四国のみちと遍路
                                                              
2015年4月23日【高知33(松尾峠へのみち)〜愛媛環1(旧宿毛街道のみち)】

          

 ≪四国のみち≫踏破の計画の実行には綿密な計画が必要だった。手始めに小生の住まいがある近隣から始めたのだが、愛媛県内のみちの踏破を実施するには高知県境や香川県境も含まれるからなのだ。四国のみちは旧街道や山越えのみち、そして遍路道などさまざまなみちが行政によって指定されている。

 そして、宿毛街道を辿る高知県の宿毛から愛媛県の愛南町へと続く今回のみちは、“旧へんろ道”という事だ。それは、
高知33≪松尾峠へのみち≫・・・【宿毛市役所〜小深浦口バス停〜番所跡〜大深浦登り口〜松尾峠(県境)<純友城址展望台>】
愛媛環1≪旧宿毛街道のみち≫・・・【松尾峠休憩地(案内板)〜松尾峠口〜一本松休憩地〜一本松支所〜大宮神社〜豊田〜栞庵橋〜(第40番観自在寺)〜南レク御荘公園(バス停)】

 なので、宇和島バスを利用して南レク御荘公園バス停前にある“ホテル・サンパール”への宿泊予約をしての計画を立てたのだった。


 バスの時間は朝一番が7時47分なので、東温市の自宅を5時半に出発した。しかし、南レク御荘公園前のコンビニで買い物を終え、ホテルの駐車場で身支度を終え、フロントに事情を話して(予約の際にはこちらの今日の行動予定を伝えていた)車のキーを預けて・・・、そんなバタバタしている間に相棒が「“お接待”・・と頂いた」と、大きな文旦を手にしていた。バス停へ移動すると、間もなくバスはやってきた。
 バスには、通学の高校生などが乗っていた。高校生たちは直ぐ先の停留所で降車した。

  
 御荘から一本松へと乗客は減る一方だ。綺麗なオネ〜サンが一本松営業所で降りると乗客は、オバサンが数名と我々だけとなった。旧道とバイパスを縫いながら、バスは県境を通過して宿毛市内へ入った。運転手に「宿毛市役所の近くの停留所に停まりますか」と尋ねると、少し考えた後「市役所前に停まります」との事。バス停には8時35分に着いた。市役所に立ち寄り、記念撮影。準備している地図を片手に出発である。

 
 取り敢えず、四国のみちの標識を見付けて歩き始めた。街中からバイパスのような道に出るとコンビニがあった。そこで地図を確認し歩き出すと直ぐに「お遍路さん」とおっさんの声。バイパスを指し「こちらは56号線で、“松尾峠”の遍路道はあそこの家の脇の道を山の方へ」と親切に教えてくれる。

 
 ここかしこにある“歩き遍路案内標”を見ながら暫らく行くと、国指定史跡<宿毛貝塚>の標識がある。丁度、9時だった。少し坂を上がると宿毛の市街地がみえた。先ほどバスが立ち寄ったJR宿毛駅も確認出来る。

 
 9時13分、立て看板を確認していると軽トラが停まり、おっさんが「お遍路さん、道はそっちよ!ここでよう間違ごうて右のアンテナ塔の方へ行っきょるけん標識を立てちゅぅ」と言います。相棒が「御親切にありがとうございます」と応えていた。

 
 少しで山間に集落が現れた。ここは小福浦だろう。道が交差するところには必ず案内がある。遍路の道を示す案内は、民家脇を山道へと入っていた。9時28分だった。

 
 やがて9時40分“土佐の褐牛”の看板に出合う。この看板はネットで確認済みだ。
≪モ〜すぐ伊予やけん  ことぉたら ちぃと 休まんかね≫
とある。すぐ先の水の入っていない田圃(水を入れれば田植えが可能な状態)に鷲か鷹かは判らないが、猛禽類が飛んでいた。宇和島から南の地では良く出合う鳥だ。

 
 小さな集落を過ぎると直ぐに山道に入る。道の左右に大きなタケノコ(直径が10cmはあるタケノコが、地表から10cmぐらいのや2mぐらいに成長しているのもある)がそこかしこにはえている。山を抜けると又しても集落に合う。綺麗に手入れされて咲き誇っているサツキに囲まれて、その陰に看板が建っていた。

≪松尾坂口番所跡≫
 松尾坂は、伊予と土佐を結ぶ重要な街道であったため、その麓にあったこの番所(関所のこと)はすでに長宗我部の戦国末期から設置されていた。
慶長六年(1601年)山内氏入国後も、この番所は特別に重視され、四国遍路ここと甲浦以外の土佐への出入りは許されなかった。そのため多くの旅人でにぎわい、多い日で三百人、普通の碑で二百人の旅人があったと古書に記録されている。この旅人を調べ、不法な出入国者を取り締まったのが番所で、関守は長田氏であり子孫は今もここに居住している。

 
 集落の中歩いて行くと民家の庭先で二人のお遍路さんが“お接待”を受けていたようだった。遍路初心者の私達はあいさつを交わして通り過す。何軒かの民家には名前入りの“こいのぼり”が掲げられていた。こんな山の中に小さな子がいるんだ・・・、跡取り息子ができたのでよろこんだやろうな〜と、相棒と話しながら歩く。そんな集落の端っこに“四国のみち”の案内標識がある。そこは、大深浦登り口だった。時計は、ちょうど10時を指していたので、すぐ先の山道の脇の日陰で小休止である。暫らくすると先ほどのお遍路さんが「お接待だそうで・・・」と、大きな文旦を差し出した。有難くいただくこととした。

 
 道の所々に案内標識が建てられていた。松並木の跡や石畳の道などこの道が由緒ある歴史を持つ街道であることを物語っているのである。

 
 つづれ折れの急坂で相棒が遅れ始めた。もう会話も途切れる。姿が見えなくなれば相棒が追い付いてくるまで待つ・・を繰り返す。やがて、“茶屋跡”の看板に続いて“大師堂跡”の標識がある。そして11時10分頃、賑やかな標識が建つ峠に着いた。ここが“予土国境松尾峠”だった。

 
 我々は、取り敢えず『純友城址』へと辿る。これは<四国のみち・高知編>のスタンプラリーの一か所目でもある。歩く事10分ほどで冒頭の展望が広がる城址に着いた。ここには展望台が造られていた。そして少し早い昼食タイムである。眼下に宿毛湾・・・古の昔、純友が活躍していたであろう海に浮かぶ島々を眺めながら・・・。

          

≪四国のみちの標識など≫
   
  

【宇和島バス(南レク御荘公園〜宿毛市役所) \920×2人】

≪以下、つづく≫