民主制度の限界
(15)もっと自由な社会制度はどうだ?
<デモクラシーの定義> このシリーズでは「デモクラシー」を「民主制度」と訳して話を進めてきた。ではその「デモクラシー」とは何か?その定義は?となるだろう。ここでは簡単に次のように定義しておこう。
@三権分立
A代議員制
B多党政治
C言論の自由
D多数決
 先進国でも国によって違う点がある。その一番は「大統領制」だ。アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアそれぞれ違う。しかしここではその違いを問題としない。 厳密な定義はここでは省略して、大まかなイメージだけで話を進めている、ということで理解して頂きましょう。なおここではハイエクの考え方に沿って、「デモクラシー」を「民主制度」と訳して話を進めている。「主義」と言葉を使うとすれば、「民主制度を信頼する主義」と言えば正確になる。
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<アナーキー> 上記のような民主制度、先進国はこの制度を採用している。この制度に対して一部の人は不満を持っていて、「自分たちでこの制度の欠点を補っていこう」と行動を起こす人がいる。あるいは「もっと個人の自由が保証される制度がいい」と主張する人がいる。市民運動への淡い期待▲でいくつか取り上げてみた。今回は「もっと自由を」との立場を考えてみよう。
 プルードン、バクーニン、クロポトキンと続いたアナーキズムも、スペインのアナルコサンディカリズムで袋小路に入ってしまった。 日本ではかつて「黒の手帳」という雑誌や「自由連合」という機関誌もあったが、1960年代後半にその輝きを失っていった。 現代のアナーキズムとかリバータリアンと呼ばれる立場は、こうした流れとは違うもの、と考えた方がよさそうだ。伝統のアナーキズム研究は、古典文化・古典思想の研究と考えた方がいい。今は途絶えてしまった思想の研究、ちょうどマルクス主義の研究と同じに考えればいい。
 では現代のアナーキズムはどういうものなのか?二つの考え方があると考えるのがいい。それは二つの方法論。その一つは究極の目標を立てて、つまりもっとも基本的な「自由」を実現するための方法を探る行き方。もう一つは現在の社会を一応肯定して、 それでも少しずつでも自由な社会にしようとする考え方。そして通常前者を「アナーキズム」と言い、後者は「規制緩和」と言う。
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<無政府主義はユートピアか?> アナーキズムを無政府主義と訳す。しかし現在、無政府主義を主張するアナーキストの中心になる人物はいない。袋小路に入ってしまいリーダーも出てこない。一方、無政府主義とは違ったアナーキズムが研究対象、または信仰の対象になっている。それは『アナーキー・国家・ユートピア』のロバート・ノージックだ。 ノージックは「最小国家」を擁護し、無政府主義とは違っている。現在ではかつての無政府主義はパットせず、アナーキーと言えばノージックを指すほどになっている。しかしそれでも、無名のアナーキスト、市井のアナーキストはいるし、リベラルに飽き足らなくなってアナーキーへの道を進もうとする人は絶えないようだ。そこで、まず無政府主義について考えてみよう。
 特別のリーダーがいなくても憧れる人が出てくるアナーキズム、無政府主義、ではその無政府主義はユートピアと言えるほど、理想的な社会なのだろうか?自由がいっぱいあって、人々が個性を十分に発揮できる社会なのだろうか?
 先ず一番の問題は、「体制が維持できるか?」ということだ。ノージックは「暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる」と主張する。国家がなくて人々が自由に社会を作っていたら、怖いお兄さんたちが支配する社会が出来てしまう。例えば広島では、山〇組と一〇会から交代で知事が選出されるようになるかも知れない。映画「用心棒」にあったような二つの組が支配し、抗争をくり返す村が出来るかも知れない。 「政府なんか無くても、自分たちでしっかりやっていける」と考えている人たちはいるだろうが、そうでない人もいっぱいいる。「とても自信がない」人や、「オレが支配してやろう」と思っている人など。仕切やさんは沢山いる。宗教集団、暴力集団をはじめ、内部から外部から権力を握ろうとする。それに対抗するには秩序を維持する強力な権力が必要だ。つまり、ハトばかりの社会にタカが侵入するとあっという間に支配されてしまう。ときには国家が人を殺さなくてはならない場合もある。 <国家が人を殺さねばならぬとき>▲及び <合理性のない犯罪と死刑制度>▲を参照のこと。
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<メイナード・スミス『進化とゲーム理論』> ハト社会とタカ社会については<進化的に安定な戦略>▲で書いた。 ここではこの問題を提起したメイナード・スミスの「進化とゲーム理論」から一部引用しよう。
 2匹の動物が価値Vをもった資源をめぐって戦っているところを考えてみよう。ここで「価値」というのは、個体がその資源を手に入れることによって Darwin の適応度がVだけ増加することを意味する。 資源を手に入れそこなった個体の適応度が0である必要はないことに注意を要する。たとえば、「資源」というのが好適な場所におけるナワバリだったとして、敗けた方も繁殖できるような適当な場所がそれほど好適でないにせよあったとしよう。好適な場所のナワバリで繁殖すれば残せる子供の数が平均5,そうでなければ平均3とする。このときVは 5-3=2 である。このようにVというのは勝った方の適応度の増し分であって、敗けた方の適応度が0というのではない。対戦の最中に、動物は「誇示(display)」・「挑み(escalate)」・「逃げ(retreat)」の三つの行動をとれるものとする。誇示の段階では相手を傷つけることはない。戦いを挑んでゆけば相手を傷つけることになろう。 逃げ出しは資源をあきらめて相手に譲り渡すことを意味する。
 現実の対戦を考えると、動物が各時点でとる行動の系列はたいへん複雑である。しかし、今のところ、考えている対戦において個体は二つの「戦略」のうちどちらか一方を取るものとしよう。さしあたり、特定の個体はいつも同じ戦略をとるものとする。
「タカ戦略」傷つくか相手が逃げ出すまで戦いを挑み続ける。
「ハト戦略」まず誇示する。相手が戦いを挑めばただちに逃げ出す。
 もし両者とも戦いに挑んだときには、遅かれ早かれ一方が傷つき逃げ出しを余儀なくさせられるものとする。両者ともがある程度傷つくのが自然な仮定だと思う人もあろうが、ここでは私は可能なかぎり単純なモデルを追求しているのである。傷つけば適応度がCだけ下がるとする。
 タカとハトをH(=Hawk)とD(=Dove)で表せば、表1ののような利得行列(payoff matrix)を書き下すことができる。この行列には利得(payoff)、すなわち対戦に起因する適応度の増減が記入されている。自分のとる戦略が左側に、相手のとる戦略が上側に示してある。行列を書き下すために設けた仮定は次のとおりである。
 \   H   D 
 H   (1/2)(V-C)   V 
 D 0    V/2   

(@)タカ対タカ おのおのの対戦者は相手に傷を負わせて資源(利得V)を手に入れる確率が50%、反対に傷を負ってしまう確率が50%とする。このように、タカ戦略を採用するかどうかを決める。たとえば遺伝的な要因は戦いが行われた場合に勝つか負けるかを決めることとはまったく関係ないと仮定される。あとで、第8章において、対戦者がたとえば大きさの違いなど、 戦いを挑んだときに勝敗に影響を与えるものを見て取れるようなゲームについて議論する。
(A)タカ対ハト タカが資源を手中にし、ハトは負傷する前に逃げ出す。注意して欲しいのは、ハトの欄に0が記入されているからといって、タカ集団におけるハトの適応度が0だということを意味しないことである。これは単にハトの適応度は闘争で逃げ出しても前と変わらないということである。
 前にも述べたとおり、ナワバリをめぐるこの架空の対戦では、ハトの適応度はタカとの抗争の後でも、3個体の子孫を残せると考えればよい。
(A)ハト対ハト 2匹の対戦者は同等に資源を分け合うことになる。資源が分割できないのもであれば、対戦者は誇示し合って多大な時間を浪費してしまうだろう。このような対戦は第3章で解析する。 (「進化とゲーム理論」から)
 このように話は進み、前に引用したように<進化的に安定な戦略>が展開される。
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<異質な考えを拒否する集団> 政府が無くてもやっていける社会とはどのような社会なのだろうか?答えは簡単。皆が同じ考えの集団だ。同じ考えとは、同じ政治信条、同じ価値観、または同じ宗教、誰かに洗脳された集団など。ここでは異質な価値観の持ち主は参加を拒否される。そうすることによってしか社会を維持できないからだ。 そして、異質な価値観を拒否できるならいろんな社会が存在できる。
 1978年11月18日、南米ガイアナでジム・ジョーンズ( Jim Jones)を教祖とするカルト集団、人民寺院(Peoples Temple)の信者914人が青酸カリを使って集団自殺をした。このような集団でさえ存在できる。そして、だからこそ外部からの参入者がいると、こうした特殊な集団は普通の集団に変わっていく。もし外部からの新規参入を制限すると、いずれ自家不和合性に陥り、組織は衰退する。 無政府主義とは、外部からの異質な思想も持ち込みを拒否する事によってのみ、社会体制を維持することができる。このため内部での交雑育種法も一代雑種も期待できず、いずれは衰退する。
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<ノージック>現代のアナーキズムを考えるとき、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が必ず取り上げられる。このHPでは<ノージックの最小国家論>▲ で取り上げた。今週は少し違った観点から取り上げてみようと思う。先ず一番に感じるのは、先週<アマルティア・センの多数決のパラドックス>でも書いたのだが、「ミームが繁殖しない」ということだ。『アナーキー・国家・ユートピア』に限らず、これを扱った本では「読者の皆さん、アマチュアでも理解できようにやさしく書くことを心がけました。どうぞ私の考えを理解してください」との姿勢がない。 ドーキンスは次のように書いている。
 われわれが無意識のうちに他人、とくに両親、両親に準じる役割を果たしている人間、あるいは崇拝している人物を真似するという事実は、誰でもよく知っている。しかし、模倣が、人間の心やヒトの脳の爆発的な膨張の進化、さらには意識的な自己とされているものの進化をさえ説明する重大な理論の基盤になりうるというのは、本当なのだろうか。模倣がわれわれの祖先をほかのすべての生物から隔てる鍵だったということはありえるのだろうか。私は決してそう考えたことはなかったが、本書におけるスーザン・ブラックモアは、人をじりじりさせるほど強力な論証をおこなっている。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
 ミームが繁殖するかどうかは、真似することができるかどうか?にかかっている。素人が『アナーキー・国家・ユートピア』をあたかも自分の考えであるかのように、真似して発表するだろうか?そしてそれを素人がまともに批判するだろうか?もっと分かりやすい、普通の言葉で書かないと、その考えは広まらない。ごく小さな集団内での外部からの批判を受けたくない人たちの話題に終わるだろう。それでもその集団内では、「一般人には理解出来ないかも知れないが、「最小国家」という考えこそ、個人の自由を尊重した考えだ」となるのだろう。 しかし、そこには「国民はマスコミにイメージ操作されている」「しかし、私は正しい判断ができる」と同じような思い上がりの姿勢が見えてくる。それに対して民主制度の基本はこうなる。「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなど何も考えていないお姉ちゃんと、オレのように真剣に考えている人間も選挙では同じ一票」「最低限の税金しか払っていない貧乏人も、いっぱい払っている金持ちも同じ一票」「イメージ操作されているかのようにみえる一般人も、そのマスコミを批判する専門家も同じ一票」
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<サイエンス・フィクションのような「利己的な遺伝子」> 新しい学説が受け入れられるかどうか、それは多くの人にその考えが模倣されるかどうかにかかっている。このために多くの人に理解される必要がある。「お客様は神様です」の姿勢をとっているメーカーが、消費者に気に入られる商品を開発するように、多くの読者に理解して貰おうと、著者は苦心する。「利己的な遺伝子」も著者は苦心し、努力したようだ。それを「利己的な遺伝子」の前書きから感じられるので、一部引用しよう。
 この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」という言葉は、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。われわれは生存機械──遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。 この真実に私は今なおただ驚き続けている。私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。私の願いの一つは、他の人たちをなんとかして驚かせてみることである。
 私がこの本を書いているとき、想像上の読者が3人、私の肩越しにのぞきこんでいた。今、私は、この人々にこの本を捧げたい。3人のうちの第1は、一般的な読者、つまり門外漢である。彼のために私は、専門用語をほとんど全く使わないようにした。どうしても専門的な言葉を使わなければならないときは、きちんと定義してからにした。なぜ学術雑誌からも多くの専門用語を追放しないのか、不思議である。 私は門外漢は専門的な知識を持っていないものと見なしたが、彼が愚かであるとは見なさなかった。過度の単純化をおこないさえすれば、だれでも科学を大衆化できる。私はいくつかの微妙で複雑な考えを、数学的なことばを使わないで、しかもその本質を見失うことなしに大衆化しようと苦労した。どこまでこれに成功したか私にはわからないし、また、この本をその主題にふさわしく、面白い魅力的なものにしようという私のもう一つの野心が実を結んだかどうかもわからない。 私は、生物学はミステリー小説と同じくらい刺激的なものであるべきだと前々から思っている。生物学はまさにミステリー小説なのであるからだ。とはいえ私は、この主題が提供するはずの刺激のごくわずかな部分以上のものを伝えたとは、あえて期待していない。
 私の第2の想像上の読者は、専門家である。(中略)
 私が心に描いていた第3の読者は、門外漢から専門家へ移行中の学生である。 (「利己的な遺伝子」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『進化とゲーム理論』 ─闘争の論理─        J・メイナード・スミス 寺本英・梯正之訳 産業図書    1985. 7.12
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ミーム 心を操るウィルス』                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二 紀伊国屋書店  1991. 2.28 
( 2004年8月9日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(16)アナーキズムを経済学する
<眼球の再分配> 我々は皆別々の生活を送っている。我々は別個の存在である。ノージックはこの自明の理を非常に真剣に受けとめ、そこから道徳的結論を導き出す。ある者を他の者のために犠牲にするのは不正だと彼は主張する。ある人物は他の人物のための資源として利用されてはならない。 もちろん、もし仮に私が私自身を犠牲にしたいというなら、おそらくそれは賞賛されるべき行為だろう。しかし、我々は、誰かが得るだろうというだけのために別の誰かが何らかの損失や不利益を被るよう強制してはならない、とノージックは言う。 そうすることは「人格の別個性」を無視することだ。こうした自己所有のテーゼが提示される。それは、あなたの生活、あなたの身体に起因する事柄について決定する権利をあなただけがもっている。なぜならそれらは他ならぬあなただけに所属しているのだから、というテーゼである。 このテーゼは非常にもっともらしく見え「眼球のくじ」といった例について熟考させると、これに懐疑的な人たちをもしばしば沈黙させることがことがことがて移植技術が進歩し、眼球を 100パーセントの成功率で移植することができるようになった段階を創造してみよう。 誰の眼球でも簡単に別人に移植することができる。ある人々は目に障害を持って生まれてくる。眼球のない人もいる。それでは眼球を再配分すべきだろうか。つまり、2個の健康な眼球をもった人から片方の目を取って、眼に見えない人にそれをやるべきだろうか。もちろん、自分の目を移植したいと志願する人たちもいるかもしれない。 しかし、もし十分なボランティアが得られなかったらどうしたらいいのだろうか。全国的な抽選を行って、外れた人に眼球を寄付するよう強制すべきだろうか。多くの人々にとってこれはぞっとするような話である。もちろん、皆の目が見えるとしたら、世界はよりよいものになる。 しかしだからといって眼球くじを行って眼球を再分配することは正当化されるだろうか。
 自己所有のテーゼによれば、我々は皆自分自身の身体の正当な所有者である。もし我々が眼球の再分配を強制するなら、我々はある人物のために犠牲にすることで、その権利を無視する、あるいはノージック流に言えば、侵害することになる。それは許されるべきではない。多くの人々は熟考すれば、この意味での我々の身体権が絶対であることを認めるだろう。 また、もし私が同意しない限り誰かの生命を救うだけのために誰も私の生命を取り上げることはできない。という生命権についても、同様の結論を喜んで引き出すだろう。また自己所有は自由についても結論をもっている。すなわち、私がすることは私の勝手だ、他人の権利を尊重する限り好きなように行動できる、と。 (「ノージック」から)
 ずいぶんと乱暴な喩えで、センスの悪い、品のない喩えだと思う。これで所得再分配を批判しているのなら、適切な例ではない。経済ではゼロサムゲームではないケースが多くある。資源に限りがあってそれをいかに分配するか?経済学が扱うのはそれだけではない。分配の仕方によっては利用可能な資源は前よりも多くなる場合がある。比較優位はそうした例だ。それだから経済学は面白い。そして経済学者は「比較優位」を理解して欲しいと、やさしく、分かりやすく説明する。 <アインシュタインの比較優位>▲を参照。 とは言え比較優位を理解出来ない人は結構多くいる。経済はすべて「ゼロサムゲーム」だと勘違いしている人たちが多くいる。このためWTOでも農産物の関税が下げられず、貿易自由化が進まない。経済のことが分からないだけでなく、1930年代の大恐慌から世界中が保護貿易に走り、つまり自給自足に向かい、このための経済不安が第2次大戦を引き起こした、その教訓も学んでいない。「グローバリズムという妄想」などという書物まで出版されるご時世になっている。
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<情けはヒトのためならず> カタカナで書いた「ヒト」は「他人」と「人」で意味が違ってくる。最近は「頼まれもしないのに、親切の押し売りをすると、相手のためにならないよ」との意味で使う場合もあるらしい。本来の意味は「情けをかけるということは、他人様を助けるのではなくて、自分のためになるからですよ」という意味だ。 情けをかけること、つまり他人を助けることが実は自分のためになる、とはどういうことなのか?アマチュア・エコノミストは経済面から考えることにする。
 発展途上国の都会は農村部から出稼ぎに来た人たちで溢れ、スラム街ができ物乞いする大人や子供がいっぱいいる。治安が乱れ、犯罪が多く、町は汚く、外国人が来たがらない。生活が安定しないので、公務員が賄賂を要求する。警察官でさえ交通違反のお目こぼしのため袖の下を要求する。 それでも外国人相手に富を築きつつある人もいる。こうした国で、所得税を累進制にして、豊かな人からは多く、貧しい人からは少ない税金を徴収する。その大部分は貧困層への生活支援と公共事業投資に使うとする。ノージックは「豊かな人々の所有権を国家が侵害している」と言うだろう。ところでこのような所得政策は豊かな人々にとってどのような影響があるだろうか? 公共事業のために失業率が改善され、スラム街が少しきれいになり、犯罪が減ったようだ。ビジネスで来ていた外国人に加えて、観光客も少し来るようになった。外国人相手の商売は前にも増して盛んになった。国民所得もほんの少しだが上向きになった。いままで所得税の課税基準未満だった人の中から、税金を払うほどの所得を得る人が出てきた。なんとなく明るい社会になったようだ。
 累進課税によって多くの税金を国家に強奪された富裕階級も、経済成長の恩恵を受けるようになる。貧困層のために情けをかけた結果、富裕層にもその影響が出始めたようだ。このように国家が行う所得政策が富裕層にプラスになることもある。ということを持ち出すと、「国家がやらなくて、金持ちが個人的に、任意でやればいい」との意見もあるだろう。それでも、善意の寄付金を配分したり、公共工事の投資先を選定したり、その経済効果を測定するための公務員はいた方がいいし、その人たちの給料は税金から出すことになる。 <多数決による所得再分配>▲では、所得再分配の問題点を提示したが、ここではその逆である効果について書いてみた。 つまり「最小国家以上のことは、国家による親切の押し売りだ」との考えは視野狭窄のような気がする。アナーキズムは政治哲学の分野なのかも知れないが、その分野だけでなく、経済学や生物学や育種学やゲームの理論など、外部の知恵の新規参入を促進した方がいい。そうでないと政治哲学が「外部社会に影響を与えず、参加者が楽しむ趣味の会」になってしまう。地産地消、地域通貨、フェアトレード、平和宣言都市などど同じようになり、「土の匂いのしない意見は聞かない」とか「専門用語で書かれていない意見は無視する」「素人さん、お断り」 「分かろうと努力しない人は分からなくてもいいよ」となって自家不和合性に陥るだろう。
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<ユートピアの幻想> ユートピアの幻想は多くの者にとって魅力的である。また、我々のうち最も想像力に富んだ思想家たちが、人類が最大級の充実した生き方をおくれるようなモデル社会と彼らが考えるものの構想に精力を傾けてきた。ユートピア主義の思想家たちは、彼あるいは彼女こそが人間にとって善き生の本質を初めて真に理解したのだと、それゆえこの発見により人間に本当に相応しい社会の構想が初めて可能になったのだとしばしば考える、 とノージックは指摘する。ユートピア主義者の提案の中には、自給自足の農業コミュニティーへの回帰に基礎を置くものもあれば、公民的社会に基礎を置くものもある。しかし一定の許容できるバリエーションの幅があるとはいえ、通常は単一のビジョンの中で唯一の生活様式だけが提供されることになろう。ユートピア主義者にとっては、そのような生活が完全に人間的な生、すなわち人間にとって善き生を意味するのである。
 しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、 ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する。
 「ユートピアのための枠」の背景にあるのは、人々が彼ら自身のユートピアを構想し、生きることができるような背景の記述を提示するという考えである。最小国家においては、あらゆる資源が共有される共産主義者の村をつくる集団もあってよければ、また、高度な文化の追求のためにあらゆる安楽が犠牲にされる完全主義者の社会を作ってもよい。第3の集団はモデル的な自由市場社会を作り出そうとするかもしれない、等々。 つまり、最小国家では、個々人は随意的に様々な種類のサブ国家をつくることができる。そこでは社会は資本主義に基づいて組織されるべきか、それとも社会主義の線で組織されるべきかという議論は不要になる。資本主義を好むものは資本主義国家に、社会主義を好む者は社会主義国家に住むことができる。 (「ノージック」から)
 「自由」を消極的自由と積極的自由に分けて考えるとすると、「イヤなことはされない」は消極的自由で、「やりたいことをする」は積極的自由と言える。この<ユートピアの幻想>で示されているのは積極的自由と言える。さて、この積極的的自由は誰でも平等に権利として持っている、と考えられる。ということは、怖いお兄さんたちもこの権利を持っているのだ。 お兄さんたちは「ヤクを扱う自由」「賭博の自由」があって、他のユートピアから参加者を募り利益をあげるユートピアを作る。ときにはこっそり他のユートピアへ行って荒稼ぎをしてきたりして、危なくなると自分たちに都合のいい法律を作ったユートピアへ逃げ込む。そのようなユートピアがあってもいい、ということになる。もちろんオーム真理教も復活する。山〇組や稲〇会や住〇会のユートピアも出来る。中国からこっそり入国した蛇頭ユートピアもできる。
 最小国家とはこうした国家群になる、ということだ。これがユートピアと言えるのだろうか?色々な個性の人間がいる、と言いながら、それでも善意の人しか想定していない。沢山の種類、と言ってもすべてはハトの社会しか想定していない。そこにタカのユートピアが出来たらどうなるか?ハトのユートピアにタカが侵入したら誰がそのタカを追い出すのか?ネズミにとってはネコが首に鈴を付けていてくれるといいのだが、では誰が鈴を付けるのか?やはりノージックは視野狭窄のようだ。
 民主制度ではどうなるか?一人一人にあった社会制度ではない。むしろその逆で「すべての人が不満を持ちつつ、それでも、この程度ならしょうがないか」と諦める社会制度だ。それだけにこの社会には雑多な人々がいる。ピカソやアインシュタインのような天才やエリザベス・テーラーやバートランド・ラッセルのような有名人も同じ町内にいるかも知れない。そのような社会に住んで見たいと多くの人が集まってくる。 (もっとも悪いヤツらも来るだろうから、それなりの警戒心は必要となり、「自己責任」が問われる社会ではある)。学問・思想の雑種強勢が期待出来るし、自家不和合性に陥る心配はない。 内部からの攪乱や、外部からの侵略にも強い。多くのヘソ曲がりがこの制度を批判するが、この制度はしぶとく進化して行く。これが「民主制度」だ。ユートピアではない。しかし現実にしっかりと根を張った、十分に機能している制度なのだ。
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<ノージック批判も「素人さん、お断り」の文章> ノージックをどのように評価するか?批判的な文章を探してみた。その一つの例をここに引用しよう。ノージックを批判しているのだが、その批判の文章も、ノージックと同じように「素人さん、お断り」の文章だ、とのTANAKAに見方を前提に読んで頂きましょう。
 一般的にいえば、ノージックによる国家の導出は、以下の3つの理由から失敗に終わっている。まず第1に、見えざる手のプロセスは、権利の譲渡を正当化する契約上の合意を構成したり生じさせたりしない。第2に、そのような権利についてのノージック自身の説明では、権利が譲渡不可能とされており、原則的にいっても、契約上の合意によって譲渡できないものとされている。 そして第3に『アナーキー・国家・ユートピア』ではいかなる人権理論の概略さえ描かれていないので、ノージックは否応なしに矛盾した自然状態を持ち出して、狭く捉えられた合理的な経済的行為者が、自らの利己主義的決定を通じて国家を生じさせると考えられるようにしなければならないのである。
 ロールズとノージックの著作における自由主義的契約論復活の試みについて私が述べた第3の点と最後の点は、その試みが内包する矛盾に対するこれらの批判から直接出てくる。それらの曖昧さや論理的矛盾は、現在の自由主義思想の危機的状況を背景にした場合、十分に理解できるものとなる。私の目的は、ロールズの公正としての正義理論とノージックによる国家の導出が、彼ら自身のタームの中で失敗に終わってしまっているのを示すことにあった。 私は結論として、彼らの理論を最もよく理解できる方法は、それらを 外部からの挑戦を受け自らの内的矛盾に苦しんでいる自由主義的諸制度の廃絶状態に対する反応と見なすことだと言いたい。つまり、それらは、伝統的に考えられてきたような政治哲学の研究というよりも、自由主義イデオロギーに対する貢献とみなされるべきなのである。それらは、それらが含んでいる仮定を説明するというよりも、ある特定の道徳的、政治的パースペクティブ、すなわち自由主義社会のパースペクティブを探求するものなのである。 しかしそれらが、自由主義社会の優れた正当化成功しているわけではない。どちらかといえば、ロールズとノージックの著作で試みられた自由主義の復活は、自由主義社会の危機に関してわれわれの理解を促進したというよりも、むしろその理解を妨げたと理解されなければならないのである。 (「自由主義論」から)
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<リバタリアンからの批判>  ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は、国家、あるいは少なくとも保護機能に制限された最小国家を正当化する、ロック的契約論の試みの「見えざる手」版である。ノージックは無政府自由市場的な自然状態から議論を起こし、誰の権利も侵さない見えざる手過程によって、最初は支配的な保護機能として、やがて「超最小国家」へ、そして最後に最小国家へと創発するものとして、国家を描写している。
 諸々のノージック的諸段階に関する詳細な批判に着手する前に、ノージックの構想それ自体におけるいくつかの重大な誤謬について考察しよう。それらの一つ一つが、それ自体で、彼の国家正当化の試みに対する十分な反駁になろう。第1に、足跡を隠そうとするノージックの試みにもかかわらず、ノージックの巧妙な論理的構築物が史実において見られるかどうか調べるのは、大いに適切なことである。 つまり、いずれかの国家が、あるいはほとんどないしすべての国家が、ノージック的な仕方で実際に進化したかどうかを調べることである。史実によってあまりに強く基礎づけられている制度を論じるにあたり、ノージックが実在する国家の歴史についていささかも言及していないのは、それだけで重大な欠陥である。事実、ノージック的な仕方で築かれ発展した国家があるという証拠は、どのようなものであれ存在しない。それどころか、歴史的な証拠には全く異なる仕方が刻み込まれている。 すなわち、事実を辿ることのできる国家はどれも、暴力、征服、搾取の過程を経て誕生している。つまり、ノージック自身が、個人の権利が侵略されているのを認めなければならないであろう仕方で、国家は生まれてきているのである。トマス・ペインが『コモン・センス」で国王と国家の起源について述べているように、
 古代の暗いベールをとり除いて王族の起源を探るなら、初代の王は行動力のあるギャングの親分にすぎなかったことがわかるだろう。かれは野蛮な手口や悪知恵にたけていたため、侵略者たちの間で首領をいう名をもらったのだ。そして勢力を伸ばし、略奪範囲を広げることによって、おとなしい無防備な人間を脅しつけ、身の安全を図ろうとする者からしきりに貢ぎ物を巻き上げていたのだ。 
 ペインの説明に見られる「契約」がリバタリアンによって自発的合意として認知できるものではなく、強制された「みかじめ料の取立て (protection racket)」の性質を持つものである点に注意されたい。 (「自由の倫理学」から) 
 最小国家に関するノージックへの批判はまだまだ続くが、引用はここまでとする。ノージックを扱った書物のうち、その多くは「素人さん、お断り」の文章だった。そうした中で、これは比較的普通の言葉で書かれているものだと思う。それでもTANAKAは不満だ。もっと分かりやすい批判はないのだろうか?どこにもないのなら、TANAKAが挑戦してみようと思い立った。ということで、来週はTANAKA流ノージック批判にチャレンジします。乞うご期待。
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<主な参考文献・引用文献>
『グローバリズムという妄想』                  ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25 
『ノージック 所有・正義・最小国家』       ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『自由主義論』                         ジョン・グレイ 山本貴之訳 メネルヴァ書房 2001. 7.30
『自由の倫理学』 リバタリアニズムの理論体系 M・ロスバード 森村進・森村たまき・鳥澤円訳 勁草書房    2003.11.25
( 2004年8月16日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(17)最小国家は理想社会ではない
<怖いお兄さんたちの最小国家> ノージックは「〇〇にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」と言う。それならば、〇〇が次の人たちだったらどうだ?指定暴力団山〇組、アル・カポネ、ヒトラー、麻原彰晃、ジョン・ロールズ、市民運動家たち。つまりこの人たち及びそのシンパが最小国家を作ったらどうなるか?だ。
 自然発生的にできる保護協会はどういうものだろうか?日本では山〇組や稲〇会や住〇会が積極的に保護協会を作るだろう。歴史を振り返れば清水次郎長や国定忠治も動いたに違いない。アメリカではトゥームストンでクラントン兄弟が動きワイアット・アープ兄弟がそれを阻んだ。イタリアではゴッド・ファーザーがよく知られている。こうした保護協会が極少国家を作り、さらに最小国家に発展する。 それでは怖いお兄さんたちはどのような最小国家=ユートピア(実際にはあり得ない理想郷)を作るだろうか?アマチュアエコノミストが好奇心と遊び心をもって考えてみよう。
 怖いお兄さんたちの作る最小国家では、例えばカジノを組の独占事業とする。大麻・マリファナなどの薬物の販売許可を組に独占的に与える。他の最小国家とは犯人引き渡し条約を結ばない。 他の最小国家から観光名義の客が来訪し、組は莫大な利益をあげる。経常収支は常に黒字。経常収支はカジノと薬物で稼ぐので、自国通貨が高くなっても輸入品が安くなるだけ、経済的には何も困ることはない。国民(=組員)は近隣の最小国家へ出向き荒仕事をして、警察に目を付けられてヤバくなると、自国へ逃げ込む。犯人引き渡し条約を結んでいないので、自国から出なければ逮捕される心配はない。
 こうした場合周辺国家は圧力をかけないのだろうか?自由貿易に徹していれば効果はあるが、保護貿易、自給自足を目指していると効果はない。かと言って軍事的圧力はかけられない。どの最小国家も他国に圧力をかけられるほどの軍事力を持たないし、組員は即ち軍人になり、ここは最強の軍事大国になるからだ。 経済的圧力に関して言えば、江戸時代、田沼の時代、浅間山の噴火による飢饉が思い起こされる。1783(天明3)年7月8日、浅間山は大噴火を起こした。噴煙が空を覆い、東北地方は冷害になり、コメ不足を起こした。各地で餓死者が出た。しかし松平定信藩主の白河藩だけは例外で死者は出なかった。藩主松平定信が諸藩から前もってコメを買い占めていたからだ。幕府の実力者田沼意次は各藩にコメの買い占めをしないように伝えたが、強制力はなかった。 小判があってもコメがなく飢え死にする者さえ出た、と言われている。こうした場合、周辺諸藩は白河藩に圧力をかけることは出来なかったのだろうか?軍事的には不可能。幕府が許さないし、農民も反対する。現代でも、アフガニスタン、イラクへのアメリカの軍事行動には大きな反対運動が起きる。ミャンマーへの経済的圧力には批判は出ない。周辺諸藩が白河藩に圧力をかけられるとしたら、出津・入津(輸出入)が多くなければならない。 コメ以外に綿、魚、野菜などの交易が盛んで、各藩が経済的に頼り合っていれば経済制裁も効果がある。しかし当時はそれほど各藩の経済は頼り合ってはいなかった。この飢饉を「人災」と言う人もいる。それは「当時から市場経済だったからだ」との主張がある。それは経済を知らない人の考えで、事実は逆。松平定信が買い占めをやっても、自由な市場が整っていれば(ヤミ市場でもいい)、必要な所=高く買ってくれる所へコメは行く。そして周辺諸藩の経済的圧力も効果が期待できた。
 組員の中に経済学に興味を持つ人間が出てくると、こうした仕組みが分かってきて、周辺最小国家から経済的圧力をかけられないような貿易体制を取る。つまり生活必需品の自給率を高くすることだ。こうすればモンロー主義も押し通せる。周辺最小国家がどうなろうと、組員には影響がない。 食糧自給率が高いことで、この国へに信頼は高い。日本では「食糧自給率を上げよう」と叫べば誰も反対はしない。こうして組員中心の最小国家は繁栄していく。最も成功した最小国家として世間の注目を浴びることになる。
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<市民運動家たちの最小国家> 各種市民運動の参加者が作る最小国家はどのようなものなるだろうか?地産地消、地域通貨、フェアトレード、ジュビリー2000、WTO反対、憲法9条を守る会など。こうした運動に参加した人たちも積極的に保護協会を作り、最小国家へと発展させる。
憲法 日本国憲法と同じ「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と制定された。そして自衛隊も設置された。一部のオールド・リベラリストは「非武装・中立」を主張したが賛成者は少なかった。日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 Treaty of mutual cooperation and security between Japan and the United States of America )は締結されなかった。 これにより、日本国軍隊(自衛隊)はアメリカとの協議を必要とせず、単独で軍事行動を起こせるようになった。かつて日英条約を結んでいた日本は、これを破棄し、アジアで英国と対立する軍事行動を起こすようになった。最小国家もアメリカとは協議なしで、つまりパックス・アメリカーナとは無関係に軍事行動が起こせるようになった。最小国家の人々はアメリカとの関係が薄らいだことを喜んだが、周辺国家はアメリカの牽制が効かなくなったことに不安を覚えるようになった。 憲法は具体的な法律、というよりも精神的な目標になった。「憲法9条の精神を大切に」の合い言葉から、「世界人類が平和でありますように」といった新興宗教のような言葉も並んだ。このためその解釈をめぐって論争が起きた。また「自衛隊の存在そのものが憲法違反ではないか?」との異議も出た。しかしそれらの論争は、政治哲学と同じ「素人さん、お断り」の論争で、一部の人たちの「論争趣味の会」に終始した。 「在日国連平和維持軍」の構想は、「憲法9条の精神に反する」との理由にならない理由で無視された。
貿易 貿易政策に関しては基本政策が定まらなかった。「フェアトレード派」は自由貿易を主張したが、「WTO反対派」は「自由貿易は先進国の大企業・多国籍企業を利するだけだ」と反対した。そしてこの最小国家は、「基本的に先進国だが、途上国側に立って経済外交を進めるべきだ」と主張した。それに対して「それでは国益を放棄し、利他主義国家になるのか?」との反論も出たが、結局うやむやになった。 「自由貿易こそが国民を豊にする」という経済学の常識が理解できなかった。
地産地消 この地方では昔から、農産物の品種改良が盛んであった。江戸時代には百姓だけでなく、武士、町人も「好奇心と遊び心」をもって、花や金魚の品種改良を楽しんでいた。その伝統を生かして、農産物の輸出に力を注いだ。しかし一方で「地産地消派」も動いた。このため周辺国も地産地消を唱え、この国からの農産物を輸入を制限し始めた。「身近な土地で取れた農産物を食べたい」との思いが、「だからお宅の国からの農産物は買わないよ」に結びつき、 主要な輸出産業になると思われていた農業が、地産地消の跳ね返りで衰退し始めた。「農業は先進国型産業である」という経済学の常識が理解できなかった。
地域通貨 こちらは国家設立当初は元気が良かった。「今までの経験が十分に生かせる」と勢い込んで、各地で地域通貨が発行され、それを扱う銀行もできた。しかしここの銀行では、預金に金利が付かず、銀行からの融資にも金利は付かなかった。このため。預金者は銀行へ預ける代わりにタンス預金を始めた。 銀行の融資活動が停滞したので、自己資金のない人は新規事業が起こせなくなった。自己資金を持たない者は「高い金利でもいいから貸して下さい。それ以上の利益を上げる自信があります」、「たとえシャイロックのような金貸しでも現れて欲しい」と言うようになった。 しかし地域通貨の主催者たちは「シルビオ・ゲゼルが言うように、お金は老化しなければならないのだから、金利を取ってはいけないのだ」と言い、貸付金利ゼロを主張した。 この結果、銀行の信用創造は低下し、通貨流通量は減り、さらに流通速度は低下した。これらのことが重なり経済は低迷し、デフレスパイラルに陥った。しかし地域通貨派はこれを理解出来なかった。 「地域通貨ではインフレはない」と主張していた政策担当者は、「デフレは価格が下がることなので、良いことだ」と言うようになった。「インフレはいついかなる場合も、貨幣的現象である」という経済学の常識が理解できなかった。
死刑制度 この国では死刑制度が廃止され、仮釈放ナシの長期懲役・無期懲役が定められた。このため殺人を犯して50年の懲役・仮釈放ナシが定まったとする、この囚人が刑務所で殺人を犯すと、さらに50年の懲役・仮釈放ナシが追加される。つまり100年の懲役になる。さらに殺人を犯すと、合計150年の懲役になる。人間、そんなに長くは生きられない。これでは「死んでも地獄で100年は暮らすことになるぞ」との脅しにならない、脅しだった。 そしてこの刑法では、仮釈放がないので、刑務所で模範囚になろう、とのインセンティブは働かず、刑務所内は殺伐とした雰囲気だった。さらに現場の警察官のなかに不満が高まり、逮捕のとき抵抗する容疑者はその場で処刑=容赦なく射殺されるようになった。こうしたことを「簡易死刑執行(summary execution)」と言う。
市民運動 政策上の問題が起こると、署名運動が活発に行われ、デモも盛んだった。このため議会の存在感は薄れた。犯罪に対する市民の追求も厳しくなり、政治的な犯罪に対しては、市民運動が追求し、容疑者に赤い三角帽子を被らせて町を引き回すことも始まった。若者は「造反有理」を叫んでいる。政策決定および裁判が、議会・裁判所から、市民運動に移った。三権分立の原則がブレ始めた。最小国家運営派は「直接民主主義に近づいた」と誇らしげに語った。しかしそれは同時に「民主制度が破産する」始まりでもあった。
債権放棄 この最小国家には旧日本国から引き継いだ、最貧国に対する債権があった。政府関係の債権はパリクラブで、民間の債権はロンドンクラブで協議されていたが、この最小国はパリクラブでの債権放棄を宣言し、他国へも、これに同調するよう呼びかけた。政府の動きに同調して民間金融機関でも最貧国への債権放棄を検討する動きが出た。それに対して株主有志から異議が唱えられた。「そんなことしたら特別背任で訴えるぞ」との脅しもあった。 それでも銀行経営者の中には債権放棄を検討しているようだった。このため銀行の自己資本率低下を懸念して、銀行株が低下し始めた。その他の経済動向と連動して、この最小国家の株価は低迷を続けた。この国では株式の「カラ売り」が規制されていたため、株の続落に歯止めが掛からなかった。他国の金融機関はこうした動きを見て、いずれ債権放棄が要請されるのではないかと懸念し、重債務国への投資を制限し始めた。投資が途絶えたため最貧国の経済は成長する道を失った。「経済を成長させるためには、それ相応の投資が必要だ」という経済学の常識が理解できなかった。
トービン税 グローバリゼーション反対運動のスローガンの1つである「トービン税(外国為替市場の取引に課税し、それを最貧国の支援のために使おうというもの)の導入」が決定した。本来は外国通貨への投機を少なくし、為替レート安定のため、国際的に実施されるべき税制だったが、諸外国の賛同が得られないので単独で実施することになった。結果はどうなったか?非常に低い税率(0.01%)だったが、一般の投資家は手を引き始めた。企業・投資会社・デイトレーダーたちは国外へ逃げ、タックスヘイブンの諸外国で取引するようになった。相場の動きは、小さな値動きに反応せず、荒っぽい値動きになった。市場参加者が減ったことにより、少額の投資金額で値を動かせるように思えてきた。 株の仕手戦に似た値動きが見られるようになった。こうした動きは数学の「大数の定理」をイメージすれば理解出来るのだが、市民運動家にはこの動きは予想できなかったし、どういう意味があるのかも理解できなかった。 「市場の取引は、参加者が多くなることによって、より安定した取引になる」という経済学の常識が理解できなかった。
食糧自給率向上 「食糧安保のためにも食糧自給率を向上させよう」とのスローガンが採用された。このため第3次産業、第2次産業から第1次産業に人材、資金、資源などが移っていった。産業構造の変化に伴って、この国の産業生産性が低下した。「経済成長とは生産性の向上である」という経済学の常識が理解できなかった。なおコメを自給しようとの運動が活発になるとどうなるかは<自給自足の神話>▲を参照のこと。
少年犯罪 少年・少女の凶悪犯罪は国民の生活水準とはあまり関係がないようだ。十分豊かな社会になったにも関わらず、少年・少女の凶悪犯罪は減らなかった。これに対して教育者の対応は「命の尊さを学ぼう」ということで、犯罪を犯した子供の具体的な生活環境や担任教師の指導方法などは問題にされなかった。一時代前は、社会の問題として個々のケースを取り上げなかったが、現在ではさらに問題を抽象的な扱いにした、まるで宗教のような対応になった。 具体的な対策は何も提案されず、議論もされず、解決策は何も生まれない。こうした状況に若者は絶望し、他の最小国家へ移民するものが出始めた。怖いお兄さんたちの社会や、ジョン・ロールズの最小国家や、麻原彰晃のユートピアへ移り住む若者が増えてきた。親と子供が別々の国籍を持つ、ということが珍しくなくなってきた。「個人が自由に生きようとする、その自由が尊重されるようになった」と、ノージック信奉者は誇らしげに胸を張った。親と子供が別々の価値観を持って、別々の社会で生活する、というナチスのヒトラーユーゲント、旧ソ連のコムソモール、ピオネール、中国の紅衛兵、民主カンプチア時代のサハコーの現代版になった。 こうした青少年組織がどれほど「権力者に奉仕する組織」であったか、最小国家運営者は理解できなかった。
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<ジョン・ロールズの最小国家> ジョン・ロールズが中心になって最小国家を作るとどのようなユートピアができるだろう?ノージックは最小国家から拡張国家へ次のように定義している。
第1 侵略行為から市民を守ることに関わる政府部門があり、防衛庁は国外の侵略者から市民を保護する。警察や裁判所は市民をお互いから守る。最小国家ではこのために税金を集めることを容認する。
第2 多様な公共サービスを供給する政府部門もある。道路、消防、図書館など、生活向上のための部門。ただしこれに税金を使うことは許されない(有志が寄付するのかな?)。
第3 病気、貧困、失業対策など福祉政策担当部門。ノージックはこの部門は不当だ、と言う。
第4 検閲、義務教育など市民の生活に干渉する部門。この部門も不当だと言う。
 上記はノージックの考えだが、ジョン・ロールズが最小国家を作ったら、これとは全く違う国家を作るだろう。それは福祉国家で、多数のアファーマティブ・アクションを作る。特に年金制度には力を入れる。所得による格差をなくすために、現在の日本と同じ賦課方式を採用する。年金制度は2種類あって、@賦課方式とか確定給付型年金と呼ばれる方式。 これは現役世代が年金生活者の面倒を見る方式で、経済が成長するか、若い世代の人口が増えるか、が必要になる。日本のように高度成長が期待できず、少子化が進む社会ではいずれ破綻する。A確定拠出型年金。これは若いときから各自の自己責任において積み立てていく方式。最高限度は定めるがその範囲内で拠出金額を決める。このため若いときから積み立てた金額の大小によって、第二の人生になって年金を貰うときに、その金額に大きな差が生じる。「結果平等主義者」は確定拠出型年金──「401K」とも呼ばれる──に反対する。「正義論」信奉者は当然反対する。
 このためジョン・ロールズが主催する最小国家は現在の日本と同じ賦課方式を採用する。そうしなければ筋が通らない。賦課方式を維持するには経済を成長させるか、現役人口を増やすかだ。経済を成長させれば所得格差が生じる。格差を広げずに経済を成長させることは不可能。とすれば人口を増やす他はない。「生めよ増やせよ」と政府が号令をかけても豊になると少子化が進む。豊かな社会を目指さず、国民を貧困状態におけば、人口は増える。あるいは移民をどんどん受け入れる。ただしこの場合、移民許可基準を甘くするから、悪いヤツ、ゴッドファーザーの身内も移民してくる。 あるいは、移民者の貧富の差が大きいかもしれない。だとすれば、入国した時点で財産をすべて没収して、必要な物だけ再分配する。これは日本で、オーム真理教をはじめいくつかの新興宗教ですでに採用済みなので、実施はスムーズに行われる………。ノージックはどのような最小国家が出来ると考えたのだろうか?どうしてこのような最小国家がユートピアなのだろう?それともそこまでは考えられなかったのだろうか?周囲に経済学に関心のある人はいなかったのだろうか?それでもノージックを論じた書物は多い。それらの著者はどのような最小国家は想像したのだろうか?どうしても最小国家が理想社会だとは考えられない。
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<主な参考文献・引用文献>
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成反対』 スーザン・ジョージVSマーティン・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社   2002.11. 2
『利潤か人間か』 グローバル化の実体 新しい社会運動                  北沢洋子 コモンズ  2003. 3.15
『ノージック 所有・正義・最小国家』          ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房  1994. 7. 8
『アナーキー・国家・ユートピア』 上 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』 下 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1989. 4.15 
『自由論』                         アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房 1971. 1. 2
( 2004年8月23日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(18)違った立場から考えてみよう
<視野狭窄にならないために> 「外部社会に影響を与えず、参加者が楽しむ会」、はそれなりに存在意義はあるだろう。多くの市民運動や趣味の会がそうであるように、豊かな社会になると生き甲斐を求めて多くのサークルができる。親切の押し売りをしない限り誰の迷惑にもならない。 しかし「政治哲学」がそうしたレベルに見られて不満はないのだろうか?と言うのは部外者の余計な心配で、関係者はそれなりの存在意義を感じているらしい。 ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に対する評価を少し引用し、それとは全く違った立場からの考えを書いてみることにした。
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<歴史の必然性> 政治哲学の多くの書物に登場するアイザィア・バーリン、その著作「自由論」から「歴史の必然性」と題された部分を引用しよう。政治哲学と言われる分野ではどのような議論がされているのか?どのような言葉が使われているのか?素人の読者にどれだけ分かりやすく訴えているのか? そのような意味でここに引用してみよう。
 一般に現代思想において2つの強力な主義・学説は、相対主義と決定論である。前者は、慢心した自己確信、尊大な独断論(教条主義)、道徳的自己満足への解毒剤をなすものと考えられるにもかかわらず、その根底はいちじるしく誤った経験解釈におかれている。後者は、その鎖は花で蔽われているにもかかわらず、 また高貴なストア主義の誇示や宇宙的計画の壮大・光輝にもかかわらず、全世界を牢獄として表示するのである。相対主義は、個人の抗議や道徳原理への信仰に対して、多くの世界が滅び、多くの理想が時とともに安っぽく笑うべきものとなってしまったのを見てきた人間の諦念ないし皮肉を対置する。 決定論は、生活と思想の真の、非個人的な、不変の構造がどこに見出されるかを示すことにより、われわれを正気につれ戻すのだという。前者は、それが格率、つまりわれわれに自分の限界を、また問題の複雑さをたんに思い起こさせるだけのもの、であることをやめ、ひとつの重大な世界観 Weltanschauung としてみられることを要求するとき、言葉の誤用、観念の混同、容易に暴露される論理的誤謬への依存にもとづくものとなってしまう。 後者は、検討可能な証拠が挙げられうる場合に自由な選択に対する一々の障害を指示するということ以上に進み出ると、それは神話か、理由のない形而上学的ドグマかにもとづくものであることが明らかになってしまう。両者いずれも時として、物事の本性へのより深い、より破壊的な洞察という名において説き、あるいは嚇して、人間の平常の道徳的・政治的信念を放棄させることに成功したことがあった。 しかし、これは精神症や混乱の兆候以上のなにものでもない。というのは、そのいずれの見解も、表層ないし深部の、いかなるレヴェルの人間の経験によっても支持されるようには思われないからである。では、どうしてそれらの主義・学説(しかもとくに決定論)が、他の点で明晰かつ正直なかくも多くの人々に、あれほど大きな呪縛力を及ぼしたのであろうか。 (「自由論」から)
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<「自由の正当性」から> TANAKAはこのホームページでノージックを批判しているのだが、政治哲学の分野で大きな影響を与えたのは間違いない。いくつか引用してきたが、もう一つここで引用しよう。政治哲学の分野ではどのような議論がなされているのか?イメージを感じ取ってください。
 このようなコンセンサスが崩壊していることについては、殆ど証拠を挙げるまでもないだろう。我々が今日政治的にもイデオロギー的にも不確定な世界に生きているということは、世上ふつうに観察されるところである。政治的価値体系の知的正当化は、再び真剣な企てとなっている。そればかりではない。自然法や自然権や社会契約といった、政治哲学における幾つかの伝統的観念が、墓場──かつて論理実証主義者によってそこに葬られたのだが──から発掘されることになり、今や再び多種多様な見解を支持するために用いられている。 たとえばロールズやブライアン・バリー、ノージックやドゥオーキン──最も卓抜した者だけを挙げるとして──らの最近の作品は、哲学とイデオロギーとの間の(あるいは説明と勧告との間の)あの区別、論理実証主義者と哲学や社会科学における彼らの後継者とにとってはかくも中心的であったあの区別を、多少とも不明瞭なものにしてしまった。イデオロギーという語は、経験主義社会科学の全盛期には何ほどかの軽蔑的意味合いを帯びていたものだが、実際の話、そうしたものは今は消え去っているといっても、決して過言ではないだろう。(中略)
 たとえばノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)のもつ重要性はまさしく次の点にあった、つまり、(集散主義的体制と比較して)自由市場の方が資源配分の上で効果的だという観点に立って自由主義的個人主義を擁護することから、集散主義的な介入が一群の自明と仮定されている自然権や人権に対して加える「暴力」を考察し批判することへと、注意を転じた点である。むろんのこと自由社会の理論家の中でノージックだけが、自分の主張を機械論的な社会科学によりも、むしろ倫理と人間の考察に基づかせた、というわけではないが、彼の出版に伴う反響が大きかったために、そこで為された論争は、他の同様にもっともらしい倫理学的リバタリアニズムから注意を逸らしてしまうことになった。 (「自由の正当性」から)
 ここでは、20世紀の最も有名なリバタリアン文書として、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』及びハイエクの『隷従への道』をあげている。 さらにフレデリック・バスティアの言葉を引用して次のように言っている。
 フレデリック・バスチアットの言葉によれば──もっとも彼自身は無政府主義者ではないのだが──、国家とは「それによって誰もが他人を犠牲にして生きていこうとする、壮大なる虚構」である。この観念は、本来的マルクス主義的国家論(即ち国家を所有の観点から定義する国家論)の一変種──つまり、専門家された統治活動に従事する職員が周知の階級利害とは全く異なる集団利益を次第にもつようになる、と考えるような理論──と何か共通するところがある。本来的なマルクス主義と論理的に無関係であり、それよりはずっとまともであるマルクス主義的国家論の一変種は、個人主義的アナーキストの理論とどこか似通っているのである。 (「自由の正当性」から)
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<非政治的用語による説明> このHPでは「素人さん、お断り」と言う表現で政治哲学を批判してきた。ノージックはこうしたことに何か言っていないだろうか?そう思って探してみた。次のような文章が見つかったのでここに引用することにした。
 この自然状態への論考は、政治哲学にとっての重要性に加えて、説明上の諸目的にも資することになろう。政治の領域を理解するための可能な方法は、次に挙げるだけである。@非政治的な用語によって政治の領域をすべて説明する。A非政治的なるものから生まれるが、それには還元できないものとして政治の領域を見る。つまり、非政治的な諸要素による組織の一態様であって、新規の政治的諸原則の語によってのみ理解可能となるものとしてそれを考える。 B政治の領域を完全に自足的な領域として見る。このうち最初のもののみが政治の領域全体の徹底した理解を約束するものだから、これは理論についての最も望ましい選択肢になり、不可能であることがわかっている場合にのみ放棄されるべきだと言えよう。我々は、この最も望ましい完全な説明形態を、この領域の根本的説明と呼ぶことにしよう。 (「アナーキー・国家・ユートピア」から)
 ノージック自身は非政治的な用語で説明しているつもりらしい。しかし日本語で読む限り「素人さん、お断り」の文章だ。この文章がどのような感想をもって読まれているのか、「公正無私なる見物人」になってみようとはしなかったようだ。「アダム・スミスは生きている」の立場ではない。「見えざる手=invisible hand」という表現を使っているので、アダム・スミス派かと思ったが違ったようだ。
<「道徳情操論」から> 人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい、ということ以外にはなんら得るところがない場合でも、それらの人たちの幸福が自分自身にとってなくてならないもののように感じさせる何かの原理が存在することは明らかである。 憐憫または同憂は、まさにこの種の原理に属し、それは他人の不幸を直接見たり、あるいは他人の不幸について生々しい話を聞かされたりすると、それらの人々の不幸に対してただちに感ずる情緒である。他人が悲しんでいるのを見るとすぐに悲しくなるのは、なんら例証する必要のない自明の理である。なぜなら、この情操は、人間の本性における他のすべての本源的情感と同様に、徳の高い人間とか慈悲深い人間ならばあるいは鋭く感ずるかも知れないが、しかし必ずしもこれらの人々だけがこれを持つとは限らない。 極悪人や社会の掟を破った最も因業な人間といえども、全くこの情操を持たない、とは言えない。
 このように始まるアダム・スミスの「道徳情操論」、このなかでTANAKAが度々引用する「公平無私なる見物人」という言葉が出てくる部分を引用しよう。
 われわれが自分自身の行為を自然に是認したり、あるいは否認したりする場合に採用する原理は、われわれが他の人々の行為に関して同様の判断を働かせる場合に用いる原理と同一であるように思われる。われわれが他人の行為を是認したり否認したりするのは、われわれがその人の事情を十分熟知した場合に、その人の行為を支配した情操や動機に対して完全に同情できると感ずるか、あるいは出来ないと感ずるかによって決定する。これと同様の方法でもって、われわれが自分自身の行為を是認したり、否認したりするのは、われわれが自分の立場を他人の立場に置き換えて、他人の眼をもってまた他人の立場から自分の行為を眺めるとき、 われわれが自分の行為を支配した情操や動機に全面的に移入し、同情できるか、どうかということによって決定せられる。われわれはいわば自分自身の自然の立場から離れて、自分自身の情操や動機をわれわれとは相当の距離をへだてて眺めようと努力するのでなければ、決して自分自身の情操や動機を観察することもできず、また自分自身の情操や動機に関していかなる判断をも下しえない。しかるに、そうするためにわれわれは他人の眼を借りてそれらの動機を眺めようと努力するか、あるいは他の人々がそれらの情操や動機を眺めるのと同様に、それらのものを眺めるよう努力する以外に方法はない。したがって、われわれはそれらの情操や動機に関していかなる判断を下すことができようとも、 その判断は常に暗々裡の他人の判断が現在どうであるか、あるいはある種の条件の下ではそれはどういうふうであっただろうか、あるいはそれはどういうふうでなければならぬと、われわれに想像せられるか、ということとある程度の関係がなければならない。
 われわれは、すべての「公平無私なる見物人」がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を検討すべく努力しなければならない。 もしも、自分自身を「公平無私なる見物人」の立場に置いてみて、我々がわれわれ自身の行為を支配したあらゆる情感や動機に徹底的に移入するならば、 われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する。もしもそうでなければ、われわれはこの公平なる裁判官の否認に移入して、自分の行為を断罪する。 (「道徳情操論」から)
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<個の利己主義、種の利己主義> このような『アナーキー・国家・ユートピア』、そのおかしいところの本質は何なのだろう?政治哲学以外の外部の意見、「学際」という観点がなく、視野狭窄であった。ではどの見方、考え方が足りなかったのか? ここでTANAKAは<個の利己主義、種の利己主義>▲という見方をする。 「ある者を他の者のために犠牲にするのは不正だと彼は主張する。ある人物は他の人物のための資源として利用されてはならない」。しかし自然界では、個は種の犠牲になることもある。遺伝子には「個を犠牲にしても種の繁栄を図るような指令」がインプットされている。交尾した雄のカマキリがメスに食べられてしまうのは、「個の利他主義」ではなくて、「種の利己主義」と考えられる。 ある個体が種の繁栄のために、他の個体のために犠牲になる、ということは自然界にあっては異常な事ではない。人間だけが、こうした自然界の仕組みから外れているとは考えられない。人間も自然界にある生物=動物であると考えれば、「ある人物が他の人物のための資源として利用されることも遺伝子情報に組み込まれたいることもある」と考えるべきだろう。 ノージックが確信をもって言っていることが、生物学=進化論から見ると少し違っている。TANAKAが「視野狭窄だ」と言う根拠はこうしたことからだ。好奇心と遊び心をいっぱいに、政治哲学以外の分野の常識で考えると、「個の利己主義」を優先する結論は出てこない。
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<遺伝子は「個の命」より「種の繁栄」を優先する> ここでは政治哲学とは全く違った分野からの文章を引用する。ノージックの説明に関することを言っている訳ではないが、全く違った発想による文章を読むことによって、「公正無私なる見物人」に近い見方ができるのではないかと思う。人間とか、社会に対する捉え方、それとそれを説明する文章、そうしたことの違いを感じて頂きましょう。TANAKAが度々言う「センスの違い」を感じて頂きましょう。
 1960年代半ば、生物学会に革命が起こった。その先駆者となったのは、ジョージ・ウィリアムズとウィリアム・ハミルトンの2人であろう。この革命は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という言葉で最もよく知られている。その中心となっているのは、個体が自分自身、ましてや自分の所属する集団や家族のために行動するわけではなく首尾一貫して自分の遺伝子のために行動するという考え方だ。なぜなら、個体が遺伝子のために行動する個体の子孫であることは動かしがたい事実だからだ。われわれが不妊の祖先を持つことはあり得ないのである。
 ウィリアムズとハミルトンはともにナチュラリストで、一匹狼の研究者である。アメリカ人のウィリアムズは海洋生物学者として出発した。一方、英国人のハミルトンははじめ社会昆虫を研究していた。1950年代の終わりから、1960年代初頭にかけて、まずウィリアムズが、それからハミルトンが、進化一般、とくに社会的行動に関する新たな驚くべき見解を発表した。ウィリアムズはまず、老化現象とは死は体にとってマイナスの現象であるが、生殖能力がなくなったあと体を老化させることは遺伝子にとっては意味があることなのだと示唆し、動物(そして植物も)は種や自己のためではなく、自分の遺伝子のために行動するようデザインされていると結論した。
 通常、遺伝子と生物体の利害は一致する。だが、常にというわけではない(サケは産卵の努力によって死に、ミツバチは自らの命を犠牲にして敵を針で刺す)。しばしば、遺伝子は自己の利益にために生物体に子孫のためになるような行動を要求する──だが、必ずしもそうとは言えない場合もある(たとえば、鳥は食物に困ればひなを見捨てるし、チンパンジーの母親は乳を欲しがる子供を無情のも乳離れさせる)。親類のために行動させられることもある(アリやオオカミは姉妹の子育てを助ける)。ときには、大きな集団の利益になる行動をとらされることもある(ジャコウウシは幼い子供たちを守るために肩を並べて一群のオオカミに立ち向かう)。 他の生物に不利益な行動をとらせることもある(風邪をひくと咳き込む、サルモネラ菌に感染すると下痢をするなど)。だが、常に、例外なく、生物はおのれの遺伝子あるいは遺伝子のコピーが生き残り、複製できるチャンスを広げるような行動をとるようデザインされているのである。ウィリアムズは、彼特有のぶっきらぼうな調子でこう指摘した「一般原則として、他の個体のために行動する動物を観察している現代の生物学者は、その動物が他の個体に利用されているか、あるいは巧妙に利己的なのだと考えている」
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 この考え方は2つの方向から生まれてきた。まず第1に、理論的な考え方はこうである。遺伝子が自己複製しながら自然淘汰をくぐり抜けて行くとしたら、遺伝子の生存能力を高める行動を起こされる遺伝子はそうでない遺伝子を犠牲にして繁殖していく。これは必然的結果であり、計算のうえからも明白である。それは単に複製という事実が引き出す結果なのである。同じような洞察が観察と実験からも生まれた。個体や種というレンズを通して見た場合には不可思議に思われる行動のすべてが、遺伝子というレンズを通すことにとって、突然明確な意味を持つようになったのだ。例えば、ハミルトンが意気揚々と示したように、姉妹の生殖を助ける社会的昆虫は、自力で生殖しようとする個体よりも多くの遺伝子コピーを次の世代に伝えることができるのである。 したがって、遺伝子の観点から見ると、働きアリの驚異的な利他的行動も、まったくもって純粋に利己的な行動なのである。アリのコロニーにおける無私の協力は幻想でせある。働きアリたちは、自分の子ではなく、女王が生んだ自分の姉妹に遺伝子の永遠性を託して努力していた。しかし、その行動は人間が集団のなかで上位にのし上がるためにライバルを押しのけるのと同じように、遺伝子の利己性によるものだったのである。アリもシロアリも、クロポトキンが述べたように、個体として「ホップス的戦いを放棄」しているが、アリの遺伝子は放棄していないのである。
 この生物学的革命が生物学関係者に及ぼした知的衝撃はすさまじかった。コペルニクスやダーウィンと同じく、ウィリアムズとハミルトンは人間の自尊心に屈辱的な打撃を与えたのだ。人間は動物の一種に過ぎないというだけではない。自己中心的な遺伝子の、使い捨て玩具、あるいは道具だと言うのだから。ハミルトンは、自分の肉体とゲノムが、機械というよりむしろ社会に近いものだということに気がついた瞬間のことをこう回想する。「ゲノムとは完全に均質なデータバンクであり、1つのプロジェクト──つまり、生命を維持し、子孫を生むこと──に専念する特別チームであるとこれまで考えていたが、実はそうではないことに私は気がついたのである。どちらかと言えば、エゴイストや派閥が権力争いを繰り広げる会社の会議室のようなものだ、と思えてきた…… わたしという人間は傾きかけた連合国から海外に派遣された大使のようなものなのだ。分裂した帝国の気難しい君主たちから利害の対立する命令を託されているのである」。
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 同じ考えに辿り着いた若き研究者、リチャード・ドーキンスもやはり呆然としたと言う。「我々は生存ー機械、つまり遺伝子という名の利己的分子を保存するために盲目的にプログラムされた自動操縦の乗り物なのである。わたしはこの真実を思うたびにいまだに驚きで胸がいっぱいになる。あれからもう何年ににもなるというのに、それを完全に受け入れる心の整理がまだできていないようだ」
 実際、この利己的な遺伝子という概念は、ハミルトンの説を読んだ一人の学者、ジョージ・プライスに悲劇的なインパクトを与えたのである。彼はハミルトンの殺伐とした結論──利他的行為は実は遺伝子の利己性から生じているにすぎないという説──の誤りを証明するために生物学を勉強した。だが逆に、この説が反駁の余地のないほど正しいことを証明してしまった。それどころか、彼は計算値を改善したうえに、この学説を固める貢献までしてしまったのである。プライスはハミルトンと共同研究を始めたが、精神不安の徴候を徐々に見せ始めたプライスは、慰めを宗教に求め、すべての財産を貧困者に与え、家具一つない寒々としたロンドンのアパートで自殺した。遺品のなかにはハミルトンからの手紙が何通か含まれていた。 (T注 アンドリュー・ブラウンはその著書「ダーウィン・ウォーズ」をプライスの死から書き始めている)
 もっと一般的な反応は、はやくウィリアムズやハミルトンが姿を消してくれればいいと願うことだった。「利己的な遺伝子」という言葉自体が、ホップス哲学的な響きを持っていたため、社会科学者の大部分はこの利己的な遺伝子革命に反発し、スティーブン・ジェイ・グールドやリチャード・レウォティンら伝統的な進化生物学者はこの説を攻撃し続けた。彼らもクロポトキンのように、すべての無私の行為は根本的には私利追求であるというウィリアムズやハミルトンらの説(実際には、それは誤解であることあることが、おいおい分かってくるだろう)に反発していたのである。彼らはそういう考え方は、フリードリッヒ・エンゲルスの言葉にあるように、自然の豊かさを私利私欲という冷水につけて殺してしまうと考えたのである。 (「徳の起源」第1章「遺伝子の社会」から)
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<ジョージ・プライスの死> ジョージ・プライスが、住み着いていたユーストン駅近くの空き家で自殺したのは1974年の冬だった。プライスの身元を確認したウィリアム・ハミルトンは、部屋の様子を次のように話している。
「部屋の家具は床に敷いたマットレス、いすが一脚、テーブル、そして弾薬箱が数個だけだった。オックスフォード・サーカス近くのなかなか贅沢なマンションで最初に会った時には、書類箱や調度品もいろいろ見受けられたが、最後に残っていたのは安物の衣類、プルーストの上下巻き、そしてタイプライターだけだった。彼の書いたものの大部分は、安っぽいスーツケースと数個の紙箱に納められ、残りは弾薬箱の上に散らばっていた」
 利他主義者の死の床の様子は悲惨だった。プライスとハミルトンはどちらも理論生物学者だった。これが数学的で難解な研究分野であることは想像できるだろう。ところがプライスがこの分野でなしとげた発見が、彼を絶望と死へ導いたのだ。利己主義だけが報われているように見える世界で、利他主義が栄える方法を、彼は数式で公式化したのだ。その数式は十年前にハミルトンが発見していたが、プライスが書き直したものの方がエレガントで応用範囲も広かった。彼は、いかなる選択過程であってもその方向と速度を測定できる一般的な方法を考案した。それによって、ほとんどあらゆるものをダーウィニズム的に分析することが、原則として可能になる。
 プライスはこれを発見したときにひどいショックをうけたので、何か不備な点があるに違いないと考えて研究をやり直した。そして得られたのはより一般的、より有力な結果だった。こうして完成した研究が、彼の気を狂わせた。彼の方程式は動物にも、そして人間にすらも真に自己犠牲的な行動が存在しうることを示していたが、そこのは崇高な意味は何も含まれていないことも示しているようだった。ある行動の原因となっている遺伝子を広めるのを助けるような行動だけが、非常に長期にわたって存続できるのだ。人間も動物だから、人間の利他的な能力も厳密に限定されているに違いない。また、我々がもつ残酷さ、裏切り、利己主義の能力は取り消し不能なのだ。ジョージ・プライスは代数を通して原罪の証拠を発見した。
 それまでの彼は、独断的で楽天的な無神論者だった。そして人間は、その足取りは遅く断続的で、逆行することがあっても、より優れ、より賢い存在になってゆけるのだはないか、そしてその過程には自然な限界がないだろうと、彼は望みをもっていたようだ。彼の証明はそうしたことが起こり得ないことを示し、数学のわかる生物学者が見るときわめて美しくエレガントなものだったが、それはまた美しさやエレガンスが宇宙にとって何の意味もないことを証明しているようでもあった。人間の動機は複雑で難解だから、プライスを狂気に追いやった原因を正確に断定することはできない。しかし利他主義の公式を発見したことが、彼をひどい鬱状態におとしいれたことは間違いない。そして彼はある宗教体験でそこから救い出され、それは彼を善行マニアの道へと導いていった。
 祈らずにはいられない衝動に駆られて祈るうちに、プライスはキリスト教が真実であると確信するようになった。それは彼がBBC放送局のすぐ北側に住んでいた頃だった。よきサマリア人のたとえを用いてイエスが説いた絶対的で無条件な利他主義が、彼の残りの人生の指標になった。彼は科学研究を放棄したえあけではなかったが、生物学においてあまり訓練は積んでいなかったので、自分の発見を奇跡と考えるようになった。その一方で彼は浮浪者、アル中患者その他様々の惨めな人々に救いの手を差し伸べた。そして自分の時間、同情、そして金──最終的にはすべての所有物──を彼らに与えた。
 無神論者で唯物論者であったころのプライスは自制できないほど熱中するたちで、キリスト教徒になってもそれは変わらなかった。彼はほどなくして、自分を受け入れてくれた牧師と争うようになった。彼は牧師が熱心さに欠けると考えたのだ。彼はけっして、普通の意味でのファンダメンタリスト(原理主義者)ではなかった。ダーウィンの進化論を完全に受け入れ、自分の公式の研究を続けた。彼は天地創造の物語を文字通り信ずることもなかった。しかし彼は一途にそして頑固にイエスの声に従った。それはまるでアリが仲間の通った道の跡をたどってゆく様子に似ていた。 (「ダーウィン・ウォーズ」一番最初のところから)
 科学者が「あの人の理論は間違っている。自分が訂正しよう」と研究を始めて「あの人の理論は正しい。訂正しようとした自分が間違っていた」と気づいたらそのショックはいかほどだろうか?自然科学だけでなく、社会科学でも、研究していく内に自分の過ちに気が付き始めたら、どんな気持ちになるだろう?とは言え、最初から最後まで迷わない研究者の方が不自然だと思う。自分の理論、思想が本当に正しいのかどうか、いつも不安になって先へ進んで行くのが自然のように思える。「民主制度の限界」などどいっぱしのテーマに取り組んで、途中で迷ったり、新しい発見をしたり、それが好奇心と遊び心いっぱいでやっていける趣味の良いところだと思う。それにしてもジョージ・プライスを死に追いやった「遺伝子」、この研究の世界に入ったら、ダラー・オークションのようになかなか抜け出せないのかも知れない。 そのような魅力と魔力があるように思えてくる。
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<主な参考文献・引用文献>
『自由論』                       アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房 1971. 1.20
『自由の正当性』                       ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社   1990. 5.15
『アナーキー・国家・ユートピア』 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1985. 3.15
『道徳情操論』                          アダム・スミス 米林富男訳 未来社   1970. 4.25
『徳の起源』                         マット・リドレー 古川奈々子訳 翔泳社   2000. 6.14
『ダーウィン・ウォーズ』             アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社   2001. 5.15 
『ダーウィン以来』 進化論への招待    スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房  1995. 9.30
( 2004年8月30日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(19)人間も自然界の一部と考えると……
<「自由であるべき」という「個の利己主義」> イヤなことを強制されない自由、他人に迷惑をかけない限りやりたいことをやる自由。「自分は自分のために生きているのであって、他人のために犠牲になるために生きているのではない」という考え。こうした考え方は、政治哲学ではなくても、ごく普通に認められているだろう。しかし生物学での「自然界でのルール」となると、ちょっと違う。自然界では「個が生きること」よりも「種が繁栄すること」が優先される。遺伝子にそのようにプログラムが組み込まれている。生物学・進化論ではこのように自然界のルールを理解する。 種の繁栄のためには、個が犠牲になるプログラムが遺伝子には組み込まれている。しかしだからと言って「自分自身のために生きようとすることは悪いことなのか?」と問われれば、「みんなが自分自身の目標に向かって生きていくことは良いことだ」と答えたい。ではこうした「自然界の摂理」と「自由主義」のギャップはどのように解消したらいいのだろう。はっきりした答えにはならないが、「こうありたい」と「こうあるべきだ」の違いのようだ。「個人は自由であるべきだ」ではなくて「自由でありたい」なのだ。 自然界のルールでは、個人の存在はとても小さくて、周りの人たち、属する社会の犠牲になることもある。だからこそ、そうした自然界の過酷な摂理を理解したうえで、精一杯個人の自由が尊重される社会にできたらいいと思う。そういうことだろうと思う。ノージックを読んで感じるのは、こうした自然界への理解、その摂理を尊重する姿勢、あるいはその現実を認める謙虚さが感じられない。感覚の違い、センスの違いはそのような所にあるのでは無いかと思う。そこで政治哲学とは全く違う分野、生物学・進化論からの文章を、先週に引き続き引用することにした。 政治哲学の文章と、言葉の違い、読者を意識する態度の違い、そしてセンスの違い、こうした違いを感じていただければ幸いです。
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<G・ハーディンの「利他主義は存在するか」> <共有地の悲劇=The Tragedy of the Commons>や<救命艇に生きる=Living on a Lifeboat>で知られるガレット・ハーディン、その著作「サバイバル・ストラテジー」から、「利己主義」「利他主義」についての部分を引用しよう。 TANAKAが度々主張する「個の利己主義、種の利己主義」との関連で読んで頂きましょう。つまり自然界にあっては「個の利己主義」は説得力に弱い。個人の自由を主張するノージックの考え方とは、どうもセンスが違うようだ。
 メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハヌマンラングールのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ効果がもっと非暴力的な形で現れる。つまり新しいオスの匂いを嗅ぐだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になるのである。
 これらはすべて、厳密なダーウィニズムに基づいて簡単に説明することができる。ダーウィンの理論に対するもっとも重大な誤解は、自然淘汰は種にとってよい結果をもたらすよう作用する、と思いこむことである。そうではないのである。自然淘汰は個体の生殖系列(germ line)に利益をもたらすものであって、この過程は種にとって利益となるとは限らないのである。(この重要な問題には第6章でもう一度触れることにする)。種の観点からすれば、ブルース効果は生殖過程に不効率を持ち込むことにほかならない。だが割り込んでくるオスのマウスのための生殖系列という点からすれば、ブルース効果は効率的である。それは種全体の子孫の数を減らすことによって、そのオスに殺されるに決まっている(多分そうなるであろうが)子を産むために、月満ちるまで妊娠を続ける時間と努力の無駄が省かれる、という点にある。
 大人が子供一般──自分の子供に限らず──の生存を助ける行動は、利他的なものと見なすことができるであろう。だがこれは滅多にないことである。自分の子供だけを助ける行動は、そもそもこれを利他主義と呼ぶなら「血縁利他主義」という特別の名前で呼ばなければならない。この血縁利他主義の淘汰上の価値は容易に理解できる。
 血縁利他主義は「純粋」利他主義とは明らかに違う。親がそのために犠牲になる子供というものは、一部は親自身なのである。具体的に言えば、子供の遺伝子の半分は、片方の親の遺伝子と同じである。だから自分の子のために犠牲になるという場合、この親は「半利己的」なのである。かりに半利己的な親が完全に利己的な親よりも多くの子孫を残すのであれば、純粋利己性は棄てられ、半利己性の方が選ばれるであろう。半利己的な行動は半利他的と読んでもよいわけである。遺伝的根拠のある部分的利他主義の方は純粋利他主義よりも理解しやすい。
 ダーウィンは血縁利他主義の基本的な観念をつかんでいた。しかしその意味が十分に理解されるにはさらに1世紀を要したのである。血縁利他主義という言葉をつくったのはウィリアム・D・ハミルトンで、この理論は主としてハミルトンの手になるものである。ハミルトンは動物の世界に見られる利他主義がいかに行為者の血縁の程度と関係しているかを示している。自分の損失は生命を失うといった極端なものでなくてもよいが、この極端なケースだけを考えてみると理論の構造が分かりやすいであろう。 (「サバイバル・ストラテジー」から)
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<自然界に「福祉主義」はない>上記ガレット・ハーディンと似た立場からもう一つ引用しよう。「自由主義」「平等主義」とは全く違った考え方だ。いろんな違った立場の考えが、交雑育種法によって新種の理論が生まれるといいのだが、政治哲学の分野ではその可能性は少ない。それよりも「自家不和合性」が心配だ。
 いわゆる進化とは、自然の失敗の結果である。つまり、病気や能力喪失、あるいは突然変異がもたらした欠陥を過剰に補償するという、自然の失敗の結果なのである。正常な発達をとげた有機体はその環境にうまく適応し、その子孫の全世代にわたって安定している。だからここには次のような2つの相異なる傾向が見られるのである──ひとつは、その環境との最適な関係を見出し、安定的な形態に到達する生物、いま一つは過剰補償の連続によって生き延びているにすぎない不安定な生物である。徐々に新しい種への転換をやってのけるのはこの後者の方である。 そこで思い切ってこういうこともできよう。進化は最適者生存のせいではない。むしろ自己および子孫における一連の過剰補償を通じて新しい形態をつくりあげるのは不安定な生物であり、一方適者は、すでに達成した形態を維持するように、自己を一層適者ならしめる緩慢な修正を行う。
 自然の中では病気の動物が生き残れるチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生き続けるだけでなく、その子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく稀な場合にすぎない。治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことから免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次代に伝えられる。こういうわけで、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示したのである。この加速的な進化には、家畜やペットの場合も含まれる。というのは獣医学のおかげで、それがなければ不安定だったような形態が生命を維持するからである。(中略)
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 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。 労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (「マンチャイルド」から)
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<農業は人類の原罪である> 文明が発祥したとき、自給自足が神話になった。人間は文明が発祥したときそれまでとは比較にならないエネルギーを消費するようになり、さらに産業革命時にさらに消費量を増大させた。20世紀には自然環境破壊が急速に進み、公害により多くの人命が失われた。もう一つ、自然界に福祉主義はない。強い者だけが子孫を残せる。利己的な遺伝子が、個の利己主義より種の利己主義を優先させるメカニズムによって自然淘汰を行っていく。 このように、人間は自然界の摂理に逆らった社会システムを築き上げてきた。今こうした人間社会の進化について反省の声があがっている。「公害をなくそう」「自然を守ろう」「省エネ」「贅沢は敵だ」「農業の多面的機能を見直そう」。しかしこうした反省の声は、多くの反自然的行為のほんの一部でしかない。自然淘汰に関しては「ヒューマニズムの立場から、弱者を守ろう」とのアファーマティブ・アクションが作られる傾向にある。動物界には存在しない博愛主義によって、人間が本来もっていた「過剰補償能力」の発展する可能性を奪ってしまっている。
 コリン・タッジは、その著「農業は人類の原罪である=NEANDERTHALS,BANDITS AND FARMERS How Agriculture Really Began」で人類がいかに自然を破壊してきたか、特に動物、植物に関して言及している。「オーストラリア、北米大陸、南米大陸へ人類が侵入してから大型動物の絶滅が始まった」と主張し、次のように言っている。
 これらの証拠からわかるのは、大型動物を絶滅に追い込んだのは人間。これまで言われていたような気候の問題ではなく、ハンターとしての人類だったということである。もし気候に原因があるなら、大型動物よりも小型動物の方がより打撃を受けるだろう。ところが実際のところ小型の動物はほとんど無傷のまま生き残っているのだ。マウスやトガリネズミは、その小ささゆえに気候変動には弱いわけだが、人間に食べられるという心配はないのである。それにそもそも、これだけの絶滅を説明できるほどの気候変動があったという確固とした証拠はほとんどないのだ。 オーストラリアやアメリカ大陸を席捲した絶滅の第一波は更新世よりはずっと最近になっての出来事だが、マダガスカルやニュージーランド(それにハワイと他の各地)における絶滅の波も、同じプロセスの一部とみることができる。さらに、大型の草食獣とその大型捕食者が、程度の差はあれ、ほとんど時を同じくして姿を消すという一般的傾向がある。捕食者とは、北米ではサーベルキャットや大型のクマ、ニュージーランドでは、モアを獲物としていた大型の猛禽である。おそらく、草食獣が絶滅したのは狩猟のターゲットになったためであり、大型捕食者が絶滅したのはそのエサとなる動物がいなくなったからなのだろう。
 アメリカ大陸やオーストラリアで大型動物が絶滅したのは、気候の悪影響ではなくやはり人間のせいである、と考えるべきなのである。アメリカの動物は200万年人間と共存し、ユーラシア大陸の動物も50万年以上人間に接していたが、アメリカ大陸やオーストラリアの動物は人間のやり方にはまったく慣れていなかった。突然として集団で声をあげて襲って来ることもあれば、こっそり作戦のこともある。いつどこへ隠れるのがベストか知っており、そしてこれが重要な点なのだが、遠くからでも石とか槍とかの飛び道具を使って襲って来る。人間はそういう変則的なハンターなのである。
 しかし、アメリカ大陸とオーストラリアにやって来た最初の人間が余った時間で農業をし、環境を操作していたとすると、議論はより価値を増して来る。既に論じたように、そうだとすると彼らはただのハンターではなく、より破壊的なハンターだったということになるからだ。彼らはたやすく、そしておそらくは大はしゃぎで、より目立つ動物を絶滅に追い込んで行ったに違いない。
 ある程度の農業が更新世の大量絶滅にかかわっているだろうし、またそう考えれば、大量絶滅についてよりうまく説明できるのではないだろうか。 (「農業は人類の原罪である」から)
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<自然の摂理とヒューマニズム> 「人類も自然界の動物の一種」と考えると、自然界の摂理に従うべきだ、となるが、ヒューマニズムとは「自然界にあっても人類は特殊だ」との考えになる。そのためヒューマニズムでは自然界の摂理に逆らうこともある。自然界では子孫を残せないような弱いオスもヒューマニズムでは普通のオスと同じように子孫を残すことになる。自然界にあっては野生動物に病気を治す薬は用意されていない。自然界のルールとヒューマニズムをどのように調整して捉えるのか?ここでは「原理主義では解決できない。功利主義で、とりあえずこれよりいいものが見つかるまで、これで行こう」との態度がいいようだ。   
 イスラム、キリスト教、マルクス主義、オウム真理教など原理主義は多々ある。それらを信仰する人も多い。それら原理主義者も功利主義者もそれぞれ「不満を持ちながらも、この程度ならしょうがないな」と諦める妥協点を求めるのが民主制度と言える。このように考えると、ノージックの考えはそうした原理主義の一つと考えられる。ただし多くの原理主義と違って、実現性の全くない原理主義だ。イスラム、キリスト教、オウム真理教、マルクス主義はそれでもその理想を求めて試みられ、それなりに評価する人もいる。しかしノージックの考えは実験さえ行われないし、その意図も、実現への幻想さえ抱いていないようだ。それは、この考えを多くの人々に訴えようとの姿勢が全くないことから想像できる。
 人間社会は自然界の摂理をそのまま受け入れている訳ではない。しかし、自然環境、進化論との整合性など周辺科学との調和も考慮した議論を進めることが、多くの人の支持を得ることになる。そうした配慮がないことも自家不和合性に陥る要因の一つになるに違いない。コリン・タッジの意見もノージックを意識したものではないが、視野狭窄にならないために引用してみた。
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<トマス・モアの「ユートピア」> 『アナーキー・国家・ユートピア』について書いてきた。ここで「ユートピア」から引用しよう。これは16世紀前半に書かれたもので、マルクスやアダム・スミスやマンデヴィルよりも前に書かれている。しかし読んでみると、現代でもこうしたユートピアに憧れている人たちが多数いることに気が付く。「古くさい」などど言わずにもう一度読んでみたはいかがでしょうか?あんな昔にこれだけ理想的な社会を描いた人がいた、それに比べて現代人のイメージの貧弱なこと、もっともっと想像力を働かせましょうよ。ということでトマス・モアの「ユートピア」から、その一部をどうぞ。
 しかしながら、モアさん、私は思うまま、率直に申し上げるのですが、財産の私有が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄とは望むべくもありません。もっとも、正義の行われている国とは一切のものがことごとく悪人の手中に帰している国のことであり、繁栄している国とは一切のものがあげて少数者の独占に委ねられており(といっても必ずしもその連中が幸福に暮らしているわけでもありません)他の残りの者は悲惨な、乞食のような生活をしている国のことであるとすれば、勿論話は別ですが。
 ですから、私はユートピアの、つまり、すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国、かようなユートピアの人々の間に行われているいろんな優れた法令のことを深く考えさせられるのです。一方ひるがえって、次々と絶えず何か新しい法律を作っている、そのくせ碌な法律は持たないといった多くの国々、つまり自分で手に入れたものを自分の私有財産と称し、そのいわゆる私有財産なるものを享有し、守り、他人の私有財産から区別するために夥しい新しい法律を毎日作っているが、それでも充分効果はあがらないといった国々(こういった事が偽りでないということは、毎日生じては果てしなく続いている無数の論争をごらんになれば分かります)、 こういった国々をユートピアと比べて考える時、そうです、こういう種々な事柄をじっくり考えてみる時、私はプラトンの意見に賛意を表せざるをえません。そして、プラトンがすべての人が富と便益の平等な配分を享有することを規定する法律を拒否した者たちの為に、法律を作ろうとしなかったことをもっともなことと思います。プラトンの慧眼はよく、あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道であることを見抜いていたのです。そして、この平等ということは、すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべきもないと私は考えています。いろいろな権利や口実を設けては出来るだけ多くのものをよせ集め掻き集め、ありとあらゆる富は少数の者たちだけで山分けにする、そういった国ではいくら豊富に貯えがあっても、少数の者以外にはただ欠乏と貧窮だけが残されているばかりです。 しかも多くの場合、この後者の貧乏人の方が前者、すなわち金持ちなどよりも、いっそう幸福な生活を楽しむ権利があるのです。なぜかと申しますと、金持ちは貪欲で陰険で非生産的でありますが、貧乏人は謙虚で純情で日々労働によって自分の利益そのものよりも、むしろ全体の福祉に多大の貢献をしているからです。
※                     ※                      ※
 こういうわけで、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福もわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません。私有財産権が続く限り、大多数の人間の背には貧乏と苦難の避くべからざる重荷がいつまでも残ることでありましょう。勿論、この重荷も多少は軽くしてやることができるかもしれない。私もそれを認めないわけではありません。しかし、全面的に取り除いてしまうということは絶対に不可能だと思います。もし法令でもできて、土地は一定の面積以上、いかなる人間といえども所有することができない、また金銭も規定された額以上貯えることができない、ということになれば、……いやさらに、国王といえども不当に強大な権力を持つことなく、人民もまたいたずらに傲慢で金持ちになることができない。官職もこれまたみだりに懇請や賄賂や贈物によって得られるということができない、つまり、官職が金銭によって売買されたり、 官吏がその職にあるために必然的に金銭上の負担を負うようなことがない、ということになれば(──金銭上の負担が重いと、つい官吏は詐欺や強奪などの手段に訴えてその損した金をとり戻そうとすることになるし、またもともと賢人によって行われなければならない官職が贈り物や賄賂などによって金持ち連中のものとなるのです)──そうです、法律によってこういうことが決まれば、ちょうど危篤の病人が日夜を分かたぬ手厚い看護によってしばらく持ち直すように、これらの悪弊も軽減されるかもしれません。しかし、それが完全に根絶され、立派な状態になる、ということは私有財産制度が存在する限り、到底望むべくもありません。よく人が一つの箇所を治そうとして他の箇所の傷口をますます悪化させるように、一方を助けようとして、一方を苦しめるというわけです。しかし、それというのも、他人から奪うのでなければ人にものを与えることができない、という欠陥があるからなのです。 (「ユートピア」から)
 1535年7月6日、国王ヘンリ8世の怒りに触れ、断頭台の露と消えたサー・トマス・モアに黙とう。 DIV align=center>(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『サバイバル・ストラテジー』              ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社   1983. 4.20
『マン・チャイルド』 人間幼稚化の構造 ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社1984. 7.10
『農業は人類の原罪である』 シリーズ「進化論の現在」    コリン・タッジ 竹内久美子訳 新潮社   2002.10.20 
『ユートピア』                         トマス・モア 平井正穂訳 岩波書店  1994. 9.16 
( 2004年9月6日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(20)「素人さん、大歓迎」の論法
<リバタリアンはどうだ> 自由主義としてノージックを取り上げ、批判してきた。もう一人、アナーキーとは言わずに「リバタリアン」とか「アナルコ・キャピタリズム」と呼ばれるデイビッド・フリードマンはどうなのか? それに加えて父親のミルトン・フリードマンのこともリバタリアンと呼ぶ人もいるようなので、一緒に考えてみよう。そしてさらにこれらの人に影響を与えたフォン・ミーゼスとハイエクの文章も引用し、これらの考え方、その主張の仕方、政治哲学とのセンスの違いを感じ取って頂きましょう。
<インフレーションの誘惑> キャビアの供給がジャガイモの供給と同じくらい豊富であったとしたら、キャビアの価格──すなわち、キャビアと貨幣の交換比率ないしキャビアと他の商品の交換比率──は、かなり、変化することでしょう。そうなると、今日よりもずっと少ない犠牲で、キャビアを手にするのとができるでしょう。同様に、貨幣が増えると、貨幣一単位の購買力が減少します。したがって、この貨幣一単位と交換に入手できる商品の数量も減少します。
 16世紀に、金や銀の資源がアメリカで発見され採掘されたとき、膨大な量の貴金属がヨーロッパへ運ばれました。このように貨幣量が増大した結果、価格を全般的上昇させる傾向をもたらしました。同様に、今日、政府が紙幣の数量を増大させますと、その結果、貨幣一単位の購買力が低下し始め、したがって、価格が上昇します。これがインフレーションと呼ばれています。不幸なことに、他の諸国のみならず米国でも、インフレーションの原因は、貨幣数量の増加にあるのではなくて、価格の騰貴にあると考える人があります。 (「自由への決断」から)
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<価格という「情報」こそ複雑化した社会で力を発揮する>  現代の技術革新が計画を不可避にさせるという主張には、また別の意味も含まれている。すなわち、現代の産業文明がきわめて複雑化してきたので、中央集権的計画以外では効果的に処理しえない新たな問題が生まれている、ということである。これはある意味で正しい──ただしそれが主張しているほど広い範囲にわたってではないが。たとえば、現代の都市問題の多くが、過密化がもたらす一連の問題と同様、競争によっては適切に解決できないことは、わかりきった事実である。 けれども、中央集権計画の必要性の根拠を現代文明の複雑化に求める人々が、大きな関心を寄せているのは、都市問題の対策といった「公益事業」ではない。彼らの多くが暗に主張しているのは、経済プロセス全体の見取り図がますます分かりにくくなっているために、社会生活が混乱をきたすことのないよう、何らかの中央当局による総合的調整が必要だ、ということである。
 だが、このような主張は、競争の働きをまったく誤解していることから生まれている。競争は、比較的単純な条件で効力を発揮するのではなく、まったく逆であり、現代の分業社会が複雑であればあるだけ、競争こそが、唯一、そういった調整を適切に実現する手段となるのである。
 状況が単純であるなら、一人の人間あるいは一つの委員会が、関連するすべての事実を効率的に把握し、有効な統制や計画を行うことは簡単だろう。しかし、考慮せねばならぬ要因があまりにも多くなり、おおまかな見取り図さえ描けなくなった状況では、分権化は避けえない。そうして、分権化が進められると、それぞれをいかにして調整していくかという問題が起こる。つまり、分権化されたそれぞれの当事者が、彼らだけが知りうる事実に従って独自に行動するに任せ、なお、それぞれの計画が相互に調和するような調整は、いかにしたら可能かという問題である。
 きわめて多くの個人が行う決定が、それぞれどれくらいの重要性を持っているかを判断することは、誰にもできないことであるからこそ、分権化は必要となる。そう考えれば、個々の決定の総合的調整が「意図的な統制」でできるはずもないことは明らかだ。調整が唯一可能になるのは、ある機構が、それぞれの決定者に、自分の決定と他人の決定とがどうやったらうまく折り合うかという情報を伝えることによってである。ところが、どんな単一のセンターも、様々な商品の需要・供給状態に常に影響を与える諸々の変化を、細部に至るまですべて把握したり、それらの情報を即座に収集し広範に伝達したりすることは、 まったく不可能であるため、諸個人の活動が相互にどのような影響を生み出しているかを自動的に記録し、同時に、諸個人がどんな決定をしたかという結果を明らかにし、またそれに従って諸個人が決定を下していくためのガイドとなるうような、何らかの記録装置が必要になる。
 一見不可能に思われるような機能、他のどんなシステムも請け合うことのできぬこの働きを、まったく見事に果たしているのが、競争体制における「価格機構」なのである。この価格機構のおかげで、企業家は、需給に影響をおよぼす変動要素より数としてははるかに少ない、いくつかの価格の動きを見守るだけで──ちょうどエンジニアがいくつかのダイヤルのメーターを見るだけでいいのと同様に──自分の活動と他者の活動を調節することができるのである。ここで重要なことは、価格機構が十分に機能するのは、競争が広範にうまく行われている場合、つまり、個々の生産者が価格変化を受け入れ、それをコントロールすることがない、という条件が満たされた場合のみだ、という点である。
 経済の全体が複雑になればなるほど、われわれはますます諸個人による知識の分業に頼らざるを得なくなる。そして諸個人の独立した営みは、それを遂行するために必要な情報を提供してくれる、この価格機構という非人格的なメカニズムによって、総合的に調整されるのである。
 もしかりに、産業体制の発達のために意図的な中央統制に頼らざるを得なかったとしたら、産業体制は、今日のように、分化し、複雑化し、柔軟性に富んだものにならなかっただろう、と言っても決して誇張ではない。経済的な問題と分業と価格機構の自動調整によって解決していく方法に比べれば、中央統制という、一見分かりやすい方法は信じがたいほど硬直的で、原始的で、範囲の限られたものでしかない。現代のこの文明が存立できるようになったのは、分業がかくも広く行われるようになったことのおかげである。なぜそれが可能になったのかと言えば、分業が意図的に作り出される必要がなかったからであり、前もって計画されるような範囲をはるかに超えて分業が拡大されるような方向へ、 人類が危うい足取りでではあれ、進んできたからである。だから、現代文明がさらに複雑になればなるほど、中央統制が必要になるのではなく、逆に、意図的な統制に頼らない方法を用いることがより重要になってくるのである。 (「隷属への道」から)
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<『選択の自由』> この書の最後の章で、ローズと私とは「流れは変わり始めた」と宣言した。しかしその際に、「(このようなかつての体制に対する=訳者)反動は結局のところ短命に終わり、しばらくの時間を置いて、改めていっそう巨大な政府へ向けての反動傾向が、再び発生することになるかもしれない」と警告した。では、この書の初版が出版されてから20年後の、現在の状況はどうなっているか。
 人びとの世論のレベルでは、状況は極めて明らかだ。「ベルリンの壁」の1989年における崩壊と東西ドイツの1990年における再統一、そしてソ連邦の1991年における解体とは、経済を組織化するために二つの対照的なやり方に対する、約70年間に及んだ実験に劇的な決着をもたらした。すなわち、「上からの命令体制」対「下から上への体制」、「中央びよる計画と管理の体制」対「民間市場社会体制」、もっとありふれた表現に従えば「社会主義対資本主義」の実験の決着だ。
 しかもこの実験の決着は、実はそれ以前のもっと小さな規模における数多くの同様な実験によって既に下されていた。つまり、香港と台湾対中国本土、西独対東独、韓国対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などにおける実験によってだ。しかし、これらの決着を世間一般の知恵とするためには、「ベルリンの壁」の崩壊とソ連邦の解体という、劇的な事件の発生が必要だった。
 そのおかげで、今では、中央計画体制はまさしく『隷従への道』に他ならないことが、当然のことと受け取られている。この『隷従への道』(西山千明訳、春秋社)は、1944年に出版されたF.A.ハイエク教授のすばらしい挑戦的な書のタイトルだった。こういう考え方は、ローズと私とが1962年に『資本主義と自由』を出版したときには、まだごく少数派の意見でしあかなかったうえ、1980年にこの『選択の自由』が出版されたときでさえ、少し増えてはいたものの、相変わらず少数派の考えにすぎなかった。しかし今では、世間一般の常識的世論にとなっている。
 しかし、世論の基礎にある人びとの考えとは、まったく別物であることがしばしばである。しかも実際の政治の面ではさらに状況が複雑になる。西側の先進諸国であは、第二次大戦後の数十年間に、政府のの役割の急速な増大や、国民所得における政府支出の急激な増加が、戦前の「福祉国家体制」と「ケインズ経済学派」の見解によって、強力に促進された。この「選択の自由」の最後の章でわれわれが予告した世論の転換も、政府の増大を鈍化させはしたが、これを逆転させるまでには至らなかった。世論の変化が、常に旧来の慣性からの脱出が至難な実際の政府の動きに対して影響を与えるには、長期の時間を必要とする。 例えば第二次大戦後における急速な各種の「社会化」は、戦前における集団主義に向けての世論の転換を反映した結果だった。同様にここ数年間における「しのびよる」ないし「よどんでいる」社会主義の発生は、先記した第二次大戦直後における世論の変化の、初期の影響を反映している。したげって将来における「非社会化」は、ソ連邦の崩壊によって強化された世論の変化の成熟した影響を反映して、やがて必ず発生することになるだろう。
 それにしても、世論の変化は、以前に後進的だった世界に対しては、はるかにもっと劇的な影響を与えてきた。この点は残存している最大で明白に共産主義国家である中国において、ぴったりあてはまる。1970年代の後期にケ小平によってなされた「市場改革」の導入は、その効果として農業における私有化をもたらし、この分野での産出を劇的に増加させた。さらにこの成果は他の諸分野でも、この「共産主義国家」に、ますます市場経済的諸要素を導入させることとなった。この中国での経済分野における自由の増大は、まだ限られてはいるものの、中国の様相をかなり急速に変化させてきている。この状況は「自由な経済」に対するわれわれの信頼を、ますます強固なものにしてくれる。
 もちろん、中国の現状は依然として「自由社会」からはるかに遠いが、それでも中国の住民たちは、毛沢東の支配下にあった時代よりも、今やはるかに自由であり、富を持っている。その上、政治の分野を別にすれば、人びとは他のあらゆる次元においてますます自由になっている。いや、政治の分野でさえ、いっそう多くの農村において、特定のいくつかの官僚職は、選挙によって任命されるようになっている点で明白なように、政治的自由が増大していく最初の小さな兆候が現れている。もちろん中国が真の自由社会になるためには、はるかにもっと変化しなければならないことは言うまでもない。それにしても中国は明らかに正しい方向へと動いていっている。 (「選択の自由」文庫本への著者のはしがき2002.4.2 から)
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<『政府からの自由』>ミルトン・フリードマンはプレイボーイ誌の読者に経済学をわかりやすく話している。「素人さん、大歓迎」の姿勢だ。プレイボーイ誌記者とのインタビューの文章を引用しよう。
プレイボーイ インフレは、なぜ、いつまでも解決できない問題なのでしょうか。
フリードマン いや、技術的に言えば、インフレを止めることはそんなに難しくないんですよ。問題なのは、インフレになると好影響が先に出てきて、悪影響があとになることです。酒と同じですよ。インフレになり始めの数ヶ月あるいは数年というのは、ちょうど2,3杯ひっかけたときみたいに、いい気分のものなんです。使えるお金は増えるし、物価の上昇はまだひどくないし。ところが、物価が本格的に上がり始めると、これはもう二日酔いみたいに苦しい。もちろん、一口にインフレに苦しむといっても、人によって程度の差があるのも問題ですね。一般に、政治的な発言力をもたない層、貧しい人や年金などで暮らしている人がいちばんの被害者です。 その一方で、インフレの影響をまったく受けない人や、インフレで大儲けする人もいるわけです。
 さて、インフレ退治に乗り出すと、今度は困ったことに、すぐに悪い影響が出てくる。失業者はふえる。金利は上がる。資金繰りは苦しくなる。とにかく不快なことばかりで、それを通り過ぎると、価格上昇が止まったことの良い影響は出てこない。治療中のこの苦しい期間を、迎え酒に頼らずにどうやって乗り切るか、それが問題ですね。 インフレ退治でいちばん困るのは、しばらくすると治療より病気の方が楽だと皆が思い始めることなんです。治療に成功すれば、経済成長と価格の安定の両立だって夢ではないのに、そこのところが分からない。ニクソンのときに見たとおり、治療などうっちゃって、また病気に戻りたいというすさまじい圧力が市民の側から起こってくるのです。いつまでも酩酊状態でいたいんですね。(中略)
プレイボーイ 連邦準備制度がどうやってインフレを起こすのですか。これは、言ってみれば政府の銀行に過ぎないでしょう。
フリードマン 「すぎない」と言っても、結構いろんなことができるのですよ。連邦準備制度は政府の銀行ですから、お金を作り出す、つまり印刷する権限をもっているわけで、お金が多すぎる事こそインフレが起こる原因なのですから。
 連邦準備制度がなぜインフレの元凶であるのか。それを多少なりとも理解するには、まず、この制度にどんな権限が与えられているかを知っておく必要がありますね。一つは紙幣を印刷する権限です。あなたのポケットに入っているお金は、ほとんどこうして印刷された、連邦準備紙幣と言われるものです。また、市中銀行に預金をすることもできますが、これは結果的には紙幣を印刷するのと変わりません。ほかに、銀行に信用を供与することもできますし、加盟銀行の預金準備率を定めることができます。この預金準備率というのは、各銀行が自分のところで預かっているお金1ドルにつき、どれだけを現金で保有し、あるいは連邦準備銀行に預け入れておかなければならないかを定める数字です。準備率が高くなれば、それだけ銀行が貸し出せるお金の量が少なくなりますし、 逆に低くなればサイダセルお金の量は増えます。
 こういう権限をもつ連邦準備制度理事会は、通貨と預金を合わせて、いつもでれだけの貨幣が国内に流通しているかをにらみ、それを増やしたり減らしたりしているわけです。理事は大統領によって任命され、上院の承認を受けますが、ほとんどが名のある金融問題の専門家です。しかし、どんなに有能な人たちであるにしても、これは少人数のグループに任せるには、いかにほ大きすぎる権限であると言わなければなりません。過去60年の間、彼らは、経済の動向を予測し、それを平坦な成長の道にとどめておこうと努力してきました。私はアメリカの貨幣史を研究し、それについて本を書いたこともありますが、連邦準備制度が創立されてからあとと、南北戦争から1914年までを比べてみると、創立後のほうに深刻な経済危機が多いという結論を得ました。 二つの大戦中という特殊な時期を除いても、連邦準備制度は、経済の安定を他発という使命をうまく果たしているとは言えません。
プレイボーイ なぜそうなのでしょう。
フリードマン 基本的には、人間から構成される制度であって、規制だけで成り立っているのではないと言うことですね。人間は過ちを犯します。制度を運営する人々は、私が先にも言ったように、最善の決定を下しているのだと思います。彼らも正しいことをしたいのです。ところが、私たちの知識というものは不完全でして、ときにはすべての事実を入手していないこともありますし、ある事実だけを過大に見てしまうことだってあります。大不況が起こったとき、連邦準備制度は通貨残高を実に3分の1も激減させてしまいました。 もちろん、彼らには彼らなりの立派な理由があったのでしょうが、通貨残高の減少こそ、まさにやったはならないことだったのです。国中の銀行が軒並み休業に追い込まれているというのに、連邦準備制度は割引率を上げました。割引率というのは、要するに各銀行への貸し出し利率のことで、これが高くなったのですからたまりません。銀行の倒産が一挙に増加しました。確かに、連邦準備制度があってもなくても、1930年代には経済不況が避けられなかったかも知れません。しあkし、この制度がその巨大な権限によって、ただでだえ悪い状況をいっそう悪化させたりしなければ、あれほどの大不況にはならなかったのではないでしょうか。(中略)
#                     #                      #
プレイボーイ おっしゃるとおり、最低賃金法が非生産的な法律だったとしても、原則として、貧しい人のために政府が介入する必要はあるのではないでしょうか。何しろ自由放任といえば、昔から「苦汁労働工場」と呼ばれる搾取工場や自動労働と同義語になっています。そういった酷い状態は、社会立法によってはじめて取り除かれたのではなかったのですか。
フリードマン 搾取工場や児童労働は、自由放任経済の結果ではなく、貧困のなせる業と言ったほうが正しいでしょう。今日でも社会福祉関係の法律だけは完備しながら、極度の貧困にあるために、依然、悲惨な労働条件にあえいであるような国が世界にいくつもあります。アメリカにいるわれわれが、もはやその種の貧困に苦しまなくていいのは、まさに自由企業制度のもとで裕福になれたからです。
 誰でも口を開けば、自由放任経済には心がないなどど言います。しかし、アメリカで民間の慈善活動が最も盛んだったのはいつだと思いますか。19世紀ですよ。非営利病院の建設運動が大きな盛り上がりを見せましたし、海外への伝道も盛んでした。図書館普及運動が展開されたのもこの頃なら、動物虐待防止協会が作られたのもこの頃です。庶民が、わずかな所得しかなかった人たちが、生活水準と地位を飛躍的に向上させたのもこの頃です。何百万という移民の群れが、それこそ自分の肉体以外には何も持たずに外国からやってきて、自らの労働で生活水準を大幅に高めることができた時代でした。
 私の母は14歳でこの国にやってきました。あなた方が言うところの「苦汁労働工場」でお針子として働いたわけですが、しかし搾取的であれ何であれ、そういう工場があって、そこで仕事を得られたからこそアメリカに渡って来ることができたのです。それに、母は生涯そこで働き続けたわけではありません。母にとって、搾取工場は一時しのぎの場所だったのですし、それは、ほかの人々も同じだったでしょう。それに酷いとは言っても、もと住んでいた国での生活よりは数等よかったことを忘れてはいけません。今の人は、自由放任経済なんてと小馬鹿にしますが、そうやって嘲っていられるのは、当の自由放任経済のおかげなのです。 19世紀に最低賃金法があったり、福祉国家の罠があちこちに仕掛けられたりしていたら、おそらく『プレイボーイ』の読者の半数はまったく存在しないか、ポーランドやハンガリーといったどこかの国で生まれていたことでしょう。『プレイボーイ』を読むなんて思いもよらない状態になっていただろうと思いますよ。 (「政府からの自由」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<豊かな人々は一層豊豊かになり、貧しい人々も一層豊になる> 機械の使用や分業が進につれてその分だけ、労働時間の増加によってであれ、一定時間に要求される労働の増加や機械の速度の増加によってであれ、労働の量も増加する。 下層の中産階級……これらはすべてプロレタリアート階級に転落する。……機械がほとんどどこでも賃金を同じ低いレベルに下げるからである。 現代の労働者は、産業の進歩と伴に向上するどころか、逆に自分自身の階級の生存の条件よりも下へ下へと沈んでゆく。(マルクスとエンゲルス『共産党宣言』)
 私有財産制度への反対の多くは、そのような制度が過去にもたらした影響についての通俗的な信念からきているが、そのような信念は大部分が歴史的な証拠の支持を受けないものである。マルクスは充分に科学者らしかったから、 証明か反証がなされうるような、将来についての予言をした。不幸なことに、マルクス主義者はマルクスの予言が間違っていたと分かったずっと後になっても彼の理論を信じ続けている。
 マルクスの予言の一つは、豊かな人々は一層豊かになり、貧しい人々は一層貧しくなり、中産階級は次第に消滅し、労働者階級は窮乏する、というものだった。歴史上の資本主義社会の趨勢はほとんど正反対だった。貧しい人々は豊かになった。 中産階級はおびただしく拡大し、今やその中には、かつて労働者階級に分類されていた職業の人々もたくさん含まれている。絶対的な基準では、豊かな人々も一層豊かになったが、豊かな人々と貧しい人々の間のギャップは、極めて不十分な統計から判断できる限りでは、徐々に小さくなってきたように見える。
 現代の多くのリベラルは、マルクスの予言は自由放任資本主義については十分正確だったが、強力な労働組合とか最低賃金法とか累進的所得税とかいったリベラルな制度のおかげで実現しなかった、と主張する。
 起こったかもしれないことについての言明を反駁することは難しい。我々は次のことに注意することができる。全般的な生活水準の向上も、不平等の減少も、多かれ少なかれ資本主義的なさまざまな異なった社会の中で、長期にわたって、かなり着実に生じてきたように思われる、ということである。 累進的な所得税の累進的な部分はごくわずかな収入しか集めておらず、キャピタル・ゲインによる富の蓄積に対してほとんど何の影響も与えてこなかった。最低賃金法の主たる効果は、非熟練労働者がしばしばいかなる使用者にとっても最低賃金に値しないので、その職を失う、ということであるように見える。 (この効果は、非白人ティーンエイジャーの失業率が最低賃金の上昇の後、常に劇的に上昇するということに表れる)。私は前の章で、リベラル派の手段は貧しい人々に利益を与えるのではなくて彼らを害し、不平等を減少ではなくて増大させる傾向があると、と論じた。もしこのことが過去において真実だったならば、我々が経験してきた平等の増大は、そのような手段のゆえではなくて、それにもかかわらず起きたのである。
 同じ議論の別のヴァージョンは、大不況は自由放任資本主義の真の表現であって、我々がそれから救われたのは自由放任を捨ててケインズ政策をとったからだ、と言うものである。この点の論争は単に一冊の本ではなく膨大な文献に及ぶ。数十年ものあいだ、それは経済学者の間で中心的な主題だった。 反ケインズ主義の面を見たい人は、その一つの例をフリードマンとシュワーツの『大不況』の中に見出せる。この著者たちは自由放任ではなくて銀行業への政府の介入によって引き起こされたのであって、そのような介入がなかったら生じなかっただろう、と論じている。
 資本主義は不可避的に大衆の窮乏化に至ると信ずる人々はほとんどいない。そのテーゼに反する証拠は圧倒的すぎる。しかし相対的な不平等ははるかに判断しにくい。そして資本主義は放っておかれると収入の不平等を拡大すると考える人々は多い。なぜか?彼らの議論は本質的には、金持ちの資本家は自分の金銭を投資して一層多くの金銭を得るというものである。 その子供たちが金銭を相続してこのプロセスをくり返す。資本家はますます豊かになる。彼らはどうかしてその高い収入を労働者から取り上げているに違いない。労働者が財貨を「真に生産」し、金持ちがそれを消費する。それゆえ労働者は一層貧しくなっていくに違いない。この議論によれば労働者は絶対的な基準で貧しくなっていくようだが、その議論を行う人たちは、一般的な経済的進歩が万人を豊かにするから窮乏化は相対的なものにすぎない、と想定する傾向がある。 (「自由のためのメカニズム」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<タカ、ハト、粗野な喧嘩> 第1章で私は、経済学と進化論的生物学との間に見られる密接な関連について一例を挙げた。バーでの口論について私が行った説明はその別例である。それは社会学者が「タカ、ハト均衡」と呼ぶものを人間について考えたものと同じである。
 好戦的であるかどうかという点についてだけしか相違点のない2種類の鳥がいると仮定しよう。その2匹の鳥が一つしかない餌を見つけたとする。「タカ」は必ず戦いを挑み、「ハト」は必ず身を引く、ほとんどすべての鳥がハトだったら、タカであることは有利だろう。なぜなら、タカはほとんどいつも争う必要もなく餌を手に入れられるからである。タカがハトよりも餌を集めるのが得意なら、タカはハトより雛を生み育てることに成功する確率が高く、したがってタカの数は増すだろう。
 タカの数が増えるに従って、タカであることの利益は低下する。敵が他のタカであることがますます多くなり、その結果餌の奪い合いが行われて、餌の価値よりも受ける損害の方が大きくなる。ハトに対するタカの比率がある一定の高さになると、両戦略の成功の確率がちょうど釣り合う均衡が達成される。
 タカを押しの強い性格の人に置き換えれば、そこに見られる論理はまったく同じになる。ほとんど誰も攻撃的戦術をとらなければ、それは有利な戦術となり、次第に多くの人がその戦術をとるようになる。そうすると命に関わる喧嘩が起こる危険が高くなって、非常に男性的な男である利益は低下する。押しの一手の敵から受ける損失が、後に引くことを知っている敵から得られる利得とちょうど釣り合う均衡が達成される。すなわち、タカとハト、男性的な男と弱虫男という相互に代替的戦術が持つ利益は等しくなる。 (「日常生活を経済学する」から)
<徳行の経済学> これまで本書では、人間の間の繋がりは、ほとんどの動物の間に見られる繋がりと同様に非自発的なものだと過程してきた。すなわち、英雄的な男らしい男はもともとあなたの周りにいるのであって、つき合おうとしてわざわざあなたが選んだのではあに。その限りでは、押しの強い性格を持つことは、そうした性格の人が多すぎない限り利点がある。
 だが、共同事業者、雇用主・従業員関係といった自発的な繋がりについてな、このようなことは当てはまらない。誰かを協力者に選ぼうとする場合には、押しの強い人はリストかの一番下に下げられる。だから職を得られ見込みが減ったり、結婚できるチャンスが少なくなる。
 自発的なつき合いが行われる社会では、それと異なる戦術をとる方が得をする。思いやりがあり、礼儀正しい人として知られた者、決して他人を利己的に利用しない人、誰も見てなくても決して盗みをしないような人──これらの人は雇用主、従業員、共同経営者、あるいは配偶者として望ましい人物である。他の人たちが正しくその人の性格を読みとっている限り、良い男だろうと自分を鍛えることは、その人にとって自分中心に考えても利益になる。正直な人を雇うことは、窃盗を働かれる費用だけでなく、窃盗を防ぐ費用も節約でき、その節約額は正直な人を雇うことは、正直な人と不正直な人が受ける報酬の差となって表れる。
 この場合にも、理由こそ異なれ、タカ・ハト均衡に似たようなことが考えられる。もしほとんどすべての人たちが正直者であったら、特定の人物がどれほど正直かということに多大な関心を払う必要はなく、したがって、正直者のふりをしながら悪事をうまくやれると思うときには人をだます、猫っかぶり戦術がうまく行くのだ。猫っかぶり屋の数が増えるに連れて、他の人たちが彼らを見分けるために注意を払うようになる。両方の戦術から得られる利益が等しくなったとき、正直者に対する猫っかぶり屋の均衡比率が達成される。
 なぜ人々が良い子になっているのか、あるいはそうでないのかを理解するためのこうしたやり方には、興味深い示唆が見られる。悪人、すなわち押しの強い人間であることは、人々の間の繋がりが非自発的である場合には得である。善人であることは、繋がりが自発的である場合には得である。人々の繋がりが自発的な社会のほうが、非自発的な社会よりも相対的に正直で高圧的でない善良な人が多いと考えられる。 (「日常生活を経済学する」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『自由への決断』               ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 広文社      1980.12.25
『隷属への道』                 フリードリッヒ・A・ハイエク 西山千明訳 春秋社      1992.10.20
『選択の自由』 自立社会への挑戦              M&R.フリードマン 西山千明訳 日経ビジネス文庫 2002. 6. 1
『政府からの自由』                 ミルトン・フリードマン 西山千明監修 中央公論社    1984. 2.10
『自由のためのメカニズム』アナルコ・キャピタリズムへの道案内 D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房     2003.11.25
『日常生活を経済学する』                   D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社  1999.11.17
( 2004年9月13日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(21)もっと平等な社会制度はどうだ?
<結果平等主義は支持されなくなった> ハートが燃える20才代には、反体制であることがカッコーイイと思われていたこともあった。「反体制」「リベラル」「社会主義」、多くの人がこうした言葉に幻想を抱き、誰もがこうした主義を支持していると思いこんでいた。このような20才代から、年齢を重ねて40才代になっても、50才代になってもリベラルであり続ける人もいる。 こうした人たちは、世の中が不平等であることに憤り続けている。「市場原理主義が間違っている」、「そうした経済体制を許している政治制度を変えなければならない」、「不平等を許さない社会制度を作りあげることこそ「正義」である」。 こうした考えがごく少数にではあるが根強く支持されている。「同一労働、同一賃金」とのスローガンは、このような人たちの内、特に「brain」を持たない人たちが唱えている。 このような結果平等主義は、「一生懸命働いても、適当にさぼっていても、同じ給料」となり「仕事は、休まず、遅れず、働かず」となる。日本では、戦後一時期マルクス経済学が幅を利かせていた時期があって、そうした時期、あるいはそのころ経済学を学んだ人の中には、このような結果平等主義から抜け出せない人もいるらしい。 高度成長を経て、経済成長が国民を豊かにした、この経験を実感した日本では、こうした結果平等主義は大衆の支持を得られなくなっている。日本の有権者は経済問題に対して賢くなっている。一部の思い上がり者が「国民はマスコミに操作されている」とか「国民の意識が変わらなければ日本は良くならない」などと言う。 民主制度では、どのような人間も選挙では平等な一票。その一票の結果生まれた制度は、国民の意思を表現している、として認めていかなければ制度は運用できない。 「同一労働、同一賃金」ではなく「成果主義」が次第に採用されていく現在、これは有権者が支持しているからだ、と考えていい。もしそうでないなら、政権は代わっている。
 「結果平等主義」「社会主義」が支持されなくなっても、それでも「平等」を求める声はなくならない。ときには「羨望と平等」との観点から捉えた方がいいような主張もあるが、それでも「平等信仰」はなくならない。 結果平等主義が支持されないと分かっていても、「スタートラインは平等であるべきだ」との意見は根強い。「親の資産の差によって、子供の将来が違ってくる」との考えは支持されやすい。こうした考えが、子供を平等に扱おうとして、子供平等主義が主張される。学校教育でなるべく差別をなくそうとして、悪平等主義が実施される。 運動会で、平等主義を徹底させて徒競走の順位を付けなかったり、テストの成績も生徒皆同じ点数にしたりする。公立学校もこうした平等主義の影響がある。かつて学校へ行けないほど貧しい家庭があった時代は、教育の最低ラインを引き上げるために、公立学校の存在理由があった。 最近では、公立小学校も自由競争の時代になってきた。公立小学校の校長は学校運営と同時に、生徒勧誘も考えなければならなくなった。生徒や父兄に自分の学校の良さをアピール出来ないと生徒が集まらない。一般の企業では既に長く経験していること、「お客様は神様です」が教育の分野でも浸透してきた。 教育の現場では、このように自由競争の良さが認められてきたが、それでも「親が金持ちか、貧乏人かで子供の将来が違ってくる」との主張には反論しにくい情勢になっている。
 こうした平等主義の具体的な政策となると、「親が金持ちでも、貧乏人でも子供は同じに扱われるべきだ」となり、具体的には、「子供は国家の財産」として親から隔離して教育するとか、あるいは相続税を高率にして、親の財産を子供に相続させない税制にするか?だ。 「子供は国家の財産」として親から隔離して教育する政策は、かつての社会主義国家で試みられてきたし、現代日本では一部の信仰宗教に受け継がれている。権力者がその権力を維持するには効果的な政策ではあるが、それだけに現代では支持されないだろう。 かつてナチスのヒトラーユーゲント、旧ソ連のコムソモール、ピオネール、中国の紅衛兵、民主カンプチア時代のサハコーなどがあった。 それだけ有権者はそうした教育制度の怖ろしさに気付くようになっている。 はっきりとその怖ろしさを指摘出来なくても、「子供は国家の財産として親から隔離して教育する、との制度は、何か裏がある。なんとなく怪しいぞ」との感覚を持つようになっている。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<子供は皆同じスタートラインに立たせるべきか?> 「親が金持ちか、貧乏人か、で子供の将来は違ってくる。だから、子供の将来性についての差別をなくすために、親から子供への遺産相続を制限すべきだ」との主張が出てくる。 子供が成長する過程での教育が将来成人したときの職業や収入に影響がある、との考えはおおむね認められている。教育に金をかけるのは、将来に対する投資で、それは大人になってからその投資効果が出てくる。つまり教育に金をかけると大人になってから、良い職業に就ける可能性が出てくる。「だから子供の教育には金をかけよう」 と多くの人が思い始めている。
 子供の将来を考えて、相続税を高率にして、皆が経済的に同じスタートラインに立てるようにすべきなのだろうか?こうした問題を考えている内に、ちょっと違った方向から考えてみようと思い立った。それは、「子供の立場」からではなくて、「親の立場」から考えてみよう、との方向だ。 相続税を高率にして、子供は皆経済的には同じスタートラインに立てるとしよう。この場合親の立場はどうなるだろうか? 「自分が死んだ後のことなど、自分の人生には関係ないから、どうでもいい」「だから相続税は高率でも低率でも、どちらでもいい」。はたして人はこのように考えるのだろうか?違うと思う。
 「一生懸命働いているお父さん、なぜそんなに無理してまで働くのですか?」「それほど出世したいのですか?」「人生もっとのんびり生きたらどうですか?」
 一生懸命働いているお父さんは、何と答えますか?
 「出世したいなんて考えていませんよ。ただ、子供には楽をさせてあげたいのです」、「周りの子供がディズニーランドへ行ったと言えば、うちの子供も行かせてあげたいし、おしゃれもさせてあげたいでしょう」「できれば子供の将来のために、不動産も残してあげたいと思っています」。
 このような答えが返って来るのではないだろうか。 それはとても自然なことで、「その考えは良くない」とは誰も言えない。親が子供のことを思って働き、金を貯め、それを遺産として残そうとする、この行為は自然で制限するのは無理がある。
 「大人になってからの所得格差はしょうがないとしても、子供のスタートラインは同じにすべきだ」との主張を実施すると、相続税を高率にして、このような普通のお父さんの気持ちを踏みにじる政策を実行することになる。 もしそうなったら、お父さんたちどうする?「子供のためにと思って自分にむち打って働いてきたけれど、相続税でみんな取られてしまうなら、無理して働いてもしょうがない」となる。日本の高度成長を支えてきたお父さんたちがいなくなる。 働くインセンティブが一つなくなる。スタートライン平等主義を主張する人たちは、子供のためにと自分の体にむち打って働いてきた事がなかったのだろうか?子供を思う気持ちはこうしたお父さんとは違ったものだったのだろうか?それとも本当は自分の体にむち打って働かなくても生きていけたのではないだろうか? つまり、本当は嫉妬心から言うのではなくて、疲れた体に「子供のためだ」と言い聞かせながら働いたことがないから、そのように言うのではないだろうか?「子供のために」との自分を叱咤する言葉を奪うのはあまりにも残酷だと思う。働く意欲を失わせることだと思う。
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<政治学も経済学も常識を大切に> 今週はごく常識的な話から始めることにした。経済学も政治学も政治哲学も常識を大切にすべきだと思う。専門家も素人も同じ一票、という民主制度では常識を無視しては政策が実行されない。「国民は間違っている」との発想から生まれる政策は支持されない。 「素人さん、お断り」と専門家だけに訴える学説は政策として実行される事はない。ノージックは自分の考えが政策として実行される可能性がないことを前提として「アナーキー・国家・ユートピア」を出版したのだろう。しかし、「素人さん」ではない人たちが本気になってノージックを解説し始めた。 ノージックとしても「あれは冗談でした」とは言えなくなったのだろう。ノージックはそうだとしても、「もっと平等な社会制度」を主張する人はどうなのだろう?こちらの主張に関しても、常識を無視しては有権者に支持される事はない。そこで、まず常識的な判断から始めることにした。つまり「スタートライン平等主義は親心に逆らっている」と言うことになる。 民主制度では、司令塔が「贅沢は敵だ」と言っても、庶民は「贅沢は素敵だ」と言い返す社会だ。一部の人が「日本経済は市場原理主義に基づく弱肉強食の醜い社会だ」と批判しても、多くの人は「それでも資源の有効利用にはこの制度が今のところ最適だ。これ以上の制度が考えられない現在では、とりあえずこの民主制度と市場経済の制度を採用するのがいい」と言って、この制度を維持することになる。 一部の識者が「功利主義」と非難しても、有権者の投票の結果は民主制度と市場経済の組合せを選択する。民主制度では、このように常識を大切に考えなければ、単なる空論になってしまう。ある主張が正しいのか、間違っているのか?迷った時に自分の常識を十分に活用すると結構正解が得られるのだと思う。そして、その常識を生かす社会制度が民主制度であり、市場経済なのだと思う。 つまり、一般普通人の常識が生かされる社会で、普通人にとって住み易い社会なのだ、と言えそうだ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<実際の税率はどうなっているか?> 日本では、相続税も所得税も累進性が弱くなっている。「金持ちからは所得税も相続税もいっぱい取ろう」との姿勢から、「なるべく税率はフラットにしよう」と変わっている。それは次の表を見るとハッキリする。 つまり、日本の有権者はこうした税制改正に抵抗しないということは、「所得格差が大きすぎる。金持ちからはいっぱい税金を取るべきだ」とは考えていない、ということだ。「日本では所得格差が広がっている」と批判する人は少数者だと言える。 民主制度を支持すると言うことは、有権者の意見をこのように理解することになる。
平成15年度から相続税の税率が改正された。その改正前の税率表
各法廷相続人の取得金額 税率 控除額
〜800万円 10% 0万円
〜1,600万円 15% 40万円
〜3,000万円 20% 120万円
〜5,000万円 25% 270万円
〜1億万円 30% 520万円
〜2億万円 40% 1,520万円
〜20億万円 60% 7,520万円
20億万円超 70% 27,520万円
平成15年度から相続税の税率が改正された。その改正後の税率表
各法廷相続人の取得金額 税率 控除額
〜1,000万円 10% 0万円
〜3,000万円 15% 50万円
〜5,000万円 20% 200万円
〜1億万円 30% 700万円
〜3億万円 40% 1,700万円
3億万円超 50% 4,700万円
所得税の税率構造の推移
所得税の税率構造の推移
  49年 59年 62年 63年 元 年 7 年 11年
税  率 %  万円 %  万円 %  万円
10 10.5 10.5 10 10(〜 300) 10(〜 330) 10(〜 330)
12 12 12 20 20(〜 600) 20(〜 900) 20(〜 900)
14 14 16 30 30(〜1,000) 30(〜1,800) 30(〜1,800)
16 17 20 40 40(〜2,000) 40(〜3,000) 37(1,800〜)
18 21 25 50 50(2,000〜) 50(3,000〜)  
21 25 30 60      
24 30 35        
27 35 40        
30 40 45        
34 45 50        
38 50 55        
42 55 60        
46 60          
50 65          
55 70          
60            
65            
70            
75            
住民税の最高税率 18 18 18 16 15 15 13
住民税と合わせた
最高税率
93
(注1)
88
(注1)
78 76 65 65 50
税率の刻み数
(住民税の税率の刻み数)
19
(13)
15
(14)
12
(14)
6
(7)
5
(3)
5
(3)
4
(3)
(注)49年及び59年については賦課制限がある。 財務省のホームページから
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<利己的な遺伝子はなんと言うかな?> スタートライン平等主義は常識で判断するとおかしな論理だ、と批判してきた。もう少し違った方向から見てみよう。それは「利己的な遺伝子はなんと言うかな?」との発想だ。 親が競争して子供に多くの遺産を残そうとする行為、これを生物学的観点から見るとどうなるだろうか?利己的な遺伝子は何と言うだろうか? 自然界のルールで、親の生活力の強さが子供に影響を与えることはどういう意味があるのだろうか?
 このように考えていくと、「スタートライン平等主義は自然界のルールに反している」となる。遺伝子は利己的であり、その個体を犠牲にしてでも種を繁栄させようとする。 そのためには、強い親こそが、子孫を残していって欲しいことになる。全ての親が平等に子孫を残すべきだとは考えていない。「弱い親は子孫を残さなくてもいい」「強い親だけが子孫を残せばいいいい」「そのために、弱い親から生まれた子供が子孫を残す可能性が少なくなってもいい」となる。
 人間社会にこれをそのまま適応させるのは残酷だが、しかし、他の親と競争してでも自分の子供に楽をさせたい、との気持ちは自然な気持ちとして尊重すべきだと思う。 こうした競争心が人間社会を進化させてきた。もちろん「進化」とは「進歩」だけではなく、「退化」の面もあるとしてもだ。ダーウィン主義の基本的考え「自然淘汰」を認めると、この考えは自然に受け入れられる。 従ってアメリカである程度の影響力を持っている「反進化論主義者」はこれを認めたくないかもしれない。つまり、スタートライン平等主義は反進化論、創造論を支持する人には受け入れられることは考えられる。 そうなると、これは経済学、政治学、政治哲学、生物学から神学論争になってしまうので、これ以上は突っ込まないことにしよう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<人間社会は不平等なのが自然な状態らしい> 不平等を認めるということは、宙に浮いて不安定な状態を自然だと認めることに似ている。「どうもおさまりの悪い考え方だ」と不満を言う人も出るだろうが、経済学ではあまり不自然ではない。 「完全雇用とは想像上の状態で、実際はいつも不完全雇用の状態だ」は認められる。そこで「自然失業率」という言葉も使われるようになる。「パレート最適」もそうだ。実際にはパレート最適の状態とはあまりなくて、それに近づこうとしている状態は多い。 「完全自由競争市場も実際にはない」と考えた方がいい。それでも経済学のモデルとして「完全自由競争市場」を想定して話を進める。そこで「反市場主義者」は「ありもしない完全競争市場を想定している経済学は信じられない」と言うことになる。 「すべての人が不満を持ちながら、それでもこの程度ならしょうがないか、と諦める妥協点を見つけるのが民主制度だ」との考えも、人によっては「落ち着かない考えで、支持できない」と言うだろう。 こうした点で「原理主義」と「功利主義」の違いがハッキリしてくる。
 結果平等主義もスタートライン平等主義も、どちらの平等主義も現実の社会を見てみると、あまり採用したくない考えだ。 それでも平等主義に対する幻想はつきない。いろいろなかたちで平等主義が主張される。そうしたなかで、政治哲学の分野で注目されているのがジョン・ロールズの「正義論」だ。 マルクス主義が忘れ去られようとしている現在、こちらはそれに代わる平等主義として、注目されているようだ。これを無視する常識人も多いだろうが、これまで突っ込んで考えてきた行きがかりじょう、「正義論」にも取り組んで見ようと思う。と言うことで、来週もご期待ください。
( 2004年9月20日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(22)「正義論」とはどんな本?
<マルクス主義に代わる平等主義?> かつて「もっと平等な社会を作ろう」と呼びかけ、民主制度と市場経済を批判してきた人たちが、その理論的根拠としていたマルクス主義が破綻した現在、それに代わるものとして、ジョン・ロールズの「正義論」を持ち出している。 と言っても一枚岩ではなく、多くの考え方が混在しているようだ。それでも「原理主義か功利主義か」と区別して考えれば、「民主制度を信頼する主義」とは違った原理主義のグループであることには間違いない。民主制度で認められる「宙に浮いたような不安定な状態」は認めたがらない。 「資本論」に代わる「正義論」とは言い過ぎなのだが、そのように考えたがる人は多くいるようで、多分それは著者、ロールズにとっても迷惑なのだろうが、何か強力な拠り所を欲しがる人たちは多くいるようだ。著者、ロールズの意に反して「平等主義の教典」に祭り上げられてしまった、と考えるのがよさそうだ。 とは言え、「正義論」を持ち上げ、教典のように信仰している人もいそうなので、そのようなことも考慮しながら「正義論」を取り上げてみようと思う。
 「正義論」とはどのような本なのか?その紹介だけで一冊の本が書けそうで、このHPで十分な紹介はできない。そこでポイントとなりそうな所から、TANAKAの主観が入らないように引用することにした。 例によって、著者が何を主張したがっているのか?と同時に、それをどのような文章で表現しているか?も感じてください。いままで引用してきた文章と同じか?違うか?センスの違いを感じ取って頂きましょう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<『正義論』のはじめの部分> 正義論に関しては多くの人が解説している。ここでは『正義論』のはじめの部分を引用して、この本の「感じ」を感覚的に掴んでもらいながら、自分のセンスと合うかどうか?そのようなことを考えながら読んで頂きましょう。
 第1章 公正としての正義 
 導入部にあたるこの章では、これから展開したい正義論の主要な観念(idea)のいくつかについて、その概要を記す。その説明は形式的ではなく、後で一層詳しく展開する議論の下準備のためのものである。 ここでの議論と後の議論には、止むを得ず重複しているところがある。社会的協働(social cooperation)における正義の役割を叙述し、正義の第一の主題、つまり社会の基本構造(basic structure of society)について簡単に説明することから始める。 それから、公正としての正義の中心となっている観念を、つまり社会契約という伝統的な観念(conception)を一般化し、抽象の水準を一層高度化した正義論を示す。社会の契約は、正義の諸原理に関する一つの原初的合意(original agreement)をもたらすよう立案された議論に課されるある種の手続き上の制約を具現化する初期状況(initial situation)で置き換えられる。 また、解明と対照のために、古典的功利主義および直感主義の正義の概念を取り上げ、これらの見解と公正としての正義との違いを考察する。私が議論を展開していく狙いは、哲学上の伝統を長い間支配してきたこれらの教義に代わって生き残り得る正義論を、樹立することにある。
 §1正義の役割 
 正義は、社会制度の第一の徳目であって、これは真理が思想大系の第一の徳目であるのと同様である。たとえ理論が優美で無駄がなくとも、真理でなければ、その理論は斥けられるか改められるかしなければならない。同様に、法と制度は、正義にもとるならば、どんなに効率的で整然としていても、改正されるか廃止されるかしなければならない。 各人には皆正義に根ざす不可侵性があり、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。このために、ある人々の自由(freedom)の喪失が、他の人々に今まで以上の善(good)を分け与えることを理由に、正しいとされることを、正義は認めない。少数に強いられた犠牲が、多数に享受される以前より多くの有利性(advantage)の合計によって償いをうけるということを、正義は許さない。 したがって、正義に適う社会では、平等な市民権という自由が確立していると考えられており、正義によって保証される権利は、政治的交渉とか社会的損益計算には従わない。われわれが誤った理論に黙従してもよいのは、よりよい理論がない場合だけである。同様に、一層大きな不正義を避けることが必要な場合にのみ、ある不正義に耐えられる。真理と正義とは、人間活動の第一の徳目であるからそれぞれ妥協を許さないのである。 (「正義論」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<§11 正義の二原則> 「正義論」の重要なポイントになる部分がこの部分、「正義の二原理」と言えよう。
 さて、原初状態で合意されると私が信ずる正義の二原則を暫定的な形で述べておこう。これらの原理の最初の定式化は試験的なものである。私は、話を先へ進めながら、いくつかの定式化を考え、ずっと後で与えられる最終的言明に、一歩一歩、近づけていくつもりである。こうすれば、自然な方法で説明を先へ進められると思う。
 二つの原理の最初の言明は次の通りである。
 第一原理:各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広汎な図式に対する平等な権利をもつべきである。
 第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが、(a)あらゆる人に有利になると合理的に期待でき、(b)全ての人に開かれている地位や職務に付随する、といったように取り決められているべきである。
 第二原理には二つのあいまいな言い方、つまり「あらゆる人の有利」と「全ての人に開かれている」、がある。これらの意味をより正確に決定すると、§13にある二番目の原理の定式化に至る。二つの原理の最終版は、§46で与えられる。§39では、第一原理の言い替えが考察される。
 私がいっておいたように、これらの原理は、まず第一に、社会の基本構造に適応され、権利と義務の割り当てを支配し、社会的、経済的有利性の分配を規制する。その定式化には、正義論の意図からして社会構造は二つ程度の別個の部門をもつとみなされていて、第一原理はそのうちの一つに適用され、第二原理は他に適用されるという、前提がある。 かくて、平等な基本的自由を定め、それらを保証する社会システムの側面とを区別しておかなければならない。さて、基本的自由がそうした自由のリストによって与えられることを見ておくことは重要である。中でも大切なのは、政治的自由(投票したり、公職についたりする権利)と言論および集会の自由、良心の自由、心理的圧迫と肉体への暴行や殺傷(dismemberment)からの解放を含む身体の自由(身体の無欠性)、個人的な財産を保有する権利や法の支配という概念によって定められるような恣意的な逮捕や押収からの自由である。 これらの自由は第一原理によって平等であるべきなのである。
 第二原理は、まず最初に、所得や富の分配および権限と責任の差を利用する組織の設計(design)に適用される。それはあらゆる人に有利になるのでなければならないし、同時に、権限と責任のある地位は、全ての人が近づけるのでなければならない。
 人は、地位を開放したままにしておいて第二原理を適用し、それから、この拘束にしたがって、全ての人に便益を与えるように社会的、経済的不平等を取り決めるのである。
 これらの原理は、逐次的順序で、第二原理に対して第一原理が優先するように取り決められている。この順序づけは、第一原理によって保護される基本的な平等の自由の侵害が、社会的、経済的有利性が大になるからといって、正当化されたり、補償されたりすることがあり得ないことを意味する。これらの自由は、他の基本的自由と対立する時しか制限されたり、妥協させられたりすることがない中心領域をもっている。 これらの自由は、互いに衝突する時には制限されるから、どれも絶対的ではない。しかし、それらが一つの体系を形成するようにどう取り決められているとしても、それにもかかわらず、この体系は同じになるはずである。特定の環境から、つまりある与えられた社会の社会的、経済的、技術的(technological)環境から独立に、これらの自由を完全に明確に定めることは、困難であるし、おそらく不可能である。 そのようなリストの一般的形態を、この正義の概念を支持するように、十分正確に、考察することができるということは仮説である。もちろん、リストにのっていない自由、例えばある種の財産(例えば生産手段)を所有する権利や自由放任説によって理解されるような契約の自由は、基本的ではない。そこで、こうした自由は、第一原理の優先によって保護されはしない。最後に、第二原理に関しては、富と所有の分配や権限と責任のある地位は、基本的自由、機会の均等の双方と整合的であるべきである。
 二原理は、その内容の点で、むしろ明確に限定されていて、それらが受け入れられるかどうかは、私が結局は説明し、正当化するように努めなければならない一定の仮定にかかっている。当面これらの原理が次のように表現できる正義のより一般的概念の特別な場合であることを、みておくべきであろう。
 全ての社会的価値──自由と機会、所得と富および自尊心の社会的基礎──は、これらの価値のあるものまたは全てのものの不平等な分配が、あらゆる人の有利になるのでない限り、平等に分配されるべきである。
 それ故、不正義は、全ての人にとって便益とはならない不平等であるにすぎない。もちろん、この概念は極端に漠然としていて、解釈を必要とする。 (「正義論」から)
<機会均等の原理> 政治哲学独特の「素人さん、お断り」の文章を「普通の文章」にしてみよう。
 社会的、経済的不平等は次のように取り決められめばならない。すなわち、それらはいずれも、(a)最も不利な状態にある者に最も有利なように、また(b)公正な機会の均等の条件の下ですべての人に開放された職務や地位に付せられるものでなければならない。 (「自由・公正・市場」から)
<「好ましい経済秩序」と政治哲学・社会哲学> 「政治哲学の業界用語」を普通の日本語に翻訳した文章をもう一つ引用しよう。「正義論」とはどんな本?との問いに答えている、と考えて良いだろう。
 1971年出版の大著『正義論』によって、ロールズは「最大多数の最大幸福」を正義の根本原理ともなす功利主義に代わり、次のような正義の二大原理を打ち出した。すなわち、第一原理は、各自が最大限に平等な自由(政治的、言論の自由、良心と思想の自由、心理的圧迫と肉体的暴行や殺傷からの自由、恣意的逮捕や押収からの自由など)を持つことの保障であり、第二原理は、(a)機会均等の下、(b)社会的格差(不平等)は、それば認められるにしても、それが最も不遇な人々の利益を最大限にするよう、またすべての人々に開かれた職務や地位に付属するよう配慮するよう配備しなおされること、である。
 この原理は、対等な関係ではなく、第一の平等な自由原理が第二原理に優先し、第二原理においては(a)の機会均等原理が」(b)の格差原理に優先する。このような原理が、互いに相手や自分の地位に関して「無知のヴェールに覆われた状態(原始状態)」にある人々の「内省的な均衡」を通して選択されるであろう、という考えをロールズは、功利主義に代わる代替案として打ち出したのである。これは一方で、個人の自由を犠牲にして経済的平等の実現を図ろうとするタイプの社会主義や開発独裁体制を拒否するとともに、他方で自由放任(レッセフェール)的な経済秩序も拒否し、政府介入による所得と富の再分配によって、自然的・社会的偶然に起因する社会的・経済的不平等をできる限り除去することを謳う構想であった。 そして、後にロールズは、この構想を「政治的リベラリズム」と名付け、正義がカント的な意味で「個人の利害を超越した民の公共的な理性」の「重なり合う合意(overlapping consensus)」によって成立するとみなすようになる。 (「経済の倫理学」から)
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<§13 民主的平等と格差原理> 「正義論」と言えば「格差原理」を取り上げなければ話にならない。それほど中心的なキーワードだと思う。
 表にあらわれているように、民主的解釈は、機会の公正な均等という原理を格差原理と結びつけることによってえられる。この原理は、その地位から基本的構造の社会的、経済的不平等が判定される特定の地位を選び出すことによって、効率性原理の不確定性を排除する。平等な自由と機会の公正な均等によって求められる制度の枠組みを仮定すれば、より良い状況にある人々のより高い期待は、次のような場合に限り、正義に適っている。 つまり、そのことが、社会の最も不利な立場にある構成員の期待を改善する図式の一部として作用する場合である。そうすることが不運な人々の有利にならないのであれば、その社会秩序は、より暮らし向きのよい人々の見通しをより魅力的なものにしたり、それを保証したりすることはないというのが、直観的な観念である。
 格差原理を説明するため社会階級間の所得の分配を考えてみよう。様々な所得グループは、その人々の期待との関連で分配を判断することができる代表的個人と相関すると想定しよう。さて、私的所有民主主義において企業家階級の構成員として出発する人々は、いってみれば、未熟練労働者階級にはじまる人々よりも、より良い見通しをもつ、これは、現存する社会的不正義が除去される時でさえ真実であるように思える。その時、人生の見通しにおけるこの種の初期的不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。 格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時に限って、それを正当化することができる。期待の不平等は、それをそれを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時にのみ、許容される。恐らく、開かれた地位に関する第二原理の中にその条項が与えられる。また自由の原理が一般的に与えられれば、企業家により大きな期待が許されると、企業家達は労働者階級の見通しを引き上げるような事を行なおうするようになるであろう。 彼らのより良い見通しは、誘因として働き、その結果、経済過程はより効率的になり、技術革新はより速い速度で進む、等々のことが生じる。私はこうした種類のことがどこまで真実であるかを考察するつもりはない。これらの不平等が格差原理によって正当化されるならば、この種のことが議論されなければならないというのが要点である。
 さて、この原理について、二、三のことを述べておこう。まず第一に、その適用に際しては、二つの場合を区別すべきである。第一の場合は、最も不利な立場にある人々の期待が実際に最大化されている場合である(もちろん、上で述べた拘束に従う)。暮らし向きのより良い人々の期待をどう変えても、最も暮らし向きの悪い人々の状況を改善することができない。私が完全に正義に適った図式と呼ぶ、最善の取り決めが得られる。第二の場合は、暮らし向きのより良い人々全ての期待が、少なくとも、より不運な人の福祉に寄与する場合である。 すなわち、もし、彼らの期待が引き下げられるならば、最も不利な立場にある人々の見通しも、同様に低下するであろう。だが、未だ最大には達していない。より有利な立場にある人の期待がより高い場合でさえ、最低の地位にある人々の期待を引き上げるであろう。そのような図式は、全体にわたって正義に適うが、私はそういうが、最善の正義に適う取り決めではない。彼らのうちの一人またはそれ以上の人のより高い期待が過大である場合にはその図式は正義にもとる。 これらの期待を引き下げるならば、最も恵まれない人々の状況は改善されるであろう。ある取り決めがどのくらい正義にもとるかは、より高い期待がどのくらい過大であるかに依存し、かかる期待が他の正義の諸原理を、たとえば機会の公正な均等をどの程度まで侵しているかに依存する。 しかし私は、不正義の程度を測定してみようとは思わない。ここで注意すべて点は、格差原理は、厳密に言えば、最大化原理であり、一方、最善の取り決めに達しない諸ケースの間には重大な差がある、ということである。社会は、暮らし向きの良い人々の限界的寄与が負である状況を避けるよう努めるべきである。というのは、他の事情にして等しければ、このことは、こうした寄与が正である時に最善の図式に達しないこと以上に、大きな欠点であるように思える。階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理まで侵されてしまう。 (「正義論」から)
<格差原理のたとえ話> 思いっきり「格差原理」を「素人さん、大歓迎」の文章にするとどうなるか?次のような素人の読者をも意識したやさしい文章が多くなると、政治哲学の分野もアマチュアや他分野からの新規参入が容易になり、F1ハイブリッドが生まれやすくなる、と思って引用してみた。
 むかしむかし、まだ社会というものがなかったころ、人々が集まって社会を作る相談をしたそうじゃ。そこでまず決めなければならなかったのは、社会が何をすべきかの原則、つまり社会にとって正義とは何かということだったんじゃ。みんなは、なんとか自分に一番有利なように正義の原則を決めようと考えた。ところが、人々は始めて会ったので面識もなく相手がどういう人物かはもちろん、これから作られる社会のなかで自分がどういう位置を占めるかも知らなかったそうじゃ。つまり、自分は社会のなかで優れた人間なのか劣っているのか、成功しそうなのかダメそうなのか、自分とは何者なのか分からなかったのじゃ。そこでみんな考えたんじゃ。自分にとって一番最悪な場合、つまり、社会のなかで自分が一番恵まれない人間である場合を考え、そういう自分を救ってくれる正義を考えれば安全じゃ、と。 こうして社会は始まったそうじゃ。
 ロールズはこのフィクションを原初状態と呼び、慎重な個人が最悪な状態に落ち込む危険を心配して共通に示す判断だから、格差原理が正義であることは論証されているとしたのである。彼は、自分が何者であるかを知らないという空想を「無知のヴェール」と表現したが、私は、ロックの時代の「神の前には皆平等」という思想を現代風に洗練したのがこれであると思っている。 (「経済学の知恵」から)
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<§54 多数決ルールの位置> 民主制度の基本原理である多数決について、ロールズはどのように考えているのだろうか?それが、「民主制度の限界」をどのように捉えているか?の表れになる。
 前述の考察から、多数決ルールの手続き(どのように定義されたものであれ、またどのように制限を設けられたものであれ)が手続き上の方策としては下位の位置を占める、ということは明らかである。かかるルールを正当化するのは、まさに基本法によってその達成を企画されている、さまざまな政治目的、またしたがって正義の二原理である。私は、ある形態の多数決ルールが正義にかなう有効な立法を保証する、利用可能な最良の方法として正当化される、と仮定してきた。それは平等な自由と両立しうる上に、ある種の自然さをもっている。というのは、もし少数決ルールが認められるならば、決定のための明白な選択基準は存在せず、しかも平等が損なわれるからである。多数決原理の基本的役割は、その手続きが背景にある正義の諸条件を満たす、 ということにある。この場合、こうした条件は政治的自由の条件──言論・集会の自由、公務への参加の自由、基本法上の諸手段によって立法過程に影響を与える自由──と、こうした自由の公正な価値の保証とである。このような背景がないとき、正義の第一原理は満たされない。だがそれがあるときでさえ、正義にかなう立法が行われるという保証は全くない。
 多数派が望むことは正しい、という見解は全く意味がない。実際、正義の伝統的観念はいずれも、投票の結果は政治的原理に依存している、と常に主張して、この説を支持しなかった。一定の環境の下では、多数派(適当に定義され、制限を設けられた)は法を制定する立憲的権利を有する、ということが正当化されるが、だからといって、このことは制定された法が正義にかなうものであるということは意味しない。多数決ルールについての本質的論争は、それがどのようにすればもっと良い定義を得られるか、そして立憲的拘束が正義のバランスを増大させるための有効かつ合理的な方策であるかどうか、ということに関係している。こうした制限は、確個とした地歩を築いた少数派が自分たちの不法な有利性を保護するためにしばしば利用するかもしれない。この問題は政治的判断の問題であり、正義論に属するものではない。 ただ次のことを指摘しておきさえすれば十分である。すなわち、市民は他の事情にして等しければ、通常自分たちの行為を民主的な権威に従属させる、すなわち、投票の結果を拘束力のあるルールを確立するものとして認めるが、他方、彼らは自分たちの判断をそうした権威に従属させはしない、ということである。 (「正義論」から)
 「多数決が常に正しいとは限らない」と言う立場と「それでも、それ以外にいい方法がない」と考える立場の違いがある。この「民主制度の限界」シリーズでは後者の立場をとっている。
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<§81 羨望と平等> 「嫉妬心はしばしば正義という名の仮面を被りたがる」、と「正義と嫉妬の経済学」とも言うべき「経済倫理学」からの見方もあるが、ジョン・ロールズはどのように言っているのだろうか?
 今や、われわれは、秩序ある社会において許される一般的羨望の蓋然性を検討するときがきた。私は、この事例だけを論じようと思う。なぜなら、われわれの問題は、人間の性向、特に客観的な善の不釣り合いに対する人々の嫌悪感に照らして、正義の諸原理が合理的な約定であるかどうか、ということだからである。さて、私は、羨望の傾向の主たる心理的要因が無力感と結合した、自分自身の価値に対する自信の欠如にある、と仮定する。われわれの人生はおもしろみがないし、また、われわれには、それを変えたり、あるいは、われわれがそれでもしたいと思うことをするための手段を獲得したりする力がないと感じる。対照的に、自分の人生計画の価値やそれを遂行する自分の能力を確信する人は恨みを抱くようなことはしないし、また自分の好運を失うまいと警戒することもない。 たとえできるとしても、彼は自分自身を犠牲にしてまで他の人々の有利性を引き下げたいとは思わない。この仮説の意味するところによれば、もっとも恵まれない人々は、彼らの自尊心がしっかりしていなければいないほど、また自分たちの前途を明るいものとすることができないという彼らの感情が大きくなればなるほど、より恵まれた人々のより良い状況をいっそう羨む傾向がある。同じように、競争や敵対によって喚起される特殊な羨望は、自分の敗北がいっそう決定的なものとなればなるほど、それだけ強くなりそうである。というのは、自己の自信に対する打撃はいっそう厳しくなるだろうし、その損傷は取り返しがつかないように思えるかもしれないからである。しかしながら、われわれのここでの主たる関心事は一般的な羨望である。
 羨望の敵対的な激発を促進する条件は三つあると、と私は仮定する。第一のものは今しがた指摘された心理的条件である。つまり、人々は自分自身の価値とは何か価値あることをする自己の能力とに対する確かな自信を欠いているということである。第二に(そして二つの社会的条件のうちの一つであるが)この心理的条件が痛ましい屈辱的なものとして経験される多くの機会が生じる。自分自身と他の人々との間の差異は、社会構造と自己の社会の生活の型とによって明らかにされる。したがって、相対的に好運でない人々はしばしば自分たちの状況を余儀なく思い起こされられ、そのことが時として、彼らに彼ら自身の生活様式についてさらにいっそう低い評価をさせることがある。また、第三に、彼らは彼らの社会的立場を、相対的に有利な人々の恵まれた環境に対抗するのに、いかなる建設的な道をも認めないものとして考える。 自分たちの苦悩や劣等の感情を和らげるために、彼らは、自分たちには、たとえ自分たち自信を多少犠牲にしても、相対的に恵まれれた人々に損傷を与えるということ以外に選択の余地はない、と考える。むろん、それは、彼らがあきらめの環境に至ったり、冷淡になったりしないならばの話である。 (「正義論」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                     ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                           大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』─現代を生きる経済思想─                  山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』 現代社会の倫理を考えるー第8巻             山脇直司 丸善      2002. 9.25
( 2004年9月27日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(23)「正義論」は「先富論」をどう評価するか?
<「先富論」への道のり> かつて「もっと平等な社会を作ろう」と呼びかけ、民主制度と市場経済を批判してきた人たちが、その理論的根拠としていたマルクス主義が破綻した現在、それに代わるものとして、ジョン・ロールズの「正義論」を持ち出している。 このように「正義論」を捉えると、「それでは、ある程度不平等を容認する「先富論」はどうなのだ?」との疑問がわいてくる。政治哲学と呼ばれる理論が現実の社会を評価できるのか?人々が納得するような評価は期待できないのではないだろうか? と、政治哲学の現状分析能力に不信感を持つ。「もっと平等な社会を作ろう」とのスローガンと「先富論」との関係はどうなるのだろう?所得格差が広がっている、と言われる中国経済をどのように評価するのだろうか? 納得できる評価が出来ないならば、「正義論」という政治哲学は「外部社会に影響を与えず、参加者が議論を楽しむ趣味の集いでしかない」となる。
 まずは社会主義市場経済の誕生から、経済が成長を続け、所得格差が広がっていると言われる現在までの政治経済の歩みを簡単に振り返って、所得格差について検討してみよう。
<安徽省鳳陽県の農業改革実験>  1978(昭和53)年暮、安徽省鳳陽県小崗村、人民公社の農民18人が集まった。「このまま農業をやっていても生活できない。生産請負制を始めよう」「見つかれば、社会主義に反することだと、罰せられる。秘密を守ろう」 「もし誰かが逮捕されたら、差し入れに行く。死ぬようなことになったら、子供は18才までは村の皆が責任もって育てる」との血判状を作って、農民は生産請負制を始めた。
 同じ頃、安徽省鳳陽県前倪(ぜんげい)村、馬湖人民公社前倪生産隊で同じ動きがあった。どちらも秘密を守っていたがいつまでも守れるものではなかった。前倪村に共産党中央からの調査団が来た。人民公社書記は1週間の事情聴取を受けた。 この調査の責任者、安徽省第一書記万里は党中央に報告し、生産請負制を押し進めるよう進言した。 1979年9月の4中全会で「農業の発展を加速する若干の問題についての決定」としてこの生産請負制が公認された。 後に万里は農業担当副首相に就任。これをきっかけに人民公社は解体し始め、1983年末には全国の94.5%にのぼる農村で土地公有制に基づく生産請負制が実施されている。
<四川省成都鋼管工場の工業改革実験>  1978(昭和53)年夏、四川省第一書記の趙紫陽は四川省の6つの工場を調査し、3ヶ月を期限に企業改革の実験を始めた。それは労働者への報奨金支給を含む、競争原理の導入だった。すぐに成果は現れ、めざましい生産性の向上があった。当時の工場長、殷国茂はNHKのインタビューに答えて、「改革とは国から地方へ、の権力の再配分です。いろいろ問題もあったけれど、生産性は5倍になりました」 (1994年放映の番組)。この成果を評価されて、趙紫陽は後に首相に抜擢される。
<天安門事件以後の中国> 
1989(平成 1) 6. 4 天安門前広場に集まったデモ隊を人民解放軍が武力鎮圧。中国政府は事件で319人が死亡と発表。
天安門事件
1989(平成 1) 6.23 中共13期4中全会(〜24)で趙紫陽総書記解任、後任は江沢民
1992(平成 4) 1.18 ケ小平が改革・開放推進のため広東省を訪問(南巡講話、〜2.21) 
1992(平成 4)10.12 中国共産党第14回党大会(〜18)で「社会主義市場経済論」を採択
 天安門事件以後保守派が盛り返したが、ケ小平の南巡講話により改革・開放が推進される。ケ小平の講話の要点は「改革開放は大胆にやらねばならない」「改革開放胆子要大」という言葉だった。 このとき「先富論」が示される。これは「広大な国土と膨大な人口を抱える貧しい中国は一挙に豊かになることはできないから、まず一部の地域が先に豊かになり、その先行した地域が相対的に貧しい地域を引き上げる」という考え方だった。
<先富論の経済政策> 先富論の具体的な経済政策と言えば「経済特区」があげられる。1980年5月に、シンセン、珠海、汕頭(広東省)、アモイ(福建省)に「経済特別区」の設置が決定され 1984年には上海、天津、広州など14都市が新たに「沿海開放都市」となった。1988年に海南島が広東省から分離、省に昇格するとともに第5番目の経済特区となった。そして、1992年には大型国家プロジェクトとして上海「浦東開発区」が立ち上げられた。 これらの都市では税制面の優遇処置がとられ、中国経済を牽引する大きな力となった。人口2万人だったシンセン市が今や人口700万人の大都市になっている。
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<中国経済の高度成長> 「先に豊かになれる者から豊かになる」政策で、中国経済は成長を続けている。その中国経済の明と暗の数字を見てみよう。経済成長・GDPとジニ係数だ。
中国経済実質成長率 前年比%
成長率\年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年
実質成長率 8.8 7.8 7.1 8.0 7.3 8.0 9.9
第1次産業 3.5 3.5 2.8 2.4 2.8 2.9 3.5
第2次産業 10.5 8.9 8.1 9.6 8.7 9.9 12.3
第3次産業 9.1 8.3 7.5 7.8 7.4 7.3 7.6
外務省のHP(「中国統計年鑑」2002年版、中国経済景気月報各月版及び報道により作成)から

東アジア諸国の実質経済成長率 前年比%
国・地域\年 1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年
中 国 9.6 8.8 7.8 7.1 8.0 7.3 7.0 7.4
韓 国 6.8 5.0 -6.7 10.9 9.3 3.0 4.8 6.0
台 湾 6.1 6.7 4.6 5.4 5.9 -1.9 2.8 4.0
香 港 4.5 5.0 -5.3 3.0 10.5 0.1 2.1 4.8
シンガポール 7.5 8.5 0.1 6.9 10.3 -2.0 3.7 6.5
マレーシア 10.0 7.3 -7.4 6.1 8.3 0.4 4.2 5.8
タ イ 5.9 -1.4 -10.8 4.4 4.6 1.8 2.5 3.0
フィリピン 5.8 5.2 -0.6 3.3 4.0 3.4 4.0 4.5
インドネシア 8.0 4.5 -13.2 0.9 4.8 3.3 3.0 3.6
日 本 3.6 0.6 -1.0 0.9 3.0 -1.2 1.1 3.2
「アジア経済ハンドブック 2003」から

所得分布の国際比較 低所得層と高所得層の所得(消費)シェア
国 \ 項目 ジニ係数 最下位10%層 最上位10%層 1人当たりGDP米ドル
マレーシア 0.485 1.8 37.9 1995 3,610(2002)
フィリピン 0.462 2.3 36.6 1997 1,050(2003)
中国@ 0.444 1995 1,090(2003)
タイ 0.414 2.8 32.4 1998 2,236(2003)
カンボジア 0.404 2.9 33.8 1997 271(2003)
中国A 0.403 2.4 30.4 1998 1,090(2003)
インド 0.378 3.5 33.5 1997 583(2003)
ネパール 0.367 3.2 29.8 1995-96 248(2003)
インドネシア 0.365 3.6 30.3 1996 810(2003)
ベトナム 0.361 3.6 29.9 1998 388(2003)
スリランカ 0.344 3.6 28.0 1995 872(2002)
バングラデシュ 0.336 3.9 28.6 1995-96 389(2003)
モンゴル 0.332 2.9 24.5 1995 445(2003)
韓国 0.316 2.9 24.3 1993 12,646(2003)
パキスタン 0.312 4.1 27.6 1996-97 652(2003)
ラオス 0.304 4.2 26.4 1992 365(2003)
日本 0.249 4.8 21.7 1993 31,106(2003)
「現代中国経済 7 所得格差と貧困」及び「外務省のHP」から(一部他資料からTANAKAの計算による)
ジニ係数に関する数字「中国@」は、グスタフソン=リー推計、他は世界銀行による推計

所得分布の国際比較 低所得層と高所得層の所得(消費)シェア
国 \ 項目 ジニ係数 1人当たりGDP米ドル
日本 0.365 1992 31,106(2002)
日本(当初所得) 0.439 1992 31,106(2002)
アメリカ 0.40 1989 35,179(2001)
イギリス 0.35 1988 23,700(2001)
フランス 0.372 1984 26,900(2002)
オーストラリア 0.32 1985 28,810(2002)
ノルウェー 0.330 1986 41,900(2002)
フィンランド 0.21 1987 25,300(2002)
カナダ 0.404 1988 32,458(2003)
ニュージーランド 0.30 1985 14,700(2003)
イタリア 0.310 1986 20,400(2002)
スイス 0.323 1982 37,548(2003)
スウェーデン 0.220 1989 26,900(2002)
アイルランド 0.330 1987 37,822(2003)
「日本の経済格差」及び外務省のHPから作成 アメリカは当初所得、その他の国は再分配所得
1人当たりGDPの項目のカナダ、オーストラリアは現地通貨からドルに換算。オーストラリアは名目値
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<統計表をどのように読むか?> 中国経済の明と暗を示す数字は必ずしもこれだけではないと思うが、入手しやすい数字としてこれを引用した。さらに大切なのは、この数字をどのように読むか?だ。 読み方は沢山ある。第1次産業、第2次産業、第3次産業の伸び率の違いによる産業構造変化を読むこともできる。元気のいいアジアと停滞気味の日本。 ジニ係数、経済成長、1人当たりGDP、これらの数字から「高い経済成長によって、1人当たりGDPが上がり(国民一人一人が豊かになり、先に豊かになれる人が豊かになった)、所得格差が広がった」との見方、など。
 ネットではジニ係数を扱ったものは少ない。引用した文献では次のように書いてある。もっともここに書かれていることに関することは、この数字だけでは説明つかないし、中国経済を悲観的捉えようとする意図が感じられるのだが、所得格差を本格的に扱った適当な文献が見あたらなかったのでここに引用した。
 表は1990年代における中国の所得分布を他のアジア諸国と比較したものである。中国がすでにアジアのなかでも(そして世界的にみても)、所得分分布が不平等な国になったことが確認される。 約20年間の間に、世界的にみて所得がもっとも平等な国の1つから、逆に所得格差の大きな国の1つになった事例はまれである。 (「現代中国経済 7 所得格差と貧困」から)
 所得格差について次のような説明がある。
 「発展途上国の所得分配は不平等の程度が高い」。その根拠は、経済発展が進むということは国が豊かになることを意味する。所得上昇の恩恵を受ける人の割合が増加するので、所得分配の平等制は高まる。一方、発展途上国は制度の近代化が遅れているので旧社会といってよい。一部の大土地所有者が被支配階級となりやすい。 すなわち、一部の高所得者と大多数の低所得者がへ並存するという事態が生じやすい。所得分配の不平等が予想されるが、資産分配はそれ以上の不平等度を示す可能性が高い。 (「日本の経済格差」から)
中国とバングラデシュと、どちらに住みたいか? 所得格差の大きい中国と、少ないバングラデシュ、どちらに住みたいですか?あるいはアジア諸国で所得格差の大きいマレーシアと小さいラオスでは?高度成長を続ける香港と元気のない日本では? 中国では第1次産業が伸び悩み、第2次産業が成長している。農業は取り残されていく。農村から若い人たちを製造業種が引き抜いていき、いずれ日本と同じように農業後継者不足が問題になるだろう。 こうした産業構造変化は正義なのかどうか?それでも中国国民が豊かになっているのは確かだ。こうした問題に「正義論」は答えられるのだろうか?
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<外務省のHPから「貧富の格差」> 「経済が成長し国民が豊かになる中国」「所得格差が広がり社会問題化する中国」こうした中国の明と暗、多くの見方がある。ここでは外務省の見方を引用しておこう。これを本格的取り扱えば、それだけで4,5回分の原稿が必要になりそうだからだ。
 中国政府はケ小平の提唱した「先富論」により、沿海地域の経済発展を優先する政策を展開し、中国経済は大きな成長を遂げることに成功した。しかしながら、こうした政策のなかで取り残された内陸部と沿海部との経済格差は益々拡大していく傾向にある。1999年の1人当たりGDPをみると、沿海部地域では上海30,800元、北京19,803元、天津15,932元、広東省11,722元に達した一方で、内陸部は貴州省2,462元、甘粛省3,681元、チベット4,073元と伸び悩んでおり、上海と貴州省との格差は約12.5倍に拡大している。地域間格差の拡大は、「民工潮」と呼ばれる内陸部から都市部への出稼ぎ労働者の急増問題や貧困地域問題等を引き起こしており、社会の安定を脅かしかねない状況になっている。  こうした背景から、2001年から始まる第10次5カ年計画では西部大開発戦略が最重要テーマと位置付けられている。この背景には、東部沿海地域との格差是正を図ることで、少数民族が多く居住する西部地区の社会的安定を目指すと同時に、潜在的市場を掘り起こすことにより、持続的安定的経済成長を図りたいとする考えがある。具体的には、西部地区の水利、電力、交通、環境保護、資源開発プロジェクトを優先的に実施することや西部地区に対する一層の投資優遇政策や少数民族経済特区などを導入することが検討されている。
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<正義論はどのように言っているか?> ジョン・ロールズは中国経済について書いてはいない。そこでこれに関係するような文章を探してみた。
 格差原理を説明するために、社会階級監の所得の分配を考えてみよう。様々な所得グループは、その人々の期待との関連で分配を判断することができる代表的個人と相関すると想定しよう。さて、私的所有民主主義において企業家階級の構成員として出発する人々は、いってみれば、未熟練労働者階級にはじまる人々よりも、より良い見通しをもつ。これは、現存する社会的不正義が除去される時でさえ真実であるように思える。その時、人生の見通しにおけるこの種の初期的不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時に限って、それを正当化することができる。期待の不平等は、それを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時にのみ、許容される。 恐らく、開かれた地位に関する第二原理の中にその条約が与えられ、また自由の原理が一般的に与えられれば、企業家により大きな期待が許されると、企業家たちは労働者階級の見通しを引き上げるような事を行おうとするようになるであろう。彼らのより良い見通しは、誘因として働き、その結果、経済過程はより効率的になり、技術革新はより速い速度で進、等々のことが生じる。私はこうした種類のことがどこまで真実であるかを考察するつもりはない。この種のことが議論されなけらばならないというのが要点である。 (「正義論」から)
 簡単に言えば「所得格差は良くない。しかし、低所得者も豊になれる期待が持たれるなら、その政策は正当化できる」ということだろう。 しかし、ロールズは「経済が成長することによって、労働者階級の見通しを引き上げるような事」が起こるかどうかについて「考察するつもりはない」と言っている。「所得の低い人たちを豊かにすべきだが、私はこれを経済学的見地からは検討しない」と書いている。経済学の問題を経済学の見地からは検討しない、という意味不明のことを書いている。その階級意識の強い論法は「総評」関係者や、マルクス経済学に未練のある人たちが喜びそうな文章だ。
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<「正義論」は中国経済を評価できない> 中国経済は色々な面から、経済学の研究対象として興味あるものだ。しかし正義論からは評価出来ない。そして中国経済を正義論の立場から論じた文献も見あたらない。現実の経済を研究するエコノミストは正義論を無視するし、正義論信奉者は現実社会を見ようとはしない。 中国経済に関しては見あたらなかったが、日本経済に関して、所得格差と格差原理の両方に言及した文献を見つけたのでここに引用しよう。
 一部のアメリカ人には、所得分配の不平等を別に気にしない人もいる。あるいはマクロ経済の繁栄や効率性のためには、公平度は犠牲になってもやむを得ないとし、自由主義とはそのようなものだと主張する。私の場合には、後に述べるロールズの格差原理に立脚して、所得分配はできるだけ平等化した方が好ましいと判断している。ここで意見の違い、ないし判断基準の違いがでているのである。 (「日本の経済格差」から)
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<『正義論』と『資本論』> 「正義論」を読んでいるうちに「資本論」と似ているように感じた。直観的に感じたのでその理由を探してみた。共通点はあった。「難解である」「大作である」ことだ。これを批判しようとすると、とても多くのエネルギーを必要とする。まず、「資本論」「正義論」をやさしく、分かりやすく解説しないと多くの読者には読まれない。それから、その批判を書くとなると、とてつもなく多くの文章を必要とする。 理性的に批判するにはその見返りが少なすぎる。費やしたエネルギーに見合う、成果、評価、報酬は期待できない。ということでこれを批判しようとは試みない。せいぜい無視するだけだ。そこでこの信奉者は「これは誰も批判しない、立派な理論だ」と思うようになる。 「正義論」を批判が少ないのはそういうことだろうと思う。「平等主義は正義にあらず」と題された本もあるが、真っ正面から「正義論」を批判しているわけではない。 「資本論」に関しても最近では批判ではなく、無視する傾向にある。そうした中で、興味を引いた文章があったので、ここに引用しよう。 経済学の、一番はじめのやさしい入門書の<近代経済学とマルクス経済学>と題されたコラムから。 テレビで見る伊藤先生、穏やかな、人格円満な先生と見えたけれども、その著書を読むと結構鋭いことを書いている。
 日本には、近代経済学とマルクス経済学という面白い分類があります。社会主義国の破綻が続く中で最近はマルクス経済学の勢いは依然ほどではなくなりましたが、私が学生のころはマルクス経済学を専攻している先生のほうが多く、近代経済学はどちたかというと少数派でした。 現在でも、いろいろな大学で教えている教授陣の中にはマルクス経済学で学位をとり、その延長上で研究している人が少なくありません。欧米の大学にはマルクス経済学的な研究をしている人はほとんどおらず、社会学や歴史思想などの分野でマルクス経済学的な考え方を教えている人がごく少数いる程度です。
 経済学を体系的に学ぶという意味では、両者の体系には相互関連性はほとんどありません。私が学生のころはマルクス経済学が経済学部の必修科目でした。正直なところ、その後の私の研究生活においてマルクス経済学的な考え方を利用したことは一度もありませんでした。 この本でもマルクス経済学の考え方にはまったく触れていません。(「はじめての経済学(上)から)
 Yahoo! の経済学カテゴリー▲を見るとマルクス経済学の講座がまだまだ多くあるようです。
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<主な参考文献・引用文献>
『中国2020年への道』                       朱建栄 日本放送出版会   1998. 6.25
『現代中国の経済』現代中国叢書3                   王曙光 明石書店      2004. 4.30
『図説 中国産業』 2005年の巨大市場を読む     日本興業銀行調査部編 日本経済新聞社   1999. 6. 1
『ベーシック アジア経済入門』 新版            日本経済新聞社編 日本経済新聞社   2000. 1.14
『中国経済の数量分析』                   大西広・矢野剛編 世界思想社     2003. 5.15
『現代中国経済』 7 所得格差と貧困                 佐藤宏 名古屋大学出版会  2003. 9.10
『アジア経済ハンドブック』 2003           江橋正彦・小野沢純 全日出版      2002. 7.25
『日本の経済格差』─所得と資産から考える─              橘木俊詔 岩波書店      1998.11.20
『平等主義は正義にあらず』                     山口意友 葦書房       1998. 3.10 
『はじめての経済学』(上)                     伊藤元重 日本経済新聞社   2004. 4.15
( 2004年10月4日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(24)格差原理に反する社会とは?
<最も恵まれない人は誰だ?> 「正義論」の中心的なポイントは「格差原理」だ。「正義論」ではつぎのように言っている。
 二つの原理の最初の言明は次の通りである。
 第一原理:各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広汎な図式に対する平等な権利をもつべきである。
 第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが、
 (a) あらゆる人に有利になると合理的に期待でき、
 (b) 全ての人に開かれている地位や職務に付随する、といったように取り決められているべきである。
 同じ事をちょっと言い方を変えるともう少し分かりやすくなる。
 第1原理 各人は、すべての人は同様な自由の体系と平等な基本的自由の全体系を最大限度までもつ平等な権利を有するべきである。
 第2原理 社会的、経済的不平等は、それらが次の両者であるように取り決められるべきである。
 (a) 最も恵まれない人の便益を最大化すること。 
 (b) 公平な機会の均等という条件の下で、すべての人に解放されている職務や地位に付随していること。
 思い切ってやさしく、TANAKA流に言い替えると「社会で最も恵まれない人のためになる政策を行うことが正義である」となる。 (b)に関しては、当たり前の事なので問題にしない。「職務や地位に関して、ある程度の差別があってもしようがない」とは誰も言わないからだ。ジョン・ロールズとは違う考えの、ロバート・ノージックもミルトン・フリードマンも「差別を容認する」とは言わない、つまり誰も反対しないことだから問題にしない。 誰も反対しないスローガンで、例えば「◎◎市は核兵器の廃絶を求める」のような、あるいは「世界人類が平和でありますように」のような願望文を政治哲学や経済学のカテゴリーで問題にしても意味がないからだ。それは宗教家に任せておけばいい。
 「最も恵まれない人の便益を最大化すること」と言われればなんとなく「それはそうだな」と言いそうだが、では「最も恵まれない人とはどういう人だ?」と言われたらどうする? ホームレス?サラ金に過剰債務を抱えている人?犯罪被害者?拉致被害家族?難病・奇病を持つ人?軍事独裁国の政治犯?リストラされた中高年労働者?
 「恵まれない人」と言っても幾つかに分類できる。例えばその責任が誰にあるのか?本人か?家族か?他人か?企業か?政府か?台風・地震・異常気象などの自然現象か?本人の責任によって「恵まれない人」になったのに、社会が面倒を見なければならないのか?本人でも政府でもなく他人の犯罪による被害者を政府が面倒をみるべきか?そうした「恵まれない人」と政府の責任による「恵まれない人」とはどう区別すべきか?
 恵まれない人が多数か?少数か?でも対処の仕方が変わってくる。全国に数人しかいない難病患者と沢山いる交通事故被害者。
 「便益を最大化すること」とは、ほとんどの場合コストがかかることだ。その解決策が全く費用のかからないものならば大して問題にはならない。問題はその費用をどのように工面するかだ?「経済学とは損得勘定を科学する学問だ」とはTANAKAの持論だが、一般には違った表現をする。「経済学とは希少性を扱う学問である」が一般的だ。 「経済学では自然や資源を無限と捉えている」との批判があるが、それは間違っている。経済学では無限にあるものは研究対象ではないからだ。それはそれとして、恵まれない人の便益を図るための費用を、誰が負担するか?国か?自治体か?NPOか?篤志家か?資金は無限にあるわけではない。希少性のあるものだ。
 「最も恵まれない人の便益を最大化すること」との政策を実際に行うとなると、現実を直視する必要がある。現実を見ないでこうした主張を言うということは、単に空想を言っているにしか過ぎない。「空想平等主義」と言われてしまうだろう。
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<「格差」が許される場合、許されない場合> 「正義論」は「先富論」をどう評価するか?で「正義論」では中国の「先富論」による所得格差を容認しているはずだ、と書いた。ジョン・ロールズは経済成長により先に豊かになれる者から豊かになり、その他の者は遅れて豊かになる、その政策を容認するはずだ、と書いた。 では、容認できない所得格差とはどういう状況なのか?経済が成長しないで格差が広がる場合とは、どのような場合なのだろうか?  思いつくのは、最貧国で軍事クーデターが起き、独裁者が政治的・経済的利権を自分と身内に集中する政策をとった場合だ。「公正無私なる観察者」はこうした状況を「正義」とは言わない。日本人で普通の感覚を持っていれば、決して「正義」とは言わない。つまり当たり前のことなのだ。 ジョン・ロールズに言われなくとも「経済が成長しないで、所得格差が広がるのは正義ではない」とは分かり切ったことだ。「正義論」ほどの難解で大作は必要とはしない。具体的な政策が幾つか提示されているなら分かるが、そうではなく、具体的な政策はない。 現実は「先に豊かになれる者から豊かになる」「先に豊かになれる国から豊かになる」であり、「所得格差を広げずに、国民が等しく豊かになる政策は存在しない」だ。このように考えていくと、 「空想平等主義」とも言われそうなくらい、非現実的、抽象的は空論に思えてくる。
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<「恵まれない人」を作らない政策> 社会で最も恵まれない人が有利になるような政策を考えていて、恵まれない立場になった人を救うことばかり考えているのは不自然だ。 「なぜこのような恵まれない人がでてくるのだろうか?」「そのような恵まれない立場の人たちを作らないようにしよう」「そのためにはどうしたらいいだろうか?」と考えるはずだ。 このように考え始めると、答えは容易に出てくる。「競争社会が弱者を生み出す」「規制緩和という悪夢が弱者を生み出すのだから、多国籍企業・大企業の利益だけになる規制緩和はやめること」との主張に結びつく。 もっとも、「規制緩和反対」を唱える評論家がどれほど「正義論」を読み込んで、理解しているかは別問題なのだが。
 「もっと平等な社会を」とのセンスと「規制緩和反対」「競争社会は新たな弱者を作り出す」「進化論は自然淘汰という弱肉強食の世界観だから学校で教えるべきだはない」 とが同じセンスであることが分かる。「科学とは反証可能な合理的な物の考え方」と思われるのだが、そうではなくて「センス」としか言いようのない、合理的ではない、非科学的な、そして時には「好き嫌いの感情」による違いがある。このような捉え方も反証不可能な非科学的な考え方なのだが、 このように考えると、いままで分からなかった、社会科学分野の学派の違いが見えてくる。「なぜこれほどの学者が反◯◯派なのだろう?」「それは若いときに◯◯派の☆☆に虐められたからだ」ということもありそうだ。 社会科学と言われる分野でも、このような科学とは関係のないことが影響していることもあるに違いない、と思う。
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<ロールズ支持者は何と言ってるか?> 上に書いたような事に関してロールズ支持者は何と言っているか?少し引用してみよう。
貧困者の増大をそのまま放置してよいという意見には、ほぼ社会の誰も賛成しないだろうが、対策ついての合意はそう容易ではない。貧困者の救済策には大きく分けて2つある。第1は、貧困者を生まない社会・経済制度をつくる政策である。 例えば、失業者をゼロにする経済政策である。後者の例として、最低賃金率の引き上げがある。第2には、貧困者の根絶はむずかしいので、貧困者個々に社会扶助費を国が支給する方法である。これは社会保障制度の充実策といってよい。この2つの政策を巡っては後章で詳しく検討する。 (「日本の経済格差」から)
 ロールズの考え方に対して、様々な批判が提出された。例えば、最も不遇におる人の厚生を最大にするのであるから、他の人の厚生が必要以上に犠牲になる場合がある。あるいは、最も不遇な人の取り分をわずか高めることは、他の人の取り分を大きく挙げなければならず、かえって格差が拡大する恐れもある。 ハイエクやフリードマンのような経済思想家が主張するように、最も不遇な人を優遇することは、不遇でない人の意欲にとってマイナスになる可能性があり、社会全体としての発展・成長に阻害となりうる。当然のことながら、ハイエクや フリードマンは、自由主義を最も尊ぶものであり、自由に付随する自己の責任にも言及する。そして政府の介入を敗する考え方をとる。私の立場は、自由主義を尊ぶことは当然であるが、結果として世に大きな不平等が生じれば、政府介入はあってもよいとする考えである。貧困者と極端な金持ちを社会から排除するのは、別に社会主義だけに与えられた政策目標ではない。 自由主義と資本主義の社会にあっても、多くの人にとって「公正」と判断されうる政策目標となりうる。私自身はロールズの主張に基本的に共鳴する。従って、公平性を重視した所得再分配政策を用いることに違和感はない。マクシミン基準の適用に際して発生する副次的なネガティブな効果を最小にする政策こそが、求められる理想的な政策であると考える。具体的な政策論については後に議論する。 (「日本の経済格差」から)
 「日本の経済格差」の著者は「後章で詳しく検討する」と言っている。ではどのように言っているのか?それは興味を持った皆さんに読んで、検討してもらうとして、話を進めよう。
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<極端な金持ちを社会から排除すべきなのか?> 「貧困者がいない社会がいい」と言えば誰も反対しないかも知れないが、「極端な金持ちを社会から排除すべきだ」と言われると「ちょっと待て」と言いたくなる。1891年に100万ドルの資金でニューヨークにカーネギーホールを設立した鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835-1919)、1913年にロックフェラー財団(Rockfeller Foudation)を設立したジョン・ロックフェラー(1839-1937)、こうした高額所得者の存在を許したことは正義に反することだったのだろうか?現代ではビル・ゲイツ(1955-)が金持ちであることは正義に反するのか? 日本では1930年に大原美術館を設立し、その他大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所、孤児院などを設立した大原孫三郎(1880-1943)、松方正義の三男で川崎造船所社長だった頃、1916年から1923年にかけてパリを中心に数千点の絵画、彫刻、工芸品を集め、現在では松方コレクションとして知られている、その松方幸次郎(1865-1950)、こうした金持ちがいたことは正義に反するのだろうか? 現代ではPHP研究所を設立した松下幸之助(1894-1989)の存在は正義に反するのだろうか?こうした「極端な金持ちを社会から排除すべき」というような主張を聞くと、TANAKAは言いたくなる、「嫉妬心はしばしば正義という名の仮面を被りたがる」と。
金持ちのムダ使いが経済を成長させる <有閑階級の恋愛と贅沢と資本主義▲ 正義と嫉妬と不平等の経済学> で書いたように「資本主義経済では経済成長のために所得格差が生じることはある」と何人かの先人達も言っている。 バーナード・マンデビル(1670-1733)の「蜂の寓話」、ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)の「恋愛と贅沢と資本主義」、ソースティン・ヴェブレン(1670-1733)「有閑階級の論理」などを読むと、納得するだろう。 先に豊かになれた者から豊かになって、その金持ちたちのムダ使いが消費活動を刺激し、景気が良くなる。有閑階級(the Leisure Class )の 恋愛や贅沢へのムダ使い、つまり顕示的消費( Conspicuous Consumption )が資本主義を進化させるのであって、それはプロテスタントかどうかは関係ない。 むしろ非プロテスタント的な悪徳、それが社会の各部分に満ちているときこそ、全部そろえばまさに天国になる。
累進課税はフラットになっていく こうした金持ちを生み出さない政策は、所得税の累進性を厳しくする(高額所得者ほど所得税を高率にする)ことだ。しかし日本では累進課税は緩やか(フラット)になってく傾向にある (所得税の税率構造の推移▲を参照のこと)。つまり日本では「高額所得者をあまり虐めるのはやめましょう」と有権者の多くが考えている、と言える。「日本の経済格差」の著者のような考えは少数派に属する。 もっとも少数派だからこそ、声を大にして叫ぶのだろうが、日本の有権者は、声を大にして叫ぶことはなくても、結構しっかりした自分なりの考えで投票権を行使する。
最低賃金を引き上げると、失業者は増加する 「日本の経済格差」の著者が主張する「最低賃金率の引き上げ」はどういう経済効果があるだろうか?著者が主張するように、最低賃金率の引き上げは最も不遇におる人の厚生を最大にするのだろうか?これに関してTANAKAはゲーリー・ベッカーの意見を尊重する。 <単純な話だが、最低賃金を引き上げると、失業者は増加する>▲ だ。簡単に言うと次のようになる。
 最低賃金率を引き上げると、「それ以下の賃金でもいいから働きたい」との労働者の希望が叶えられなくなる。最低賃金率付近で働いているある人たちは賃金が少し上がり喜び、その他の人は職を失いとても困る。 これは失業者をゼロにする経済政策である「ワークシェアリング」と反対の政策だ。ワークシェアリングは「少しぐらい賃金が下がっても失業者が出ないよう雇用を確保する政策をとるべきだ」であり、「最低賃金率を上げよ」は「たとえ失業率が上がったとしても最低賃金を上げよ」だ。 従って、「最低賃金率を上げよ」と「ワークシェアリング」の両方を主張するのは矛盾している。経済学を少し学ぶとわかる、単純なことだ。 「失業者をゼロにする経済政策」は「ワークシェアリング」であり、「最低賃金率の引き上げ」は「反ワークシェアリング」であることに気付かずに話を進めている。 だから「日本の経済格差」の著者は「ワークシェアリング反対者」だということがわかる。ではTANAKAはと言うと、どちらも反対。賃金は市場のメカニズムに任すべきだと考える。その上で、所得再分配は「負の取得税」がいいと思う。 これは<新しい所得税法>▲で書いた。 「ワークシェアリング」とは「不患貧 患不均(乏しきを憂えず、等しからざるを憂う 孟子)」 との考えなのだ。 そして「最低賃金率の引き上げ」を主張するのは、チャーチルに言わせれば「 heart はあっても brain がない」となる。
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<賃金を市場に任せないということは……> 法律により最低賃金を引き上げると、企業はその人件費増を吸収しなければならない。どのような方法で利潤増大を図るか?市場に頼らず賃上げを獲得したなら、経営者も市場に頼らず利潤増大を謀る。それは、土木・建築業界で広く行われている「談合」であったり、あるいは「カルテル」と言われる価格協定の密約だ。市場不信者は「何でもかんでも市場に任せればいいってものじゃあない」と言って、これを援護射撃する。 そのうちに「いっそのこと、密約がいけないのだから公にやったらどうだ?」と言い出す。最初は学識経験者中心の第三者機関、そして次第に政府機関中心に管理価格が設定される。それは「価格の安定」と「産業の空洞化を防ぐために」が口実になる。 「市場経済は弱肉強食の社会なので、それを和らげる必要がある」との説明には、それを支持するNPOも設立される。そうして市場経済の弊害を取り除こうとの運動が、社会主義への道になり、それが隷従への道=THE ROAD TO SERFDOM になる。
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<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                      ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『ノージック 所有・正義・最小国家』    ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『蜂の寓話―私悪すなわち公益』          バーナード・マンデルビル 泉谷治訳 法政大学出版会 1985. 6.24
『経済学の巨人たち』                            竹内靖雄 新潮選書    1997. 2.25
『恋愛と贅沢と資本主義』             ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫 2000. 8.10
『有閑階級の理論』               ソースティン・ヴェブレン  高哲男訳 ちくま学芸文庫 1998. 3.10
『入門経済思想史 世俗の思想家たち』   ロバート・L・ハイルブローナー 八木甫他訳 ちくま学芸文庫 2001.12.10
『経済倫理学のすすめ』                           竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『日本の経済格差』─所得と資産から考える─                  橘木俊詔 岩波書店    1998.11.20
『隷従への道』 全体主義と自由 フリードリッヒ・A・ハイエク 一谷一郎・一谷映理子訳 東京創元社   1992. 7.30
( 2004年10月11日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(25)先に豊かになれる国から豊かになる
<欧州の篤志家は?> 19世紀後半から20世紀前半にカーネギーやロックフェラー、それに大原孫三郎や松方幸次郎をはじめとする金持ちが篤志家としてその私財を社会に還元していた。現代では税制が変わって、それほど貯えないうちに税金として国がその使い道を決めてしまう。個人が決めるよりも政府が決めた方が公共性は認められるだろうが、それだけ個性のない平凡な使い道になる。 基礎的なインフラ整備はそれでもいいが、文化・芸術や新しい産業などは既成の価値観からはみ出したものも認める余裕がないと生まれない。社会の不平等を是正するには政府が金を使う理由にはなるが、新しい社会を生み出すには個人的なひらめきも必要になる。それがないと平等ではあるが平凡で、新鮮な文化の香りもない、変化・進化のない平凡な社会になってしまう。 自由な競争社会では社会貢献は考えられない、と思うのは間違えで、むしろ現代よりももっと自由経済であった頃の方が慈善活動が活発だった、とさえ考えられる。そうしたことに関してミルトン・フリードマンは次のように言っている。
 誰でも口を開けば、自由放任経済には心がないなどど言います。しかし、アメリカで民間の慈善活動が最も盛んだったのはいつだと思いますか。19世紀ですよ。非営利病院の建設運動が大きな盛り上がりを見せましたし、海外への伝道も盛んでした。図書館普及運動が展開されたのもこの頃なら、動物虐待防止協会が作られたのもこの頃です。庶民が、わずかな所得しかなかった人たちが、生活水準と地位を飛躍的に向上させたのもこの頃です。何百万という移民の群れが、それこそ自分の肉体以外には何も持たずに外国からやってきて、自らの労働で生活水準を大幅に高めることができた時代でした。 (「政府からの自由」から)
 ところでこれはアメリカと日本での話。ではヨーロッパではどうなのだろうか?個人の私財を投じた篤志家はいなかったのだろうか?そう考えると全く思いつかない。大体大金持ちが話題にならない。 現代ではリチャード・ブランソン(リチャード・チャールズ・ニコラス・ブランソン=1950-)が知られているがそれだけだ。フランス、ドイツと見渡してもいない。「貧困者と極端な金持ちを社会から排除するのは、別に社会主義だけに与えられた政策目標ではない」とは言っても、それは「べき論」で実際は社会主義に与えられた政策目標であり、資本主義社会では「極端な極端な金持ちを」だからと言って社会から排除することは主要な政策目標ではない。 日本の累進課税率や相続税の変化を見てわかるのは「金持ちをそんなにいじめるのはやめにしましょうよ」との現れだと思う。しかしイギリス、フランス、ドイツでは大金持ちは出てこない。つまり「社会主義」をやっているからなのだ。共産党でなくてもそれぞれの国独特の社会主義を目指している。「社会民主主義」と表現される場合もあるし、他の政党でも社会主義の政策を取り入れている、と考えられる。
 現代ではヨーロッパの篤志家は話題にならないが、19世紀には金持ちがサロンを開いて若い芸術家を支援していた。ショパンとジョルジュ・サンドの出会いも金持ちがスポンサーになって開かれていたサロンだった。もう少し前は貴族がスポンサーになっていた。ベートーベンのピアノソナタNr.21 C-dur op.53 Waldstein の「ワルトシュタイン伯爵」はベートーベンを金銭面から援助していた。こうした文化活動援助も個人でなく国や企業がやるべきだ、との主張もあるだろう。 国がやるとどうなるか?旧ソ連、旧東欧を振り返ってみるとゾッとする。2000年4月29日と5月6日にNHKTVで放送された「未来への教室」で、アシュケナージがショスタコーヴィッチのスターリンへの抵抗を話していた。 世界的に名の知られた作家・作曲家といえども、国家権力に逆らうものは活動が制限される。「芸術とは人民に奉仕するのもでなければならない」となり、反政府活動は出来ないし、国家の宣伝マンにならなければ生きていけない。 「芸術は国家・人民に奉仕するものなければならない」との主張、TANAKAの燃えるハートは絶対に許さない。
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<社会貢献への資金提供は自己責任で> 国家が文化・芸術活動に関与してくるとどうなるか?旧ソ連の例を以前に書いているので、それを引用してみよう。「戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義」から <妖怪が微笑むとき>▲
 1935年6月にパリで後に「第1回文化擁護国際作家大会」と呼ばれる、インテリの集会が開かれた。ソ連からは当初、マキシム・ゴーリキーの出席が予定されていた。しかし直前になって出席取りやめが判明し(ゴーリキーの病気は事実らしいが、スターリンとの関係が険悪になっていたのが真因という観測もある)、大会の主催者であるマルローは、親ソ派作家としてソ連でも評判の高いアンドレ・ジッドを通して、ゴーリキーに代わる大物作家の派遣をソ連当局に依頼した。これに応じたスターリンは、直接で電話で詩人ボリス・パステルナークを呼び出し、パリ出張を命じた。パステルナークはとるものもとりあえずパリに急行するが、会場に溢れる数千人が耳にした言葉は、マルローやバルビュスら大会の筋書きを書いた政治的脚本家たちには意外だったかもしれない。パステルナークの回想を信じるなら、「私はあなたがたにただ一つのことだけを申し上げたい。 それは組織化してはならないということです。組織化は芸術の死であり、個人の独立だけが大切なのです。1789年、1848年、1917年と、いずれの場合も、作家が何かに対抗して組織化されることはありませんでした。どうか心からお願いします。組織化はやらないでくださ」 と語ったと言われる。
 メセナ(mesenat)、フィランスロフィー(philanthropy)などど言われる企業の文化・社会事業支援活動はどうだろうか?こちらは国家権力とは関係ないし、非協力的であることによって社会的不利な立場になる恐れはない。企業が資金を出すのだから、赤字の地方自治体に負担がかかるわけではないし、税金を使うのでもないし、企業イメージアップにつながれば、企業にも参加するメリットはある。ということで全て旨く行く、ように思えるが何かもう一つピンとこない。
「政府とは、他人に金を払わせ、自分だけが得をすると誰もが信じている虚構の制度である=Government is the great fiction through which everybody endeavors to live at the expense of everybody else.」とはフレデリック・バスティアの言葉だが、「企業に金を払わせ、自分だけが得をすると誰もが信じているメセナとかフィランスロフィー」に何かピントこない。 <先に豊かになれる者から、ドンドン豊かになり、他の人は後からゆっくりついていく>▲ で書いたように、個人の資金による方が健全な文化活動支援になると思う。
 社会主義社会では「芸術家は人民に奉仕にすべきである」と「篤志家になれるほど収入が多い人がいると、不平等社会になる」から篤志家は存在できない。 しかし、「篤志家になれるほど収入が多い人がいる不平等社会は良くない」と考える人は企業に頼る。実は「資本主義社会は大企業中心の社会で、労働者・中小企業は不利な立場にある」との主張と、「企業はメセナ、フィランスロフィーに資金を提供すべきだ」との主張が同じ感覚らしい。 TANAKAの考えは、「企業は利潤追求に専念すればいい」そして「株主に配当し、税金を払い、従業員にいっぱいボーナスを支払うこと」そして「いっぱいボーナスを貰った従業員は、社会貢献のためにもその一部を使いましょう」がTANAKAの考えだ。 もっともこうした考えは多数派ではなさそうなので、これからも企業は社会貢献の名目で資金をせびられることだろう。と言っても担当者は自分の懐が痛むわけでもないので、企業の業績がよければ気前よく資金提供することになる。
 社会主義社会では篤志家は出てこないし、隠れコミュニストの発想からは篤志家に期待する考えは出てこない。政府や企業に資金を出させようとする。資本主義を批判する人が、レントシーキングや独占大企業に頭を下げて資金提供をお願いするという不自然な事をする。そのことに違和感をおぼえないのだろうか?国民一人ひとりが自己責任をもって社会貢献のために資金提供するのがいいと思う。
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<最も恵まれない国の便益を最大化する>「先に豊かになれる者から豊かになる」と同じように一国の経済では「先に豊かになれる企業から豊かになる」のであり、世界規模で見れば「先に豊かになれる国から豊かになる」しか方法はない。 従って経済が成長すれば所得格差は広がる。それがいけないと言うのなら、いつまでも経済を成長させず、国民を貧しいままで置くしかない。 日本では先に豊かになった企業が、元気のないプロ野球業界に参入し業界の活性化と地域振興に資金を投入しようとする。それに対してオーナー会議は「業績不振になったからと言って、簡単に撤退することはないでしょうね?」と念を押す。もう一つ質問して欲しかった「業績不振になったからと言って、選手やファンに内緒で合併交渉を進めるようなことはしないでしょうね?」と。
 では豊かになった人はどうするか?「消費税を10%とし、1%を国連に寄付し、最貧国のインフラ整備に使ってもらう」がTANAKAの考え。もうそろそろ豊かになった日本人「ノブレス・オブリージュ」を意識してもいいと思う。
 「最も恵まれない人の便益を最大化すること」が正義ならば、「最も恵まれない国の便益を最大化すること」も正義だろう。それはどういう政策だろうか?「自由貿易こそが国民を豊かにする」だと思う。 最貧国のリーダーが 「恵んでくれなくてもいい。トレードをして欲しい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらな」▲とフェア・トレードを主張したとき、先進国は何と答えるか?「WTOは先進国の独占企業の利益代表だ。自由貿易は最貧国の利益にはならないので反対」との主張はheartだけでbrainがない。 比較優位説から考えて、最貧国の優位な点は人件費の安さだ。それを生かした農産物の貿易が自由に行われるようになれば、「最も恵まれない国の便益を最大化すること」になる。 アフリカでは生産されない農産物が先進国から輸入されたとしても、関税障害がなければ最貧国の国民は安く手に入れることができる。「農業保護」を名目に高い関税を維持しているのは、結局最貧国にとって便益を最大化することに逆行する、先進国の一部農業生産者のエゴでしかない。「自給率向上」のスローガンがその生産者エゴのスローガンを支援する。 「所得格差を広げるな」の主張が「新たな恵まれない人を作り出すな」「そのために産業構造を変化させるな」「構造改革反対」になり、先進国の一部農業生産者を護り、最貧国の経済成長を阻害している。こうした面でもheartだけなくbrainを持つよう努力すべきだ。
<平等な社会は理想か?> 本当に「平等社会は理想」なのか?国民が皆同じ程度の所得なら贅沢品は出回らないだろう。国民が同じ程度の品質の服装で、同じ程度の生活水準、となるとどうなるか?ヒッピーもホームレスもいない代わりに皆同じ服装だったらどうだろう? トマス・モアの「ユートピア」もロバート・オーウェンの世界も「国民が同じ服装をしている」という点では一致している。「贅沢は敵だ」の社会になる。当然文化面でも画一的になる。 ここにおいて「ユートピア」とロバート・オーウェンの世界と大日本帝国大本営と「正義論」が同じ価値観を持つことになる。 そして反政府的、反時代的な作品は生まれないし、芸術や社会科学での雑種交配は期待できない。自家不和合性に陥り、文化面では不毛な社会になる。本当にそのような社会が理想なのだろうか? 「それでも、所得格差が広がるのは良くない」との主張はなくならない。社会主義への幻想もなくならない。
 「それでは不平等はどこまでも許されるのか?」「不平等はどこまで許されるか?」「それを誰が決めるのか?」こうした質問には「それは市場が決める」「選挙という制度を利用した政治市場で決まる」が答えになる。それが民主制度での選択方法だ。学識経験者による政府審議会や政府の行政当局やあるいは労働者を代表する党が決める、という方法もあるがこれは奨められない。 しかしこのTANAKAとの考えとは違って、「大衆の選挙による決定は愚衆政治になりやすい」と市場政治を信頼しない人もいる。民主制度とはそうした「愚衆政治」との批判のおそれがあったとしても、選挙市場での選択に委ねる制度だ。「国民はマスコミにイメージ操作されている」とか「消費者は食品の安全性とか食糧自給率に無関心なので、消費者教育が必要である」との主張は生まれない。 「多数決の結果が必ず真実である、とは保障出来ないが、とりあえず多数決に従うのが良いと思う」という功利的な態度が民主制度の基本的な姿勢になる。
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<主な参考文献・引用文献>
『政府からの自由』                 ミルトン・フリードマン 西山千明監修 中央公論社   1984. 2.10
『ユートピア』                         トマス・モア 平井正穂訳 岩波書店    1994. 9.16 
『ロバート・オウエン』 イギリス思想叢書9                   土方直史 研究社     2003. 3.20
( 2004年10月18日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(26)いろんな「グローバリゼーション論」
<旗振りのいない「グローバリゼーション」> 民主制度の特徴は、マルクス主義、キリスト教、イスラム原理主義などと違って「批判を許さない絶対的な教典はない」ということだ。選挙の度に気ままな有権者の投票結果によって、国の進む方向が変わってしまうこともある。 「愚衆政治」とか「国民はマスコミに洗脳されている」との批判があったとしても、多数決で決まったことには従わなければならないのがこの制度の特徴。経済も、労働者階級の権力構造である共産党という司令塔がある社会主義とは違って、市場で競争し合う企業の力関係で進む道が決まってくる。「グローバリゼーション」も指令経済か?自由競争経済か?で見方も違ってくる。自由貿易や資本の自由移動は各国政府も企業も、そして消費者にとっても基本的にはメリットがある。 それでいながらウルグアイラウンドで農業の自由化が進まないのは「総論賛成、各論反対」で、国民のためになるのだが、自由化によって被害を受ける一部の生産者が抵抗勢力として圧力をかける。選挙で票を獲得しなければならない国会議員は「不特定多数」よりも「特定少数」の意向を重視する。多くの有権者のためになる政策よりも、少数でも特定の圧力団体となる利権集団の代弁者になりやすい。 「グローバリゼーション」も特定のイデオロギーに基づいて進められているものではなく、政府も企業も消費者もその利益を受ける多くの人たちの支持を受けて進められている。従ってこれを批判するとしたら「しっかりとした理念もなく進められている」との批判が的を得ている。それだけに、どこかに圧力をかければ、グローバリゼーションの進行が止まるというモノではない。またどこかにグローバリゼーションの旗振りがいるわけでもないので、批判に対して強力な反論があるわけでもない。 つまり批判しても、それに対する反論もないので、批判しても自分が攻撃されるおそれがない、つまり無責任に批判しても大丈夫、ということだ。というのがTANAKAの捉え方。ではそうした「グローバリゼーション」、どのような見方があるのだろうか?いくつかの主張を引用してみよう。
<「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」> クリントン大統領の経済諮問委員会委員長から、世界銀行上級副総裁と経済政策の第一線で活躍してきた筆者だけにその文章には重みがあるだろう、とのことでよく売れた本から始めよう。
 1993年、私は学問の世界を離れ、ビル・クリントン大統領の経済諮問委員会に加わった。長いこと教師、研究者として働いてきたが、このとき初めて政策の立案、さらに言えば政治の世界に深くかかわることになったのである。そこから1997年には世界銀行に移り、チーフ・エコノミスト兼上級副総裁をほぼ3年間つとめ、2000年1月に職を辞した。
 政策の立案にかかわるにあたって、これほど魅力的な時期はなかっただろう。私がホワイトハウスにいたころは、ちょうどロシアが共産主義からの移行を進めている最中であり、世界銀行にいたころは、東アジアで1997年にはじまった金融危機が世界中に広がっていた。 私はつねに経済開発に関心を寄せていたが、このときの経験で、グローバリゼーションについての私の見方も、開発についての見方も根本的に変わった。
 私がこの本を書こうと思ったのは、世界銀行にいたときに、グローバリゼーションが発展途上国、とくにその国に貧困層におよぼしうる破壊的な影響を目の当たりにしたからである。私はグローバリゼーション──すなわち自由貿易の障壁を取り払い、世界各国の経済をより緊密に統合すること──が、かならずよい結果をもたらしうると確信するし、 グローバリゼーションには世界中の人びと、とりわけ貧しい人びとを豊かにする可能性が秘められていると確信している。
 だが同時に、もしそれが事実だとしても、そうした障壁を取り払うのに大きな役割を果たしてきた国際貿易協定をはじめとするグローバリゼーションの進め方、およびグローバリゼーションの過程で発展途上国に押しつけられている各種の政策は、根本的に再考を要すると確信するのである。
 ワシントンにいた7年間、私は長年の調査研究の経験をもとに、経済問題や社会問題と取り組んだ。問題を冷静に見つめ、イデオロギーを脇において、証拠をふまえてから、最善と思われる行動を決定すること──それが重要だと私は考えている。だが残念ながら、うすうす予想してはいたのだが、私が1メンバーとして、のちには委員長として経済諮問委員会(アメリカ政府の行政部にたいし経済に関する助言をするために大統領から指名された専門家グループ)にいたあいだも、また世界銀行にいたあいだも、イデオロギーや政治によって決定が下される場面に何度となくぶつかった。(中略)
 国際経済機関は、顔のない世界経済秩序のシンボルであり、現在、いたるところで激しい批判の的となっている。かつては発展途上国への融資額や貿易割当量といったありふれたテーマを議題とする無名のテクノクラートたちの平穏無事な集まりだったものが、いまでは猛烈なストリート・バトルと大規模な抗議デモの対象になっている。1999年の世界貿易機関(WTO)シアトル大会での抗議行動は、世界に衝撃を与えた。それ以来、抗議行動はますます激化し、人びとの怒りは広まっている。 国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関の会議は、いまやすべてと言っていいほど衝突と大混乱の舞台となっている。2001年のジェノバでの抗議は1人の死者までだしたが、これから先は反グローバリゼーション闘争のなかで、さらに多くの犠牲者がでるかもしれない。(中略)
 これらの抗議行動で、権力者は自分の考えや行動を再検討することを余儀なくされている。フランスのジャック・シラク大統領のような保守派の政治家でさえ、グローバリゼーションの約束する恩恵を最も必要としている人びとの生活が、そのグローバリゼーションによって向上するとは言い難いのではないかとの懸念を表明している。何かがひどく間違っているの誰の目にも明らかである。ほぼ一夜にして、グローバリゼーションは今日の最も差し迫った問題となり、重役会議でも新聞の特集ページでも学校でも、世界のあらゆるところで議論の争点とされている。
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 きわめて多くの利点をもたらしてきたグローバリゼーションが、なぜこれほどの物議をかもす問題になってしまったのか?多くの国は国際貿易に門戸を開くことで、他のどんな方法でもなしえないほど急速な成長をとげてきた。輸出で国家の経済成長が促進されたわけで、国際貿易は各国の経済発展を助けたのである。「輸出による成長」はアジアの多くの国の経済政策の基本であり、これによって国は豊かになり、そこの住む数百万の人びとの暮らしぶりは格段によくなった。グローバリゼーションにより、世界の多くの人の寿命が延び、生活水準が大きく向上したのだ。 欧米人はナイキの低賃金労働を搾取と見なすかもしれないが、発展途上世界の多くの人びとにとって、工場で働くことは農村にとどまって米を栽培するよりもずっと望ましい選択肢なのである。
 グローバリゼーションは、発展途上世界の大半が感じていた孤立感を薄め、途上国の多くの人に、1世紀前にはどんな国のどれほど裕福な人間でも手に入れられなかったような知識を得る手段を与えた。反グローバリゼーションの抗議にしても、それ自体がこうした連帯の結果である。世界のさまざまな地域の活動家をつないであるリンク──とくにインターネット・コミュニケーションを通じて形成されたリンク──は大きな圧力となり、強国の政府の多くの反対を押し切って、国際地雷協定を実現させた。1997年にこの協定に調印したのは121ヶ国にのぼり、子供や罪のない人びとが地雷の犠牲になって手足を失う危険を減らしている。 同様に、大勢の一般市民の同意を集めた圧力が、国際社会にたいして最も貧しい国への債権放棄をせまっている。(中略)
 グローバリゼーションに毒づく人びとは、えてしてその利点を見過ごしている。だが、グローバリゼーションの支持者はそれ以上にバランス感覚に欠けているとも言えるだろう。彼らにとって、グローバリゼーションは進歩である。(これは一般に資本主義、すなわちアメリカ式の資本主義の勝利を認めることに結びついている)。発展途上国が成長を望み、貧困を軽減させるつもりなら、これを受け入れることが不可欠であると彼らは考える。だが、途上国の多くの人びとからすると、グローバリゼーション はそれが約束したはずの経済的な恩恵をもたらしていないのである。
 広がりつづける貧富の差は。ますます増える第三世界の貧困層に、1日1ドル以下の生活を強いてきた。20世紀の最後の10年間、繰り返し貧困の緩和が約束されてきたにもかかわらず、実際の貧困層の数は1億人増えていた。その一方で、世界全体の収入は年に2.5パーセントずつ上昇しているのだ。(中略)
 グローバリゼーションは貧困の軽減に失敗したが、それはまた社会の安定性を保持することにも失敗した。アジアとラテンアメリカにおける危機は、あらゆる発展途上国の経済と社会の安定を脅かした。経済危機は世界中に伝染する恐れがある。ある新興市場の通貨が暴落すれば、他国の通貨も下落する。1997年から98年にまたがるアジアの危機は、まさに世界経済に脅威をおよぼすかに見えた。
 ロシアをはじめ、共産主義から市場経済への移行を奨めているほとんどの国でも、グローバリゼーションと市場経済の導入は約束された結果をもたらさなかった。それらの国は欧米から、新しい市場システムが前例のない繁栄をもたらすと言われた。しかし、実際にそれがもたらしたのは前例のない貧困だった。ほとんどの人びとにとって、市場経済は多くの面で、かつて共産主義の指導者が予言したよりも悪いものだった。 (「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」から)
 アメリカ民主党の考えを代表する文章だと思う。共和党支持の学者が何と批判するか?いままで幾つかの著書を引用してきたので。ここではあえて批判する文章は引用しないことにする。日本では「リベラル」と言われる人たちが喜ぶ文章だろう。
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<「大転換」からグローバル自由市場への道程> 政治哲学のところで引用したことのある、ジョン・グレイ。こうした文章が好きな人もかなりいるのだろう。
 19世紀のイングランドは、社会工学における壮大な実験の対象だった。その実験の目的は経済生活を社会的、政治的支配から開放することだった。そしてそれは、自由市場という新しい制度を築き、何世紀にもわたりイングランドに存在してきた。社会にもっと深く根を持つ市場を破壊することによって、達成されたのである。自由市場は、労働を含むすべての財の価値が、それらが社会に持つ影響と無関係に変化するという新しいタイプの経済を作り出した。それまで、経済生活は社会的なまとまりを維持する必要によって制約を受けてきた。経済生活は社会的市場──社会に根ざし、多くの種類の既成や制約から逃れられない市場──で行われてきた。 ビクトリア朝中期のイングランドで試みられた実験の目標は、こうした社会的市場を破壊し、社会的必要事項とは独立して働く、規制のない市場に置き換えることだった。自由市場の創出によってイングランドの経済生活に起こったこの断裂は、大転換(Great Transformation)と呼ばれてきた。
 これと似た変貌を実現することは今日、世界貿易機関(WTO)、国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)などの多国籍組織の最大の目標である。この革命的な事業を進めるにあたって、これらの機関は世界最大の啓蒙思想体制、すまわちアメリカの指導に従っている。トマス・ジェファーソン、トマス・ペイン、ジョン・スチュワート・ミル、カール・マルクスなど啓蒙思想家は、世界のすべての国の将来は何らかの形の制度や価値を受け入れるかどうかにあることを少しも疑わなかった。彼らの見るところ、文化の多様性は人々が生きていく上でいつまでも続く状況ではなかったのである。 多様性は、普遍的な文明に至る一つの段階だったのだ。これらの思想家は、単一の世界文明の創造を唱えた。そこでは過去に存在した多様な伝統や文化が、理性の上に築かれた新しい、普遍的な共同体社会に取って代わられるというのである。
 現在のアメリカは、こうした啓蒙思想理論にその政策の基礎を置く最後の大国である。「ワシントン・コンセンサス」{世界の政治的首都であるワシントンで形成されるアメリカ主導の合意}によれば、「民主的資本主義」はすぐに全世界に受け入れられるであろう。グローバル自由市場が現実になるだろう。世界がつねに内包してきた多岐に渡る自由市場に併合されるだろう。
 この哲学に動かされている多国間機関は、世界中の社会の経済生活に自由市場を押しつけようとしてきた。これらの機関は、世界の多様な経済を最終的に単一のグローバル自由市場に統一することを目指す政策を実施してきた。これは決して実現することのできないユートピアである。それを追い求めることは、すでに大規模な社会的混乱と経済的、政治的不安定を生じさせている。
 アメリカでは、自由市場が他の先進国にはなかった規模の社会的崩壊をもたらす原因となっており、また他のどの国よりも家族が弱体化している。同時に、社会秩序は大量の人間を監獄に収容する政策によって保たれている。共産主義崩壊後のロシアを別にすれば、アメリカほどの規模で監獄への収容を社会的コントロールの手段にしている先進工業国は見あたらない。自由市場、家族とコミュニケーションの荒廃、そして社会の崩壊を防ぐ最終手段として警報による処罰を用いること──これらは並行して進行している。
 アメリカでは、社会的なまとまりを支えているこれら以外の制度も自由市場によって弱体化、あるいは破壊されている。自由市場は、アメリカ国民の多数があずかることのない長期的な経済的ブームを発生させた。アメリカにおける不平等の程度は、ヨーロッパのどの国よりもラテンアメリカ諸国のそれに似ている。しかし、自由市場がもたらすこうした直接的な結果にもかかわらず、自由市場への支持は弱まることがない。それはアメリカ政治の聖牛{神聖な原則}であり続けており、これこそ世界的、普遍的文明のモデルであるというアメリカの主張そのものになっている。啓蒙思想的企てと自由市場は決定的に結び合わさったのである。
 単一のグローバル自由市場は、普遍的文明という啓蒙思想的企てである。それは啓蒙思想的企ての最終的形態になるものと思われる。この1世紀というもの、誤ったユートピアがいくつも試みられており、自由市場が啓蒙思想的企ての唯一の変種というわけではない。旧ソ連は自由市場と対抗する啓蒙思想的ユートピア──市場が中央からの計画によって置き換えられるという普遍的文明──を体言していた。このユートピアは消滅したが、それは計算不可能なほどの人的なコストを伴った。数百万の命が全体主義の恐怖政治、蔓延する腐敗、破滅的な環境悪化によって失われた。この計り知れない人的苦難を強いたのはソビエト体制だったが、約束した近代化をロシアにもたらすことはできなかったのである。 それどころか、ソ連時代が終焉した時、ロシアはある面で帝政時代末期よりも近代化から遠いところにいた。
 グローバル自由市場というユートピアは、共産主義と同じようなやり方で人的コストを高めているわけではない。しかし、時間が経ってみれば、自由市場がもたらす苦しみは共産主義のそれと匹敵するものになる。すでにそれは、中国で1億人以上の農民が移動労働者になるという事態をもたらしている。先進国社会でも何千万という人々が仕事にあぶれ、社会から脱落している。旧共産圏の一部では、無政府状態に近い状況と組織犯罪による支配、そして一層の環境破壊という事態になっている。 (「グローバリズムという妄想」から)
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<南北の不平等は、グローバリゼーションによるものか?> スーザン・ジョージとマーティン・ウルフの対談。市民運動家がまともなエコノミストと対談するのは珍しい。
スーザン・ジョージ 不平等の溝が18世紀から存在したことは明らかなことです。問題は、それがどれほどの速度で拡大したかということ、そしてこの格差が社会的・エコロジー的次元でどれほどまで歴然たる影響を与え始めているかということです。18世紀には、もっとも豊かな20パーセントと、もっとも貧しい20パーセントの格差は2対1でした。それが今では82対1なのです。このような不平等が大きな反乱を招かずにどこまで拡大していくことができるのでしょうか? そして、このような問題を前にして、われわれはどのように行動したらいいのでしょうか?現在の発展した諸国、つまり北アメリカ、ヨーロッパ、韓国、日本など、要するに、現実に成長を遂げた国々は、少なくとも部分的に保護主義を実践しながら、このような結果に到達したのです。つまり、部門に応じて政府が支出し管理するという政策をとったり、韓国や台湾のように、アメリカが膨大な食料援助をおこなったりした結果なのです。しかし、現在、そのような公的政策はもはや行われていません。各国はもはや選択的な保護主義を実践することはできないし、新興産業を保護することも、さまざまな活動あるいは消費財といったものに補助金をだすこともできません。 構造調整は人々が収入源の一部として頼りにしていた多くのものをより一層破壊することになったのです。そうである以上、収入の再分配しか見ないというのは常軌を逸しています。というのも、かつては無料であった財や食料品などの品物、つまり自然の恵みとして得ていたものや、社会的ネットワークからもたらされていたもの、あるいは政治的決定によって無料で配布されていたものなどが、今や姿を消しているのです。
 多くの人が、必ずしもお金によらず、みずからの労働で生き長らえていたのに、彼らは土地を失うことになったのです。何億人もの人がわずかな土地を失って、農村から都市周辺に大量に流れ込むことになりました。運のいい人たちはそこから脱出して、都市部に移り、その後、北の国(すなわち先進国)に向かって移民していくのですが、それでもこれら数億人もの人々が亡命者であることにかわりはありません。要するに、彼らは、かつて田舎で享受していた食料自給という大きなメリットを失ったということです。
 教育や医療の有料制は、わずかの例外を除いて、「経費の回収」という名目で世界銀行の要求のなかに組み込まれています。各国政府は、食用油やもっとも一般的な穀類、ガソリンといった基本的な産品に補助金を与えることを許されていません。厳然たる禁止が行われているのです。ボリビアのコチャバンバでは、水の分配を任された民間の会社が価格を3倍につりあげ、その結果、人々の収入が事実上50パーセントダウンするという事態が発生しています。彼らが街頭に出てデモをし、死者が出たりしているのは、意外なことでも何でもありません。したがって、われわれが議論しなければならないのは、単に量的な観点からの不平等だけではなくて、先進国がどのようなやり方で現在の状態に到達したのかということであり、 いま悪戦苦闘している国々がはたして先進国と同じやり方をすることができるのかどうかということです。おまけに、これらの国々は、大きな政治的決定をみずからの手で行うことはできませんでした。たとえば、インドは大きな負債を負っていたために、結局、IMFの要求に屈するしかなかったのです。問題は、世界が今日ほど富んだ時代はかつてなかった一方で、今日ほど多くの貧しい人々や絶望した人々がいた時代もなかったということです。それは数字がはっきり示していることです。1820年には状況はもっと悪かった、貧困は全人口の90パーセントに達していたと、あなたはあいかわらず仰有るかもしれませんが、北側の国々が現在の状況を得ることを可能にした方法は、もはや南側には適応不可能なのです。
 これは単に収入の問題ではなくて、人々に(個人レベルで)何が提供されているかという問題です。個々の人々にとって使うことができる資源(エコロジー的・社会的資源や共有財を含めて)は、いったいどれほどあるのでしょうか?子どもを学校にやるのにお金を払わねばならないのでしょうか?医療費についても同じことが言えるでしょう。
マーティン・ウルフ そういった問題は、あなたがお書きになった風刺的著作「ルガノ秘密報告」のテーマと関係なくないですね。それと、人口問題とも関係がありますね。私としては、構造調整についてくわしく立ち入る前に、2つの点を強調して置きたいと思います。
 まず、発展のプロセスは、排除─牽引という二重の現象から生じます。すべての発展した国において起きたこのプロセスの中心的様相は、全人口に占める農民の割合の現象、個人とその出自の土地との結びつきの喪失、都市化、工業化といったものでした。急速に発展したすべての国において、このプロセスは巨大な社会的断絶や極度の政治的緊張を生み出しました(たとえば19世紀のヨーロッパにおける人口の多さを考えると恐るべきもので、そこから多くの社会的混乱が生じたのです)。
 私は、とくに排除よりも牽引の現象の方が重要だと考えます。中国では、とくに毛沢東の死後、農民が土地を失ったと言うことは出来ないと思います。そのとき、農民をかつてないほど優遇する大きな農地改革が行われて、土地は農民に返されたのです。むしろ、農村から脱出できる可能性がほとんどなく、農業で生きていける可能性もゼロに近いような人々が、大量に農村を捨てて、都市に仕事を求めて流れ込んだのです。中国における不平等の増大の大きな理由は、このような移住を厳重に管理したために、いくつかの都市部だけが特権的な地位を得て、農村共同体を離れた多くの人々の可能性が縮小されたためと言えるでしょう。 これは排除ではなく牽引の現象だと私は考えます。というのは、人々はみずから農場から離れたいと願望したからです。彼らは工業と結びついた生活様式、工業が提供する金儲けの可能性の方を選択したのです。これは多くの損害を引き起こし、われわれからも好ましいとは思われないプロセスですが、奥深い人間の欲望によって引き起こされたものでもあるのです。
 第2の大きなポイントは、寿命とか食料事情の統計、読み書きできる人の割合といったような重要な指標から考えると、正しい成長を遂げた大抵の国では、利益が大半の人々に分け与えられているということです。収入の増大が貧しい人々にとくに損害を与えるものではないということは、まぎれもなく明らかなことだと思われます。
 さらに言うなら、構造調整が採用される以前に、各国政府の手でもたらされた補助金による財というものが、本当に貧しい人々のもとに届いたのかどうか、必ずしも明確ではありません。それは多くの国において明瞭ではありませんが、たとえば、インドでは(インドは私がもっともよく知っている国であるとともに、世界でもっとも極貧層の多い国でもあります)、無償教育の主たる特徴というのは、実際には誰もそれを受けることができないということでした。つまり、それは神話にすぎなかったのです。
スーザン・ジョージ あなたが「牽引」と呼ぶファクター、つまり人々が村を離れたいと思うようにさせるものについて、私の意見を述べたいと思います。もしあなたが収穫の半分を地主に与えることを義務づけられた小作人の立場に置かれたなら、そしてその地主が、たとえばインドにおけるような突然緑の革命(1960年代に品種改良によって小麦などの生産性が高まった農業技術革新)の技術を使うようなことにでもなったら(それによって地主は工業製品を手に入れることができるようになり、あなたの働いている土地がもっと価値を持っていることを発見することになる)、あなたでも村を離れたいとお思いになるのではないでしょうか。 そうして、都市に仕事を探しに行こうと考えるようになるのではないでしょうか。たしかに、都市の輝きに引きつけられる人はいるでしょう。しかし、排除のファクターは存在するのです。それは、土地の集中管理、真に農地改革と呼びうるような改革を決して実行しようとしない大半の国家、農村では当たり前の生活を送ることができないこと、といったような形でまぎれもなく存在するのです。しかし、インドのケララ州のように、すべての人のための教育や保険に重点を置くことによって、成功している地域もあります。これは何よりも生活の質の問題です。農村地帯で生活することが困難になれば、人々は当然のごとく他の場所を見に行こうと考えるでしょう。 しかし、あなたは、韓国や台湾のような、ずっと以前から農村に住む人々を配慮した措置がとられた国々を前提にしているわけです。
マーティン・ウルフ ケララ州のケースについて意見を述べたいと思います。これは低収入を背景にした社会政策の驚嘆すべき成功例ですね。しかし、それが人々の教育や養成において例外的な成果を得たことはたしかだとして、その経済的発展は極度に緩慢でありました。また、それでもって、湾岸諸国やインドの他地域への大量の労働力の輸出が減ったわけでもありません。したがって、そのすばらしい政治的措置のおかげで、排除のファクターを回避し得たというふうには言えないのです。
 もう1点。インドは独立後に農地改革を行いました。それ以後、緑の革命のせいもあって、土地の集中管理が始まりました。しかし、緑の革命によって発動されたテクノロジーがこの国を餓えから救う唯一の手段だったのです。あれがなければ、この国は運命に翻弄されるしかなかったでしょう。インドでは、土地はかなり広く分配されていますが、富裕な農民の権力が強いので、土地を再分配するのは政治的に不可能だと言えます。その結果、インド亜大陸全体が土地を持たない農業労働者を膨大に抱え込むことになっているのです。ここでは、大きな失敗と貧困の主たる原因は、うまく発展した他の諸国とは逆に、インドが多大の労働力を必要とする産業をつくらないという道を意識的に選択した(そしてなお選択し続けている)というところにあります。 そのため、ありあまる農業労働者が、たいへん低い給与水準で常に農村地帯にとどまり続けているのです。 (「徹底討論 グローバリゼーション 賛成/反対」から)
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<ペシミズムという勢力> 本のタイトルからわかるように、これはグローバリゼーション擁護派。内容はかなり抽象的な話。政治哲学に関心のある人向けのものと言えそうだ。
 悲観論(ペシミズム)が花盛りである。社会や家庭、環境、果ては世界の見通しに対する悲観論は慢性的に論じられている。地球規模で暗黒郷(ディストピア)をつくり出しつつある中、われわれが向き合っているこの悲観論は、われわれの間にしっかりとその根を張っている。悲観論は、はびこりやすく、もっともらしく見え、深く浸透するものだ。事実上どんな分野においても、どっぷりと悲観することができるし、ある人々にとっては悲観することがほとんど義務のようになっている。 われわれの時代は、グローバリズムが無秩序の嵐を巻き起こし、経済の舵取りは多国籍企業と狂乱状態の金融市場の手にゆだねられようとしている。発展途上国では何百万もの人々が果てしない貧困と不毛の地に暮らす一方、脱工業化社会に住む裕福な消費者はどのブランドを買おうかと迷っているありさまだ。いま人類は、地球の生態系を賭けた大博打の真っ最中である。すなわち、人口過剰、消費や工業化が進んだことによって、生態系は破壊寸前のところまで来てしまっているのだ。 われわれの子孫には荒れ果てた土地で生きることを強いることになるだろう。科学技術によって、しかとはわからぬリスクと危険がもたらされている。それは、遺伝子組み換え食品や微細なナノマシン(訳注:ウィルス程度の小さな小型ロボットで、生物に近い仕組みを使ってプログラムされた作業を行う。医療などで実用化されている)がわれわれの身も心も乗っ取るかもしれず、生物兵器が尋常ならざるテロリストの手に落ちるのではという脅威である。 こうした状況にあって、われらが政治の担い手たちは危機や混乱を現実的に管理するのがせいぜい、悪くすれば買収されて危機増長の手先になることさえある。民主的なディベートなど、いまやマーケティング業界とメディアの一道具に成り下がってしまった。政治家は広告マンたちの産物なのだ。彼らは、綿密な世論調査と市場調査のおかげで、とてつもない権力を手にしている。政党に資金を供給し、多くの見返りをもたらす大企業と、政治はますます結びつきを深めている。 政治の役割は、自分の生活は自分の好きなようにはできないものだという残酷な事実に人々を慣れさせることになりつつある。政治によってわれわれの運命をわれわれの手でコントロールすることは期待しがたくなってきているのだ。西欧の文化は、メディアに毒され、どんど底が浅くなり、軽薄になっている。(中略)
 革新性と創造性が、われわれの生活をよりよくする最大の推進力になるだろう。政治よりもテクノロジーの方がはるかに世界を変革する道を開いていくと思われる。政治の現実主義と広く結びつけば、それも悪いことではないだろう。20世紀初頭、集団的ユートピア幻想のもと、理論的で壮大な計画が立てられ、社会的流動化の実験──ファシズム、共産主義、ナショナリズム、都市計画、大量工業生産──がトップダウン式に次々と行われた。 前世紀期のこれら壮大なユートピアが惨憺たる結果に終わったことから見て、指導者たちが示す十把一からげのユートピア幻想より、確信と創造を社会的に進めることに、われわれは希望を託したほうがよさそうだ。テクノロジーは、もはやお上や専門家が制御しきれるようなものではなくなり、大衆の手へと移ってきつつある。それは、危険もある反面、創造性の種を広範にまき運ぶことも可能にする。国民には何も知らせずに暴君が君臨できる権力を保持し続けるようなことはいよいよ難しくなっていく。 民主的な考えが広まり、人々は為政者の一挙一投足を注視していくだろう。前世紀に比べ、権力の濫用は露見しやすく、やりにくくなるに違いない。20世紀のヨーロッパでは、およそ700万の人々が戦争、飢餓や強制移送によって、あるいはユートピアの名の下に命を奪われた。このようなことは今世紀にはもはや起こるまい。20世紀では可能だった、大規模な文化大革命や強制収容所がまたぞろ出てくることはないはずだ。グローバリゼーションの進行、民主主義、そして通信の発達がそれを許さないからだ。
 悲観論の急先鋒とユートピア信奉者は、未来を閉ざし、不可逆的な時流の当然の産物として未来を見たいという願いを共有している。しかし、ユートピア幻想と異なり、確信と創造は、変更され、改善され、批判され、新たなアイディアを与えられるために開かれたものでなければならない。革新とは、絶えず進み続けることである。閉ざされていることも完了することもない。反対に、絶えず新たな可能性と解釈に大して、つねに心を開けと訴えることだ。 だから、文化であれ科学技術であれ、革新こそが、ユートピア的でない力強い未来への希望の厳選をわれわれに与えてくれるのだ。
 希望は、単なる幸運以上に、人間のありようによって左右されるものである。どうしたらよりよい世界になるのか、一人ひとりは何をしたらいいのか、しっかりとした考えを持つことによってのみ、未来への希望は持つことができる。不合理で無秩序、混沌とした世界など、希望の生まれる余地はない。ペシミストにとっては、そんな姿が現在あるいは永劫の世界像なのだ。このような悲観論に異を唱えることで、テクノロジー・科学・政治・文化において力強さとなり、21世紀のわれわれ自らの生き方にもっとコントロールと選択を与え、そして生きる希望となる理由を与えてくれるはずである。 (「それでもグローバリズムだけが世界を救う」から)
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<「グローバル経済の本質」> ニューヨーク・タイムスの記者が世界各地で起きているグローバリゼーションの現場からのレポート。現場主義の確かな説得力がある、おすすめ本。 チャールズ・ウェーランがその著書「裸の経済学」のなかで「トム・フリードマンが、反グローバリゼーション連合のことを「世界の貧しい人々を貧しいままにする連合」と呼ばねばならない、と示唆する」と言っているのはこの「レクサスとオリーブの木」のことだ。
 私は”グローバル主義者(グローバリスト)”なのだ。この学派に、私は所属する。つまり、国際情勢の説明を、権力地政学上の優位をめぐる争いですべて片づけてしまい、市場を無視する現実主義者でもない。また、環境という名のプリズムを通してしか運命を見られず、環境を守ることしか頭になく、開発の可能性に背を向ける環境保護論者でもない。歴史はマイクロプロセッサの発明に始まり、これからの国際関係を支配するのはインターネットだと信じて、地政学を無視するシリコンバレーのテクノおたく、つまりコンピュータ技術者でもない。国民の行動は、本質的な文化的特性またはDNA特性で説明がつくと信じて、科学技術を無視する本質主義者(エッセンシャリスト)でもない。 そして、世界のすべてを市場動向だけで説明し、武力外交も文化も無視する経済学者でもないのだ。(中略)
 グローバル化は冷戦システムに取って代わる国際システムだと認識したからといって、今日の世界情勢を説明するのに、じゅうぶんだろうか?とんでもない。グローバル化は新しいシステムだ。世界がマイクロチップと市場だけで成り立っているなら、グローバル化を語るだけで、おそらく世の中すべては説明できるだろう。しかし悲しいかな、世界はマイクロチップと市場と男と女から成り、しかもこの男と女は、それぞれ固有の習慣や伝統、願望、予測のつかない野心を抱いている。だから今日の世界情勢は、インターネットのウェブ・サイトのように新しいものと、ヨルダン川の両岸に立つ、節くれだったオリーブの木のように古いものとの相互作用としてのみ、説明が可能だ。 わたしがはじめてこのことに気づき、じっくり考えるようになったのは、1992年5月のある日、時速270キロで走る日本の電車に乗って、駅弁の寿司を食べながら移動している最中だった。
 記事を書くために東京に滞在していた私は、その日、東京の西に位置する、愛知県は豊田市郊外の高級車レクサス(日本名セルシオ。レクサス・ブランドで売られ、クーペやSUVも含めたシリーズとなっている)の工場を訪れたのだ。この上なく印象的な取材旅行だった。当時、その工場では、66人の人間と310台のロボットが、1日300台のレクサスを製造していた。見たところ、人間のやることといえば、ほとんど品質管理だけのようだった。実際にボルトをねじ込んだり、部品を溶接したりしている人間は、ごくわずか。ロボットが、すべての仕事をこなしていた。さまざまな材料を運んでフロアを走り回るトラックさえもロボット化されていて、進路に人間の存在を感知すると「ビー、ビー、ビー」と警告音を発する。 わたしの目を釘付けにしたのは、フロントガラスを固定するゴムの充填剤を、1台1台のレクサスに塗っているロボットだ。ロボットのアームが、フロントガラスの枠に沿って完璧な長方形を描きながら、熱く溶けたゴムをきっちり塗っていく。しかし、とくに目を引いたのは、ゴムを塗りつける作業が終ったとき、きまって、ロボットの指先から小さなゴムのしずくが垂れていることだ。歯磨き粉をチューブから絞り出して歯ブラシにつけたあと、たまにチューブの先に残る固まりのようなしずくが。ところが、このレクサスの工場では、作業の最後に、ロボットのアームが大きく弧を描いて、ほとんど眼に見えないほど短いワイヤーに指先をすりつける。 するとそのワイヤーが、真っ黒な熱いゴムの最後のしずくをきれいに削ぎ取る。アームの指先には何も残らない。わたしはこの工程を飽かずに眺めながら、ロボットのアームに作業させたあと、毎回それを正確な角度で回転させ、親指の爪ほどの長さのワイヤーで熱いゴムの最後のしずくを削ぎ取らせて、きれいな状態で次のフロントガラスに取りかからせるには、どれほど設計を重ね、どれほどの技術を要したことかと、ひとり感慨にふけった。正直言って、感動していた。
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 工場を見学したあと、豊田市に戻り、東京行きの新幹線に乗り込んだ。新幹線は英語で弾丸列車(ブレット・トレイン)と呼ぶが、ピッタリのネーミングではないか。姿かたちも弾丸そっくりなら、体感スピードも弾丸並みだからだ。日本の駅であればどこでも買える寿司の駅弁を広げてつまみながら、その日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙に目を通していると、第3面の最上段右端の記事に目を奪われた。国務省が毎日行なう定例報告の記事だ。 国務省の報道官マーガレット・D・タトワイラーが、パレスチナ難民のイスラエル帰還をめぐる権利に関する1948年の国連決議を新たに解釈し直し、物議を呼んだという。評価は忘れたが、その記事は、タトワイラーの解釈がどんなものであれ、明らかにアラブ人とイスラエル人の双方に同様を与え、中東に動乱の火種をまいた、と伝えていた。
 こうしてわたしは世界最新の電車に乗って、時速270キロで快適な旅をしながら、世界最古の地域に関する記事を読んでいた。そのとき、ある思いが頭をよぎった。きょう見学したばかりのレクサスの工場を作り、今乗っているこの電車を作った日本人は、ロボットを使って世界最高級の車を生産している。一方、ヘラルド・トリビューンの第3面のトップには、わたしがベイルートやエルサレムで長年いっしょに暮らした人々、よく知っている人々が、いまだにどのオリーブの木が誰のものかをめぐって争っているとある。ふいに、レクサスとオリーブの木は、冷戦後の時代にじつにぴったりの象徴ではないかと思った。 どうやら、世界の国の半分は冷戦を抜け出して、よりよいレクサスを作ろうと近代化路線をひた走り、グローバル化システムのなかで成功するために躍起になって経済を合理化し、民営化を進めている。ところが、世界の残り半分──ときには、ひとつの国の半分、ひとりの個人の半分、ということもある──は、いまだにオリーブの木の所有権をめぐって戦いをくり返しているのだ。
 オリーブの木は大切だ。わたしたちをこの世界に根づかせ、錨を下ろさせ、アイデンティティを与え、居場所を確保してくれるものすべて、つまり家族、共同体、部族、宗教、そしてとりわけ故郷と呼ばれる場所を象徴する。オリーブの木は、第三者に手を差しのべ、知り合いになるために必要な信頼と安全な環境を与えるだけでなく、家族のぬくもり、自主独立の喜び、指摘な儀式に漂う親密さと私的な関係の持つ懐の深さを与えてくれる。ときには、一本のオリーブの木をめぐって激しい衝突が起こる。最良のときには、生きていくうえで食糧と同じくらい不可欠な、自尊心と帰属意識を与えてくれるからだ。だが、それが悪いほうに出て、行き過ぎてしまうと、オリーブのきへのこだわりが、他者を排除する思想に基づいたアイデンティティや絆や共同体の形成につながり、 最悪の場合、この強迫観念が暴走して、ドイツのナチやユーゴスラビアのセルビア人のように、他者を根絶やしにしようとする動きを生み出す。
 誰がどのオリーブの木を所有するかをめぐる、セルビア人とイスラム教徒、ユダヤ人とパレスチナ人、アルメニア人とアゼルバイジャン人の争いが熾烈をきわめるのは、それがまさに、どちらがその地域を故郷にして根を下ろし、どちらが下ろさないか、という問題だからだ。大もとにある理屈はこうだろう。私はこのオリーブの木を手中に収めなければならない。なぜなら、もしあいつの手に渡したら、わたしは経済的にも政治的にもあの男の支配下に置かれるばかりか、これぞわが家という幸福感を二度と味わえなくなる。もうけっして、素足になってリラックスできなくなるのだ。
 アイデンティティを、すなわち、これぞわが家という思いをはぎ取られることほど、怒りを駆りたてるものは、そうざらにはない。人々はこれのために命を捨てて、殺し合い、歌を歌い、詩を作り、小説を書く。なぜなら、故郷にいる、どこかに帰属しているという思いがなければ、寄る辺のない不毛な人生になるからだ。根なし草のような人生など、人生と呼べようか。
 では、レクサスは何を象徴しているのか?それは、オリーブの木と同じように基本的で昔からある人間の要求、つまりきのうと同じ生活を維持し、同時にきのうより進歩し、繁栄し、近代化したいという要求が今日のグローバル化システムのなかで具現されたものを象徴している。レクサスは、今日、わたしたちがより高い生活水準を追求するのに不可欠な、急速に成長を遂げる世界市場、金融機関、コンピュータ技術のすべてを象徴している。だが、発展途上国の何百万という人々にとって、いまだに、物質的向上を模索する道は、水を求めて井戸まで歩き、鋤を引く牛を素足で追って畑を耕し、薪を集めた後頭に載せて8キロの道のりを運ぶことなのだ。 こういう人たちはまだ、生活のためにデータやプログラムをダウンロードするのではなく、労力をひたすらアップロードしている。
 一方、先進国に住む何百万という人にとって、物質的向上と近代化への模索は、しだいに、ナイキの靴を履くことや、統合市場でショッピングすること、最新のネットワーク技術を使うことに変わってきた。グローバル化システムの特徴である新しい市場と技術へのアクセス方法は人によって異なり、そこから享受する利益もまちまちだが、それでも、新しい市場と技術が今日に特徴的な経済ツールであることや、誰もが直接あるいは間接的にその影響を被っていることは、紛れもない事実だ。
 わたしは、情報の鞘取りをすれば、今日の世界をのぞくのに必要なレンズは手に入るが、レンズを手に入れるだけでは十分ではない、と主張する。今、わたしたちが目にしているもの、探しているものは、はるか創世記の時代からいささかも変わらない人間の欲求、すなわち物理的向上を求める思い、個人や共同体のアイデンティティを求める思いが、今日を支配するグローバル化という国際システムのなかで発現したものなのだ。これが、レクサスとオリーブの木のドラマである。 (「レクサスとオリーブの木」から)
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<反グローバリズムの動き> グローバル化の進展は、世界中の人の生活を大きく変えつつある。モノの貿易から資金移動まで、ヒトの移動から企業の国際展開まで、そして地球規模の環境汚染から貧困の万台まで、グローバル化の動きはますます多くの人の関心を集めるようになっている。
 こうしたなかで、グローバル化の動きに警鐘を鳴らす「反グローバリズムの動き」が世界的な規模で盛り上がりつつある。そのことを有名にしたのは、1999年にシアトルで行われたWTO(世界貿易機関)の閣僚会議の場における反グローバリズムのデモンストレーションであった。貿易自由化をリードしてきたWTOを批判する形で、さまざまな反グローバリズム活動家がこのデモに参加したのである。
 反グローバリズムを唱える人たちの主張はきわめて多岐にわたる。グローバル化の進展によって貧富の格差が生じているという議論、地球規模の環境破壊を問題にする議論、多国籍企業が発展途上国の労働力を低賃金で搾取しているという議論などである。
 反グローバリズムの批判の矛先も多様になってきた。WTO関係の会議だけでなく、先進国首脳会議であるサミットや財務大臣・中央銀行総裁会議、さらには民間主催の国際会議であるワールド・エコノミック・フォーラム(ダボス会議)などにもデモが押しかける騒ぎになっている。
 これだけ急速に反グローバリズムの動きが広がったことにはいくつかの理由が考えられる。最大の理由は、グローバル化の進展が多様な形で大きな問題を起こしているといると考える人が増えてきたことだろう。そしてこれだけの規模で活動が盛り上がる裏には、インターネットの貢献が見逃せない。インターネットの普及で瞬時に多くの情報が世界中を行き交うようになった。反グローバリズムの活動は、その情報網によって広がり、支えられているのだ。
 ただ、本文中でも触れたように、反グローバリズムの人たちの主張をそのまま鵜呑みにはできない。あちこちで破壊活動を起こしているこの動きには、かつての日本の学生運動や反資本主義運動に近い部分も含まれているように思われる。もちろん、地球環境問題や途上国の貧困問題を真剣に考えている活動家も多くいるので、すべてをひと括りにはできない。
 あるいは、すべてをひと括りにできない多様な集団が含まれているところに、反グローバリズムの動きの特徴があるかもしれない。 (「グローバル経済の本質」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』  ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2002. 5.31 
『グローバリズムという妄想』               ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25  
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成/反対』 S・ジョージVSM・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社     2002.11.20 
『それでもグローバリズムだけが世界を救う』  チャールズ・レッドビーター 山本暎子訳 ダイヤモンド社 2003.10.30
『レクサスとオリーブの木』       トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社     2000. 2.25
『裸の経済学』                  チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社 2003. 4.23
『グローバル経済の本質』 国境を越えるヒト・モノ・カネが経済を変える    伊藤元重 ダイヤモンド社 2003. 5. 9
( 2004年10月25日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(27)民主制度とグローバリゼーション
<「グローバル経済の本質」> 民主制度とグローバリゼーションとの関係を短く、そして的確に表現した文章があるのでここに引用しよう。
 「民主主義とはひどい政治制度である。しかし、いままで存在したいかなる政治体制よりもましだ」──このように発言したのは、第二次大戦時にイギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルであったと記憶している。大変に深みのあるコメントである。政治家として民主主義の難しさを体験し、その醜い側面をいくつも見てきたがゆえの発言であろう。だがそれでも、民主主義に代わる好ましい制度はないのだ。
 この「民主主義」は「グローバル化」に置き換えることができる。つまり「グローバル化は多くの問題を伴う。しかし、それに代わるものは考えられない」のだ。グローバル化と対峙し、グローバル化の問題点を抑え込みながら、グローバル化の恩恵を享受していく──それこそが、今日の私たちに与えられた大きな課題なのである。 (伊藤元重著「グローバル経済の本質」から)
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<ブローバル化に伴う成長通> スティグリッツは言う「グローバリゼーションに毒づく人びとは、えてしてその利点を見過ごしている。だが、グローバリゼーションの支持者はそれ以上にバランス感覚に欠けているとも言えるだろう」と。 そこでスティグリッツの文章をもう少し引用しよう。
 1997年7月2日にタイ・バーツが暴落したとき、これがあの大恐慌以来の世界的な経済危機のはじまりだとは誰も認識していなかった。この危機は、アジアからロシア、ラテン・アメリカへと波及して世界中を脅やかしたのである。過去10年間、1ドル=25バーツ前後で取引されていたが、それが一夜にして約25パーセントも下落した。通貨危機が広がり、マレーシア、韓国、フィリピン、インドネシアをも襲った。 その年の終わりには、為替相場の災厄としてはじまったものが、東アジアの多くの銀行、株式市場、さらには経済全体にマイナスの影響をおよぼした。 (「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」から)
 この第4章は<「東アジアの危機」──大国の利益のための「構造改革」>と題されている。スティグリッツは別の本でもグローバル化の負の部分を書いている。
 振り返ってみると、アメリカによる外国の経済政策運営はおよそ成功したとは思われない。われわれのバブル経済がアメリカ国内で崩壊の種を蒔いたように、国外での政策は多数の問題を諸外国に引き起こす下地をつくった。 90年代後半には、開発政策の失敗が、主にIMFを通じて発展途上国に押しつけられていたイデオロギーにたいする批判を招いた。各地でつぎつぎと危機が起こるにつれ、世界中で経済的な不安感が高まった。貿易交渉への不満とともに、アメリカは不公平だという感覚も生じた。この感覚は90年代を通じて大きくなる一方だったが、やがてそれだけではすまされなくなった。 ブッシュ・ジュニア政権の一国主義は、海外にまた新たな怒りと反米感情を呼び起こした。問題は、世界の貧困層に利益をもたらすだけの力がグローバリゼーションにあるかどうかではない。勿論、それだけの力はある。しかし、それには適切な運営が必要なのに、実際は適切に運営されていないのである。 (「人間が幸福になる経済とはなにか」から)
 よく読んでみると「総論賛成、各論反対」と言っているようだ。「きわめて多くの利益をもたらしてきたグローバリゼーションが、なぜこれほどに物議をかもす問題になってしまったのか?」と言っている。さらに「多くの事例に見られるように、グローバリゼーションの恩恵はその提唱者が言うほど多くないとするならば、その代価はあまりにも大きすぎる。環境は破壊され、政治のプロセスは腐敗し、変化の急速なためにその国の文化は適応できなくなるだろう。その過程で、大量の失業者がうまれ、やがてはもっと長期的な、社会の崩壊という問題が生じてくる。 そのあらわれがラテンアメリカにおける都市部の暴動や、インドネシアなどに見られる民族同士の衝突である」
 本当は「グローバリゼーションは良くない」と思っているのか、あるいは、グローバリズム反対派から批判されたとき「自分はグローバリゼーション賛成派ではありません。この通りそのマイナスの面を書いています」との言い訳ができるように、どちらにも取れるような文章を書いて自分の立場を守ろうとしているのか?学者が政策実行担当者になって、保身術を身につけたのだろうか? たしかにグローバリゼーション反対派から一番批判される立場にいたので、その批判の厳しさを一般人以上に実感したろうし、自分を守るための方法を考えたろうが、この本からTANAKAは、「立場の曖昧さ」あるいは「常に逃げ道を作っておく論法」ということを感じた。
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<バブルよ、大きくふくらめ、最貧国で!> アジア通過危機はたしかに大きな出来事だった。しかし、単なる悲惨な出来事だと見るのではなく、TANAKAはアジア経済が子どもから大人になる過程での「成長痛」だと見る (アジア通貨危機は経済の「成長痛」▲を参照)。 経済が成長するに伴って必要とされる「成長通貨」以上の通貨が供給されたためにバブルがふくらみ、それをヘッジファンドの投資家・投機家が察知し、バーツの売りを仕掛けた結果、バブルがはじけた、と見る。大きな経済的な動揺はあったが、その後アジア経済は成長している。 (東アジア諸国の実質経済成長率▲を参照のこと) このことから分かるように、アジア通過危機はそれほど悲観的に考える必要はない。このことから関連して考えるのはアフリカのこと。サハラ以南の「サブ・サハラ」と呼ばれる国々の経済だ。この地区では経済が停滞していて、人口が毎年2パーセント増加している。と言うことは人々は毎年2パーセントずつ貧しくなっていくのだ。アジアでは必要とされる成長通貨以上の通貨が増加したが、サブ・サハラでは通貨が増加しない。日本では、「インフレ・ターゲットは有効か?無効か?」が議論されている。これはデフレを脱却させるためには通貨流通量を増やせ、ということで、問題点ははたしてその政策で本当に通貨流通量が増加するかどうかということだ。 サブ・サハラでも経済を刺激するのに通貨を増加させる政策が考えられる。その方策は、外国からの投資を増やすことだ。アジアでは将来を展望して、さらに経済が成長すると見て民間の投資が必要以上に殺到したためにバブルがふくらんだ。サブ・サハラでは外国からの民間投資は期待できない。なぜなら、不良債権になり回収不能になる恐れがあるからだ。アフリカのどこかの国に「借りた金は返しなさい」と請求すると「最貧国の債権は放棄せよ」とジュビリー2000が呼びかける。これをリベラルなエコノミストが支援する。 heartだけでbrainのない主張をする。その結果がどうなるのか理解していない。交換の正義が守られないところに経済成長はない。
<100万ドル企業>
最貧国の経済を成長させるためにできることはどのようなことだろうか?TANAKAのアイディアは「100万ドル企業」ということだ。世界には裕福な人が沢山いる。100万ドルを最貧国経済のために寄付出来る人も多いはずだ。 先ず最貧国で、資本金100万ドルの企業を設立する。オーナーは先進国のお金持ち。この企業が将来発展して株式を上場出来るようになったら、株価は10倍、20倍いや50倍にもなるかも知れない。と言っても可能性は少ない。そこでオーナーは100万ドル出して宝くじを買ったと考える。もしかしたら上場会社になるかも知れない、という夢を買ったわけだ。
 この「100万ドル企業」には先進国の、証券会社と監査会社の協力が必要になる。もちろん有償での協力だ。「100万ドル企業」の業種は特に定めないが、企業行動としていくつかの規範を定める。@軍需産業は認めない。A人種差別、宗教差別などの差別に荷担しない。Bケシの栽培など禁止されている薬物に関する生産・流通・販売には関与しない。C不正経理・公務員への汚職に金を使わない。 などを定め監査会社が目を光らすことだ。
<日本へのコメ輸出企業>
ではどんな企業が考えられるのか?将来世界市場で先進国の企業と競争できるような業種とは?先ず考えられるのは、「比較優位」ということから人件費の安さを売り物にする業種、となると農業か?日本の農家の指導によって「コシヒカリ」や「あきたこまち」を栽培し、日本に輸出したとする。日本の消費者が喜ぶ価格で輸出できれば、生産国の農民は大喜びだ。これなら将来株式を上場できるかも知れない。 受け入れ国の日本ではどのような対策を採るか?コメの関税率を次のように定める。自由化初年度は500%の関税率、2年目は400%、3年目は300%、4年目は200%、5年目は100%。そして6年目からは少し工夫する。5年目の輸入実績に従ってその国からの輸入に関する関税率を変える。例えば、5年目の輸入実績が、全輸入量の40%だった国からの輸入に関しては40%、実績が少なく、全輸入量の5%だった国は5%の輸入関税、とする。 このように前年の実績によって次年度の関税率が決まる制度だ。これで特定の国が日本のコメ市場を支配するおそれはなくなる。 「コメの輸入自由化は食料安保上危険だ」との考えは、「特定の国からの輸入に頼ると危険だ」ということだから、多くの国からの輸入であれば食料安保の懸念はない。プライス・テーカーばかりの自由競争市場か?独占企業がプライス・メーカーとして価格を支配している独占市場か?の違いをイメージすれば理解しやすい。
 そして、もう一つTANAKAのアイディアは、この関税に加えてコメ輸入に関しては、全ての場合に10%の関税をプラスし、この関税収入を国連に贈与する、という政策だ。最貧国のインフラ整備に使って貰う。豊かになった日本国民、そろそろ「ノブレス・オブリージュ」を意識してもいいと思う。
<「ゾウ狩り企業」>
アフリカならではの企業としては「ゾウ狩り企業」が考えられる。これは政府・国際機関から認可された企業が、ハンターから金をとって「ゾウ狩り」を斡旋する事業だ。「ゾウ狩りを企業目的としたら、すぐにゾウが絶滅する」との批判は当たらない。ゾウはその企業にとって金儲けの資源なのだから、枯渇させたら企業は経営が成り行かない、金儲けの資源は大切に保護・育成しようとする。この考えはガレット・ハーディンの「共有地の悲劇」をイメージすると理解できる。 ゾウが人類の共有財産であると考えると密猟するものが出て、枯渇するおそれがある。私有化することによって資源を保護・育成しようとする。この考えはクジラにも応用できそうなのだが、ブタやウシを食べる人たちもクジラを殺すことは許さない。
 日本の例で考えると、「入会権」とか「漁業組合」を考えると理解しやすい。江戸時代の資本主義社会では「株仲間」を考えるといい。 商法も整っていなくて、幕府は小さな政府で民間の金銭上のトラブルまで裁定する人員がいなかった江戸時代、株仲間が商業上のトラブルを解決する組織でさえあった。 (この株仲間の機能に関しては、宮本又次著「株仲間の研究」と岡崎哲二著「江戸の市場経済」がおすすめです)
<看護婦養成・派遣会社>
フィリピンでは日本への人材派遣が緩和されるのを狙って、人材派遣会社が活発に活動している。アフリカではすでにアメリカなどへの看護婦派遣が進んでいる。 斡旋会社が利益をあげ、人材育成のための教育機関を充実させ、さらにコンピュータ関係から、建設、設備技術など業種を広げていければ、人材面でのインフラ整備になる。 問題は受け入れ国だ。輸出入の自由化、資本の自由化と進み、人材の自由化を受け入れるかどうかだ。「WTO反対」「グローバリジェーション反対」の主張が「労働人口移動反対」「産業の空洞化反対」と結びついて「受け入れ反対」の運動になるだろう。最貧国の成長へのきっかけを潰してしまう。 トーマス・フリードマンやチャールズ・ウェーランならずとも「反グローバリゼーション連合のことを『世界の貧しい人々を貧しいままにする連合』と呼ばねばならない」と言いたくなる。
<企業が破綻しても多くの経験が残る>
「100万ドル企業」は将来上場会社に成長する可能性は低い、とはじめから覚悟しておくことだ。それでも、たとえ破綻しても多くの物が残る。一つは企業経営の経験だ。「失敗は成功の母」「倒産経験は成功への勲章」と考えることだ。そして、残された設備、資材はムダではない。 日本で第一次資本の自由化(対内直接投資自由化)が始まった頃、ある座談会で松下幸之助は次のように言っている。「ひとたび外国の会社が日本に工場を建てれば、もはや簡単に本国に持って帰ることはできない。売ろうとしたら、値を安く売らないかんことになる」「外国企業が日本にやってくれば、それはもう日本のもんや、こうなるわけやね(笑)」(「東洋経済」1967年9月28日臨時号) ケインズは1924年の論文で「外資系企業の進出失敗・撤退は、その事業資産が本来の価値以下で処分されるので、受入国にとって有利」と言っている。 「100万ドル企業」は破綻しても、次のチャレンジに続くものを残していく。初めからそのように考えていれば、破綻を恐れる必要はない。
<失敗して賢くなる>
「100万ドル企業」はいっぱい失敗するだろう。そのことは貴重な経験になる。トーマス・フリードマンは次のように言っている。
 設計者は、破産に関する法と裁判のシステムを持つ国を考えたことだろう。そのシステムは、ベンチャー・ビジネスに失敗した者が破産を宣告したのち、ふたたび挑み、ひょっとするとまた失敗してまた破産を宣告し、さらに三たび挑んで、ようやく成功してアマゾン・コムとなることを促す──出発点での破産という汚点を、残りの人生で引きずらなくてすむのだ。シリコンバレーでの有名なベンチャー・キャピタリスト、ジョン・ドエールは「失敗しても大丈夫。それどころか、他人の金に頼る前に失敗しておくことは、重要だろう」と語っている。 シリコンバレーでは、破産は、技術革新にとって欠くことのできない必然的な代償と見なされている。そういう考え方が、人々を思いきった賭けに向かわせている。失敗しなければ、始まらない。ハリー・サールは、何度もベンチャービジネスの立ち上げにかかわっては潰れたのち、とうとうシリコンバレーでも屈指の成功したソフトウェア診断システムを立ち上げたのだが、その彼が以前よりよくなり、賢くなっていくという見方がある。だからこそ、何かに挑戦して失敗したとき、たいていは、そのあとの方が簡単に資金調達できるんだ。 みんなが『へえ、あいつは最初の事業で破産したんだって?それできっと何かをつかんだろうから、おれはあいつにまた資金を提供するよ』と言う」
 ヨーロッパでは、破産は、一生涯引きずる汚点となる。ドイツでは、何があろうと、破産の宣告だけはしてはならない。ドイツで破産を宣告するこらいなら、国を離れた方がはるかにましだ(バロアルトへ行けば、心から歓迎を受けることだろう)。 (「レクサスとオリーブの木」から)
<「正義論」支持者は「100万ドル企業」に反対する>
この「100万ドル企業」のアイディアは、100万ドルも最貧国に寄付できる金持ちがいる、ということを前提にしている。「平等こそ正義だ」と信じ、「所得格差を少なくしよう」との政策を実行していたらこうした篤志家・投機家は出てこない。 先に豊かになれる者から豊かになり、その豊かな人の中から「100万ドル企業」への投資家が出てくる。累進課税を厳しくして、高額所得者からいっぱい税金をとって、所得再分配をしたら篤志家は現れない。 カーネギー・ホールやロックフェラー財団、あるいは大原美術館や松方コレクションは生まれないし、人々は「福祉とは個人が自主的に行うものではなくて、政府が行う事だ」と思うようになる。そうすると「政府とは、他人に金を払わせ、自分だけが得をすると誰もが信じている虚構の制度である=Government is the great fiction through which everybody endeavors to live at the expense of everybody else.」が常識となる。 「メセナとかフィランスロフィーとは政府や企業が行うことで、個人には関係がない」との考えが広まるより、個人の資金が期待される方が健全な社会だと思う。
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<魚の取り方を教えれば一生飢えることはない> 「自らのやる気で生産者として自立できるように後押しをさしあげるお手伝いをするのが、フェアトレードです」メイリオ;であり、「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」に応えていくのがいい援助だと思う。 「100万ドル企業」の構想は一方的な援助ではない。投資者も見返りを期待できるかも知れない、つまり投資する者とそれを活用する者は平等の立場なのだ。こうした「援助」ということについて興味深い文章があったので引用しよう。
高校で経済学を教えるサム・ゴードン同僚の女性教師のローラ・シルバーの会話
「貧者のための無料サービスに反対しているからと言って、貧者のための医療そのものに反対しているわけではない。食料配給に反対しているからと言って、飢餓を支持しているわけではない」
「うんざりするくらい同じに聞こえるけど」
「僕は『政府が』こういう問題を解決することに反対しているんだ。でも、利己心の長所を信じ込んでいるわけでもない。資本主義という試練がすべての傷を癒してくてるとも思っていない。それが片時も休まず、あらゆる人の生活水準を上げてくれるとも思っていない。 僕は、政府の助けなしに貧困に対処したいと思っているんだ」
「でも、仮に食糧スタンプ制度が中止されたとして、リッチな生活を送る有名人たちが突然良心に目覚め、貧しい地区に車で乗りつけて、そこの人たちをディナーに誘ったりするかしら?」
「そういう人は多くないだろうね。でも、貧乏な人々に食事を提供する慈善団体に寄付する人はいるだろうし、飢えた人に食糧を与えるだけに留まらない慈善活動に寄付する人も出てくるだろう。マイモデスという人を知っている?」
「知らないわ」
「13世紀のユダヤ人哲学者だ。ヘブライ学校では、僕にとって一番のお気に入りだったな。マイモデスは、慈善行為を行うばあい、そのやり方には2つの面があることを理解していた。与える側と受け取る側だ。彼はその双方を気にかけていた。彼は、与える側は純粋な心を、受け取る側は尊厳を持つよう願っていた。 マイモデスが言うには、ユダヤ法に則って考えれば、最高水準の慈善行為というのは、受け取る側が経済的に自立することを助けるような形で、贈与や融資その他の支援を行うことらしい」
「人に魚を与えれば一晩で食べてしまうが、魚の取り方を教えれば一生飢えることはない」
「それだ、それと、マイモデスは尊厳と心の純粋さを維持する手段として、匿名性を非常に気にしていた。慈善行為として最低なのは、与える側と受け取る側が双方の素性を知っていて、物惜しみする心が伴う場合だ。僕が思うに、マイモデスは、受け取る側が、自分が誰から恵んでもらっているのか知るのは屈辱的であると感じるとともに、与える側も、自分が誰を支援しているのか知るのは不健全だと感じていたんだ。 僕がマイモデスから学んだことは3つある。まず、自立を目標とすべきであること、それから、受け取る側の尊厳を忘れてはならないということ。そして最後に、忘れてしまいがちなんだけど、与える側の心も大切だということ。まったく与えないよりは与える方がいいけれど、理想は、物惜しみしながら与えるのではなく、喜んで与えることだ。頼まれる前に与えるのが理想だね。 誰かを自分に依存させるというエゴゆえにではなく、共感ゆえに与えるのが理想だ。だからマイモデスは、与える側・受け取る側双方の匿名性を気にしていたんだと思う。だから、乞食を家に連れていって夕食を与えるのも悪くはないけれど、一番いいのは、彼が自立するのを助けることだ。民間の慈善団体が食糧スタンプ制度を肩代わりできるとは思わないけど、人々が自立するのを助ける方法は見つけられるんじゃないかな」 (「インビジブルハート」から)。
「人に魚を与えれば一晩で食べてしまうが、魚の取り方を教えれば一生飢えることはない」 については同じようなことを言っている人がいた。
 飢えた者に一匹の魚を与えるよりも、魚を釣る方法を教えるほうがずっと効果的で価値があるのではないかな。飢えに苦しむ国の人々が、いつまでも他国の援助を求めず、自力で増産に取り組めるようになることが肝心だ。そのお手伝いをすることを、われわれの目的にすべきではないだろうか。 (「よみがえれアフリカの大地」から笹川良一の言葉)。ラッセル・ロバーツと笹川良一、二人の共通点は見あたらないが、言っていることはまったく正しい。このように「日本も顔の見える援助をすべきだ」との主張は正しくはない。インフラを整備し、自立を支援するという日本のODAの基本姿勢の方がよりよい援助の姿勢だと思う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『グローバル経済の本質』 国境を越えるヒト・モノ・カネが経済を変える    伊藤元重 ダイヤモンド社 2003. 5. 9
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』  ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2002. 5.31
『人間が幸福になる経済とはなにか』     ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2003.11.30
『株仲間の研究』                              宮本又次 有斐閣     1958. 3. 5
『江戸の市場経済』                             岡崎哲二 講談社     1999. 4.10
『レクサスとオリーブの木』       トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社     2000. 2.25
『インビジブルハート』                ラッセル・ロバーツ 沢崎冬日訳 日本評論社   2003. 4.30
『よみがえれアフリカの大地』                       山本栄一著 ダイヤモンド社 1997. 4.17
( 2004年11月1日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(28)市場における競争と適者生存
<政治経済学と進化論> 「民主制度の限界」と題されたこのシリーズ、視野狭窄にならないようにと、話題を広げてきて、先週は「グローバリゼーション」について考えてみた。いろんな反対意見のうち、感情的なものや凝り固まったイデオロギー、宗教的信念に基づいたものは別とすると、その主要な懸念とは「グローバリゼーションは世界中に<弱肉強食>を広めるものだ」ということになりそうだ。 そこで「弱肉強食」とか「自由競争」とか言われることについて、例によって「好奇心と遊び心」をもって、多方面から考えてみることにする。
 しかし「エコノミストは、人々にこうすべきだと告げることはできない。しかし、民主社会における市民がより良い政策選択をなしうるよう、さまざまな代替案(選択肢)を課し、その結果どれぐらいの便益をもたらすかという点を明らかにすることはできる」 (「経済学で現代社会を読む」から)との考えもあるので、それなりの節度を持って書くことにしよう。
<市場での「弱肉強食」とは?> 「市場経済は弱肉強食の経済で、強い者だけが生き残る非情な社会だ」との見方がある。この場合の「弱肉強食」とは実際はどのようなことなのだろうか?日本の自動車業界ではトヨタのカローラとホンダのフィットが販売台数を競っている。「市場でトヨタとホンダが競争している」との表現は間違っていない。だがその実態とは? 「トヨタとホンダが互いに相手を攻撃している」とか「足を引っ張り合っている」というわけではない。実際は宣伝活動とセールス活動によってユーザーを獲得しようとしているのだ。製造部門はユーザーに気に入られる車を造り、営業部門は自社製品の良さをユーザーにアピールする。ユーザーの好みはなかなか分からないし、変化もする。 それを判断し、適切に対処した会社が売上げを伸ばす。大きな会社が勝つとは限らないし、大人数で長い時間営業したから勝つ、とも限らない。「お客様は神様です」の精神に徹して、神様のハートを掴んだ方が勝つ。従って「強いから勝つ」のではなく「勝った方を強いと呼ぶ」のが正しい。
 三菱自動車が経営不振に陥っている。何故だろうか?強いメーカーに攻撃されたのだろうか? トヨタ、ホンダ、日産などに原因があるのだろうか?違う、三菱自動車の経営不振の原因はハッキリしている。度重なる「クレーム隠し」によってユーザー=消費者=神様に嫌われたのが原因だ。日本の社会が「消費者を裏切ってヤバイことすると、結局は損する社会」になったことに気づかなかったのが原因だ。 当世、大企業も、中小企業も、零細企業も、製造部門も、営業部門も担当者は誰もが消費者に学ぼうとする。それが市場で勝つための戦略だ。三菱自動車では経営者も従業員も消費者を甘く見ていた。一部の業界でよく言われる「消費者教育が必要だ」と同じ思い上がりがあった、と考えるのが正解だろう。
 2004年11月8日の新聞のトップ見出しに「三菱自、本社移転白紙に」、1000人「京都なら退社」とあった。三菱自動車が経費節減から、東京にある本社を京都に移転しようと、5月末に打ち出した「再生プラン」、しかし社員は「京都に移転するなら生活の見通しが立たないから退社する」と言い出した。 社員はユーザーの気持ちを知ろうとしなかったし、役員は社員の気持ちを知ろうとしなかった。社員にとって「お客様は神様です」であり、経営者にとって「従業員は神様です」が理解されていない。消費者主導の市場経済が分かっていない。これでは三菱自動車の再建への道は厳しいものになるに違いない。
 消費者を裏切ってヤバイことして結局は損した例として、食肉偽装事件がある。「利潤追求第一にしたために起こった」との意見もあるが、それは違う。発覚する確率が1割程度と考えても、損得を勘定してみてば、やらない方がいい、ということが分かる。 「利潤追求第一にしたために起こった」のではなくて、「損得勘定が出来なかった」と考えた方が正解だ。つまり「利潤追求第一に徹すれば、あのような消費者を裏切り結局は損をするようなバカなことはしなかった」と言える。
 市場で「強者」と「弱者」を決めるのは、競争する企業同士ではなく、消費者=神様がそれを決める。
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<消費者に利益をもたらす者が強者となる> 市場で、消費者=神様はどのような基準で「強者」と「弱者」を決めるのだろうか?そのような疑問に対してここではルートヴィヒ・フォン・ミーゼスがなんと答えているのか?ちょっと聞いてみよう。
 市場経済の特徴の一つは、人間の生物的・道徳的・知的不平等がもたらす問題の特殊な取り扱い方にある。
 前資本主義時代には、優秀な者、すなわち他人よりめざとく有能な者が、自分よりも劣っている大衆を服従させ奴隷化した。身分社会では、主人と従者というカーストがあった。すべての問題はただ前者のために運営され、後者は主人のためにあくせく働かなければならなかった。
 市場経済では損益制度が働いて、多数の劣っている人々を始め、すべての人々の利益のために、優れた人々が奉仕せざるを得ないようにしている。この制度の下では、すべての人々に利益を与える行為によってのみ、最も望ましい状態に到達することができる。消費者としての立場で大衆は、すべての人々の収入と富を究極的に決定する。 彼らは彼ら自身、すなわち大衆を最も満足させるために資本財を使用する方法を知っている者へ、その支配を委ねるのである。
 優れた判断の持ち主から見れば、最も栄えている者が、人類の中で最も傑出した人物だと言えないことは、もちろん事実である。不器用な多数の凡人は、自分の悲惨な状態をカバーしてくれる人々のメリットを正当に価値評価するには適していない。彼らは、自分の欲望の満足を基準にして人々を価値評価する。 したがって、ボクシングの選手や探偵小説の作家は、哲学者や詩人よりも高い名声を博し、収入も多い。この事実を悲しむのは確かに正しいことだが、天才のインスピレーションを欠く人々が、以前には誰も知らなかったので、始めは拒否するようなアイディアを人類にもたらす、イノベーターの功績に対して公正な報酬を与えることができる社会制度は、誰にも考え出すことはできないだろう。
 いわゆる市場民主主義がもたらすものは、大衆が製品購入によって承認を与えた企業の生産活動を促進する仕組みである。消費者は、そのような企業に利益を与えることによって、自分たちに最もよく奉仕する者の手中へ、生産要素の支配権を移す。消費者は、不手際な企業者の企業に損失を与えることによって、自分が賛成できないサービスを提供している企業者から支配権を取り上げる。 政府が利潤に課税して人々のこのような決定を妨げるのは、言葉の厳密な意味で反社会的である。純社会的立場から言えば、利潤に課税するよりも欠損に課税した方がもっと「社会的」であろう。 (「経済科学の根底」から)
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<自然界での「適者生存」とは?> 地球温暖化が危惧されている。地球の平均気温が上がることによって、自然界ではそれに適応できず絶滅する種があるだろう。地球温暖化が進むと、現在熱帯の猛暑の中でわずかに生息している生物が、その繁殖地域を広げ、地球上の多くの地域で生息するようになる。現在、温帯、寒帯で広く生息している生物が、その温暖化に適応できなくて死滅することになるだろう。 ところで、温暖化に適応した生物は「強者」で、適応出来なくて死滅した生物は「弱者」だったから死滅したのだろうか?これは少し違う。「強者」だったので生き残り、「弱者」だったから死に絶えたのではない。たまたま変化した環境に適応出来た生物が生き残ったのであり、その生物が「強者」であったわけではない。 むしろ熱帯の極狭い地域で細々と生きていた「弱者」だったかもしれない。原因と結果が違う。生き残った生物を「強者」と呼び、死に絶えた生物を「弱者」と呼ぶのだ。
 自然界にあっての「弱肉強食」とは必ずしも、強い生物が弱い生物を食べる、という意味ではない。進化の過程で絶滅するのは、「強者」に食べられる「弱者」という意味ではない。 「強者」ライオンが「弱者」トムソンガゼルを食べるからといって、それによって「弱者」トムソンガゼルが絶滅する訳ではない。
 自然界での生存競争とは「弱肉強食」と表現するよりも「適者生存」との表現のほうが、より正確に表現している。絶滅する種=弱者は強者によって滅ぼされるのではなく、自然環境の変化に適応できずにその生息地域を狭め、やがて絶滅する。 ある時期地球上で繁栄している種は、その環境に最も適した種であるから、その環境が変化すれば、変化した環境に適さない種になる。このときそれまで地球上のどこかで、目立たない寂れた地域で細々と生息していた「弱者」が、変化した環境に適応して一気に繁栄し「強者」になることもあるだろう。
 自然界で「強者」と「弱者」を決めるのは、食肉動物とそれに捕獲される動物とではなく、自然環境の変化がそれを決める。
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<人間社会での「強者」と「弱者」とは?> 「弱者に対するきめ細かな政策が必要だ」と言われると反論する人は少ない。「ではどのような、きめ細かい政策が必要なのか?」との議論は、ここでは横へ置いておいて、ここでは「弱者」について考えてみる。
 「正義論」は「最も恵まれない人の便益を最大化することが正義だ」と主張する。そこでTANAKAは「では、最も恵まれない人とはどういう人だ?」と問いかける。 「恵まれない人」と言っても幾つかに分類できる。例えばその責任が誰にあるのか?本人か?家族か?他人か?企業か?政府か?台風・地震・異常気象などの自然現象か?本人の責任によって「恵まれない人」になったのに、社会が面倒を見なければならないのか?本人でも政府でもなく他人の犯罪による被害者を政府が面倒をみるべきか?そうした「恵まれない人」と政府の責任による「恵まれない人」とはどう区別すべきか? 恵まれない人が多数か?少数か?でも対処の仕方が変わってくる。全国に数人しかいない難病患者と沢山いる交通事故被害者。
 このような捉え方と、「先天的」「後天的」との捉え方ができる。つまり、生まれつき「弱者」であった人と、生きていくうちに「弱者」になった人がいる。生まれつき「弱者」である人を税金を使ってでも支援しよう、との主張には反対意見は出ないだろう。生きていくうちに「弱者」になった人については、本人の責任がどの程度あるかに、によって対処の仕方が違ってくる。 本人に責任がある場合の多くは、本人がハイリスク・ハイターンを狙って失敗した場合が多い。そこで、ハイリスク・ハイターンである、投機などを制限しようとの考えも出てくるが、これはあくまで本人の責任なので、社会で制限するのは違っている。 つまり「自己責任」をハッキリさせることが大切だ。例えばタバコ、有害であることを承知の上で喫煙するなら、それを禁止する必要はない。
 しかし、「何もかも自己責任にするのは良くない。社会的に規制し、危険に近づかないような制度にすべきだ」との考えもある。個人の自由を大切にしようとする人たちは、こうした考え方を「リーガル・パターナリズム」と呼び、「お節介主義」ととらえて批判する。
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<政界での「多数派」と「少数派」とは?> 人間社会ではいろんなところで「勝った負けた」の競争が行われている。勝者が出れば、敗者も出る。競争が始まる前から勝ち負けが予想できる場合もあれば、終わってみて初めてどちらが強かったのか分かる場合もある。この場合は「強い者が勝った」のではなくて「勝った者を強者と呼ぶ」ことになる。 さて、政治の世界での「強者と弱者」、「勝者と弱者」とはどのようなことだろうか?民主制度では多くの有権者の支持を獲得した者が勝者になる。このため国会議員は選挙に望み、自分を有権者にアピールする。それはちょうどメーカーが自社製品を広告等でアピールするのに似ている。 民主制度はこうした点で市場経済との類似点が見出される。しかし民主制度には市場経済にはない弱点がある。国会議員選挙での立候補者は有権者の支持を得ようと政策を訴える。その政策は多くの有権者にアピールするものであるはずだ。ところがちょっと違う場合がある。立候補者は多くの票を獲得したい。しかし同時に、政治献金してくれる支持者も大切にしたい。 たとえ少数意見でも、多くの政治資金を提供してくれたり、強力に選挙活動を支援してくれる人・団体・業界の意見は政策に反映しようとする。こうして「族議員」が誕生する。
 こうした点についてロバート・バローは次のように言っている。
 民主化が経済成長に与える影響は、よくわかっていない。ミルトン・フリードマン(『資本主義と自由』)など、政治と経済の自由は相互にプラスの影響を与えると主張する人たちもいる。 政治的な権利が拡張すると、すなわち民主化が進むと、経済的な権利が確立され、経済成長が刺激されるという見方である。
 しかし、民主主義には、経済成長を阻害する性質があることも、しばしば指摘されている。民主主義においては、富める者から貧しい者に所得の再分配する政策を、多くの人が求める傾向がある。累進課税、身体障害者などの特別利益団体が強い政治力を持つことである。こうした団体は、自分たちの利益になるような政策をとるよう政府に圧力をかける。政府が圧力に屈すると、経済に歪みが生じ、経済成長が阻害され、結局、そのしわ寄せは弱者にいく。 (「経済学の正しい使用法」から)
 「国会議員は一部の人の利益代表ではなくて、全国民の利益代表であるべきだ」と言うのは建前論で、実際は一部の人たちの利益代表・意見代表である場合が多い。しかし、程度問題で、あまりにも国全体の利益を無視していたら、有権者が次の選挙で落選させるだろう。 有権者はそうした力を持っている。「国民はマスコミに影響されて、正しい情報を得ることが出来ず、そのため公正な評価ができない」との批判もあるかもしれないが、日本の有権者は結構優れた政治的センスを持っていると思う。 あまり悲観的に考えることはない。悲観的に言う人は「有権者はどうして私の主張を理解しないのだろう?それはマスコミに誤った考えを植え付けられたからだ」と八つ当たりしているのだ、と考えると分かりやすい。
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<「競争的市場の擁護」> 自然界で、人間社会でいろんなところで、いろんな競争が行われている。全く競争のない社会など考えられない。この競争ということ、経済学では「市場での自由な競争は資源の最適配分をもたらす」と言って「良いことだ」と評価する。 それはどういうことなのか?「競争はなぜ必要か」と題された本から一部引用しよう。
 生産および分配という経済の基本問題を処理する方式には市場システムから計画化(または指令)までいろいろあるが、自由の培養基でありうるようなシステムは競争的市場ただ一つである。伝統的経済、封建制、計画経済(指令経済)では人々はなすべきことを命じるルールや慣習的規制が自由な選択を許さない。 家(オイコス)の経済には自然とのゲームにおける創意工夫や選択の余地は残されているが、基本的な戦略は「自然に服従する」という形をとらざるえを得ない。人間がつくる社会システムの中で自由を最大限に保存できるのは市場システムを措いてないのである。
 競争的市場擁護論はこの非功利主義的理由をまず第一にあげるべきであろう。すなわち、
@競争的市場は経済的自由を実現し、保存するために必要なシステムである。
A競争的市場は、経済を担当して生産および分配を遂行することができる。これは市場システムの「自己調整機能」と呼ばれている。簡単に言えば、経済に関する大概の問題は市場システムだけで自動的に解決できる、ということである。ただしこれに対する異論があることはすでに見た通りである。
B競争的市場は、資源の最適配分をもたらす。すなわちそれは、与えられた条件の下で(例えばゲームに参加するプレーヤーの出発点における持ち分は与えられており、それ自体が好ましい分配状態であるかどうかは別にして)、これ以上誰かの状態を改善するには、他の誰かの状態を改悪せざるをえないような最終状態の一つに到達することができるのである。 経済学者はこの最終状態のことを「パレート最適」と呼んでいる。出発点における条件が変われば、パレート最適の状態は無数にありうる。しかしその中のどれがもっとも好ましいかは、何らかの主観的評価基準によらない限り、一般に判断することはできない。
 このBは、一口で言えば競争的市場の「効率性」を主張するものである。競争的市場擁護の理由としてよく持ち出されるのもこの効率性ということであり、しかもこれはどのプレーヤーにも肩入れしない立場にある人間──アダム・スミスのいう「公平無私の観察=インバーシャル・スペクテーター」──の支持を得るであろう基準であると言ってよい。 (「競争はなぜ必要か」から)
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<自由貿易は弱肉強食なのか?> グローバリゼーションについて考えて、「弱肉強食」とか「競争」について考えてみた。こうしたことを踏まえて「グローバリゼーションは弱肉強食を強いるのか?」について考えてみよう。 「自由貿易こそが国民を豊かにする」は経済学の常識なのだが、それが常識であることが分からない人たちがいるようだ。そこで貿易が国民を豊かにする、ということについての文章を引用しよう。
<貿易は、我々を前より豊かにする> 貿易は、経済学上の最も重要な考えの一つであるとともに、直観で最も分かりにくい考えの一つでもあるという特質を持っている。エイブラハム・リンカーンが、大陸横断鉄道を完成させるのにイギリスから安い鉄道レールを買ったらよい、と勧められたことがあった。 彼はその時「もしレールをイングランドから買えば、レールは手に入るが、お金は彼らのものになるではないか。しかし、レールをこの国で作れば、レールも我々のものになるし、お金も我々のものになる」と答えた。 貿易の利益を理解するには、リンカーン氏流の経済学の考えが誤っていることに気づかなければならない。彼の論点を分かりやすくして、論理的欠陥が明らかになるか見てみよう。もし私が肉屋から肉を買うならば、私は肉を受け取り、肉屋は私からお金を貰う。 しかし、私が裏庭で雌牛を3年間飼って、自分の手で畜殺するならば、肉は手に入るし、私のお金はかからない。それなら、なぜ私が裏庭で雌牛を飼わないのか。それがとんでもない時間の浪費になるからである。それだけの時間があれば、はるかにもっと生産的なことをするのに利用できただろう。 我々が他国と貿易するのは、こちらがより得意なことをする時間と資源を貿易が与えてくれるからである。
 ポール・クルーグマンはこう述べている。「貴方ならそう言うだろうし、また、私もそう言いたいが、人間の善意ではなく利潤を動機に推進されるグローバリゼーションの方が、善意の政府や国際機関から提供されるすべての対外援助や穏やかな条件の融資よりも、はるかに多くの人々のために、はるかに大きく貢献している」。 それから、沈んだ調子で「しかし、こんなことを言うと、経験から分かっているが、間違いなくいっせいに抗議の手紙が舞い込んでくる」と付け加えている。 (「裸の経済学」から)
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<「比較優位」をマスターしよう> 「グローバリゼーション反対」を主張する人たちは「比較優位」を知らないのだろう。貿易によって消費者が安い外国製品を買うことができたり、外国へ製品を輸出して会社が利益を上げたりすることはわかっても、結局「強い者が勝つ、弱肉強食の世界だ」と思ってしまう。 自由貿易でこそフェアトレードがうまくいく、と分かっていても、それでも「比較優位」を理解しないと、「グローバリゼーション反対」になってしまう。そこで「比較優位」を経済学の初歩の初歩の本から引用しよう。 本の題はズバリ「はじめての経済学」だ。
 貿易が一国の経済に非常に大きな影響を及ぼすことは、経済学の歴史の中でも長い間、議論されてきました。既に上巻1章で少し触れたのですが、現代の経済理論はその出発点で、実は貿易の問題を議論する過程で発展してきたと言っても過言ではありません。 重商主義を批判するために『国富論』を書いた、アダム・スミスの議論は、市場経済の価格メカニズムを分析する上で大変大きな貢献を果たしました。それを受けて比較優位の議論を展開したリカードの議論は、経済学の発展に更に大きな影響を及ぼしたのです。
 リカードの比較優位の理論は、現在の国際貿易を考える上で最も基本的なものになります。その考え方について簡単に説明してみましょう。リカードの比較優位の理論は比較的簡単な数値式で説明されることが多いのですが、本文では複雑になるので、数値式の議論は次のページにコラムとして整理しましたのでそちらを参考にしてください。 本文中ではごく簡単に、数値式を使わずに比較優位の考え方について述べたいと思います。
 比較優位の考え方は、簡単にまとめると次のような内容から構成されます。
@さまざまな財やサービスを生産するには、労働や資本、土地といった生産資源を利用することが必要となります。しかし、どの国でも生産資源の量には限りがあるので、一国ですべての財をつくろうとすると、生産量に限界が出てくることになります。
Aそれぞれの国には自然、環境条件、技術条件、あるいは土地や労働といった経済資源の量の大小を反映して、得意な産業と不得意な産業があります。したがって、できるだけその国が得意とする産業に集中することで、その国はより多くの生産価値を生み出すことが可能になります。ただし、生産が得意な産業に生産資源を集中すると、それ以外の産業の生産量が少なくなります。 それを補うためには、どうしても海外から輸入しなくてはいけないことになります。
Bそれぞれの国の得意・不得意、つまり比較優位のパターンを反映して、それぞれの国が得意な産業に集中していくことが必要になるます。ただ、政策担当者が計画経済的にそうした生産パターンを実現しようとしなくても、ただ貿易障害を撤廃し、自由に貿易ができるようにしてあげれば、市場メカニズムに導かれて、結果的に各国は自分にとって得意な産業に生産を集中させることになります。 その結果、世界全体としてみると、より多くの生産がより効果的な資源配分の下で実現することになります。
 以上が比較優位の考え方の基本的な特徴です。ここから出てくる政策的な含意は、各国はできるだけ貿易の障害を撤廃すべきであるというものです。貿易にいろいろな形で規制をかけないで、市場の自律的な取引に任せておけば、世界全体としても調和的な形で貿易が実現することになります。こうしたものの考え方が、アダム・スミスやリカードに原点を置く、国際貿易の基本的な考え方になっています。
 その後、いろいろな形でこの考え方は拡張され、たとえばヘクシャー=オリーンの定理として知られているように、比較優位の成立パターンには各国の技術だけでなくその国にどのような生産資源がたくさんあるかということも重要な意味を持っていることが知られています。
 ヘクシャー=オリーンの定理によれば、各国はその国にたくさん存在する生産要素を集中的に利用するような産業に比較優位を持つようになります。たとえば日本とアメリカを比べると、アメリカには土地が豊富にあり、日本には勤勉な労働者が相対的にたくさんあります。アメリカは土地を集約的に利用する農業生産に比較優位を持ち、日本は勤勉な労働者がたくさん生産する機械産業に比較優位を持つことになります。 (「はじめての経済学」から)
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<競争は市場の活力> 市場でも競争が必要であることは、いろんな経済学者がいろんな言い方で主張している。ここでもう一人登場してもらうことにする。これも「やさしい経済学」と題された、本当にやさしい本からだ。
競争はなぜ必要なのか 「市場競争はなぜ必要なのか」と聞かれれば、大部分の読者は「そんなことは当然だ。今更議論する必要もないのではないか。競争がなければ、人々は現状に安住し、技術革新も起こらない」と答えるのではないだろうか。
 実際、このことは歴史的に証明されている。例えば、市場メカニズムを否定した社会主義諸国の多くは破綻し、市場経済に移行し始めた。また、日本の産業を見渡しても、早い時期から国際的な競争をしなければならなかった自動車やエレクトロニクス産業は国際的にも強い競争力を誇っているのに対して、建設、流通、農業、薬品など、規制や保護などに依存してきた産業の競争力は総じて弱い。 大学などの知識創造分野でも、多くが当局の規制下にあったらめ、十分なインセンティブがなく、根本的な改革が必要になっている。
 しかし、一般論として市場競争は肯定しても、具体論になると、市場競争に対する拒否反応は非常に強いのも現実である。競争は「弱肉強食」を容認することであり、それは共存共栄の理想社会を目指す人間社会にとって望ましくないという考え方である。このような考え方からは、競争制限への強い主張が出てくることになる。
 厳しい競争にさらされている企業が生き残りをかけ、雇用に手をつけるという段階になると、競争は善だと考えている人でも、そのようなリストラは好ましくないと考えるかもしれない。多くの企業は、このような世論に配慮し、雇用調整の手をゆるめ、結局はぬるま湯的なリストラ策でお茶を濁してしまう。その結果、企業業績が長期にわたって低迷することになる。
 また、銀行が、借金を返せなくなった企業向けの不良債権を放棄する例が増えている。これは、「競争に敗れた効率の悪い企業は市場から退出する」という市場競争の大原則からの逸脱である。競争に敗れた企業を救済し、市場から退出させないという「反競争的」イデオロギーが日本社会では非常に強い。このことが実は、非効率な分野に資本や人材を押しとどめ、日本経済全体の効率性を損なう結果になっている可能性が大きいのである。
 市場競争は必要だという一般論には賛成でも、個別具体的案件になってくると、多くの人は「反競争的」な解決策(救済策)に頼ろうとする。このような市場競争を巡る人々の矛盾した対応に対して、我々はどう考えるべきなのか。以下で。この点を論理的に明らかにしていきたい。
規制と保護は「野生動物をペット化する檻」 野性の動物を捕まえてきて、ペットとして飼いならすことを考えてみよう。動物は死に物狂いでえさを探す必要はなくなり、楽な生活ができるようになる。しかし、鎖でつながれたり、檻の中で生活しなければならず、自由に野山を駆け回れない。やがて筋肉がなえ、俊敏性など本来的能力がなきなっていくだろう。そして、この動物は厳しい自然の中では生活できずに、鎖や檻という「規制」を好むようになり、本来の動物としてのすばらしさを失うことになるだろう。
 市場競争を野性の動物界に例えることが適切かどうか分からないが、競争のエッセンスはとらえられるのではないだろうか。市場競争にさらされている企業は常に新製品を開発しコストを引き下げ、顧客の満足を得る努力をしないと生きていけない。だから、あらゆる知恵を動員して、マーケットでの生き残りを図ろうとする。その結果、こうした企業は変革に向けたダイナミズムを持ち続けることができる。他方、規制と保護で飼いならされた企業は、ペット化した動物と同じことで。競争市場に出ていくことを怖がり、何かと規制が撤廃されないようにと政治家に働きかける。 規制緩和をはじめとした競争促進政策に対する業界の抵抗が強いのは、競争で勝ち残るだけの自身を喪失しているからにほかならない。
 規制が温存されると、ますます競争する能力が落ち、人材や資本を無駄遣いすることになる。こういう規制や保護の対象になる産業が多ければ多いほど、国全体としての経済効率が低下する。
 このような現実世界から離れて、すべての分野で競争的な市場が成立している状態を考えてみよう。経済学ではこういう状態を「完全競争」と呼ぶが、完全競争のもとでは、どの企業も市場に対して支配力を持たない。また、他企業よりも非効率でコストの高い企業は存続できない。
 企業が生き残るためには、努力によって、経営コストを他の競争力のある企業と少なくとも同じレベルにまで引き下げる必要がある。従って、完全競争下では、非効率な企業は淘汰され、効率の良い企業だけが生き残ることができるので、資本や労働力も無駄に配分されることがなくなる。
 もっと言えば、競争下にある企業は技術革新の能力についても常に競争してういる。他企業に負けないように新製品を出し、コストを削減するための絶えざる努力をしないと、いつ市場から退出させられるかわからないからである。(中略)
競争がない国立大学で何が起こったか 競争がない世界ではどのようなことが起こるのか。そのことを端的に示す一つの例が、日本の国立大学である。
 国立大学の最大の問題は「インセンティブの欠如」という問題だ。大学における研究や教育のパフォーマンスが悪くても、国が講座数など固定化された基準で財政支援しているため、「倒産」の危険がなく、研究水準の向上や教育サービスの充実に向けたインセンティブが機能しない。
 このことは個々の教官についても同様である。実際、頑張ってすばらしい業績をあげた研究者も、何もしないで長年論文を書いたこともない人も殊遇は変わらない。教育に情熱を傾け、学生たちから尊敬され人気の高い先生も、十年来の講義ノートを棒読みにして生徒に見向きもされない先生も同じ待遇である。これでは研究や教育の水準向上は見込めない。
 もちろん、教育者のやる気は金銭的な待遇だけに左右されるわけではない。現在のシステムでも研究や教育に情熱を燃やしている人はいる。だが、残念ながら、それは全体のごく一部に過ぎない。だからこそ、何らかの評価とそれに連動した処遇の仕組みが教育機関にも必要なのである。
 教育の場に競争原理を導入することには批判的な意見が多いが、学校を活性化するのに一定の成果を上げる可能性は十分にある。大学については2000年4月に第三者評価機関である大学評価・学位授与機構が発足した。第三者による評価制度がスタートしたこと自体は大いに評価すべきだ。研究や教育の質をどうやって測るかという根本的問題はあるが、それが困難だからという理由であきらめていては、事態は何も改善しないだろう。
 重要なのは、国立と私立の区別をなくし(国立大学の民営化)、第三者機関による評価をもとに、教育・研究の予算配分を決定するという競争的仕組みの導入である。国立大学であるというだけで、自動的に膨大な予算が割り当てられるという仕組みを廃止し、私立大学でもパフォーマンスが良ければ国からの支援が期待できるような予算配分を実行するのである。
 もちろん、大学を完全に市場競争にゆだねてしまうことは不可能である。基礎研究のように民間企業では十分にできない研究には、国が予算を付けなければならないし、特定分野の振興のために政治的な配慮も必要になるかもしれない。
 このような配慮をすることと、教育の場に可能な限り競争原理を持ち込むことは矛盾しない。いずれにせよ、競争が欠如したところにダイナミックな発展はないからである。
「効率」あっての「公正」 競争は弱肉強食の世界を生み出すから反対という「反競争」イデオロギーにたいしては、どのような答えが可能だろうか。
 競争が淘汰を生むことは自明であるが、淘汰される企業や失業の憂き目にあう労働者に同情しない人はむしろ少ない。しかし、目の前で苦しむ企業や労働者を救済するために競争を否定すれば、経済社会全体の停滞を生み出す。このミクロ的視点からくる「同情論」とマクロ的視点からくる「停滞論」という対立はどのような論理で解消できるであろうか。
 この点について経済学の世界では、50年近く前に1つの理論的解決を得ている。これはノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授が証明した「厚生経済学の基本定理」として知られている。この理論のポイントは「社会全体の厚生水準を最大化するためには、まず競争原理の貫徹により経済効率を最大限に引き上げ(国内総生産を最大にする)、その後、望ましい所得分配を実現するための所得再分配政策を実行せよ」ということである。
 つまり、倒産や失業を恐れて競争を制限するのではなく、徹底的に競争原理に従って経済効率を引き上げ、経済のパイを最大にすることを優先する。その上で、競争の結果発生した所得分配の不平等を、社会保障政策、税政などの所得再分配政策によって是正すれば、社会にとって最適な資源配分が実現するということである。
 ここでは考え方の順序が重要である。弱者救済のための競争制限から入るのではなく、効率を最大にするために競争原理の貫徹から入る。その後に、最大化されたパイを活用して、競争の結果生じた不平等を社会政策によって是正する、という順序である。このような観点から見ると、日本の経済政策の最大の欠点は、「救済」(競争制限)から入るケースが非常に多かったという点である。
 「総論賛成・各論反対」や、痛みを恐れて規制緩和などの競争政策を先送りするという日本政府のこれまでの取り組みは、その典型例である。改革に伴う痛みを恐れた先送り政策で景気が回復しないことは、90年代の日本経済の長期停滞が証明している。小泉純一郎首相は「構造改革なくして景気回復なし」という考えを打ち出し、多くの支持を得た。 郵政事業の民営化など競争原理の貫徹から始めないと、日本経済を本格的に立ち直らせることはできないという市場競争に対する正しい認識が、ようやく日本でも根づき始めたことを示しているかもしれない。 (「やさしい経済学」から 中谷巌著「競争は市場の活力」から)
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<市場原理主義はダメなのか?> 経済成長のためには競争が必要だ、と頭で理解しても、それでも「市場原理主義は良くない」という人がいる。こうした批判に経済学者は何と答えるのだろうか?
 2001年から2002年にかけて、アメリカで起きたエンロンやワールド・コムの粉飾決算事件は、情報開示が不十分だたり、開示された情報の真偽を監査する制度に不備があったりしたため、企業の情報操作を許したケースである。こうした事件が起きると「市場原理主義」は駄目だとか、「アメリカ資本主義はグローバル・スタンダードなどといわれて、はやしたてられていたが、実は、ろくで、おない代物だ」などと批判されがちである。 しかし、市場とは資源の配分や人々の間の所得の分配を決める手段なのであって、規制やルールのあり方によって、その性能は良くも悪くもなる。性能に問題のあることが判明した場合には、性能が悪かった原因を徹底的に追及し、性能が良くなるように、規制やルールを変えることが重要である。情報の非対称性が存在する限り、人々が嘘をついて利益を上げようとしたり、責任を逃れようとすることを根絶することはできない。 しかし根絶できないからと言って、市場を否定して、社会主義のように、他の手段で資源の配分や所得分配を達成しようとすれば、一層悪い状況に陥る。市場の欠陥をあれこれ見つけ出して市場を否定することは、自動車事故がなくならないからと言って、自動車交通を禁止し、徒歩と自転車にすべて頼ろうとするようなものである。 (「スッキリ!日本経済入門」から)
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<日本は経済戦争で勝っているのか?> 恋愛小説に似たスタイルで好評を博した経済学入門書「インビジブルハート」を書いたラッセル・ロバーツが以前に書いた「寓話で学ぶ経済学」から、 日本とアメリカとの経済競争とか「日本株式会社」に関する部分を引用しよう。
「金の成る木の話は分かりましたが、それとアルゴンキン・ホテルとの関係は?」
「まだ分からんかね!アルゴンキン・ホテルや他の資産はいうならば金の成る木そのもので、金の成る木同様に一定期間収入をもたらす。だから、資産の価値は将来にわたってその資産がいくらの収入をもたらすかによって決まるのだ。 アメリカ人オーナーがアルゴンキン・ホテルを売りに出すとき、彼は将来にわたって受け取ることができる利益と同額程度の価格を要求するだろう。実際には売り手はその間金利収入があるからその分は割り引かなければならないがね」
「ということは、日本人がアルゴンキン・ホテルを所有し、そこから利益を得ている時点では、売った方のアメリカ人は既にその額と同等のお金を手に入れている、と?」
「その通り。不確定要素がなければ、日本人の買い手がホテルから得る利益はアメリカ人がホテルの売却から得る利益とその後そのお金から得る金利との合計と同じ額になるはずだ。では、実際はどうなったか? 先ほども話したように、金の成る木の収穫にはいつも不確定な部分がある。1980年代、日本はペブルビーチ・ゴルフコースやロックフェラーセンターなど、アメリカで特に名の知れた物件を次々に買収した。しかし、幸か不幸かそれらの資産は日本人が予想していたよりずっと低い利益しか生み出さなかった。 結局日本の買い主はアメリカの売り主から高く買いすぎた。一見、日本が得をしたように見えたが、アメリカの売り主が日本の買い主に比べて実際よりたくさんのお金を手にしたというのが本当のところなのだ」
「日本人はなぜ何回も皮算用を間違えたのでしょう?」
「理由は二つ考えられる。一つは、買収した時期に土地の価格がピークだったということ」
「運が悪かったということ?」
「そうだ、しかしもう一つの理由として、彼らがあまり将来の収益そのものを気にしていなかったことがあげれれる。日本人はプレミアムを払っても所有する目的でそれらを持ちたかったようだ。金の成る木を所有するために1000ドル以上払うのと同じ心境だな」
「非合理的ですね」
「そうとも言えない。金銭的には損でも、所有の喜びを考えれば、得をしたと言うこともできる。全くの非合理とも言えまい」
「それでも、ロックフェラーセンターが日本人の手に渡ることに不満を持つアメリカ人がいるのはうなずけますね。僕も息子と娘を広場でアイススケートをさせに連れに行きましたから」
「しかし、ロックフェラーセンターを売ったアメリカ人オーナーは一番高い値段で買う気のある人に売りたいと思ったのではないかな?売り主にしてみれば、日本人がアメリカを駄目にするという議論には納得がいくまい。売り主にとって損な話ではないしね。 それにエド、君は日本人がスケートリンクを管理していると分かったら、そんなに困るかね?」
「いや、そう言われると……」
「ついでに話すと、1980年代の日本による資産買収がアメリカ世論で騒がれていた時、日本は資産取得高ではイギリス、オランダについで3番目でしかなかった。しかし、誰もオランダ人による買収については騒がなかった」
「それなら日本はアメリカでダンピングして豊かになったわけではなく、しかも外国製品を自国から締め出して豊かになったわけでもなく、またアメリカの資産を買収して豊かになったのでもないとしたら、どうやって豊かになったのですか?第二次大戦で負けて、何もないところから始めたので最新の技術が導入しやすかったからですか?」
「それは違うな。どうして他人に工場を壊されることが良いことだと言えるかね。最新の技術が古い技術より優れていれば、自ら古い技術を捨てて新しい技術を導入すればよいだけのことだろう」
「しかしそれにはお金がかかります。古い技術にせっかくつぎ込んだ多くの資産を、無駄にするのはもったいない」
「もったいないだって?そのお金は使ってとうになくなってしまったのだよ、エド。既に使ったお金は返ってこない。古い技術に資金をつぎ込み続けても、過去につぎ込んだ資金は戻ってこないのだ。 『最新技術にかかる費用とそれにより入る収益』、この二つを比較してどちらかを選択するのが筋というものだ。アメリカも日本も新しい技術を導入するのに有利も不利もないのだよ」
「では、日本が成功した秘訣は何だったのですか?」
「産業界と政府との独特のつながりを挙げる人もいた。日本には通産省という行政機関があり、通産省が日本に奇跡を招いたと彼らは言った」
「彼らの説は正しかったのですか?」
「確かに通産省は勝ち組を選んで、政府援助や手助けをした。その一方で負け組も選んだ。ホンダが自動車産業に参入することを拒み、ソニーが電子産業で成功する足を引っ張った。それでもホンダとソニーは成功した。私は通産省が大きな影響を及ぼしたとは思っていない。日本は通産省が存在する以前やその影響のまだ小さかった時代にも、経済的には十分成功していたからね」 T注 ホンダとソニーに関しては「官に逆らった経営者たち」▲を参照)
「それでは日本が成功した秘訣とは一体何なのですか?」
「秘訣など何もないよ。国の富への道は至って簡単。自国の資源を賢く使うこと。私の言う資源とは田畑、石油や鉱物など天然資源だけでなく、ノウハウ、教育、創意工夫、そして人々のやる気も含んでいる。 自国の資源を賢く使うということは、人々に働く意欲を与え、改革や進歩のための動機づけをし、より大きい収益のために積極的にリスクを採らせることを言うのだ」
「日本はそれをどうやって実現したのですか?」
「まず、教育システムを挙げることができる。日本は子供のために厳格な教育システムを全国に築いた。アメリカ人にとっては堅苦しいものだったが、日本ではそれはうまく生かされた」 (「寓話で学ぶ経済学」から)
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<好奇心旺盛な経済学者> 「趣味の経済学」と題されたHPが「民主制度の限界」と題して政治の問題を扱って、進化論やゲームの理論も取り扱ってきた。「経済学者は好奇心と遊び心が必要だ」がTANAKAの考え。そのようなことをジョージ・スティグラーが書いているので、それを引用しよう。
 私がこれまで経済学者たちが侵略した新分野をあげるたびに、政治学であれ、社会学であれ、法学であれ、その分野の専門家たちに経済学者は歓迎されざる客であったと言ってよかった。おそらくそのことは予想されることだろう。これまで親しんできた問題に対する方法を学べとか、新しい言語を学べと命じられて喜ぶ者がいるだろうか。 たいていの経済学者も、少なくとも最初のうちは、乗り気ではなかったことはもっと驚きである。研究分野が広がり、自分たちの仕事に対する需要が増大することは、彼らにとって歓迎すべきことではないだろうか。私は、経済学者にとっても政治学者や社会学者にとってと理由は同じであると思う。 年輩の経済学者も耳慣れない問題、新種のデータ、おなじみのない法律制度や社会制度について研究するよう要請されているのである。すなわち、学者たちはみな少しばかり時代遅れの存在となったのである。研究はその分野の老教授が死ぬことによって進歩するという、マックス・プランクの言葉についてはすでに触れたところである。 (「現代経済学の回想」から)
 こうした経済学者に対する攻撃は厳しく、経済学者は悩んでいる。とバックホルツは言っている。
 経済学者という職業もなかなか難しいものだ。企業経営者たちは経済学者が費用と利益とを少しも正確に計算していないと非難するし、愛他主義者は彼らが費用と利益についてうるさ過ぎると訴える。 政治家にとっても嫌な奴である。ジョージ・バーナードやトーマス・カーライルといったこの世でもっとも辛辣な文章家の中には、これまで時をとらえては経済学者に侮辱的な言葉を浴びせてきた人がいる。事実、かつてカーライルが経済学を「陰鬱な科学」と名付けて以来、経済学者への攻撃はまったく解禁になった。 (「テラスで読む経済学物語」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『経済学で現代社会を読む』            ダグラス・C・ノース他 赤羽隆夫訳 日本経済新聞社 1995. 2.20
『経済科学の根底』            ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 日本経済新聞社 2002. 6.28
『経済学の正しい使用法』──政府は経済に手を出すな ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14
『競争はなぜ必要か』──市場システムの論理                 竹内靖雄 日本経済新聞社 1978. 6.15 
『裸の経済学』──経済学はこんなに面白い     チャールズ・ウィーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社 2003. 4.23 
『はじめての経済学』 下                          伊藤元重 日本経済新聞社 2004. 4.15
『やさしい経済学』                         日本経済新聞社編 日本経済新聞社 2001.11. 1 
『スッキリ!日本経済入門』                        岩田規久男 日本経済新聞社 2003. 1. 6
『寓話で学ぶ経済学』──自由貿易はなぜ必要か    ラッセル・D・ロバーツ 佐々木潤訳 日本経済新聞社 1999. 7.12
『現代経済学の回想』             ジョージ・J・スティグラー 上原一男訳 日本経済新聞社 1990. 9.20 
『テラスで読む経済学物語』             T・G・バックホルツ 上原一男訳 日本経済新聞社 1991. 6.13
( 2004年11月8日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(29)商品価格はどのように決まるのか
<『資本論』の価格の決まり方> 商品価格はどのように決まるのか?普通の経済学では「商品価格は需要と供給とのバランスによって決まる」と言うのだが、マルクス経済学では違う。「商品価格は、それを作るのに費やされた労働の量による」と言うのが「資本論」での価格の決まり方だ。つまり「商品価格は、費やされた労働の量を考慮した原価に、適正な利潤を上乗せしたのもであるべきだ」となる。 そこで、先ず「資本論」ではどのように表現しているのか?ということで「資本論」を少し読んでみよう。「商品価格の決まり方」というところから社会主義の考え方が見えてくる。「資本論では商品価格はこのように決まるべきだ」と主張していることと、普通の経済学では「商品価格は需要と供給のバランスで決まっている」と説明することとの違い、この違いについては、後ほど改めて考えてみることにする。 そして、そのことと「民主制度の限界」についても後ほど書くことにする。
<価値を形成する実体の量は「労働の量」> 資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本的形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。
 商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち受用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。
 このように始まる「資本論」、この少し先の所から引用しよう。
 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んでいないのである。
 そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。 それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産性の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。
 そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のもかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりない人間労働の支出の、ただの凝固物のはかにはなにもない。これらの物が表しているものは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の決勝として、これらのものは価値──商品価値なのである。
 諸商品の交換価値そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとして我々の前に現れた。そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は、商品の価値なのである。 研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れ戻すことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。
 だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか?それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。
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 一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠慢または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ勝ちが大きい、というように思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。 商品世界の諸価値となって現れる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのであるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という正確をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。 社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に性状な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気機関が採用されされてからは、一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前に半分の労働で足りたであろう。イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は、いまでは半分の社会的労働時間を表すにすぎなくなり、したがって、それの以前の勝ちの半分に低落したのである。
 だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」 (「資本論」から)
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<価格の決まり方、いろいろ> 「資本論」は「価格は、それを作るのに費やされた労働の量による」と主張し、これに従って、社会主義国では「商品価格は、費やされた労働の量を考慮した原価に、適正な利潤を上乗せしたのもであるべきだ」を実行しようとした。 そのため政府内に商品価格を決定する部門を設置し、この部門が全商品の全国での価格を決めていた。このため販売現場から消費者の好みなどの情報が、価格決定機関である政府当局までの距離が長くなり、消費者需要に生産および価格がマッチせず、品不足や売れ残りが続出した。また、販売現場では販売ノルマを達成すればそれで十分なので、もっと多く売上げを上げようとのインセンティブが働かず、販売部門での生産性向上が望めなかった。
 こうした社会主義経済に対して、資本主義国ではそれぞれの商品をばらばらに、そして商品の種類によっては地域別に価格を決定している。たとえば生鮮食料、東京都では築地や太田などの市場で、競りで卸売り価格が決まる。卸売り市場は各県に幾つかあり、同じような商品でもそれぞれの市場によって価格が違う。だから、例えば三陸沖でとれた魚を、首都圏へトラックで輸送中に、各地の市場関係者と無線で連絡を取りながら、一番高く売れそうな卸売市場へ輸送する、ということもある。 これは日常生活の生鮮食品。東京穀物商品取引所では,とうもろこし、大豆、コーヒー豆などの取引、オプション取引が行われている。家電製品はメーカーと卸売問屋や量販店との相対取引で卸売り価格が決まり、それぞれの商品の売れ行き次第で小売価格が販売店の裁量で決まる。
 江戸時代、大坂では「堂島の米市場」「雑喉場(ざこば)の鮮魚市場」「天満の青物市場」が三大市場と言われていたし、そのほか「北浜金相場会所」では大坂での通貨=銀と江戸での通貨=金の取引が行われていた。そして、そこでの為替取引の結果を江戸とのやりとりのための為替取引=現代で言えば、コルレス契約が実行されていた。このように、江戸時代の経済は決して中央集権的なものではなく、むしろ当時としては世界的にかなり進んだ市場経済そのものだった。このため「資本主義は江戸で生まれた」との表現も的外れではない。
 さて、こうした市場経済は社会主義経済と幾つかの点で違った特徴がある。その第1点は商品価格の決まり方であり、それを支える制度が「市場での自由な取引」と言える。従って自由貿易こそが市場経済を支える重要な制度ではあるが、その市場経済を信頼せず、社会主義に未練を持つ人たちは自由貿易の象徴であるWTOを批判する。 では、「市場での自由な取引が資源の有効利用に役立つ」とはどのようなことなのだろうか?経済全体をコントロールする司令塔がなくても、各人が自分の利益を追求することによって、「見えざる手」によって経済がうまく回るとはどのような事なのだろうか?そのような「市場経済の基本的な仕組み」をやさしく説明した文章があるので、少し長いのだがここに引用しよう。
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<自発的交換を通じての協同> 『わが輩は鉛筆である』と題する愉快な物語がある。この物語は、自発的な交換のおかげで、何百万人といった人々がどんな具合に相互の協同することができるかを、生き生きと描き出している。物語の作者レオナード・E・リードさんは、「鉛筆──読み書きできる人なら、大人でも男の子でも女の子でも、みんながよく知っている普通の木の鉛筆」の口を借りて、この物語を書きつづっている。 その書き出しが途方もない。物語の冒頭で、鉛筆君は、「私をどうやってこしらえるのか、知っている人は一人もいない」と、われわれにはとても信じられない宣言をする。その上で、1本の鉛筆をこしらえる過程において、次かから次へと発生していくすべてのことを、リードさんは説明している。まず最初に、「カリフォルニア州の北部やオレゴン州に生えている1本の真っすぐなヒマラヤ杉」が、材料の材木となる。 この木を伐採して、鉄道の引き込み線があるところまで材木を運んでいくためには、「のこぎりやトラックやロープや、その他にも数えきれないほど多様な道具や用具」が必要となる。「のこぎりやおのやエンジンをこしらえるためには、鉱石を採掘し、鋼鉄をこしらえ、これらをさらに精錬し精製しなければならない。 重くて強いロープをこしらえるには、麻の繊維をつくり、その他あらゆる必要な過程へと、これを通過させていかなくてはならない。材木切り出し小屋のためベッドも必要になるし、食事場もこしらえなければならない。………それどころか、働いている人々がそこで飲むコーヒーのどの一杯でも、これをこしらえるためには、まったく知られるこのがない何千人もの人々が、いろいろな形で関係しているのだ」とリードさんは説明する。 そのように、材料となる材木の切り出しのためだけでも、実に多くの人々の数えきれないほど多様な技術やウデが、入り込んでくる。
 リードさんはさらに、材木が山から製材所へと運ばれて製材され、さらに産地のカリフォルニア州からこの鉛筆君が製造されたウィルクスバリーへと運搬されていく過程も、説明している。ところでここまでの物語では、まだ鉛筆の外部の木部に関することしか説明してない。では鉛筆の中心部にある鉛芯は、最初から鉛芯だったかといえば、実はまったくそうではない。それはセイロン島で採掘される黒鉛が、そのそもそものはじまりだ。 その黒鉛が数多くの複雑な過程を経たあとで、ようやく鉛筆の中心になる鉛芯となることができる。
 鉛筆の片方のはじっこ近くにある金属部分──金環──は、真鍮だ。リードさんは、「亜鉛や銅を採掘し、またこうして採掘された自然の原材から、ピカピカ光った真鍮板をこしらえる技術やウデをもった人びと。こういったすべての人のことを、まあ考えてもごらんなさい」と言う。
 消しゴムとして知られている部分は、この業界では「プラグ(詰め物)」と、通常呼ばれている。この消しゴムを、普通の人はゴムそのものだと思いこんでしまっている。ところがリードさんによると、ゴムは、消しゴムのいろいろな成分を凝固させ弾性あるものとするためだけのものでしかない。消しゴムで「消す」ことができるのは、旧蘭領インド(現インドネシア)から来た菜種油を塩化硫黄と作用させ、それでできるゴム様生成物「ファクティス」のおかげだというのだ。
 こういった説明がいろいろとされた最後に、鉛筆君は改めてこう宣言する。「どうです、みなさん。これでも、この私をどうやってこしらえるかを知っている人はこの地球上に一人もいないという、私の主張にまだ挑戦してみたいと思う人が一人でもいらっしゃいますか」と。
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 鉛筆を生産する過程に加わった何千人もの人びとの、どの一人をとってみても、その人がその人の分担分の仕事をしたのは、鉛筆が欲しかったからでは決してない。その何千人もの人のなかのある人びとは、この世でそもそも鉛筆なるものを見たこともなければ、鉛筆がいったい何のためのものかさえ知らないかもしれない。 たとえそうではなくても、何千人ものひとびとが鉛筆生産のため、それぞれなりの仕事をしたのは、それぞれなりに欲しいと思った財貨やサービスを手に入れるための手段のひとつだったのだ。彼らが欲しいと思った財やサービスは、鉛筆を欲しいと思い、鉛筆を手に入れるためのおカネを稼ぎ出そうとして、われわれが生産したり提供したりしている可能性が大きい。 われわれがお店へ行って鉛筆を買うときには、いつもわれわれは何千人もの人びとが鉛筆生産のため寄与したサービスの極小部分と、われわれ自身が提供したサービスの小部分とを交換しているということだ。
 それにしても、もっと驚くべきことは、そもそも鉛筆なるものが、チャンと生産されているという、この事実そのものだ。鉛筆の生産に関係したあの何千人もの人びとに対して、誰かが中央集権的な本部にいて、いっせいに命令を下しているというわけでは決してない。このように、そもそも命令が下されていないのだから、命令が貫徹されるよう強権をふるっている憲兵が、一人でもいるわけがない。しかも、あの何千人もの人びとは、あちらこちらの諸国に住んでいて、異なった言語をしゃべり、いろいろな違った宗教を信仰しているだけでなく、ひょっとするとお互いに憎悪しあっている可能性さえある。 そうだというのに、このような相互間の相違は、鉛筆を生産するためお互いが協同するのに、なんの障害にもなっていない。どうして、こんなことが可能なのだろうか。この疑問に対して、アダム・スミスが200年も前に、答えを与えてくれている。
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<価格機構が果たす役割> アダム・スミスが『諸国民の富』と題する著作で示したすばらしい洞察のなかでも、もっとも大事だと思われるものの一つは、実はきわめて簡単なことだ(実のところ、あまり簡単なことなので、かえって逆に人びとに誤った理解をもたせてしまうこともある)。それは、2人の人や2つのグループの間で行われる交換が、当事者たちの自発的な意志にもとづくものである限り、その交換によって利益を得ることができると、どちらの側も信じているのでなければ、交換が実際に行われることはない、ということだ。
 経済学上の誤った考えの大半は、この簡単な洞察をおろそかにして、この世の中につねにある一定の大きさのパイ(洋菓子)しかないと考え、したがって誰かが利益を得るためには、必ず誰かがその犠牲にならなくてはならないと想像してしまう傾向から発生している。
 スミスの簡単な洞察がどんなに正しいかは、問題が2人の個人の間のことであれば、誰でも明らかなことだろう。ところが世界のすべての場所に住んでいる、無数といっていいほど多くの人びとが、それぞれなりの利益を促進するために相互に協力できるようにするには、いったいどうしたらいいかということになると、問題ははるかにもっと難しくなる。
 世界の人びとが、どんなに中央集権的な命令も必要としなければ、お互いに話し合ったりお互いを好きになったりすることさえも必要とせず、しかもお互いが協力しながら、それぞれなりの利益を促進できるようにするという仕事を、われわれのためにやってくれるのが「価格機構」だ。たとえばあなたが鉛筆や毎日のカテであるパンを買うときに、その鉛筆やパンの原料である小麦粉が、白人か黒人か、それとも中国人かインド人か、いったい誰によって生産されたかは、あなたにはまったくわからない。そのように価格機構は、他の側面ではそれぞれなりに自分で考えたやり方で活動している多数の人びとが、その生活のある一局面では平和に相互に協力しあうようにしてくれている。
 アダム・スミスが天才としてのヒラメキを見せたのは、売り手と買い手との間における自発的な交換(これを簡単に言えば「自由市場」)から発生してくるいろいろな(相対)価格が、それぞれなりに自分の利益を追い求めている何百万人もの人びとの活動を相互にうまく調整し、その結果、すべての人の生活が以前よりはよくなるようにしてくれるのだと、気が付いた点だ。「それぞれなりに自分自身の利益しか追求しておらず、経済秩序を生み出そうなどとはまったく意図していないというのに、これらの多数の人びとの活動は、結果的にそのような秩序を発生させることができるのだ」という考えは、アダム・スミスの時代において一つの驚くべき考えだったが、今日においてさえ依然としてそうだ。
 価格体系は、あまりにもうまく、あまりにも効率よく作用するので、ほとんどの場合、われわれはその存在に気が付かないでいる。価格体系が機能できないように、なんらかの要因によって阻害されるまでは、これがどんなにうまく機能しているかを、われわれが認識することはまったくないし、また、阻害されてようやくこれに気が付いたときでも、ではそこで発生した困難の源泉がなんであるかを認識できることはほとんどない。
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<情報の伝達とという機能>  いま、たとえば数年前のベビー・ブームのため、小学校進学児童の数が急増した、といったような、なんらかの原因によって、とにかく鉛筆に対する需要が急に増えた、と想像してみよう。小売店は鉛筆が急によく売れはじめたと気づくだろう。そこで問屋にもっと鉛筆を注文する。問屋は問屋で鉛筆製造会社への発注を増大させる。鉛筆製造会社はその結果、原料となる木材とか真鍮とか黒鉛とか、鉛筆の製造に必要な物品を、もっと注文するようになる。こういった材料や物品を、供給者たちにもっと生産させるようにするためには、これらに対して以前よりもっと高い値段を提示しなければならないだろう。 その結果、値段が高くなれば、これらの供給者たちは増大した需要に見合って増産できるように、その労働力を増大させるだろう。しかし、急に労働者をもっと雇いこむためには、以前より高い賃金か、よりよい労働条件を提供しなければならないだろう。このようにして、小学校進学児童数の急増ということから始まった波紋は、次第にその輪を大きくしながら、遠くへ遠くへと広がっていき、ついには世界中の人びとに対してさえ、「鉛筆」に対する需要が増大したという情報を、次から次へ伝えていく。 ここで「鉛筆」に対する需要増と言ったが、もっと正確に言えば、やがては鉛筆の製造のために使用されるが、鉛筆それ自体ではなくて、これに関連する何らかの原料や物品などに対する需要が増大したという情報のことだ。しかも、では、それらの原料や物品に対する需要がどうして増大したのかという理由は、それらの生産に従事している人びとは知らないかもしれないし、実は知る必要もない。
 価格機構は重要な情報だけを、しかもその情報を知らなくてはならない人びとに対してだけ伝達する。たとえば木材の生産者たちは、鉛筆に対する需要の増加が、ベビー・ブームを原因としたものか、あるいは、1万4千種類にものぼる政府所定の書式用紙に、もう鉛筆でしか書き込んではいけないと、急に決定されてしまったことを原因としたものか、そんなこと知る必要はない。それどころか、そもそも鉛筆に対する需要が急増したということさえ、知る必要がない。彼らのとっては、いまや誰かが木材に対して、以前より高い値段を支払ってくれるということと、需要の急増に見合うところまで木材の生産を増大させる価値があるほど、この高い値段が長続きするものかどうか、ということだけを知ることができればいいのだ。 ところが、このふたつの種類の情報は市場価格によって提供されている。第一の情報は現在の価値によって、第二の情報は将来の引き渡しに対して提示されている価格によって、だ。
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 情報を効率よく伝達する際の主要な問題は、この情報を必要としない人びとの受領箱へ迷い込んでしまって、そこで停滞してしまうことなしに、これを必要としている人びとへは必ず順調に伝わっていくようにするためには、一体どうしたらいいか、ということだ。ところが、価格体系はこの問題を自動的に解決してしまう。情報を発信する人びとは、この情報を必要とする人びとを、自分で探し出そうとする誘因を持っているし、また、実際にもそうできる立場にいる。 これに対して、情報を必要としている人びとも、これを手に入れようとする誘因を持っており、これも実際にそうできる立場に立っている。たとえば鉛筆の製造業者は、原料である木材の販売者たちと接触を保っている。それどころか、同じ値段でならより良い材質の木材を、同じ材質ならより低い値段を提供してくれる供給者が他にいないものかと、つねに捜し求めているものだ。これと同様に、木材の生産者は木材を買ってくれる顧客と接触を保っており、また、新しい顧客を絶えず発見しようと努力している。 ところが、他方で、現在のところこういった活動に従事していないだけでなく、将来においてもこれに従事しようとは考えていない人びとは、木材の値段には興味を持っていないし、これを無視してしまう。(中略)
 価格機構は、最終需要者(つまり一般の消費者)から、小売業者へ、卸売業者へ、製造会社へ、そして原料の生産者へといった方向へ向けてだけ、情報を伝達しているわけでなく、逆の方向へも伝達する。かりに、山火事やストライキのため、入手可能な木材の量が減少したとしてみよう。木材の価格は上昇するだろう。 このことから、以前よりは少なく木材を使用したほうが利益が上がり、鉛筆の値段が上昇しない限り、以前と同じ量だけ鉛筆を生産したら損をするということを、鉛筆の製造会社は知ることができる。こうして、実際に鉛筆の生産が削減されれば、小売店は鉛筆の値上げが可能となる。その時には、鉛筆は以前よりはもっと短くなるまで使ってから捨てた方がいいとか、あるいはシャープ・ペンシルへ替えたほうがいいと、消費者はさとるようになるだろう。しかし、そのために、鉛筆の価格を上昇させた原因が何であったかを知る必要はなく、鉛筆の価格が上昇したということさえ分かればいい。 (「選択の自由」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『資本論』                       カール・マルクス 岡崎次郎訳 大月書店    1972. 3.10
『資本主義は江戸で生まれた』                        鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1 
『選択の自由』                  ミルトン・フリードマン 西山千明訳 日本経済新聞社 1980. 5.26
( 2004年11月15日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(30)「べき」と「である」の思考傾向
<市場経済は自生的秩序> 資本論で「商品価格はこのように決まるべきだ」と主張していることと、普通の経済学で「商品価格は需要と供給のバランスで決まっている」と説明することとの違い、 この違いが社会主義経済と市場経済の大きな違いになる。そしてそれが民主制度と他の制度との違いにもなる。 経済学者は、「市場には見えざる手に導かれた秩序がある」と考え、その秩序を発見しようとする。つまり、「市場の秩序はどうなっているのか?」を問題にする。それに対して社会主義では「市場はどうあるべきか?」を問題にする。そして、あるべき状態にするために、どのような政策をとるべきか?を議論する。 そこには、政府の政策次第で市場の秩序・状態を思い通りに変えられる、との思い上がりがある。 こうした点が経済学とマルクス主義との違いになる。
 経済学では市場をどのように捉えているのか?ハイエクの見方を通して市場の特性を説明している文章があるので、その一部を引用しよう。
 ハイエクによれば、市場経済は自生的秩序 (apontaneous order) の一つである。「自生」という言葉は、誰かが意図や計画したわけではないのに、プリミティブな種が枝分かれしながら成長して、最初には思いもかけなかったような壮大で複雑な機能を有する自律的存在に発展するという事態を表現するのに適した表現である。 原始的な交易から始まった市場経済はそのとおりのものである。秩序という言葉も、市場経済が無秩序なものとして見下され社会主義が称賛されたハイエクの生きた時代には、市場経済の持つ法則性を公衆に印象づけるために適した表現であったろう。しかしながら、ハイエクが意図して避けた表現ではないかと思われる。古い用語の自然状態という言葉で市場経済を私はあえて表現したい。
 自然状態という言葉は、ハイエクが批判し続けたT・ホッブズの社会観との関連で有名である。自然というもは人為(政府)によって意図的に人間社会に秩序が敷かれていない状態を意味する。常識的には、また第一直感では、第1章で引用したホッブズの有名な叙述のように、自然状態は人間の人間に対する闘争が間断なく続く、人間が極端に悲惨な生活を送らざるをえない、無秩序・混迷といった言葉で適切に特徴づけられる世界のように思われる。 だから、ハイエクは自然状態という言葉を避けたのではないかと思われる。それにもかかわらず市場経済が自然状態であると表現すべきと思うのは、ハイエクや市場経済の理論の創設者と普通されるアダム・スミスも考えていたように自然状態は無秩序ではなく、市場によって秩序づけられているという、常識的な第一直感には反する。第1章第1節ですでに述べた逆説的な事実を強調すべきであると思うからである。つまり、
特性1:市場経済は自然状態である。自然状態は無秩序ではなく、そこには市場による秩序付けが存在する。
 日本的市場主義者のなかには白紙の上に絵を描くように経済社会を構想したいという人がいるが、社会経済に白紙の状態はないというのが特性1の含意である。 (「現代日本の市場主義と設計主義」から)
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<主義とは反証可能なものなのか?> このシリーズ28でも書いたように、エコノミストは次のように考えている。「エコノミストは、人々にこうすべきだと告げることはできない。しかし、民主社会における市民がより良い政策選択をなしうるよう、さまざまな代替案(選択肢)を課し、その結果どれぐらいの便益をもたらすかという点を明らかにすることはできる」 (「経済学で現代社会を読む」から)。
 科学的であろうとするエコノミストは市場の秩序がどうなっているのか、事実を調べ、反証可能な仮説を立てようとする。マルクス主義者は白紙の上に絵を描くように、思い通りの市場秩序を創り上げようとする。その主張は、反証可能なものではなく、そのためマルク種主義者は、時には宗教のような原理主義者に思えることもある。 「現代日本の市場主義と設計主義」の著者は、日本のエコノミスト数人を名指しで「日本的市場主義者」と呼び、「市場主義者と言われているが、市場の秩序を思い通りに変えられると考えている」と批判する。
 「商品価格は市場での需要と供給との関係で決まる」ということは例を挙げて説明することも、そうならない例を探し出して来て反証することも可能だ。しかし「商品価格は、費やされた労働の量を考慮した原価に、適正な利潤を上乗せしたのもであるべきだ」との主張は反証可能なものではない。 反証可能なものではないから、ソ連、東欧の経済が破綻しても隠れコミュニストとして生き続ける。そして十分な総括がされないために、「市場の秩序が思い通りに変えられる」との考えが、マルキスト以外にも浸透している。そうした「市場の秩序が思い通りに変えられる」との考えを、「設計主義」と呼び「市場主義」と区別する。
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<市場はどちらに向かうのか?> 市場経済が自生的秩序ならば、進化するに従ってどちらの方向に進むのか分からない。そのことについては次のように考えられる。
 人間が意図的に作った組織・社会(人工社会)には、当然その作られた目的がある。たとえば、企業は利潤を獲得することを目的としている。一方、誰かが意図して作ったのではない、自然にできあがった秩序(自然社会)である市場経済には、意図された目的はない。
 市場経済が誰も意図しなかった機能を果たすことはありうる。第1章で述べたように、誰かが作成したものでない市場が、構成員の誰も意図しないような目的に資する。これが、アダム・スミスでは比喩的に(Hyek,"Law Legistration and Liberty" 1973.P.9 の表現を使えば anthropomorphic に)市場経済の説明に神という概念が引き合いに出される理由である。
 エコロジーとの類比は特性3についても成り立つ。人間が目的をもって作った田・畑・花壇等々とは違って、エコロジー秩序も何ら意図的に与えられた目的は存在しない。 (「現代日本の市場主義と設計主義」から)
 市場とは昔から自然に成立していた、と考えるとこのような結論になる。著者は市場をエコロジーに例えている。TANAKAはこのシリーズで度々引用しているのが、生物学・進化論だ。進化とは、環境の変化に対応して生物が変化していくことで、それ以外の目的はない。もっとも進化とは、必ずしも「進歩」とは言えないこともある。 深海魚は目が退化しているし、現代人のホモ・サピエンスはアウストラロピテクス・アファレンシスのルーシーやミトコンドリア・イブ、あるいは今は亡きネアンデルタール人よりも運動能力は退化しているに違いない。
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<民主制度はどちらに向かうのか?> 市場が「市場経済は自生的秩序の一つである」と理解できると、「民主制度は自生的秩序の一つである」ということも理解出来る。 市場経済は、その仕組みやルールは理解出来るが、その向かう方向を断言することはできない。株価の予想は外れることが多いし、好不況も完全にはコントロールできない。民主制度もその仕組みやそのルールは理解出来るが、誰がアメリカ大統領に当選するかは断言できない。エコロジーとか進化論と違って人間が参加し、一人ひとりが自分の考えで行動しているにも関わらず、全体としてどちらに向かうかは断言できない。 従って、誰かが向かう方向をコントロールすることはできないし、官僚や大臣や大金持ちの資本家が望んでも民意に反した方向へ市場を持っていくことは出来ないし、民意に反した政策を実行することはできない。 このため「人にコントロールすることの出来ない市場が暴走する」と市場経済を非難する人もいる。 この場合「民主制度」と考えるから言えるのであって、「民主主義」と訳すと変わってくる。「民主制度」は「市場経済」と同じように「自生的秩序の一つ」であるが、「民主主義」は「資本論」で示されたような「べきである」という目的を持った主義になる。 「デモクラシー」を目的を持った主義と捉えるか、「目的を持たない、自生的秩序の一つ」と捉えるかで、考え方は違ってくる。TANAKAはデモクラシーを「民主主義」ではなく「民主制度」と捉え、「目的を持たない、自生的秩序の一つ」と考えるのがいいと思う。
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<鉛筆の作り方を知っている人はいない> 鉛筆君は、「私をどうやってこしらえるのか、知っている人は一人もいない」と、われわれにはとても信じられない宣言をする。そして、たとえば数年前のベビー・ブームのため、小学校進学児童の数が急増した、といったような、なんらかの原因によって、とにかく鉛筆に対する需要が急に増えた、と想像してみよう。鉛筆に対する需要が急増すれば、ランドセルや通学カバン、ノート、靴などの需要も急増する。 市場に頼らずにこれらの供給を満たすにはどうしたらいいだろうか?かつてハイエクとミュルダール(Gunnar Myrdal)が論争して、こうした需要に対する供給体制は政府には出来ない、とのハイエクの主張に対して、ミュルダールは可能だと主張した。 そうした論争に対して、1974には2人に対してノーベル経済学賞が贈られた。しかし、今では政府にそのような計画を立てて実行するのは不可能だ、ということは常識になっている。
 しかしこうした問題に対して政府は予測し、対策を立てるべきで、政府にはそれが可能だ、との主張は多い。かと言って「政府には何も出来ない」と合理的期待形成のように言うと、「政府には景気対策もなにも出来ないのか?」との論争になるので、ここではこれ以上突っ込まないことにしよう。
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<日本の不況は市場が望んだからかも?> 長引く不況に対して多くの分析・対策が提案されている。それらの多くは「政府の政策次第で景気が回復する」「それをやらない政府は怠慢だ」というものだ。それは「政府は景気を左右できる」との考えからで、合理的期待形成とは違うし、「市場の自生的秩序」を重視しない見方だ。 「改革なくして成長なし」とのスローガンも「改革すれば成長する。だから小泉内閣は改革を押し進めるのだ」ということで、景気に対する政府の影響力の大きいことを前提としている。では改革を進めると本当に成長するのだろうか?市場のメカニズムがもっと有効に働くと経済は成長するのだろうか? 答えは「必ずしも成長するとは限らない」だろう。と言っても「規制緩和は経済成長に効果がない」と言って、規制緩和反対を唱えるのではない。
 市場のメカニズムが十分に発揮されると、資源の有効利用に役立つ。そして、人々の利益を増大する方向へ向かう。では人々の望む利益とはどのようなことだろうか?すぐ出てくる答えは「豊かな社会」だろう。それを実現するには高い経済成長が必要だ。しかし、もしそれとは違ったことを望んでいたら? 例えば「日本は戦後高い経済成長を遂げて豊かになった。これからは物質的な豊かさではなくて、精神的な豊かさ、つまり余裕ある生活実現を目標にすべきだ」と多くの人が考えたとしたらどうなるか?「収入は多くならなくてもいいから、働く時間を少なくしよう」がスローガンになったら、経済は停滞するだろう。 市場主義に徹すると、このような見方もできる。
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<設計主義の犯した罪> 市場経済が自生的秩序を保っているように、民主制度も自生的秩序を保っている。デモクラシーを民主主義と訳すと違ってくる。崇高な目標に向かって進むイデオロギーとなる。この場合は自生的秩序という概念はない。社会は思い通りに設計し、作り替えることができる、と考えることになる。 これを設計主義と呼ぶならば、社会主義は設計主義と言うことになる。設計主義はあるイデオロギー、権力集団が一般人や市場を無視して都合のいいように作り替えようとする。その悲惨な結果は旧ソ連や東欧諸国の破綻をみれば明らかな事だとわかる。 すべての国民ができるだけ平等な機会を得るべきだという考え方で、社会主義という制度を取り入れた国がどのようなことになったのか、「はじめての経済学」から引用しよう。
 社会主義の考え方は、本来は弱者にも配慮したものであったはずです。富や所得が一部の特権階級に集中することを排除し、すべての国民ができるだけ平等な機会を得るべきだという考え方です。しかし、現実に社会主義を導入した多くの国では、弱い国民を迫害するような結果になりました。 現在の北朝鮮の飢餓の現状を見れば現実の社会主義がいかに矛盾に満ちたものであるかわかると思いますが、かつてのソビエト連邦や中華人民共和国でも多くの国民の命が経済体制の問題点の犠牲になりました。文化大革命の中国で多くの知識人が迫害にあったこと、そして経済運営の失敗から多くの中国人の命が犠牲になったことはいろいろな形で報告されています。 ある調査によれば、社会主義体制の下で犠牲になったソ連国民の数は、第二次世界大戦によって亡くなったソ連国民よりもはるかに多い数になるということです。 (「はじめての経済学(上)から)
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<民主制度と他の制度との違い> かつて多くの政治制度が試みられてきたし、提案されてきた。それらを列挙してみよう。王様や皇帝や貴族など支配者が世襲制である社会、歯医者が虫歯を治療するように経済の病根を治療できると専門家に期待する社会、プロレタリア独裁という名の官僚政治、法律ではなく大衆の感情で裁く文革時代の人民裁判、議会の決定よりも市民運動の主張を重視する直接民主主義、管理責任者不在のアナルコサンディカリズム、 マネーゲームを極端に規制する国家社会主義、国家が公定価格を定めても実際はヤミ価格が横行する統制経済、ネズミを捕るのが白い猫か黒い猫かが問題なのであって国家イデオロギーを守るためには国民に餓死者が出てもかまわない社会、先に豊かになれる者から豊かになるのではなく国民すべてが平等に貧乏になる結果平等主義、話せば分かる善意の人たちばかりの社会と思い込んでいる空想平和主義、汗水流して働くよりも社会保障や他人の博愛心に頼った方が楽だと考える人が多くなる福祉国家…………
 「日本版財政赤字の政治経済学」ではつぎのように書いた。「民主制度は、自己責任こそが最も尊重されるという点でどの制度よりも優れている。市場経済と民主制度を育てるために多少のムダは我慢するとしよう。これは「衣食足りて礼節を知る」人々の社会にこそ適した、けっこうコストのかかる贅沢な制度のようだからだ」
 民主制度はコストもかかるし、欠点だらけの制度だ。しかしこれに勝る制度は現在のところ提案されてはいない。
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<主な参考文献・引用文献>
『現代日本の市場主義と設計主義』                       小谷清 日本評論社   2004. 5.20 
『経済学で現代社会を読む』            ダグラス・C・ノース他 赤羽隆夫訳 日本経済新聞社 1995. 2.20
『はじめての経済学』 上                          伊藤元重 日本経済新聞社 2004. 4.15
( 2004年11月22日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(31)民主制度の手直し案は?
<「デモクラシー」は「民主制度」と訳すべきだ> このホームページではチャーチルとハイエクの言葉を巻頭に引用している。どちらも「デモクラシー」との言葉を使っている。これを日本語に訳すとどうなるか? 「民主制度」と訳して使っているのだが、これを「民主主義」と訳すと、このHPの内容のピントがずれてくる。 「市場経済は自生的秩序を保っている」を理解すると「民主制度も自生的秩序を保っている」が理解できる。しかしデモクラシーを「民主主義」と訳すと、様子が違ってくる。「民主主義は自生的秩序を保っている」と言うと反論が出そうだ。 日本語で「民主主義」と訳すと、「民主主義とは民意が政治に反映される仕組みだ」「国民一人一人を幸せに出来るシステムだ」「直接民主主義でない限り、本当の民主主義ではない」「日本では民主主義が機能していない」「アメリカは自国の民主主義を他国に押しつけようとしている」などのように「民主主義」という言葉が使われる。 これらは「民主主義は理想の社会制度で、この理想に近づけるために政府も国民も努力しなければならない」のように、「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義」と捉える傾向になる。 同じようなことでも、ちょっとした言葉の違いで扱い方が違ってくる。例えば「生物学」。「自然環境」とか「絶滅しそうな生物の保護」をテーマにすると、「政府は対策をとるべきだ」「一般市民は関心を持つべきだ」「捕鯨は禁止すべきだ」といった「べき論」になる。 同じ「生物学」でも「進化論」では違う。「動植物はどのように進化したか?」「ルーシーやミトコンドリア・イブはどのような道具を使って、どのような生活をしていたのか?」「恐竜はなぜ滅んだのか?」など、反証可能な仮説を提示することになる。ここでは「である論」になる。
 「民主主義」と訳すと、「現在は理想の民主主義とは違っている、直さなければならない」との主張がもっともらしく聞こえてくる。ではどう手直ししたら「熱狂的な崇拝の対象なるような完全無欠な主義」に近づくのだろうか?「日本の民主主義は行きづまっている」と主張する人たちは「直接民主主義」とか「首相公選制」を主張する。そこでこうした主張にも少し触れてみよう。
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<直接民主主義はどうだ?> 思想・言論・出版・結社の自由、三権分立、代議員制、多数決、こうしたことを基本にした民主制度、これに代わるより良い政治制度は提案されていない。 多くの欠点がありながらも、これに優る制度がない以上、とりあえず民主制度を信頼するしかない。それでも「すべての人が不満を持ちながらも、この程度なら諦めるか」との妥協点を見つける民主制度では、必ず不満を言う人が出てくるのはしようがない。 そうした不満を持つ人が主張する一つが「直接民主制度」。つまり「重要法案は国民投票にかけろ」との主張だ。「それによって有権者の意思がより公平に反映される」との考えと思われる。はたしてそうだろうか?例えば、「予算案は国民投票によって成立する」とか「自衛隊の海外派兵に関しては、国民投票を要する」とすると、より有権者の意見が反映される、と言えるのだろうか?
 そうではなさそうだ。国会議員を選ぶ選挙の投票率が低い。予算案の信任投票や自衛隊の海外派兵に対する信任投票だったら、もっともっと低い投票率になるだろう。自制的秩序は正確には予測できない。法案が信任されるかどうか、必ず事前に予想出来るとは言えないが、不安な場合は提案者は国民投票にはかけないだろう。政府案が国民投票で信任されなければ総辞職しなければならない。 そうした大きな賭けは避けるに違いない。もっとも現在の日本では国民投票にかけるような、かつての60年安保や日韓条約のような国論を真っ二つにするような重要案件は考えられない。ではなぜこのような「直接民主制度」が主張されるのだろうか?国会審議で十分ではないか。屋上屋を重ねるような制度がなぜ必要なのか?
 こういうことなのだろうと思う。「政府はこんなに無茶な法案を提出した。それに対して野党は十分な抵抗を示さない。だらしない。国民投票にかけて、いかに政府に対する不信感が強いかを示すべきだ」と一部の人は思っているに違いない。ところがこれは、ごく一部の人なのであって、もし多数ならば野党も十分な抵抗を示す。つまり「自分は正しい。しかし政府はもちろん、野党さえも理解していない」と思っている人が、せめて国民投票にかすかな望みを託して、直接民主主義を主張するのだと思う。 つまり、その人たちの意見は一般には見向きもされない少数意見で、「自分は正しい判断をしているが、ほとんどの国民はマスコミなどに惑わされている」と思い上がった人か、もしかしたら「とてつもない天才」なのだろう。
普天間基地移転先を国民投票にかけたら?
もう少し具体的な問題を考えてみよう。例えば「沖縄県宜野湾市にある普天間飛行場の施設を、神奈川県座間市に移転する」との提案がなされたとしよう。これを国民投票にかけるとどうなるだろうか?TANAKAは圧倒的多数の賛成で可決されると思う。沖縄県の有権者は全員賛成。神奈川県の座間市では反対。でも横浜市や横須賀市あるいは小田原市もあまり影響がないので、賛否両論。 三沢、岩国、佐世保など候補地として名の上がっていた所では「座間市に決まればこちらに来る恐れはない。早く決めてもらおう」と賛成票を入れる。その他の地方では極端に投票率が低くなる。 こうして嫌なことを座間市に押しつけることになる。皆でスケープゴート(生け贄)を決めることだ。バトルロイヤルとも言える。 座間市の有権者はどうしたらいいのか?地元出身の国会議員に言っても、政府・所轄官庁に行っても「日本国民が決めたことです。当方では如何ともしがたいことなのです」とけんもほろろ。不満の持って行き所がない。
成田空港建設を国民投票にかけたら?
2004年4月1日、成田国際空港株式会社法が成立・施行され、空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社(Narita International Airport Corpration)と名称を変え民営化(特殊会社化)され、これに合わせて、空港の名称もそれまでの「新東京国際空港」から、一般的に呼ばれていた「成田国際空港」に改称された。この成田国際空港、これに反対する「三里塚闘争」は終わっていない。 首都圏の空港は羽田がこれ以上拡張するには手狭なので、政府は新しい空港候補地を捜していた。当初、現在の成田空港より南の富塚が候補としてあがっていたが、地元の反対運動が2年間も続き、この案は潰れる。 そこで茨城県の霞ヶ浦を埋め立てて、ここに空港を作ろうとの案が出たが、これも漁民、農民の反対のために潰れる。このように幾つか出る案はすべて地元の反対のために潰れる。 そうこうしている内に、佐藤内閣の1966年6月、新しい空港予定地を三里塚に閣議決定してしまった。このため反対運動が起き、その経過は多くの資料を見る通り。
 ところで、この成田空港、閣議決定ではなくて国民投票にしたらどうなっていただろうか?「新しい国際空港を成田につくる。賛成・反対を問う」として国民投票にかけたらどうなるか?普天間飛行場の場合と同じ、賛成多数で決まるだろう。 反対闘争は誰に対して行うのか?決めたのは日本の有権者、目標には定めにくい。この場合後ろを向いて、ペロッと舌を出して笑う者がいる。担当する役人、議員、政府関係者だ。「これで反対運動を気にしなくて、計画がどんどん進められる」と喜ぶ。 国民が直接民主主義との名目でスケープゴート(生け贄)をつくり、有権者のバトルロイヤルが始まり、「万人の万人に対する闘争」が始まる。政策実行者は遠くからこれを眺めて、ほくそ笑んでいる。直接民主主義は、「一般国民に利益があるのではなく、政権担当者にこそメリットのある」制度として機能する。 直接民主主義とはこのような怖ろしい制度になるかも知れない(所得問題に関しては多数決による所得再分配▲を参照のこと)。TANAKAは直接民主主義に反対です。
ゴミ焼却場建設地を住民投票にかけたら?
「一般生活から出るゴミは、各自治体で処理すること」に反対はできない。では自治体はゴミ焼却場を何処に作るか?どのように候補地を決定するのか? 各地で担当部署の地方公務員は悩む。そこで担当者へのプレゼント。直接民主主義で決めることだ。例えば東京都渋谷区、「渋谷区東1-35-1 、東急東横線とJR山手線に3方を囲まれた場所に、渋谷清掃工場を建設する案件」に対し、渋谷区民にその賛否を問う、と提案する。渋谷区民の住民投票を行えば、間違いなく可決され、スムーズに焼却場が建設される。 この件は、一時反対運動があって、NHKテレビでその反対運動が大きく取り上げられていたが、2002年8月1日、本稼働となった。
 地元住民がイヤがるような施設の建設、道路拡張、日照権を侵すかも知れない高層ビルの建設など、デウス・エクス・マキナ(Deus ex Machina)ではないにしても、行政側にとって「住民投票」は伝家の宝刀となる。もしも行政側に対する市民側の発言力強化を望むならば、ハートだけでなく、頭も必要になる。
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<首相公選制はどうだ?> 政権党6割、野党4割の議席数の場合、首相は政権党から選出される。ではその人物は政権党で絶対的な支持率なのだろうか?多くの場合いくつかある派閥の代表同士の選挙になり、党内で6割の支持があれば当選する。 ということは、全国会議員の36%の支持で当選したことになる。つまり不支持率64%、支持する議員よりも支持しない議員の方が多いということだ。
 正式に選ばれた首相であっても、「別の人間が首相になった方がいい」と思っている有権者がいっぱいいる。とすれば「別の方法で選べば、別の人間が首相になるかも知れない」と、淡い期待をもって「首相公選制」を主張しているのだ、と考えられる。
 もし首相公選制が実施されたら、どのような過程でどのような人が首相になるだろうか?立候補者は自民党の総裁と民主党の代表になるだろう。アメリカのようたっぷり選挙運動に時間をかけるとしたら、選挙運動費用がイッパイかかり金権政治家が立候補者なる。それはマズイと、選挙資金が少なくても立候補出来るようにすれば、 「これはいいチャンス」とばかり、泡沫候補が立候補する。勝手連が活動しても地方選挙ではないので、勝てる見込みはない。
 現在の政治情勢から見れば。自民党の総裁が立候補し、当選するだろう。これは誰も疑わない。選挙をやる前から結果が分かっていたら、投票に行く意味があまりない。と言って投票率がうんと低くなって民主党の代表が当選してしまう、なんてこともないだろう。自民党の立候補者を国民が選ぶとしたら?これまたおかしな事だ。 自民党員でもなく、自民党を支持しない人が自民党の立候補者を選ぶなんておかしな事だ。結局、今と同じような経過で自民党の立候補者が決まる。
 これは現在の与野党の勢力分布からの分析。では与野党の勢力が拮抗して、政権交代が起きそうな情勢になったらどうだ?これを望んでいる人は多いかもしれない。 総選挙では自民党が勝った。しかし民主党の代表に個人的魅力をもった人がなった。このため首相公選で民主党の代表が当選した。首相は民主党、議会は自民党多数。政情不安定。マスコミ、評論家は発言する機会が多くなり、少し無責任な事を言っても許される情勢になり、大喜びだ。 ちょうどフランスで過去4回あった「コアビタシオン」と同じ政治状況になる。このように考えると、与野党拮抗した場合の首相公選は日本の政治がダッチロールを始めることになり、あまり喜ばしいことではない。
 首相公選制も直接民主主義と同じように、現在の制度を改善するものとはならない。多くの人が「この程度なら諦めよう」と妥協したことに満足できない一部の少数派が、かすかな望みを託す制度のようだ。
首相は国家の象徴か?
日本とイギリスは多数党の党首が議会で首相に選出される。これに対してアメリカとフランスは大統領を国民が選挙で選出する。日本は天皇が国の象徴としての国事行為を行う。外国との皇室外交は重要な仕事と言える。アメリカとフランスは皇室がないので、こうした国事行為を大統領が行う。皇室外交をやらなくていい、首相は政治家・実務家でいいが、大統領はそれに加えて国家の象徴としての国事行為を行う。 国家の象徴としての行為と政治の実務家としての仕事と、この2つを皇室と首相に分けているのが日本とイギリス。この2つの仕事を一人の大統領がこなすのがアメリカとフランス。 当然選ぶときにこうしたことがを頭に置いて選ぶ。つまり首相は政治の実務家、大統領はこれに加えて国家の象徴としてのイメージに合うかどうか?が選択の基準になる。大統領選挙は一種の「人気投票」でもある。国家の象徴である以上、イメージの良さ、見た目の良さも選択の基準になる。
 ところで「首相公選」とは、首相を国民が選ぶのだから、実務家としての力量だけでなく、見た目の良さ、イメージの良さも投票の参考にするだろう。しかし国家の象徴としての国事行為は皇族が行う。日本の首相はアメリカやフランスの大統領とは違って政治の実務家であればいいのだが、公選制にすると象徴としての適正も判断の基準になってしまう。
 こうしたことを考えると、首相公選制と天皇制破棄、大統領制と皇族なし、皇族が象徴としていて首相は議会で選出、こうした組合せが自然で相性がいい。従って、天皇制をそのまま維持する以上首相は現在のような議会での選出がいい。「首相公選」を唱えるなら、「天皇制破棄」まで考えて主張すべきだ。
日本を会員制の国家クラブと考えると
「日本民族」「大和民族」などと民族を中心に考えるとこうした発想は生まれないが、ちょっと発想を変えてみよう。ゴルフクラブやスポーツクラブのような会員制のクラブとして国家を考えてみる。「日本国憲法・法律の遵守し日本国民として生活したい人は、一定の審査を経て日本国民として日本国籍を得ることが出来る」のように定めたとする。 そのように国家を考えるのも面白いだろうと思う。入会金が必要であり、自衛隊への3カ月の体験入隊かボランティアを入会条件・国籍獲得条件とし、年会費は所得税と消費税と定額のコミュニティー・チャージとする。会の運営は「政府」と呼ばれる事務局内の、「官僚」と呼ばれる事務員・事務方と「国会議員」と呼ばれる事務局評議員によって運営される。事務局長は「首相」と呼ばれ、各部門の部長は「大臣」と呼ばれる。 こうした会員制の国家クラブ、アメリカやフランスでは国民に選ばれた大統領が会長になるのだが、日本では「天皇」が「名誉会長」になる。そのような国家クラブが実現可能かどうかは別にして、抽象的なイメージとして、「天皇制」「首相公選制」「国家」を考えるのも面白いと思う。といった型破りなことを考えられるのも、好奇心と遊び心を大切にするアマチュアエコノミストの特権なのであります。
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<それぞれの国に合った制度があるのか?> 日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、それぞれの先進国にあって、民主制度は少し違っている。それはそれぞれの国にもっとも適した制度なのだろうか?歴史的な背景があって、その国独自の制度なのか、あるいは偶然そうなっただけで大した理由もないのだろうか? こうした問題になると、アマチュアエコノミストの守備範囲を超えそうなので、経済問題から似たような問題を引用して参考にすることにする。それは産業立地ということ。 そして、ここでは「アメリカの製造業はかなり地域集中化されているが、その源泉をたどると、一見何でもないような過去の出来事にたどり着くことが往々にしてある」という例をあげてみよう。つまり「たまたま偶然にこうなった」という例だ。
なぜジョージア州はカーペット産業の中心地なのか?
ポール・クルグマンが「産業の地域集中化」について書いているので、そこから一部引用しよう。
 1895年、ジョージア州の小都市ダルトンに住むキャサリン・エヴァンスという十代の少女が、婚礼祝いにベッドカバーをつくった。それはタフトが施されて (tufted) おり、当時では珍しいベッドカバーだった。というのも、タフトの手工業は18世紀から19世紀初頭までは数多く見られていたが、その頃には消滅しかけていたためである。 この婚礼祝いが発端となって、ダルトンは第二次大戦後、米国のカーペット産業の中心地として名を馳せるようになった。今でも米国カーペット産業の上位20社のうち、6社がダルトンに集中している。残りの14社も1社を除けばみなダルトン近隣にあり、ダルトンとその近郊のカーペット産業に従事する人々は1万9000人にのぼっている。
 キャサリン・エヴァンスの話はまた触れることにするが、ひとまずここで明らかにしておきたいことは、カーペット産業の例は興味深いが、地域集中化の例としてはべつだん珍しくないものだということである。実際、米国内の製造業はかなり地域集中化されているが、その源泉をたどると、一見何でもないような過去の出来事にたどり着くことが往々にしてある。(中略)
 ビードモンド地域の繊維産業のうち、地域集中化が高度に進んでいるのはカーペット産業だった。私の助手がこの産業について引き続き分析し、こそ産業が歴史的偶然によって地域集中化が進んだ古典的なケースであることを発見した。それでは、キャサリン・エヴァンスのベッドカバーの話に戻ることにしよう。
 本講義の冒頭でも触れたとおり、1895年、当時十代の少女だったエヴァンス嬢はベッドカバーをつくって贈り物にした。そのベッドカバーを贈られた人とその近所の人たちはたいへん喜び、その後数年間エヴァンス嬢はタフトの施してある (tufted) 小物を数多くつくり、1900年にはタフトを裏張りに固定する技術を発明した。そしてバッドカバーを販売するようになり、友人と近所の人々と協同して小さな手工場を営み始め、近隣以外にも製品を販売するようになった。 
 この手工業は1920年代には半機械化されるようになった。シェニール (chenille) セーターの需要が増え続けており、それを満たすためにタフトの技術が使われるようになったためである。しかし、その後製造はあいかわらず個人に家庭で行われていた。
 第二次大戦直後、タフトのカーペットが生産できる機械が発明された。それまでは、機械製のカーペットはただ織ってつくられていたのだが、新しい機会によって、ずっと安くタフトの技術が使えるようになった。そして、タフトの技術に精通しており、その将来性にもすぐ気がついた人たちが、1940年代の終りから1950年代初頭にかけて、ダルトン周辺に小規模なカーペット製造工場を数多く建設した。 同時に、裏張りや染色といった関連産業も集中していった。従来のカーペット製造業者は、織ってつくることに固執するあまり、ついには急成長したダルトンの企業に駆逐されて仕事がなくなったり、あるいは長年拠点にしていた北東部からダルトンへと工場を移転せざるをえなくなった。こうして、ジョージア州の小さな町が、米国のカーペット産業の中心地となったのである。 ( 『脱「国境」の経済学』から)
シリコン・バレーの誕生
「産業の地域集中化」と言うとシリコン・バレーがよく知られている。シリコン・バレーがどのようにしてハイテク産業の中心注地になったか?それについては 「ビル・ゲイツの面接試験」に詳しく書かれているのだが、引用するには長すぎるので、やはりポール・クルグマンから引用しよう。
 前世代で、地域集中化の有名な例は変わっていった。以前のモータウン、アイアン・シティ、あるいはアパレル産業地域などほとんど話題にものぼらなくなった(そうした産業はいまだに細々と存続しているのだが)。かわって登場したのが、シリコン・バレー、128号線沿い、あるいはリサーチ・トライアングルといったハイテク産業である。こうした新しい産業群はこれまでの地域集中化している産業とどう違うのだろうか?
 まず最初に言えることは、こうしたハイテク産業群誕生の話はあまりロマンティックなものではないということである。新しいハイテク産業群は果敢な個人が作り出したものと言うよりは、ビジョンを持った経営の管理者(形容が矛盾していなければ)の産物なのである。しかし、この点を除けば、成立の過程の話は似たものとなっている。
 シリコン・バレーの成立には、スタンフォード大学副学長のフレッド・ターマン (Fred Terman) がイニシアティブを取ったことが大きく関わっている。彼のイニシアティブで大学がヒューレット・パッカード社にリッチの優先権を与え、同社は粉後の核となった。また、大学の敷地内にかの有名な研究施設を建設し、まずヒューレット・パッカード社が、続いてたくさんのコンピューター会社が稼働し始めた。 ここでは、大学そのものを通して顕著な集積過程が見られた。つまり、研究施設から得られた収入は大学の科学技術を世界レベルに押し上げるのに役立ち、また大学の地位の向上がシリコン・バレーをハイテク産業における魅力的な拠点とすることに役立ったのである。 ( 『脱「国境」の経済学』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『脱「国境」の経済学』      ポール・クルーグマン 北村行伸・高橋亘・妹尾美紀訳 東洋経済新報社 1994.10.13
『ビル・ゲイツの面接試験』         ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15 
( 2004年11月29日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(32)「とりあえず、これで行こう」との主義
<功利的な制度とは?> 「デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、政治的・経済的な個人の自由を保証するための 功利的な制度なのである」と言う場合の「功利的」とはどういうことか。「功利主義」というと「最大多数の最大幸福」と言われる。 つまりこの場合は「功利主義とは、最大多数の最大幸福を理想として目指す主義である」となる。しかし「民主制度」とは「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な目標を掲げた主義」などではなくて、「政策選択のための便利な制度」と考えた方が正解に近い。 そこで、ここでは「功利的」とは「理想的とは言えないが、他にもっと良い制度が考えられない以上、とりあえずこの制度でやっていこう」ほどの意味と考えることにする。
 思想・言論・出版・結社の自由、三権分立、代議員制、多数決、を基本とする民主制度、欠点も多い。多数決が総意を表現しているとは思われない場合もある。「多くの自由があるが制度が上手に運用されていない」、あるいは「結果が民意とはかけ離れている」と非難する評論家がマスコミ界で幅を利かす。 民主制度の欠点をあげて、閉塞感を煽ったり、手直し案を提案したり、理想論をぶち上げたりする。はたして民主制度に替わる、より良き制度は考えられるのだろうか?あるいは有効な手直し策はあるのだろうか?
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<デモクラシーというひどい政治制度> ウィンストン・チャーチルは言っている「デモクラシーとはひどい政治制度である」と。ではどのような点で「ひどい政治制度」と言われるのだろうか?
「多数の暴力」と非難される「多数決」
「国会で十分な時間もかけずに強行採決するのは、『多数の暴力』だ」、とマスコミが非難するときがある。 この場合、国会審議に時間をかけたなら、この法案に賛成なのか?と言うとそうではない。本当は反対なのだが、反対する論拠が弱かったり、賛成者からの批判を受けたくなかったり、と言って黙っているわけにもいかず、「十分な審議を」との曖昧な批判をする。 制度上、最終決定は多数決で決めることになっている。90対10の賛成でも、51対49の賛成でも、成立した法律の有効性に差はない。それでも「多くの反対票があったことを忘れてはならない」等と書くこともある。
 さてその多数決。「多数決のパラドックス」のように「本当にそれで決めていいのかな?」と思うこともある。しかし、これに替わる方法はない。「全員一致を原則とする」となると、もっとおかしなことになる。結局「完璧ではないが、他に良い方法がないので、とりあえず多数決を原則としておこう」となる。
有権者の意見代表である限り、レントシーキングはなくならない
ジェイムス・ブキャナンをはじめとする「公共選択」の人たちは「レントシーキング」を批判する。市場のメカニズムを生かさず、所轄官庁に圧力をかけ、利益を獲得しようとする。そのために「族議員」が生まれ、「ロビー活動」が活発に行われる。しかし、だからと言って国会議員が有権者の意見を無視したら、民主制度では政策が実行されない。 あるいは国民の意見を無視した「独裁政治」になってしまう。せいぜい規制を緩和して、ルール功利主義に徹して行政府の自由裁量権を狭めることぐらいしか対策はない。「国民が意識を持って、政府と業界の癒着を監視するように」とは、「国民の意識が変わらなければ」と意識革命を望んでいることで、別の言い方をすれば「国民をマインドコントロールしよう」との発想でもある。 それは、ときには「自分は正しく政治を見ているが、一般国民は正しく判断できないでいる」との思い上がりにもつながる。有権者が投票で国会議員を選ぶ制度では、「有権者は神様です」が国会議員の基本になる。このため国会議員は有権者の利益誘導を政策目標とすることもある。 しかし、これがダメだと言うならば、別の方法で議員を選ばなければならない。独裁者が指名するか?、王族・貴族の互選で選ぶか?、司法試験のような試験を実施するか?、ロースクールのような特別な学校を出た者に資格を与える(日本の司法制度はこれを採用し、入り口を狭くし、自由な競争が起きないようにし、司法関係者の既得権を守ることになった。 法曹関係者のレントシーキングが功を奏した)か、地方区をなくし全国区だけにする(それでも業界代表としての族議員は残る)か?いろいろ考えても今より良い制度は考えられない。
もっと「自由を大切にする制度」はどうか?
ロバート・ノージックは、その著書「アナーキー・国家・ユートピア」で自由を大切にする政治哲学を展開している。政治哲学の分野では大きな影響を与えた、と言うのだが、非現実的であり、視野狭窄な見方であり、「素人さんお断り」の文章で一般人は読者の対象としていないこともあって、実現へ向かう可能性はない。特に「最小国家」は決して理想的とは言えない。
もっと「平等を大切にする制度」はどうか?
20世紀、政治哲学の分野で「アナーキー・国家・ユートピア」と並んで大きな話題を呼んだのが、ジョン・ロールズの「正義論」と言われている。 こちらは「弱者にとって有利な制度が、『正義』と言える」ということで、アメリカでは一時「公民権運動」に影響を与え、いくつかの「アファーマティブ・アクション」が成立した、と言われる。日本でも「厚生経済学」分野や「所得格差」を問題とする人たちは「正義論」の考え方を支持している。 しかし、こちらもノージック同様「素人さんお断り」の文章で、庶民感覚を受けつけない。高い授業料を払って、大学で専門課程で訓練を受けた人だけが議論に参加出きる仕組みになっていて、高級知的クラブへの参加費が高く、参加者養成教育に従事して生計を立てている人たちの既得権を守る仕組みができている。この仕組みで生計を立てている人は、新規参入によって自分の生活が脅かされることのないよう、「素人さん、お断り」の文章を守る。 むしろ一般庶民が理解して、これを支持したら「議論参加者養成講座」を受ける人がいなくなって、「正義論」を教えることが職業として成り立たなくなってしまう。ということでこれからも大きな影響力を持つことはない。
手直し策はあるのか?
デモクラシーを「民主主義」と訳すと「熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義」として考え、「そのためにはどうしたら良いのか?」「日本人は民主主義を理解すべきだ」などの「べき論」や自虐的な意見が蔓延する。そして、閉塞感を打開するためには「直接民主主義」や「首相公選制」が叫ばれる。 しかし、それらは「自分の考えが認められない」との不満を持つ一部の少数派の「ぼやき」で、よく考えると決して手直しにはならない、「負け犬の遠吠え」でしかない。
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<「とりあえず、これで行こう」との主義> 多数決が必ずしも多数の意見を表現しないときがあり、レントシーキングという多数決と反対の、少数者に特別な利益を与えるような政治活動が起きたり、全体の36%の支持で首相になったりと、民主制度には欠点が多い。にもかかわらず、これに優る制度は考えられない。
 そこで、自由とか平等とか正義などという言葉を中心に置いて、民主主義に代わる理想社会を実現する制度を考えようとする人たちもいる。「現実には存在しないところ(理想郷)」という意味で「ユーロピア」を書いたサー・トマス・モア、さらに理想を実現させようと実験社会に取り組んだロバート・オーエン、さらにそれらを「空想社会主義」と批判して「資本論」「共産党宣言」を書いたカール・マルクス、このように理想社会の追究は途絶えることはない。 そして現代では、「アナーキー・国家・ユートピア」「正義論」が政治哲学の分野だけではあるが一部の人に影響を与えている。これらの実験はみな失敗に終わっているのだが、もしも参加者すべて、そしてその社会に大きな影響を与える人たちが同じ価値観をもってその理想を信仰していたら成功したと思う。 つまりその社会の人たちがマインドコントロールされていたら成功したに違いない。日本人すべてがオウム真理教の信者になっていたら、日本は平和な国かもしれない。旧ソ連も国民すべてが共産主義を信仰していたら成功していただろう。 しかし強制収容所まで作ってみたけれど国民すべてを共産主義に洗脳することはできなかった。ジョージ・オーウェルの『1984年』のウィンストン・スミスとは違ってあくまでも自分の考えを守ろうとした人が、権力者が想像し、望んでいたよりも多かったわけだ。 それでも中世ヨーロッパはキリスト教が社会制度すべての基本になっていた、変化の少ない安定した社会ではあった。
 「すべての不満を持ちつつ、それでもこの程度なら我慢しよう」との妥協点を見つける民主制度では、常に不満を言う人がいる。マスコミはそうした意見を、ときに面白く、ときに真剣に取り上げる。「不満があるということは健全な社会の証拠だ」が理解できない人は、そのため「社会の閉塞感」とか「民主主義が行きづまる」などと悲観的な感傷にに浸る。一部の評論家がそうした人たちのために自虐的な意見を発表する。しかし大衆は結構賢くて、そうした意見とは論争はせずに、まともな、あるいは普通の感覚の政治家に投票する。 体制を批判しても、それに替わる制度がないことを知っている国民は冷静に判断する。六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなどまるで考えていないかのように言われるお姉ちゃんも、結構まともな判断力を持っていたりするものだ。これは本当ですよ。
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<主な参考文献・引用文献>
『世界SF全集10』 1984年 すばらしい新世界  ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房    1968.10.20
( 2004年12月6日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(33)民主制度と市場経済の話のまとめ
<政治的パレート最適> 経済学の専門用語として「パレート最適」という言葉がある。「他の誰かの効用を悪化させない限り、どの人の効用も改善することができない状態」と説明されている。 これは経済学の言葉、そのイメージを政治の世界に適応させると、「民主制度」となる。沢山ある選択肢のうち、一番悪いところの少ない選択肢、反対意見の弱いもの、無難な道、を選択するとこの「民主制度」となる。 経済で、パレート最適の状態であっても「もっと自分に有利な状態になるといい」と考えている人はいる。ただし、その人の希望を叶えようとすると、誰かの利益を大幅に害することになるので、変えない方が良い。 経済の分野では市場のメカニズムがパレート最適を実現することが多い。自生的秩序が働いているからだ。政治の分野では民主制度のもとで「政治的パレート最適」が実現される。 「すべての人が不満を持ちつつも、この程度なら諦めよう」との妥協点を求める民主制度では、それでも「もう少し自分にとって利益のある政策が選択されると良いのに」と思っている人はいる。しかしその希望を叶えようとすると、他の多くの人の利益を損なうことになる。 独裁政治は統制経済と似ている。宗教政治は「贅沢は敵だ」の経済と似ていて、禁欲がルールの基本になる。直接民主主義はルールのない経済と同じような混乱を招く。 「正義論」の政治は大きな政府が価格統制する経済だ。「最小国家」の世界は「地産地消」の保護貿易の経済と同じ状況になる。
 パレート最適とはすべての人が完全に満足する状態かと言うと、そうではない。多くに人は「もっと自分に有利な状態になるといい」と考えている。しかし、それを叶えようとすると、他人の利益を大きく害するので、その状態をヨシとする。 経済学で発達した考え方を政治学の分野で応用すると、複雑な政治の世界・政治哲学の世界が分かりやすくなる。このHPで以前に扱った政治哲学、この分野の専門家が経済学を応用するともっとアマチュアにもわかる理論になると思うのに、残念なことだ。
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<市場経済との相性の良さ> 人類が土地を耕し、野性の植物を栽培し、自分が必要とする以上の食物を生産するようになって、自分では食料を生産しない人たちが現れた。食料以外の物も分業で生産するようになって、文明が発祥し、交換の場としての市場が生まれた。 こうして市場経済が始まった。
 それに比べると民主制度の誕生・普及は遅かった。21世紀にあっても民主制度を採用していない国がある。民主制度はけっこうコストのかかる贅沢な制度でもあり、発展途上国が経済を成長させるためには、いわゆる開発独裁の方が効果的だ、との考えもあって、採用しない国も多い。
 市場経済と民主制度はその誕生から現在までの経緯は違うが、制度上似たところがあり、相性はいいようだ。先に豊かになれる国から豊かになり、その他の国も豊かになるに従って民主制度を採用する国が増えてくるだろう。 自生的秩序が保たれている市場と、民主制度の社会は、グローバリゼーションという方向へ向かってゆっくりと、そして時には劇的な早さで向かうだろう。 その環境の変化についていけない人は「反グローバリゼーション」を叫び、「民主主義の閉塞状態」とか「市場経済が破綻する」と吠える。すべての人が平等に貧しい社会では、食べること、生活費を稼ぐことで頭がいっぱいで、そういうことを言う余裕がなく、豊かになった社会でそうした声が聞こえるようになる。その場合、自分たちの社会のことではなく、貧しい社会の人に替わって発言している、と善意のつもりで主張する。 そうした声を聞きながらも、市場経済と民主制度は、グローバリゼーションという環境の変化に対応するように進化していく。
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<終わりにあたって> <グー・チョキ・パーの迷走>と題した「多数決のパラドックス」から始まった「民主制度の限界」は今週が最後です。ゲームの理論、レントシーキング、政治哲学、利己的な遺伝子ミーム、グローバリゼーション、資本論と話題を広げてきた。 「視野狭窄にならないように」と「素人さん、お断り」の論理にはならないようにと、気をつけて書いたつもりだった。振り返って見ると、実に常識的な話の終わりになったようだ。 このシリーズをうんと短く表現すると「市場経済も民主制度も自生的秩序を保って進化していく」という、きわめて常識的な結論になりました、というのが最後のメッセージです。
 最後までつき合って頂いた方々に感謝します。このシリーズで参考にしたり、引用した文献を書き出しました。何かの参考にしていただければ幸いです。ありがとうございました。
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<主な参考文献・引用文献>
『社会的選択と個人的評価』                  ケネス・J・アロー 長名寛明訳 日本経済新聞社 1977. 7.25
『ゲームの理論入門』 チェスから核戦略まで     モートン・D・デービス 桐谷維・森克美訳 講談社     1973. 9.30
『民主主義の破産』 ”公正のシステム”は存在するか       ダン・アッシャー 竹内靖雄訳 日本経済新聞社 1982. 8.24
『経済倫理学のすすめ』                               竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『マクロ経済学を学ぶ』                              岩田規久男 ちくま新書   1996. 4.20
『ゲーム理論入門』                                 武藤滋夫 日本経済新聞社 2001. 1.19
『戦略的思考とは何か』  アビナッシュ・ディキシット、バリー・ネイルバフ 菅野隆・嶋津祐一訳 TBSブリタニカ1991.10. 4
『入門 経済学』                                  伊藤元重 日本評論社   1988. 1. 5
『囚人のジレンマ』 フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     1995. 3.10
『ゲームの理論と経済活動』      フォン・ノイマン、モルゲンシュテルン 宮本敏雄ほか監訳 東京図書    1972.10.25
『はじめてのゲーム理論』                              中山幹夫 有斐閣ブックス 1997. 9.10
『徳の起源』 他人をおもいやる遺伝子       マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社     2000. 6.14
『ミクロ経済学』 第2版                              伊藤元重 日本経済新聞社 2003.11.25
『「ゲーム理論」の基本がよくわかる本』                       清水武治 PHP研究所  2003.10.17
『ゲーム理論で勝つ経営』      A.ブランデンバーガー&B.ネイルバフ 嶋津祐一・東田啓作訳 日経ビジネス文庫2003.12. 1
『つきあい方の科学 バクテリアから国際関係まで』    ロバート・アクセルロッド 松田裕之訳 ミネルヴァ書房 1998. 5.20
『利己的な遺伝子』      リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店  1991. 2.28
『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』                    梶井厚志・松井彰彦 日本評論社   2000. 2.25
『ダーウィン・ウォーズ』             アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社     2001. 5.15
『ダーウィン以来』 進化論への招待    スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房    1995. 9.30
『ソシアル・ジレンマ』 秩序と紛争の経済学        ゴードン・タロック 宇田川璋仁他訳 秀潤社     1980. 2. 1
『経済学の正しい使用法』ー政府は経済に手を出すなー     ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14
『経済学の考え方』 ブキャナン経済学のエッセンス         J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『公と私の経済学』 ブキャナン経済学のエッセンス         J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『自由の限界』 人間と制度の経済学                J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 秀潤社     1977. 7.15
『公共選択の理論』 合意の経済理論    J.M.ブキャナン、ゴードン・タロック 宇田川璋仁監訳 東洋経済新報社 1979.12.20
『レントシーキングの経済理論』    ロバート・トリトン、ロジャー・コングレトン 加藤寛監訳 勁草書房    2002. 7.15
『コンスティテューショナル・エコノミックス』           J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 有斐閣     1992.12.10
『赤字財政の政治経済学』           J.M.ブキャナン、R.E.ワグナー 深沢実、菊池威訳 文眞堂     1979. 4.25
『財政赤字の公共選択論』      J.M.ブキャナン、C.K.ローリー、R.D.トリソン 加藤寛監訳 文眞堂     1990.11.10
『入門公共選択』  政治の経済学                          加藤寛編 三嶺書房    1999. 1.25
『ハンドブック 公共選択の展望』 第V巻        D.C.ミューラー 関谷登、大岩雄次郎訳 多賀出版    2001. 9.15
『行きづまる民主主義』 公共選択の主張T          J.M.ブキャナン、G.タロック 加藤寛 勁草書房    1998. 6.20
『農業は「株式会社」に適するか』                          宮崎俊行 慶応義塾大学出版2001. 4.20
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内  D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房    2003.11.25
『9.11 アメリカに報復する資格はない』          ノーム・チョムスキー 山崎淳訳 文芸春秋社   2002. 9.10
『チョムスキー、世界を語る』 ノーム・チョムスキー、D.ロベール、V.ザラコヴィッツ 田桐正彦訳 トランスビュー 2002.10. 5
『正義論』                          ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『ロールズ「正義論」とその批判者たち』     Ch・クカサス Ph・ペティット 山田八千代ほか訳 勁草書房    1996.10.14
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
『岐路に立つ自由主義』 C.ウルフ、J.ヒッティンガー編 菊池理夫、石川晃司、有賀誠、向山恭一訳 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『ミーム』 心を操るウィルス                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『ミーム・マシーンとしての私』     スーザン・ブラックモア R.ドーキンス序文 垂水雄二訳 草思社     2000. 7.18
『アマルティア・セン』 経済学と倫理学                 鈴木興太郎、後藤玲子 実業出版    2001. 9.26
『ビル・ゲイツの面接試験』             ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15
『ベッカー教授の経済学ではこう考える』   G.S.ベッカー G.N.ベッカー 鞍谷雅敏・岡田滋行訳 東洋経済新報社 1998. 9.17
『進化とゲーム理論』闘争の論理           J・メイナード・スミス 寺本英・梯正之訳 産業図書    1985. 7.12
『グローバリズムという妄想』                   ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25
『自由主義論』                          ジョン・グレイ 山本貴之訳 メネルヴァ書房 2001. 7.30
『自由の倫理学』 リバタリアニズムの理論体系  M・ロスバード 森村進・森村たまき・鳥澤円訳 勁草書房    2003.11.25
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成反対』      S・ジョージVSM・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社     2002.11. 2
『利潤か人間か』 グローバル化の実体 新しい社会運動                北沢洋子 コモンズ    2003. 3.15
『自由論』                       アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                       ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『道徳情操論』                          アダム・スミス 米林富男訳 未来社     1970. 4.25
『サバイバル・ストラテジー』                ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社     1983. 4.20
『マン・チャイルド』 人間幼稚化の構造   ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社  1984. 7.10
『農業は人類の原罪である』 シリーズ「進化論の現在」      コリン・タッジ 竹内久美子訳 新潮社     2002.10.20
『ユートピア』                           トマス・モア 平井正穂訳 岩波書店    1994. 9.16
『自由への決断』                 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 広文社     1980.12.25
『選択の自由』 自立社会への挑戦                M&R.フリードマン 西山千明訳 日経ビジネス文庫2002. 6. 1
『政府からの自由』                   ミルトン・フリードマン 西山千明監修 中央公論社   1984. 2.10
『日常生活を経済学する』                     D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社 1999.11.17
『自由・公正・市場』                                大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵 現代を生きる経済思想』                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学 現代社会の倫理を考える』 第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『中国2020年への道』                               朱建栄 日本放送出版会 1998. 6.25
『現代中国の経済』 現代中国叢書3                          王曙光 明石書店    2004. 4.30
『図説 中国産業』 2005年の巨大市場を読む             日本興業銀行調査部編 日本経済新聞社 1999. 6. 1
『ベーシック アジア経済入門』 新版                    日本経済新聞社編 日本経済新聞社 2000. 1.14
『中国経済の数量分析』                           大西広・矢野剛編 世界思想社   2003. 5.15
『現代中国経済』 7 所得格差と貧困                         佐藤宏 名古屋大学出版会2003. 9.10
『アジア経済ハンドブック』 2003                   江橋正彦・小野沢純 全日出版    2002. 7.25
『日本の経済格差』所得と資産から考える                       橘木俊詔 岩波書店    1998.11.20
『平等主義は正義にあらず』                             山口意友 葦書房     1998. 3.10
『はじめての経済学』                                伊藤元重 日本経済新聞社 2004. 4.15
『蜂の寓話』私悪すなわち公益               バーナード・マンデルビル 泉谷治訳 法政大学出版会 1985. 6.24
『経済学の巨人たち』                                竹内靖雄 新潮選書    1997. 2.25
『恋愛と贅沢と資本主義』                 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫 2000. 8.10
『有閑階級の理論』                   ソースティン・ヴェブレン  高哲男訳 ちくま学芸文庫 1998. 3.10
『入門経済思想史 世俗の思想家たち』       ロバート・L・ハイルブローナー 八木甫他訳 ちくま学芸文庫 2001.12.10
『隷従への道』 全体主義と自由     フリードリッヒ・A・ハイエク 一谷一郎・一谷映理子訳 東京創元社   1992. 7.30
『ロバート・オウエン』 イギリス思想叢書9                     土方直史 研究社     2003. 3.20
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』      ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2002. 5.31
『それでもグローバリズムだけが世界を救う』      チャールズ・レッドビーター 山本暎子訳 ダイヤモンド社 2003.10.30
『レクサスとオリーブの木』           トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社     2000. 2.25
『裸の経済学』経済学はこんなに面白い           チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社 2003. 4.23
『グローバル経済の本質』 国境を越えるヒト・モノ・カネが経済を変える        伊藤元重 ダイヤモンド社 2003. 5. 9
『人間が幸福になる経済とはなにか』         ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2003.11.30
『株仲間の研究』                                  宮本又次 有斐閣     1958. 3. 5
『江戸の市場経済』                                 岡崎哲二 講談社     1999. 4.10
『経済学で現代社会を読む』                ダグラス・C・ノース他 赤羽隆夫訳 日本経済新聞社 1995. 2.20
『経済科学の根底』                ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 日本経済新聞社 2002. 6.28
『経済学の正しい使用法』  政府は経済に手を出すな     ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14
『競争はなぜ必要か』市場システムの論理                       竹内靖雄 日本経済新聞社 1978. 6.15
『やさしい経済学』                             日本経済新聞社編 日本経済新聞社 2001.11. 1
『スッキリ!日本経済入門』                            岩田規久男 日本経済新聞社 2003. 1. 6
『寓話で学ぶ経済学』自由貿易はなぜ必要か         ラッセル・D・ロバーツ 佐々木潤訳 日本経済新聞社 1999. 7.12
『現代経済学の回想』                 ジョージ・J・スティグラー 上原一男訳 日本経済新聞社 1990. 9.20
『テラスで読む経済学物語』                 T・G・バックホルツ 上原一男訳 日本経済新聞社 1991. 6.13
『資本論』                           カール・マルクス 岡崎次郎訳 大月書店    1972. 3.10
『資本主義は江戸で生まれた』                            鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1
『現代日本の市場主義と設計主義』                           小谷清 日本評論社   2004. 5.20
『脱「国境」の経済学』          ポール・クルーグマン 北村行伸・高橋亘・妹尾美紀訳 東洋経済新報社 1994.10.13
『世界SF全集10』 1984年 すばらしい新世界    ジョージ・オーウェル他 新庄哲夫訳 早川書房    1968.10.20
民主制度の限界 完          ( 2004年12月13日 TANAKA1942b )
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