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富無騒家が旅に出ました
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中村大塚古墳
本古墳は、南流する鬼怒川の左岸に発達した河岸段丘の西側縁辺部に立地している。墳丘の南半部が変形しており、円墳とすれば、直径約25メートルの中規模なものである。
真岡市史編纂事業によって埋葬施設の調査が行われ、その詳細があきらかとなっている。埋葬施設は、河原石小口積みによる両袖形の横穴式石室で、奥壁、天井、玄門に緑色凝灰岩の切石が使用されている。
石室は現存長 8.06メートル、玄室は長さ4.2メートル。奥壁付近の幅1.4メートル、玄門部内幅は袖石内面で0.68メートル、羨道部は長さ3.9メートル幅0.5〜0.7メートルである。 石室調査の際に、鉄ぞく、小札(こざね)飾金具、土師器杯、須恵器大甕片が出土しており、古墳の造られた年代は6世紀末〜7世紀初めと考えられる。
古墳掲示板 写
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ひかり幼稚園が併設されており、長男、次男がお世話になりました。 子供たちが食事前『今幸いに、仏様と人びとのご恩によって、おいしい食事がいただけます。ありがとうございます。いただきます』と毎日手を合わせていました。 ちなみに 食事後は『食事が終わって心豊かになりました。ありがとうございます。ごちそうさまでした』だったと思う。 20年も前のことです。
荘厳寺についてはお寺のホームページ見てください。 このページの下の ご本尊様クイックで『荘厳寺』へ
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鐘楼門
鐘楼門は、康平五年(1062)源頼義の営造に係る古楼です。
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不動尊堂
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山王神社(真岡市有形文化財)
慈覚大師草建にして、康平年間に再建し、寛永年間に現在の神社となりました。
お寺の境内に神社があるのも珍しい
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光明寺節婦の墓
芳賀郡の少領(郡司の次官)下野公豊継の妻で節婦としわれている吉弥候部道足女(きみこべのみちたりめ)の墓である。
「類聚国史」によれば(「日本後記」弘仁14年の記事であった)、平安時代の弘仁14年(823)3月19日に夫が病気で亡くなると、節婦は深く悲しみ、夫の墓のそばに小屋を建て、朝から晩まで「光明真言」を唱えて、夫の成仏を祈ったそうである。この亡き夫を思う妻の話が、嵯峨天皇にまで伝わり、「少初位上」の位を授けられ、田租を免ぜられ、節婦の家の前には標識が付けられたそうである。この後も節婦は、悲しみの涙を流し続けて一生を終わった。里人は節婦の死を哀れんで、手厚く葬った。ところが、節婦が死んだ後も節婦の悲しみの鳴き声はとはどき里人に聞こえた。それがすりうすをする音に似ていたので、この塔を「臼卵塔」とよぶようになったそうである。 掲示板 写
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稲荷神社本殿 真岡市柳林155
本稲荷神社本殿は、一間社流造りで、屋根木端葺き、江戸時代中期の神社建築仕法を知る上で貴重な建物です。
また、原型のまま保存されているのは、覆堂が完全なためと思われます。
間口118cm、奥行112cmであり、享保20年(1735)卯年建立で、文政3年(1820)辰年に上屋、拝殿が建築され、昭和62年2月に、上屋、拝殿が改築された。
祭神は稲倉魂命であり、祭日は陰暦2月初午です。
また、船玉神社が本殿の後方にあり、毎年11月23日が祭日となっています。これは船玉様と呼ばれており、船宿があったころ船の安全を願っていたものです。
稲倉魂命は、日本書紀によると、食物を主宰する神であり、伊幣諸、伊幣冊二尊の御子です。古事記によると、スサノウ尊の御子とも伝えられてします。 掲示板 写
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追分地蔵 真岡市長田
長田は奥州脇街道の宿継場として、傳馬二疋を置かれた重要な宿駅であった。この奥州脇街道と大田和街道との分岐点に建てられた地蔵尊である。
舟形光背の右側には、「十六夜念仏供養」とあり、その下に「右大た王ミち」とある。左側には「享保十五庚戌十月十六日」(1730)と建立した年代が刻まれ、その下に「左□志うみち」とある。□の部分は「奥」の字が磨滅したと思われる。 また台座には「長田村」と刻まれている。 享保年間に長田村の十六夜念仏講の人々が供養と道標をかねて、地蔵尊を建立したと思われる。 掲示板 写
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長田では現在北関東自動車道路、インターチェンジが建設中である。今も昔も宿駅である。
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2005年5月18日撮影
すぐ近所にこんな所があったとは全然知りませんでした。個人が趣味で作ったのを公開しています。
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老人ホームデイサービスの皆さんが遠足がてら来ていました。 無料が嬉しい、
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