戻る

富無騒家の小さな旅 写真編

富無騒家が旅に出ました

旅途上

中里のえのき 雪景色
中里のえのき 雪景色
樹   高 15.8m目通り周囲 4.15m枝 張 り 東西23m 南北22m推定樹齢  400年鬼怒川河川敷に新造された鬼怒川公園ゴルフ場の東端の土手近くにあって、すぐ傍らには小さい社がまつられている。周りに遮るものがないので、伸び伸びと生育している。根張りはがっしりとしていて、一部は地上に出ている。幹は高さ5mあたりでようやく太枝3本に分かれ、その上部では一様に四方に分岐するので、どの方角から見ても、樹冠は半円形に見える。樹勢は旺盛で、低く垂れた枝は地上1.5mまで下がるものもある。枯死した薬師寺のエノキよりは小さいが、県内の他のエノキに比べても大きさではひけをとらない大木である
中里のえのき 
中里のえのき 
県指定 天然記念物
 鬼怒川の堤防上の道路を川下に向かって走るとこの木が我が家に向かって曲がる目印です。 05/03/05 啓蟄の日におと連れた。前日の雪で景色が素晴らしかった。
えのきと夕暮れ
えのきと夕暮れ
3月7日の太陽は真っ赤になってヤケをおこしていた。 『夜景をおこしていた』
晩秋のえのき
晩秋のえのき
2005年11月23日 撮影
星の宮神社
星の宮神社
当神社は、約370年前の寛永元年(1620)建立されたと伝えられ、主祭神は、盤筒男命、盤筒女命で、本地仏は虚空菩薩であることから、一般的には虚空蔵様と称されてきました。
口伝えによりますと、最初の修復が正徳4年(1714)に、また、記録によると明治3年(1989)9月に第二回目の修復が行われており、平成元年には真岡市の文化財として指定を受け、当集落の氏神として、守り継がれてきた、総石造りの貴重な民族文化遺産であります。
 思うに当集落の起源は明らかではありませんが、南東に筑波山、西北に日光連山を望み、西に清流鬼怒川、東に中村八幡宮の森を眺め、鬼怒川の恵みの肥沃な土地に立地して、農耕を正業として平穏な生活を営んで来たものと思われます。
寛成2年(1790)の記録によると、その当時の当集落の戸数は僅か17戸しかなく、現在の53戸から見れば小集落に過ぎなかったものと推察されます。 一方、当集落は、鬼怒川の水利を活かして、当地方の産物の積出地として名高く、河岸、納屋等を擁し、河岸に通ずる行還路は、今なお、河岸街道としてその名を残しております。
更に問う集落は「北中里」という正式な名の外に「北の島」という呼名もありますが、これは恐らく、鬼怒川の河川の島状の土地に集落があったことから称されたものかと思われます。
こうした平穏な生活も、時として清流鬼怒川が、台風等による洪水、氾濫し、被害を受けた村人たちは、水害等から集落を守るため、水の神である水速女命を主祭神とする水神神社、及び天の神である星の宮神社を勧請し、素朴な祈りをささげたことでありましょう。
水神神社(1991年新築)の脇に聳えたつ、大榎は平成4年栃木県の天然記念物として指定を受け、その樹齢は400年と推定されておりますが、まさに当集落の来し方、行く末を見守ってくれる大事な生証人であります。
 この大榎とともに、当集落を守護しつづけてきてくれた星の宮神社も二百七十余年の星霜を経て老朽化が進み、このまま放置すれば崩壊の恐れも出てきましたので、集落民協議のうえ、祖先が遺した文化財を後世に伝えるのは、現代に生きる者の責務であるとの認識から、栃木県、及び真岡しの文化財保護事業の対象として申請をしたところ、幸いにして採択され、ここに集落民協力により、星の宮神社の覆い屋新築事業が完成し、真岡市指定有形文化財「星の宮神社本殿」を永く後世に伝えることが出来る事となったのであります。 石碑 写
 
八幡宮 1の 鳥居
八幡宮 1の 鳥居
伊達政宗ゆかりの地
天武天皇の時代、白鳳4年(677年ごろ)天皇の命令で全国に八幡宮が建てられました。中村八幡宮は、そのうちの一つといわれています。 永承年間(1046〜1052年)に、源頼義・義家「八幡太郎義家」の親子が、東北地方の反乱(前九年の役)をおさえに向かう途中、勝利を祈って常陸・下野・上野に、八つの八幡宮を建てさせました。そのうちの一つともいわれています。 文治5年(1189年)7月、源頼朝が、東北地方の平定に向かう途中、中村八幡宮に立ち寄り勝利を祈願しました。中村の領主中村宗村は、頼朝に同行して、東北地方の戦いで活躍し、伊達の土地を与えられました。これが奥州伊達氏のはじまりといわれています。
 
中村八幡宮 中の鳥居
中村八幡宮 中の鳥居
中村八幡宮の社叢 県指定 天然記念物
 
建久4年(1193)源頼朝が寄進した田33丁の社領を、元和9年(1623)下館城主水谷勝隆が検地縄入れして取り上げてしまったので、氏子村むら相談の上、以後の社頭修理のためにと、寛永2年(1625)境内にすぎ・ひのきの苗2400本を植えた旨記録されているが、それが社叢を形成した。県下の神社にこれほど多くのひのきの大木が植栽されている例は他にない。
 
中村八幡宮
中村八幡宮
地元の人(原住民)は 八幡さま と親しんでおります。
中村八幡宮ご神木
中村八幡宮ご神木
御神木 樹齢800年
1189年(文治5年)源頼朝の奥州征伐から凱旋した当地中村の領主中村常陸介宗村(時長)は奥州伊達郡地頭の補せられた。宗村は中村八幡宮に軍配団扇を奉納し、ここに御神木のけあきを植樹し神恩に感謝したとつたえられております。
中村八幡宮神楽殿
中村八幡宮神楽殿
木造総檜造、入母屋造妻入一部下家造、銅板平葺
舞台は15尺「4.55m」四方奥行き8.19メートル、6.25坪で、特殊な寸法と整った形状の貴重な建物。正面と両側面に幅2尺八寸の組高欄付きの濡れ縁がある。その下には雲肘木がついていて舞台を支えている。正面軒下に掲げられた殿号額「神楽殿」は当時の、初代明治神宮 宮司 一条實輝公爵の筆によるものである。(大正10年建築)
 
 
 
毎年9月15日の例大祭にこの神楽殿て代々神楽が奉納されます。現在保存会会員数は11名 富無騒家も一応会員で頑張っています。
中村八幡宮本殿
中村八幡宮本殿
室町時代の1451年(宝徳三年 )。
構造 銅板葦流造り 大きさ 桁行き 四間(5.35m)梁間二間(3.36m)
向拝付(5.35mx2.49m)
宝徳三年に奥州伊達氏十一世持宗によって 建立される。享保八年(1723)に伊達 吉村によって従来の桧皮葦をかや葦に改め、 十年ごとの葦替えを定められる。
昭和32年雨漏りによって亜鉛板をもって仮覆し、同63年銅板葺にする。神社本殿としては市内最大なものである。
 
中村八幡宮 真岡市中
主祭神は誉田別尊である。社伝によれば、天武天皇の時代、白鳳4年勅命により諸国に八幡宮が建立されたが、当社はその一社であるという。 また永承年間(1046〜52)に源頼義、義家父子が前九年(1051〜62)の役に際して、常陸、下野、上野の地に八社、八幡宮を建立し石清水八幡宮(京都)を勧請したが、その八八幡の一社であるともいわれている。
文治5年(1189)7月源頼朝が藤原泰衛を追討するために奥州へ向かう際に当社に戦勝を祈願、当地の領主中村宗村も祈願し活躍することができた。
その勲功により宗村は伊達の地が与えられ、奥州伊達氏の祖になったといわれてる。翌年八幡宮に軍配が奉納されるなど伊達氏の守護神となった。以降、建久4年(1193)には、源頼朝より三十三町の神田の寄進を受けたり、伊達家代々の当主が、本殿や拝殿などの造営や修理などを行っている。
また、寛永2年(1625)には社殿修復にそなえて氏子たちが杉や檜2400本を境内に植えている。以上のように源氏や奥州伊達氏との関係の深い神社である。 
 境内表示板 写
 
中八宮
中八宮
中村八幡宮の神輿は、 群馬県前橋市の光明一刀彫、 小野雲海の作、 神輿の欄間彫刻は十二支で、 正面に丑寅を配し、 丑の背に小さく鼠が乗っている。
 私が営業で前橋客先を訪問した帰りに、立ち寄った神輿屋で見つけた時、まさか自分たちが担ぐことになるとは思っても居なかった。現在神輿会『中八宮』会員約100名
(富無は神輿会を引退しています。年には勝てません)
 
中八宮 2004年
中八宮 2004年
流鏑馬 2004年
流鏑馬 2004年
9月15日の例大祭には恒例の、伝統行事である「流鏑馬」が行われます。1736年(元文元年 徳川吉宗の時代)、仙台藩5代藩主伊達吉村公が参勤交代の時、神馬を奉納したことが始まりと言われています。この行事は一時途絶えましたが、1988年(昭和63年)に地元の人たちからの熱意で復活しました。射手が陣笠・羽織姿に身をまとい、さっそうと登場します。陣太鼓の合図で、250mの参道を駆け抜け、3箇所に設置された的に向かって、馬上から見事に矢を放ちます。 
 
流鏑馬には凱旋流と出陣流の2種類があり、出陣流鏑馬は、境内から、参道に向かって行くもので、出陣に際し戦勝祈願をした後、合戦場に向かう勇ましい流鏑馬です。凱旋流鏑馬は、参道から境内に向かって行くもので、 戦に勝利し合戦場から凱旋したことを意味するもの。
  中村八幡宮は凱旋流鏑馬で、参道の鳥居から境内に向かって駆けます。本来神馬の奉納が始まりなので、農耕馬に跨り、衣装を着飾っての煌びやかでゆったりとした流鏑馬だったそうですが、今は乗馬クラブのメンバーの晴れ舞台、思い切り駆け抜け迫力満点です。
 
代々神楽
代々神楽

● PrevIndexNext

荘厳寺の御本尊さま
戻る