四国のみちと遍路

2014年11月24日【四国88ヶ寺第45番・岩屋寺を巡るみち)】

 一昨日に続いて、四国のみち≪root10≫の一部区間の古岩屋から岩屋寺(第45番札所)のへんろ道を辿ってみることとした。ネットにて入手したルート図によると、古岩屋〜八丁坂入口休憩地(1.0km)〜八丁坂休憩地(0.6km)〜岩屋寺(2.0km)である。先日に続いて相棒はカメラと三脚を持って歩くようだが、さてどうなるのか?


 
 いつも寄る久万町にあるコンビニでは昼食の弁当は買わなかった。「どうせ、古岩屋から歩くんだったら国民宿舎・古岩屋荘で昼食にして、その後、歩こうか」と、コンビニではおやつだけを入手したのだった。11時過ぎには古岩屋に着いたが、そんな計画をあざ笑うかのように、古岩屋荘では「今日は団体さんが入っていますので、少々お待ち願います」というような張り出しがある。相棒は「わざわざ弁当を買ってこなかったのに、食べさせてくれないの?」と、フロントマンに食いついている。そのフロントマンは「少々お待ち頂くことになりますが、受付の近くで30分ほどお待ち願います」という事なので、受付表に名前を書いてソファーで待つこととした。結局、25分ほどで昼食のテーブルに着く。

   
 昼食を終え古岩屋の遊歩道を歩き始めたのは、12時20分だった。この遊歩道は過去に数回訪れている。一番の最近の訪問となったのは病気の発覚直前の2013年8月だった。洞窟に安置されている不動明王は、日差しがきつくない日の方が中までよく見える。辺りは落葉も進んでおり、ぎっしりと落ち葉の絨毯に敷き詰められている。路は林道と交わったりしながらも、続いていた。少し歩くと、すっかり沢幅も小さくなってきて目前には左岸から右岸に路が続いていた。

   
 林道にぶつ切りにされながらも、路は明瞭だ。前方に標識が見えるとお遍路さんが先行していった。その標識の場所が≪八丁坂入口休憩地≫で、12時50分だった。へんろ道の案内や四国のみちの標識などがある。先ほど通過したお遍路さんはもう姿は見えなくなっていた。林道風に整備された路は、やがて山道へと変わって行った。もちろん、案内は明確で迷う事は無い。

  
 急坂が続く路は、九十九折れに続いていた。良く整備された道を、小生は相変わらず息せき切っての歩みである。すると、上の方から鈴の音が“チリンチリン”と近付いてきた。鈴の音の主は単独の女性で、走り下りて来たのだった。≪八丁坂頂上休憩地≫へ着いたのは、13時15分だった。ここで相棒は「ちょっと撮影してみよう」と三脚を立て、ザックからカメラを取りだした。

   
 10分ほどに撮影を終え、再び歩き出した。北の方角が見渡せる場所からは顕著な山が垣間見える。その姿から直ぐに石墨山と特定出来た。松山平野からはその姿は容易に認めることは出来ないが、久万の郷から見える山容は実に立派なものだ。所々で植林が途切れた場所では、その日差しにほっとする。この時期は黄葉の灯りが植林の森を照らしている。どこの遍路道も同様に、行く先々にお地蔵さんが置かれている。

   
 細く尾根状になった個所で「ちょっと撮影するから」と、三脚を出した。『あ〜でもない、こ〜でもない』と何枚かシャッターを押している間に、またしても“チリーン・チリーン”と鈴の音が近づいて来た。そのすずの音の主も単独の女性だった。先ほどの女性と云い、今度の女性も小走りで去って行く。これでは“歩き遍路”じゃなくて、“小走り遍路”じゃないか。そこから暫らくの≪33王子≫が祀られている降りにさしかかったのは、14時過ぎだった。そして、またしても鈴の音が降りて来た。今度は、先達と思われるジイサンに連れられた女性二人の三人組だった。私たちが道を譲ろうと除けていた33王子が祀られている場所へと行くようだった。先達は危なっかしいロープに「これを掴んで登るよう」指示していたのだが、山登りとお遍路巡りでは少々歩き方も違っているのだろう。

  
 修験の岩がある「逼割禅定(せりわりぜんじょう)」へは、門の鍵を借らないと行けない。その前で中年ペアがなんやら話していたが、相棒も早速その仲間に加わっていたのだった。それは「先日、女優の誰やらがここへ登っていましたね」との話しかけで「あぁ〜、おしんの小林綾子さんね」と話は続くのでした。私はオバサンどうしの会話には参加出来ません。

  
 山門に降りて来たのは14時40分だった。山門脇には

第45番岩屋寺
 弘法大師以前に法華仙人という女修行者が籠って
 いたといわれます。鎌倉時代、一遍上人が参籠したこ
 とで有名です。四国巡拝の道筋が南予の海辺から瀬
 戸内の海岸へ移る転回点を占めています。
  海抜650mに位置し、寺名は勿論、「七鳥」の地名、
 「海岸山」の山号そのままに大自然との一体感を味わえる霊場です。

との立て看板がある。

 
 山門にある石碑には
当山の縁起は 弘仁6年(815年=平安時代)に、弘法大師がかつて修行の霊地を求めて投げていた明王鈴の音をたよりに当山に巡錫されて
 
 「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を
  波にたとえん」と詠われ山号を
 海岸山岩屋寺(かいがんざんいわやじ)
 と名づけ、自ら不動明王を刻んで開封されたものであります。
 ※海岸山は山中の霧を海にたとえて詠まれたものである。

   本 尊    不動明王 弘法大師御作
   開 基     弘法大師 宗 派 真言宗豊山派

と記されている。 

  また、≪弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性に出会う。仙人は空海に帰依して山を献上する。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊とした≫と伝えられている。

  
 さて岩屋寺を後にして四国のみちは古岩屋トンネルの道路と違って続いていた。しかし、その道を見付けれないままに旧道を歩いて行くと川向こうにそれらしき路を発見。しかし、その路は藪に覆われた道で、橋の袂には
 
お知らせ
  この先の四国のみちは
  大規模落石のため通行止め
  としております。
  ご迷惑をおかけしていますが、
  県道を迂回していただきます
  ようお願いいたします。    愛媛県

 との標識が掛けられていました。再びの古岩屋には16時に帰り着いたのだった。

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