四国のみちと遍路
                                                              
2015年4月23日【高知33(松尾峠へのみち)〜愛媛環1(旧宿毛街道のみち)】
≪高知編より≫

愛媛環1≪旧宿毛街道のみち≫・・・【松尾峠休憩地(案内板)〜松尾峠口〜一本松休憩地〜一本松支所〜大宮神社〜豊田〜栞庵橋〜(第40番観自在寺)〜南レク御荘公園(バス停)】

          

 純友城址で宿毛湾を見ながら昼食を済ませ、再びの松尾峠へと戻り第40番札所を目指す。

≪松尾峠≫解説板
 伊予と土佐の国境にある標高三百メートルのこの峠には、南予と幡多を結ぶ街道が通り、幕府の巡見使をはじめとし、旅人や遍路の通行が盛んで、享和元年(1801)の記録に、普通の日で二百人多い日には三百人が通ったと記録されている。
 国境の石柱は伊予側のものは貞亨四年(1687)の建立で、土佐側のものはその翌年高知で製作し、下田までは海上を船で、その後は陸上を馬車等で運んだものである。
 昭和四年宿毛トンネルが貫通してからは、この峠を通る者もなくなり、その頃まであった地蔵堂や茶屋も今は跡だけが残っている。


 
≪ようこそ愛媛へ≫
「四国のみち」をお歩きの皆様お疲れ様です。ここは愛媛県
ルートの起点であり、ここから川之江市の終点(徳島・香川
県境)までの道のりは465Kmに及び、「四国のみち」全体
の約30%となっております。これから愛媛の風土をゆつ
くり楽しみながら歩を進めて下さい。


 11時55分、再びの松尾峠には上記の国境の案内がある。山道などもあって、平均的な歩行スピードを毎時3kmとすると150時間掛かる。という事は、一日8時間歩いても愛媛県だけで20日が必要なのだ。という事は、四国を完歩するには約2箇月も掛かるのである。

 
 さて、愛媛県へと入るとみちは良く整備されていた。擬木の柵は里に降りるまでず〜っと続いていた。今の時期、ツツジの赤が鮮やかだ。私たちが歩く四国のみちの直ぐ横に林道が続いている。やがて、林道と合わさり砂利道を辿る。12時半、田植えが終わった里に降りて来た。

 
 集落の中を歩くと綺麗なトイレに出合った。四国のみちにはトイレが完備されていて山中は別にして、里の中のトイレは綺麗に作り替えられている。松尾大師堂という場所は13時10分で、小休止。

 
 再出発後間もなく、朝方、バスで通過した一本松の街へと入った。一本松バス停を13時26分に通過。田圃や民家の脇を抜けると、ガードレールのある道へ出合う。14時8分、その先で折り返して山道へと案内される。薄暗い雑木のみちを抜け、札掛集落へ出る。

 
 みちはぐにゃぐにゃと曲がりながら民家を縫うように続いていた。そして、大宮神社横の休憩所には14時25分に着いて小休止である。再出発後、再びの山道を少しで眼前に豊田集落が開けていた、14時55分だった。

 
 集落では歩いている人に出合うのは困難である。ときたま車に出合うが、若者が利用している車に会う事は無い。そんな旧街道から川沿いの遍路道になった。栞庵橋に架けられた案内板には、『5月中旬ホタルが乱舞・・・』とある。その僧都川沿いの道に15時10分に入った。

 
 川沿いの道は左岸に続いていた。ここでは散歩の人に会う。この辺りは、もう街中なんだ。橋を三本ほど見送り15時57分、観栄橋を渡ると見知った山門が見えて来た。そこが第40番札所、観自在寺だ。

          
 参拝の人達が数名いた。参拝初心者の私たちが記帳を終えたのは、16時25分だった。当初の予定は一つ後のバスを利用(一時間遅れ)だったが、私たちの歩行スピードでは17時までに寺まで辿り着けないかも?・・・と予定を変更していたのが、功を奏したのだった。

 
 無事参拝を終え、16時半・・、先ほどの橋の袂の川沿いの四国のみちを行く。川は御荘湾へと注いでるようで、河口部の様相である。

 
 今回大活躍した宇和島バスのバス停へ辿り着き、16時53分ホテルサンパールへ到着である。朝方私達から先行した二人連れのお遍路さんが国道を宇和島方面へと歩いて行った。我々の足の疲れは、もう限界だった。風呂<ここの風呂は“山出(やまいだし)温泉”の湯を引いているそうだ>を出た後、夕食は生ビールのご褒美付きだった。小生の闘病生活の一年余は酒を断っていたので、本当に久しぶりだった。


 

【巡礼考 1】
≪四国八十八か所霊場と遍路道≫の世界遺産登録について
 小生は、昨年暮れより四国のみちの踏破を計画し実行に移している最中、上記を推進している『世界遺産登録推進協議会』の活動を耳にする。しかし、遍路道や旧遍路道と呼ばれる旧道を歩いて疑問を感じたことを今回あえて、問題提起するものだ。確かに四国八十八か所霊場や巡礼そのものは文化遺産として世界に誇れるものだと異議を挟むものでは無い。
 しかし、遍路道については如何なものか?
 それは旧来の遍路道が“モータリゼーション”以降、大半の部分が廃れてしまい自動車道との併用区間が多く、安心して巡礼出来る状況に無い。また、観光化された巡礼(一部の旅行業者や一部の霊場による利益追求のみの姿勢)にも疑問を感じる。
 小生は、遍路道も同時に世界遺産登録の申請をするのなら、旧来のみちを復活すべきである・・・と考える。それは簡単なことだ。遍路専用の道を用意して、自動車道とは分離すべき・・と主張する。国道や県道の長いトンネルの中、歩道も無いような車道の脇を巡礼するような愚かなみちを通行せざるを得ないような事態は避けるべき・・と考える。別に山越え・峠越えの旧遍路道だけを利用すべきだとは思わない。体力の無い、足が弱った者も利用できるよう平坦なコースでも良いのだ。また、自身の足だけで巡礼出来ない者が、他の手段で巡礼するのを否定するつもりも無い。

 この間、遍路道を辿る者に対する、その時々に出会った人々の接する態度には歓心する。この巡礼者に対する人々の行いこそ世界遺産に匹敵すると・・・改めて感じるのだ。



≪四国のみち案内標識など≫

   
   
   
   

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