四国のみちと遍路
                                                              
2015年6月29日【愛媛環7(肱川沿いのみち)】

≪北只〜肱川休憩所〜肱川緑地公園〜五郎橋〜十夜ヶ橋大子堂〜新谷〜田合〜谷落橋〜黒内坊≫

 先日、鳥坂峠から降りて来た際に今回も辿る北只から肱川休憩所を辿れたのだが、前回はひたすらJR大洲駅を目指したので、意識して「四国のみち」を辿らなかったのだ。それで、今回は再度、“北只”から辿ることとなった。

          
 7時33分発の内子駅発の列車に間に合うようにと、近頃のwaiwai隊には珍しく6時過ぎには自宅を出た。自家用車で内子町まで走るので、余裕をもって我が家を出発したのだった。JR内子駅前には、予定より随分早く6時50分に着いた。お蔭で、第一候補の駅前無料駐車場に無事停めれたのだった。

   
 内子駅前には、SLが展示されている。まだ7時前だったので、JR予讃線の大洲行きの普通列車は確か7時が有る筈・・と、急いで構内にある自動販売機で切符を購入した。内子駅は高架になっているので、階段を上がるのだが、ホームで待っているのは殆どが高校生だった。1番も2番もプラットホームは高校生ばかりだった。暫らくで、伊予大洲行の列車が到着した。列車内で女学生の制服が何種類かある事に気付いた相棒が「高校って、何校もあるんかなぁ〜」と言う。小生が知っている高校は、大洲で二校、新谷で一校だが、新谷で降りた高校生は居なかった。そして、伊予大洲に着いたのは7時17分で、半分余りの乗客が下車したのだった。

 
 駅前のタクシーで北只までの料金は1,160円だった。そして、北只の郵便局前は7時32分だ。暫らくは先日通った道を辿る。

 
 8時頃、“臥龍の湯”前に着く。ここからは前日とは違って肱川を渡り川の右岸を河口へと向かうこととなる。すぐ先に鵜飼いの乗船場があり、コンクリート製の橋を渡る。丁度、女学生の通学の時間帯だった。鵜飼い観光船の屋形船の屋根には鵜の替わりにアオサギが留まっていた。

 
 川岸に鳥居とお宮が祀られていた。8時8分、川を渡ると肱川休憩所がある、ここで小休止。

 
 休憩を終え再出発すると直ぐに舗装道路に出たが、ここが国道197号線だった。暫らくで、川沿いに“鵜塚”があった。そして、右手の小沢が流れ込むところに古い石橋があったが、この橋はもう使われていない。

  
 暫らく歩くと肱川橋が見えて来た。先日は、この橋を渡ってJRの駅まで歩いたのだが、今日は違うルートを歩くのである。橋を潜り抜け、大洲城が間近に見える場所、8時37分、肱川運動公園の駐車場だ。駐車場には沢山停まっていた。今日は平日、今の時間家族連れは居ない。

 
 暫らくは右岸の堤防沿いの道を辿るのだが、すぐ先で、8時46分、伊予大洲駅から出発した“アンパンマン列車”が肱川の鉄橋を渡って行った。

 
 先ほどの運動公園辺りから散歩の人たちが何組も居た。そして休憩所が見えて来たが、傍らに車を停めてスマホを使うオバサンが居たので通過することとした。9時3分、五郎橋を通過する。

  
 9時32分、以前撮影に訪れたことがある肱川沿いの場所も通過。この場所は相棒も特定出来たようだ。松山行の特急列車が高架を走り抜けて行った。予讃線はすぐ先で内子線と長浜線の分岐があった。

   
 道は尚も肱川沿いを行くのだが、9時35分、ここから肱川沿いの道を離れて“四国のみち”は十夜ヶ橋へと向かう。堤防の道から離れ、県道24号線を横切るとすぐ先でJR予讃線(長浜線)を潜る。ここからは両側に畑が作られている中を進む。畑の中へ続く道は直ぐに南へと曲がる。JRの高架を潜るとすぐ先が国道56号線だった。

 
 大洲ICへの取り付け道路の交差点から先には、私達が歩く歩道が無くなっていたので車道を歩く。十夜ヶ橋大師堂へは9時56分に着いた。車遍路の人たちが次々にお参りに来ている。私達はトイレ休憩を済ませてから、ゆっくりと参拝である。

  
 さて、大師堂を後にして十夜ヶ橋の下、弘法大師が一晩過ごした場所へと寄る。ここにも大抵の参拝の人は訪れるようだ。
   
 10時33分、我々は遍路道とは違って“四国のみち”へと辿る。生コン会社の裏側を通り抜けて線路を渡り(ここでは線路は地上へと降りている。代わりに高速道が高架しICへと延びている)北上する。

 
 この辺りは畑では無くて田圃だ。その間の道を堤防の道へと登る。そして、矢落川の左岸の堤防を行くこととなる。綺麗に護岸された道は真っ直ぐに伸びている。アスファルトに照り返す熱が、体から汗を噴き出す。

  
 11時10分、矢落川を渡って新谷の街へと入る。新谷の商店街を通るが、閑散としている。やっと自動販売機を見付けて小休止である。帝京第五高校前を通り過ぎると、道脇にある幼稚園で園児がプールから出て真っ裸でウロチョロしているが、保母さんが大忙しの様子である。こんな様子はカメラを向けることは無い。

  
 田合の案内板を11時33分に通過し、暫し休憩なのだが、直ぐ先の矢落橋を過ぎた所に休憩所があった。11時47分だった。休憩所には、奥の方に2畳ほどの板張りの場所があった。

 
 そして、側板に上掲の新聞が貼られていた。暫らく休んでいるとオジサンが現れた。話をすると、どうも、この休憩所のお世話をしている方のようだった。また、この休憩所の傍らに五右衛門風呂が設けられていた。薪も沢山準備されていて、風呂には水がためられていた。「15分ほどで沸きます」との事だった。この間、コンビニは無かったので、昼食はお預けである。黒内坊までは国道56号線を歩く。

  
 二軒茶屋を過ぎるが、勿論、現在は茶屋は無い。12時10分、大師堂を過ぎると内藤鋼業を見付けた。我が家のペレットストーブはこの会社で購入したのだった。勿論、販売店は松山にある。中を覗き、ちょっと挨拶を・・・。だが、中にいた人は顔見知りの者では無かった。そこから暫らくでヤマザキストアがあり、昼食の弁当を購入したのだが、昼食の弁当はそんなに多くの種類は残っていなかった。



ちょっと 一息 ・・・以下は、

「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]   伊予の遍路道(平成13年度)より引用

十夜ヶ橋から内子町石浦へ @

 十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった。

 旧街道を通る遍路道

 弘法大師が野宿したという都谷(とや)川に架かる十夜ヶ橋を渡ると、川岸に菅生(すごう)山(大宝寺)
までの里程12里を示した道標(現在は道路改修などで十夜ヶ橋下に仮保管中)があった。旧街道を通る遍路道はここから左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしい)が、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608〜48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある。ここから右折し、矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している。
 新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。)」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。現在、県指定の文化財となっている陣屋遺構(現麟鳳閣)や武家屋敷跡があり、商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる。
 その後、道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、)」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)。新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。)」と記すが、蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅している。
 道は高柳橋を渡って矢落川の左岸を進み、二軒茶屋を経て、やがて五十崎町黒内坊の三差路に至る。


 以下、つづく

≪四国のみち案内標識など≫

   

   

  

  
 
   

   


【費用】JR四国(内子〜伊予大洲)・・・・・一人 ¥260、大洲駅〜北只までタクシー利用・・・1,160円