四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみちの番外≫ ・・・遍路道を辿る

 今回のみち=石鎚の三十六王子社の道を辿ったのは、2001年の事だった。しかしその翌年、小生が大阪へと転勤となった事で、十亀和昨著の『石鎚山 旧跡三十六王子社』を入手したものの、長い間“お蔵入り”状態だった。この間、この界隈へと訪れる機会が無かったのだが、2010年の定年退職で帰郷後、この王子道については『赤いクレパス』さんや、お馴染み『エントツ山』さんのサイトで詳しく案内されているのを知ったのだ。


2015年5月9日【石鎚 三十六王子社(今宮道)を巡る】

 
 今回、“王子道”を辿る事は予定していなかったのだが、朝方、四国霊場第60番札所・横峰寺の巡拝を終えた後、相棒が「今宮の廃屋へ行く〜ぅ」と云うではありませんか。横峰寺から林道を降りると、県道を西之川方面へと走らせた。さて、西之川のロープーウェイが出来る前の登山口の一つの河口に着いたのは、10時53分だった。県道脇の広くなっている場所に停めて、カッパと傘で準備万端、出発である。


 今は殆ど使う人もいないと思われる道だが、良く整備されている。そんな道の脇に崩れかかった小屋が現れた。11時21分だった。14年前の記憶など殆ど残っていなかった。


 小屋の後ろに今宮王子社が祀られていた。幟を確認すると昨年のものだったので、現在も王子社と道は整備されている事が確認出来る。


 すぐ後ろには、黒川王子社が祀られていた。今日は三十六王子道を辿る予定では無い。相棒の目的は“崩れかかった集落”と“大杉”である。

 
 11時54分、お堂らしい建物が石段の奥に見えた。軒先をお借りして昼食とした。三十六王子社を辿る標識は祠の奥へと続いていた。帰宅後、以前の記録と“『赤いクレパス』さんや、お馴染み『エントツ山』”さんのサイトを読み返してみると、辿った足跡が違っている事に気付いたのだった。しかし、ここの道のように毎年、標識や踏み跡の整備が行えていれば全く安心だ。昼食を終え、改めて集落(跡)を目指して歩を進める。

 12時41分、林道に出合った。この辺りの記憶は全く無かった。帰宅後、昔の記録を見直しても林道を歩く記憶が無かった。今宮集落(跡)まで、こんなに時間が掛かるとも思っていなかったのだ。準備不足の今回は、あっさりと引き返す事を決断したのだった。帰路は淡々と、河口には13時半帰着したのだった。


ちょっと 一息

 石鎚・三十六王子道は14年前に辿り始めて、都合により間もなく中断した。時を経て、今回改めて辿ることとなるのだが、さて、いつごろ完遂出来ることやら・・・。

 さて、今回の今宮道の記録として、下掲の記事が山岳(日本山岳会機関紙)の第四年の第1号(*明治42年3月25日発行)に寄せられている。筆者は京阪神在住(?)の多田香疇と記されている。今回は、今宮道の記述あたりの抜粋とします。(尚、小生が現代の仮名遣いに直した個所もあり、文中の*は、小生の注釈である)

≪石鎚登山記≫
・・・下ること五町(*1町=109m)、西の川の渓流あり、橋を高橋と云ふ、風景甚宜し、右せば黒川道、余は今宮より登らんと、橋を渡りて左の山手にかかる、是より真の石鎚登山道なり。
 途次大保木には、二三の木賃宿あれど、昼飯する処はなし、凡て四国の山中は、何れにても昼飯携帯を要す、淀より奥は、休む家もなし。
 之の字形急坂を、八町登れば、秀坂の村あり、参謀本部五萬分の一には家あれど、此村の名なし、又十町半は登坂、半ばは、横がけ(方言山腹を伝うを横がけと云う)をなす、今宮につく、秀坂、今宮とも、大保木村の大字中奥山の小字にして、今宮は五戸、秀坂は三十六戸の部落にして、山腹傾斜甚しき地を、蕎麦、玉葱を植え、全村材木と農のみなり、平地は一もなし、皆山腹少し平げ、纔(*わずか)に家を建つ、余の今夜泊らんと思う家は、八郎兵衛とて、古へ石鎚権現を背負ひしと云ふ家、尋ぬれば門構して、白紙に勅使御休憩所の法標ありと云へば、立派さうなれど、一村皆同じ構の農家、一泊を頼めば、俄(*にわか)に煤(*すす)だらけの一間を掃除す、時に、午後三時三十分、淀より一里半、六千三百四十歩なり。
 着くや否や、淀より曇りし空、俄に驟雨(*にわかあめ)となりしも、暫くして晴る。
 何か石鎚山の舊記(*古い記録)あるかを尋ねしに、四五年前迄は九十何歳とかの老翁居りたれば、知りしかど、既に死し、主人は小松へ行き、主婦と子供のみ、何も知らず、只座敷の一隅に、石鎚権現を祭り、鴨居に木札多くかけしのみ、地は六百五十米の高なれば、涼しけれど、昼は蠅、夜は蚊多し。
 夕飯はジャガ芋、三度豆、高野豆腐、揚豆腐の煮〆、明日の昼飯と泊り共二人にて四十八銭、玉子は山麓黒川ともに、鶏、牛は石鎚権現のお嫌とて、古へより飼はざるは無しと云う、されど幸に米飯あり、この辺常食は玉葱なりと云へり。・・・・以下、略