』の案内もある。瀬戸内海にもペルーが来たのだろうか。それにしても、当時の黒船襲来のインパクトがどれほどのものだったか推し量れる。


国指定 名勝 志島ヶ原
 「こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
藤原氏が全盛をきわめ 平安文化が最盛に達したころ 右大臣菅原
道真は天皇の信頼をうけながら 藤原氏の告げ口によって 遠い九
州の大宰府に流されることとなった。都を出発して桜井の沖にさし
かかった時 浜がにわかに荒れてやっと志島ヶ原にたどり着いた。
里人たちは菅公の身に何事もなかったのをよろこび船の舳網を巻い
て敷物にしてお迎えしたので網敷天満神社の名がつけられたとい
われている。

 境内の広さは約11万平方メートル約3千本の黒松の巨木と白砂
青松の景勝地である。海岸近くには管公ゆかりの衣干岩や筆塚・記
念碑などがある。海岸側には幕末の黒船に備えた台場跡があり安
政二年乙卯六月成の碑が残っている。また桜井名物として名高い
エビ・カニの料理がある。近年梅林などが育てられ環境が整備され
て夏の海水浴の客も多く、前に燧灘 後ろに世田山など史跡を控えて
四季折々の眺めはまた格別である。
   昭和16年2月21日 文部省指定     志島ヶ原振興会


 
 12時12分、衣干岩の案内がある場所に着いた。しかし、休憩地にあるはずの東屋が見当たらない。結局、我々が辿っている“四国のみち”の地図には休憩地と休憩所が分けられて記されている。しかし、休憩地と記された場所にもその大半に東屋が設置されていたので、ここにも東屋が建っているものと思い込んでいた。


衣干岩
 菅原道真公が九州大宰府に配流される途中
桜井の沖で嵐にあい、やっとこの志島の浦に
たどりついた。嵐にゆられながら早くこの島
に漕ぎ寄せ、安全に上陸したいと願ったとい
うことから「志島」の名が起こったと伝えら
れている。上陸の途中濡れた管公の衣をこの
岩にかけて干したことから「衣干岩」と呼ば
れるようになったといわれ、このあたりは海
水浴や魚釣りで名高い所であった。


 
 12時40分、ボートなどが繋がれている入り江を廻る道を、向こう岸まで渡れる橋まで暫く遡り辿る。ふと、岸際を覗きこむと、チヌが深みへ隠れた。そして、岸べりから覗き込む毎にチヌの魚影が走る。中には“年なし”とも思われる大きな影も深みへと消えていった。
 
  
 暫く行くと、ず〜っと向こうの方に見えるのが、次の目的地の“虎ヶ鼻”だろうことは安易に察せられる。途中、市営桜井スポーツランドや桜井海浜ふれあい広場、桜井総合公園などの公共の施設を通る。しかし、道端にある料理屋(魚料理が売りか?)やホテルなどはもう何年も利用していない風だ。13時34分、虎ヶ鼻海岸公園に着いた。ここでコーヒータイムである。


 
 小休止の後、13時50分、観光コスモス園らしき場所を通過した。『東日本大震災支援』と謳った募金なども行っているようだった。その先で『車両を乗り入れることはできません』の通行止めの表示があった。我々は歩いて行くので、そんな立て札は無視出来る。

 さて、ここまで“さざなみ探勝路”と名付けられた道には相応しくない風景に出くわすのだった。確かに名勝地を辿ることには違いないのだが、この舗装道路歩きと埋立造成地が続く風景はどうなんだろうか?これらの事と関連する事柄を後述することとする。

 
 石風呂は休業しているようだった。以前、TVのニュースなどで眼にし、耳にはしていて、その名称だけは記憶にあったのだが、初めて訪れる場所だった。しかし、企業誘致の為の開発の手が入った工業団地と美しい砂浜が失われた自然。そして、地元住民が潤うことなく余暇を楽しめなくなって、人が去ってしまった景勝地との対比は寂しい限りである。

 
 石風呂の端の砂浜で、自転車を押した二人連れの高校生に出合った。「砂浜を行くと休暇村に行けるか?」との問いかけに「はい、その先です」との応えで、14時、休暇村瀬戸内東予に着く。休憩所やトイレ、テントサイトなどが設けられている。我々は案内板に記されている遊歩道を辿る。

   
 14時6分遊歩道を辿り、間もなく舗装道路へと出たが、またしてもすぐ先の遊歩道へと入る。

  
 14時27分、小山の上に作られた展望台に着いた。平成7年度の環境省の整備事業の掲示がある。20年前の事業らしいが、遊歩道も休憩舎も綺麗に整備されている。このあたりの遊歩道は、休暇村を利用している人たちが訪れているようだった。この展望台の裏手には“三角点”の案内があった。

 
 さて、展望台を後にして降りることとなると、瀬戸内海の反対側の展望が開けた。眼前に山並みが見え、地図で確認すると、どうも世田山らしい山並みが眼前である。旧朝倉村の由緒ある“お山”だ。暫くの下りで、14時41分、舗装道路へと降り立った。ここからは、国道196号線へと淡々と歩くのみだ。

  
 14時52分、国道に出た。道路端の大規模レストランは売りに出されていて、勿論、休業中である。兎に角、我々が真っ先にすることは、向かいのバス停(今治方面行)にある時刻表の確認である。

  
 時刻表は、昼間は、毎時17分と記されていた。今日のルートの湿地植物群生地から医王池休憩地を巡って、バスの到着を待つこととした。しかし、このバスがどのルートを辿り、最終の今治方面へと行くのかが判らない。取り敢えず運転手に確認するしか手は無い。バスは5分ほど遅れてやってきた。運転手に行先の「JR富田駅前の最寄りのバス停は?」と聞くが「そちらへは寄りません」と言う。「それでは今治駅まで行って引き返すようにします」と応えたが、暫く行くと、196号バイパスから県道38号線へと入ったのだ。次の停留所が東桜井と出たので、急いで運転手に「次、降ります」と伝え、相棒に降車ボタンを押すように促した。

  
 兎に角、JR富田駅へ戻るのだから、JRに乗るのがベストチョイスなのである。しかし、相棒には桜井駅が何処なのか、どうすれば出発点に辿り着けるのかは皆目解っていない。バス停からは少々の歩きで桜井の駅前に着いた。そして、駅前の切符売り場で切符を入手し、次の便の時刻を確認すると・・・10分余りの待ちで、15時55分発だった。全く、旨く出来ていた。相棒は「次の電車は1番乗り場になっとる」と時刻表を見て云うが、今治方面へは同じ時刻で2番ホームとなっていた。1番ホームは西条行の電車だった。相棒は、どちら方面へ乗ると帰れるかが判っていなかったので、発車時刻の確認だけで行先の確認をしていなかったのだ。兎に角、無事に電車の人となって降りる際にも「降車ボタンを押さないかんの・・」と言うではありませんか。車掌のアナウンスの「お降りの際には、ドアの開くボタンを押して・・」を、聞き間違えていたのだった。電車の“降車ボタン”なんか、未だかつて聞いたことが無い。

          
 こうして、我々の珍道中は無事に終わりを迎えたのだった。上の写真が朝一番のきっぷ発売所である。


【費用】瀬戸内バス(休暇村入口〜東桜井)・・一人 ¥240、JR四国(桜井〜富田)・・一人 ¥210


ちょっと 一息

織田ケ浜の住民運動

 一昔前、“開発か保全か”という問題で住民運動が起こり、訴訟で争われた場所が、瀬戸内に広がる美しい砂浜の広がる織田ケ浜であり、今日の探勝路の一角でもある。

 この織田ケ浜住民運動というのは、1983年(昭和58)から今治市で埋め立て反対の住民運動が起こって織田ケ浜埋め立て訴訟に至り、1995年(平成7)7月17日に最高裁の上告棄却によって結審し、住民側の敗訴が確定したのだった。

 埋め立てられた場所は、現在の富田埠頭である。

 以下は、そのたたかいの中、作られた歌だそうである。


 織田が浜のうた

   作詞  山本五郎     作曲  大西進

                   

   夜の浜辺で 語りあかした 思い出はいつも

   遠い昔の   松風の音      やさしい波よ

   ああ 織田が浜 白い砂浜よ

   ああ 織田が浜 かもめとぶ海よ

                               

   瀬戸の浜辺で 耳をすますと きしゃごのうたが

   母といっしょに 波といっしょに 遊んだ浜よ

   ああ 織田が浜 白い砂浜よ

   ああ 織田が浜 いまも生きている

   ああ 織田が浜 いついつまでも



【四国のみち案内標識など】