民主制度の限界
(6)小泉首相と金正日のジレンマ
<拉致家族帰国交渉のナッシュ均衡> 今、日本でゲームの理論を応用して面白いのは、小泉首相の北朝鮮訪問のこと。2004年5月22日の北朝鮮訪問と金正日との交渉、これをゲームの理論で考えてみよう。
 初めに、今回とは違った状況を設定して考えてみる。2004年5月、北京でアジアの安定と経済発展のための国際会議が開かれた。アジア各国の首脳が参加し、日本からも小泉首相が参加した。この会議に珍しく北朝鮮の金正日も参加した。 小泉首相の北京訪問期間は短かったが、中国政府の尽力により両首脳の会談が実現した。短い時間なので十分なやりとりはできず、お互いに主張を述べる程度に終わった。さて、そのような状況で両国はどのようなことを主張又は、約束しただろうか? その戦略を検討してみよう。それぞれ強硬策と融和策の2つ用意してどちらを提示するか?その内容は次の通り。
◆ 日本の強硬策 拉致被害者の家族8人全員を直ちに日本に帰すように。経済援助や人道的援助はこの問題が解決してから話し合うべきだ。
◆ 日本の融和策 25万トンの食料支援と1,000万ドル相当の医療品支援を行いましょう。当然拉致被害者家族の早期帰国を期待してのことです。
◆ 北朝鮮の強硬策 先ずもう一度共和国へ帰して、それから家族で相談すべきだ。わが国に対して世界各国からの支援がある。日本にも期待する。
◆ 北朝鮮の融和策 5人は帰しましょう。ジェンキンス氏は日本へは行きたくないと言っている。小泉総理が直接話してみてはどうでしょう。
表]T 日本と北朝鮮の利得行列
日本\北朝鮮 強 硬 策 融 和 策
 強 硬 策  ー1,−1 +2,ー2
 融 和 策  ー2,+2 +1、+1

 日本としては、食料・医療支援を約束しなくても拉致被害者家族が帰ってくるのが一番望ましい。北朝鮮は拉致被害者家族の問題をそのまま未解決にして、支援が得られればそれが望ましい。 そうした思惑で、この行列式を検討する。自国がどの政策を主張するのが得策か?ゲームの理論専門家を集めて検討する。それをアマチュアエコノミストが推理する。
◆ 日本の読みT 北朝鮮が強硬策に出た場合、日本は強硬策ならー1,融和策ならー2。
◆ 日本の読みU 北朝鮮が融和策に出た場合、日本は強硬策なら+2、融和策なら+1。従って日本は強硬策を採用。
◆ 北朝鮮の読みT 日本が強硬策に出た場合、北朝鮮は強硬策ならー1、融和策ならー2。
◆ 北朝鮮の読みU 日本が融和策に出た場合、北朝鮮は強硬策なら+2、融和策なら+1。従って北朝鮮は強硬策を採用。
 この場合のナッシュ均衡は、日本=強硬策、北朝鮮=強硬策となる。
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<小泉首相の訪朝は儀式だった> 専門家が十分に考えた戦略、しかし現実は両国とも融和策をとった。どうしてだろう?5月22日の短い時間での交渉で状況が変わったのだろうか?それほど両首脳に説得力があったのだろうか?違う!あれは交渉ではなかった。前もって結論は出ていた。これは、日朝両国外務官僚による「繰り返しゲーム」が行われた結果だったに違いない。 その結論を反対勢力に納得させるための儀式が必要だったのだ。「日本の小泉首相がわざわざ金正日将軍様に会いに来た」「会談は金将軍様の主導で進められた」「従ってこの会談の結果は我が共和国にとって利益のあるものである」こうしたことを北朝鮮国民、軍部強硬派にアピールするための「儀式」であって、だから川口外相ではこの「手打ち式」には軽すぎたのだ。
 この小泉訪朝による拉致被害者家族の帰国は官僚のお膳立てで実現した。首脳同士の決断による歴史の転換点では、1962(昭和37)年10月16日〜10月28日の ▲キューバ危機▲。そのときのケネディー大統領とフルシチョフ首相の英断。それと1972(昭和47)年9月25日〜28日、田中首相・大平外相と周恩来首相の会談による日本と中国の国交回復が頭に浮かぶ。 これらに比べれば首脳同士の英断、という点では見劣りがするようだが、国と国の外交交渉はこれでいいのだろう。首脳の個人的な力量に頼っていると、思いつき外交になったり、人気取り政策になったり、外交成果に波が出やすい。これからは事務方の知恵も十分生かした外交も必要になる。
 今回の小泉訪朝は官僚の書いたシナリオに対する手打ち式だった。しかし訪朝前にはそう思われていなかった。だから家族会からは不満が出たし、国会議員のなかにも、あれは金正日ペースの交渉だった、との批判も出る。民主制度を支えるものの一つ、情報公開=グラスノチスがある。ところが小泉訪朝は本当のところは発表されていなかった。だから「もっと時間をかけるべきだった」などの批判が出た。 民主制度の日本ではあるが、外交交渉に関しては秘密裏に進められることによって成果が出ることもある。ところが曽我ひとみさんとジェンキンスさん娘さんとの再会の場については、川口外相や中山内閣官房参与のパフォーマンスを見せようとの思いか、公開されることが多く、そのため、かえってチャチャが入って問題をややこしくしている。
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<ゲームの理論━━瀬戸際戦略> ゲームの理論では「囚人のジレンマ」から、ナッシュ均衡、繰り返しゲーム、ゲームの樹などと話が進んで行く。その先には「脅し」も登場する。そこで話がわき道のそれたついでに「脅し」について一つ経済学的に考えてみよう。
キューバ危機と北朝鮮
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核開発やミサイル実験などは、北東アジア全体の安全保障問題に大きな脅威となっています。これは今後大きく展開する可能性がある問題ですので、本書のような教科書で分析するには適当なテーマではありません。ただ、一連の報道のなかで北朝鮮の行為としてしばしば言及される瀬戸際戦略(brinkmannship)という用語は国際関係問題のみならず、経済現象でもときどき話題になる考え方です。
 瀬戸際政策、あるいは瀬戸際外交というのは、自らの危険も顧みず状況を危機的な水準まで持ち込むことによって相手の譲歩を引き出そうとする政策です。ゲーム理論の教科書でしばしば瀬戸際政策の事例として引用されるのは、1960年代はじめのキューバ危機です。 当時、キューバにミサイル基地をつくろうとしていたソビエト連邦の行為を抑えるため、アメリカのケネディ大統領は最悪の場合には両国間の核戦争にまで発展しかねないような危険があるにもかかわらず、非常に強硬な態度に出ました。結果的にはソビエトが譲歩したので事態は収まりましたが、たしかに一時的に世界は危機に直面していたといってよいでしょう。
 北朝鮮の事例に戻りますが、瀬戸際外交を行うことは、ゲーム理論的な表現を使えば、危機をあおるような行為にコミットすることで、相手側に譲歩せざるをえないような状況をつくっているのです。日米韓が譲歩しなければこの地域でたいへんなことが起こるという脅しで、北朝鮮は相手の譲歩を求めているのです。
 ただこうした瀬戸際政策がつねにうまくいくとはかぎりません。とくに、危機的な状況にまで持っていくことは、為政者の意思とは別のところで起きた突発事故的な動きで破滅的な状況にまでいくこともあるからです。北朝鮮の為政者があくまでも脅しで核実験やミサイル実験を行なっていたとしても、国境などに駐留する兵士の間の突発的な戦闘行為によって戦争が止められない事態にまで発展することだってありえます。また、脅しのつもりで行っていたことが、結果的に相手側の非常に過激な行為を誘発することだってありえます。 国際紛争問題がすべて合理的な行動のなかでコントロールされているわけではありませんので、瀬戸際外交は非常に危険な行為なのです。 (「ミクロ経済学」から)
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<金正日の脅しが効いている> 「我が共和国に対して圧力をかけるとどうなるか?考えたことはありますか?」「今でもわが国の軍部には米帝・日帝の横暴な態度に不満があります。私の力では抑えられなくなるかもしれません」「私の知らないところで第2の李恩恵(田口八重子さん?)が第2の蜂谷真弓=金賢姫(キム・ヒョンヒ)を育てるかもしれませんよ」「工作船を使って日本のヤクザとヤクの取引を始めたり、韓国沿岸に小型潜水艦を徘徊させたり、アフリカあたりの最貧国にミサイルを輸出するかもしれない。世界の警察を任じるアメリカはそのミサイルをとてつもない高額で買い取ることになるでしょう」 「軍人、警官の不満が高まって治安が保たれなくなると、難民が外国へ向かう。豆満江(図們江)を渡って脱北者が中国へ殺到する。渤海湾には日本へ向かうボートピープルが溢れる」「わが共和国に圧力をかけるとこのような暴走が起こるかも知れませんよ。よろしいんですか?」
 リビアが supported state for terrorism (日本語訳・ならず者国家) でなくなった今、金正日体制が存続すべきだとは思っていなくても、金正日のコントロールが効かなくなると怖ろしい。金正日の脅しは効いている。それに対する日本のカードは何か?脅しの材料はあるのか?経済制裁か? 特定船舶入港禁止法で万景峰(マンギョンボン)号の入港を制限するのが脅しになるか?
 違う!日本のカードは飴だ。1,000万ドル相当の医療品と25万トンの食糧支援。見たり聞いたりしても飴の甘さは分からない。一口舐めて分かり、一粒舐めてまた欲しくなる。これが日本の北朝鮮に対するカードになる。25万トンの食糧は先ず、軍人、役人、警官に支給されるだろう。庶民や収容所の人間に不満があっても金体制に影響はないが、軍人に不満が高まれば、金体制が瀬戸際に立たされ金正日の脅しが現実味をおびてくる。従って各国の危機管理担当者は支援食糧の行方を注目しながらも、北朝鮮政府を強く追求はしない。 ただし、どのようなゲームでも自分の手の内は相手に悟られないようにする。そこで、こうした政策は公表されることはない。
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<主な参考文献・引用文献>
『ミクロ経済学』 第2版                         伊藤元重 日本経済新聞社  2003.11.25
『「ゲーム理論」の基本がよくわかる本』                  清水武治 PHP研究所   2003.10.17 
『ゲーム理論で勝つ経営』 A.ブランデンバーガー&B.ネイルバフ 嶋津祐一・東田啓作訳 日経ビジネス文庫 2003.12. 1
( 2004年6月7日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(7)進化するゲーム理論
<価格競争のジレンマ、軍拡競争のジレンマ> 「ゲームのプレイヤーが、それぞれが自己利益追求を優先的に戦略を立てると、双方にとっての最良の結果を逃すことになりかねない」というのが囚人のジレンマだ。これが「指揮者とチャイコフスキーのジレンマ」であり「小泉首相と金正日のジレンマ」でもある。 さらに多くの例が考えられる。伊藤元重著「ミクロ経済学 第2版」を参考に考えてみよう。
表 ]T 保護貿易
軍備拡張
価格競争
強硬外交
自白
自由貿易
軍備縮小
価格協調
融和外交
黙秘
保護貿易、軍備拡張、価格競争、強硬外交、自白 ー1,ー1 +2,ー2
自由貿易、軍備縮小、価格協調、融和外交、黙秘 ー2,+2 +1,+1

◆ 囚人同士、指揮者とチャイコフスキー 2人の囚人の場合や、ソ連での指揮者とチャイコフスキーのケース。(4)囚人のジレンマ で扱った損得の数字とは少し違うが基本的には同じ。
◆ 小泉首相と金正日 この場合は官僚による交渉がくり返し行われていた。小泉首相は平壌での儀式に出席のための訪朝だった。
◆ 価格破壊競争 これはきびしい価格競争をしている2つの企業のケース。1つの産業のなかに少数の企業しかいなくて、お互いの行動を読みながら競争を行っている状況を「寡占」と呼ぶ。市場に1社しか供給者がいない「独占」と多数の供給者がいる「完全競争」の中間的な状況だ。 自動車メーカーを考えてもいいし、牛丼でもハンバーガーでもドーナツでもいい。2つの企業には、それぞれ価格を下げてきびしい価格競争を行うということと、価格を高めに設定して価格協調をねらうということの、2つの選択があるとする。
 もし2つの企業がともに価格を低く設定したら、どちらの企業も低い利益しか得られない。表の左上の欄のー1という利得は、このときの企業のそれぞれの利益を表している(もっとも、商品が低価格になるので、消費者の利益は大きくなる)。 もし一方の企業が価格を高めに設定しているとき、他方の企業が低い価格を設定したら、需要のかなりの部分が低い価格を設定した企業に向かうので、高い価格を設定した企業の利得はー2に、低い価格を設定した企業の利益は+2となる。表の左下と右上の欄の利得は、この状況を表している。 この表を表X、表Yと比べると両者は基本的にほとんど同じ構造であることがわかる。囚人のケースの「自白」という裏切り行為がここでの「価格競争」の対応し、協調行為である「黙秘」が「価格協調」に対応する。 「価格協調」は実際の社会では「談合」とか「価格協定=カルテル」になる。この場合企業同士の共通の利益は消費者の不利益になる。囚人のジレンマで言えば、2人の囚人が黙秘することは検察・一般社会にとっての不利益になる。
 囚人のケースと同じように、そして「指揮者とチャイコフスキー」のケースと同じように両企業は価格競争に走ることになる。このHPではあまり詳しく書かなかったが、囚人のジレンマでは多くの場合、結局、相手側を裏切る行為に走ることになり、両者が最大利益を逃すことになる。
◆ 米ソ軍拡競争 冷戦時代のアメリカとソ連を考えてみよう。両国にとって、軍備拡大するか、軍縮をするかの選択があるとしよう。両国が軍備拡大をすれば、両国の相対的軍事優位性は変わらないが、軍備の経済的負担のため、利得はー1という低い水準になる。 これに対して、もし両国とも軍縮をすれば、相対的な軍事優位性は変わらないが、軍縮のための経済的負担が低下するので、利得は+2と高い水準になる。
 もし一方が軍備縮小をしたとき、相手国が軍備拡張すれば、軍備バランスが崩れる。そのとき軍縮をした国は軍事優位性を失うためにー2という低い水準になるが、軍備拡大した国は利得を+2まで高めることができる。この例を「囚人のジレンマ」に対応させるなら、「軍拡」が「自白」に対応し、「軍縮」が「黙秘」に対応する。 このように、軍縮レースにおいても、他の例と同じように、ゲームの結果、各国は軍備拡張に走ることになる。ほんとうは、両国が同時に軍縮を行えばよいのだが、なかなかうまくいかない。ここでも囚人のジレンマが起こっている。
◆ WTO反対 「WTOの進める自由貿易は先進国の利益を拡大するだけで、発展途上国や最貧国の利益にはならない。むしろ、第3世界の国々の犠牲のもとにアメリカなど一部の先進国が利益を貯め込んでいる」との主張がある。WTO総会に抗議デモを行ったグループなど、「自由貿易反対」を叫ぶグループがいる。 先進諸国では自国の農業保護のために自由貿易に批判的な人がいる。農業関係者とその支持を受けている政治家、その周りにいる評論家、学者だ。たとえ保護貿易が自国に利益があるとしても、その利得はー1。すべての国が自由貿易になれば、すべての国が+1。この問題を考える場合は第1次世界大戦後、イギリス、アメリカなど戦勝国が保護貿易に走り、後発植民地主義国のドイツ、イタリア、日本が自給自足のため、自給地を広げようと軍事侵略を進めて行ったことを忘れてはならない。 この問題に関しては次のような表現もあるので、「つきあい方の科学」から引用しよう。
 協調関係の基本問題の好例として、2国間の貿易で関税障壁のある場合を考えてみよう。自由貿易は互いに利点があるので、障壁がない方が双方とも都合がよい。だが、一方の国だけしか障壁を撤廃しなかった場合には、撤廃した方だけが一方的に経済的打撃を被るはめになる。実際、相手が撤廃しようとするまいと、自国の障壁はあった方が得なのである。 したがって、どちらの国も障壁を撤廃しようとしなくなる。これは、両国が協調して撤廃した場合に比べて、ともに不利な事態に甘んじることになる。
(ただしこれは生産者側の見方。消費者にとっては障壁がない方がいい。そして総合的に判断しても自国の経済にとっては障壁を撤廃した方がいい。TANAKA1942bはこのように自由貿易を主張します)
 こうした問題は、それぞれが別々に自分の利益を追求すると、かえって両方とも損をしてしまう場合に生じる。この種の事情を抱えた状況はゴマンとあるが、それらをすっきりと理解するために、細かい部分にとらわれずに、共通点を反映した場面設定が欲しいところである。幸い、有名な「囚人のジレンマ」ゲームがうまく利用できる。 (「つきあい方の科学」から)
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<進化的に安定な戦略> ゲームの理論は政治・経済の分野だけでなく、生物学・進化論の分野でも使われている。同一種の個体同士が戦う場合がある。自分のテリトリーを守ろうとしたり、ハーレムを守ろうとしたり、あるいは目の前のエサをめぐって争うこともあるだろう。この場合も「強硬策」と「融和策」がある。徹底的に戦う姿勢を見せるか、あるいは諦めるか利益を半分づつにしようとするかだ。「戦えば勝つかも知れないが、自分も傷つくに違いない」「それでも相手が戦おうとするのは勝つ自信があるからなのだろう」 このように考え、独り言を言うことになるだろう。
 このひとりごとの例は、理論的にいえば、戦うべきか否かの決断に先立って、無意識かもしれないが複雑な「損得計算」がなされていることを示している。たしかに勝っても得をする場合もあるが、いつでも戦いにみあうだけの利益があるとは限らない。同様に、戦いの間、その戦いをエスカレートさせるか鎮めるかという戦術的決断には、それぞれ損得があり、それは原則的には分析可能なものであろう。このことは長い間エソロジストたちに漠然と認識されていたが、この発想を自信をもってはっきりと表現するに至ったのは、一般にはエソロジストとみなされていないJ・メイナード=スミスの力が必要であった。 彼は、G・R・プライスとG・A・パーカーとの共同研究で、ゲームの理論とよばれる数学の一分野を利用した。彼らのみごとな理論は、数学記号を使わずに言葉で表現することができる。ただし厳密さの点でいくぶん犠牲を払わねばならないが。
 メイナード=スミスが提唱している重要な概念は、
進化的に安定な戦略(evolutionarily stable strategy)と呼ばれるもので、もとをたどればW・D・ハミルトンとR・H・マッカーサーの着想である。「戦略」というのはあらかじめプログラムされている行動指針である。戦略の一例をあげよう。 (「利己的な遺伝子」から)
 このように進化論でもゲームの理論が使われているのだが、この文章の続き、「戦略」については「利己的な遺伝子」からの引用では長くなるので別の文献から引用しよう。
表]U
本人\相手 攻撃的 平和的
攻撃的 0,0 3,1
平和的 1,3 2,2

 動物社会は多数の個体からなり、各個体は遺伝によって、「攻撃的」タイプ、ないし「平和的」タイプに属しています。動物たちは森の中をうろつき、ときどき他の個体と出会います。これを抽象化して、数学的には単位時間内に他の個体のいずれかと等確率で出会うと仮定します。このような形で動物たちが出会う状況を(一様な)ランダム・マッチングと呼びます。
 ランダム・マッチングの下で、あるときある2匹が出会うと、表]Uにしたがって利得が決まると考えましょう。この利得は、プレーヤーたちの満足度というよりは、動物界における適応度(繁殖力)を示していると解釈します。例えば自分が「攻撃的」で相手が「平和的」の場合、本人の適応度は3になります(相手の適応度は表を読みかえて1となります)。たとえば、平和的な個体が平和的な個体とたまたま出会ったときは、両方とも適応度は2ですが、平和的な個体が攻撃的な個体と出会うと、平和的な個体は攻撃的な個体に力づくで獲物を奪われるので、平和的な個体の適応度(=1)は攻撃的な個体の適応度(=3)よりも低く設定してあります。 一方、攻撃的な個体どうしが出会うと、戦いの果てに生き延びる可能性は両方とも小さくなるので、適応度(=0)は低くなります。
 自身の適応度が相対的に高い個体ほど、自分の子孫をより多く増やすことができると仮定しましょう。このようなプロセスは「自然淘汰」と呼ばれます。自然淘汰の結果、どのような状態が生じるでしょうか。「平和的」タイプばかりいる状況は、攻撃的な個体にとって理想の環境です。実際、その時の個体の適応度はおよそ3です。 一方、平和的な個体が出会う相手もほとんど平和的なので、彼らの適応度はおよそ2です。その結果、しだいに「攻撃的」な個体が増えていくでしょう。しかし、「攻撃的」タイプばかりいる状況では、出会うと必ずお互いに傷つけあってしまうため(適応度は0)、みんな死に絶えてしまいます。ですから、ある程度攻撃的な個体が増えてくると、それ以上は増えにくくなるでしょう。それでは、どの程度増えると安定するのでしょうか。
 実は、表]Uの例では、「攻撃的な個体」が半分、「平和的な個体」が半分という分布が進化的に安定であると言えます。この状態での両者の平和的な適応度は共に 1.5 になります(「平和的」:2X0.5+1X0.5、「攻撃的」:3X0.5+0X0.5)。ここから「攻撃的」が51%に増えると「平和的」の適応度が「攻撃的」のそれを上回る(「平和的」:1.49、「攻撃的」:1.47)ので、「攻撃的」の個体は減るでしょう。また「平和的」が51%に増えると「攻撃的」の適応度が上回る(「平和的」:1.51、「攻撃的」:1.53)のため、「攻撃的」な個体の数は増えるでしょう。 つまり、自然淘汰を通じてもとの分布に戻る圧力が働いているから、安定していると言えるのです。
 以上の分析は、生物学者メイナード・スミスとプライスによる進化論的ゲーム理論の基礎をなすものです。進化論的ゲーム理論は生物界におけるゲーム的状況の分析に貢献しました。上記の議論で個体が思考する必要のないことに今一度注目してください。個体が合理的に思考しなくても、社会全体を眺めてみると意味のある結果をはじき出せること、それが進化論的ゲーム理論の魅力です。 (「ミクロ経済学」戦略的アプローチ から)
 アンドリュー・ブラウンはその著書「ダーウィン・ウォーズ 遺伝子はいかにして利己的な神となったか」をジョージ・プライスの自殺というドラマ仕立ての場面から筆を起こしている。この著者はプライス、ハミルトンそしてリチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールドについて独特の見方を展開している。
 「攻撃的」と「平和的」に関しては、マッド・リドレーがその著書「徳の起源」の中で「タカとハトの違い」という表現で、同じ立場から取り上げている。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『ミクロ経済学』 第2版                             伊藤元重 日本評論社   2003.11.25
『つきあい方の科学』 バクテリアから国際関係まで   ロバート・アクセルロッド 松田裕之訳 ミネルヴァ書房 1998. 5.20
『利己的な遺伝子』     リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店  1991. 2.28
『ミクロ経済学』 戦略的アプローチ                   梶井厚志・松井彰彦 日本評論社   2000. 2.25
『ダーウィン・ウォーズ』            アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社     2001. 5.15
『ダーウィン以来』 進化論への招待   スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房    1995. 9.30
『徳の起源』 他人をおもいやる遺伝子      マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社     2000. 6.14
( 2004年6月14日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(8)ソシアル・ジレンマ
<鳩ばかりでなく鷹もいる社会> ランダム・マッチングの下で鳩ばかりだったらどのような社会になるだろうか?とても平和な社会が予想される?そうだろうか?その社会に鷹が1羽入って来たらどうなる?ライバルがいないので鷹はやりたい放題。それを知って他からカラスやコンドルやハゲタカまでが侵入してくる。 どんどん鷹は増えてくる。平和だった鳩の社会はガラッと変わる。そしてある程度鷹が増えると、鷹同士が戦い、増えるのが止まる。ある程度の比率になったとき、バランスがとれ、パレート最適に似た状態になる。
 こうした考え方を人間社会に当てはめて考えてみる。「話せば分かる善意の人ばかりの社会」と考えると、社会制度が実現不可能な空想社会主義社会になる。社会問題を評して「人々の考え方が変わらなければならない」と言うのは、人々をマインドコントロール(洗脳)して、「平和的な鳩ばかり、価値観の同じ人ばかりの社会にしよう」と言うのに等しい。 「人々の考え方が変わらなければ」と言うのは、「私は正しい判断ができるが、国民の多くは判断力がない」との思い上がった態度なのだ。そして、鳩だけの社会はとても不安定で、少数の鷹に牛耳られて、デモクラシーそれ自体が破壊されてしまう。このような鳩だけの社会は雑種交配もなければ、F1ハイブリッドが生まれることもなく、雑種強勢は期待できず、自家不和合性に陥る恐れがある。 全会一致で物事が決まる社会はこうした意味でも歓迎すべき社会ではない。しょっちゅう右や左から批判と不満が出る社会、それが健全で、内部からの破壊活動や外部からの脅威に対して強い社会になる。
 ということは、右や左からいつも批判されているからといって、「良くない社会」とは言えない、ということだ。 こうした民主制度の下で一部のマスコミは、右や左からの批判を取り上げて政府を批判したり、危機感を煽ったりする。新聞も週刊誌もテレビ局も経営母体は株式会社だから利益追求は当然のこと。情報を印刷した紙(新聞、週刊誌、単行本)を沢山売らなければ社員へのボーナスが出せない。視聴率をとらなければクライアントから広告料がとれない。読者、視聴者、消費者はそうした仕組みを承知のうえで、マスコミの政府批判、社会評論、危機扇情を冷静に判断する。 このため一部の評論家は「これだけマスコミで取り上げているのに、国民はこの危機的状況を理解しない」「いま日本は、半世紀(ないし1世紀)に一度あるかないかと言っていいほど、大きな歴史の曲がり角を曲がりつつあるところだろうと思う」と危機感を煽る。かつて「贅沢は敵だ」と大本営が宣伝したとき、「贅沢は素敵だ」と後ろを向いて、ペロッと舌を出して言っていた日本国民、けっこう豊かなセンスがあって、このシブトサが日本の民主制度を支えているのだ。
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<すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点> ある政策のために政府与党が100億円の予算を付けようとした。これに対して野党は「10億円が適当だ」と言う。この場合予算はどうなるだろうか?100億円と10億円の間で政府案に近い70億円程度なら、与党も野党も納得するかも知れない。仮に70億円で予算が成立すれば、この70億円とは誰が主張したのだろうか?与党は100億円、10億円、どちらの主張でもない。 つまり誰も主張しない政策が実行されることになる。
 もしも100億円の予算が付けば、マスコミは「与党は独裁政治を行っている」「反対党、少数意見を聞こうとしない」と批判する。そうでありながら、この場合のような妥協策を採っていると「政府は公約を実行しない。すべてに中途半端な不徹底な政策しか実行しない」と批判する。 「全会一致で決まることの多い社会は不健全だ」とするならば、このような妥協案が採択されることは多くなる。常に両側からに批判者を抱え、不徹底な政策が実行されることになる。こうして、両側からに批判者に加えて、原理主義者からの批判も多くなる。「政府の政策は長期的な展望がない」「場当たり的な対応をしている」との批判が出る。しかし、こうした批判が出ない場合は、反対党、少数意見を全く無視した場合で、つまり独裁政治を行った場合になる。
 民主制度とは「すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点を求める制度だ」と言うのが適当な表現と言える。こうした曖昧な制度に不満を持つ人は多かった。そのために独裁者を選んだ事もある。強力なリーダーを待ち望んだことも、リーダーに多くの権限を与えすぎた事もある。一神教宗教のような単一倫理で国を運営しようとする場合もある。キリスト教、ユダヤ教、イスラム、マルキシズム、どれも一神教だ。それに対して日本には「八百万(やおよろず)の神」がいる。 「常に異端者がいる方が健全な社会だ」と考える制度は、日本のような一神教でない、絶対神のいない社会にこそ適している。デモクラシーは西洋から入ってきた制度だが「日本の社会に相性の言い制度」と言えるようだ。
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<ソシアル・ジレンマに対し功利主義的に対処する> 絶対神がいない社会では何をもって基本倫理とするか?聖書やコーランや資本論ではない何か?それは、それぞれの国で決めた憲法であり、その決め方は国民が選んだ制度による。そうした場合の倫理基準は、アダム・スミスの言う「公平な観察者はどう見るか?」となる。人それぞれ好きな宗教を信じ、好きな主義を主張し、それを認めながら全体でどうするか?結局多数決になる。 それはちょうど、市場で価格が形成されるのと似ている。時には「プライス・メーカー」がいる場合もあるが、基本的には「プライス・テーカー」が多く、いろいろな思惑がぶつかり合いながら決まっていく。それぞれの個人がそれぞれの将来像をもっていても、結局将来は「予想」でしかない。「政府はビジョンを示すべきだ」と言っても、それは政府のビジョンであって、必ずそうなる、とか、必ずそうする、とは言えない。 それは株価の予想と同じ。だれの予想が当たるかはわからない。
 民主制度とはこうした不確定要素が多く、将来は「予想」でしかないので、「もっとハッキリした将来像をもてる社会がいい」との意見も出るだろう。「何か、もっとハッキリした社会。それを見つけるために今の社会を壊すべきだ」との過激な意見も、表現の自由が認められる「民主制度」では主張することが認められている。 民主制度では民主制度を破壊する主張を表現することすら認められている。
 では民主制度に代わる、よりよき制度はあるのか?そしてそのためには暴力革命も正当化されるのだろうか?倫理とか正義という言葉は主観的・感情的なものであり、人によって立場によってその基準が違ってくる。そこで「感情」の問題を「勘定」の問題に置き換えて考えてみる。こうした経済学的手法とゲーム理論を組み合わせて論じているのに、ゴードン・タロック著「ソシアル・ジレンマ」がある。 「暴力革命はそれに参加する人にとってどれほどの利益と不利益があるのか?」「社会にとって暴力革命による社会がよくなることの利益と、そのためのコストとのバランスはどうなるか?」という面から論じている。つまり「暴力革命の損得勘定はどうなるか?」ということをゲームの理論を使って経済学している。
 ここでは、「紛争への資源投下が個人の立場からしばしば合理的ではあるけれども、社会の立場からは、まったくの浪費に導くこと」「他人からの移転を獲得するために、資源を投下することは、強盗、詐欺、謀略、法律制定の裏工作(レントシーキング)、戦争、デモ、暴力革命、あるいは、これらの行為に対する防衛といった形態をとるにしても、個人が、少なくとも一部の資源をこのような行動に投下するのは、通常は合理的と言える」「これがソシアル・ジレンマである」 「こうしたソシアル・ジレンマ、法に反する所得移転の裏工作、国際紛争、などを制御する効果的な手段は存在しない」このように話を進めて、最後の部分で次のように言っている。
 啓蒙主義の最も強い教義の一つは、人間の制度の完全性への信仰である。非常に多くの制度は、いつも、不完全な部分をある程度残しているというのが本書の主張である。それは単に、われわれが最善を尽くしたとしても、われわれの夢からほど遠いということを意味するものである。真実はわれわれを解放させてくれないが、それはわれわれの効率性を改善してくれる。もし、われわれがユートピアを求めることを放棄し、より謙虚な改良の追求に進めば、われわれは、真の改善を期待できる。 ユートピアを信じ続け、それがあたかも存在しうるかのように振る舞うことが意味することは、もっと現実的な世界観によって獲得しうるよりも、ずっとわずかしか手にしないであろうというということである。他の多くの領域におけるように、ここでも、最善を求めるのは改善の敵である。われわれが「紛争から解放される世界」という夢を捨て、紛争を理解し、制御する方向に向かうならば、われわれは、完全ではないけれども、それでも改善となるような世界を達成するであろう。 (「ソシアル・ジレンマ」 から)
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<民主制度と相性のいい市場経済> 民主制度と市場経済は似ているし、相性がいい。政治制度にもいろいろあるが、その中でもデモクラシー=民主制度は市場経済と相性がいい。民主制度で計画経済を進めようとすると無理がある。計画経済を進めるには大きな権力を持った政府が必要になる。計画経済では個人の政治的、経済的自由をある程度制限しないと進められない。 選挙での一人一票、という制度は市場経済での消費者の権利と似ている。では経済成長と政治制度の関係はどうだろうか?民主制度でなければ経済成長は望めないのだろうか?あるいは、民主制度になれば経済は成長するのだろうか?これは発展途上国、最貧国の経済を考えるとき問題になる。イラクは民主制度を採用すれば経済成長するか?中国は共産党独裁をやめて民主的な政治制度にすれば、更に経済は成長するのだろうか? ミャンマーが軍事独裁をやめて、アウンサンスーチー女史グループに政権を移譲したら、国民の生活は豊かになるのだろうか?
 1989(平成1)年6月4日未明、天安門前広場に集まったデモ隊を人民解放軍が武力鎮圧。中国政府は事件で319人が死亡と発表。これを「天安門事件 」と言う。 後に、ケ小平はカーター元大統領に対して次のように語り、自らの民主化に対する考え方を示している。
 「人々はよく民主をアメリカと関連させるが、われわれは貴国の丸写しはしない。理解していただけると思う。もし中国で多党選挙や三権分立を行えば、必ず混乱になる。中国の主要な目標は発展であり、貧困から脱却することだ。これの前提は政治局面の安定なのである」
 もし、あの時点で趙紫陽が民主化を認めたら、共産党以外の政党が認められたら、これほど急激な市場経済化は進まなかった。「市場経済は弱肉強食だ」「福祉政策を充実させるため政府は所得政策を行うべきだ」などが主張され、「改革・解放は大胆に進めるべきだ」が支持されなかったろう。「たとえ貧しくとも、皆が同じで、格差が少なければそれがいい」が主張され、これほど急激に豊になることはなかった。未だに遅れたアジアの象徴であったに違いない。
 シンガポールは建国以来リー・クアンユーの人民行動党が政権を担い、それは独裁と言えるものだ。そして韓国、軍事政権=朴政権時代に経済は大きく成長した。アジアではフィリピンとインドが比較的民主的な国家と見られるが、両国とも経済面で他のアジア諸国と比べると見劣りがする。むしろ「開発独裁」と言われる制度の方が経済は成長してきた。民主制度は経済成長にとっては、必ずしも最適の社会システムではない場合もあるようだ。 そして、このように多くの欠点を持ちながら、それでも、デモクラシーが「今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と言えるように、市場経済も多くの欠点を持っているけれども、「今まで存在したいかなる経済制度よりもましな制度」であり、「市場経済とは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、資源の最適配分と、人々の働く意欲を刺激するするための功利的な制度なのである」とも言える。
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<デモクラシーと経済成長>  ハイチやソマリアにも民主主義が必要だと聞けば、なんの異論もないように思うが、はたしてそうだろうか。政治の自由度が増せば、経済の自由度も増し(私有財産権が確立され、自由市場が発達し)、経済成長に拍車がかかるだろうか?生活水準がどれほど低くても、民主的な制度は確立できると言いうるのだろうか?歴史を振り返ってみれば、たとえ不快であるにせよ、こうした疑問に対する答えはかなりはっきりしている。国民の政治的権利が拡張しても、経済成長に大きな影響はない。逆に、広い意味での生活水準が上がってくると、政治の自由度が増してくることが多い。 貧しい国で芽生えた民主主義は、長続きしないことが多く、外部から押しつけられた場合はとくにそうだ。
 民主化が経済成長に与える影響は、よくわかっていない。ミルトン・フリードマン(『資本主義と自由』)など、政治と経済の自由は相互にプラスの影響を与えると主張する人たちもいる。政治的な権利が拡張すると、すなわち民主化が進むと、経済的な権利が確立され、経済成長が刺激されるという見方である。
 しかし、民主主義には、経済成長を阻害する性質があることも、しばしば指摘されている。民主主義においては、富める者から貧しい者に所得を再分配する社会政策を、多くに人が求める傾向がある。累進課税、土地改革、福祉政策などがそうだ。そうした政策が望ましい場合もあるが、最高税率の引き上げなど、歪んだ政策がとられれば、投資や勤労の意欲が損なわれ、経済成長が抑えられることは避けられない。
 代表制民主主義にはもう一つ、経済成長を損なう性質がある。それは、農民、環境保護団体、軍需産業、身体障害者などの特別利益団体が強い政治力を持つことである。こうした団体は、自分たちの利益になるような政策をとるよう政府に圧力をかける。政府が圧力に屈すると、経済に歪みが生じ、経済成長が阻害され、結局、そのしわ寄せは弱者にいく。(中略)
 民主主義と経済成長には関係があるという点では、大方の意見は一致しているが、民主化が経済成長にプラスになるかマイナスになるかについては、意見が分かれる。プラス、マイナス両方の影響があるとして、どちらの影響の方が大きいかは、学問的に結論は出ていない。したがって、どちらの影響の方が大きいかを考えるには、過去の実例をみる以外にはない。 (「経済学の正しい使用法」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ソシアル・ジレンマ』 秩序と紛争の経済学    ゴードン・タロック 宇田川璋仁他訳 秀潤社     1980. 2. 1
『経済学の正しい使用法』ー政府は経済に手を出すなー ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14 
( 2004年6月21日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(9)レント・シーキング
<レントシーキングという概念> デモクラシーは完全無欠の主義ではない。多数決でさえ必ずしも「総意を表現している」とは言えない場合もある。「民主的な政治制度にしたら、経済は成長するのか?」と言うと必ずしもそうとは言えない。「開発独裁」と言われる、アジアで試みられた制度の方が効率的かもしれない。 民主制度になったからと言って、ソシアル・ジレンマがなくなるわけでもない。しかも民主制度では「レントシーキング」と言われるやっかいな問題が生じる。国会議員が有権者の意見を聞き、利益を守ろうとすれば、「レントシーキング」がなくなることはない。そこで、ここでは「レントシーキング」について考えてみることにする。
 レントシーキングという概念は、アン・クリューガーの「レントシーキング社会の政治経済学」American Economic Review, 1974年、June論文に遡る。
 「自動車排出ガス規制……マスキー法案が上程されたとき、日本の会社はエンジニアを雇ったが、アメリカでは、法律家を雇った。……アメリカの巨大化学会社デュポンの社長は、長い間エンジニアでしたが、現在では法律家です。 そして、アメリカの企業のトップは、現在、ますます、この手の人に──効率を上げることのできる人にではなく、マヌーバーの専門家、レントシーカーによって占められるようになっています。アメリカの弁護士の数は増加し続け、人口一人当たり弁護士の数は世界一でしょう。これはアメリカ経済のパフォーマンス低下の根本的な原因である」として、タロックは、アメリカの現状を嘆き次のように続けて言う。
 「東洋工業の経営が危うくなったとき、日本株式会社は何もしなかった。ところが、アメリカ政府はクライスラーに多大な援助をしています。アメリカの企業や産業は政治的手段に訴えて、自分たちの利益を守ってもらっています。日本車の輸入規制を求めて成功もしています。……もし、政府に頼って利益が上がるようなら、誰がコストダウンと効率化を考えるでしょう。レントシーキング社会には、経済成長も経済発展もない」と。
 しかし、それでも、タロックは、アメリカは、イギリスと比較すればまだまだずっとマシであるといい、日本は、レントシーキング社会から最も遠い社会であると言ったのだった。……1980年のことである。(中略)
 先の引用は1980年にゴードン・タロックが日本で行った講演内容の一部である。タロックはレントシーキングと言う概念を創作し、アン・クリューガーが名付けたレントシーキングという言葉がミスリーディングだと不満をもらしつつ、この言葉をテクニカルタームとして定着させ世界に警告を発した人である。 (「入門公共選択」から)
 「日本株式会社」という言葉を使う人がいる。日本では役所と産業界が一体になって経済を運営している、との認識からだ。しかし、上の文章からは逆のことが読みとれる。アメリカの経済学者は、「アメリカでは日本以上に政府が企業の経営にタッチしていた例がある」と言う。日本の経済学者は、日本経済は見ているが、アメリカ経済には目が向かないようだ。自虐的になっているのか、あるいは視野狭窄になっている。 「日本株式会社」という見方に対する批判も見あたらない。エコノミスト業界に雑種強勢は期待できないのだろうか?自家不和合性に陥っているのかもしれない。
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<国会議員は圧力団体に弱い> 「サルは木から落ちてもサルだが、国会議員は選挙に落ちたらタダの人」。選挙に落ちないためには有権者のご機嫌をとらなければならない。ちょうどサプライサイド=供給者=メーカーや中間業者や小売業者がディマンドサイド=消費者=お客様=神様のご機嫌をとるのと同じようにだ。ではどのようにご機嫌をとるのか? 「交通違反をしました。先生の力で警察の書類をもみ消して下さい」「上の息子が就職なのです。先生の力で上場会社へ入社出来るようにして下さい」「先生は国立大学に影響力があると聞いています。そこで勉強したいと言う若者がいます。先生の力を貸して下さい」「隣町との境の川に橋があると、おらが町が豊になる」「町の繁栄のために公民館や図書館があるといい」。このような件に応えることから、業界団体の利益に結びつく法律の制定まで、幅広く有権者の利益拡大に尽くすことになる。 中国からの長ネギの輸入が急増し、「日本の農業が危機に瀕する。食糧自給率を向上させるためにも輸入制限をすべきだ」との声が聞こえてくると、関係省庁へ働きかけ、輸入制限処置を行う。これによって消費者が安いネギを購入するチャンスを奪い、代わりに農家の利益を守ろうとする。かつてアメリカでは日本からの急増する自動車輸入に対して、アメリカ政府に働きかけ、日本の自主規制を勝ち取った。 それはアメリカの消費者が安い日本製の乗用車を買う機会を犠牲にしての政策だった。日本の農家は安く、良い物を生産する代わりに国会議員・政府に働きかけることによって利潤をあげることができる。アメリカの自動車メーカー=ビッグ3は、消費者に気に入って貰う乗用車を開発する代わりに、政府に働きかけて利益を確保しようとする。このように市場での競争に勝ち、利益を上げるのではなく、政府に働きかけ法律や、行政指導によって自分たちの利益を確保しようとする行為を「レントシーキング」と言う。 こうしたレントシーキングが効果を上げる場合、ほとんどの場合消費者利益は犠牲になっている。少数の業界人が大きな利益を得て、多数の消費者がそれぞれ少しずつの不利益を被る。少数の業界人は大きな利益のために力を入れて行政側を動かそうとする。これに対して消費者は小さな不利益なので黙って見過ごす。両方を計算すると、社会全体には不利益の方が大きいのだが、業界人は強引に押し通してしまう。 利益を受ける業界人が多いと、一人当たりの利益は小さくなるので、むしろ利益を受ける業界人が少ない問題の方が、熱心にレントシーキングに力を注ぐ。そしてごく少数者のために多くの消費者の利益が犠牲になる。それでも「豊かな多数を守るのではなく、少数の弱者こそ守るべきだ」との主張も聞こえてくる。
 民主制度のもとではこのように少数の利益のために、多数者の利益が犠牲になることがある。国会議員には常にレントシーキングの働きかけがあり、時には利益供与の裏約束があることさえある。こうしたレントシーキングを批判する人は多い。ジェイムス・ブキャナンをはじめとする「公共選択論=Pubulic Choise Theory」を研究するグループは厳しくレントシーキングを批判する。特にその裏工作が国の予算に影響することを懸念し、予算がレントシーキングによってあまりにも大きくならないように、「憲法で予算作成の規範を決めるべきだ」とさえ主張する。
 しかし、レントシーキングという政策をゆがめる力をなくすことはできない。ソシアル・ジレンマがなくならない、と同じように民主制度でレントーシーキングが皆無になることはない。選挙によって国会議員を選ぶ制度である以上、立候補者は有権者の声を聞かなければならない。もしも「有権者はいろいろ要求するが、国家のためには有権者の声も無視するべきだ」と言って、有権者の要求と反対のことをしたら、選挙で落選するだろうし、国会議員が有権者の考えと反対の政策を実行したら、代議員制民主制度は機能しなくなる。
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<対策は、なるべく市場のメカニズムに委ねること> 利益団体や業界人は自分たちに有利なように予算を獲得しようとし、各省庁に働きかける。このため予算は膨張する方向へ圧力を受ける。国家予算はたとえ赤字であっても膨張しようとする。これを押しとどめるにはどうしたらいいか?J・M・ブキャナンの答えが、「憲法で予算の膨張率を制限する」だ。たとえば、「国家予算の拡大率は前年比8%以内とする」という憲法の条文を作るべきだ、との主張になる。こうした点に関して TANAKA1942b は「日本版財政赤字の政治経済学」▲で、次のように書いた。
 日本版財政赤字の政治経済学(Democracy in Deficit)の結論は、「借金をするときは返済計画を立ててからにしましょう」という極めて常識的なものだ。30兆円の国債を発行するなら「国債償還のために、3年後から 7年間にわたって消費税を 3%アップして 8%とする」のような返済・増税計画を発表すべきだ。「そんなに借金して、消費税アップしてまで景気対策する必要はない」との意見もあるだろうし、「それでも対策が必要だ」と国民が言うなら対策は実行することになる。それが民主制度であり、その結果の責任は国民が負うことになる。
 民主制度が完全無欠な制度ではないのと同じように。市場経済も完全無欠などではない。しかし、もっともっと市場のメカニズムを利用する方法はある。「企業・市場・法そして消費者」で書いたように、企業のヤバイ行為を規制する力も持っている。 ネギやシイタケが一時的に輸入量が増大したからと言って、緊急輸入制限などしないこと。日本製の乗用車の輸入が急増しても、アメリカ政府は市場の動きを見つめるだけでいい。そのように政府の態度は変わっていけば、レントシーキングによる政策のゆがみは少なくなるだろう。このように TANAKA1942b は考えていても、国会議員・圧力団体は規制緩和に対して抵抗勢力として働き、レントシーキングが働きやすい政治環境を維持しようとする。公務員は常に収賄の対象として狙われることになる。各省庁は役所の裁量権を拡大し天下り先を作る。このように民主制度には、公正な政策実行を脅かす力が常に働いていて、この民主制度の弱点はなくならない。
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<族議員=抵抗勢力> 「骨太の経済政策」「構造改革なくして成長なし」と小泉首相が旗を振っても、抵抗勢力は独自の動きをする。既得権を持ったグループ、業界人などの利権代弁者である族議員は、その既得権を守ろうとする。道路公団の民営化を唱えても、公団であるが故の既得権に甘んじているグループは抵抗する。公団であるために採算が取れなくても道路は建設される。これにより建築、土木、道路会社は仕事が確保される。このため業界は国会議員、行政当局に働きかける。このレントシーキングが効をとおし、道路公団の民営化は難航する。郵政の民営化も同じように抵抗する力が強い。 農産物の関税率引き下げ、自由化は日本だけではなくEUも抵抗するのでWTOでも国内関係者のレントシーキングは成果をあげる。
 では利益団体のどのような要求ならば、レントシーキングを認めるべきか?それに答える明確な基準はない。人によって基準は違う。贈収賄などの法律に触れることは基準があっても、倫理的なものはない。市場で消費者に気に入られて利益を上げる方法と、国会議員や行政当局に働きかけるレントシーキングによる利益確保とが並行して行われる。 ということで、民主制度では「族議員」はなくならない。そして国家公務員の天下りもなくなることはない。
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<多数派が少数派を支配する多数決> 今週のテーマ「レントシーキング」はJ・M・ブキャナンを中心とする「公共選択= Public Choice」と呼ばれるグループが扱っているテーマだ。そこでこのシリーズの第1回で扱った「多数決」、これについてブキャナンはどのように言っているのか?見つけ出したので、ここに引用しよう。
 多数決投票制の基本原理は単純なものです。すなわち、多数派が少数派を支配するということです。定義からして、対称性をもった結果はあり得ないということです。どんな対称性をもった結果も、支配権を握る連合の形成にかかわらず、非対称性の結果に支配されてしまうということです。
 あるものを3人で分けるという単純多数決ルールを考えてみましょう。対称性のある解の場合には、3分の1ずつみんなで分け合うということになるわけです。お気づきかと思いますが、この解というのは多数決によって支配されるということです。つまり、偶然に多数派連合を形成した2人が全部とるという解が最終的に支配するというわけです。したがって、対称性をもった解もしくは価格を分配するという考え方は、多数派連合から提示されることは絶対にないわけです。 (「行きづまる民主主義」から)
<チャーチルのことば> ブキャナンはデモクラシーについて、チャーチルの言葉を引用して、このシリーズ「民主制度の限界」の見方と同じことを言っている。
 ウィンストン・チャーチル( W.Churchill)のつぎの有名なことばを思い出します。「もちろん、民主主義はこれまで時々試みられた別の形態を除いて、あらゆる政府の形態のなかで最悪のものである」民主主義はとてもうまく機能するものではありませんから、それ以上にうまく機能する別の政府形態を工夫できればけっこうなことです。しかし残念ながら、それ以上にましなものは見当たりません。これまで考えられたほかの制度のほとんどはもっと悪いといえます。 (「行きづまる民主主義」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『経済学の考え方』──ブキャナン経済学のエッセンス       J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『公と私の経済学』──ブキャナン経済学のエッセンス       J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10 
『自由の限界』──人間と制度の経済学              J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 秀潤社     1977. 7.15
『公共選択の理論』──合意の経済理論  J.M.ブキャナン、ゴードン・タロック 宇田川璋仁監訳 東洋経済新報社 1979.12.20 
『レントシーキングの経済理論』   ロバート・トリトン、ロジャー・コングレトン 加藤寛監訳 勁草書房    2002. 7.15
『コンスティテューショナル・エコノミックス』          J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 有斐閣     1992.12.10
『赤字財政の政治経済学』          J.M.ブキャナン、R.E.ワグナー 深沢実、菊池威訳 文眞堂     1979. 4.25 
『財政赤字の公共選択論』     J.M.ブキャナン、C.K.ローリー、R.D.トリソン 加藤寛監訳 文眞堂     1990.11.10
『入門公共選択』──政治の経済学                         加藤寛編 三嶺書房    1999. 1.25
『ハンドブック 公共選択の展望』 第V巻       D.C.ミューラー 関谷登、大岩雄次郎訳 多賀出版    2001. 9.15
『行きづまる民主主義』 公共選択の主張T        J.M.ブキャナン、G.タロック 加藤寛 勁草書房    1998. 6.20
( 2004年6月28日 TANAKA1942b )
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