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富無騒家が旅に出ました
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東西191メートル南北182メートルの長方形の遺跡が残されている。濠の深さは約6メートル、幅9メートルである。地域内には遍照寺、天然記念物のかやの木や中村大明神(祭神=中村小太郎藤原朝宗)があり、ほとんどが築城当時のまま保存され、城跡を研究する上で貴重な資料である。中村朝宗が保元元年(1156)から中村の地に住み、館を築いて中村荘を管理した。中村荘は藤原摂関家の荘園であった。朝宗の子常陸介宗村は源頼朝の奥州征伐に従軍し、戦功をたて伊達、信夫2郡の地頭職となり、その子朝定が中村を継いだ。
平成17年3月5日 登城
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中村朝宗 築城以来380年間代々中村氏の居城であったが、1545年天文13年10月7日 下館城 主水谷出羽守正村に攻められて落城。 14代城主父 入道玄角は居城に於いて討死、城主 中村小太郎時長は 居城を焼き奥州米沢にのがれ、宋藩伊達家に属し、名を中村日向と号し、奥州岩ケ淵の館を賜り代々岩沼に住んだ。
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真言宗智山派、如意山。創建、暦応年間(1338〜39)関東管領足利利基。開山、醍醐山三宝院賢俊僧正。弘法大師八十八か所の関北霊場。金剛界大日如来坐像は南北朝時代法印康誉の作で県の指定文化財。境内には、樹齢800年のかやの巨木がある。
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このお寺の娘さんは芭蕉の句『閑さや岩にしみ入蝉の声』で有名な 山寺に嫁がれている。家内の中学の同級生 それが縁で何度か山頂の寺を訪ねた。山の上の生活の大変さ、楽しさ、豊かさ等を楽しく、話していただいた。
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いちい科 かや(雌木)樹 高 39.0m目通り 5.75m枝張り 東西南北ともの6.0m樹 齢 700年樹形が整っていて、 極めて美しい。県指定 天然記念物
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八木岡高房により築城 八木岡氏は、芳賀氏11代高俊の子高房が八木岡の地に分封され、地名をとって八木岡を称した。芳賀氏は宇都宮氏の重鎮として活躍し、有力な支族も輩出しているが、それら芳賀一門の中でもっとも古参なのが八木岡氏である。八木岡高俊には跡継ぎがいなかったため、高房は隣領の常陸小栗御厨(茨城県協和町)の領主、小栗重宗の子高政を養子に迎えて2代目として。以降、八木岡氏は本家芳賀氏とともに宇都宮氏の先兵となって乱世を駆け抜けることになる。
平成17年3月12日 登城
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鎌倉幕府の崩壊後、南北朝の動乱が起こり、1339年2月、南朝方の北畠親房は戦況劣勢の関東での復権を目指し、戦上手の公家武将、春日顕時を常陸方面に派遣した。春日顕時は常陸南部の関城(茨城県関城町)を本拠にし、近在の領主の手勢を結集して、益子方面から北朝方に属する下野へ攻め込んだ。この時、八木岡城は落城している。
五行川の右岸段丘上に築かれた平城である。現在山林となり、城の西側に二重の土塁。空堀が南北に弓状を呈してよく残されている。
この城は芳賀氏11台城主芳賀高俊の四男高房が、八木岡の東館に住居しい八木岡を姓とし、八木岡肥後守高房と称したころに築城された。 永仁年間(1293〜1298)のことである。 以後、芳賀城の支城として代々居城したが、天文15年(1546) 貞家の代に水谷政村(蟠竜)に領地没収されて廃城となった。
八木岡城周辺には、「東館」のほかにも、「堀内」「前田」「市場」と言った城に関連する地名がのこされている。 城跡前の掲示板 写
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久下田城、二宮町(栃木県)のすぐ近くにあるが国境の向こう側茨城県下館市樋口である。 昔風に言えば敵国最前線である。
平成17年3月12日 攻略
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久下田城は 桓武天皇の 左大臣藤原魚名が奥州勢に備えてこの地に構えた 下館、中館、上館のうちの上館に当たる。その後この地に 天文14年(1545) 第6代 下館城主であった水谷出羽守政村(蟠竜斎)が、宇都宮氏の来襲に備えて、新しい城を築いた。
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河野守弘は寛政5年(1793)長沼村大道泉に生まれ、初名為蔵のち通弘・守弘、通称伊右衛門。父親は石崎音五郎通興。母親は川又吉衛右門正順の娘喜多といいます。石崎家は貧しく守弘は村の塾で読み書きを習った程度でした。 守弘22歳の時、結婚して妻の実家に招かれたとき、妻の父親の学識の深さに驚き、自分の無学を恥じ、その夜家を抜け出して江戸に向かい浅草庵に入門し8年間国学や和歌をまなび、故郷に帰りました。故郷に帰って下野の国に詳細な地誌が無いことを憂いで37歳の時に下野の国誌を編さんしようと決意し、その後20年間、下野各地の風土記や書物を読み、実地確認をし、関係するあらゆる文献を調査研究をして『下野国誌』 全12巻を書き上げました。
しかし守弘には本を出版するだけの財力がなく、真岡の呉服問屋 岡部久四郎より多額の資金提供を受け出版にこぎ着けました。 本の挿絵は守弘と交友の合った田崎早雲が書き 寛永3年(1850)守弘58歳のときに出版されました。
守弘の晩年も貧乏が続くうえ、甥の河野顕三が坂下門外の変に関係したため、真岡の借家にも居られず大道泉の生家に隠れ住むように暮らし、文久3年(1863)71歳の生涯を終えました。 守弘の墓は大道泉橋の手前北側にある、阿夫利神社の境内に建立されています。
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弥生時代の後半の住居跡、古墳時代前期の方形周溝墓群、古墳時代後期の住居4件跡 今は史跡公園として残されています。 高勢町
方形周溝墓群とは弥生時代後期に盛んに作られたもので、土塁の周りに方形の溝をめぐらした村の族長の墓です。この形式は東日本では古墳時代後期まで続き、このように奇麗な形で残されているのは数少ない。
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全長77mの 前方後円墳で規模 平面主軸 東西73.0m 前方部 高さ4.5m 幅36.0m 中央部 高さ4m 幅30.0m 後円部 高さ6m 幅45.0m 周囲 218m
後円部に、雷神社・観音堂をまつる。規模・形状の美しさとともに芳賀地方随一とされる。
5世紀後半から6世紀初めごろの築造されたもの。 栃木県指定史跡(昭和29年) 真岡市八木岡 個人所有
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