四国のみちと遍路
                                                              
2015年6月29日【愛媛環8(八日市歴史のみち)】

≪黒内坊〜内子運動公園〜八日市町並〜水戸森峠休憩地〜富浦≫


 今回の四国の路は、内子の町並みを通り、水戸森峠(みともりとう)を越える旧遍路道だが、後述するように道は消えていたのだった。詳細は以下・・・。

          
 上掲の大師堂は、富浦集落にある
石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)である。

 
 コンビニで買ったアイスキャンディーを食べ、黒内坊の標識を通過したのは12時45分だった。コンクリートの道は『この先、軽車両以外通行できません』の立て看板があり、民家の先で未舗装となった。

 
 すぐ先で道は猪のブルトーザーで掘り返されていて、ドロンコだ。すぐ先に座れる場所を見付け、ヤマサキストアで購入した昼食を食べる。食事中に相棒が「虫に刺された」と、ズボンの上から蚊に刺されたようだった。小生は美味しくないのか?虫にも無視される。デング熱が怖い季節になったが、さて今年はどうなんだろうか?今年はエボラ出血熱が騒がれていたりMERSが話題になったりと、新種の伝染病が大流行なんだ。

  
 13時20分、舗装道路に出合った。10分ほど歩くと運動公園に到着した。遊歩道との案内がある道端には、擬木の柵などが倒れていて道の整備も出来ていない様子だ。そして、誰一人、利用者の居ない運動公園だった。その一角に以下の標識が建っていた。

≪旧街道からの眺め≫

ここから東に広がる家々は、内子の集落発祥の地
「廿日市」の町並みでこの場所は大洲からその集落
に向かう旧街道の入口でした。
右手には、遊行上人を祭った願成寺があり、真下に
見える駄馬池のかたわらには、弘法大師にゆかりの
ある思案の堂が、その歴史を今に伝えています。
運動公園内には各種スポーツ施設のほか、遊歩道や
展望台、休憩所等があり、また桜が千本植栽されて
おり、総合的な憩いの場として親しまれています。



  
 池には白鳥が飼われていた。そして、お地蔵さんの向こう側には、JR内子駅が眼下である。また、文末に引用しているとおり、道端に思案堂が建っている。

   
 JRの高架下を13時44分に通過。町並みは廿日市〜六日市〜八日市と辿る。街中では案内標識どおりに歩かないと迷ってしまう。直ぐに“内子座”の案内があった。色鮮やかな幟が建っている。そして13時52分、街中にある休憩所で一休みとする。傍らの案内板には以下が書かれていた。また傍らの花壇は自治会のオバサン達が整備・管理しているようだ。

≪六日市の町並み≫

この付近は江戸時代にひらかれた商店街で、かつては「六日市村」
あるいは「内の子村」とよばれました。小田川流域で生産される
大洲和紙の集散地として問屋が並び、店舗が軒を連ね、特に木蝋
で栄えた明治時代は、県下で有数の町に発展しました。近くには、
大正5年に建てられた歌舞伎劇場「内子座」や禅昌寺、八幡神社が
あり昔をしのばせる町並みが今なお残って
おり、八日市、護国とともに内子の
歴史をとどめるものとして
大切に保存されています。



  
 14時7分、再出発である。町中を歩く事暫らく、伊予銀行の手前で左折すると、14時19分、八日市町並みへと続く。小奇麗に改装されている民家には様々な種類の店が並んでいる。

  
 14時21分、木蝋資料館に着いた。ここは上芳賀邸で重要文化財上芳賀住宅だが、以前、義兄と来た折に立ち寄ったのだが、今日は門前での記念写真のみである。この邸の向かいは内子中学校だ。14時29分、すぐ先の二股は右へと手印の遍路標識があった。

  
 民家の前に『こて絵とは左官の妙技 左官のこてで絵を画く』との案内がある。時間が許せば覗いてみたい欲求が湧く。さて、道はここまで上り坂が続いていたが、下の国道が見下ろせる場所からは下り坂となった。14時34分、ここが福岡大師堂か?

  
 国道56号線へ出合ったのは14時40分だった。ここには歩行者用押しボタンがあった。国道を横切って、中山川に架かる橋を渡り集落へと入ると突き当たりに案内標識があった。相棒は、集落の外の道だ・・と言うが、小生は集落の中を通る道だ・・と、判断は食い違った。ここでは、小生の言い分を通し、すぐ先にあった標識に安心したのだった。道は直ぐに急坂となったが、水戸森ハイツの脇を縫っていた。

  
 14時51分に高速道路の取り付き道路と出合い、すぐ先で松山自動車道を潜る。直ぐに山道へと入ると『右 遍路道』の手印の道標があった。自動車道や内子PAが眼下になる。

  
 コンクリートの急な坂道を暫らく上がり、日陰の場所で小休止である。その場所から四国のみちの案内標識が見えていた。再出発後、標識の場所に行くと前方にはとうせんぼの網目の柵があった。「えっ、ここって私有地?」相棒が脇の路を見に行ったが、どうも道は続いていないみたいだった。

 
 仕方なく、網目の柵の手前から畑に入って迂回することとした。道を歩き始めると畑の下の方から犬の鳴き声がする。そして、ラジオの音のような音が聞こえて来た。そして、またまた先ほどの網目の柵に出合ったのだ。今度は迂回出来る場所が見当たらない。ず〜っと鉄製の網目柵がどこまでも続いていた。あちらこちらと、乗り越えれそうな場所を探す。そして、相棒と二人でやっとの事で、柵の外へ出た。一人では脱出困難な柵だった。そして、柵の外には『右 へんろ道』の道標があった。

   
 15時半、柵の外側の道標がある乗越を越えると植林の作業道だろうか、道は何本もに分かれていた。ここは適当に降りるしかない。作業道は土がむき出しで、何年も使われていないと、枯葉が積もっていたり、雑草が覆っている筈である・・・。草が生えてる道に出合うと安心する。やがて、草に覆われた道になると、木の枝越しに舗装道路が見えて来た。舗装道路へ降り立ったのは、15時37分だった。すぐ先にはもう見慣れた四国のみちの案内標識が建っていた。富浦バス停まで0.4kmの表示だった。

   
 適当に民家の横の道を行くと、庭先でくつろいでいる夫婦に出くわした。言葉を交わすと、私達が道を間違ったようだった。そして、再び民家の横を通る道や猪除けの電気柵を越えながら危うい道を歩き、石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に着いたのは、15時48分だった。ここからは、田舎の道を歩き、15時54分、石浦(四国のみちガイドブックでは、富浦)バス停に着く。バスの時間はどちらも(小田・内子方面とも)16時28分だった。

  
 バス停横の商店でアイスクリームを買い、バスが来るまで暫らくの時間潰しだ。また、小生の『四国のみちのガイドブックでは富浦バス停(案内板でも)となっているのに何故、石浦バス停なのか?』という疑問を、相棒がお店の方に聞きに行ったのだが、どうも要領の得ない応えだったようだ。その事については、帰宅後のネット検索にて後述のとおり、富浦集落の石浦とのことだった。つまり、大字、小字だったのだ。

 バスは予定通りにやってきた。乗車時間は10分ほどで、無事、朝方の駐車場に舞い戻ったのである。

 しかし、未だに疑問が解けないのが水戸森峠への遍路道が不明な事である。帰宅後、東海図版の四国遍路地図には、『水戸森峠ルートは、高速道建設時に付け替えられたが、峠から東は通行困難』と書いてある。しかし、ネット検索では、直近(昨年)の記録でも水戸森峠と休憩所の写真が載っているのである。歩く時期を変えれば簡単に発見できるのが、こういう路の特徴でもあるのだが、さて、それが実現するのかどうか?

     


ちょっと 一息

「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書] 伊予の遍路道(平成13年度)より引用


十夜ヶ橋から内子町石浦へ A

 十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった。

 旧街道を通る遍路道

 道は高柳橋を渡って矢落川の左岸を進み、二軒茶屋を経て、やがて五十崎町黒内坊の三差路に至る。この分岐点に徳右衛門道標がある。この道標には旧国道ができたころに「左へんろちかみち」と追加彫りされた痕跡(こんせき)がある。
 三差路を左折して小さな栗畑や棚田(たなだ)が続く緩やかな坂道を上るとやがて現在の内子運動公園に至る。内子運動公園を過ぎ、内子町廿日市(はつかいち)の町並みを眼下にして坂を下っていくと、内子の出入口といわれた駄馬池に至る。その池の前に弘法大師が泊まるかどうか思案したという思案堂があり、堂の前には金毘羅道標と並んで道標がある。また堂の周辺には巡礼供養塔なども数基ある。そこからさらに坂を下ると、内子町廿日市の町並みに入る。
 廿日市からの遍路道は、郷之谷橋を渡り六日市地区を直進し、内子高等学校前を過ぎて四つ辻(つじ)にある医院の角で左折する。しばらく緩やかな上り坂を進むと、道は鉤(かぎ)形に曲がり、そこを過ぎると「国選定重要伝統的建造物群保存地区」(以下、町並み保存地区と記す。)の八日市・護国地区となる。ここには櫨臘(はぜろう)の製造で栄えた往年の姿をうかがわせる八日市の町並み保存地区が緩やかな坂道に沿って続き、途中には国の重要文化財となっている大村邸や本芳我(はが)邸・上芳我邸などがある。やがて清正川に架かる清栄橋に至る。橋を渡ると護国で、すぐに道はY字形に分岐する。文政8年(1825)の常夜灯の下に小さな道標がある。その手印に従って遍路道は右へ進む。護国の町並み保存地区の家並みが途切れる辺りに福岡大師堂があり、かつてはそこに元禄11年(1698)建立の道標G(内子町歴史民俗資料館に保管)があった。
 この内子の町は、旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、「此所ハ店もよし」と記されている7)ように、山道に入る前の要所の地であった。
 遍路道は、この福岡大師堂で旧街道と分かれ北に向かって坂を下り、麓橋を渡ってすぐに狭い道へ入り、丘陵の先端を回ってから国道56号へ出る。遍路道は、ここで国道を横断して現在の五城橋の50mほど下流で中山川を渡り、田の中の道を通って水戸森大師堂を過ぎると水戸森峠(みともりとう)の上り口に至る。この水戸森峠を越えて小田川に至る山道は、明治40年(1907)発行の地形図からも、国道379号が開通するまで、人々にとっての重要な生活道であり、また遍路道でもあったことが分かる。ここから道は上りになる。ただ、水戸森地区は松山自動車道の通過点に当たり、道は場所により寸断、付け替えられているが、平成3年建立の遍路道標が峠を案内している。その案内に従って進むと、やがて水戸森中腹の三差路に至る。ここに、元禄2年(1689)建立の県内で2番目に古い道標(内子町歴史民俗資料館保管)があった。右折すると富浦にある石浦へ通じる道である。ここから700mほどで峠の頂上に達するが、そこは眺望もよく、遍路が休憩するのに絶好の場でもあった。
 水戸森峠の頂上から下っていくと石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に至る。かつて接待や休息の場所として賑(にぎ)わったという大師堂の下段には、菅生山まで8里の徳右衛門道標が他の石碑などと並んで立っている。
 遍路道は石浦大師堂を過ぎ民家の間を抜けて進むと、バス停石浦で迂回(うかい)する小田川に沿って内子の町並みから進んできた遍路道(国道379号)と合流する。


  


≪四国のみち案内標識など≫

   

   

 

   

  




【費用】内子町営バス(石浦〜JR内子駅)・・・・・一人 ¥260