『静岡銀行史』 静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行 1993. 3.31
『創業百年史』 山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行 1981. 3
『阿波銀行百年史』 阿波銀行百年史編纂委員会 阿波銀行 1997. 5.30
( 2006年9月11日 TANAKA1942b )
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新潟県の銀行類似会社
殖産事業や貸金業などから普通銀行へ
先週は銀行類似会社のうち静岡県・山梨県・徳島県の例を見てきた。今週は新潟県の例を見ることにした。
殖産事業、商社、貸金業など、いろんな性格を持った銀行類似会社が銀行条例の公布により普通銀行などに転換していった。
こうした面を北越銀行『創業百年史』から引用することにしよう。平成不況加から脱却し、経済が上向きになったこのごろ、「日本でベンチャー企業を育成するにはどうしたらいいのか?」などという議論が気になる。
明治初期の銀行類似会社を見ていくと、「21世紀とはくらべものにならないほど、明治時代はベンチャー企業の時代だった」と思う。明治政府は国立銀行や私立銀行の条例を作ったが、それとは別に、士族・地主・金貸・名士などが勝手に金融サービスを提供し始めていた。
それは、ベンチャー企業と呼ぶにふさわしいものであったと思う。
(^_^) (^_^) (^_^)
<新潟県の銀行類似会社=北越銀行>
明治前期において、私立銀行、銀行類似会社は急激に増加し、特に銀行類似会社の急増が著しく、明治19年には748社に達した。
新潟県の金融機関の圧倒的多数を占めたのも銀行類似会社であった。ピーク時の明治18年には80社を数えた。
本県における銀行類似会社の発生はかなり早く、明治12年の『新潟県統計書』には、貸金業として7社、物品抵当貸付金業として3社の名前が見られる。
貸金業の7社は城下町として栄えた高田(現上越市)とその近郷にあったが、そのうち4社が商資励舎、2社が商法用達舎の名称を用いていることからも、士族授産との関係が深かったと思われる。
物品抵当貸付金業の3社は、積小社、北越商会、長岡商会であった。
積小社
新潟の積小社は、『新潟市史』によれば、明治4,5年ころの設立とされており、県内における銀行類似会社の最初のものであった。
新潟為替会社が公金費消事件を起こした際、県から穴埋め資金の立て替えを命じられていることから、かなり堅実な内容の貸金会社であったと思われる。
北越商会
北越商会は、明治12年6月、渋沢栄一、八木朋直ほか8名が中心となり、資本金1万2,000円を募って新潟に設立されたものである。
倉庫業を兼ねて保管の貨物を担保に金融を行う一方、預(あずかり)証券を発行してその流通を図った。当時、預証券の発行はわが国では希有のことであった。
北越商会設置申合規則は、同社の業務内容と設立の目的を次のように記述している。
「当商会の業務は、国内の米穀は勿論製茶其他凡そ物産の流通上に於て、農商の便宜を開かんことを旨とし、而して米穀の如きは其依頼により之を預り、預り券を公布し、売買或は質入等の信票となさしめ、
又当商会に於いて右米穀其他の抵当物に就き貸付金の融通を図り、且農商の望により、委託物を引受け、之が運搬販売のことを取扱ひ、世上の信憑を実際に得て、以て逐次殖産の隆盛を興起せんことを企望し、ここに営業上の便法を商議し規則を設く……」
しかし、倉庫の位置が信濃川の河口から4キロも離れた沼垂鏡が岡にあり、立地条件が悪く、保管を託するものも少なかったため事業不振となり、明治17年7月に解散した。
長岡商会
長岡商会は、明治12年12月、第六十九国立銀行内に資本金8万円で設立され、翌13年3月11日に開業した。
大株主には、西脇吉郎右衛門(北魚沼郡小千谷町)、山口権三郎(刈羽郡横沢町)、山田権左衛門(三島郡七日市村)、遠藤亀太郎(三島郡藤橋村)を初め、長岡町所在の岸宇吉、佐藤作平、山崎又七、木村儀平、山口万吉、小川清松、目黒十郎、谷利平などが名を連ねている。
設立当初の株主総数は324名であったが、そのほとんどが第六十九国立銀行の株主によって占められていた。頭取は遠藤亀太郎(第六十九国立銀行取締役、地主)、支配人が岸宇吉(同副支配人)であったことからも、当商会と第六十九国立銀行は姉妹会社の関係にあったと言えよう。
なお、会員は、遠藤亀太郎、長部杉四郎、山崎又七、佐藤作平、山口万吉、小川清松、下田藤太郎、岸宇吉、志賀定七、小林伝作、目黒十郎、渡辺良八、谷利平ほか1名の14名であった。
商会の目的は、13年3月27日付の『新潟新聞』に、「古志郡長岡商會にてハ、積立金の資本金八萬圓の内から新潟往復の川汽船二艘を買入、また活版所を設け、印刷を盛んにし、人民の便益を謀らんと日頃協議中……」と
奉じていることからも、長岡地方の殖産興業が大きなねらいであった。
長岡商会は、新潟の有志と図り、川汽船会社(明7.7設立、資本金1万5,000円)に対抗して、新潟・長岡間往復の川汽船会社の創設を企画した。13年9月15日、新潟の荒川太二らが発起人となって、安全社(資本金2万円)の設立願を県に提出、翌10月8日に営業免許を受け、同社は11月20日に新潟区下大川前通り二之町に設立された。
その際、長岡商会は、同社の資本金の32.5%に充たる6,500円(65株)を出資し、ほかに長岡町民5名がそれぞれ7株ずつの35株(3,500円)を出資しており、長岡側の資本は半数を占めた。
(注)その後、安全社の汽船で新潟。長岡間の交通を盛んにした。明治15年、新潟の川汽船会社は安全社に買収され、社名を川汽船会社安全社と改称した。しかす、明治16年2月、小千谷の有力者によって新潟・小千谷間の通運を目的とする藁進社が設立されたことから競争が激化した。
そこで、競争によって弊害が生ずるのをおそれた鈴木長藏(のち新潟市長、衆議院議員歴任)らの熱心な調停により、19年2月、両社合併して社名を安進社と改めた。
鉄道が開通するまで、東京から県内への貨物輸送は、ほとんど三国峠を越えて六日町から船で下ったものである。当時、六日町・長岡間の船は不定期で運賃も高く、そのうえ船数も少なかったため長岡商人は不便を嘆いていた。
そこで長岡商会は、長岡の商業の発展を期して、魚野川の通運権を掌握しようと図った。六日町の船を全部買い占め、同町に通船取引所を設けて運賃を一定にし、船数を増し、安全社の経験を生かして積極的な通運業務に乗り出した。この通運取引所が後の長岡内外用達会社である。
このように、長岡商会は、川汽船会社への出資、通運業務などを兼営して長岡地方の商工業の発展を図る一方、貸金業務にも力を注いだ。
『岸宇吉翁』(小畔亀太郎編、明治44.10刊)によれば、「商會の貸金は、生産事業奨励の意に出たのであるから、北海道には最も多くの貸出をした」と記述している。長岡出身の太刀川善之助を商会の代理人として北海道における貸付事務の一切を取り扱わせたが、彼の斡旋で貸し付けた口数は多数に上ったと言われている。
また同書は、「當時の事務担当者は小林喜平、柳町勘平の諸氏で、此の活動の為に如何ばかり産業界を向上せしめたかは人の知る所である」と記述し、商会が貸金業務を通じて長岡地方と北海道の発展に大きな足跡を残したことを物語っている。
このほか、長生橋の維持・管理のため多額の資金を投下すると共に、事務員を出張させて橋銭の徴収も行うなど多方面にわたって業務を推進した。
長岡商会は、創立10数年で解散した(時期不明)。その間、長岡地方の商工業の発展に寄与するところ大であったが、収益面では見るべきものfがなく、解散の際にようやく元金の割り戻しができたに過ぎなかった。
しかし、株主中の有志が、この割戻金をさらに出資して長岡製糸場を興しているのは注目に値することである。
(北越銀行『創業百年史』から)
<銀行類似会社の増設と衰微=北越銀行>
新潟県内の銀行類似会社は、明治12年には10社を数えたが、新潟、長岡、高田およびその近在に限られた分布であった。さらに、翌13年には県内各地に23社が増設され、18年にはピークの80社となった。
本県の銀行類似会社のなかには、県内の国立銀行の足本金を上回る規模のものもある一方、資本金1万円未満の会社もかなりの数に達したが、1社あたりの平均資本金は4万円前後で、他県に比較してけっして小規模ではなかった。
このことは、県内各地の商工業中心地に設立された銀行類似会社が多く、しかもその資本金において、県内国立銀行の下位行を上回るものが16年末ですでに5社を数え、10万円以上を有するものが11社に及ぶなど、当時としては比較的大きな資本のものが含まれていたことによるものである。
県内各地の銀行類似会社の中には、他行とコルレス契約を締結して積極的に為替業務を行い、公金も取り扱うなど国立銀行に比較して遜色のないものもあったが、総じて資本金を貸し付ける貸金会社であり、預金は僅少であった。
また、13年以降、山間僻地に至るまで県内各地の農山村に小資本の銀行類似会社が設立されたが、同様に預金は僅少で、そのほとんどが資本金を貸し付ける貸金会社であった。
松方デフレが信仰するなかで、17年を頂点とする農村不況のため、県内の銀行類似会社のなかには業態が悪化し、19年以降、解散するこのが増加した。
さらに、滞貸金の整理による自社株の所有が増加したため減資する会社が相次いだ。
このように、県内の銀行類似会社の多くは、農村の不況期に増設され、農村金融の担い手となったが、営業満期前に解散したもの、他業種に転換したもの、普通銀行に改組したものもあり、25年末には34社に激減した。(中略)
当時は、全国的に零細な貯蓄預金専門の私立銀行も増加していたので、普通銀行よりも厳しい監督を施すため、銀行条例と同時に「貯蓄銀行条例」も制定され、取締役の無限連帯責任、貯金払い戻し保証のための国債供託制、資金運用方法の制限などの措置が講じられた。
この2つの条例によって、ようやくわが国の銀行制度が確立したのである。
銀行条例は同時に、乱立していた銀行類似会社の取締りを強化するめらいもあったから、その施行を契機にして全国的に銀行類似会社の整理が進行し、約半数が普通銀行に転換した。
明治25年末に34社を数えた県内の銀行類似会社は、銀行条例施行後、25社が普通銀行に転換し、他業種へ転換したもの3社、解散その他6社となり、26年以降、統計面から姿を消した。
一方、26年7月以降28年までに5行(上能生産金融会社、秋成合資会社、小出荷為替合資会社、雷土銀行、三島農商銀行)の普通銀行が新設され、28年6月には県内貯蓄銀行の嚆矢となった直江津積塵銀行、同年9月には新潟貯蓄銀行が新設されて、28年末の県内銀行数は、国立銀行5行、普通銀行32行、貯蓄銀行2行、計39行に達した。
日清戦争後、景気が回復し企業熱が勃興したため、銀行の業績は好転し、再び銀行の設立が増加して34年末には1,867行を数えた。この間、国立銀行のうち122行が普通銀行に転換した。
また、特殊銀行も相次いで設立され(明30年日本勧業銀行、31年農工銀行、33年北海道拓殖銀行、35年日本興業銀行)、30年の金本位制と相まって、わが国の貨幣金融制度はいちだんと整備された。
(北越銀行『創業百年史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』 北越銀行行史編纂室 北越銀行 1980. 9.10
( 2006年9月18日 TANAKA1942b )
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青森県の銀行類似会社
小野組から始まった金融事業会社
今週は青森県の銀行類似会社を扱う。銀行類似会社をテーマに扱うのであるが、その前に明治初期、青森県の金融情勢から話を始めることにする。
青森県で最初に大きな動きを見せたのが小野組だった。この小野組、後に破綻するのだが、とにかくハイリスク・ハイリターンを狙ったベンチャー企業であった。その小野組が突っ走った道を一緒に突っ走ったのが開宝組、岡田組、大六組など。
その先頭グループがズッコケタ後を三井銀行が引き継ぐことになった。そして、公金を扱うグループとは別に銀行類似会社が幾つか誕生することになった。日本列島の最北端でも銀行類似会社が地域経済を支えていた。
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<青森県における銀行業の誕生=青森銀行>
わが国に明治維新政府が成立したのは、イギリス産業革命から約1世紀を経、欧米資本主義がようやく自由経済から独占の段階へ移ろうとする時期であった。
当時、先進資本主義諸国のわが国に対する圧迫は強く、植民地化の危険さえはらんでいた。新政府はこうした国際情勢に対処するため、封建制度を打破する一方、殖産興業のスローガンをかかげ、近代的経済制度、近代産業技術の移植を通じて、資本主義的生産方法の保護育成に全力を傾注しなければならなかった。
すなわち、政府みずから機械、設備を輸入し近代的工・鉱業を興し、民間に模範を示すとともに近代的交通通信機関を整備し、他方、民間近代産業育成のため博覧会、共進会などの施策を通じて啓蒙、指導につとめた。
さらにその裏づけとして、近代的幣制の整備、近代的金融制度の確立について多大の努力を払ったのである。
他の部門はしばらくおき、金融制度についてみれば、政府はまず、明治2年東京・横浜・京都・新潟・大阪・神戸・大津・敦賀の8か所に為替会社を設立している。
設立者はほとんど旧幕時代から御用為替方を務めた商人・高利貸であり、その中心は三井、島田、小野などの特権商人であった。為替会社の主業務は預金、紙幣発行、貸出、為替、両替等であり、その資金源は身元金、政府貸し下げ金、預金等であった。
貸付は旧藩主や士族にたいし優先的に行われ、それはさらに問屋、商人に貸し出された。為替会社は政府の手厚い保護のもとに一時繁栄したが、4年7月の廃止とともにしだいに衰運に向かい、横浜為替会社をのぞき、いずれも巨額の負債を生じて解散するに至った。
銀行類似会社の設立
資本の貧弱なわが国において殖産興業をはかるためには、まず共同出資による会社の設立を促すことがとくに肝要であった。
そこで政府は為替会社を保護育成するとともに、極力、会社知識の啓蒙に努めたこともあって、民間でも4年末ごろから金融機関設立を企図するものが現れた。三井組バンクの創立出願をはじめ、東京銀行、小野組バンク、豊岡の浚疏会社、鳥取県の融通会社、滋賀県の江州会社等多くの設立出願があいついで行われた。
政府はこれに対し法規に反せず、また公益を害さないかぎり、あえてこれに干渉しない方針をとり、「人民相互の結約」にまかせた。
しかし国立銀行条例の関係もあって、「銀行」の名称を使用することを禁じた。一般に「銀行類似会社」と呼ばれたこれらの会社は年を追って増加し、4,5年ごろには百にのぼるありさまであった。
国立銀行設立以前のこれら銀行類似会社については、旧幕時代からの為替方、両替商、掛屋、銀方、藏元あるいは質屋、無尽、頼母子講等の旧金融業者が引き続き銀行類似業務を営んだほか、士族のための金融授産施設や豪商、豪農等の有力者たちの庶民高利貸、小金融機関としての銀行類似会社が設立されたと言われる。
そのうち、三井組、小野組のような旧幕時代からの為替方の勢力が強く、とくに政府と結び付いて官金取扱を行うものは有力であった。
中央資本の進出
明治初期の青森県において中心的な金融機関は、中央の巨大商人たる小野組であった。明治4年7月の廃藩置県以後、三井、島田、小野の為替方は府県方と称し、3府72県にわたって支店出張所を設け、公金の収支に従事した。
そのうち小野組はもっとも積極的であった。すなわち小野組は4年から府県方をはじめ、5年4月には兵庫、長崎、滋賀をはじめ21府県に出張所をおき、6年7月には1府28県の為替方を勤めるに至った。
これに対し三井組は5年に5か所、6年に13か所の為替方をなすにとどまる。6年5月における小野組「諸店名前書」によれば、小野組は「青盛米町四丁目」に出張所をおき、青森県の公金取扱に当たったことがうかがわれる (宮本又次『明治初期の為替方と小野組(4)』バンキング221号) 。
ところで、「青森市沿革史」によれば、小野組進出に続いて榎本六造は開宝為替方を青森浜町に設立し、支配人赤松岩次郎を任命し(中巻696頁)、「青森市史」によれば、小野組、開宝組におくれて岡田組、大六組等の為替方が青森に支店を設けたといわれる(中巻309頁)。
このように青森地方に中央の大商人の進出が続いた背景としてつぎの事情がある。すなわち、明治6年の地租改正によって、政府はこれまで穀価の高低による歳入の不安定から免れ得たが、一方農民は農産物の販売の必要に迫られた。
由来津軽は米産地であって、藩政時代余剰米は貢租として大阪、江戸に回送され、北海道、下北方面に輸出されていた。ことに明治期にはいり、政府が北海道開拓を国策事業として計画、鋭意勧奨したため渡道者は急増し、これにともない津軽米の北海道輸出も増加した。
かくて北海道への要津たる青森はがぜん、米の集散市場となるに至った。ここに着目した小野組、開宝組、岡田組、大六組は米買い上げのための金融機関として農民へ融資すると共に、さかんに米相場を行ったのである。
明治8年村林勘六、榎本六造の「米金紛議」の訴訟はこのような貢米買請業務のあり方を示している。(中略)
(『青森銀行史』から)
三井組・三井銀行
小野組は明治7年没落したが、その影響を受けて開宝組、岡田組、大六組などいずれも破産し青森を引き上げて行った。
小野組に代わって青森県為替方となったのは三井組である。三井組は9年8月、三井銀行に発展するが、青森県内では明治9年に青森出張店、明治13年に弘前出張所、明治24年に八戸出張所が設けられた(「三井銀行五十年史」による。詳しくは第3部「付・青森県内における県外銀行支店の沿革」参照)。
ところで三井銀行は三井物産会社との協同によって納税資金荷為替取組をなした。その方法は、三井物産会社出張人は区長、戸長と代理契約を結び、現米受領後、本人への約定金額に相当する三井銀行の振出手形を交付する。
本人から区、戸長にこれを提出し納税の手続きをする。貸出の割合は県下平均時価の6割ないし7割までとする、というものであった(「三井銀行80年史」91−93頁)。
三井銀行はかかる方法に基づいて、当時、青森のほか秋田、宮城、三重、愛知、福岡、長崎、熊本において米穀荷為替取り組みをなしたと言われる。
(『青森銀行史』から)
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<青森県の銀行類似会社>
表は断片的資料から整理し得た地元資本による金融機関である。銀行類似会社についてはこれに記載漏れのあることが想像されるが、同表によれば明治25年までに国立銀行2行、私立銀行3行、貯蓄銀行1行、銀行類似会社12社が設立されている。
国立銀行は後にゆずり、私立銀行、貯蓄銀行、銀行類似会社の設立状況を見ればつぎの通りである。
まず青森においては三井銀行や第五十九国立銀行が進出し、金融の便をはかってきたが、いずれも支店であった関係上とかく不便を免れず、ために当地の有力者は相はかって講を結んだ(「青森市史」第4巻337−8頁)。
済通社、正進講、盛融舎はその主なものであった。
青森県内、銀行および銀行類似会社一覧 (明治25年まで)
名 称 |
設立年月 |
設立地 |
資本金 |
資料 |
済 通 社 |
14年 |
青森 |
|
青森市史第4巻 |
正 進 講 |
不明 |
同上 |
|
同上 |
盛 融 舎 |
24〜25年 |
同上 |
|
同上 |
積 善 講 |
18年 |
同上 |
|
二代 渡辺佐助伝 |
共 益 社 |
19年2月 |
同上 |
20年ー2万円 |
青森県統計書 |
第五十九国立銀行 |
12年1月 |
弘前 |
12年ー20万円 |
明治財政史第13巻 |
明 八 会 社 |
8年 |
同上 |
|
弘前市史 明治大正昭和編 |
金 廻 舎 |
15年 |
同上 |
|
同上 |
弘 前 進 新 社 |
15年1月 |
同上 |
|
弘前進新社定則 |
弘前進新銀行 |
24年5月 |
同上 |
25年ー5万円 |
弘前市史 明治大正昭和編 |
両 盛 社 |
22年4月 |
木造 |
25年ー2万円 |
青森県統計書 |
高 谷 銀 行 |
25年7月 |
同上 |
25年ー1万円 |
同上 |
第百五十国立銀行 |
12年7月 |
八戸 |
12年ー10万円 |
明治財政市第13巻 |
八戸節倹貯蓄銀行 |
14年3月 |
同上 |
14年ー2千円 |
同上 第12巻 |
階 上 銀 行 |
15年9月 |
同上 |
15年ー20万円 |
青森県統計書 |
鶴 令 社 |
不明 |
同上 |
|
八戸の歴史 下1 |
積 善 社 |
6年 |
同上 |
|
八戸商工会議所廿五年史 |
共 惇 社 |
14年9月 |
同上 |
25年ー3千円 |
青森県統計書 |
注 設立年月は開業年月をとっていることから本文中の設立年月と一致しないものがある
済通社
済通社は明治14年有志14名によって組織され、その業務は毎月850円を積立て満5ヶ年をもって5万円とする。講員に出資金の範囲内にて金融することにあった。
同社は伊東善五郎の発意から設立され、その実務は渡辺佐助(2代目)が当たった(「青森市沿革史」下巻73頁)。渡辺佐助は明治5年の第一国立銀行設立に際し、率先、青森における株式募集を引受け、後には明治32年、安田銀行が函館支店を閉鎖、青森支店開設するについて安田善五郎の相談を受けるなど中央銀行家と交際し、新知識を持ち、加えてその営業方針はいわゆる丸屋式(丸屋は渡辺家の屋号)で、堅実かつ保守的であったと言われる(「青森市史」第4巻339頁)。
済通社は設立後、業務大いに進展し、明治18年には初期の5万円の講金を積立てたが、講員の意見分裂のため、ひとまず解体することとなった。しかし同社解散により青森商人の金融上の不便は一層著しく、利用者から済通社再興が強く要請された。
共益社
かくて19年1月、渡辺佐助を代表者とし、社名を共益社と改め、済通社の業務を継承営業することとなった。
社員はつぎの通りであって、済通社の講員をほとんど網羅している。
渡辺佐助、淡谷清藏、大坂金助、伊東善五郎、石郷岡善蔵、渡辺文助、木村円吉、村林文助、長谷川与兵衛、加藤東吉、長谷川茂吉、小林長兵衛、渡辺治四郎、池田永助、渡辺慶助
共益社の資本金は19年設立時に2万円、25年には5万円に増加した。その業務は貸金を主としたが、講員および希望者の預金も少額ながら取り扱っていた(「青森銀行沿革史」16−8頁)。同社は銀行条例施行にともない26年に青森銀行に改組発展している。
正進講と盛融舎
正進講、盛融舎について詳細はいま不明であるが、「青森市史」によれば正進講は大坂金助を主唱者とし、博労町の大坂宅に事務所をおき業務をなした。
正進講は青森商業銀行の母胎であったと言われる(「青森市史」第4巻347ー8頁)。
盛融舎は24−25年ごろ、淡谷清蔵の主張に基づき組織され、講員はつぎの8名で、出資金は月1人10円であった。
淡谷清蔵、淡谷金蔵、小林長兵衛、樋口喜輔、奥崎浅之助、新岡甚四郎、小島友七、鎌田喜助
事務所を寺町1丁目の淡谷金蔵焦点におき、会長=淡谷清蔵、副会長=樋口喜輔、会計=淡谷金蔵という構成であった。
業務発展にともない、31年資本金1万円の合資会社に組織を改め、盛融合資会社と改称した。盛融合資会社はのち(第1次)青森貯蓄銀行に買収されている(「青森市史」第4巻356頁)。
積善講
このほか、渡辺佐助、長谷川与兵衛一族の相互扶助機関として積善講なるものが組織され、18年1月から24年12月まで継続している。
26年1月一族有志10名をもって再建され、300円を基金として逐年積立して公債株式を買い入れ、10万円以上の多額に達したときには、十全銀行を設立することを計画したが、永続せず解散した。
明八会社
つぎに弘前地方について見ると、早くから金貸会社が設立され、そのうちいくつかは私立銀行にまで発展している。
明治8年設立された明八会社はこの地方における金貸会社の最も初期のものと言われる。この会社は明治6〜7年に家禄奉還者に下付された産業資金を基礎として設立された。
株主は10名、その大部分は士族であった。「社則」には満3ヶ年をもって一期限としているが、いつごろまで存続したか不明である(「弘前市史」明治大正昭和編315頁)。
弘前進新社
明治10年代に入りこの地方にも各種の工場や会社企業が設立され、ことに第五十九国立銀行の開業後、これに刺激され15年1月には弘前進新社が設立され、またこのころ金廻舎も創業した。のち前者は進新銀行へ、後者は関銀行へ発展している。
弘前進新社定則によれば、弘前進新社は1株5円で社員を募集し、社員をして5ヶ年間1株につき毎月5円を積立てさせ、株主は原則として自由に退社できない。業務はもっぱら公債証書・銀行株券を買入れ、かたわら抵当貸付をなす。
会社役員として社長1名、取締4名、支配人1名を置く、取締は投票をもって株主中から5名を互選し、取締は投票をもって社長を互選する。また社は委員をおき、株主中より15名を互選する。
委員は社の事業および役員の勤惰に注目し時宜により社長に意見を具申する。株主総会としては、定式集会と臨時集会を置く。
設立後満5年間利益を据置き積立てる。営業期間は明治15年1月から満5年間を1期とし、1期終了後、株主の協議により銀行を設立することもできる、などが定められた。
設立当時の株主は総員78名で筆頭株主は武田清七で10株を所有し、ついで上野啓助(5株)、今泉文蔵(4株)、宮本甚兵衛(3株)となっている。以下2株24名、1株50名を数える。
2株以下の株主にも宮川久一郎、藤田半左衛門、松木彦右衛門、菊池定次郎等弘前の代表的実業家が参加している。第五十九国立銀行が後述するように士族の出資を主体に設立されたのとは対照的である。
もっとも第五十九国立銀行頭取大道寺繁禎も進新社へ2株出資している。役員は同社の第1回半季実際報告によれば、宮本甚兵衛、武田荘七、武田■藏、武田清七、大道寺繁禎となっており、社長は大道寺繁禎が勤めた。
ところで弘前進新社の実態を同社の「毎期勘定帳」からみると、同社は15年4月開業し、17年末まで「定則」に従って毎月払込みをなし、これに各期の利益金を繰り入れ、資本金となしたが、19年1月には資本金を3万円に固定化している。
一方資金運用では「定則」に反して貸付が圧倒的に多く、有価証券投資は18年下期から現れるにすぎない。いわば同社運営の実情は「定則」とかなり異なったものであった(杉山和雄「明治前期銀行類似会社の一事例──弘前進新社について」弘前大学「文経論叢」3の5参照)。
弘前進新銀行の設立
弘前における最初の私立銀行として、明治24年4月設立した弘前進新銀行はこの進新社の改組発展したものである。資料的制約から銀行への移行の経緯は明らかでないが、弘前進新社は最初5ヶ年を1期とし満期後に銀行設立を予定していたのであるから、なんらかの事情によりこれを変更し、2期後の10年目に銀行への改組を決定したことになる。
設立当時の資本金は5万円、頭取には武田甚左衛門、取締役には村林嘉左衛門、今泉文蔵、宮川久一郎、武田荘七(兼支配人)が就任した(「弘前市史」明治大正昭和編317頁)。弘前進新銀行は明治27年1月弘前銀行と改称し、大正8年10月第五十九銀行と合併している。
両盛社と高谷銀行
「青森県統計書」によれば津軽地方には前述のほか、木造に両盛社と合資会社高谷銀行が記されている。両盛社は22年4月設立され、25年の資本金は2万円であった。
合資会社高谷銀行は15年7月、高谷豊之助によって資本金1万円をもって設立された。ちなみに会社登記簿や「青森県総覧」には同社の設立年月日を26年7月1日とあるが、東奥日報26年1月に同行第1回勘定報告が掲載されている。高谷豊之助は木造地方の大地主(大正13年調査によれば233町歩)、県下屈指の富豪であって、農業のかたわら金貸業を営んでいた。
同行は、木造地方における唯一の金融機関として大いに歓迎された。25年下期の資本金は1万円、当座預金4,483円、定期預金3,030円、これらの資金に対して運用面では貸付1万1,766円、当座預金繰越2,540円、他店株券3,030円となっている。
利益金は926円であった。なお26年10月の役員は頭取山内佐五兵衛、支配人高谷忠三郎、取締役竹林孫右衛門であった。
八戸節倹貯蓄銀行と階上銀行
つぎに八戸地方について見れば八戸節倹銀行、階上銀行があった。八戸節倹銀行は14年3月、資本金2,000円をもって設立された(「明治財政史」第12巻976頁)。
設立事情およびその後の経過についてはほとんど不明であるが、18年には資本金は2,400円、株主は6名であり、(「青森県統計書」明治18年)、東奥日報紙の広告によれば24年末まで営業していたことがうかがわれる(「東奥日報」明治24年12月1日──第3部同行の項参照)。(中略)
なお、「青森県統計書」(明治25年)によれば八戸には共惇社なるものが14年9月設立され、貸金業と燧木(つけぎ)製造を行った。資本金は25年に3,000円であった鶴令社は旧藩士の利殖機関であったが、のち第百五十国立銀行へ発展し(「八戸の歴史」下1)、積善社は階上銀行の前身であった(「八戸商工会議所廿五年史」21頁)。
(『青森銀行史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『青森銀行史』 青森銀行行史編纂室 青森銀行 1968. 9. 1
( 2006年9月25日 TANAKA1942b )
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埼玉県の銀行類似会社
江戸近郊という特殊な地域事情
今週は埼玉県の銀行類似会社を扱う。埼玉県は江戸に近く、都会への物資供給地であった、という特徴がある。それと維新後は秩父暴動が地域発展を妨げていた。それでも、銀行類似会社は他県と変わらず地域経済に大きな影響を与えていた。
地域経済を考える場合、中央政府の動きと、歴史に名前が残らないような庶民の動きも考慮する必要がある。金融の歴史を見る場合、明治政府の動きだけでは表面だけしか分からない。地方の士族・地主をはじめベンチャー企業に挑んだ人たちと、それを支えた庶民の動きも見る必要がある。、
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<埼玉県の銀行が繁栄した、その背景=埼玉銀行>
明治から現在に至るまで、埼玉県に設立された銀行は延べ83,銀行類似会社にたっては、当行の調査で確実なものが130社であるから実数150をはるかに越すであろう。
両社合わせて確実分213という数は全国的にみて少ないほうではない、。この多数の金融機関を生んだ原因を探ってみると、次のような事実が浮びあがってくる。
1、埼玉県は、江戸時代から政治的首都の物資供給地として、早くから商品経済が発達しており比較的富裕であった。
2、領地細分化政策のため、100町歩前後の地主を筆頭として富が比較的平均化しており、大富豪が生まれなかったので、企業資金の需要は早くから強かった。
3、同じ理由で大都市がなく、同じくらいの小都市が多く、全県的に結合する気風に乏しかった。加えて小地域内でも互いに党を建てて割拠する風習が強かった。
4、文化度が比較的高く、郷土の先輩に近代企業の父、渋沢栄一を有するため、その強い影響を受けた。
堅実な経営態度
数多い銀行の中には、いかがわしい経営で預金者に大きな迷惑をかけたものもあるが、一般にその経営方針は堅実であった。
明治期の本県銀行は重役は主として地主によって公債されていた。昔から地主は好むと好まざるにかかわらず金融を行わないわけにはいかなかったから、銀行経営においてその経験がものをいったのであろう。
また本県は自由民権運動いらい、政争がかなり激しかったにもかかわらず、銀行側に、あるいは銀行内部に政争を持ち込んだ例ははなはだ乏しい。この懸命な経営者の態度と、後述するように大正7年(1918)に武州銀行を創立し、弱小銀行の整理統合を積極的に推進した岡田知事らの適切な指導とによって、
その後の恐慌にも多くの府県に見られるような被害を出さなかったのである。