十夜ヶ橋から内子町石浦へ @
十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった。
旧街道を通る遍路道
弘法大師が野宿したという都谷(とや)川に架かる十夜ヶ橋を渡ると、川岸に菅生(すごう)山(大宝寺)
までの里程12里を示した道標(現在は道路改修などで十夜ヶ橋下に仮保管中)があった。旧街道を通る遍路道はここから左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしい)が、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608〜48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある。ここから右折し、矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している。
新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。)」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。現在、県指定の文化財となっている陣屋遺構(現麟鳳閣)や武家屋敷跡があり、商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる。
その後、道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、)」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)。新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。)」と記すが、蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅している。
道は高柳橋を渡って矢落川の左岸を進み、二軒茶屋を経て、やがて五十崎町黒内坊の三差路に至る。