趣味の経済学                   銀行類似会社 という庶民金融
国立銀行以前の制度について調べてみる

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b です 好奇心と遊び心をもって浮世の世事全般を経済学します           If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します 銀行類似会社 という庶民金融  国立銀行以前の制度について調べてみる
自然発生的な成立経緯 金融経済学の教科書でも扱わないその実態  (2006年9月11日)
新潟県の銀行類似会社 殖産事業や貸金業などから普通銀行へ  (2006年9月18日)
青森県の銀行類似会社 小野組から始まった金融事業会社  (2006年9月25日)
埼玉県の銀行類似会社 江戸近郊という特殊な地域事情  (2006年10月2日)
山形県の銀行類似会社 困窮士族の救済事業やその他の金融機関  (2006年10月9日)
岐阜県の銀行類似会社 生糸、米など県特産物の産出地域に設立  (2006年10月16日)
鳥取県の銀行類似会社 士族授産に対する県の積極支援姿勢  (2006年10月23日)
鹿児島県の銀行類似会社 士族の生活安定のために設立  (2006年10月30日)
山口県の銀行類似会社 士族授産という面から明治初期を振り返る  (2006年11月6日)
岩手県の銀行類似会社 明治初期の金融制度状況を知っておこう  (2006年11月13日)
群馬県の銀行類似会社 生糸産業と密接に結び付いた金融業界  (2006年11月20日)
愛媛県の銀行類似会社 商人や士族が中心で設立された類似会社  (2006年11月27日)
佐賀県の銀行類似会社 藩知事鍋島直大が先祖の遺金と家禄を献納  (2006年12月11日)
京都府の銀行類似会社 明治新政府の殖産興業と京都の人々  (2006年12月18日)
東京府の銀行類似会社 三井組や安田商店など大資本が活躍  (2006年12月25日)
富山・石川・福井県の銀行類似会社 同じ北陸でも業績に違い  (2007年1月1日)
長野・香川・秋田県の銀行類似会社 養蚕・士族授産・海上輸送など  (2007年1月8日)
越後屋⇒三井組⇒三井銀行 呉服商⇒銀行類似会社⇒財閥銀行  (2007年1月15日)
小野組顛末記を見る 為替方としてのやりすぎが井上馨を刺激  (2007年1月22日)
銀行類似会社のまとめ 高く評価すべき自由市場での試行錯誤  (2007年1月29日)

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

自然発生的な成立経緯
金融経済学の教科書でも扱わないその実態
 銀行制度の出来始めのことに関しては、サムエルソンの<銀行はどのようにして金細工業から発展したか >とバーナンキの<マネーサプライ決定の原理==バーナンキ他『マクロ経済学』>で書いた<アグリコーラ>の例が詳しい。 日本の経済学の教科書は基本的にこれらの考え方で書かれている。しかし、日本での銀行制度の出来始めの頃のことは、これらの説明とは違っていた。日本の銀行制度は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとしたことに始まる。しかし、日本では江戸時代から庶民のための金融制度があったし、商人向けの金融制度もあった。 今回は、明治維新時代、近代的な銀行=国立銀行ができる前の、「銀行類似会社」について扱うことにした。経済学の教科書では扱わないし、「銀行類似会社」とのタイトルの研究も見当たらない。ここでは「○○銀行○○年史」を資料として、近代的な銀行ができる前、庶民の知恵から生まれた銀行類似会社=まるで銀行のような「庶民金融」を扱うことにした。
具体的に、銀行類似会社とはどのような会社だったのか? 「銀行類似会社法」があったわけではないし、共通の目的を持っていたとも言えない。銀行のようでありながら、国立銀行条例には適合しない。そのような「まるで銀行の様な会社」とはどのような会社だったのか?先ず「○○銀行○○年史」から幾つかの文章を引用しよう。 だんだん周辺部から探っていく方法で本題に迫っていくことにしようと思う。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社の出現とその役割=静岡銀行> 為替会社が活躍していた時期、政府は本格的な金融機関を設立するため、調査研究を開始した。そして、明治5年に国立銀行条例を公布し、国立銀行が誕生して、近代的な金融制度の基礎が整備されていった。
 静岡県にも明治10年以降本格的な金融機関が出現し、県内各地に国立銀行、私立銀行が設立されていく。これら銀行の設立に人的・地縁的に、あるいは資本その他の面で深くかかわることになるのが銀行類似会社であった。
 銀行類似会社とは、「銀行」以外の金融会社の総称である。金融面では江戸時代以来の流れをくみ、前近代的な農工商金融中心のものから、商人地主などの資本と結び付き、近代的な商業金融機関へと移行していったものなど、その規模、形態、内容、目的は一様ではない。
 その発生をみると、次のように分類できる。
 1、江戸時代以前から庶民金融機関として広く利用されていた質屋、無尽会社などが、銀行類似業務を営むようになったもの。
 2、旧幕時代の為替方、両替商、蔵元、掛屋、札差などの御用商人・大商人が、金融業を専業とするようになったもの。
 3、旧士族の授産金を資本に、士族による授産事業として始められたもの。
 4、地元の大地主、大商人が殖産興業を目的に設立したもの。
 5、篤志家によって、貧民救済、社会事業として始められたもの。
 6、当局の保護、支援のもとに、殖産興業、金融円滑化を図るため、非営利的事業として設置されたもの。、
 またその立地も、茶、養蚕、米穀その他の生産地である農村や商工業の中心地に設立されたもの、海に面した開港地や宿場など交易の盛んな地に設立されたものなど広範囲にわたり、その事業内容は、金融のほか、物品売買、生産事業、社会事業を兼営していたもの、農業など一定業種の金融を専門にするもの、 同業組合的な特殊なもの、あるいは相互扶助のためのものなど多種多様であった。
 静岡県に生まれた銀行類似会社も、ほぼ同様の設立目的や設立形態をとっていた。後に述べるように、「銀行」という言葉が生まれ、商号として使われるようになったのは、明治5年11月の国立銀行条例公布以降のことである。 しかし、政府が、国立銀行条例のよって設立された国立銀行以外は、商号に「銀行」の2文字を使うことを禁じたため、他の金融機関を「銀行類似会社」と総称し、国立銀行と区別したのである。 また、明治14年までは無認可で開業することができたため、その数は多く、12年6月末現在全国で162社、資本金総額294万円余、14年末には369社、資本総額589万円余と急増している。 その経営状況について正確なことは分からないが、機能的には銀行とほとんど変わらぬものも少なくなく、わが国金融史上、その果たした役割は極めて大きい。
 しかし、政府としては、何の規制もないまま放置しておくわけにはいかず、15年5月、各地方庁に通達し、これら銀行類似会社の設立は、定款規則書をもとに審議せよと指示し、設立に対する諾否の決定権を大蔵省に与えた。 一方、これら銀行類似会社を取り締まる必要性もあって、同年9月、「銀行類似会社ト称スル者ハ貸付金・預リ金及為替・荷為替・割引等凡ソ銀行事業ノ全部又ハ其幾部ヲ専業トスル者ニ限ル」と定義した。
 その15年の社数は438社、資本金総額は796万円弱、19年末には749社、1,540万円と増加している。
 静岡県内に一体何社あったのか、無許可で事業を興すことができた明治時代初期の正確な数をつかむことはできない。ともあれ、各社は、その役割を果たし、26年に制定される銀行条例に基づき、廃業・解散・消滅するもの、「銀行」に生まれ変わったものなど、その延べ数は100社に近いものと思われる。(『静岡銀行史』から)
全国普通銀行・類似会社の推移  単位:円
年 月 末 銀行数 類似会社数 銀行資本金 類似会社資本金 資本金計
12.06 2 162 164 2,150,000 2,941,477 5,091,477
12.12 9 162 171 3,680,000 2,941,477 6,621,477
13.12 38 120 158 7,010,000 1,211,618 8,221,618
14.12 85 369 454 10,827,000 5,894,675 16,731,675
15.12 164 438 602 16,937,000 7,958,375 24,895,375
16.12 199 571 771 18,457,750 12,071,831 30,529,581
17.12 213 741 954 19,025,050 15,227,685 34,252,735
18.12 217 745 962 18,362,200 15,407,982 33,770,182
19.12 219 749 968 17,539,025 15,401,304 32,940,329
20.12 218 741 959 18,371,386 15,117,676 33,489,062
21.12 230 711 941 19,219,200 14,408,264 33,627,464
22.12 255 695 950 22,059,975 14,421,003 36,480,978
23.12 272 702 974 25,571,175 14,512,616 40,083,791
24.12 294 678 972 27,060,755 13,827,434 40,888,189
25.12 324 680 1,004 28,834,775 13,944,644 42,779,419
 資料:旧静岡銀行史 (『静岡銀行史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<郷倉とよばれた銀行類似会社=山梨中央銀行> 郷倉は農民と深い結びつきを持った機関である。郷倉には、常平倉・義倉・社倉の「三倉」があり、常平倉だけが他と異なった性格をもっていた。 常平倉は、豊年によって穀物価格が低下すれば買入れを行ってこれをつり上げ、凶年に際して暴騰すれば倉米を売り出して引き下げを図り、あるいは、収穫時に買入れ、端境期に売り出すなどの方法によって、つねに穀物価格を安定させる役割をもつものであった。 これに対して、義倉・社倉は備荒、窮民救済のための穀物貯蔵を本来の目的とした。両者の相異は、義倉が特別の課徴または富民の義損によって、穀物の拠出を行ったのに対して、社倉は農民の自治的拠出による点であった。 わが国の郷倉の大半は義倉と社倉を兼ねたようなものであったため、両者はしばしば混同された。
 このように郷倉は決して金融機関と言えるものではなかったが、側面事業として金融をも行っている。すなわち、郷倉の活動は、備荒貯蓄として貯えた穀物を平時には、5月ごろの端境期に飯米・種子の形で貸与するとともに、必要以上の分は売却して現金化し、集落の共同事業にあてたり、低利の金融事業を行った。
 県内における郷倉は、大多数が江戸時代に創設されたものであったが、維新後も創設され、その分布は全県的にわたっている。韮崎市藤井町の「蔵前」、白州町横手の「郷倉」等は。現在も地名として名残りをとどめている。
 こうして郷倉は、農村と共に発展してきたが、この制度は市街地にも取り入れられ、同様の性格をもつ倉が創設された。
 「天保九年中山田町名取作右衛門ヨリ金四千両緑町窪田籐平衛ヨリ金千両合金五千両ヲ出シ米ニ換ヘ城中ニ一所ノ倉ヲ設ケテ之ヲ藏メ町奉行之ヲ管轄シ窮民ニ貸シ与フ其後更ニ米ヲ売リ金ニ換ヘ国内ノ土民ニ貸与ス当時社倉ノ名ナシト雖モ其法社倉遣意ヲ存セリ……」 (『山梨県史』)第1巻P.77〜78)
 天保9年に甲府城内に建てられたこの倉は、名称こそ義倉・社倉を名乗らなかったが、農村における郷倉と同様の機能をもつ公営機関であった。 こうした公共性の強い郷倉の制度は、維新後も県政のなかに広く取り入れられていった。維新に際して荒廃した甲府城内の倉は、甲府市政局によって再興され、また、新に郷倉の制度を取り入れた醸造社倉、蚕業社倉なども設立された。 (山梨中央銀行『創業百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<徳島県の銀行類似会社=阿波銀行> 古くから上方(関西)や紀州(和歌山)との商業流通に関係が密接であった阿波の国は、特産物「藍」をはじめ、商業的農業の発達による商品作物の流通を背景にして、問屋商人の活躍は近畿経済圏という比較的グローバルな活動範囲に組み込まれていたので、久次米家のように全国規模で活動する商人を輩出したわけである。 こうした資金力の豊かな豪商の存在は、明治初頭の徳島県において中小金融を営む銀行類似会社が育つ余地を狭めたと考えられる。
 しかし、このような状況下においても銀行類似会社を見ることができる。その代表的なものとして「有隣会社」の存在がある。この会社の場合は、その営業活動とともに、国立銀行への転換を目指した運動が注目される。
 国立銀行条例が施行されたのは明治5年11月であるが、その4ヶ月前の同年7月10日に徳島県(当時は名東県)において有隣会社が設立されている。日比野家文書によると、有隣会社は 「朝廷大政府末タ銀行之制度アラス、予輩遇然同心協力共立ノ社ヲ結ヒ名東県庁ノ許可ヲ得テ」 設立された。創立当初は、資本金15万円、頭取笹田宜弊・泉三郎・日比野克巳・天羽兵二の4名を役員として、本社を板野郡撫養林崎村に置き、支社を名東郡船場町においた。 その業務は藩の為替方による為替貸付金取立の代行業務、撫養港での諸物品輸出検査、輸出税取立、藩札と新政府紙幣との交換、資金の貸付、那賀・海部・板野・津田・撫養の5つの浦方の公金預かり、預金業務などであったが、特に、旧徳島藩の藩札を政府紙幣と交換する業務が中心であったといわれている。
 『銀行創立願ニ付伺書』に「私共儀昨壬申七月為替会社開業願之通御許容被仰付難有営業罷在候処……」とあり、同社が明らかに銀行類似会社として設立されたことは確かである。従って近代的銀行制度としての国立銀行条例が公布されるや否や、同条例に基づく国立銀行への組織変更を企図している。 6年3月15日、有隣会社の役員4名に木村方辰・西川甫の2名を加えて、名東県庁を経由、大蔵省紙幣寮へ国立銀行創立願書を提出した。 この時、中央では第一国立銀行と第二国立銀行が申請準備中であったので、有隣会社側では3番目と思い、第三国立銀行としての創立を予想していたようである。 紙幣寮への願書では、資本金50万円を企図しながらも、取り敢えず20万円での設立を希望した。
 しかし、すでに大阪において鴻池善右衛門を中心とする大阪商人グループによって国立銀行設立計画が立てられ、有隣会社よりも先に大蔵省紙幣寮に願書を提出済みであったため、有隣会社側は計画変更を余儀なくされた。 そこであえて競争することを避けて合同する道を選んだのである。(中略)
 このようにして大阪・徳島両資本の合同による国立銀行が成立するかに見えたが、6年10月1日、その第1回の株金入金について合意が成らず、翌年1月14日付であっさり銀行廃業願を紙幣寮に提出し、2月2日付で廃業が許可され、大阪第三国立銀行は泡のごとく消えてしまう。 しかし、この間のいきさつについては、『明治財政史』も銀行局年報(『日本金融史資料』第7巻上)も「依願解社」という表現と「創立総会で紛議が生じ」という簡単な説明で済ませている。
 その後、徳島の有隣会社は、改組して資本金を22万円に増額、天羽兵二・泉三郎の2人の商人を役員から除外して日比野克巳・西川甫・井上高格・小室信夫。林厚徳・伊吹直亮・森先雄の7名で再出発する。 この7名はいずれも旧徳島藩士の士族であり、資本金22万円が全額旧藩主蜂須賀茂韶公からの借用であるということから、有隣会社は士族授産会社的色彩を強めていったとみられる。 (『阿波銀行百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行     1993. 3.31
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行   1981. 3
『阿波銀行百年史』         阿波銀行百年史編纂委員会 阿波銀行     1997. 5.30
( 2006年9月11日 TANAKA1942b )
▲top 

新潟県の銀行類似会社
殖産事業や貸金業などから普通銀行へ
 先週は銀行類似会社のうち静岡県・山梨県・徳島県の例を見てきた。今週は新潟県の例を見ることにした。 殖産事業、商社、貸金業など、いろんな性格を持った銀行類似会社が銀行条例の公布により普通銀行などに転換していった。 こうした面を北越銀行『創業百年史』から引用することにしよう。平成不況加から脱却し、経済が上向きになったこのごろ、「日本でベンチャー企業を育成するにはどうしたらいいのか?」などという議論が気になる。 明治初期の銀行類似会社を見ていくと、「21世紀とはくらべものにならないほど、明治時代はベンチャー企業の時代だった」と思う。明治政府は国立銀行や私立銀行の条例を作ったが、それとは別に、士族・地主・金貸・名士などが勝手に金融サービスを提供し始めていた。 それは、ベンチャー企業と呼ぶにふさわしいものであったと思う。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<新潟県の銀行類似会社=北越銀行> 明治前期において、私立銀行、銀行類似会社は急激に増加し、特に銀行類似会社の急増が著しく、明治19年には748社に達した。 新潟県の金融機関の圧倒的多数を占めたのも銀行類似会社であった。ピーク時の明治18年には80社を数えた。
 本県における銀行類似会社の発生はかなり早く、明治12年の『新潟県統計書』には、貸金業として7社、物品抵当貸付金業として3社の名前が見られる。 貸金業の7社は城下町として栄えた高田(現上越市)とその近郷にあったが、そのうち4社が商資励舎、2社が商法用達舎の名称を用いていることからも、士族授産との関係が深かったと思われる。 物品抵当貸付金業の3社は、積小社、北越商会、長岡商会であった。
積小社 新潟の積小社は、『新潟市史』によれば、明治4,5年ころの設立とされており、県内における銀行類似会社の最初のものであった。 新潟為替会社が公金費消事件を起こした際、県から穴埋め資金の立て替えを命じられていることから、かなり堅実な内容の貸金会社であったと思われる。
北越商会 北越商会は、明治12年6月、渋沢栄一、八木朋直ほか8名が中心となり、資本金1万2,000円を募って新潟に設立されたものである。 倉庫業を兼ねて保管の貨物を担保に金融を行う一方、預(あずかり)証券を発行してその流通を図った。当時、預証券の発行はわが国では希有のことであった。
 北越商会設置申合規則は、同社の業務内容と設立の目的を次のように記述している。
 「当商会の業務は、国内の米穀は勿論製茶其他凡そ物産の流通上に於て、農商の便宜を開かんことを旨とし、而して米穀の如きは其依頼により之を預り、預り券を公布し、売買或は質入等の信票となさしめ、 又当商会に於いて右米穀其他の抵当物に就き貸付金の融通を図り、且農商の望により、委託物を引受け、之が運搬販売のことを取扱ひ、世上の信憑を実際に得て、以て逐次殖産の隆盛を興起せんことを企望し、ここに営業上の便法を商議し規則を設く……」
 しかし、倉庫の位置が信濃川の河口から4キロも離れた沼垂鏡が岡にあり、立地条件が悪く、保管を託するものも少なかったため事業不振となり、明治17年7月に解散した。
長岡商会 長岡商会は、明治12年12月、第六十九国立銀行内に資本金8万円で設立され、翌13年3月11日に開業した。
 大株主には、西脇吉郎右衛門(北魚沼郡小千谷町)、山口権三郎(刈羽郡横沢町)、山田権左衛門(三島郡七日市村)、遠藤亀太郎(三島郡藤橋村)を初め、長岡町所在の岸宇吉、佐藤作平、山崎又七、木村儀平、山口万吉、小川清松、目黒十郎、谷利平などが名を連ねている。
 設立当初の株主総数は324名であったが、そのほとんどが第六十九国立銀行の株主によって占められていた。頭取は遠藤亀太郎(第六十九国立銀行取締役、地主)、支配人が岸宇吉(同副支配人)であったことからも、当商会と第六十九国立銀行は姉妹会社の関係にあったと言えよう。 なお、会員は、遠藤亀太郎、長部杉四郎、山崎又七、佐藤作平、山口万吉、小川清松、下田藤太郎、岸宇吉、志賀定七、小林伝作、目黒十郎、渡辺良八、谷利平ほか1名の14名であった。
 商会の目的は、13年3月27日付の『新潟新聞』に、「古志郡長岡商會にてハ、積立金の資本金八萬圓の内から新潟往復の川汽船二艘を買入、また活版所を設け、印刷を盛んにし、人民の便益を謀らんと日頃協議中……」と 奉じていることからも、長岡地方の殖産興業が大きなねらいであった。
 長岡商会は、新潟の有志と図り、川汽船会社(明7.7設立、資本金1万5,000円)に対抗して、新潟・長岡間往復の川汽船会社の創設を企画した。13年9月15日、新潟の荒川太二らが発起人となって、安全社(資本金2万円)の設立願を県に提出、翌10月8日に営業免許を受け、同社は11月20日に新潟区下大川前通り二之町に設立された。 その際、長岡商会は、同社の資本金の32.5%に充たる6,500円(65株)を出資し、ほかに長岡町民5名がそれぞれ7株ずつの35株(3,500円)を出資しており、長岡側の資本は半数を占めた。
(注)その後、安全社の汽船で新潟。長岡間の交通を盛んにした。明治15年、新潟の川汽船会社は安全社に買収され、社名を川汽船会社安全社と改称した。しかす、明治16年2月、小千谷の有力者によって新潟・小千谷間の通運を目的とする藁進社が設立されたことから競争が激化した。 そこで、競争によって弊害が生ずるのをおそれた鈴木長藏(のち新潟市長、衆議院議員歴任)らの熱心な調停により、19年2月、両社合併して社名を安進社と改めた。
 鉄道が開通するまで、東京から県内への貨物輸送は、ほとんど三国峠を越えて六日町から船で下ったものである。当時、六日町・長岡間の船は不定期で運賃も高く、そのうえ船数も少なかったため長岡商人は不便を嘆いていた。 そこで長岡商会は、長岡の商業の発展を期して、魚野川の通運権を掌握しようと図った。六日町の船を全部買い占め、同町に通船取引所を設けて運賃を一定にし、船数を増し、安全社の経験を生かして積極的な通運業務に乗り出した。この通運取引所が後の長岡内外用達会社である。
 このように、長岡商会は、川汽船会社への出資、通運業務などを兼営して長岡地方の商工業の発展を図る一方、貸金業務にも力を注いだ。 『岸宇吉翁』(小畔亀太郎編、明治44.10刊)によれば、「商會の貸金は、生産事業奨励の意に出たのであるから、北海道には最も多くの貸出をした」と記述している。長岡出身の太刀川善之助を商会の代理人として北海道における貸付事務の一切を取り扱わせたが、彼の斡旋で貸し付けた口数は多数に上ったと言われている。 また同書は、「當時の事務担当者は小林喜平、柳町勘平の諸氏で、此の活動の為に如何ばかり産業界を向上せしめたかは人の知る所である」と記述し、商会が貸金業務を通じて長岡地方と北海道の発展に大きな足跡を残したことを物語っている。
 このほか、長生橋の維持・管理のため多額の資金を投下すると共に、事務員を出張させて橋銭の徴収も行うなど多方面にわたって業務を推進した。
 長岡商会は、創立10数年で解散した(時期不明)。その間、長岡地方の商工業の発展に寄与するところ大であったが、収益面では見るべきものfがなく、解散の際にようやく元金の割り戻しができたに過ぎなかった。 しかし、株主中の有志が、この割戻金をさらに出資して長岡製糸場を興しているのは注目に値することである。 (北越銀行『創業百年史』から)
<銀行類似会社の増設と衰微=北越銀行> 新潟県内の銀行類似会社は、明治12年には10社を数えたが、新潟、長岡、高田およびその近在に限られた分布であった。さらに、翌13年には県内各地に23社が増設され、18年にはピークの80社となった。
 本県の銀行類似会社のなかには、県内の国立銀行の足本金を上回る規模のものもある一方、資本金1万円未満の会社もかなりの数に達したが、1社あたりの平均資本金は4万円前後で、他県に比較してけっして小規模ではなかった。 このことは、県内各地の商工業中心地に設立された銀行類似会社が多く、しかもその資本金において、県内国立銀行の下位行を上回るものが16年末ですでに5社を数え、10万円以上を有するものが11社に及ぶなど、当時としては比較的大きな資本のものが含まれていたことによるものである。
 県内各地の銀行類似会社の中には、他行とコルレス契約を締結して積極的に為替業務を行い、公金も取り扱うなど国立銀行に比較して遜色のないものもあったが、総じて資本金を貸し付ける貸金会社であり、預金は僅少であった。
 また、13年以降、山間僻地に至るまで県内各地の農山村に小資本の銀行類似会社が設立されたが、同様に預金は僅少で、そのほとんどが資本金を貸し付ける貸金会社であった。
 松方デフレが信仰するなかで、17年を頂点とする農村不況のため、県内の銀行類似会社のなかには業態が悪化し、19年以降、解散するこのが増加した。 さらに、滞貸金の整理による自社株の所有が増加したため減資する会社が相次いだ。
 このように、県内の銀行類似会社の多くは、農村の不況期に増設され、農村金融の担い手となったが、営業満期前に解散したもの、他業種に転換したもの、普通銀行に改組したものもあり、25年末には34社に激減した。(中略)
 当時は、全国的に零細な貯蓄預金専門の私立銀行も増加していたので、普通銀行よりも厳しい監督を施すため、銀行条例と同時に「貯蓄銀行条例」も制定され、取締役の無限連帯責任、貯金払い戻し保証のための国債供託制、資金運用方法の制限などの措置が講じられた。 この2つの条例によって、ようやくわが国の銀行制度が確立したのである。
 銀行条例は同時に、乱立していた銀行類似会社の取締りを強化するめらいもあったから、その施行を契機にして全国的に銀行類似会社の整理が進行し、約半数が普通銀行に転換した。
 明治25年末に34社を数えた県内の銀行類似会社は、銀行条例施行後、25社が普通銀行に転換し、他業種へ転換したもの3社、解散その他6社となり、26年以降、統計面から姿を消した。 一方、26年7月以降28年までに5行(上能生産金融会社、秋成合資会社、小出荷為替合資会社、雷土銀行、三島農商銀行)の普通銀行が新設され、28年6月には県内貯蓄銀行の嚆矢となった直江津積塵銀行、同年9月には新潟貯蓄銀行が新設されて、28年末の県内銀行数は、国立銀行5行、普通銀行32行、貯蓄銀行2行、計39行に達した。
 日清戦争後、景気が回復し企業熱が勃興したため、銀行の業績は好転し、再び銀行の設立が増加して34年末には1,867行を数えた。この間、国立銀行のうち122行が普通銀行に転換した。 また、特殊銀行も相次いで設立され(明30年日本勧業銀行、31年農工銀行、33年北海道拓殖銀行、35年日本興業銀行)、30年の金本位制と相まって、わが国の貨幣金融制度はいちだんと整備された。 (北越銀行『創業百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行     1980. 9.10
( 2006年9月18日 TANAKA1942b )
▲top 

青森県の銀行類似会社
小野組から始まった金融事業会社
 今週は青森県の銀行類似会社を扱う。銀行類似会社をテーマに扱うのであるが、その前に明治初期、青森県の金融情勢から話を始めることにする。 青森県で最初に大きな動きを見せたのが小野組だった。この小野組、後に破綻するのだが、とにかくハイリスク・ハイリターンを狙ったベンチャー企業であった。その小野組が突っ走った道を一緒に突っ走ったのが開宝組、岡田組、大六組など。 その先頭グループがズッコケタ後を三井銀行が引き継ぐことになった。そして、公金を扱うグループとは別に銀行類似会社が幾つか誕生することになった。日本列島の最北端でも銀行類似会社が地域経済を支えていた。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<青森県における銀行業の誕生=青森銀行> わが国に明治維新政府が成立したのは、イギリス産業革命から約1世紀を経、欧米資本主義がようやく自由経済から独占の段階へ移ろうとする時期であった。 当時、先進資本主義諸国のわが国に対する圧迫は強く、植民地化の危険さえはらんでいた。新政府はこうした国際情勢に対処するため、封建制度を打破する一方、殖産興業のスローガンをかかげ、近代的経済制度、近代産業技術の移植を通じて、資本主義的生産方法の保護育成に全力を傾注しなければならなかった。 すなわち、政府みずから機械、設備を輸入し近代的工・鉱業を興し、民間に模範を示すとともに近代的交通通信機関を整備し、他方、民間近代産業育成のため博覧会、共進会などの施策を通じて啓蒙、指導につとめた。 さらにその裏づけとして、近代的幣制の整備、近代的金融制度の確立について多大の努力を払ったのである。
 他の部門はしばらくおき、金融制度についてみれば、政府はまず、明治2年東京・横浜・京都・新潟・大阪・神戸・大津・敦賀の8か所に為替会社を設立している。 設立者はほとんど旧幕時代から御用為替方を務めた商人・高利貸であり、その中心は三井、島田、小野などの特権商人であった。為替会社の主業務は預金、紙幣発行、貸出、為替、両替等であり、その資金源は身元金、政府貸し下げ金、預金等であった。 貸付は旧藩主や士族にたいし優先的に行われ、それはさらに問屋、商人に貸し出された。為替会社は政府の手厚い保護のもとに一時繁栄したが、4年7月の廃止とともにしだいに衰運に向かい、横浜為替会社をのぞき、いずれも巨額の負債を生じて解散するに至った。
銀行類似会社の設立 資本の貧弱なわが国において殖産興業をはかるためには、まず共同出資による会社の設立を促すことがとくに肝要であった。 そこで政府は為替会社を保護育成するとともに、極力、会社知識の啓蒙に努めたこともあって、民間でも4年末ごろから金融機関設立を企図するものが現れた。三井組バンクの創立出願をはじめ、東京銀行、小野組バンク、豊岡の浚疏会社、鳥取県の融通会社、滋賀県の江州会社等多くの設立出願があいついで行われた。 政府はこれに対し法規に反せず、また公益を害さないかぎり、あえてこれに干渉しない方針をとり、「人民相互の結約」にまかせた。 しかし国立銀行条例の関係もあって、「銀行」の名称を使用することを禁じた。一般に「銀行類似会社」と呼ばれたこれらの会社は年を追って増加し、4,5年ごろには百にのぼるありさまであった。
 国立銀行設立以前のこれら銀行類似会社については、旧幕時代からの為替方、両替商、掛屋、銀方、藏元あるいは質屋、無尽、頼母子講等の旧金融業者が引き続き銀行類似業務を営んだほか、士族のための金融授産施設や豪商、豪農等の有力者たちの庶民高利貸、小金融機関としての銀行類似会社が設立されたと言われる。 そのうち、三井組、小野組のような旧幕時代からの為替方の勢力が強く、とくに政府と結び付いて官金取扱を行うものは有力であった。
中央資本の進出 明治初期の青森県において中心的な金融機関は、中央の巨大商人たる小野組であった。明治4年7月の廃藩置県以後、三井、島田、小野の為替方は府県方と称し、3府72県にわたって支店出張所を設け、公金の収支に従事した。 そのうち小野組はもっとも積極的であった。すなわち小野組は4年から府県方をはじめ、5年4月には兵庫、長崎、滋賀をはじめ21府県に出張所をおき、6年7月には1府28県の為替方を勤めるに至った。 これに対し三井組は5年に5か所、6年に13か所の為替方をなすにとどまる。6年5月における小野組「諸店名前書」によれば、小野組は「青盛米町四丁目」に出張所をおき、青森県の公金取扱に当たったことがうかがわれる (宮本又次『明治初期の為替方と小野組(4)』バンキング221号) 。
 ところで、「青森市沿革史」によれば、小野組進出に続いて榎本六造は開宝為替方を青森浜町に設立し、支配人赤松岩次郎を任命し(中巻696頁)、「青森市史」によれば、小野組、開宝組におくれて岡田組、大六組等の為替方が青森に支店を設けたといわれる(中巻309頁)。 このように青森地方に中央の大商人の進出が続いた背景としてつぎの事情がある。すなわち、明治6年の地租改正によって、政府はこれまで穀価の高低による歳入の不安定から免れ得たが、一方農民は農産物の販売の必要に迫られた。 由来津軽は米産地であって、藩政時代余剰米は貢租として大阪、江戸に回送され、北海道、下北方面に輸出されていた。ことに明治期にはいり、政府が北海道開拓を国策事業として計画、鋭意勧奨したため渡道者は急増し、これにともない津軽米の北海道輸出も増加した。 かくて北海道への要津たる青森はがぜん、米の集散市場となるに至った。ここに着目した小野組、開宝組、岡田組、大六組は米買い上げのための金融機関として農民へ融資すると共に、さかんに米相場を行ったのである。 明治8年村林勘六、榎本六造の「米金紛議」の訴訟はこのような貢米買請業務のあり方を示している。(中略) (『青森銀行史』から)
三井組・三井銀行 小野組は明治7年没落したが、その影響を受けて開宝組、岡田組、大六組などいずれも破産し青森を引き上げて行った。 小野組に代わって青森県為替方となったのは三井組である。三井組は9年8月、三井銀行に発展するが、青森県内では明治9年に青森出張店、明治13年に弘前出張所、明治24年に八戸出張所が設けられた(「三井銀行五十年史」による。詳しくは第3部「付・青森県内における県外銀行支店の沿革」参照)。
 ところで三井銀行は三井物産会社との協同によって納税資金荷為替取組をなした。その方法は、三井物産会社出張人は区長、戸長と代理契約を結び、現米受領後、本人への約定金額に相当する三井銀行の振出手形を交付する。 本人から区、戸長にこれを提出し納税の手続きをする。貸出の割合は県下平均時価の6割ないし7割までとする、というものであった(「三井銀行80年史」91−93頁)。 三井銀行はかかる方法に基づいて、当時、青森のほか秋田、宮城、三重、愛知、福岡、長崎、熊本において米穀荷為替取り組みをなしたと言われる。 (『青森銀行史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<青森県の銀行類似会社> 表は断片的資料から整理し得た地元資本による金融機関である。銀行類似会社についてはこれに記載漏れのあることが想像されるが、同表によれば明治25年までに国立銀行2行、私立銀行3行、貯蓄銀行1行、銀行類似会社12社が設立されている。 国立銀行は後にゆずり、私立銀行、貯蓄銀行、銀行類似会社の設立状況を見ればつぎの通りである。
 まず青森においては三井銀行や第五十九国立銀行が進出し、金融の便をはかってきたが、いずれも支店であった関係上とかく不便を免れず、ために当地の有力者は相はかって講を結んだ(「青森市史」第4巻337−8頁)。 済通社、正進講、盛融舎はその主なものであった。
青森県内、銀行および銀行類似会社一覧 (明治25年まで)
名   称 設立年月 設立地 資本金 資料
済  通  社 14年 青森    青森市史第4巻
正  進  講 不明 同上    同上
盛  融  舎 24〜25年 同上    同上
積  善  講 18年 同上    二代 渡辺佐助伝
共  益   社 19年2月 同上 20年ー2万円 青森県統計書
第五十九国立銀行 12年1月 弘前 12年ー20万円 明治財政史第13巻
明 八 会 社 8年 同上    弘前市史 明治大正昭和編
金  廻  舎 15年 同上    同上
弘 前 進 新 社 15年1月 同上    弘前進新社定則
弘前進新銀行 24年5月 同上 25年ー5万円 弘前市史 明治大正昭和編
両  盛  社 22年4月 木造 25年ー2万円 青森県統計書
高 谷 銀 行 25年7月 同上 25年ー1万円 同上
第百五十国立銀行 12年7月 八戸 12年ー10万円 明治財政市第13巻
八戸節倹貯蓄銀行 14年3月 同上 14年ー2千円 同上 第12巻
階 上 銀 行 15年9月 同上 15年ー20万円 青森県統計書
鶴  令  社 不明 同上    八戸の歴史 下1
積  善  社 6年 同上    八戸商工会議所廿五年史
共  惇  社 14年9月 同上 25年ー3千円 青森県統計書
  設立年月は開業年月をとっていることから本文中の設立年月と一致しないものがある
済通社 済通社は明治14年有志14名によって組織され、その業務は毎月850円を積立て満5ヶ年をもって5万円とする。講員に出資金の範囲内にて金融することにあった。 同社は伊東善五郎の発意から設立され、その実務は渡辺佐助(2代目)が当たった(「青森市沿革史」下巻73頁)。渡辺佐助は明治5年の第一国立銀行設立に際し、率先、青森における株式募集を引受け、後には明治32年、安田銀行が函館支店を閉鎖、青森支店開設するについて安田善五郎の相談を受けるなど中央銀行家と交際し、新知識を持ち、加えてその営業方針はいわゆる丸屋式(丸屋は渡辺家の屋号)で、堅実かつ保守的であったと言われる(「青森市史」第4巻339頁)。
 済通社は設立後、業務大いに進展し、明治18年には初期の5万円の講金を積立てたが、講員の意見分裂のため、ひとまず解体することとなった。しかし同社解散により青森商人の金融上の不便は一層著しく、利用者から済通社再興が強く要請された。
共益社 かくて19年1月、渡辺佐助を代表者とし、社名を共益社と改め、済通社の業務を継承営業することとなった。 社員はつぎの通りであって、済通社の講員をほとんど網羅している。
 渡辺佐助、淡谷清藏、大坂金助、伊東善五郎、石郷岡善蔵、渡辺文助、木村円吉、村林文助、長谷川与兵衛、加藤東吉、長谷川茂吉、小林長兵衛、渡辺治四郎、池田永助、渡辺慶助
 共益社の資本金は19年設立時に2万円、25年には5万円に増加した。その業務は貸金を主としたが、講員および希望者の預金も少額ながら取り扱っていた(「青森銀行沿革史」16−8頁)。同社は銀行条例施行にともない26年に青森銀行に改組発展している。
正進講と盛融舎 正進講、盛融舎について詳細はいま不明であるが、「青森市史」によれば正進講は大坂金助を主唱者とし、博労町の大坂宅に事務所をおき業務をなした。 正進講は青森商業銀行の母胎であったと言われる(「青森市史」第4巻347ー8頁)。
 盛融舎は24−25年ごろ、淡谷清蔵の主張に基づき組織され、講員はつぎの8名で、出資金は月1人10円であった。
 淡谷清蔵、淡谷金蔵、小林長兵衛、樋口喜輔、奥崎浅之助、新岡甚四郎、小島友七、鎌田喜助
 事務所を寺町1丁目の淡谷金蔵焦点におき、会長=淡谷清蔵、副会長=樋口喜輔、会計=淡谷金蔵という構成であった。 業務発展にともない、31年資本金1万円の合資会社に組織を改め、盛融合資会社と改称した。盛融合資会社はのち(第1次)青森貯蓄銀行に買収されている(「青森市史」第4巻356頁)。
積善講 このほか、渡辺佐助、長谷川与兵衛一族の相互扶助機関として積善講なるものが組織され、18年1月から24年12月まで継続している。 26年1月一族有志10名をもって再建され、300円を基金として逐年積立して公債株式を買い入れ、10万円以上の多額に達したときには、十全銀行を設立することを計画したが、永続せず解散した。
明八会社 つぎに弘前地方について見ると、早くから金貸会社が設立され、そのうちいくつかは私立銀行にまで発展している。 明治8年設立された明八会社はこの地方における金貸会社の最も初期のものと言われる。この会社は明治6〜7年に家禄奉還者に下付された産業資金を基礎として設立された。 株主は10名、その大部分は士族であった。「社則」には満3ヶ年をもって一期限としているが、いつごろまで存続したか不明である(「弘前市史」明治大正昭和編315頁)。
弘前進新社 明治10年代に入りこの地方にも各種の工場や会社企業が設立され、ことに第五十九国立銀行の開業後、これに刺激され15年1月には弘前進新社が設立され、またこのころ金廻舎も創業した。のち前者は進新銀行へ、後者は関銀行へ発展している。
 弘前進新社定則によれば、弘前進新社は1株5円で社員を募集し、社員をして5ヶ年間1株につき毎月5円を積立てさせ、株主は原則として自由に退社できない。業務はもっぱら公債証書・銀行株券を買入れ、かたわら抵当貸付をなす。
 会社役員として社長1名、取締4名、支配人1名を置く、取締は投票をもって株主中から5名を互選し、取締は投票をもって社長を互選する。また社は委員をおき、株主中より15名を互選する。 委員は社の事業および役員の勤惰に注目し時宜により社長に意見を具申する。株主総会としては、定式集会と臨時集会を置く。 設立後満5年間利益を据置き積立てる。営業期間は明治15年1月から満5年間を1期とし、1期終了後、株主の協議により銀行を設立することもできる、などが定められた。
 設立当時の株主は総員78名で筆頭株主は武田清七で10株を所有し、ついで上野啓助(5株)、今泉文蔵(4株)、宮本甚兵衛(3株)となっている。以下2株24名、1株50名を数える。
 2株以下の株主にも宮川久一郎、藤田半左衛門、松木彦右衛門、菊池定次郎等弘前の代表的実業家が参加している。第五十九国立銀行が後述するように士族の出資を主体に設立されたのとは対照的である。 もっとも第五十九国立銀行頭取大道寺繁禎も進新社へ2株出資している。役員は同社の第1回半季実際報告によれば、宮本甚兵衛、武田荘七、武田■藏、武田清七、大道寺繁禎となっており、社長は大道寺繁禎が勤めた。
 ところで弘前進新社の実態を同社の「毎期勘定帳」からみると、同社は15年4月開業し、17年末まで「定則」に従って毎月払込みをなし、これに各期の利益金を繰り入れ、資本金となしたが、19年1月には資本金を3万円に固定化している。 一方資金運用では「定則」に反して貸付が圧倒的に多く、有価証券投資は18年下期から現れるにすぎない。いわば同社運営の実情は「定則」とかなり異なったものであった(杉山和雄「明治前期銀行類似会社の一事例──弘前進新社について」弘前大学「文経論叢」3の5参照)。
弘前進新銀行の設立 弘前における最初の私立銀行として、明治24年4月設立した弘前進新銀行はこの進新社の改組発展したものである。資料的制約から銀行への移行の経緯は明らかでないが、弘前進新社は最初5ヶ年を1期とし満期後に銀行設立を予定していたのであるから、なんらかの事情によりこれを変更し、2期後の10年目に銀行への改組を決定したことになる。 設立当時の資本金は5万円、頭取には武田甚左衛門、取締役には村林嘉左衛門、今泉文蔵、宮川久一郎、武田荘七(兼支配人)が就任した(「弘前市史」明治大正昭和編317頁)。弘前進新銀行は明治27年1月弘前銀行と改称し、大正8年10月第五十九銀行と合併している。
両盛社と高谷銀行 「青森県統計書」によれば津軽地方には前述のほか、木造に両盛社と合資会社高谷銀行が記されている。両盛社は22年4月設立され、25年の資本金は2万円であった。 合資会社高谷銀行は15年7月、高谷豊之助によって資本金1万円をもって設立された。ちなみに会社登記簿や「青森県総覧」には同社の設立年月日を26年7月1日とあるが、東奥日報26年1月に同行第1回勘定報告が掲載されている。高谷豊之助は木造地方の大地主(大正13年調査によれば233町歩)、県下屈指の富豪であって、農業のかたわら金貸業を営んでいた。 同行は、木造地方における唯一の金融機関として大いに歓迎された。25年下期の資本金は1万円、当座預金4,483円、定期預金3,030円、これらの資金に対して運用面では貸付1万1,766円、当座預金繰越2,540円、他店株券3,030円となっている。 利益金は926円であった。なお26年10月の役員は頭取山内佐五兵衛、支配人高谷忠三郎、取締役竹林孫右衛門であった。
八戸節倹貯蓄銀行と階上銀行 つぎに八戸地方について見れば八戸節倹銀行、階上銀行があった。八戸節倹銀行は14年3月、資本金2,000円をもって設立された(「明治財政史」第12巻976頁)。 設立事情およびその後の経過についてはほとんど不明であるが、18年には資本金は2,400円、株主は6名であり、(「青森県統計書」明治18年)、東奥日報紙の広告によれば24年末まで営業していたことがうかがわれる(「東奥日報」明治24年12月1日──第3部同行の項参照)。(中略)
 なお、「青森県統計書」(明治25年)によれば八戸には共惇社なるものが14年9月設立され、貸金業と燧木(つけぎ)製造を行った。資本金は25年に3,000円であった鶴令社は旧藩士の利殖機関であったが、のち第百五十国立銀行へ発展し(「八戸の歴史」下1)、積善社は階上銀行の前身であった(「八戸商工会議所廿五年史」21頁)。 (『青森銀行史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『青森銀行史』              青森銀行行史編纂室 青森銀行     1968. 9. 1
( 2006年9月25日 TANAKA1942b )
▲top 

埼玉県の銀行類似会社
江戸近郊という特殊な地域事情
 今週は埼玉県の銀行類似会社を扱う。埼玉県は江戸に近く、都会への物資供給地であった、という特徴がある。それと維新後は秩父暴動が地域発展を妨げていた。それでも、銀行類似会社は他県と変わらず地域経済に大きな影響を与えていた。 地域経済を考える場合、中央政府の動きと、歴史に名前が残らないような庶民の動きも考慮する必要がある。金融の歴史を見る場合、明治政府の動きだけでは表面だけしか分からない。地方の士族・地主をはじめベンチャー企業に挑んだ人たちと、それを支えた庶民の動きも見る必要がある。、
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<埼玉県の銀行が繁栄した、その背景=埼玉銀行> 明治から現在に至るまで、埼玉県に設立された銀行は延べ83,銀行類似会社にたっては、当行の調査で確実なものが130社であるから実数150をはるかに越すであろう。 両社合わせて確実分213という数は全国的にみて少ないほうではない、。この多数の金融機関を生んだ原因を探ってみると、次のような事実が浮びあがってくる。
 1、埼玉県は、江戸時代から政治的首都の物資供給地として、早くから商品経済が発達しており比較的富裕であった。
 2、領地細分化政策のため、100町歩前後の地主を筆頭として富が比較的平均化しており、大富豪が生まれなかったので、企業資金の需要は早くから強かった。
 3、同じ理由で大都市がなく、同じくらいの小都市が多く、全県的に結合する気風に乏しかった。加えて小地域内でも互いに党を建てて割拠する風習が強かった。
 4、文化度が比較的高く、郷土の先輩に近代企業の父、渋沢栄一を有するため、その強い影響を受けた。
堅実な経営態度 数多い銀行の中には、いかがわしい経営で預金者に大きな迷惑をかけたものもあるが、一般にその経営方針は堅実であった。 明治期の本県銀行は重役は主として地主によって公債されていた。昔から地主は好むと好まざるにかかわらず金融を行わないわけにはいかなかったから、銀行経営においてその経験がものをいったのであろう。
 また本県は自由民権運動いらい、政争がかなり激しかったにもかかわらず、銀行側に、あるいは銀行内部に政争を持ち込んだ例ははなはだ乏しい。この懸命な経営者の態度と、後述するように大正7年(1918)に武州銀行を創立し、弱小銀行の整理統合を積極的に推進した岡田知事らの適切な指導とによって、 その後の恐慌にも多くの府県に見られるような被害を出さなかったのである。
銀行類似会社の状況
銀行類似会社とは、明治5年制定の国立銀行条例の規制の範囲外のもので、「銀行」の名称を用いることは許されなかったがその業務はほとんど銀行と同様なことを行ったものである。 本県に設立された銀行類似会社は非常に多く、県庁保管の書類によって確認されるものだけで130社に達し、それ以外にも相当あったと推定される。 確認される130社もその結末はどうなったのかほとんど不明である。類似会社から銀行に改組されたものは相当数あると思われるが、確実に立証されるものは6社にすぎない。
 資本金は、明治20年ごろまでは概して多く、銀行に対して見劣りしなかったが、その以後となるとしだいに少額のものが増えていった。埼玉県の銀行類似会社の最盛期は明治30年ごろまでで、それ以後しだいに減少していった。つぎに銀行類似会社のいくつかを記してみよう。
 資本金は明治10年(1877)12月に設立された合資会社生産会社は児玉郡八幡町の福田礼蔵、児玉町の松井竜作、坂本伝平、久米篤太郎、傍示堂村の内野弥三郎の5氏による資本金5万円の会社であった。会社の所在地は児玉町でなくより広い地盤を選んで熊谷町に置き盛んに営業した様子であるが、その終末は不明である。
 明治14年(1881)の設立された比企郡今宿村の青盛社は、石井弥三郎、吉田善太郎、石井鉄五郎の諸氏が、37名の株主から集めた資本金5万円で盛んに営業をしていた。 同社に設立された入間郡久米村の盛産社も高橋国蔵氏が株主30名から集めた5万円をもって付近に勢力を張っていたが翌年金山銀行に改組された。 明治15年に児玉郡本庄町に設立された産盛会社は半田治右衛門氏が中心となって資本金5万円をもって県北一帯から群馬県まで手広く営業をしたという。 比企郡小川村に明治14年設立された儲備一銭会社は、笠間喜八郎、梅沢惣七ら16氏の出資金3万円で、付近の織物業者に融資し織物価格を動かすほどの清涼があったという。 この会社は明治17年設立の小川銀行の前身らしいが確証はない。
特殊銀行の状況 <<農工銀行>> わが国の銀行は商業銀行として成長したのであるが、日清戦争五後の急激な産業発展に対処するため、政府は長期産業資金を供給する専門金融機関を設立することとして、明治29年から33年までに、特別法を公布した。
 埼玉農工銀行は、農工銀行法によって、明治31年に設立され、農工業者に長期資金を供給した。
<<貯蓄銀行>> 国民大衆の比較的零細な貯蓄性預金を吸収する金融機関をさし、わが国では明治23年(1800)貯蓄銀行条例によって始まり、大正6年には全国で663行に上った。今日では実際上専門の貯蓄銀行は1行も存在せず、昭和18年(1943)「普通銀行などの貯蓄銀行または信託業務兼営などに関する法律」によって普通銀行がすべて貯蓄銀行業務を兼ねている。
本県では、明治28年(1895)埼玉貯蓄銀行設立を初めとして、14行設立された。本史ではその計数などは普通銀行と区別せず計上した。
地域別の考察 銀行が全国的ピークに達した明治34年(1901)末までの、郡別の銀行および類似会社の設立数は、表の通りである。入間郡が圧倒的に多いのは、城下町川越の経済力と、周辺の綿織物、飯能一帯の生絹、狭山地方の製茶などの産業によるもので、入間郡は大正中期まで県経済の中心であった。 また、児玉郡は児玉(蚕玉)の名を負うとおり、古くから養蚕の盛んな地で、生糸・生絹の産出が多いことによるものであった。3位の北足立郡は県都浦和を擁し、東京に近接して明治中期から企業が盛んに起こったためである。 小川の和紙・生絹以外これといった産業のない比企郡が4位をしめているのは一見不思議に思われるが、県下最初の第八十五国立銀行の株主に、地元入間郡の地主よりも、比企郡の地主が圧倒的に多いことなどからみて、銀行業に関心を持った富裕な地主が多かったのであろう。 純農村に設立された銀行10行中秩父郡と同数の3行で1位を占めていることでもそれが裏書きされる。
明治34年末までの銀行ならびに類似会社延設立分布 (明治25年まで)
郡  名 行 数
入間郡 60
児玉郡 22
北足立郡 21
比企郡 19
大里郡 13
秩父郡 14
北埼玉郡 12
北葛飾郡
南埼玉郡
合 計 176
 絹織物の産地秩父郡が少ないのは不思議である。面積が広く人口が多い大里郡が以外に少ないのは、農産物以外さして産物のなかったためであろうか。南埼玉郡、北埼玉郡、北葛飾郡は水田地帯で産業に乏しかったのである。
銀行生成期の苦難
埼玉県は武蔵国を東京と分割してできたものだけあって、古くから東京への物資供給地であった。当然、工業も比較的盛んではあったが、明治初期の本県の産業は農業がそのほとんどを占めていた。 絹・絹織物・足袋・和紙などの工業も、主として農家の副業として行われていた。
 当時の金融は、金貸し・質屋・無尽に頼り、肥料・農具・日用品などの購入代金は半年払いであった。工場はほとんど手工業であり、これは商人とともに問屋金融に依存していた。
 明治4年(1871)に商工業の自由選択、農民に作物の勝手作りが許され、同6年には地租がそれまでの米納から金納に代えられた。当時の農村は、貨幣経済に支配されるようになったとはいえ、まだ現物経済の面が強く残っていた。 それが、この地租金納によって完全な資本主義経済に組み入れられた。工業も手工業から、小規模ながら工場制生産に移行していった。こうして金融機関の必要性がしだいに強くなってきた。
国立銀行の設立
明治11年(1878)、川越町に第八十五国立銀行が設立された。その後、2つの国立銀行設立の企画があったが、これは許可されなかった。しかし第八十五銀行の順調な発展、特に収益力の高さが注目され、各地に銀行設立の機運が起こった。
私立銀行の設立
明治13年(1880)1月川越町に川越銀行が設立された。これは私立銀行としては、埼玉県で最初だけでなく全国でも7番目、東京を除く地方としては、徳島県の久米銀行に2ヶ月遅れて、2番目の設立であった。
 14年には鴻巣宿に埼玉銀行(現在のサイギンとは無関係)、松山町(現在の東松山市)に松山銀行の2行が設立され、翌15年には入間郡久米村(現在の所沢市)に金山銀行、同郡入間川村(現在の狭山市)に入間銀行、北足立郡常光村(現在の鴻巣市)に明壌(めいじょう)銀行の3行が生まれた。 16年に入ると横見郡上銀谷村(現在の比企郡吉見村)に横見銀行、北足立郡川田谷村(現在の桶川町)に足立銀行、北埼玉郡加須町に称隆銀行の3行、翌17年には入間郡扇町屋村(現在の入間市)に扇町屋銀行、比企郡小川村(現在の小川町)に小川銀行、同郡大塚村(現在の小川町)に比企銀行の3行がそれぞれ設立された。 終えて19年には飯能町に飯能銀行が誕生した、つまり明治13年から、わずか6年間に13行が発足したわけである。
地租の金納
明治5年(1873)政府は、藩主の土地領有を廃止、土地の私有を認め、地主に地券を与え、土地の売買と作物の勝手作りを許したうえで、地租を金納にした。 1反の米の収穫高を平均1石6斗、代価を石3円(反4円80銭)とし、1反の地価を反当たり収入の10倍、48円に決め、中央地租(国税)をこれの100分の3、地方地租(県税)を100分の1としたのである。 明治6年の米価で計算すると反当たり収入の3割が地租にあたった。つまり米価が高ければ農家の収入に対する地租の負担率は軽く、米価が安くなれば農家の収入に対する地租の負担率は重くなる仕組みであった。 それまで現物経済の傾向が強く残っていた農民にとって、不慣れな貨幣経済への移行は当面かなり大きな負担であった。それはさておき13年に1石10円50銭だった米価が、17年には5円にまで暴落してしまった。 このため地租と肥料代諸掛かりを差し引くと、1反歩(10アール)で2円余、今の生産者米価で換算すると8,000円余の赤字になったと、米どころの川島領の農家の記録に残っている。 このため地租不納で競売にふされたり、あるいは大地主、高利貸に借金のかたに土地を奪われ小作人に転落するものが続出した。
秩父暴動
明治10年前後から起こった自由民権運動は国会開設・憲法制定など民主主義を要求して全国に広がり、しだいに勢力を強めていった。 政府はこれを強く弾圧したので、憤慨した過激自由党員は、困窮した農民と結んで、明治17年(1884)群馬、加波山(茨城)、秩父などで暴動を起こすにいたった。
 秩父暴動の直接の原因は、高利貸の暴利にあった。食糧の自給のできない山間秩父地方は古くから絹織物生産に頼っていた。安政の開港いらいの生糸の暴騰、暴落の繰り返しは結局農民にしわ寄せされて、その結果は高利貸しのはなはだしいぼっことなった。
 当時の高利貸しの貸借は、10円の借用証文を徴収した場合、実際に貸し主に渡される金は、7円ないし8円であった。これを「2分切り」とか「3分切り」という。 これは利息の先取りではなく、利息は別で、利率は年2割であった。そのうえ通常3ヶ月の約定で、期限がきて返済できないとさらに元利合計の2割という違約金を取ったから、7円ないし8円の元金が、1年後には25円20銭4厘にもなった。このため小地主、小生産者は大量に没落して、金貸しのみ太っていった。 秩父の金貸しの筆頭といわれた稲葉良助は、100円足らずの元手を10年間に5万円に増やしたという。
 困窮した農民は困民党を結成、金貸しに条件緩和を再三交渉する一方、郡役所にも請願したが取り上げられなかった。追いつめられた農民は、侠客田代栄助を首領にいただき、高利貸しに対し、10ヶ年据置き40ヶ年賦、郡役所に対しては学費節減のため小学校3ヶ年急行、租税免除などを要求した。 17年11月1日下吉田村(現在の吉田町)に蜂起、2日には大宮郷(現在の秩父市)に突入、郡役所、警察署、高利貸しを襲撃、ほぼ全秩父を支配した。この暴動は、軍隊の出動により11日に至って壊滅したが、被害戸数は秩父・児玉両郡にわたって556戸であった。 襲われた金貸しの中には国神村(現在の皆野町)の永保社、井戸村(現在の野上町)の共救社、大宮郷の興産社などの銀行類似会社が含まれていた。
相次ぐ銀行倒産
秩父暴動に見られるように、小企業者・農民の困窮は、設立後間もないうえに基礎がまだ固まっていなかった銀行に対し大きな打撃を与えた。 明治17年には、設立1年余にして横見銀行が倒産、翌年には松山銀行が倒産するなど、26年末までに9行がはかなく姿を消して、地元銀行はわずか5行に減少した。
銀行の乱立
わが国が近代国家として初めての大試練だった日清戦争(1894-95)も、わが国の勝利に終わり、国民の国家意識がいちじるしく固まる一方、戦争による通貨増発、台湾の領有、償金2万両(邦貨約3億円)の流入などにより、企業熱は全国的に燃え上がった。 銀行設立はその先頭を切り、34年(1901)末には全国普通銀行数は1,867行とピークに達した。本県もまた例外でなく、27年から34年までの間に、じつに55の銀行があいついで設立され、合計58行にも達した。
 県下の主な町で、その町に銀行がないというところの方がまれで、大抵の町で1ないし2の銀行が営業するにいたった。
 このころの銀行は、資本金の運用を主とした貸金業に域にとどまり利率が多少安い点を除けば街の金貸しと大差はなかった。預金はいずれも少なく、信用が格別厚かった第八十五銀行でさえ、創業19年目の30年下期にいたって、ようやく資本金(20万円)を上回る22万4,709円の預金を記録した程度であるから、他は推して知るべきであろう。
銀行、金融界の主流となる
明治初年から25年(1892)ごろにかけて本県の金融の主流は銀行になく、むしろ金貸しであった。正確な資料に乏しいが、明治15年ごろ個人金貸しは約800,銀行類似会社は少なく見積もっても80社あったと推定される。 そのなかには資本金も銀行に劣らない何万円という運用資金を擁し、通称○○銀行と呼ばれるものもあって、誕生間もない銀行と競っていた。一般も銀行と銀行類似会社とをなんら区別することはなく、経営者の信用によって取引を行ったらしい。 これは民間だけでなく官庁でも同様で備荒儲蓄法の項で述べたように明治15年県の公金が銀行と同様に預け入れられている実例がある。 こうした金貸しも時代の推移につれてしだいに銀行業に転身していった。こうして29年ごろになってようやく銀行が金融界の主流となった。 (『埼玉銀行史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行     1968.10. 1
( 2006年10月2日 TANAKA1942b )
▲top 

山形県の銀行類似会社
困窮士族の救済事業やその他の金融機関
 今週は山形県の銀行類似会社を扱う。153の国立銀行は、国の条例に基づいて出来た金融機関、そして、その後の三井銀行や安田銀行などの私立銀行も国の条例・規制に基づいて出来た金融組織だ。 しかし、銀行類似会社は違う。理想的なモデルがあって、それに近い組織をつくろうとしたのではい。各地で人々が試行錯誤を重ねながら作っていった金融サービス。国の規制に収まらない金融システムで、そうした規制からはみ出した機関を、他に良い言葉がないので、「銀行類似会社」と呼んでいた。 中央の司令塔の指示に従ってできたのが、国立銀行であり私立銀行だ。銀行類似会社は、このように捉えていくと、いかにも市場経済・自由経済だから生まれた金融サービスだ、ということが分かる。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<山形県の銀行類似会社=荘内銀行> 表は明治18年の山形県統計書に記載されたものである。おそらく各町村には、もっと多くの銀行類似会社があったと思われるが、以下、庄内地方の銀行類似会社と、銀行類似会社から銀行になった元商社および米沢義社について述べる。
明治18年現在の銀行類似会社 (単位:円)
社  名 種  類 所 在 地 開 業 年 月 資 本 金
拡 益 社 貸 付 金 西村山郡海味村 明治12.12 2,988
救 急 社 金 穀 貸 付 東村山郡天竜町 12.02 3,600
積金貸付会社 貸 付 金 東田川郡余目村 13.05 30,000
済 救 社 貸付及預金 西川田郡鶴岡五日町 12.12 80,000
公 益 社 貸 付 金 西川田郡加茂村 18.01 3,000
拡 盛 会 社 貸 付 金 西置賜郡山口村 15.05 2,851
米 沢 義 社 貸 付 金 南置賜郡元細工町 13.12 153,387
元 商 会 貸 付 金 南置賜郡元細工町 13.02 57,000
余目積金所 明治13年、東川奈郡余目村の佐藤善治らが発起人となって、余目積金所を創立した。資本金3万円で1株10円、株主は231人。 株主のうち余目村に126人、余目以外の東田川郡に82人おり、合わせて90%を占めた。筆頭株主の佐藤善治は、第七十二国立銀行の頭取。
 この会社は明治13年5月1日、余目村39番地に開業し、社長は斎藤良輔、取扱人(支配人)は佐藤常蔵であった。 斎藤はのちに山形県議会議長、衆議院議員となった人物だが、社長就任は本人が出張不在中に、発起人が相談して決めたので、あとでトラブルの原因ともなった。 積金所の種子は「小前のものをして日々1銭以上預金を為し身元相応の貸付をも可到実に便利なる所業」(自叙伝『還暦の斎藤良輔』)で、5月1日の開業から12月末日までの営業日数は207日間、1日平均の入金275円余、出金は232円余。 株主から期待されて営業をはじめ、大いに利用されたことが、これらの数字からうかがうことができる。
 12月末の定期預り金は1,369円余、当座預り金は67円、貸付金は10,060円で、1,213円余の利益を計上した。その後、預り金、貸付金とも増加したものとみられる。 貸付金の抵当は生糸、金銀、米穀、公債証券などで、期間も1ヶ月から長いもので3ヶ月、証書の書換は3度に限ると取り決めていた。だが、2,3年経ってデフレが深刻になるにつれ、貸付金のとどこおりが増加し、加えて16年3月の第七十二国立銀行の類焼で、この積金所の債務者が大きな損害を受けたとの世評から、株主や預金者のなかには、払戻を請求するものも出てきた。 また、貸付の取り決めにもかかわらず、貸付金は無抵当が多かった。そこで18年に規則を改正するなど、経営改善のための努力を傾けた。 しかし、努力もむなしく、営業を続けることは、いたずらに税金や預り金利子の負担を重くするばかりだったので、ついに19年5月11日に臨時総会を開き、解散を決議した。
 株主が多いうえに、東田川郡に集中していたので、余目積金所の失敗の後遺症は大きく、昭和の初めまで影響を及ぼした。
株式会社済救社 済救社は、困窮した士族の”急を済(すく)う”ために、旧藩時代から経済非凡の人物といわれた山岸貞文が主唱し、設立した貸金会社である。 明治13年7月12日に設立の免許を得て、8月1日に鶴岡五日町103番地で開業、初代社長は山岸貞文。
 当時は士族の生活を安定させることが急務であった。出資者は松ヶ岡開墾に参加したものなど、金禄公債を売って投資した士族であった。資本金8万円、1株20円で、資本金は第六十七国立銀行の最初の資本金と同じであった。 18年の山形県統計書によると、営業種目は貸付および預金、開業は12年12月となっているが、22年以降の統計書では、営業種目は貸金だけとなり、25年からは13年8月の開業として記載されている。26年作成の会社登記簿も同様である。
 済救社の滑り出しは好調であり、利益も多く、当時さかんだった第六十七国立銀行と、営業を競い合うほどであった。これをみて加入者も多くなり、出資者は安心して自分の職業に従事したといわれる。
 ところが、松方デフレが地元に及び、その影響が深刻になるにつれて、抵当品は下落し、得意先の零落などが続いて、経営は次第に困難になった。 当時、第六十七国立銀行頭取でもあった山岸社長は、19年2月に死去し、旧藩士の黒岩謙次郎が社長となった。だが、自体は深刻になるばかりで、同年11月には臨時総会を開き、会社の存廃を論議するまでになった。 その結果「いま解散して資産を分配すれば、20円の株がわずか2円にも達しない」ということで、とどこおっている資金を督促し、抵当品を処分するなどして手を尽くせば、せめて10円を超すことになろうと判断し、会社は存続と決まった。
 その後、黒岩社長が引退し、22年5月に黒崎与八郎が社長になった。黒崎与八郎は嘉永6年(1853)旧藩家老酒井了明の3男に生まれ、黒崎家を継いだ。 菅実秀を師とし、松ヶ岡開墾にも加わり、27年から16年間、町会議員をつとめた。また、研堂と号し、庄内地方を代表する書の大家でもあり、多くの門人をもった。
 社長に就任した黒崎与八郎は、会社再建に尽力したが、予期したせいかをあげることができなかったので、26年には資本金を6万円減じ、2万円ぬするという思い切った措置をとり、不良債権の整理を行った。 この26年には新商法が施行されたので、はっきりした株式会社組織をとえい、役員は取締役社長黒岩与八郎、取締役副社長細井旧服、取締役三矢弘義、取締役支配人永井友信、監査役金井成功、同秋保親兼という顔ぶれであった。
 決算は5月と11月の年2回で、28年上期(第3期)の株主名簿を見ると、旧藩主酒井忠篤を筆頭に、全部が旧庄内藩の士族である。同期の配当は年4%であったが、33年からは5%、大正3年からは10%の配当を継続して行った。 この間の経済界の激しい変動を考えると、当事者の経営の努力の跡を忍ぶことができる。
 預金を取り扱わなかったので、資金の調達は借入金に頼ったが、主に六十七銀行から借り入れ、時に地主、商人から借り入れることもあった。
 貸付先は商人、機業家などだったが、農家にも貸し出した。農家への貸付の多くは、春先に肥料資金として貸し、出来秋に回収する短期資金で、資金需要は東田川郡に多く、飽海郡平田村方面へも出張することがあった。 商人、機業家などには、主に地所、建物を抵当として貸し出したが「動産物抵当ノ却テ手数ヲ省キ詐欺ニ陥ルノ懼レ寡ナク甚タ便益ナルヲ認メ鋭意ニ之ヲ実行スルヲ務メ」(明治28年上期営業報告書)ることにした。 担保品保管倉庫を持ち、商品担保貸出が増えていった。28年下期は、報告書で「限アルノ財以テ限リナキノ需メテ充タス事態ハス」というほどの景況であり、機業勃興期の資金需要の旺盛さを物語っている。その後も地元の産業経済の消長に対応しながら、堅実な経営を続けた。
 大正に入ると、鶴岡町には六十七銀行、鶴岡銀行の本店、両羽銀行の支店、同じ五日町には両羽農工銀行の須点、荘内実業会があり、さらに大正6年3月には風間銀行が開業するようになった。 経済の急激な発展が、金融の需要を高めた結果だが、もはや資本金2万円の貸金会社では、経済の実情にそぐわなくなってきたので、大正9年2月11日に臨時株主総会を開き、解散を決議することになった。
 解散にあたって「理由、当社ハ小資本ニシテ金銭貸付ノ業ヲ営ムモ将来経費ハ倍加シ諸税ハ増額ノ趨勢ニテ収益ノ多キヲ望ミ難ク配当及積立ヲ従前ノ通リニ持続スルハ至難ノ業ニ属スルニヨリ幸ヒニ株式会社六十七銀行ニ増資ノ挙アツヲ機トシ当社ヲ解散シ該銀行株券ヲ譲リ受ケ株主諸君後来ノ福利ヲ謀ラントス」 と訴え、株主の理解を求めた。
 そして、人の面でもつながりのある六十七銀行へ、資産、負債のすべてを譲渡し、同社の株式1株につき六十七銀行の新株(12円50銭払込済み)3株を譲り受けることにした。 このようにしてすべてが円満に生産できる見通しがつき、9年4月30日限りで42年にわたる歴史を閉じた。
 解散のときの役員は、取締役社長黒崎与八郎、取締役三矢弘義、同図司重正、同永田健雄、監査役金井功、同鳥海良邦であった。
公益社 公益社は明治13年4月、県令の認可を得て、加茂村浜町46,加藤三九郎宅に設立された。党にの旺盛な資金需要に応ずるとともに、地主、商人の利殖のためためた投資が目的だったとみられる。 古くからの商港であった加茂港の商人は、蓄積した資金で田地の所有をふやしていったが、なかでも秋野茂右衛門家は、18年には酒田の本間家に次ぐ巨大地主となっていた。
 資本金は3,000円、1株50円、全部で60株のうち、秋野家一門が29株も占めていた。毎年5月と11月に決算したが、貸金の利用者は広く分布し、50円以下の小口貸金が多く、抵当の大部分は耕地、宅地であったといわれる。 預り金1万1,808円のうち、有福講の分が7,486円(53件)であった。預り金は23年がピークで、24年の預り金の返還は、それまでの半分になり、25年にはゼロになった。阿須解禁を手いっぱい貸し付けるので、貸金の返済がとどこおると、たちまちショートを起こすようになった。
 23年ころから整理を要する貸金が増え、未収利子も同様に増えた。当時、秋野家が預り金を提供したが、これは救済融資的なもので、23年下期の預り金2万4,061円のうち、9,610円は秋野家からのものであった。 さらに、秋野家一門による株式の肩代わり、社長就任などがあって、実質的には秋野家の経営に変わった。しかし、それでも公益社の経営は好転することもなく、30年ころには解散した模様である。 そのころは金融機関が形を整えてきており、第六十七国立銀行は30年に加茂に店舗を設けた。
元商社 藩政時代に米沢藩では商法局、商法会所が藩札を発行し、広く貸付を行い、正貨を蓄えて藩札引換の準備金としていた。 廃藩の際、商社と改称、その後も元商社と称して、貸金業を継続して営んだ。維新後の激動期に社業は衰えたが、明治7年に池田成章が社長となり、次第に興隆へ導いた。26年の商法施行で、合資会社とした。 会社の目的は貸金と預金で、所在地は元細工町、資本金は3万5,000円、この時の業務担当社員は池田成章であった。
 県の統計書では、26年から元商合資会社と次項の米沢義社を、銀行業として分類せている。大正9年には資本金を20万円としたが、出資のほとんどは上杉家であった。 昭和3年に社名を変更して、合資会社元商銀行となったが、翌4年8月、会社存続期間の満了を機会に解散した。
米沢義社 廃藩の際、米沢藩主上杉茂憲は東京に移住するにあたって、旧藩時代に蓄えた金と米とを家臣に与えた。士族1戸につき金10両、もみ3俵ずつで、将来に備える資金として士族全体に与えた総計は、金が17万円余、もに10万俵に達した。 士族はこれを管理する機関として、義社を設立した。上杉家は士族授産のために、別に1万円を寄付したので、生産者を興し、漆器、糸織などを製造した。
 義社は飢饉を生産社や藩内の富豪らが設立した商法通幣方に貸し付けたが、やがて基金の一部を士族にも貸し付けるようになった。 明治13年には株券を発行したが、株券が次第に平民の手に移り、かなりの数になったので、26年に商法上の株式会社とした。このときの払込資本金は7万円で、所在地は元細工町であった。 年月がたつにつれて、士族結社の正確が薄れ、32年には銀行として登記した。大正5年、両羽銀行に合併したが、当時の資本金は10万円で、株主の数は122人であった。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<その他の金融機関> これまで述べた国立銀行、私立銀行、銀行類似会社のほかに、庶民の生活に密着したものとして、無尽、質屋、貸金がある。 これらはいずれも、わが国古来の金融の組織で、社会生活に深く根ざしたものである。銀行とはどういうものか、よく知られなかった明治前半に時期に、これらの期間が貸し出した金額が、おそらく銀行のそれを上回るものであることは、容易に想像できる。 このほかに、明治の初めには政府の手によって、駅逓寮貯金(のちの郵便貯金)が始められた。
無尽 頼母子講と同様である。例えば、講元が中心となって講をつくり、決まった期日に一定の掛金を出し合い、くじ引きまたは入札の方法で、講参加者全員に順次一定額を給付する仕組みが無尽講である。 困窮者の救済、農具の購入、旅行など、いろいろな面で役立ってきた。その形は経済社会の発展とともに、多種多様となり、富くじ的性格を加味した複雑なものもあった。 明治30年代以降は、徐々にではあるが、より多数の人びとを相手とする営業無尽が発達して、中小商工業者」の金融機関として活動を始めた。これが無尽会社であり、現在の相互銀行=第2地方銀行の母体である。
質屋 商人や地主で兼業するものも多く、明治18,19年ころの県内の質屋の数は、およそ300軒であった。 市や町の多かったであろうから、質屋のない村もだいぶあったとみられる。そのころの質屋の流れ1件あたりの金額は、1円程度であるので、零細な生活資金の融通であったことがわかる。 当時は、貸金業とほとんど同じような営業内容で、質種となる担保物件は、品物だけでなく、土地建物という不動産も含まれていた。 土地の商品化は、地租改正によって促進されたけれども、6年の地所質入書入規則によって、土地抵当金融が保証された。
貸金 貸金業専業のものもあったが、商人、地主で貸金業を営むものは多かった。ことに地主にとっては、貸金利子は小作料、その他の収入(配当金など)とともに、収益の大きな源泉であった。 そして、抵当流れの土地は、地主の土地集積に大いに役立った。また、大地主のなかには、貸金部門を銀行として分離、独立させるものも現れた。その蓄積した資金をより広く運用するためにである。
郵便貯金 イギリスの郵便貯金制度を導入し、内務省駅逓寮の付帯業務として、「貯金預かり規則」を制定し、明治8年5月に東京の18局と横浜で取扱を開始、次第に各府県の郵便局に貯金預所を設け、鶴岡では12年に貯金の取扱を始めた。 16年10月、山形県令は告第149号で「夫レ勤倹ハ先哲ノ難ンスル所之レヲ守ルノ家ハ興リ守ラサルモノハ亡フ」と、貯金を奨励した。そして管内の貯金預所を記し、山形、酒田、米沢では郵便局のほか、個人も預所となっている。 20年には郵便貯金と改称され、やがて山間へき地に至るまで、郵便局が設置され、庶民の生活と深く結びついた存在となる。 (荘内銀行『創業百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社が続々設立=山形銀行> 国立行の創設で山形県内には初めて銀行という名の金融機関が出現した。明治初期にはこの他のも金融業務を営む数多くの会社が設立され、それらは一般に銀行類似会社と呼ばれるもので、金融業務のほかに商業や不動産などの事業を兼営するものが多く、また預金業務を取り扱わないものもあったため、銀行と区別して銀行類似会社と呼ばれている。 このなかには三井組による三井銀行のごとく都市銀行にまで成長したものもあったが、これはまったくの例外で大部分は弱小資本によるいわゆる貸金業であった。
 県内の銀行類似会社は明治18年現在で8社存在していた。このうち救急社と拡益社についてはその実態は明らかではないが、残る6社のうち米沢義社・済救社・元商社は、いずれも士族の出資による金融会社で、のちに普通銀行に合併ないし転換した。 これに対し積金貸付会社・広益社・拡盛会社は地主や商人らの手になるものであった。これらは次々と経営不振に陥り、明治30年ごろまでにはすべてその姿を消した。 この他明治12年の『山形県統計書』によると、東置賜郡中和田村(原高畠町)に金銀貸付会社(資本金1,800円)なる銀行類似会社もあったが、その顛末については不明である。
 のちに当行に合併された米沢義社も、もともとはこの種の金融会社であった。明治4年の廃藩置県に際して、旧米沢藩主上杉茂憲は東京に移住しりにあたり、旧藩士1人あて金10両と籾3俵(藩全体では金17万両と籾10万俵)を与えた。 これを共同で管理運営し、士族の生活援助にあてようと設立されたのが同社である。当初は士族義社と称したが後に米沢義社と改名、明治26年には株式会社に改組した。 創業のころは同じ士族結社で漆器や織物の製造を行っていた生産社や、藩内の富商が設立した商法通弊局などに資金を貸し付け、その運用収益の3分の2を旧藩士族に配分していたが、やがて士族自身にも貸付を行うようになり、その株も士族以外のものでも所有することができるようになった。 同社は大正5年3月、資本金のうち10万円を当行株式に応募しその業務を譲渡して解散した。
 同じ旧米沢藩とかかわりの深い金融会社に元商社があった。同社は明治13年2月に開業したことになっているが、歴史はさらに古く、藩政時代米沢藩商法局長の片桐籐右衛門が藩内富商とともにつくった結社にまで遡る。 当初は藩札貸し付けて金貸し業を営んでいたが、廃藩後は商社と改称し、上杉家からの資金を入れて営業を継続した。一時衰退したものの明治7年に池田成章を社長に迎え再生、その後置賜県令関義臣のよって廃社を命ぜられたが元商社の名義で営業を継続した。 明治26年には元商社合資会社に改組し、さらに昭和3年、合資会社元商銀行と改称したが、翌4年8月の会社存続期間満了を機会に解散した。
 済救社も士族のつくった金融会社で、これは旧荘内藩士の山岸貞文の主張によるものであった。開業は明治12年、資本金は8万円で、出資者には旧荘内藩主の酒井忠篤を筆頭に旧藩士が名を連ねている。 出資者の多くは金禄公債の売却代金を投資したもので、この資金を商人・機業家・農家などに貸し付け、その運用益で、もって困窮した士族の「急を済(すく)う」のがねらいであった。一時減資をして不良債権の償却にあてたこともあったが、比較的堅実な経営を続け、大正9年には資産と負債を六十七銀行に譲渡して解散した。
 これら士族の手になる金融会社が比較的堅実な経営を展開したのに対し、商人や地主層の設立した金融会社はいずれも短命に終わった。 第七十二国立銀行の初代頭取でもあった砂糖善治の設立した積金貸付会社は、わずか数年で解散、加茂村(現鶴岡市)の大地主秋野家が出資した公益社も十数年で解散に追い込まれた。 山口村(現白鷹町)の拡盛会社は生糸売買商人が株主となり養蚕・製糸業者相互の金融の便をはかろうと設立されたもので、もっぱら蚕糸業者への営業資金の貸付を行っていたが、これも十数年で解散した。 ただ同社は、貸付業務を行うだけではなく蚕糸技術の粗銅なども行っており、いわばユニークな金融会社であった。
多様な地方金融の担い手 明治初年、山形県内には国立銀行や銀行類似会社等が相次いで創設され、金融の途も次第に多様化してきたが、一般の庶民の間では依然馴染みの深かったのは質屋や貸金業などの貸金資本であり、庶民で相互に金銭を融通しあう頼母子講(無尽)であった。
 当時の山形県内の数は明治19年時点で300軒、同年末現在での貸出総額はおよそ12万3,000円、この貸出口数が約14万6,000口であったので、1口当たりの貸出額は84銭程度と、きわめて小口零細なものであった。 当時の県内の世帯数はおよそ11万6,000世帯で、貸出口数はその1.27倍にあたり、質屋の利用が相当一般化していたことをうかがわせる。 このように質屋は庶民の間における小規模金融の担い手の一つであったが、高利であり小口でもあったため庶民層もこれだけに依存しているわけではなかった。そこで頼母子講と称する講集団が組織され、庶民相互間の金銭の融通が盛んに行われていた。ただこれがどの程度普及していたかについての統計資料は見当たらない。
 このほか藩政時代から明治期を通じ、きわめて重要な地方金融の担い手となっていたのは、地主および商人層であった。多くの富商や大地主は貸金業を営み、その主要な収入源となっていたが、一方ではこれが土地集積の梃子ともなっていた。 山形県内最大の大地主本間家では、小作米売却代金に知って器する貸金の利息収入をあげていたとされており、また山形の豪商長谷川家や佐藤家などは、藩政時代から各層の事業資金を広く貸し付けていたとされている。 時代と共に大地主の間にはこの貸金部門を銀行として分離独立させるものも出た。明治21年に本間家によって設立された本立銀行、鶴間の風間家によって大正6年に設立された風間銀行などはその例である。 (『山形銀行百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行     1981.12. 1
『山形銀行百年史』          山形銀行百年史編纂部会 山形銀行     1997. 9.30
( 2006年10月9日 TANAKA1942b )
▲top 

岐阜県の銀行類似会社
生糸、米など県特産物の産出地域に設立
 今週は岐阜県の銀行類似会社を扱う。引用したのは『十六銀行百年史』と『大垣共立銀行百年史』。十六銀行とは明治10年8月に設立された「第十六国立銀行」が継承されてきた銀行であり、 大垣共立銀行は明治11年12月に設立された「第百二十九国立銀行」が継承されてきた銀行。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<岐阜県の銀行類似会社・私立銀行の発展=十六銀行> 当行の設立以前、県下にはすでに明治7年(1874)6月に、銀行に類似した業務を行う会社として、「資本金貸与会社」(資本金2,000円、株主6名)が武儀郡富之保村に設立されていた。 同社は製茶業者などに金融を行っていたとみられる。「岐阜県史」(近代・中)によれば、同社は17年ごろまで営業を続けたが、松方不況によって純益が減少し、遂に同年廃業したとなっている。
 また明治初期の岐阜県内各地には、商工業を営むかたわら仲間金融を行う一種の銀行類似会社とみられるものがあった。このような会社を「岐阜県統計書」から拾うと、表の通りであるが、実際にはこの他にも類似会社とみなされるものがいくつかあったと思われる。 これらはいずれも生糸、米など県特産物の産出地域に設立された。その地域の特産物と密接な関係を保ちつつ金融機能を果たした。
岐阜県下銀行類似会社 (単位:円)
設立年月 名 称 本業 所 在 地 資本金 代表者名 営業を引継いだ銀行
7.06 資本金貸与会社 金融 武儀郡富之保村 2,800      
8.04 開産社 生糸 大野郡高山町 14,709 三木七郎右衛門   
12.01 成功社 金融 安八郡大垣町      
13.06 濃厚会社 生糸 厚見郡岐阜町 110,000 三浦儀左衛門 濃厚銀行
〃  〃 濃北会社 郡上郡八幡町 50,000 杉下五平 郡上銀行
〃  〃 濃東会社 加茂郡神戸村 32,850 神戸弥助  
〃  〃 濃恵会社 恵那郡付知村 3,500 熊谷孫六郎  
〃  〃 濃明会社 恵那郡明知村 50,000 橋本幸八郎 濃明銀行
〃  〃 高陽会社 大野郡高山町 60,000 平田忠次郎  
〃  〃 濃陶会社 陶器 土岐郡多治見村 60,000 西浦円治  
13.08 濃産会社 武儀郡上有知村 50,000 須田万右衛門  
13.09 濃兼会社 生糸 加児郡兼山村 18,000 藤掛文平  
13.09 永昌社 大野郡高山町 1,000 直井佐兵衛  
14.01 美濃縞会社 織物 羽栗郡笠松村 70,000 田中善兵衛 笠松銀行
14.03 共営社 金融 安八郡大垣町 25,000 田中宗一 共営銀行
14.05 興益社 7,500   興益銀行
14.11 真利宝会社 郡上郡八幡町 50,000 水野伊兵衛 郡上銀行
12.12 濃有会社 生糸 武儀郡上有知村 10,000 篠田裕次郎  
15.01 後栄社 金融 安八郡大垣町      
15.10 広融社 海産物      
16.01 貸付金会社 金融 各務郡鵜沼村 3,000    
18.04 真利宝会 安八郡大垣町 10,000 森正雄 真利銀行
21.01 興産会社 石灰瓦 不破郡赤坂村 7,500 矢橋敬吉 赤坂銀行
(『十六銀行百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<岐阜県西濃地域に設立された各種金融機関=大垣共立銀行> 全国各地に設立された国立銀行各行の出資者の大半は、旧士族階級の出身者であった。そのため、それら国立銀行は、一般的に殿様銀行とか士族銀行と呼ばれることが多く、ある意味では国立銀行の特殊性を表していた。 これに対し、主として地域の農工商人や地主などが設立したのが銀行類似会社である。
 多くは農村や産業交易の中心地に設立され、資金の融通のほか、物品売買、生産事業を兼営するものが少なくなく、なかには農業金融を専門とするものとか、地域の殖産興業を目指すもの、あるいは貸金会社的なもの、貯蓄組合的なもの、同業者組合的なもの、士族授産を目的とするものなど、その性格・機能や経営形態は必ずしも一様ではなかった。
 これら銀行類似会社は、地方庁の許可もしくは認可で設立されたものの他、主務省の許・認可を受けたものがあった。
 しかし、許・認可後の状況については報告の義務がなかったため、記録が残っておらず、詳しいことはわからない。明治15年5月に設立許否の決定権が大蔵省に移され、同年9月、銀行類似会社は、貸付金、預り金および為替、荷為替、割引き等およそ銀行事業の全部またはその一部を専業にするものに限ると定義され、名実ともに金融機関として地域金融になくてはならない存在となるのである。
 一方、明治9年の国立銀行条例改正時に、「銀行」の名称使用を禁止した条項が削除されたため、銀行類似会社も銀行と称することができるようになった。 商号を変更しないものもあったが、国立銀行の新設が許可されなくなった12年以降、私立銀行の新設が増加して、地域の産業・経済の発展に大きな影響を及ぼした。
大垣地区金融機関の盛衰 この時期に西濃地域に設立された金融機関は別表のとおりである。
西濃地域金融機関設立一覧
設立年度 商  号 業種 所 在 地 備  考
明治11 第百二十九国立銀行 金融 安八郡大垣町 大垣共立銀行に継承
11 第七十六国立銀行 海津郡高須村  
12 成 功 社 安八郡大垣町  
14 共 営 社 共営銀行と改称
14 興 益 社 美濃実業銀行と改称
15 大 垣 銀 行  
15 後 栄 社  
15 広 融 社 海産物  
15 南 濃 銀 行 金融 安八郡三郷村  
15 真 利 宝 会 安八郡大垣町 真利銀行と改称
21 興 産 社 石灰 不破郡赤坂村 赤坂銀行と改称
27 大垣商業銀行 金融 美濃商業銀行と改称
27 大垣貯貯蓄銀行  
28 西濃貯蓄銀行 西濃銀行と改称
28 神戸興業銀行 安八郡神戸村  
29 大垣共立銀行 安八郡大垣町  
30 大 橋 銀 行  
30 高須貯蓄銀行 海津郡高須村  
32 富 秋 銀 行 揖斐郡富秋村  
33 久瀬川銀行 安八郡大垣町  
33 浅 沼 銀 行 千葉県 大正元年に大垣に移転
34 津 保 銀 行 武儀郡上之保村 積善銀行と改称(大垣に移転)
 以上のほか、西濃以外の他地域に銀行類似会社が17社あり、岐阜県下に本店をおく銀行類似会社は24社を数えていた。
 上記した表のうち、共営社は明治14年3月設立で本店を大垣町東船町73番戸におき、西濃地域のほか、滋賀県の長浜や三重県の桑名にも支店をもっていた。 26年に共営銀行と改称、資本金は当初6万円、36年に25万円に増資したが、大正15年4月に当行(大垣共立銀行)に吸収される。
 興益社は明治14年5月に資本金30万円で大垣町東船町14番戸に設立、高須、神戸、黒田、氷取、加納(現・揖斐郡大野町)に支店をおいていた。 26年に興益実業銀行と改称、33年の金融恐慌時に当行へ支援を求め、吸収された。
 大垣銀行は明治15年6月に設立、市川武真が頭取となった。当行取締役松原芳太郎も頭取を務めたが、大正7年5月に愛知銀行(現・東海銀行⇒UFJ銀行⇒三菱東京UFJ銀行)に吸収された。
 真利宝会は、大谷派本願寺の本山志納金取扱機関として大垣町岐阜町に設立、明治18年4月資本金1万円で銀行業務を兼営することとなった。 26年に真利銀行と改称、岐阜市のほか、高田、船附に支店を、呂久に出張所を設置した。37年の恐慌時に当行の支援を仰ぎ、43年に吸収合併となった。
 大垣商業銀行は明治27年5月に大垣町俵町にて設立、28年12月には美濃商業銀行と改称、資本金50万円とした。岐阜、今尾、笠松、北方、揖斐、黒野、長良、そして滋賀県の醒ケ井、長岡にも支店をおいたが、役員奥田平八の自己資本的な銀行と化し、37年の恐慌時に破綻・倒産した。
 西濃貯蓄銀行(代表森正雄)は明治28年12月に大垣町岐阜町で設立、大正11年1月に西濃銀行と名称を変更したが、昭和2年の金融恐慌時に蘇原銀行(稲葉郡蘇原町、昭和7年に破産)に吸収された。
 大橋銀行は明治30年3月に資本金1万円で大垣町本町に設立、その後逐次増資を行い、垂井、赤坂、今尾、竹鼻、高田、高須、揖斐、黒野、牧田、神戸、大藪、野寺、栗笠、太田、駒野、池野、そして三重県の香取に支店を開設していった。 代表者の大橋興一は39年ころから朝鮮半島の土地経営に乗り出したが、これがもとに昭和7年には経営が破綻し、7年12月に業務廃止が認可された。
 久瀬川銀行は明治33年11月に資本金15万円で大垣町久瀬川に設立(代表者鈴木徹)、大正13年6月には恐慌の余波を受けて破綻、浅沼銀行に吸収された。 浅沼銀行は明治33年に千葉県に設立、大正元年8月に代表者の浅沼定之助が郷里の大垣に本店を移転、岐阜をはじめ県内各地に支店を出したが、大連に雑貨店を開くなど海外への多角経営につまずいて資金難となり、昭和2年の金融恐慌時に取付けにあって休業し、債務整理後の昭和6年6月に廃業した。
 積善銀行は明治34年3月に武儀郡上之保村に津保銀行として設立、37年5月に積善銀行と名称を変更して大垣町に移転、大正5年3月さらに大五銀行と改称し、7年12月には安藤銀行と改め、名古屋市に本店を移した。
 大垣以外では、神戸興業銀行が明治28年1月安八郡神戸村に資本金3万円で設立、金融久横行の影響を受けて昭和7年12月には解散した。
 不破郡赤坂村に、後に当行取締役に就任する矢橋徳次郎ら26人によって興産社が明治21年1月に設立され、26年12月に興産銀行となり、35年1月には赤坂銀行と改称した。 その後、昭和17年5月に企業統合により十六銀行と合併した。
 また南濃銀行は安八郡三郷村に明治15年9月に設立したが、25年には廃業している。 (『大垣共立銀行百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『十六銀行百年史』                編集・発行 十六銀行     1978. 3.30
『大垣共立銀行百年史』              編纂・発行 大垣共立銀行   1997. 2.─
( 2006年10月16日 TANAKA1942b )
▲top 

鳥取県の銀行類似会社
士族授産に対する県の積極支援姿勢
 今週は鳥取県の銀行類似会社を扱う。明治維新後民間の産業では生糸が花形輸出産業であったが、鳥取県の産業といえば農業程度であった。商業も鉱工業もそれほど盛んでない鳥取県、それでも銀行類似会社が設立されていた。
 今週引用するのは、『鳥取銀行の歩み』と『山陰合同銀行五十年史』。鳥取銀行は大正10年(1921)株式会社鳥取貯蓄銀行として設立され、昭和23年(1948)普通銀行に転換、株式会社因伯銀行に商号変更。 昭和24年(1949)10月1日、鳥取信用組合の営業を譲り受けたうえで、あらたに株式会社鳥取銀行を設立。 山陰合同銀行は昭和16年(1941)7月1日設立され、島根・鳥取両県をはじめ、山陽・兵庫地域をカバーする広域な店舗ネットワークを展開している。 
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<島田組破産と勧業社の挫折=鳥取銀行> 明治6年(1873)1月8日の鳥取県権参事関義臣による布告(「鳥取県史」資料編「布告綴」日南町多里公民館蔵)をみると、旧藩札の引換えについて「差向先ッ五拾目札、並ニ壱分札之分」から始めるので、鳥取若桜街道為換方島田八郎左衛門方へ申し出ることを触れている。 また「伯州会見・日野・汗入三郡之分ハ、米子出張所ニ於テ引換相成候条、同所ヘ持参可致候」として、期限を2月20日と指定、同日限りに「都テ持参引換可申事」とある。 島田組は石代納が初めて認められた壬申(明治5年)貢米・鳥取県分4万3,000石の一括払い下げを受け、その売り捌きに米商社を設立した。 商社総代には内田吾吉郎・小林善次郎・岩淵彦資・高塚平十郎らの県内各地商人が参加、明治6年・7年の2ヶ年にわたり、盛んに米の売買を行っている(「鳥取県史」経済編)。 各地の勧業社も旧生物座・間物座などの付属商社を通じて、営業活動を展開したようである。しかし、由利から大隈に変わった新政府の金融政策は、厳しい引き締めを強行したので、維新後最初の恐慌と言われる猛烈な不況が始まった。
 明治7年(1874)12月、島田八郎左衛門から県にあて「御県為換御用相勤候ニ付、抵当物並ニ御預リ金上納方ニ付歎願書」が提出されている。 その文面には「万一分散之御処分ト相成候様之仕合ニ立至リ申間敷哉ト千辛万苦罷在候」と苦況を訴え、県の預り金取立てを4,5ヶ月ほど猶予して欲しい旨がしるされていた。 前月の11月には、当時最大の小野組が破産・閉店し、政府によってその財産が没収された(「近代日本総合年表」)。島田が「万一分散之御処分」といっているのは、そのことを念頭においている。 歎願書には島田組の官金預り高を91万98円59銭5厘4毛、この抵当71万5,865円39銭7厘とし、貸付金は51万6,616円余と報告、その内訳をしるした別冊が添えられていた。 鳥取県分は預り金14万3,531円16銭4厘5毛、差入れの抵当が18万8,825円62銭3厘となっている。島田組はこの月破産・閉店し、鳥取県はかわって神戸の松尾松之助に為替方の用達を申し付けた(「鳥取県史」資料編)。
 三井・小野・島田組は大名貸しを主にして立ち遅れた鴻池を抜いて、維新政府に食い込み、とくに官金取り扱いに積極的だった小野組は明治6年(1873)府県為替方への進出が26県、三井組との協同1府2県で首位を占め、三井組の2府13県に大きく水をあけていた。 これに対し島田組は4県で、その預り金91万円は三井組の214万円の半分以下、さらに小野組の523万円の5分の1以下である(石井寛治著「開国と維新」)。 政府は明治7年10月22日、三井・小野・島田3組に預り金の全額相当の抵当増額を命じている。その年2月に3分の1相当額への増額を命じたのに続いて、決定的な追い討ちだった。 三井は外資系銀行の融資で辛くも生き延びたが、小野・島田組は命脈を断たれるに至った。
 勧業社設立の際廃止になった融通座の営業ぶりは随分放漫で、鳥取・境港の両社で明治5年(1872)閉鎖時の焦げ付きが1万4,802両。 政府に返済可能な4万両を別として、上納すべき益金7万4,802両からこれらを差し引きして2万両の貸し渡しを、県から政府に願い出て聞き届けられている。 貸付けに当たって「救助同様」の態度で「夫々証文トモ揃ヒ居不申、素ヨリ引当等モ無之」という始末では、閉鎖も止むをえなかった。かわって「私社」として発足した勧業社の業態はどうだったであろうか。 日野郡勧業社は県にたいして「貸出ス而己ヲ社ノ盛ントセス」見込みのないものは「相見切」り、貸出先を「時々検査」するなどして堅実経営に努力するべき旨の内在伺を提出している。 しかし、それでもなおかつ明治9年(1876)には、同郡への窮民援助貸付金6,103円7銭2厘から1,049円92銭4厘を引いた残り、金5,053円44銭8厘の日野勧業私社への貸付けを「御見切相成様」との願いを、県参事伊集院兼善から大蔵卿大隈重信に差し出す事態に立ち至っている。 島田組が破産した翌8年(1875)8月には境港、同じ頃鳥取、その翌9年9月に日野、更に米子・倉吉の各勧業社とも、あい前後してすべて行き詰まりに立ち至った(「鳥取県史」資料編および経済編)。
池田屋融通所栄業社の設立 「坂口家録事誌」(「鳥取県史」資料編)には旧藩主池田家が設けた「為換座」(金穀貸付所)」について「廃藩後ニ、三商家ノ共有ニ移り、更に勧業社ト称シテ継続シテ為換店」としたことを書きとどめている。 鳥取県が廃せられて島根県に合併されるのは明治9年(1876)8月21日であるが、同年9月の鳥取県事務引渡書の「会社一件申送ノ事」のなかに「伯耆国米子町ニ池田従五位設立候融通所有之候得共、是レハ会社ノ名号ヲ改メ所名ヲ以テ設立候ニ付、県限許可致置候事」とみえる。 これは明治8年11月の県治条例に県はいったん廃止にともなう府県事務章程の改定で、会社の取扱いを株式条例に準ずることとしたしたしたた管下の諸会社に県はいったん廃止を命じ、あらためて条例による会社設立の願書受け付けたことを述べている。 この時鳥取の栄業社と米子の人参会社は既に願書を提出しているので政府に許可を伺い中であるが、池田家設立の融通所は県独自に認めているので了承して欲しい、との申し送りのようである。 命じ15年の「鳥取県統計書」の商業諸会社のなかに、邑美郡藪片原町の栄業社と会見郡内町の為換会社とがみえる。別に会見郡栄町に広潤社があって、いずれも「種類」は為換貸付となっている。 開業年月は栄業社が命じ10年11月、為換会社は13年8月、広潤社は14年4月である。このうち広潤社は翌16年の「県統計書」には見えなくなっているので、設立後2年ほどでつぶれたのであろうが「鳥取県歴史」の命じ15年の「鳥取県管内諸会社取調表」には伯耆国会見郡米子町二百五十一番地に命じ14年4月開業の融通会社が見え、 同じく、「鳥取県歴史」の命じ15年12月現在「会社取調表」の「資金ヲ株式ニ分チシモノ」には伯耆国会見郡米子町の為換会社が載っている。 池田従五位は池田輝知であろうが、鳥取・米子・境の勧業社がなくなったあと、これにかわる会社として鳥取では栄業社が設立され、米子と境には池田家出資による融通所が開設されたようである(「鳥取県史」経済編)。 これと坂口家録事誌にいう融通座(金穀貸付所)および「鳥取県統計書」「鳥取県歴史」にみえる融通会社、為換会社との関連にについては、その有無をつまびらかにしない。
 一方、鳥取の栄業社は因幡国鳥取江崎町194番地福島臻ほか13名から県参事伊集院兼善あてに設立の願書が提出され、島根県合併直前の命じ9年8月7日、伊集院から政府に進達された。 それには鳥取では窮民いよいよ難澁のさい「有志ノ者共同盟ヲ募リ」「一小社ヲ設立致シ、目下細民ノ融通ニ適シ度」と目的がしるされている。福島ほかの13名は宇野彦太郎・高橋広大・小倉源市・田中為次郎・田中政春・小林善次郎・小泉文次郎・ 小泉清一郎・上嶋謙藏・村尾儀平・吉村貞次郎・福井孝篤・戸長諸鹿伝蔵・副戸長五百藏勇・区長臼井貞雄らで、のち2代目市長となって鳥取市制開設に活躍する田中政春の顔が見えている。 しかし、政府は同社の規則に資本金額の記載がない点をとがめ「不都合之会社ニ付、難聞届候」として大蔵大輔松方正義名で同年8月28日付、不許可を申し渡してきた。漸く許可されたのは翌、命じ10年(1877)11月になってからである。 しかし島根県令佐藤信寛は「女工場」を設立、生糸と絹布の機械を据え付け、その「得失」を試験するため栄業社へ取調方を命じ、取りあえず県税のうち432円を同社の惣代吉村貞次郎に下げ渡し、試験中の工場は吉村に預けて運営をまかせ「証書取置有之事」と申し継いでいる。 栄業社に対しては、政府に認可前から県当局として相当の支援をしていたことになる。それは試験的に設けた工場が士族子女への「無産ノ輩へ授産ノ為」の事業として期待を寄せていたからである(「鳥取県史」資料編)。 (『鳥取銀行の歩み』から)
明治15年12月現在の金融会社
名  称 栄業社 為換会社 広潤社
地  名 因幡国邑美郡藪片原町 伯耆国会見郡米子東町 同国同郡境栄町
設立年月 明治10年11月 明治13年8月 明治14年4月
業  態 貸  付 為換貸付 為換貸付
株  金 1万7,000円 7,000円 7,000円
株  数 170株 100株 280株
払込金高 0 0 7,000円
収入金高 2,371円918 503円489 51,719円587
支出金高 1,831円533 243円 68,714円587
差利益金 540円385 259円99 499円576
配金高当 0 259円99 499円52
(「鳥取県史」による) (『鳥取銀行の歩み』から)
武家商法にデフレの波 預金の観念がまだ一般にないころの勧業社や栄業社などが、資本をそのまま貸出に回してたちまち行き詰まったのとは異なり、国立銀行時代に入って、特に明治15年(1882)以降は預金が急速に伸びて、貸付の一段と豊富になっている。 明治16年の県当局調査による諸会社を明治15年の「鳥取県歴史」「鳥取県統計書」に比べると、若干の異動はあるが16年調査には奨恵社・寛義社・真益社・鴻益社など、農村振興を目的とする事業を進める会社があげられている。 このうち奨恵社はその業態を、「米穀ヲ抵当トシ金銭ノ貸付、其益金ヲ以テ救恤ニ充ツ」としていて、零細な貧農の救済にあたるとともに、金納となった貢米の集散を行うものだった。 明治8年(1875)8月橋津の官倉を借りて、地租改正による金納に備え出来米を保管したいとの願いが戸長尾崎純一郎ら4名の連署によって県当局宛出されているが(「鳥取県史」資料編)、 明治13年(1880)9月には、宇野村尾崎文五郎、橋津村中原与平、小鹿谷村市橋善蔵、伊木村涌島長十郎、上余戸村涌島正保の5名によって奨恵社が設立された。 のちに銀行部を設け、やがて独立して奨恵銀行に発展していく。共愛社は1株5円、3円、2円、1円、50銭の5種類の株を募り、資本金7,000円によって始めた零細士族の共同事業だったが、明治22年(1889)「鳥取県統計書」には株主1472人、出資金2023円となっている。 目標の7,000円に株の募集が到達しなかったか、「鳥取市70年」の言うごとくデフレの痛手を受けたものか。24年「鳥取県統計書」からは姿が消えて見当たらぬ。 (『鳥取銀行の歩み』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<山陰地方における金融機関の発生と展開=山陰合同銀行> 廃藩置県の断行と共に、急坂時代から続いている金融機関は廃止を命ぜられた。この時、鳥取県は鳥取・境の融通座の存続を申請したが、旧時代の藩営機関であるという理由で許されなかった。 そので県は融通座を解散し、明治5年7月から10月にかけて鳥取・米子・倉吉。境・根雨に新しく勧業社を設立した。勧業社には出資者を意味する基本人や、資本金を意味する基本金が決められ金融を行ったことから、鳥取県初の銀行類似会社といえる。 根雨を除く4勧業社は預金業務も取り扱ったものとみられるが、勧業社に対する信用はまだ薄く、預金の習慣が一般化していない当時ではほとんど利用されず、貸付の資金源は資本金に頼らざるを得なかった。 大商人や地主層の利用が少なく、比較的小規模な商人、生産者への流通資金の融通が多かった。
 勧業社は県の保護もあり当初は活発な貸付を行っていたが、貸付金の固定などにより、6年から7年にかけて経営状態が悪化した。 とくに7年の小野組・島田組閉鎖の営業もあって、全国的な金融梗塞が起こり、不況の進行で物価が急落し、倒産する商社が続出し始めてかたはどの勧業社も行き詰まり、8年以降続々と閉鎖していった(『鳥取県史』近代・第3巻経済篇)。
 このほか、8年には鳥取の藪片原に営業社が、福井孝篤・吉村貞治郎ら14名の出資者により設立されている。営業社も預金と貸付業務を行っており、業況は比較的順調だったようである。
 一方、島根県の場合をみると、佐藤金之助が旧藩時代から掛屋(掛所)として公金を取り扱い、5年11月に小野善助(小野組)が為替方に命ぜられるまで続いた。
 『松江市誌』によると、4年1月に物産会所が設けられ、地元物産の売捌きや他県商品の購入などを行ったほか、政府が殖産助成佐久の1つとして松江藩庁に貸し付けた太政官札の運用などに当たったが、同年11月ごろには早くも廃止された。 また、同じ年松江の末次本町に設立された融通会社は、官民合弁の会社組織で田部長右衛門、桜井三郎右衛門、絲原権造、桜井善太郎、滝川寿一郎の5名が頭取を務めたが、その内4名が鉄山師であった。 しかし、頭取たちは融通会社にあまり熱が入らない事情もあり、不況のもとで成績はあがらず、6年1月ごろには全く失敗に終わっている。
鳥取県・島根県為替方──小野組・島田組 新しい貨幣制度や地租改正による、租税の物納から金納への切替えなどの転換期ににあたり、金融を円滑ならしめる強力な民間金融機関として登場したのが小野組と島田組であった。 小野、島田組は旧藩時代から三井組などとともに幕府の為替方であり、明治になってからは山陰両県のみならず、全国各県の為替方を務めた。 小野組は島田組に比較し規模が大きく、早くから地方進出し為替方を拝命した県の数も多かった。島根県は明治5年11月、小野組を県為替方に任命したが、 鳥取県は同年11月、島田組に対し「御用金銀下タ改掛屋」を申し付けた。掛屋というのは実質為替方の仕事をしたものであろうが、島田組が鳥取県為替方を正式に名乗ったのは1年余後の6年11月のことである。
 小野組や島田組は県為替方として、県民から租税金・諸手数量・官物払下代などの収納と保管、県民への諸支払、また公金への諸上納金、政府から県への下げ渡し金等の送付と保管など、すべての公金の出納事務を取り扱うことにより、中央と地方を財政面で結ぶパイプの役割を果たした。 また、県から預かっている財政資金を自己資金に加えて、県内の業者や個人に自ら融資したり商業活動を行った。
 ところが、7年10月発布された公金預り金に対す政府の増額令(従来は預かり金額の3分の1に相当する抵当を公債・地券または不動産をもって差し出す規則であったが、預り金相当の質物を提供するように改められた)に対応できず、翌11月に小野組が閉店したため、島根県は直ちに為替方としての業務を停止させた。 これにかわって三井組(9年7月、三井銀行と改称)が8年7月に県為替方となり、末次本町に松江出張所を置いて17年5月まで営業し、翌月第三国立銀行が松江支店を開設して為替方の業務を引き継いだ。
 一方鳥取県でも7年12月、小野組と同じ理由で島田組も休業したので、県為替方としての業務を停止させるとともに、とりあえず公金の送受を第一国立銀行に取り扱わせることとした。 その後8年7月、神戸の商人松尾松之助を新に県為替方に神明して、県金庫の業務を行わせた。同人は元オランダ商館の通訳であるが、その地位を利用して財をなしたあと、8年春鳥取にも進出して支店を置き、米の売買を行っていた。 県為替方の機関は、鳥取県が島根県に併合される9年8月までの1年余と短かった。
山陰地方の国立銀行 国立銀行条例が制定されたのは明治5年11月であるが、6年から7年にかけて設立されたものは東京・横浜・新潟・大坂でのわずか4行にすぎなかった。 政府の意図に反して国立銀行の設立が不振であったのは次のような理由による。すなわち、政府が引き続き不換紙幣を増発したため、その価格が下落したことや、貿易の入超によりわが国から金の流出が続いていたことなどで、国立銀行紙幣を発行すると直ちに兌換請求を受ける有様で、その経営はきわめて困難となったことからであった。
 そこで国立銀行4行は政府に対して、正貨兌換を改めて政府紙幣をもって兌換にあてるべきであることを請願した。これよりさき政府は、旧士族の家禄制度を廃止し清算するため1億7,400万円にのぼる金禄公債を発行しようとしていた。 しかし、一度巨額の金禄公債を発行すればその市価が著しく下落し、旧士族の生活が困窮することは必至であった。9年8月、請願の趣旨を入れて国立銀行条例を改正したのは、金禄公債の価格の維持と活用の道を開く目的も含まれていたのである。
 その結果、全国的に国立銀行が設立されることことこなったが、政府は12年11月に京都第百五十三国立銀行を認可したところで、資本金総額がほぼ制限額に達したため、以後設立を禁止した。
 山陰地方では11年から12年にかけて、松江第七十九・鳥取第八十二・鳥取第六十五・津和野第五十三の4つの国立銀行が設立・開業したほか、旧鳥取藩主池田家を中心とした東京在住の士族たちが11年に東京に設立した第百国立銀行の鳥取支店が14年10月に開店した。 (『山陰合同銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『鳥取銀行の歩み』         鳥取銀行の歩み編纂委員会 鳥取銀行      1994. 8. 1
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行    1992. 6. 1
( 2006年10月23日 TANAKA1942b )
▲top 

鹿児島県の銀行類似会社
士族の生活安定のために設立
 今週は鹿児島県の銀行類似会社を扱う。鹿児島銀行は明治12年(1879)第百四十七国立銀行として設立され、 昭和19年(1944)第百四十七・鹿児島・鹿児島貯蓄の3行が合併し鹿児島興業銀行となり、昭和27年(1952)鹿児島銀行と商号変更された。
 宮崎銀行は昭和7年(1932)日向興業銀行として設立され、昭和37年(1962)宮崎銀行と改称。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社の動静=鹿児島銀行> 為替会社は、前述のようなわけで所期の使命を全うできなかったものの、「為替会社ノ創立ニヨリテ立会結社ノ方法ヲ民間ニ普及セシ」めた功績は大きく、これを契機に金融会社の設立出願が続出した。 これに対して政府は「未タ之ヲ監督羈束スル條例法規ナカリシヲ以テ其成法ニ抵触セス且敢テ公益ヲ害スルコトナシト認ムルモノハ概シテ人民相互ノ結約」に任せることとした。
 しかし、明治5年国立銀行条例の制定に伴い、国立銀行以外は銀行の名称を使用できなくなったので、国立銀行に転換できなかった金融会社は「銀行類似会社」として存続することになった。
鹿児島県の実情 鹿児島県では明治6年12月、第五国立銀行鹿児島支店が開業し、他県にくらべ銀行の出現は早かったが、それでも幾つかの金融会社(銀行類似会社)が存在した。
 ただ本県の場合、金融会社ないし銀行類似会社といっても、明治金融史のいわゆる銀行類似会社の主流とは、次に諸点で性格を異にした。
(1) 全国的にみれば、銀行類似会社は長崎の立誠会、高知の共立社のように商人発起によるもの、高松の信立社、水戸の三津輪商社のように士族発起によるもの等、民間に同志的結合としての存在であったが、 本県の代表的な金融会社は、別表「鹿児島県銀行類似会社の系譜」に見られるとおり、表面上は会社でも実質は旧藩主もしくは県が経営主体の特殊な存在であった。
(2) 全国的にみて、銀行類似会社の一部は国立銀行条例公布を契機に正規の国立銀行または私立銀行に転換したが、本県ではそのままでやがて消滅した。
(3) 全国的にみれば、銀行類似会社は一般国民を対象に銀行業務を営むものであったが、本県の代表的なそれは士族を対象とし、その救済、授産(殖産興業を含む)のための営業が主で、士族以外は付随的に取り扱われた。
 銀行類似会社の設立態様も、(1)「地方庁ニ於テ大蔵省ノ指令ニ依リ承認シタルモノ」、(2)「地方庁限リ承認シタルモノ」、(3)「人民相対ニ任カス指令ヲ受ケタルモノ」、(4)「随意ニ設立シタルモノ」と分かれるので、その実態は明らかでない。
 本県で10〜22,23年に開業した銀行類似会社は、表のとおり8社を数えるが、質屋、保険業あるいは頼母子講的なものも含まれているようである。当行設立以前に存在した銀行類似会社のうち主要なものは保護会社、承恵社、撫育会社の3社であった。
鹿児島県の銀行類似会社  (単位:円)
名  称 所 在 地 資 本 金 営業種目 開業年月 備  考
交 通 社 鹿児島船津町 44,000 貸付・預り金 明治12.10 前・撫育会社
商 通 社 鹿児島生産町 100,000  〃  〃  12. 6 前・承恵社
商 質 社 肝属百引村 10,000 貸  付 13. 1  
物券会社 鹿児島千石馬場町 50,000 貸付・物品売買 14. 3  
貸付会社 日置郡串木野町 50,000 貸  付 14. 5  
交 補 社 日置郡江口浦 7,000 16. 3  
南島興産社 鹿児島築町 400,000 16. 3  
衆 成 社 鹿児島山之口馬場町 無  尽 13.12  
『鹿児島県史』第4巻、441〜445ページから抜粋
保護会社 旧藩時代、士族の家計安定のため救助貸付制度が設けられたが、滞貨になるものが多く、借金棒引の善政が行われた。 たとえば「安政四年五月、藩内士民の貸附米金を負ふ者困窮甚だしく、期を経て償還する能はざるのみならず、文武の講習も弛緩するものあるを以て、{島津}齋彬は棄捐し、文武精勤に努める様命じた。その額は、金三萬七千六百六十一両二歩二朱・銀四千三百七十九貫四百九匁八分五毛・銭五萬五千九百七十貫六百二十一文・米二萬二千九百七十五石四斗五升六合余」であったと記録されている。
 その後も救助貸付は続き、安政4年の借金棒引き後15年経った明治4年には、その貸付残高は金10万5,642両、銭4万8,054貫に達し、このほかに軍役高引当の貸付が金7万9,635両に及んだ。
 旧藩時代からのこの救助貸付制度を継承して、廃藩置県後設立された保護会社であった。目的は、その名のとおり士族保護にあって、貸付内容は士族の高所務米(たかしょつとめまい)手形を抵当にして、真米手形1石につき代銭100貫文、金利は年1割であった。 なお、保護会社は「生産方」のあとを受けて、三島以外の属島への生活諸物資の供給と県の歳入に計上されない余計糖の買付も実施した。
 結局、同社は名称は会社でも実体は民間で立会結社したものではなく、銀行類似会社の範疇に入れるよりも、むしろ「国産会社・養蠶会社と同一性質の特殊会社であった」というべきであろう。なお、実質の経営主体は旧藩主であった。
承恵社 保護会社は、6年7月国産会社と合併して生産会社となったが、この生産会社のあとを受けて9年10月誕生したのが承恵社であった。同社について特記すべきは、その設立主体の問題である。
 政府は11年旧県(10年4月以前の鹿児島県)治績に関し、徹底的な追跡調査を実施した。その際、承恵社ならびに第五国立銀行と島津家、県の三者間での資金授受の解明に重点を置いたが、特に承恵社については 「就中承恵社之儀者ハ各件ニ干渉シ其成立公私判然不致甚以不都合至極之事ニ被相考候」ときびしく批判している。 つまり承恵社は表面上は株式会社ででであった、その経営主体は旧藩であるか県であるのか、換言すれば出資金の出所は島津家の手許金は県公金かを解明することが政府調査の主眼であった。
 この点について旧藩側は、島津家の手許金で単に経営を県に委託したものであると主張、これに対し県は、確かに旧藩からの継承業務であるが廃藩置県で藩とは無関係になっており、県の主導する公的機関であると主張し、両者は対立した。 政府調査官は「蓋該社ノ置県後ニ於ル宛モ県庁外府ノ如シ」また「県庁会計欠乏スレハ即チ給ヲ此ニ取レトモ関係之ヲ異議スル者ナシ」と同社と県の癒着振りを認め、多分に県の主張に加担した形跡があるが、 結局は「昨十年マテハ一種特治ノ形姿ヲ帯ヒタル該県ニシテ今日忽爾其原資ノ本質ヲ縷析シテ其所帰ヲ定メントスルハ頗ル至難之事ニシテ萬一其取調完結セサルガ如キ為メニ政府之監悔ネキヲ表スヘクシテ敢テ廃藩置県之際ニ於ケルヤ各旧藩類似之事跡枚挙ニ遑マアエアスト雖非常変制之際大概寛仮ノ処分ニ帰セシカ如シ依ツテ該件如キハ先ツ不問ニ付シテ可ナラン」 と他県同様大目に見てこれ以上詮索はしないことになり、解明されなかった。(中略)
 同社の業績は、資料皆無のため明らかでないが、「十年頃の貸出総額八万円程度であった」点からみて、設立当初「株金并貸付金取纏メ且加入金等取合八万円余ニ相及候」出資金は、全額活用されたと推測できる。
 同社は西南戦争中に西郷軍の軍資調達のため証券(軍票)発行を余儀なくされ、経営危機を招いたが、12年6月組織替えして資本金10万円の「商通社」に転身、翌13年には島津家に買収され、金融業のほか大島産糖その他物資の階上輸送業も経営し、17年に解散消滅した。
撫育会社 同社については『鹿児島県史』の記述以外に資料がないので、その引用にとどめたい。「撫育会社は承恵社と同じく八万円程の資本を持ち、物品抵当の貸付業を営んでいた」が、「十年戦乱中大書記官宮田畑常秋の依嘱により、撫育会社と協同して証券約四万円を発行し、現金を吸収して西郷方の軍資として提供した」 「撫育会社の如きは、十年頃既に六万円に増資を見ていた。しかも、之等{銀行類似会社}がやがて貸付金回収不能の状態に陥り、同時に丁互攪乱に際会して特殊なる役割を為したことは、その士族救済、相互扶助期間たるの性質上必然であった」 そのために「営業を停止せしめられたが、明治12年2月に至って、政府の審議終了と共に、撫育会社と共に{承恵社の後身通商社は}その営業勝手たるべきことを許され」、撫育会社は交通社に衣替えした。 すなわち「この社{交通社}は撫育社の後身で、明治12年10月鹿児島士族高田利平等協議して再業せるもので、鹿児島船津町に在った。 其業務は動・不動産を抵当として、金銭を貸付、又は預金等を為し、銀行類似のものであった。其資本金四万四千円と称せられ、15年4月に至り、資本金の内一万円を分割して小川町に支店を設けている。 (『鹿児島銀行百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<日向における銀行類似会社=宮崎銀行> 明治7年ごろからの全国的な銀行類似会社の設立は、士族授産の一方策として、日向国においてもかなりの数となっている。 6年から約10年間の、日向における諸会社を『鹿児島県史』から拾うと表のとおりで、32社の中で金融に関係ないものはわずか3社にすぎない。
鹿児島県下諸会社一覧 (単位:円、株)
名 称 所 在 地 資本金 株数 営 業 品 目 開業年月
互救会社 児湯郡高鍋町 4,500 紙・蝋燭・穀物売買買付預金 明治 6.07
衆民会社 諸県郡糸原村 1,500 貸付金 7.12
商 議 社 臼杵郡元町 9,800 98 貸付預金・物産売買 10.12
株 金 社 同 郡恒富村 10,000 貸付金 11.02
共 有 社 同 郡同 村 3,000 11.02
信 立 社 同 郡岡富村 2,000 11.07
飫肥商社 那珂郡楠原村 73,465 貸付預金・物産売買 12.02
誠 結 社 臼杵郡恒富村 5,250 貸付金預り金 12.03
保 存 社 児湯郡高鍋村 5,620 貸付預金・物産売買 12.07
協 心 社 臼杵郡恒富村 3,500 貸付金預り金 12.09
帰 厚 社 同 郡岡富村 5,535 12.09
永 盟 社 同 郡恒富村 1,000 貸付金 13.01
日 弘 社 同 郡岡富村 4,100 貸付金預り金 13.01
供振会社 那珂郡西方町 6,000 貸付金 13.01
延岡来社 臼杵郡南町 4,000 貸付金預り金・米穀売買 13.02
積 善 社 同 郡岡富村 1,200 貸付金預り金 13.03
有 隣 社 那珂郡広瀬町 25,000 500 貸付金預金・諸為換 13.03
以 徳 社 臼杵郡南町 4,000 貸付金預金・呉服売買 13.04
誠 意 社 同 郡岡富村 1,000 貸付金預り金 13.04
栄 達 社 那珂郡下田島村 9,000 360 貸付金 13.04
立木会社 諸県郡宮丸村 4,500 250 牛馬骨売買 13.06
上 江 社 児湯郡上江村 9,000 900 貸付金預り金 13.06
協 力 社 臼杵郡岡富村 500 物産売買 13.07
小 丸 社 児湯郡高鍋村 4,000 400 貸付金預り金 13.07
恒 産 社 同 郡同 村 2,000 20 13.07
開 産 社 臼杵郡尾末浦 4,000 40 13.07
共融会社 諸県郡宮丸村 5,000 500 貸付金 13.11
辯貸会社 同 郡長飯村 10,000 500 14.03
日 甫 社 那珂郡下田島村 1,000 100 貸付金預り金 14.06
広 栄 社 同 郡板敷村 20,000 200 物産売買・預り金 14.09
栄 久 社 同 郡下田島村 1,500 150 貸付金 14.12
日 栄 社 同 郡同 村 3,000 牛馬骨売買 15.02
 また、「県統計書」によって17年から20年までに記録されている商業諸会社を見ると、『鹿児島県史』の32社よりも7社少ない25社が記録されており、10数社が名前を消している反面、7,8社が新設されて、結局は、大幅に減っている。 このことは、資金を必要とする機業が増える一方、生業的な高利貸業が、士族の商法で次つぎつぶれていったことを示している。この一覧表でも、金融を営まぬ会社は1社だけで、しかも残りの全部が金融を専業としていた。
 これら金穀貸付業の多くは、藩政時代からの営利的貸金業者であった。しかし、例外なく小規模であり、創業から1,2年は多少の利益を上げていたが、14年の松方財政による不況のあおりで、15年末には安全な融資が困難となる一方、米価の檄落の打撃を受けて、しぜんに衰滅に追い込まれるものが増えていった。 そして生き残ったものの中には、30年前後の私立銀行設立に合流していったものもあったのである。 (『宮崎銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『鹿児島銀行百年史』           児島銀行行史編纂室 鹿児島銀行    1980. 2.29
『宮崎銀行五十年史』             宮崎銀行資料室 宮崎銀行史編纂室 1984. 7.31
( 2006年10月30日 TANAKA1942b )
▲top 

山口県の銀行類似会社
士族授産という面から明治初期を振り返る
 今週は山口県の銀行類似会社を扱う。ここでは士族の授産事業という面から捉えている。職を失った士族階級、そして新しい産業を育てたい政府、この現実と思惑が一致したところで士族授産という政策が生まれることになった。 明治初期の産業を振り返るに当たって、「富国強兵」との政府の方針と「士族救済」という現実、その両面から見ていかないと本質を見失うおそれがある。銀行の○○年史、それぞれが違った面から捉えているので、明治初期の経済を視野狭窄にならずに捉えることができる。 この数週間扱っている銀行史では、こうした「士族授産」という面から見ているものが続いた。『山口銀行史』もそのような面から捉えている。経済史・金融史・明治維新史では、政府の「富国強兵」にスポットが当たっている文献が多いが、「士族救済」という現実も見落としてはならない。 そうした意味で『山口銀行史』の見方もそれだけに存在意義がある。
 山口銀行の履歴は1878年、山口市に第百十国立銀行が設立され、1898年に株式会社百十銀行に改組、その後、1944年(昭和19)3月31日、 百十・宇部・船城・華浦・大島の5行が合併して、新に株式会社山口銀行が設立された経歴を持つ。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<士族授産事業と県内主要産業の動向=山口銀行> 秩禄処分の結果、数十万人にのぼる膨大な窮迫士族が生計の目途もないまま社会に放出された。彼らを救済することは、それを強行した政府の当然負うべき社会的責任であった。 しかし、だからといって政府が、この膨大な困窮士族群に対して単に生活費を扶助することは、到底財政的に耐えうるところではなく、また、そうすることは秩禄処分の意義を失うことになるし、無活計な彼らの士気を鼓舞し、再起させることにもならなかった。 最善の方法は彼らに一定の生業を与え、彼らを再起させて新時代の要請に合致する方向へ導くことであった。
 一方富国強兵を至上命令とし、近代的産業経済体制の早期確立を目標に、殖産勧業政策を推進することにした新政府にとって、何はさておいても膨大な資金とともに、これを受け入れ、同化しうるだけに素養をもった労働力が必要であった。 ところが、一般農商民にはそれだけの素養はなかったので、旧時代の知識層としての武士にこれを求めるほかなかった。しかも、旧武士層の大部分が徒食の徒と化している現状でもあった。 そこで、政府としては、これを動員することが最も合目的的な施策と考え、ここに殖産興業政策と士族授産事業とを結びつけ、強力にこれを推進することにしたのである。 政府は以上のような意図に基づいて、自ら模範として経営した各種官営事業に多数の士族やその子弟を使役するとともに、移住開墾の保護奨励、授産資金の貸与、就産資金の援助、あるいは国立銀行設立の勧奨など、あらゆる方面にわたり士族授産事業を多角的に展開していったのである。
勧業局 明治6年7月、県は旧藩以来の士民共同蓄積にかかる資金50万円と現米5万石を財源として勧業局を設置し、同局主任には旧藩士で理財に明るい笠井順八を起用した。 同局設立の趣旨は、士族授産と農商営業の指導を統一的に推進しようとするもので、明治6年7月15日の勧業局設立主意書によると「人民保護の道は工業を盛んにし物産を興すに在り。 凡そ不毛開墾士宜種樹の事より貿易の利益、器械の製作、牧牛、漁猟、製糸縫製その他百般の事件人々奮発勉励するに非ずんば国益を興し身の幸福をなすに至らんや」と工業の意義を述べ、それ故に「士族の生産を勧め、農商の営業を導く」ものであるとしている。 同局は士族授産の一方法として公債・現米等を担保とする士族の産業助成資金の貸付を行うこととし、さらにこの貸付利子を蓄積して国産増進のためにの試験研究とするほか「米国の雀糞その他の肥料を購入して廉価に農家に配分すること」なども考えていたのである。 また、この事情に並んで既に触れたような地租引当米の取扱いをも営んだ。しかし、その組織上士民共同の蓄積にかかわる民有財産を、県が運営するという仕組みになっていたことのため、県役人・士族代表・民会(農民代表)3者間に、その運営をめぐって意見を異にすることが多く、理財家笠井の起用にもかかわらず、同局の実際活動の大半は、地租引当米の取扱いに向けられ、授産事業としては十分な活動をみないまま、翌7年11月、設置後わずか1年余りで同局は廃止された。 そしてこれと同時に、同局の基金を両分して別途に、士族授産局と協同会社が設置されることになったのである。
 しかも、同局の分割処理には木戸孝允・中野県令を初め林勇蔵・部阪仁兵衛・田原清平・滝口吉衛・椿才文太等が会同しているのであり、その際、林勇蔵は士・農および3部門案を主張しているようであるが、結局、士および農工商の2部門分割に落着したのである。 さらにまた、同局の基金配分に関しても、元来この基金は士民の共同蓄積にかかわるものとはいえ、大部分は農商民側の蓄積にかかわるものであった上に、その区分が明確でなかったため、士族と農商民側とで激しい議論の対立をみた。 しかし、結局、木戸孝允・井上馨等が仲介に入り、士族の特権を主張してより以上の分け前を要求するかたくなな士族を説得する一方、士族の要求の不合理をなじる農商民代表に士族の困窮を訴え、ついに、その折半を承諾させたのである。 この時、木戸と意見を異にし、自己の主張を入れられなかった笠井順八は、これを機に退官し、事後、自力による士族授産事業に専念、後述するようについに新産業として民間初のセメント製造に成功、今日の小野田セメント株式会社の基礎を築くことになるのである。
士族授産局 明治7年11月、士族に分割された資金25万円を基金として設置されたのが、士族授産局であるが、同局は木戸孝允を総裁格として事務所を県庁内におき、庁員がその事務を主管するという県営的性格のもので、その基金利子をもって士族授産と士族子弟の教育の支弁を行うことを目的とした。 そしてその事業としては、士族禄米の受給斡旋・就業資金の融資・開墾養蚕製糸の奨励および授産の立場からした士族子弟教育資金の援助等をもくろんだ。とくに荒地を入手し、開墾して無活計の士族に付与することに重点をおき、県内外にわたり官有地の払い下げを受け移住開墾の実施を計画した。 しかし、その払い下げは多くの場合実現せず、結局、教育授産以外期待したほどの成績は挙らなかった。
士族就産所 明治9年5月に至り、士族授産局は士族就産局と改称、毛利内藤(のちの第百十国立銀行頭取)が頭取に就任して、県の管理を離れ、全くの自治運営に移った。 しかし、当初の基金増殖に重点を置いた消極的運営方法に不満を唱える士族が多くなり、11年には士族総代会で、その基金利子の3分の2を士族生産費として各郡区に分配することを決議した。 これによって各郡郡区に小規模な就産所がみられるようになったが、このように資金分配の要求が強まったのは、当時交付されることになった金禄公債を資本金とする各種零細事業が、各地で盛んになったためでもあった。 これに伴って、就産所への小口資金に需要が高まり、同所の役割も、従来の開墾授産主体から金融授産へと変化した。しかし、士族の生業で失敗するものが多く、その貸与金の多くは焦げ付き、同所自体の運営も次第に困難化する傾向を見せ始めた。 そこで17年に至って組織を再編成し、今度は総裁に井上馨を推し、事務監督に県令原保太郎を委嘱して、再び県管理の下で事業の振興を図ることにした。 この改正では極力資本の集中に努め、それを公債や政府事業債等の有価証券に運用し、その利子の範囲で困窮士族の救済のみを行うことにし、同年その下部組織として各郡区に多数の士族授産組合を設けた。 こうして同所の事業は一応整備され、事後順調に進展することになった。しかし、その反面においては必然的に中央統制を強化せざるを得ず、ために士族の中に漸次、井上の独裁を排斥する声が高まり、ついに21年士族総代会の名をもって井上の総裁辞任の勧告書を出した。 こうして22年井上の辞任となり、これと同時に同所自体も解散した。解散時の資本金32万円の中の一部は教育事業に寄付したが、残余は1戸当たり25円の割で各郡区に分配された。
 この就産所の解散をもって県としての士族授産事業は終止符が打たれたのであるが、同所の行った事業の中で最も力を注いだのは、政府の生糸国策にそう養蚕製糸織機事業で、明治14年山口に士族製糸伝習所を設けた。 そして、士族の生産した繭を買収して、その婦女子に製糸を伝習せしめた。のち17年にはこれを全県下にわたって行うこととし、岩国にも士族製糸伝習所を開設した。 山口の伝習所は18年には座繰機械を導入して新製糸所を開設、翌19年には蚕糸模範所と改称して養蚕製糸を教授し、順調に業績を伸展していったが、就産所の解散とともに廃止された、 また、岩国の伝習所の方は、岩国藩の授産所であった義済堂に委嘱併設されたものであったが、山口と同様就産所の解散と同時に廃止され、以後の経営は義済堂に引き継がれ、義済堂の主要事業の1つとなった。 授産所の事業としては、このほか政府の指令や資金に基づいて実施された事業を援助した例も多い。
移住開墾 明治6年政府は還禄士族に対する官有山林等の払下げ制度を定めた。山口県でもこれによって14年までに荻旧城地、岩国・徳山の陣屋跡地等の官有1,796町余が払い下げられた。 しかしこの払い下げは失敗で、山林だけ売り払って実際には士族が開墾しない場合が極めて多かった。
 こうした中で成功した例は、北海道後志国余市郡大江村への移住開墾である。これは11年北海道開拓使に勤務する旧山口藩士12名に建言に端を発し、毛利家が余市川沿岸510万坪の開墾地の払い下げを受けて士族移民を行ったもので、 その目的は「毛利家永遠ノ資礎ヲ開ク」とともに、士族就産にも役立てることにあった。15年に19戸入植して以来、19年末までに77戸が定着し、農耕に従事するようになった。 就産所は士族に移住費を支給して応募を奨励したほか、その後においても困窮救済に尽力するなど、開拓村成立のために大きな役割を果たした。
 18年に始まった豊浦藩の毛利家による栃木県の那須農場も、これと同様の経過で成立した農場である。岩国藩においても義済堂の多大の援助のもと、北海道の山口村・岩見村等にかなりの移住者を送ったが、これには士族の応募者は少なく、大多数は根からの農民であった。
政府授産資金 西南戦役後、政府が最も力を注いだのは授産資金の貸与であった。これには起業資金・勧業委託金・勧業資本金の3種があったが、山口県で利用したのは次表のとおり、5件、配賦総額13万1,334円であった。
政府授産貸与金  (明治12年〜19年)
資金種別 供受者 結社名 業種別 貸与金額 貸与年月日 返済方法 利子 抵当
起業基金 佃基清
士族7名
覇城会社 帆船製造
物産海上輸送
30,000 明13. 5.18 5ヶ年据置,15ヶ年賦 年4分 公債
起業基金 笠井順八
士族39名
セメント製造会社 セメント製造 25,000 明13. 8. 3 5ヶ年据置,15ヶ年賦 年4分 公債
起業基金 褫禄士族
180名
── 開墾・製糖・
養蚕
15,000 明13. 9.28 5ヶ年据置,15ヶ年賦
勧業委託金 豊浦士族
2,583名
豊浦士族
就産義社
開墾・雑工業 7,5000 明16.11.22 5ヶ年据置,7ヶ年賦 公債
勧業資本金 貧困士族
4,483名
── 養蚕奨励 53,834 明17. 5. 9 6ヶ年据置,7ヶ年賦
(注) 資料:吉川秀造「士族授産の研究」巻末付表

 覇城会社は萩の乱に関係のあった佃(諫早)基清が、資本金3万円をもって萩町に設立したもので、下関を本拠とする海運業に従事した。創立当初有志士族の公債3万円を抵当として政府に3万5,000円の借用を申込み、起業基金3万円を貸与されたので就産所はその不足分を援助した。
 セメント製造会社は勧業局の主任であった笠井順八が、有志士族を糾合して厚狭郡須恵村(現小野田市)に設立したものであるが、現小野田セメント株式会社の前身となったものであるから、後項においてさらに詳しく述べることにする。
 豊浦士族就産義社は、旧豊浦藩士族2,583名を結集して、17年3月、資本金5,775円をもって設立された。その設立に先立ち16年11月、公債を抵当に勧業委託金7,500円を借り入れたもので、開墾移住士族の援助や内職としての竹細工・筆・紙等の製造を行う授産所を設置するなど、豊浦藩士族のための就産所役割をもって活動したが、さして期待するほどの成果を挙げ得なかったようである。
 褫禄士族への授産金は、脱隊騒動その他によって家禄賞典禄を剥奪されていた者に対する就産資金で、就産所はこれによって阿武郡高佐の官有荒地25町歩を分与植林させ、また高佐・吉部2か村内に10余町歩の田を購入し各個に分配するなど移住開墾の基礎とした。
 貧困士族への授産金は、15年の士族生計調査に基づいて就業目途のない困窮士族に養蚕をやらせるため借入れたものpで、就産所はこの資金を萩居住者には1戸15年の割、その他の地域には1戸10円の割で、各郡区の就産所に配賦した。それによって各郡区の就産所桑園の開墾分与・桑苗・養種の支給をはじめ、座繰製糸場の開設等、養蚕業を主ろした事業を活発に実施したほか、士族工業品買取場・桑園取締所・肥料製造等の事業を行った。(中略)

 岩国藩でも藩主吉川家が、藩政時代、節約局を設け、士民のために産業引立金を貸与し、養蚕・製糸等を奨励していたが、これは廃藩置県の際、官に返済しなければならなくなったので、吉川家は私財を投じて士民に代わりこれを返済した。 そして、これと同時に旧節約局長三須成哀懋は新に吉川家に請い、6年8月士民救済のための就業講習所を設けた。 これが岩国藩の就産所ともいうべき義成堂である。義成堂はのち8年6月、義済堂と改称されたが、岩国藩物産引立金その他10数万円を資本金として、金穀貸借および造紙業をはじめ、木綿・半紙・縮織・養蚕・製糸のほか、活版・染工・織縫・綿繰・諸商業等の事業を兼営して多数の士族を就業させ、生産技術と経営法を伝習せしめた。 この義済堂設立の趣旨は「堂中ハ業ヲ就産ニ執ルト雖モ素ヨリ尋常一般ノ商工会社ト同シク権譎喧閙(けんけつけんとう)汲々トシテ唯利是収ムルノ場所ニ非ズ」と、旧藩士の生活救済と一般士民との福祉増進を目的としたもので、営利を目的としたものではなかった。そして士族の北海道移住には、これに対し旅費・手当等を支給して援助し、士民に低利な有志を行ったり、生活困窮者には救恤し、 医療施設の完備の援助等、一般社会福祉の増進に努めた。吉川家もまた、これに多大な援助を惜しまなかった。のち吉川家の手を離れ、同堂が合資会社・株式会社に改組して商事会社となってからもこの趣旨は引き継がれ今日に至っている。
 以上のほか、政府あるいは就産所からの資金を借り受けて県内各地で起こされた士族授産事業としては、耐久社(明治9年、萩町、夏橙苗育成)・物産商社(12年、萩町、物産販売、貸金業)・尚象社(14年、萩町、陶器製造)、殖鱗社(14年、萩町、鮭養魚)・木綿聚社(8年、萩町、木綿製造)、 あるいは保全社(13年、萩町、桑園開作)、第二保全社(13年、岩国町、桑園開作)等数多い。この中で特筆すべきものは小幡高政(第百十国立銀行二代目頭取)の行った耐久社の事業で、こうした士族授産事業の中で成功した数少ないものの1つである。 もともと萩の夏橙は、文久元治(1863)ごろ、萩藩士杉某が文化初年(1804)に大津郡大日日浦の橙を持ち帰り、事後、自宅の空地において栽培しておいたものを藩主敬親に献じたところ、敬親は佳美なるを賞して夏橙と名付けたと言われるほど古い歴史を持っており、 その当時からその名は知られていたのであるが、今日のように大をなしたのは全く小幡の功績によつもので、9年小倉県令の職を最後として官界を引退し、郷里萩に帰った小幡は、同地が柑橘類栽培の適地であることに着目し、まず自ら畠を拓いて夏橙苗木を買い集める一方、困窮士族の生業としてこれを栽培させるため、 祖式・穴戸の諸氏と図り、救藩士の相互共済団体として「耐久社」を結成し、同社名義で士族授産所から就産事業資金の貸与を受け、これをもって台木1万本を購入、接木育成し、11年にこの育成した苗木を耐久社員に無償配布した。 植えられたろころは各士族の屋敷周辺ならびに屋敷跡であった。当初はその成果に半信半疑で、中には嘲笑するものさえあった。しかし小幡の熱心な勧奨と、その指導力により次第にこれに従う者が増加し、後20年ごろには初めに植えた苗木も成木となり、大量の果実を結実し、立派にこれが生業として成立することを証明したのである。 事後、萩内は無論、近村にまでその栽培が普及し、今日のように年産5億円を産出する本県の特産品となっていったのである。小幡は23年、有栖川熾仁親王が、自家橙園に行啓されたのを機械に、自家橙園が成樹となり、世に認められるようになったのを記念すると同時に、自分の10余年間の苦心を永く子孫に伝えるため、自家橙園内に碑文「橙園の記」を建立した。 武家屋敷と夏橙、この取り合わせは、彼が殿下のご来臨を記念して建てたこの橙園の碑とともに同地方風物詩の1つともなっている。
 なお、明治23年就産所の解散に伴って各郡区に配分された配賦金は、それぞれ、各戸に分割されることなく、その多くは各郡区で一括管理され、引き続き士族授産事業の資金に充当された。 たとえば玖珂郡では分配金3万500園をもって岩国に士族授産社を設立し、織物・養蚕・開墾牧畜の3事業を行うことにしたし、都濃都では2万5000園をもって徳山に士族就産所を設立し、織工・養蚕の2事業を行うことにした。 しかし、この徳山の就産所は予期した業績が挙がらず、1年余にして豊島勝蔵に譲渡され徳山製糸場となった。また、赤間関市では赤間関士族就産社が設立され、分配金を公債証書等確実な有価証券にかえ、これから生じる利子の半額を毎年基金に繰入れ、残金を配分し、永遠に維持増殖するとしたが、これも1年余で改組し、 赤間関春秋会ろなり、以後、貧困者の救済・災害見舞金の給付など士族の救済機関として存続することになった。
 こうした士族授産事業の重要な一環として、金禄公債を勝つようした第百十および第百三両国立銀行の設立があり、殖産興業面に多大の功績を残した。
 要するに士族授産事業は、政府の制度改革に対する救済的殖産事業ではあったが、士族という旧時代の知識労働者を大量に動員し得たため、在来産業をより以上に振興させる基礎となったのと同時に、 時代に即応した新産業をもこれによって育成する素地が漸次築かれ、政府が標榜とした富国強兵・殖産興業政策の推進條上多大の成果を収め、わが国産業経済の次代への発展が約束されることになったのである。 (『山口銀行史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『山口銀行史』                   山口銀行 山口銀行      1968. 9.25
( 2006年11月6日 TANAKA1942b )
▲top 

岩手県の銀行類似会社
明治初期の金融制度状況を知っておこう
 今週は岩手県の銀行類似会社を扱う。ここでは明治初期の時点での金融制度状況を説明している。視野狭窄にならないためにも、気配り半径を拡げておこう。
 岩手銀行の略歴は、1932年(昭和7)5月2日、(株)岩手殖産銀行として設立。 1941年8月16日、陸中銀行と合併。1943年1月1日、岩手貯蓄銀行と合併。1960年1月1日、(株)岩手銀行に商号変更。
 日本各地で銀行類似会社が生まれた。政府の指令があった訳ではない。自然発生的に全国で似たような金融機関が生まれた。この自然発生的な金融機関は時代の変化とともに私立銀行に転換したり、解散したりして、金融史から消えていった。 このため経済学教科書では取り上げられていない。21世紀の金融論を扱うエコノミストも銀行類似会社には関心を示さない。銀行制度の初期段階については、サムエルソンやバーナンキの著書に頼っている。 ここでもう一度アメリカの教科書を読み返して頂きましょう。日本の銀行制度が生まれ、育って行く過程がどれほどアメリカの教科書と違っているのか?そのためにも日本各地の実例を紹介することにしようと思う。 サムエルソンの<銀行はどのようにして金細工業から発展したか >とバーナンキの<マネーサプライ決定の原理==バーナンキ他『マクロ経済学』><アグリコーラ>の例を参照して頂きましょう。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<明治初期の岩手県内金融情勢=岩手銀行> 明治維新当時の幣制は、藩政時代のものをそのまま引き継いだため乱雑を極め、各種の金貨・銀貨・銅真鍮鉄銭のほか、各藩の領域内でのみ通用する藩札が流通していた。
 仙台・南部両藩でも、幕府の制定した通貨のほかに、それぞれが幕府の許可を得て製造していた通貨や、民間の密鋳銭などがあって、貨幣制度はかなり混乱していた。
 南部藩が幕府の免許を受け、慶応元年から稗貫郡大迫通外川目村大倉掛銭座で鋳造した鉄銭は、釜石で精錬した鉄を消化する目的のもので、裏面に盛岡の「盛」の字が刻まれていたところから、「背盛字当四文銭」と呼ばれた。 しかし、実際には「盛」という字を刻まない「無背銭」を多く製造しており、藩そのものが幕府の目を盗んで密鋳造を行っている状況であった。 やがて銭座が次第に増加し、すべての溶鉱炉の所在地に大迫銭座の分座と称する鋳造所が併置されるようになり、生産高も巨額に達した。 また、仙台藩における鋳造の開始は、南部藩よりもさらに古く寛永ごろのことで、「仙台角銭」と称する鉄銭を鋳造するようになって幕末に至ったが、これが南部藩でもかなり流通していた。
 明治政府は、当面の軍備の強化や近代産業の育成などに要する巨額の資金を調達するため、明治元年から太政官札(金札)と呼ばれる不換紙幣を発行し、順次、各藩や京都の商人らに貸し付けた。 しかし、政府の信用不足からその価格は下落し、円滑な流通はみられず、予期した成果をあげることができなかった。
 このように、幕末から新政府成立のころの貨幣制度は混乱を極めていたため、政府は、新しい貨幣制度を確立する必要に迫られ、明治2年、金座・銀座を廃止して太政官の管轄下に造幣局を設置した。 この年、地方の銭座の鋳造発行と流通も禁止され、南部藩の銭座は件警察によってすべて破壊された。
 明治3年、政府は欧米式の近代貨幣を製造するため、大阪天満の淀川沿岸に造幣寮を建設し、英国から輸入した機械により、新貨幣の鋳造を開始した。 これに伴い、貨幣制度の統一を図った。この条例によって、従来の「両」の呼称を廃止し、純金1.5gを「円」とし、円の100分の1を「銭」、銭の10分の1を「厘」とすることが規定され、流通単位としての円が初めて正式に登場した。
庶民金融の変質 明治に入っても、藩政時代と同様、庶民は生活や事業上の金融方法として、短期的なものには質屋金融を、長期的なものには無尽・頼母子金融をそれぞれ利用していたほか、高利貸資本金融にも頼っていた。 このうち、藩政時代に最も多く利用されたのは無尽・頼母子金融で、藩や寺院や農村で行われたが、初期の共済的性格は、次第に営利的なものへと変貌していた。
 南部藩では近世初期に無尽機構をつくり、これを舫(もやい)制度と呼んでいた。「もやい」とは舟をつなぐことであり、相協力することを意味する。 当時、江戸参勤は経済的な災厄で、その災厄を協同の力で軽減しようとするのが、この制度の目的であったが、やばて近世後期には、富豪たちをこの制度に強制的に加入させて、財政資金を調達するようになった。
 寺院を中心とした無尽も、当初は寺の修理、創建・新山式などの資金調達のために行われていたが、明治期になると、多分に営利的な色彩を濃くし、担保も極めて厳重になっていた。 例えば、明治ごろから行われるようになった盛岡円光寺無尽では、盛岡やその近郊の豪農や豪商が参加しており、講中の希望によっては、取金の際に担保そ内見さえ行われている。
 また、明治14年に宮古村で始められた「融通講」という頼母子講では1回の掛金総額が1,120円にものぼったが、それを334円にせり取りしたものがあり、これから諸掛を控除すれば手取り金はわずか301円91銭に過ぎず、しかも不動産を担保として出さなければ、現金を渡さなかったといわれる。
 やがて、不景気の到来とともに掛金の延滞が増加し、無尽運営が困難となり種々の紛争が生じるようになった。
 こうして、経済変動の穏やかな封建社会では極めて適切な金融効果をあげた無尽も、資本主義経済下での要請に十分こたえることができず、やがて新しい金融制度が必要とされるに至ったのである。
為替方の成立 維新政府における国庫金取り扱いは、「為替方」によって行われた。その為替方として小野組・三井組・島田組が指定され、政府の為替方としてばかりでなく、地方各県の金庫事務をも取り扱った。
 盛岡県(のち岩手県)では、明治3年、小野組支店の小野善八郎が為替方に指定され、5年に至って養子の小野善十郎に引き継がれた。 小野組は、元禄のころから盛岡に来往し、屋号を「井筒屋」と呼び、南部藩御用達として長い歴史をもつ財閥で、一般財界はもとより、藩財政を左右するほどの勢力をもっていた。 のちに小野組の幹部となった古河市兵衛も、かつては盛岡支店づめであった。本店は京都にあり、為替両替を業とし、幕府の為替方十人組の1人であった。 宗家は代々、小野善助の名を伝え、分家に助次郎・又次郎・善右衛門の3家があり、維新後はこの4家を合わせて小野組を再組織し、小野善助を代表者とした。
 小野組は、全国に支店をもち、各藩の財政に多かれ好く名けれ参画していたので、維新となり廃藩置県が行われるとともに、興廃の岐路に立った。 このため、旧為替方である三井組。島田組を誘い、維新政府の財政を援助することとし、その会計局出納を取り扱うようになった。当初、この会計局出納取扱は、非常に危険な仕事であったが、新政府の成功とともに無利子で国庫金を取り扱う特権に代わり、 小野組・三井・島田の3組は、一躍巨大な金融資本家に成長していった。なかでも小野組は、明治5年4月現在で21県に出張所を配し、さらに14県に出張所の増設を予定するなど、三井組の5県に比べ、その規模は極めて大きかった。
 やがて、6年の地租改正により租税が物納から金納に変わり、国税・地方税の取扱が重要な利益をもたらすようになり、その取扱高のいかんが経営に大きな影響を与えることとなった。 小野・三井・島田の3組は、全国各地で競争を演じながら、国庫金、府県公金を自己に事業に流用していった。ことに小野組の鉱山・製紙業への進出は際立っており、為替方経営による資金を新事業に投資していることが不安を抱かせる原因となった。 例えば、13鉱山中利益のあるものは5鉱山に過ぎないところに問題があった。
 このため政府は、為替方に対する方針を急に変え、7年2月に「角府県為替方設置手続及為替規則」を修正して、為替方は取扱金額の3分の1を担保として提供することとし、さらに10月には全額担保設定の命令を発し、「担保額を預け金相当額となし、同月廿四日また更に令して追加担保の提供期限を同年12月15日限りとなす旨を厳達した。 (略)11月に入って政府の迫窮は愈酷しく、大蔵省は各府県に対して電報を以て、小野組に預け入れたる金額を一時に取り立つ可き旨を厳達せんとした」(『古河市兵衛翁伝』)のである。 これに対して小野組は、期日までに担保を提供することができず、ついに明治7年11月、破産を余儀なくされるに至った。島田組も同様の運命をたどったが、三井組のみは、政府の保護により辛うじて危機を脱した。
 鬼組破産によって、全国的に設置されていた支店はすべて閉鎖されたため、地方経済は大きな影響を受けることとなった。とくに岩手県の場合、産業近代化の先駆となっていた釜石の橋野・佐比内両鉄鉱山の経営者で、小野組一族の小野権右衛門が新資本を投下して規模を拡大し、また、 下関伊郡下の砂鉄山も傘下におさめ、官営製鉄所に対抗して一大製鉄事業を展開しようとしていた時期であった。 それだけに、小野組の破産は、その後の産業近代化を阻害する大きな原因となった。
為替会社の設立 明治政府は、幣制の統一を基盤として、欧米の近代的な会社・銀行制度の導入を図った。まず明治元年、太政官札の貸付を通じて商業を保護、振興する目的をもって、商法省という役所を設けた。 しかし、商法省はその目的を達せず失敗に終わり、翌2年、これに代えて各開港場に通商司が置かれた。通商司は貿易・輸送・金融・商業などの行政を担当し、とくに、東京・大阪などの有力商人に保護を加えて為替会社・通商会社・回漕会社を設立させ、太政官札を貸付けて事業を行わせた。
 なかでも為替会社は、旧幕以来の御用為替方である小野・三井・島田といった富商の資本を動員し、政府もまた相当の官金を融通して、東京・横浜・京都・大阪・神戸・新潟・大津・敦賀の8か所に設けられたもので、預金・貸出・為替などの銀行業務のほか、紙幣の発行に携わった。 為替会社は、政府の指導がよくなかったことや、経営に人を得なかったことなどが相まって、結局、失敗に帰したが、江戸次代の両替商金融制度から脱皮して、近代的な金融機関・株式会社制度へと移行するに当たり、その先駆的な形態として重要な役割を果たした。
国立銀行の発足 為替会社が衰運に向かうころから、民間では、いわゆる合本結社の組織によって私立銀行を設立しようとする動きが強まってきた。 これに対し政府は、為替会社と同じ失敗を繰り返すことを懸念し、また、たまたま銀行制度の確立を図って関係法規を制定しようとしていたことなどの事情があったため、設立請願に許可を与えなかった。
 やがて、大蔵省内に銀行条例編纂掛を置き、銀行法規の作成に着手し、明治5年11月、「国立銀行条例」の交付をみるに至った。これは、米国の諸制度を視察して帰国した伊藤博文の提案をいれ、渋沢栄一らによって立案されたもので、米国のナショナル・バンクの制度にならった銀行制度を導入することを目的としていた。 なお、「国立銀行」はナショナル・バンクの訳語であり、わが国に設立された国立銀行は、政府の免許と保護を受け、種々の特権を与えられた株式組織の銀行であった。
国立銀行条例によると、国立銀行は、資本金の60%に当たる政府紙幣を政府に上納し、これと同額の金札引換公債証書の下付を受け、さらにその証書を抵当にして同額の銀行紙幣を発行するという仕組みであった。
 政府はこの条例に基づいて、全国の富商や地主に出資させて国立銀行の設立を図った。しかいs、資本金の40%相当の兌換準備金を本位貨幣で保有しなければばらず、また、政府不兌換紙幣の価格下落などにより国立銀行券に対する兌換請求が相次ぎ、 銀行経営が極めて困難に陥ったため、実際に設立されたのは、第一、第二、第四、第五も4行に過ぎなかった。
「国立銀行条例」の改正と銀行設立ブーム 明治8年に至って、国立銀行4行は政府に対して、「国立銀行条例」の成果兌換の規定を改めるよう請願した。 当時、政府は華士族の秩禄処分を行い、金禄公債を交付して家禄を奉還させようとしていたが、この公債が巨額にのぼるため、一時に発行すればその価格が下落し、保有する華士族の困窮を招くと思われた。 そこで政府は、金禄公債を資本としての銀行設立を促し、公債の価格維持と銀行業の発展を図ることとした。
 こうして、明治9年8月に「国立銀行条例」の改正が行われ、国立銀行紙幣の成果兌換は配しされ、紙幣の発行限度は資本金の60%から80%まで拡大された。 これにより、銀行経営が極めて有利なものとなり、金禄公債を銀行の資本とすることも許されたので、善行各地に国立銀行の設立が相次いで、一種のブームを現出した。 明治12年には、設立許可を得た銀行は153行を数え、政府の定めた国立銀行の資本金総額・銀行紙幣総額の制限額にほぼ達したので、それ以降、国立銀行の設立は禁止された。 翌13年6月末での出資額の割合をみると、華族44%、士族32%、」商人15%、農民3%、その他6%となっており、このような華士族の比重の大きさが、禄券銀行とか、士族銀行とかいわれる理由である。
 国立銀行は、殖産興業政策の一環をなすわが国独特の制度であり、産業の育成と近代的な金融制度の形成に極めて大きな役割を果たしたのである。
私立銀行の設立 為替会社の経営は失敗に終わったが、銀行が商工業の発展に欠かせないものであるとの認識は次第に深まり、明治5年の「国立銀行条例」制定後も、私立銀行の設立を出願するものが相次いだ。 政府はこれに対し、法律には触れず、公益を害しない限り、その営業を認めることとした。しかし、国立銀行条例によって国立銀行以外「銀行」の名称を用いることは許されず、一般には「銀行類似会社」と呼ばれた。 銀行類似会社は小規模なものが多かったが、なかには、のちに財閥銀行にまで発展した三井組や安田商店など、大資本をもつものも含まれていた。
 明治8年に至り、三井組は私立三井銀行の設立を出願した。当初、政府は条例の禁止規定に基づき、これを許可しない方針であったが、時あたかも国立銀行条例改正を検討中で、とくに三井組は民間の信用も厚く、その資力も確実であるとの理由でから許可され、9年7月、三井組は三井銀行と改称し、わが国初の私立銀行となった。
 こうして政府は、明治9年8月の「国立銀行条例」改正に際し、国利つぃ銀行以外は銀行の名称を禁じていた条項を削除し、私立銀行設立認可方針をとることとした。
 私立銀行の設立が許可されると、安田商店が安田銀行(⇒富士銀行⇒みずほ銀行)となるなど、銀行類似会社から私立銀行の改組するものや、新に私立銀行を設立するものが相次ぎ、その数は、11年のわずか2行から15年には160行へと急増した。
 岩手県では、11年に第一国立銀行盛岡支店が開設され、また同年、地元銀行の第九十、第八十八両国立銀行が設立されたばかりで、この時期には私立銀行の設立はみられなかった。
岩手県の国立銀行、私立銀行 南部藩最大の財閥として、200年にわたり一般財界から藩財政まで左右してきた小野組が没落したあと、第一国立銀行が明治9年以降、仙台と石巻に出張所を設けて宮城・岩手両地方の物産・米穀などに関する為替業務を営んでいた。 これが人々に歓迎され、治容赦も増加してきたので、地方官庁の官金出納も委嘱され、同地方の金融機関として欠かせない存在となるに至った。
 第一国立銀行では、明治10年、岩手県庁の為替事務の取扱を命ぜられ、盛岡に仮出張所を設け、次いで翌11年には、盛岡支店(盛岡市紺屋町)を開設した。(中略)
 当時、租税の金納化に伴って全国的に資金需要が増大し、各地に国立銀行の設立をみていたが、宮城・岩手両地方には、まだ、このような地元金融機関がなかっただけに、第一国立銀行支店の活動はきわめて重要な役割を果たした。 とくに岩手県の場合、近代的な産業・経済が緒についたばかりであったので、非常に歓迎されたのである。
 日清戦争後、岩手県における銀行金融は、第九十・第八十八両国立銀行と、安田銀行盛岡支店、第七十七国立銀行盛岡支店によって行われていた。 やがて、戦後好景気のなかで各地に銀行条例に基づく銀行設立が相次ぎ、明治28年から33年までの6年間に普通銀行9,貯蓄銀行2,特殊銀行1,計2行が設立され、公称資本金総額は263万円(払込資本金総額165万3,000円)に達した。
 こうして、明治28年には、県内に本店をもつ銀行は国立銀行2行のみで、公称資本金も15万円(全額払い込み)に過ぎなかったが、34年には銀行数で6倍、公称資本金で17.5倍(払込資本金で11倍)となり、株主数は実に23.6倍にも増加したのである。 (『岩手銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『岩手銀行五十年史』               編纂・発行 岩手銀行      1984. 5.─
( 2006年11月13日 TANAKA1942b )
▲top 

群馬県の銀行類似会社
生糸産業と密接に結び付いた金融業界
 今週は群馬県の銀行類似会社を扱う。群馬県では生糸産業の発展のために銀行類似会社が発達し、国立銀行も生糸産業と関係が深かった。そして、第二国立銀行の支店との関係で、群馬県と横浜市が深い関係にあったことがわかる。 そこに登場する人の中には横浜で良く知られた人も登場する。ちなみに、第二国立銀行は明治29年に第二銀行と改称し、大正9年(1920)に設立された横浜興信銀行(七十四銀行と横浜貯蓄銀行の破綻整理として設立され後に横浜銀行と改称)と昭和3年(1928)に合併し(横浜興信銀行が存続行)、昭和32年(1957) 横浜銀行と改称し、現在に至っている。
 群馬銀行は明治11年(1878)前橋町に設立された第三十九国立銀行がその前身。
 群馬県では生糸産業と結び付いて銀行類似会社が発達した。「生糸」と聞いて思い出すのは江戸時代の東福門院和子と絹織物との関係だ。そして江戸時代の貿易赤字の主要品目が絹・絹織物であったことだ。 江戸時代初期に代表的な輸入品目であった絹が明治になって主要な輸出品目になったことに驚く。ここでは群馬県と横浜の絹輸出に関することが読めるが、日本各地で養蚕、絹織物など、絹に関連する産業が生まれ、発展していったことが、○○銀行○○年史で読みとれる。 ここでは、そうした絹産業に就いて思いを巡らして頂きましょう。
 東福門院和子と絹について、は 「東福門院和子の涙」 を参照のこと。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社=群馬銀行> 銀行業務としての免許が得られず、銀行という名称を使わないが実質はほとんど銀行と同じ金融業を営む類似会社があった。 特に前橋の上毛物産会社と勢多郡宮田の銀港社が有名である。
銀港社 宮田生産会社が解散して金貸業を営む会社として出発したのが銀港社である。もともと前橋第一生産生産会社の分社であったが、明治22年3月に廃業したので独立することを株主一同協議の上、満5ヶ年の利業期限で創業した。(中略)
 明治23年3月19日に金融会社として発足し、明治28年5月2日付で「商法」および「銀行条例」に拠って普通銀行横野銀行になった。
 生産会社で発足し、金融会社となり、さらに銀行となった典型的なコースをとった例である。その後渋川の上毛銀行に合併し、やがて群馬大同銀行へと吸収されていったが、宮田村という一大字の農村の金融・銀行の例として注目されるが、その背景に角田儀平治など地主の指導者のいたことを見落とせない。
上毛物産会社 前橋本町19番地に下村善太郎らによって創立された金融会社で典型的な銀行類似会社である。明治14年6月前橋本町に荷為替貸金業の株式会社として開業した。 資本金は15万円であった。前橋の製糸業による生糸商人への荷為替を扱い、事務と産業の発達に資そうとした。いま明治31年刊行の『前橋案内』(野条愛助編)に拠ると営業成績は、表のように記されている。 当時185万円余の入金があったことは国立銀行を凌ぐものがある。30年当時は頭取江原芳平、取締役原善三郎(横浜)、田部井宗七、茂木惣兵衛(横浜)、勝山善三郎、監査役荒井友七、今井善兵衛である。 明治33年には資本金20万円、払込金15万円、1株50円となっている。横浜の生糸業として知られた豪商の原善三郎と茂木惣兵衛が役員をしていたことからも、前橋の生糸商のために貢献した点は大きかったと見てよい。
上毛物産会社の営業成績 (明治30年) (単位:円)
期   間 出 納 総 額 営業日数割した1日の出納額 資本金10万円に対する出納総額の比率
自 明治30年1月
至        6月
入 1,446,492.638
出 1,443,664.661
9,708.004
9,689.024
14.465倍
14.437倍
自 明治30年7月
至       12月
入 1,853,114.990
出 1,848,551.320
12,033.210
12,000.580
18.531倍
18.485倍
 このほかにも銀行類似会社は各地に設立されてそれぞれ民間金融面で一翼を担っていた。前述の明治13年現在の金融会社以後に設立された主なものを見ても次のようである。
 上毛繭糸織物改良会社 前橋本町、明治13年2月創業、資本金5万円、繭糸抵当貸金及為替依託販売
 協心社 碓氷郡里見村大字下里見村、明治15年3月創業、資本金2,000円、貸金業
 勤倹醵金会社 碓氷郡岩野谷村大字岩井村、明治17年3月創業、資本金3万円、貸金預金業
 原市資本会社 碓氷郡岩原市町大字原市町、明治18年7月創業、資本金1万5,250円、貸金預金業
 沼田蚕業会社 利根郡沼田町大字沼田町、明治22年7月創業、資本金1万円、貸金業
 奨業社 緑野郡三波川村、明治20年12月創業、資本金3,000円、蚕業資本金貸付
 太田蚕振社 新田郡太田町大字太田町、明治21年3月創業、資本金1万円、養蚕及貸金 (明治24年『群馬県統計書』)
 このように明治26年の銀行条例以前にも銀行類似会社が多く、中には上毛繭糸織物改良会社や沼田蚕業会社、奨業社、太田蚕業会社のように産業銀行的性格のものもあった。 いずれも明治前期の銀行制度の混乱期におけるものであって、こうしたものが明治後期の銀行ブームの準備的過渡的な使命を負っていたと見てよいであろう。これらの下地があって、後期への銀行乱立時代へとつながってゆくのである。
三井財閥の進出と第三十三国立銀行支店 明治13年6月1日に前橋本町(現在の西武百貨店の向かい側)に第三十三国立銀行の前橋支店が開業した。本店は三井系資本で東京日本橋区新右衛門町にあったが、前橋の繭糸関係の金融を扱うために前橋に進出したものである。 前橋の生糸商人は、安政6年横浜開港に先駆的な取引優先権を獲得して以来、下村善太郎、勝山宗三郎、江原芳平、市村良平などの浜の生糸荷主として活躍し、前橋は糸の町として繁栄してきた。 幕末に三井は幕府の外国貿易の為替方をしていた関係から前橋商人との取引があり貸付をしていた縁故で、明治3年に前橋に進出して生糸荷為替の支店を本町17番地に出した。生糸商に原料買入れの前貸をするためであった。
 前橋の製糸業は明治10年代から大規模化し、技術革新の近代工場が設立され、その最初が前橋本町19番地の「上毛繭糸改良会社」である。県下の製糸業者を打って一丸とした株式会社で、資本金100万円、総株1万株であった。 頭取は勢多郡水沼村の星野長太郎、副頭取は松本源五郎、常務に宮崎有敬が就任した。資金調達は福沢諭吉の斡旋で正金銀行の10万円融資に始まったが、第三十三国立銀行前橋支店の開業とともにこれに切り換えた。 生糸業者は地元の第三十三国立銀行では資金量が少ないことと、外国輸出が盛んになるにつれて海外荷為替を扱うことができないため、勢い第三十三国立銀行支店に頼った。
 ところが、明治23/24年の経済恐慌のあおりで各地の銀行が経営難に陥った。第六国立銀行を筆頭に第三十三国立銀行も倒産してしまった。その整理に三井が直接当たった。
 第三十三国立銀行の整理のときに、融資を受けて担保に入れられていたものは次のようであったが勿論筆頭は上毛繭糸改良会社であった。
  上毛繭糸改良会社関係貸付金抵当諸物件
  前橋紡績会社抵当諸物件
  赤城牧場抵当諸物件
  前橋市内個人貸し付け抵当諸物件
 したがって三井の強権で容赦なく整理を断行し、上毛繭糸は致命的な打撃を受けた。第三十三国立銀行支店長に笹尾精憲が在任時代は、支店長の社宅はマッテア教会のところにあり、豪壮な邸宅を構え、取引のお得意は馬車で送迎するという羽振りであったが、一転して凋落した話がある。 しかし、前橋の生糸業者の受けた打撃は大きく、ことに前橋紡績はもともと旧藩士族が家禄奉還金を出し合って繭毛羽を原料とする紡績会社であったが、この整理で三井の所有に帰し新町紡績所の付属工場となってしまった。 現在の前橋の児童公園(臨江閣の東方)のところにあった赤城牧場支場は、当時県下で最も立派な牧場として知られ、本場を赤城山に持ち支場を前橋市に置いたが、これも三井に乗っ取られてしまった。 後に三井はこれを前橋の羽生田仁作と関口安太郎に損をして譲渡している。
 三井と群馬県の製糸業は因縁浅からぬものがある。明治5年に日本最初の本格的な蒸気機関による近代工場として知られた寛永富岡製糸所を明治26年に民間に払い下げ、三井の渡ったし、明治10年に多野新町に開業した寛永新町紡績所も明治20年に三井に払い下げている。 三井は近世に既に藤岡に生糸買付のために支店を出しており、群馬県の製糸業とは深いつながりを持っていた。第三十三国立銀行は直接三井の経営によるものではなかったが系列資本であったため三井の手で整理されたのであるが、地元の銀行では情において断行できない抵当物件を容赦なく強行されたことは、金融と地元資本を知る上に一つ問題を提起している。 この背景には、日本銀行による為替業務で業績の減じた三井銀行が商業銀行的性格を持ったことと別ではないと思われる。
第二国立銀行支店 第二国立銀行は、明治7年7月に開業した日本でも古い銀行である。渋沢栄一の第一国立銀行、安田善次郎の第三国立銀行と並ぶ大手の銀行である。 発起人の顔触れを見ると、安政6年(1859)横浜開港当初から活躍した生糸商人の富豪豪商ばかりである。信州の出身で「天下の糸平」と言われた田中平八、武州出身の「野沢屋」を継いだ上州高崎出身の茂木惣兵衛、上州勢多郡新川村(現・新里村)出身で開港と同時に「吉村屋」として知られた吉田幸兵衛、「亀善」の屋号で知られた原善三郎、「増田屋」の始祖増田嘉兵衛、横浜商業銀行創立の金子平兵衛、といった錚々たるメンバーであった。
 これらの富商は、明治5年国立銀行条例公布以前明治2年から生糸取引上の金融機関である「横浜為替会社」を設立していた仲間であった。 国立銀行条例の公布によって、為替会社を改組して国立銀行とすることで意見が一致し、設立の認可得て横浜に本店を置き、資本金25万円とし、株主は横浜の商人が主であった、 明治7年7月に開業し、初代頭取は原善三郎、副頭取は茂木惣兵衛として発足した。このように第二国立銀行は横浜開港によって強く結ばれた群馬県と横浜の生糸商人との結びつきと深い関係があり、発起人の中にも茂木惣兵衛と吉田幸兵衛の2人の生糸商人がいたことから当然群馬県の生糸取引の便宜上支店を出す必要があった。 茂木惣兵衛はその後茂木合名会社を興し、その系列下に茂木銀行を設立し、「茂木財閥」として知られたが、大正恐慌期のガラで倒産してしまったが、資本家として明治・大正期に名を馳せた商人であった。
 発起人の増田嘉兵衛と吉田幸兵衛は、明治3年11月に、伊藤博文に随行してアメリカの銀行制度を視察し、わが国の銀行制度確立に寄与している点でも興味が持たれる人物である。 高崎支店は明治8年11月、前橋支店は明治9年12月である。群馬県に銀行が置かれた最初であろう。第三十三国立銀行前橋支店の明治13年よりも4・5年も古かった。 2支店の中でも特に高崎支店の利業成績は他を凌ぐ隆盛を誇った。第二国立銀行は支店は他に東京と横須賀だけであったから、もともと群馬県の生糸取引金融をめらっての進出であったと思われる。 首脳陣に上州出身と縁故者が多かったために第三十三国立銀行ほど悪らつな営業をしていない。それだけに群馬県の産業経済には大きく貢献した進出であると言えよう。 (『群馬銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『群馬銀行五十年史』      群馬銀行調査部五十年史編纂室 群馬銀行     1983. 6. 1
( 2006年11月20日 TANAKA1942b )
▲top 

愛媛県の銀行類似会社
商人や士族が中心で設立された類似会社
 今週は愛媛県の銀行類似会社を扱う。伊予銀行の略歴は次のとおり。明治11年(1878)、第二十九国立銀行、第五十二国立銀行設立。 昭和9年(1934)、第二十九銀行、八幡浜商業銀行、大洲銀行が合併して豫州銀行設立。昭和12年(1937)、五十二銀行、仲田銀行が合併して松山五十二銀行設立。 昭和16年(1941)、今治商業銀行、松山五十二銀行、豫州銀行が合併して伊豫合同銀行設立。昭和26年(1951)、資本金を2億5,000万円に増資し、伊豫銀行と改称。 平成2年(1989)、CI導入により行名表示を「伊豫銀行」から「伊予銀行」に変更。
 「富国強兵」をスローガンに近代産業を育てようとした明治政府、その中核にあったのが近代的金融制度の確立であった。そうした政府の方針と、そしてそれとは別に各地で士族の授産事業が行われた。 そうした日本各地の動きを知るのに○○銀行○○年史はとても参考になる。経済学の教科書とは違って「現場からの報告」は説得力がある。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<為替会社の設立=伊予銀行> 明治新政府は、藩閥体制の解体とその妥協のうえに中央集権国家を成立させたが、その政治的・経済的基盤は薄弱であった。 このため多くの開発途上国がたどっているように、先進資本主義の諸制度の模倣から出発をはかった。そして基本的な政策として、殖産興業、富国強兵の2本柱とする国家目標を設定した。 殖産興業では、農業経済から産業経済への脱皮をはかるため、産業の保護育成に当たると同時に、貨幣制度を整備して近代的な金融機関の発展を助成することが重大な課題であった。
 明治元年4月、政府は商法司を設置し、収税と勧業を掌握しようとしたが、成績自身のうえ貿易を行い得なかったので、翌2年2月、通商司を設置した。 これは五大友厚(ともあつ)と三井の番頭吹田四郎兵衛の献策によるもので、諸開港場に設置され、物価の公正化、貨幣の流通、運送、貿易、同業組合の認可、商業関係法の制定など絶大な見料が与えられた。 さらに、東京、大阪などの有力商人に協力させて、為替会社、通商会社を設立して、貸付、損失補償などの援助により独占的な事業を行った。 だが、これも管理が不適正で損失が多く、4年7月、通商司は廃止となった。しかし、わが国の会社事業の勃興を促進される効果はあった。
 このうち為替会社は、従来の両替商の金融業務を吸収し、紙幣の発行、預金・貸付・為替業務、官金の委託運用などの業務を司る組織で、その性格は純然たる銀行であり、名称も Bank の訳語が使われた。
 為替会社は、東京・大阪・横浜・京都・大津・神戸・新潟・敦賀の8か所に設けられ、資本金と政府の貸付金を自己資本とし、一般預金のほか、金券・銀券・銭券(ぜにけん)および洋銀券の4種の兌換紙幣を発行した。 ただ銀券は東京為替会社、銀券は京都と大阪の2社で、小札および銅銭の欠乏を補うために発行されたが、これらは、明治2年、小額紙幣である民部省札の発行により流通後わずか1年で通用停止となった。洋銀券は横浜為替会社のみが発行を認められた。
 しかし、為替会社は、政府の手厚い保護にもかかわらず業績はあまり振るわず、通商司が廃止された4年7月以降衰退に向かい、横浜を除く各会社は6年以降相次いで廃業・解散した。為替会社の失敗の原因は、諸規則の不備、経営者の銀行業務の知識と経験の不足が挙げられるが、ともかく先進国の起業組織や銀行業務の内容を一般に知らしめることとなった点に為替会社の歴史的意義を見出すことができる。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<愛媛県の銀行類似会社設立=伊予銀行> 為替会社による金融活動が、銀行制度に対する一般の認識を高め、金融機関設置の機運を醸成したことにより、明治4年頃から銀行または銀行類似会社を設立する動きが各地に起こった。 国立銀行が出現した後も、銀行類似会社は国立銀行の不振とは裏腹に増加傾向を示した。国立銀行条例以外にこれらの金融活動を規制する法規がなかったこともあって、政府は特にその活動を抑制する措置をとらず、「人民相互の結約」に任せた。 しかし、それらは「銀行」の名を用いることは許されず、一般に「銀行類似会社」と呼ばれた。
 銀行類似会社は年を追って増え、9年8月の国立銀行条例の改正により私立銀行が認められるようになってからも設立が相次いだ。 銀行類似会社には、後年財閥銀行にまで発展した御為替・三井組(のちの三井銀行⇒太陽神戸三井銀行⇒さくら銀行⇒三井住友銀行)や両替商・安田商店(のちの安田銀行⇒富士銀行⇒みずほ銀行)など営業規模の大きいものもあったが、その大部分は小規模のもので資本金は数百円程度、 預金観念の普及していない当時だけに高利貸的性格が強かった。
 ところで、愛媛県での銀行類似会社は、明治維新直後に、松山の商人たちが中心となって設立した「商法社」が最初のものである。 ついで、3年8月には、同じく松山の実業家栗田輿三(よぞう)、藤岡勘左衛門(かんざえもん)、仲田傳之■(でんのじょう)(包直=かねなお)、などにより「興産社」が設立された。 同社は、地方産業の振興と凶事の際の救助を目的に、旧松山藩の手厚い保護のもとに活発な活動を続け、廃藩後も為替方を務め、県の徴収する年貢の取扱いと用達を行った。さらに5年8月には商法社を合併して「興産会社」と改称し、旧藩の製茶場所、製糸場所、縞場所、藍染場所、綿貫場所、家賃場所などを県から譲り受けた。 のちには米場所も譲り受けたほか、三津浜〜大阪間に運輸業を興し、西南戦争では御用船を提供するなど、典型的な政商として成長し、26年12月には「松山興産銀行」と改めた。
 愛媛県で2番目の銀行類似会社は、5年8月、旧宇和島藩の士族たちの出資によって設立された「信義社」である。その後各地に相次いで銀行類似会社が設立され、『愛媛県統計概表』によると、13年末の銀行類似会社は表のとおりとなっている。
愛媛県銀行類似会社一覧表   (明治13年末現在) (単位:円)
社  名 所 在 地 社 長 社 員 役 員 株金高 当該年度純益金
積  善  社 越智郡片原町 阿部 直平 10 2,185 969
興 産 会 社 温泉郡本町 栗田 興三 25 100,000 7,500
稱  平  社 伊予郡灘町 篠崎 鎌九郎 4,000 720
集  贏  社 喜多郡新谷町 平野 正臣 600 118
開 営 会 社 喜多郡新谷町 稲月 恭蔵 1,000 188
信  義  社 北宇和島郡佐伯町 上甲 玄蔵 19 927 587
漸  成  社 北宇和島郡丸穂村 告森 桑圃 5,000 1,386
楽  終  社 北宇和島郡東小路 遠山 矩道 1,160 10,800 1,676
南  鉾  社 北宇和島郡吉田本町 赤松 則倣 124 23,000 2,702
(注)上記のほか次のような銀行類似会社があった。
 栄松社 明治8年、旧松山藩主久松家によって設立されたもので、資本金5万円、社長は井手正隣であった。
 潤業会社 明治8年、旧宇和島藩の保内郷蝋座取締矢野小十郎を中心に設立されたもので、第二十九国立銀行設立後解散した。
 種生会社 慶応4年、清水甚左衛門が議員15人をもって東宇和郡卯之町に種生(みばえ)講を創設したことに始まり、明治8年2月に種生(しゅせい)会社と改称し、明治26年6月に株式種生会社とした。 (『伊予銀行五十年史』から)
私立銀行の設立 わが国における私立銀行の嚆矢は三井銀行であった。維新以来為替方として政府の金融事務を担当していた三井組は、イギリス流の中央銀行そ創設を意図する政府の勧奨もあって、明治4年7月、わが国最初の私立銀行設立願を大蔵省に提出した。 この願書は翌8年認可を得、同月には私立銀行として保嗚呼置くする手はずになっていた。ところが、翌9月、大蔵省は突如として認可を取る消すに至った。 その背景には伊藤博文の建議によるアメリカ流の国立銀行制度採用の思惑があったといわれる。
 国立銀行条例は、5年11月に公布されたが、政府の予期に反して設立は4行にとどまり、またすでに述べたように8年から9年にかけて国立銀行の経営は危機に見舞われた。
 このような情勢下にあって翌9年2月、三井組は三井銀行の設立を再び大蔵省に出願した。大蔵省も銀行私娼禁止令が廃止に向かいつつある情勢を考慮して、同年3月これを認可、同年7月1日に三井組は「私盟会社三井銀行」の名で営業を開始した。 こうして私立銀行設立の念願はここに実現した。
 明治9年8月1日の国立銀行条例の改正により、設立の基準が緩和されて私立銀行設立の道が開かれたが、国立銀行の設立も容易となったため、国立銀行の新設が認められなくなった12年11月までは、全国各地に国立銀行の設立が相次ぎ、この間私立銀行の設立はほとんどみられなかった。 明けて13年1月1日に私立銀行「合本安田銀行」が開業してからは、私立銀行の設立は目白押しとなり、15年には164行に達した。
 愛媛県での最初の私立銀行は、13年6月、北宇和郡本町(現・宇和島市内)に設立された「宇和島銀行」であった。これは、同地にあった「佐野為替店」を継承したもので、設立当初の資本金は15面円、頭取は佐野徳治であった。 (『伊予銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行      1992. 6.25
( 2006年11月27日 TANAKA1942b )
▲top 

千葉県の銀行類似会社
為替方として定着発展する金融業界
 今週は千葉県の銀行類似会社を扱う。千葉銀行は昭和18年(1943)、一県一行主義の国策に従い、千葉合同銀行、小見川農商銀行、第九十八銀行が合併して誕生した。この第九十八銀行とは、 明治11年11月に設立された第九十八国立銀行が普通銀行に転換したもの。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社と私立銀行の設立=千葉銀行> 明治初期においては、政府の粗銅と手厚い保護のもとに生まれた為替会社と国立銀行のほかに、民間からの要望に基づいて生まれた金融機関として、銀行類似会社があった。 明治5年制定の国立銀行条例によって、国立銀行でないものは「銀行」という名称を用いることが許されなかったので、為替・両替・預り金・貸付など、銀行に類似する業務を営んでいた会社は、それぞれ思い思いの名称を用いていたので、一般に「銀行類似会社」と呼ばれた。 しかも政府は、これを監督したり、取り締まったりする法規がなかったため、法律と公益に反しないかぎりこれに勧奨しない方針をとり、「人民相互の結約」にまかせた。 それらは国立銀行のように政府の特殊立法による法律上の保護も紙幣発行権もなく、大部分はきわめて小規模で、資本金も数百円にすぎないものもあった。 しかし、なかには後年、財閥銀行にまで発展した三井組や安田商店のように巨資を運用して、その利業規模が国立銀行に匹敵するものもあった。
 明治8年7月、三井組は三井銀行の設立を出願した。この許否をめぐって政府内では意見が分かれたが、折から国立銀行条例改正(明治9年8月施行)の論議を通じて「私立銀行」を認める気運が生まれ、翌9年7月、三井組は三井銀行として開業した。 私立銀行の始めである。銀行という名称は世間一般から尊重されたので、一時は、銀行類似会社から銀行に改組しようとするものが続出した。しかい、明治10年から12年にかけてこの気運は国立銀行設立に向かい、私立銀行設立は12年11月、国立銀行設立が許可されなくなってから急増した。 翌13年1月、安田商店が安田銀行に、同じ年、川崎組が川崎銀行に改組した。私立銀行の数は13年の39行から銀行条例制定直前の22年末には218行(5.6倍)となった。 また、銀行類似会社数もこの間に120社から695社(5.8倍)と急増した。
銀行類似会社数の推移 
年  次 社数 資本金・千円
明治13年6月末 120 1,211
14 369 5,894
15 438 7,958
16 572 12,071
17 741 15,142
18 744 15,397
19 748 15,394
20 741 15,117
21 712 14,453
22 695 14,421
資料:『帝国統計年鑑』
私立銀行数の推移 
年  次 行数 資本金・千円
明治9年末 2,000
10 2,000
11 2,000
12 10 3,290
13 39 6,280
14 90 10,447
15 176 17,152
16 207 20,487
17 214 19,421
18 218 18,758
19 220 17,959
20 221 18,896
21 211 16,761
22 218 17,472
資料:『帝国統計年鑑』
不換紙幣の整理と日本銀行の設立 明治初年以来、不換紙幣の増発に伴って物価は騰貴し、通貨に対する一般の不安がはなはだしく、典型的なインフレーションの様相を呈した。 とくに明治10年に勃発した西南戦争の軍事費調達のため、多額の不換紙幣が増発され、通貨の流通高は急増して、これがインフレーションに拍車をかける結果となった。 政府紙幣と銀行紙幣の合計額は、明治9年末の1億740万円から11年末には1億6,387万円へと50%以上の著増を示した。 明治10年と14年の東京の物価を比較してみると、米の卸売価格は、1石(約140Kg)5円15銭から10円59銭へとほぼ倍に跳ね上がった。 このようなインフレーションの伸展は、明治政府の財政をいよいよ危機に追い込むと同時に、近代産業の成立を阻害した。14年、大蔵卿に就任した松方正義は、ただちに不換紙幣の整理にとりかかった。 当時、松方がねらったのは、不換紙幣を整理して、正貨準備をもつ兌換銀行券発行によって通貨の安定を図り、検算な国民経済の基礎としての通貨金融制度を確立することであった。 この紙幣整理策の中核となったものが日本銀行であった。明治15年3月、松方の「日本銀行創立ノ議」は太政大臣の承認するところとなり、同年6月27日、「日本銀行条例」が太政官布告として交付され、同年10月10日、日本銀行の開業をみるに至った。
 これによって、銀行券の発行は日本銀行に集中されることとなり、近代的な通貨金融制度が成立したのである。
千葉県の銀行類似会社 千葉県における銀行類似会社は、『銀行局第6次報告』によると、明治16年末において協力資給会社(資本金7万2,000円)、共潤社(同4万円)、余裕社(同3,000円)の3社があり、また17年の同報告では、木下明盛社(同6万円、17年7月承認)が追加されている。 以上のうち共潤社は、明治15年11月、天羽郡佐貫町に設立され、19年11月佐貫銀行へ改称した。また、前記のほか堅明社が明治22年2月19日に設立、6月1日に開業した。 同社は26年12月、舞鶴銀行と改称した。銀行類似会社は21年末には6社、23年末には8社となったが、詳細は不明である。
私立銀行の発展 国立銀行の設立よりも早く、明治8年6月7日、当県においては、川崎組が千葉町に千葉支店ならびに大区扱所所在地の北条・木更津・長者・成東に出張店を設置し、正租を除く上納金の取扱いを開始したことが『千葉県史』にみえている。 もっとも、公金の取扱いは、さらにこれより早く、明治5年ごろから三井組が出張して引き受けていたもののようである。
 (注)当時、各県の公金取扱は、府県方と称し、県下の租税金を収納してこれを預かり、官員の給与その他の支払を県庁の振出手形と引替えに支出し、また上納を命ぜられたさいに租税寮あての為替手形を振出して東京の本店から代わり金を納めるのである。 この収納から上納までの間の預かり期間を自己の融通に利用し得る点が引受者の利益であったわけである。明治5年4月現在、三井組は木更津・新治・印旛・敦賀・和歌山・島根・山口・香川など8県に出張店増設予定であったとされている。(『三井銀行八十年史』から)
 『千葉県史料』では出張店の設置は、明らかではない。しかし、同史料木更津県の記事中、明治5年9月に公布された育児規制には、教育費・貸付金などの取扱いを「出張三井組」で行う旨規定されているので、5年4月〜9月の間に出張扱いを始めたものとみられる。
 三井組は、明治9年7月1日、わが国初の私立銀行の三井銀行として開業、同時に千葉2等出張店を千葉町に設置した。 同店は明治11年11月に廃止、22年3月ふたたび設置され25年8月支店となったが、27年3月に廃止された。これは、官金取扱いに伴う個人貸出その他種々の弊風情実を排した措置で、廃止店は全国で20以上に及んだ。
 一方、県内に本店を有する最初の私立銀行として、明治14年9月、山武郡東金町に東金銀行が設立され、10月に開業した。 もっとも、貯蓄銀行としては、千葉貯蓄銀行が明治14年4月、資本金3万円で、設立許可を得ていたことが『銀行課第3次報告』から知られる。 (『千葉銀行史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『千葉銀行史』                  編集・発行 千葉銀行      1975. 3.31
( 2006年12月4日 TANAKA1942b )
▲top 

佐賀県の銀行類似会社
藩知事鍋島直大が先祖の遺金と家禄を献納
 今週は佐賀県の銀行類似会社を扱う。銀行類似会社は士族授産を目的として設立されたものが多いことが各県の状況をみるとわかる。 佐賀県の場合もそうであり、特に佐賀県では旧藩主が積極的に動いていた。
 佐賀銀行の略歴は次の通り。1882年3月に伊万里銀行が設立され、1885年10月に唐津銀行が設立される。 1931年8月に唐津銀行と西海商業銀行が合併し、あらたに株式会社佐賀中央銀行が設立され、1939年8月に伊万里銀行と有田・洪益・武雄の3行が合併し、あらたに株式会社佐賀興業銀行が設立され、 1955年7月に佐賀興業銀行と佐賀中央銀行が合併、ここに株式会社佐賀銀行が設立された。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<佐賀県の士族授産=佐賀銀行> 明治4年の廃藩に藩知事鍋島直大は自ら先祖の遺金と家禄のそれぞれ3分の2に当たる26万6,000余円を政府に献納し、旧家臣の土着資金と政府が引き継いだ旧藩債の償却に充てることを願い出た。 この献納金は「旧藩知事遺金」と称せられたが、家禄の他に先祖の遺金が差し出されたことは他藩にその例がなく、旧藩主直正の殖産政策が藩の財政を潤し、鍋島家の内実もまた比較的豊であったことを示している。 また、旧家臣の土着資金を願意に含めたことは、旧藩主と旧家臣の結びつきが強かったことを物語っている。
 ここでいう土着とは、旧家臣の帰農開墾のことを意味している。佐賀藩ではすでに幕末に諫早や佐賀郡金立村大野原の開墾地で、屯田兵的にかなりの規模で祖着が進められ、維新後も小規模ながら開墾が続けられた。
 8年、旧藩知事意金のうち10万円余が士族授産資金として公布された。このうち3万円を共同の畜産産事業に充て、残額は俸禄石高に関係なく、すべて旧家臣に「甲乙ナク一般平等ニ分与」された、 特記されるのは、この士族救済資金は「必ス土着ニ供シ他用ニ費スヲ許サス」という条件付きで交付されたことである。そのうえ、県当局は資金の使途について、次のような指針を与えている。
 1.居屋敷其他所有地アリテ耕地トナルヘキ場所ハ、地味ニ応シ、桑茶等ヲ始メ其他多利ノ植物ヲ培養繁殖セシムヘキ事
 1.従来人民所有ノ田畑ヲ相当ノ価ヲ以相対ニテ買受ケ、自作又ハ他人ヲシテ小作セシメ、子米ヲ収入スル事
 1.従来人民所有ノ田畑ヲ質入ニシテ、相対ヲ以相当ノ金銭ヲ貸シ渡シ、利子ヲ得ル事
 1.官民ニ支障ナキ荒蕪地壱町ヲ限リ、相当代価ニテ御払下ヲ願ヒ、開拓スル事
 この指針によれば第1項と第4項で帰納土着をすすめる一方、第2項・第3項でむしろ高利貸しあるいは地主として自活の道を開くことをすすめており、また土着の意味が従来より広義に用いられている。 本県はこの遺金の交付に先立つ7年4月、佐賀の乱に加担して士族籍を剥奪されたいわゆる除族者に対しても授産資金が交付されている。
 これらの士族授産金の交付は、士族の就業就産の気運を盛り上げ、彼らの多くは養蚕、製糸、織物、牧畜、印刷業など、換金価値の高い近代産業に就業していった。 このように農家の本業ともいうべき米作を避けたのは、本職の農民に比して農業に対する知識が浅く、農耕技術が劣っていたことと、農民がこれまで耕作してきた水田を取り上げたくないという配慮もあったが、むしろ旧幕時代の社会秩序と有識指導階級としての武士の体面が、農民となって直接農耕に従事することを嫌い、地主になることによって、当時として生産力の高かった農業に寄生する道を選んだ。 これがひいては、明治10年以後、県内の地主制度が急速に伸びる素地をつくったのである。そしてこれら地主が得た「子米」、「利子」は、より有利な事業に投資され、あるいは蓄積されて銀行類似会社や銀行設立の基金となった。
 このように佐賀県における持参資金の交付は、以後の県内金融ならびに産業の消長に、いろいろな面で影響を及ぼした。
授産事業の推移 佐賀県の士族授産については、旧藩主や上級家臣が中心になって強力に推進された。佐賀地区では、前記旧藩知事遺金から交付された士族授産金のうち3万円を資金に、明治8年7月、赤松町に厚生会社を設け、佐賀城内に桑園をつくり、旧藩士200名余が養蚕義会を組織して、養蚕・織物を手がけた。 旧白石邑では、旧邑主鍋島直高が、11年に聚益舎、生産舎(織物)、生産所(開墾)を経営し、13年8月には貸金会社の永頼社を開設、さらに協力会社を創立して精巧な陶磁器を製造した。
 旧多久邑主でのち佐賀県県令となった多久茂族は、佐賀の乱の善後策に奔走して士族の鎮撫に努め、続いて授産に尽力し、14年6月、小城郡多久村に輔産社(貸付)を設立するとともに、保全社(貸付、預り金)、紡績所を興して養蚕を奨励した。
 小城では牧畜、開墾、干拓の士族授産が行われ、16年には自力社が設立され、フランス製織物機14台を使用して養蚕織物を興した。
 武雄では、製茶所、就産会社、武雄貯蓄会社が、また鹿島では、成々社(貸金業)、養蚕会社が設立された。旧唐津藩でも炭山の開発をはじめ、興盛社、捕鯨組、缶詰商社が開設されて、近代産業の先駆となった。
 これら県下各地の士族授産事業は順調な滑り出しを見せたが、14年以降、松方大蔵卿のデフレ政策による物価の低落、購買力の減退に伴い、養蚕、製糸、牧畜、石炭などがその影響を受けて転廃業を余儀なくされ、また各地の貸金会社も23年前後になると解散するものが多かった。
 政府や県の主導による士族授産は、結局、農工商いずれも、いわゆる士族の商法で失敗に終わるものが多かったが、士族の知識と教養をもとに導入された新しい生産様式と生産技術は、その後の近代産業の発達に大きく貢献した。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<県内金融機関の草創=佐賀銀行> 政府は近代資本主義体制を確立するため、封建的経済社会制度を次つぎに排除していった。経済面では煩雑で流通に制約の多い「両」から、国内純正画一の「円」へ幣制を統一した。 その結果、商品交易は拡大し、生産様式も自給自足的生産様式から工場生産様式へと発展していった。そして商品の旺盛な流通に対応して商業機構も改まり、近代的な金融業が生成発展する状況が形成されていった。
 佐賀県の明治初期の金融形態は、米穀・茶をはじめとして、当時特産物であった石炭・陶磁器等を中心とした金融であり、土地の担保差入(質入)を活用して金融業は益々発展した。
 その担い手となったのは旧幕時代に藩御用商人として、蔵元・両替商・質屋などを兼営していた商人や地主などである。これらは主として前貸資本または商人資本として金貸業を営んでいたので、その商業形態は貸金業的経営として捉えることもできるが、実際には殖産興業の分野を受け持ち、その強大な資力をもとに各種の金融業に発展していった。
 特記されるのは旧藩主、旧巴主は旧幕時代の領民貸付金をそのまま引継ぎ、旧家臣と領民の救済授産の一環として、銀行類似の預り金、貸金、保護預かりなどを取扱う金融業を開設したことである。
 結局、佐賀県における近代的金融機関は、まず鍋島家出納掛によって銀行類似業が始められ、次いで国立銀行、銀行類似会社、私立銀行の設立へと進んでいった。
*                 *                  *
<銀行類似会社の盛衰> 維新政府の手厚い保護と種々の特権を賦与された為替会社は、一般の関心の低さと知識不足でわずか数年で失敗し、姿を消していった。 政府は通貨金融政策上、これに代わる新しい金融機関の設立を急ぐとともに、為替会社の失敗の反省に立ち、「立会略則」、「会社弁」等を刊行して民間一般の啓蒙に努め、民間による合本起業の設立を奨励した。 こうしたこともあって金融機関の必要性が一般社会に理解され、明治4年末のころから、私立の銀行もしくは銀行類似の業務を営む金融会社の設立を出願するものが続出した。
 当時はこれらの会社を監督規制する条例や法規がなかったこともあって、政府は公益を害しない限りは干渉せず、設立に関しても半ば放任していた。 その結果、随時設立されたもの、地方庁限るで承認されたもの、あるいは地方庁を経由して大蔵省で認可されたものなど、多くの金融会社が設立されていった。
 これらの会社は、預り金、貸付、為替、両替など、機能面では銀行とほとんど同じ金融業務を行っていた。しかし明治5年11月の国立銀行条例によって、国立銀行以外は商号に「銀行」の2文字を付けることが禁じられていたため、一般に「銀行類似会社」と呼ばれた。
 このように銀行類似会社は設立に関しては一定の基準もなく、運営面でも金融業務のほかに商業や不動産業などを兼営するもの、設立しても利業しないもの、短期間で廃業して局地的に金融機関に対する信用不安を引き起こすものなど、すべての面で統一性を欠き、その実態を把握することは難しく、監督取締りにも支障をきたしていた。 そこで政府は、15年5月に設立拒否権を大蔵省の管轄下に置き、同年9月には「銀行類似会社と称するは、貸付金、預り金及び為替、荷為替、割引等および銀行事業の全部又はその幾部を専業とする者に限る」とその性格を明確に定義し、17年9月に初め銀行類似会社の組織や業務内容の調査を実施し、監督を強化していった。
 それら銀行類似会社は13年に国立銀行の設立が一巡して以降急激に増加し、13年末には307社に達して、ピーク時の19年末には749社を数えた。
 佐賀県の場合は他県に比べて設立時期はやや遅れ、またその数も少なく、法的に金融機関としての資格が規定されるようになった26年の銀行条例施行までに、明らかに銀行類似会社といえるものは表に示す10社にすぎなかった。
 銀行類似会社は、わが国の銀行制度発展の歴史に転機をもたらした26年7月の銀行条例施行を機に銀行に転換し、あるいは資格不合格で廃業していったが、普通銀行に転換しても、「銀行」の2文字を付けなくても銀行として認められたため、銀行と類似会社の両者間に明確な区別がなくなった。 県下の銀行類似会社の場合は、表に示すとおり、10社中25年までに、永頼社、成々社、有田貯蔵会社、杵島貯蓄会社、栄進商社の5社が普通銀行に転換し、銀行条例が施行された26年に八坂会社が解散した。 したがって26年末には甘久共同会社、洪益株式会社、地所株式会社、株式会社共済会社が残ったが、この4社はその後銀行条例の適応を受けて銀行として存続した。
 この10社以外にも、15年5月に小城郡多久村大字小侍に設立された保全会社、16年1月に杵島郡須古村に設立された錦江社が、一時、銀行類似会社として大蔵省に業務報告をしている。 また16年8月に神崎郡吉田村に設立された協心社も銀行類似会社に数えられるが、いずれも消滅までの経緯がはっきりしないため、表には加えなかった。
甘久共同舎 この共同舎は杵島郡朝日村甘久の地主稲富東三、有田源一郎、志田守一、原英佐がそれぞれ小作米200俵を拠出し、これを資本に貸金業を始めたもので、明治26年7月1日、社名を甘久共同株式会社と改めるとともに、資本金を増加して銀行としての体裁を整え、43年7月に株式会社武雄銀行へ発展していった。
有田貯蔵会社 同社は明治15年9月、深川栄左衛門によって設立された。社名の有田は県特産の有田焼の産地を指している。 同社がこの有田に設立された会社組織による最初の金融会社である。深川栄左衛門は伊万里銀行の設立に尽力し、創立と同時に同行の取締役に就任しており、その経験を通して、地元有田に金融機関設立の必要性を痛感し、有田貯蔵会社を設立したのである。 したがって伊万里銀行を親銀行とし、また同地の三友銀行伊万里支店(本店長崎)とも密接な取引関係にあった。その後、21年7月1日に有田貯蔵銀行と商号を変更して銀行に転換した。 ちなみに当時の日計表を見ると、預金科目のうち貯蔵預金という項目がある。これは今日の定期預金に該当する。この有田貯蔵銀行は県内最初の貯蓄銀行として大衆預金の吸収に力を注ぎ、融資の面では窯元金融に重点をおいた。 そして26年7月1日、商法施行を機に普通銀行に転換して株式会社有田銀行(旧)となった。
洪益会社 西松浦郡有田の資産家松本庄之助、蒲池駒太郎が中心となり、明治21年7月1日に開業。26年の商法施行に伴い商号を洪益株式会社と変更し、以後銀行としての取扱いを受けた。 創業当初からライバルとして、共に有田窯業界を金融面から支えていた。
栄進商社 早くから水産業、海上交通の拠点として栄えた東松浦郡呼子村に、当地の素封家谷口嘉一郎が、海運業で得た富を元手に取得した佐賀市周辺の田畑300余町を管理することを主目的に設立された会社である。 これに銀行部を併設し、深川一族とその関連会社、小作人の金融の便に応じた。
成々社 旧鹿島藩主の提唱のもとに明治15年1月に設立された。同社の社則第1条には「諸公債証書地券及ヒ金穀其他諸物品質入或ハ倉敷預リ等ヲ為スヲ主旨トス」とあるように、明らかに士族授産のための銀行類似会社であった。 19年12月に鹿島銀行(旧)と改称し、佐世保支店を新設するなど業績は順調に推移したが、26年5月28日の株式総会で突然解散が動議され、解散した。
杵島貯蓄会社 明治16年1月、杵島郡武雄村の旧武雄巴の士族中原親長を中心にして金禄公債を資本に創設された。 21年には旧巴主その他の出資を得て資本金を5万円に増資するとともに、社名を武雄銀行(旧)と改称した。しかし商法制定に際し、旧巴主や士族から脱退・減資を要求され、26年12月に解散した。
永頼社 旧白石巴鍋島家が設立した銀行類似会社である。同社は現三養基部北茂安町白石で行っていた鍋島家の各種士族授産事業の中核としての役割を果たしていた。白石銀行はその後身であると推量される。
共済会社 同社も鍋島家が経営した銀行類似会社の1社である。旧家臣の土着授産に投資して負債を抱え込んだ鍋島家の財政を建て直すため、同家の家令江口良重が中心になって創設された。 結局、この貸金業は失敗するが、江口良重は28年9月、白石銀行の頭取に就任している。
佐賀県内銀行類似会社一覧 
会 社 名 設立年月日 開業時資本金 代表者 所 在 地 摘  要
永  頼  社 13. 8.── 7,700 鍋島  直高 三養基郡北茂安村 23. 6. 1、白石銀行となる
甘久共同舎 15. 1. 1 1,800 有田 源一郎 杵島郡朝日村 26. 7. 1、甘久共同株式会社となる
成  々  社 15. 1.── 50,000 牟田 万次郎 藤津郡南鹿島村 19.12. 1、(旧)鹿島銀行となる
有田貯蔵会社 15. 9.26 20,000 深川栄左衛門 西松浦郡有田泉山 21. 7. 1、有田貯蔵銀行となる
杵島貯蓄会社 16. 1.── 20,280 中島  親長 杵島郡武雄村 22. 1. 8、(旧)武雄銀行となる
共 済 会 社 16. 4.25 8,500 江口  良重 佐賀郡水ヶ江町 26年、株式共済会社となる
洪 益 会 社 16. 4.19 30,000 松本 庄之助 西松浦郡有田皿山赤松町 26. 7. 1、洪益株式会社となる
八 坂 会 社 21. 8.── 19,000 八坂  甚八 三養基郡轟木村 26.年、解散となる
栄 進 商 社 23. 6.── 7,500 谷口 嘉一郎 東松浦郡呼子村 25.10.20、呼子銀行となる
地所株式会社 23. 4.17 40,000 深川 嘉一郎 佐賀市道祖町 昭和 3. 8.24、銀行業廃止
(注) 明治26年7月までに設立されたもの。設立年月順
銀行類似会社の推移 (単位:千円)
年 次 会社数 資 本 金
13 307 4,011
14 369 5,984
15 451 8,098
16 699 14,138
17 741 15,227
18 745 15,407
19 749 15,401
20 741 15,119
21 711 14,408
22 695 14,421
23 702 14,512
24 678 13,827
25 680 13,944
(注) 大蔵省『銀行局年報』(各年次分)から
佐賀県内貸金会社 (明治17年末)
社  名 業   種 資 本 金 設立年月 所 在 地
共  愛  社 貸   付 3,000 17. 1 佐賀郡池上村
塵 岡 会 社 1,296 15. 9 佐賀郡与賀町
共 済 会 社 10,000 16. 4 佐賀郡水ヶ江町
協  心  社 7,000 16. 8 神崎郡吉田村
永  頼  社 為替・貸付・預り金 7,700 13. 8 養父蓑原村
輔  産  社 貸   付 31,350 14. 9 小城郡多久村
貯 蓄 会 社 4,750 17.10 小城郡小城町
保  全  社 貸付・預り金 12,500 15. 5 小城郡小侍村
貯 蓄 会 社 貸付・預り金 20,280 16. 1 杵島郡柄崎村
成  々  社 貸付・預金・公債証書売買 100,000 15. 1 藤津郡高津原村
塩 田 会 社 質商及貸付 6,000 14. 5 藤津郡馬場下村
伍 光 商 社 貸付・為替 4,500 17. 1 東松浦郡呼子村
有田貯蔵会社 貸  付 14,000 15. 9 西松浦郡有田皿山
貸金会社計=13社  資本金=222,376円   (注)『佐賀県統計書』から
(『佐賀銀行百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『佐賀銀行百年史』                総合企画部 佐賀銀行      1982.12.25
( 2006年12月11日 TANAKA1942b )
▲top 

京都府の銀行類似会社
明治新政府の殖産興業と京都の人々
 今週は京都府の銀行類似会社を扱う。ここでは個々の銀行類似会社を扱うのではなく、江戸から明治への変革期の金融制度について扱っている。 大きな歴史の流れの中で銀行類似会社がどのような位置にあったのか、そうした面から考てみることによって、銀行類似会社をより深く理解することができるだろう。
 京都銀行の略歴は、1941年(昭和16)に京都府北部の4行(両丹銀行、宮津銀行、丹後商工銀行、丹後産業銀行)が合併して、株式会社丹和銀行(本店福知山市)を設立。1951年(昭和26)に株式会社京都銀行に商号変更。 1953年(昭和28)に本店を京都市に移転。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<新政府の財政と京町人=京都銀行> 慶応3年(1867)12月9日、「王政復古」の大号令が発布されて270年続いた徳川幕府は崩壊し、新政府が誕生した。 この「明治維新」と称された政治体制の変革は近代日本形成への出発点となったが、新政府には皇室御領3万石以外に頼れる財源がなく、幕府との開戦を控え、その軍事費をどう調達するかという財政問題が、新政府の死活を制する緊急課題であった。
 新政府は当面必要な御用金穀調達のため、慶応3年12月23日大蔵省の前身である「金穀出納所」を京都御所の学習院内に設置し、福井藩士三岡八郎(のちの由利公正)を政府参与に登用し、金穀出納所取締役に任命するとともに、「金穀出納所御用達」を当時京都3大金融機関であった、三井組、小野組、島田組に命じた。
 この三家は、京都を本拠とし、江戸、大坂にも両替店、呉服店などをもち、とくに幕府の「金銀御為替御用達」として公金為替を取り扱っていたことから、新政府は財政政策を進めるにあたり、三家の資力、信用、手腕を必要とし、まずその協力を要請したのであった。
 当時、江戸はなお徳川幕府の勢力下にあり、三家が討幕派に加担した場合、江戸の両替店などの帰趨が懸念されたが、三家は朝廷と浮沈をともにする覚悟で、慶応3年12月28日、金穀出納御用達引受方の請書を提出するとともに、合わせて3,000両を献金し、ここに新政府最初の財政機関が発足した。
 金穀出納所の最初の仕事は、京都府中の豪商や寺院などの大口献金が船橋、下村(大丸)、熊谷などの京町人や、東西本願寺、延暦寺、建仁寺などの大寺院から寄せられたが、当時京町人の一般的な献金相場は5 両、最低は2朱であった。 「錦江出納所献金書留」等によると、慶応3年12月27日以降、翌年1月末までの約1ヶ月間に京都市民から寄せられた御用金穀は、総額4万両、1074件にのぼった。 この中には、町単位の団体による献金も含まれていたので、献金者総数は延べ1万人を超えたという。
 このように、京都の豪商が産を傾けて朝廷に尽くしたのは、父祖代々皇都に住み禁裏御用を務めてきたからである。『両替商沿革史』は、「大阪は幕府の頃より、御用金を仰せつけられる地と見倣されたのに対し、京都はその煩を蒙りたることなく、ただ大阪にて取り立てたる金を、入用のときまで幕府が定期を以て重なる町人に預け、幕府に於いても特に優遇したと知るべし」とあり、 直接、間接に皇室の余沢を受けた京町人たちの間では、明治維新に際し、朝廷と命運をともにする覚悟が生まれたのであろう。
 いずれにしても、新政府の諸経費や、慶応4年正月(この年9月明治と改元)の鳥羽・伏見の戦から江戸入城までの軍事費の多くは、京町人らの献金や、次に述べる借入金(会計基立金)によって賄われたと行って過言ではない。
会計基立金と両替町御為替方会所 明治政府がとった最初の財政・金融政策は、会計基立金300万両の募集と不換紙幣である太政官札の発行、およびその紙幣に貸付(勧業貸付)であった。
 会計基立金とは、地租収入を担保として、年1割2分の利息を付した政府借入れ(国債)であり、これを政府は京阪両地の富豪に割当てて、東征の軍事費に充当することとした。
 その際、三家は、会計基立金の応募に消極的であった大阪の十人両替商を勧誘するなど、政府の財政・金融政策に積極的に協力したことから、慶応4年(1868)2月、金穀出納所が会計事務局と改称された際、政府の御為替方を拝命して国庫金出納業務を正式に取り扱うこととなった。 会計基立金の募集事務を取り扱うにあたり、三家は京都銀座の真向かいにあった旧幕時代の「十人組御為替会所」跡に、新しく共同の事務所「京都両替御為替方会所」を設立し、ここで「太政官御用達御為替手当金」の名目で多額の公金の預託を受け、政府の銀行としての役割を果たした。
 会計基立金の応募は総額285万両に達した。このうち、京都、大阪を中心とした近畿地方で75.3%を消化した。とくに、三家は32万9,000両(11.5%)を引き受け、新政府の財源確保に協力した。さらに、太政官札の発行、通商会社や為替会社の設立など新政府の財政金融、殖産政策にも広く関与した。 また、明治4年7月の廃藩置県以後、各府県の租税の収納、大蔵本省への送金業務に従事する一方、各地で預金の受け入れや貸出業務も行い、銀行的機能を果たした。 この経験は、その後の銀行の発展に少なからず寄与した。
太政官札の発行と勧業貸付 前述のとおり、政府は、旧幕府軍の追討費調達のため、会計基立金」300面両の募集を決定したが、これほど多額の資金を京都、大阪の富豪から借り上げると産業資金が枯渇するため、太政官札を発行することにした。 そのため、京都銀座跡に製造工場「楮幣司(ちょへいつかさ)」を設置し(京都両替町通り、のち手狭のため二条城内に移転)、京都の出版業者越後屋治兵衛が太政官札の印刷を請け負った。そして、慶応4年(1868)5月以降、明治2年7月までの間に4,800万両の太政官札が発行された。
 太政官札の発行にあたり、政府は「商法大意」を交付して商取引自由の原則を打ち出すとともに、のち大蔵省となる「会計官」の中に「商法司」を京都に設置し、支署を大阪、次いで東京に設置した。 またその傘下に「商法会所」を設け、太政官札の発行・流通、勧業貸付などの事務を取り扱わせた。商法司の運営には御為替方三家などが起用された。なお、京都では京都両替町御為替方会所を「京都商法会所」と改め、これが会計基立金の調達業務と併せて勧業貸付の業務に従事した。
 一方、太政官札4,800万両の使途をみると、農工業振興のため、藩府県に対し石高1万石に付き1万両の割合で貸し付けた「石高割貸付」が1,273万両(うち京都府6万両)、また、商法司(商法会所)を経由して、京阪の商人には商品を、その他の地域では不動産を担保として貸し出された勧業貸付が993万両にのぼり、残り2,533万両が歳入の不足補填に充当された。
 この際に、発行された太政官札は、当初は世上一般に信用が薄く、打歩をつけなくては正金と交換できなかったとはいえ、わが国最初の全国通用の政府紙幣であり、貨幣制度統一の先駆をばすものであった。
 なお、政府は明治4年5月「新貨条例」を布告し、貨幣制度の抜本的改革を行い、はじめて円、銭、厘の呼称を用いた。そして、太政官札については明治5年4月以降、1両を1円の割合で新紙幣と交換して消却した。
東京遷都と西京為替会社 明治政府は人心の一新を図るために、前島密の「江戸遷都論」を採用し、政治の中心を京都から江戸に移すこととした。
 慶応4年7月、「江戸は東国第一の大鎮、四方輻輳(ふくそう)の地、宜しく新臨以って、その政を視るべし」との詔勅が発布され、明治元年(1868)10月江戸は東京と改められた。 次いで明治2年2月、太政官など主要官庁が東京に移り、新政府の財政・金融政策に協力した京都の豪商も漸次活躍の舞台を東京に移した。 以後、京都は「西京」と呼ばれた。
 その際、商法司は廃止され、その政務のうち、殖産興業に関する事項は会計官(明治2年7月大蔵省と改称)内に新設された「通商司」に継承され、3府の商法会所も解散した。 このように、商法司や商法会所は、その存続期間はわずか1年に満たなかったが、明治維新という一大変革期の財政・金融政策を担当した重要な機関であった。 代わって商法司の指導・監督により、明治2年5月以降、三井組、小野組、島田組が中心となって東京・京都・大阪の3府と、横浜・神戸・新潟・敦賀および大津の5か所(合計8か所)に通商会社と為替会社が設立された。 通商会社は内外商業の振興を目的とし、為替会社はその振興に必要な資金を融通して通商会社に援助を与え、あわせて民間金融の疎通を図ることを目的とした。 なお、為替会社は紙幣発行の建言を付与された近代的銀行業の先駆をなすものであった。
 京都の西京為替会社は明治2年7月、三家共同の事務所「京都両替町御為替方会所」(商法会所)において開業した。創立時の身元金(出資金)15万両、各自2万両、計10万両を出資した三井八郎右衛門、三井三郎助、島田八郎左衛門、小野善助、下村正太郎の5名が「総頭取」に就任し、業務を統轄した。 また残り5万両を出資した23名が、出資額に応じて「頭取並」や「御貸付方」となった。なお、同じ場所に設置された通商会社も、その経営陣はほとんど同一人であった。
 このように為替会社と通商会社は、不即不離の関係にあって、民間金融の融通を図り、貢献するところが少なくなかったが、採算が悪化したため、横浜為替会社が第二国立銀行に転業したほかはすべて解散した。
 しかし、為替会社は、江戸時代の両替商から近代的銀行業へ移行する過渡期の金融機関として、わが国の金融制度発達史上重要な役割を果たした。 (『京都銀行五十年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『京都銀行五十年史』           編集・発行 京都銀行         1992. 3.31
( 2006年12月18日 TANAKA1942b )
▲top 

東京府の銀行類似会社
三井組や安田商店など大資本が活躍
 今週は東京府の銀行類似会社を扱う。各県の銀行類似会社は地方銀行の○○年史から引用していたが、東京の地方銀行の○○年史は見当たらない。そこで自治体の史料から探してみた。 東京では三井組や安田商店などの大資本が中心であった。小野組や島田組も活動していたはずだが、詳しい史料は見つからなかった。また資料の集計年が、私立銀行ができてからのもので、それ以前、つまり、私立銀行に転換する前の銀行類似会社についてはわからなかった。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<東京府の銀行類似会社=東京百年史> 私立銀行の設立とともに、国立銀行条例の規定により「為替両替預リ金貸附等都テ銀行ニ類スル業ヲ営ム者ハ向後紙幣ノ頭ノ商人ヲ得サレハ其の営業ヲ為ス可ラス」(『明治財政史』第13巻)の方針で、小規模な金融機関が、明治4・5年ごろ以降続出して明治13年(1880)には全国で合計120にも達した。 これらは一般に「銀行類似会社」とよばれる。
 それらの金融機関には各種の類型があり、幕末からの為替・両替商などの転化した場合、あるいは士族に対する金融授産の組織から発達した場合、また豪農商の設立による勧業金融機関、商人地主の高利貸営業の系譜をもつ場合など、いろいろな性格をもっていた(朝倉孝吉『明治前期日本金融構造史』)。
 東京については、表のように、明治14年(1881)に共伸社、同18年(1885)に集成社などが結成されている。前者は日本橋湊町1丁目に設立され、資本金10万円、株主60名、支店数1,また後者は同区新右衛門町に設立され、資本金3万5,000円、株主36名、支店数4の規模をもっていたが、より以上に詳細なことは明らかでない(『東京府農商工要覧』)。
明治10年代末期までの東京における私立銀行・銀行類似会社の増加
私立銀行
年 (明治) 累計 銀 行 名 称
三井
13 安田、明辰、川崎、東京貯蔵、東京貯銭
14 東海貯金
15 壬午、平松
16 10 中井
17 11 田中
20 12 広部
私立銀行支店
年 (明治) 累計 銀 行 名 称
13 久次米、掛川
14 伊藤
銀行類似会社
年 (明治) 累計 銀行類似会社名称
14 共伸社
18 集成社
(『東京百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社=中央区史> 前に記したように為替会社は、結局失敗に終わったが、この頃から三井組バンク・小野組バンク・東京銀行・江州バンクなどの私立銀行の設立願があいついで大蔵省へ提出された。 ところが、政府には国立銀行設立の計画があって、許可しなかったが、その後もすでに解散した為替会社やそれに関係したものが続々私立銀行の営業許可を請願し、そのほか各県においても共同出資して銀行類似会社の設立を請願するものもあり、その数はほとんど100社にのぼったという。 政府は、国立銀行条例の規定もあるので「銀行」としては許可しなかったが、大蔵省にはまだそれを監督する条例法規もなく、これを許可しない理由もなく、加えて公益に反することもないので、「銀行類似会社」として許可した。 これによって相当数の会社が設立されたが、この中には、数百円に達しない小資本のものから数十万、数百万円にのぼる大資本のものまで含まれていた(もちろん小資本の会社が多かった)。 大資本の会社のなかには、区内にあってのちの財閥銀行に発展した、三井・安田とか、明治7─8年(1874─5)のかけて没落した小野・島田などが含まれていた。 三井は周知のとおり江戸時代有数の両替商として活躍し、維新後、金穀出納所の御用を仰せ付けられ、元年2月には小野・島田両組とともに、会計事務局の出納事務を行う会計局御為替方となり、政府の公金取扱をし、その後明治4年には大蔵省御用為替座三井組を開設し、同組名義の大蔵省兌換券(4年10月)、 開拓使兌換券(明治5年1月)を発行するなど、政府の出先機関のごとき性格をもっていた。また、政府の強権をもって作った貿易会社、開墾会社、為替会社などの設立にも参加し、巨大な資産にものをいわせ政府との関係を強めた。 明治4年には三井組バンク創立願書を出したが、許可ならず、同年10月に出た国立銀行条例により第一国立銀行の設立に参加した。 この傍ら三井組御用所を廃して、「為換バンク三井組」と称して7年5月6日に開業した。4年7月三井組バンクの創立の際、海運橋畔に5階建西洋館(三井組ハウス)を建築したが、三井組バンクの創立取消があって、第一国立銀行にこれをゆずり、その後7年に駿河町両替店内に移った。
 安田は、安政4年(1857)富山から江戸へ出て、元治元年(1864)人形町通りで小銭両替店「安田屋」を開き、慶応2年(1866)「安田商店」(小網町3の10へ移転)と改称し、明治に入ってから太政官札1千両を借入れ、貨幣価値の変動による利得で、その試算を急激に膨張させた。 明治元年1月の資産は、すでに1千984両に達しており、明治2年は5,263両余、同4年は2万109両余と激増ぶりを示している。安田は第1期の国立銀行には加わらなかったが、このころすでに有数の資産家のなかに入りつつあった。そして政府との結びつきを強めながら預金の増大にもっとも力を入れた。明治9年には第三国立銀行の設立に参加している。
 小野・島田はともに江戸時代、三井とともに大店を張った両替商で、明治元年に同じく政府の為替方を命ぜられた。小野組はその後5年に小野組バンクの設立をはかったが許可されず、この意図は継承され、同年8月三井組と共同して「三井小野組合銀行」(一名銀行組)を設立した。政府は為替方を廃して大蔵省為替御用掛を命じた。 そして同行は国立銀行条例の発布とともに第一国立銀行となった。小野組はこのほか他の事業に手を出した。明治3年築地2丁目に開設した小野組製糸場もその1つであった。 小野組は幕末から田所町(いまの堀留町2丁目)に事務所をかまえていた。島田組は、小野・三井に比して振るわなかったが、為替会社の経営にも関係し、元年5月には通商司為替会社ならびに御貸付所の総頭取を仰付けられた。島田組は、尾張町(いまの銀座5丁目)の恵比寿屋とは別に兜町鎧橋際に事務所を置いていた。
 これら三井・小野・島田組らは、官金出納、租税金の為替送組の事務を行い、巨額の政府預金を持っていたので、これを自家の事業へ投じたことも少なくなかった。 官金は無利子、無期限で運用されされていたが、政府は方針を一変し、7年2月に為替御用掛をして毎年取扱金額の概算3分の1に相当する担保を供託させることとし、同年10月には供託金額を預り金と同額に引き上げ、追加担保の提供期限を同年12月15日限りとした。 このような政府の強硬策によって、まず、広く他事業に手を出していた小野組が、明治7年11月ついに閉店し、島田組も翌8年2月倒産し三井組のみが残った。
 これら大資本の銀行類似会社は、なんら国立銀行とかわるところもなく、一般に与える影響も大きかったので、明治9年の国立銀行条例改正の際「銀行モ亦会社ノ一種ナルニ拘ラズ既ニ会社ヲ公許シテ、独リ銀行ノ名称ヲ許ササルノ理ナキヲ以テ、 自今寧ロ其称号ヲ許可スベシ、殊ニ三井組ノ如キハ公衆ノ信用既厚ク、其資力ノ確実ナルコト亦豪モ疑ヲ容ルベキモノナキ故、其請願ヲ許可スベシ」(「明治財政史」第12巻)として、私立銀行の営業が許可されりこととなった。 (『中央区史』中巻 から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<東京府の国立銀行・私立銀行・銀行類似会社=東京府の統計> 東京府の銀行類似会社がどうであったのか、明治21年出版の『千葉県・東京府の統計』から引用してみよう。この頃になると銀行類似会社の多くは、私立銀行に転換したり、解散したりと、数は少なくなっている。
東京府における国立銀行・私立銀行・銀行類似会社
名  称 本店所在地 創立年月・明治
第一国立銀行 日本橋区兜町1番地 6年 8月
第三国立銀行 日本橋区小舟町3丁目10番地 9年12月
第五国立銀行 日本橋区蛎殻町1丁目1番地 9年10月
第十五国立銀行 京橋区木挽町7丁目6番地 10年 5月
第二十国立銀行 日本橋区伊勢町2番地 10年 8月
第二十七国立銀行 日本橋区本材木町1丁目7番地 10年12月
第三十国立銀行 京橋区越前掘2丁目2番地 10年12月
第三十三国立銀行 日本橋区新右エ門町15番地 11年 2月
第四十五国立銀行 日本橋区本舟町19番地 11年10月
第六十国立銀行 日本橋区小舟町2丁目1番地 11年 9月
第九十五国立銀行 日本橋区本町3丁目10番地 11年 9月
第百国立銀行 日本橋区萬町1番地 11年 8月
第百十二国立銀行 日本橋区坂本町6番地 11年10月
第百十九国立銀行 神田区淡路町2丁目11番地 12年 1月
第百三十二国立銀行 日本橋区兜町3番地 12年 5月
三井銀行 日本橋区駿河町5番地 9年 7月
丸家銀行 日本橋区檜物町10番地 12年10月
安田銀行 日本橋区小舟町3丁目10番地 13年 1月
明辰銀行 京橋区大鋸町13番地 13年 8月
菱川銀行 浅草区諏訪町3番地 13年 3月
川崎銀行 日本橋区檜物町14番地 13年 3月
東北銀行 神田区末廣町10番地 15年 3月
日東銀行 下谷区御徒町3丁目13番地 15年 4月
壬午銀行 日本橋区兜町2番地 15年 3月
平松銀行 日本橋区兜町3番地 15年 3月
中井銀行 日本橋区金吹町1番地 16年 6月
田中銀行 日本橋区坂本町7番地 17年10月
東京貯蔵銀行 日本橋区萬町11番地 13年 4月
東京貯銭銀行 牛込区通寺町1番地 13年12月
東海貯金銀行 日本橋区檜物町15番地 14年 3月
廣部銀行 日本橋区本町4丁目10番地 20年 5月
東京貯金銀行 本郷区真砂町7番地 15年 1月
共伸社 日本橋区湊町1丁目12番地 14年 3月
集成社 日本橋区新右エ門町17番地 18年 3月
(復刻『千葉県・東京府の統計』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『東京百年史』             東京百年史編集委員会 東京都          1982. 3.31
『中央区史』中巻                 編集・発行 東京都中央区       1958.12.25
復刻『千葉県・東京府の統計』明治21.11.20出版   藤井隆至編 東洋書林         1997.11.30
( 2006年12月25日 TANAKA1942b )
▲top 

富山・石川・福井県の銀行類似会社
同じ北陸でも業績に違い
 今週は北陸3県=富山・石川・福井県の銀行類似会社を扱う。引用するのは、北陸銀行『創業百年史』と『福井銀行80年史』。 北陸銀行の略歴は、1877年(明治10)8月に金沢第十二国立銀行が開業し、1879年(明治12)2月に富山第百二十三国立銀行開業。この2行が、1884年(明治17)1月に合併し、富山第十二国立銀行となる。 1897年(明治30)7月に株式会社十二銀行と改称し、1943年(昭和18)7月に、十二・高岡・中越・富山の4行が合併し、株式会社北陸銀行となった。 福井銀行は、1899年(明治32)12月に設立され、1996年(平成8)8月に、福井県第一信用組合の事業を譲受けている。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<北陸地方の銀行類似会社=北陸銀行> 為替会社が解散した明治7〜8年ごろから、全国各地で銀行制度に対する認識が深まり、銀行メイリオ;設立を大蔵省に願い出るものが増えた。 当時政府はこれに干渉しない方針をとったものの、国立銀行条例の規制範囲外にあるとそて「銀行」の名称を用いることを許さなかったため、各社は独自の名称を用いた。 これらは一般に銀行類似会社と呼ばれた。その中には、弱小の国立銀行より経営内容のよいものがあった。銀行類似会社の特徴としては、次のような点が挙げられる。
 @ 設立者は地方の有力商人、中小地主、士族などの各層に分かれるが、商人、地主が圧倒的に多い。
 A 設立時期は、明治以前からのものもあるが、明治12年以降に増加し、19年ごろまでがピークであった。特に10年以前に設立されたのもは、後年、国利乙銀行、私立銀行をつくった江戸時代の豪商が多かったため、比較的堅実で地元の殖産興業に尽くした。
 B 地方別では、開港場を除くと、米穀、養蚕、茶などの主要農産物地域に多く、しかも富民の多い地方に多く設立された。
 C 銀行類似会社の業務は、本来の銀行業務のほかに、物品売買、生産事業、社会事業など、各種の事業を兼営していたものが多かった。
富山県の銀行類似会社と私立銀行 富山県では、明治13年6月末で私立銀行は1行も存在しておらず、銀行類似会社が9社(ただし『富山県統計書』にて名称が判明しているもの)あるのみであった。 この9社は、いずれも呉西地域にあり、現在判明しているもので最も古いものは氷見町で誕生した広成社(明治6年)である。ただ、明治10年以前には、広成社のような会社組織をとらない金貸業が県内各地にかなりあったものと推測され、その他に、庶民金融機関として「質屋」「頼母子講」などが利用され、問屋の前貸信用も盛んに行われていたものと思われる。、
 明治18年7月に至って、同県で最初の私立銀行として富山銀行が清酒醸造業、呉服業などの地元商人が中心となって、富山に設立された。 同じころ、県為替方の取り扱いを命ぜられた「安田銀行」が富山支店を開設したが、17年4月限りで閉鎖された。そのほか、17年6月に資本金3万円で「富山真成銀行」が設立されたが、21年ごろに廃業した。
 明治18年の不況期に、高岡の銀行類似会社修身社が高岡銀行と改称しているが、その役員構成からみて、高岡の中堅商人たちによって運営されたものと思われる。 同行は、明治22年、」全国でもまれな保証有限責任形式に組織替えし、また、役員も高岡の財界有力者が中心となり、新しく高岡銀行として発足した。 この22年には、下新川郡で銀行類似会社の保久社が泊銀行と改称、呉東地区最初の私立銀行が誕生した。同行は当地方の地主および倉庫業者を中心とする全くの土着銀行であった。
 明治24年には、地元の生糸業者、清酒業者が中心になって八尾銀行が設立された。当時、生糸は貴重なる輸出品として脚光を浴びてきた折りだけに、産業と銀行設立が結び付いた例として興味深い。
 明治26年、銀行条例の施行に伴って県内各地で大きな金融的役割を果たしていた銀行類似会社が私立銀行へ展観し、私立銀行数は合計10行となった。
 なお、明治25年10月18日、県下で初めての貯蓄銀行として富山貯蓄銀行が誕生している(第2部第5章参照)。
石川県の銀行類似会社と私立銀行 石川県では、明治15年、江沼郡大聖寺町で設立された大聖寺銀行、江沼銀行が私立銀行の最初である。 この大聖町は、早くから金融組織が発達していたようで、明治初年から公金を取り暑気っていた融通会社および数社の銀行類似会社があり、10年代には大聖寺第八十四国立銀行が誕生している。しかし、同地方においては、江戸時代以来多大の財を蓄積してきた海運業者がしだいに衰微し、加えて産業基盤の弱さから、金融機関はいずれも育たなかった。
 他県に比して、銀行類似会社の数が以上に多いのも特徴の一つである。明治10年以前に生まれたものも相当あるが、特に13年から15年にかけて設立された会社が多く、しかもその大部分は士族授産を目的に金沢で開業している。
 明治16年、金沢為替会社は増資を行い、北陸銀行と改称し、私立銀行として再出発するが、19年には破産に追い込まれ、以後、金沢の金融界は暗黒状態を呈するのである。 同年にはまた、金沢銀行(金沢・資本金15万円)、17年には北国銀行(現在の北国銀行とは無関係)と錦城銀行の2行が誕生するがいずれも19年に廃業してしまった。
 明治20年を過ぎるころから、一般景気の回復に伴って民間資金の流動も盛んとなり石川県各地で地元銀行の必要性が叫ばれてくる。 24年には、漸次、資産を蓄積してきた海運業者、地主、地場商人たちが中心となって、米谷銀行(小松)、七尾銀行、平野銀行(金沢市)が相次いで誕生し、次いで25年には、金沢市財界の要望を担って加州銀行が設立された。 こうして同県の金融界は永い暗黒時代からようやく抜け出すことができたのである。
 その後、明治26年には、銀行類似会社からの転換が増え、私立銀行数は18行となった。なお、同年6月、石川県最初の貯蓄銀行として金沢貯蓄銀行が設立されている(第2部第5章参照)。
福井県の銀行類似会社と私立銀行 福井県下では、明治13年、坂井郡丸岡町で丸岡銀行が誕生した。同行は北陸3県中で最も古い私立銀行であり、しかも私立銀行としては珍しく「士族主導型の銀行」であったが、デフレの波を受けて19年ごろには、身代限りとなった。 13年6月末で、県下の銀行類似会社は11社あり、大きな特徴として富山・石川両県に比べて明治10年以前に誕生したものが多い。
 明治16年には、南条郡大門河原に本多銀行が、引き続いて大野郡大野町に南越銀行がそれぞれ設立されたが、本多銀行は24年に、南越銀行は21年に廃業した。 県の統計書によると、本多銀行は、24年の廃業時まで預金、貸出金業務のみを取り扱い、かなりの業績を上げていた。
 このように、福井県の場合、嶺北地方にあっては、丸岡町で士族中心の金融機関がかなり早くから誕生したものの、産業基盤の未熟から、既存の国立銀行に対抗できる金融機関とそて育つ余地がなかった。 他方、嶺南地方にあっては、その中心地であった敦賀に、明治初年から敦賀為替会社や三井組などの支店があり、10年代に入ると、小浜第二十五国立銀行、大津六十四国立銀行の各支店が設置されるなど、金融機能は早くから発達していた。 しかし、敦賀為替会社の解散後、25年に大和田銀行が設立されるまで、地元銀行の誕生がみられなかった。
業態面からみた特色 銀行類似会社、私立銀行に関する統計的な資料は、国立銀行の場合と異なり、統一的なものとして出てくるのは、明治21年以降であり、かつ、個別銀行の考査状も全く手に入らないため、具体的な記述は困難である。 なお、明治20年以前については県の統計書を参考にした。
社数・行数 明治16年末では、北陸地方の全国シェアは銀行類似会社が17.8%、私立銀行が3.9%を占め、銀行類似会社の数が非常に多く、北陸3県では、石川県が銀行類似会社、私立銀行とも多いのが特徴である。
 県別にその推移を見ると、富山県では私立銀行に大きな変動がなく、26年末では10行となったが、設立者の多くは銀行類似会社と同様、地元商人、地主であった。
 銀行類似会社の数は、県統計書によれば16年に37社とピークを迎え、21年に16社、25年には10社となり、中には肥料業、運送業を兼ねていたものがあった。
 石川県では、私立銀行が明治17年に6行とピークを迎えるが、19年には2行に激減し、24年から漸次増加に転じ、26年末では18行となった。 同県の場合、私立銀行の設立主体は10年代に設立されたものについては不明であるが、20年代以降のものは海運業者から転じた地主か、地場商人たちで、他に両替商から転じたものもある。 銀行類似会社の数は16年の57社がピークであり、その多くは、金沢で発生した士族授産を目的とする金貸会社であった。したがって、21年には19社に激減している。
 福井県では、銀行類似会社に大きな数字的変動はないが、私立銀行の動きが激しく、23年に私立銀行は1行も存在せていなかった。その結果、26年末では銀行類似会社からの転換も少なく、私立銀行は4行を数えるのみであった。
資本金 明治16年末で、北陸地方の全国シェアは、銀行類似会社が14.4%、私立銀行が4%となり、私立銀行は行数とほぼ同じシェアであった。
 銀行類似会社の1行当たり資本金は、明治16年末で全国平均が2万1,000円に対して、北陸は1万6,000円とやや下回っていた。13年末現在で資本金10万円以上の銀行類似会社は、石川県では要用会社、合本会社であったが、富山・福井両県には1社もなく、さらに、両県とも資本金5万円に達したものもなかった。
 私立銀行の1行当たり資本金をみると、全国平均が9万9,000円に対して、北陸地方は10万4,000円と全国平均を上回っている。 これは、北陸銀行(当行とは無関係)の資本金が35万円と非常に大きかったからであり、同社解散後の20年には5万1,000円と、全国平均8万5,000円を大きく下回った。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社の横顔> ここでは、北陸地方で設立したいくつかの銀行類似会社について、その沿革を略述しよう。
広成社=富山県 明治6年、射水郡氷見町加納村諏訪野において金貸業広成社が誕生した。その発起人は、加納村の7人衆と呼ばれた地主たちであった。
 明治10年に、機構を会社組織に改め、社名を広成社とし、社長に山本秋が就任した。明治12〜13年ごろは地主の黄金時代で広成社の役員たちは庄川に屋台舟を浮かべて、粋な三味の音を川面に響かせたと伝えられている。 しかし、明治12年に発生したコレラの大流行、火災の続発に、デフレ不況が加わり、氷見町の経済界は暗闇状態に陥った。
 こうして、広成社は、多額の不良貸付と抵当物件の焼失とによって、明治17年ごろには、破産に追い込まれることになった(『加納史話』)。
公益社=富山県 明治13年8月7日、資本金1万5,000円で砺波郡福光村に設立された。発起人の石崎和善、得能小四郎、維持崎彦三郎、松村与三郎、谷村友吉などは砺波地方の有力地主、実業家であった。 創立の趣意は不明であるが、『福光町史』には、「石崎和善、谷村友吉等によって計画された高窪越新道開さく事業資金を集めるために始まった」と記されている。
 同社の業績はほぼ順調に推移したが、明治24年6月、石崎和善の経営する維持崎回漕店所有の石崎丸が沈没したことから、石崎家は倒産し、共益社も解散となった。
滋芳社=富山県 明治13年2月、資本金3万円で砺波郡木新村に設立された。代表者は武部尚志であった。同社の前身である「砺波仕法銀」の取扱者は鷹栖屋甚兵衛、小幡屋小左衛門の両名であったが、のちに、武部尚志を社長にして、西島理吉。桜井謙郎、木沢成健ら地主が業務を担当し、株式会社とした。 利益金の多くは、時代を反映してか金沢病院杉木分院新築工事、中田川燈明台建造工事など公共事業に寄付された。しかし、もともと藩から受け継いだ官営的な性格が強かったうえ、経営面での地主たちの未熟さが災いして、19年ごろ取付が起き破産した。
 そのほかに、富山県内各地でも数多くの銀行類似会社が誕生したが、その多くはやがて経営悪化によって解散し、あるいは私立銀行へ転換した。 また、高岡で設立され共惠社(代表者藤平喜助)のように、私立銀行に転換することなく、一般金融会社として存続したものもあった。
 富山県では銀行類似会社から私立銀行へ転換したものに、婦負(ねい)銀行、泊銀行、滑川(なめりかわ)銀行がある。また、銀行類似会社の形で存続したものには、博有株式会社と広通株式会社があった。 その中で特色ある銀行としては、城端町で誕生した砺波銀行が挙げられる。同行は江戸時代以来城端町の絹織物に対する為替を取り扱っていた金沢の平野小兵衛(平野銀行の行主)の助言によって設立されたもので、婦負銀行とともに、産業と結びついて誕生した銀行として特異な存在であった。
祠堂金協成舎=石川県 祠堂金協成舎の濫觴(らんしょう)は、寛永年間(1620)に遡ると伝えられている。同舎の主たる営業目的は預入、貸付で金融の便益を図ることにあり、その資金は、加越能3州の人民、各主従が祖先の冥福を祈り、子孫繁栄を願って社寺へ寄付する祈祷料、寺院修繕のため寄進された金銭から成っていた。
 同舎は永らく藩の所管下にあり、廃藩置県後も引き続き県の管理下にあったが、やがて所管から放たれ所在を転々とした。明治8年3月、金沢の西町1番町22番地に落ち着き、組織を変更して新株式を募集し、「祠堂金協成舎」として新発足したが、その後16年ごろの廃業まで増資を行い、小松、七尾、高岡、岩瀬、水橋、魚津に臨時派出所を設けるなど、かなり幅広い営業活動を行った。 『稿本金沢市史─寺社編』には、「廃藩の後、祠堂金協成舎と称する金融会社を起こすものあり、寺院の財貨を預かりて金銭貸借を業となせしが、明治15、16年ごろ財界の恐慌に会って倒産し、これがため各寺院伝来の寺産を失うのやむなきに至れり」と記されている。
要用会社=石川県 元明のころ(1780年代)、金沢の中小商工業者が資金を奉行所に預けていたが、奉行所自身、その資金を低利で一般商工業者へ貸し付けていた。天保8年(1837)、これが要用方と改められ、藩の保護を受けて業績も順調に推移し、祠堂方と対峙していた。 明治2年に至り、新株式を武州して「要用会社」と改称し、その後、場所を転々としていたが、8年に金沢の十間町8番地(現在の株式会社中島商店)に移転した。
 明治16年3月末で、資本金は10万円、株主数154名、派出店は高岡の横田町25番地にあった。業務は預入、貸付を行い、特に不動産担保貸出を専業としていたこともあって16年、17年ごろから経営不振に陥り、19年に廃業となった。
 このほか石川県の銀行類似会社には第二拡産社(明治26年、田鶴浜銀行と改称)のように、田鶴浜村の建具製造業者の希望によってつくられた、いわゆる地場産業と強く結びついたものも0あった。
洪盛社=福井県 明治14年7月5日、資本金1万5,000円で坂井郡丸岡霞町に設立された。設立者は下里宣ほか5名で、士族救済の面が濃い銀行類似会社であった。 規模こそ小さかったものの、織物業をバックに地道な経営を行い、大正6年3月、洪盛銀行と改称したが、昭和7年1月、福井銀行へ合併された。同社は「士族主導型の銀行」として息永く存続した珍しい事例の1つである。
北陸地方における銀行類似会社
富山県 明治13年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備    考
潤 益 社 不 詳 射水郡下村 10 不 詳 不 詳
豊 信 社 明治11. 6 射水郡高岡片原町 不 詳 不 詳
滋 芳 社 13. 2 蛎波郡杉木新村 30 武部尚志 明19 破産
広 成 社 6. ─ 射水郡加納村 10 山元 秋 明17 破産
共 益 社 13. 7 蛎波郡福光村 15 石崎和善 明24 破産
別仕法社 13. 8 射水郡下関村 10 竹脇篤敬 不 詳
東 郷 社 不 詳 射水郡枇杷首村 不 詳 明19.10 廃業
修 育 社 不 詳 蛎波郡津沢村 10 不 詳 明19. 4 廃業
博 有 社 13.12 蛎波郡福野村 10 (南 惣作) 明29 福野銀行と改称
富山県 明治25年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備    考
博 有 社 明治13.12 蛎波郡福野村 10 (南 惣作) 明29 福野銀行と改称
共 通 社 14. 1 蛎波郡宮村 (西尾義高) 明37 共通銀行と改称
久 栄 社 14. 5 下新川郡魚津町 20 不 詳 不 詳
分 通 社 14. 6 蛎波郡鷹栖村 1.5 不 詳 不 詳
広 通 社 14. 9 蛎波郡北高木村 28 (伊藤仁兵衛) 明33 広通銀行と改称
漸 新 社 15. 3 上新川郡高月村 20 (竹中禎三郎) 明26.10 滑川銀行と改称
楽 只 社 15. 4 蛎波郡下梨村 不 詳 不 詳
和 成 社 15. 7 蛎波郡和泉村 不 詳 不 詳
栄 成 社 15. 2 婦負郡八尾東町 20 (江本庄次郎) 明26 婦負銀行と改称
共 恵 社 15. 1 高岡市油車町 20 藤平喜助 のち藤平合資会社となる
(注)カッコ内の氏名は推測による
石川県 明治13年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備    考
祠堂金協成舎 寛永7. 1 金沢区西町 30 不 詳 明15〜16年頃破産
要用会社 天明元. 2 金沢区十間町 100 不 詳 明15〜16年頃破産
商用社(組) 明治10.11 金沢区金石蓮池町 山守次郎 不 詳
勧 光 社 11.11 金沢区中町 30 真田信静 不 詳
真 成 社 12. 1 金沢区南町 50 不 詳 明15〜16年頃破産
弘 誠 社 12. 7 金沢区下堤町 10 吉田弥寿万 不 詳
威 用 社 12.11 金沢区南町 関 孝敬 不 詳
協 郁 社 12.10 金沢区下堤町 板坂 久 不 詳
苟 完 社 12.12 金沢区殿町 30 横山隆平 不 詳
北 雄 社 12.11 金沢区尾張町 50 広田伍一 破産
誠 行 社 12.12 金沢区水溜町 10 清水兼行 不 詳
融 信 社 12.12 金沢区河原町 原 規矩郎 不 詳
菁 圃 社 12.12 金沢区片町 6.4 栗山孝敬 不 詳
義 済 社 12.12 金沢区枝町 水野厚久 不 詳
済 利 社 13. 1 金沢区高岡町 15 野口秀癸 不 詳
貫 誠 社 13. 3 金沢区味噌藏町 10 高橋以貫 不 詳
厚 生 社 13. ─ 金沢区梅本町 7.5 安井顕比 不 詳
本 立 社 13. 2 金沢区下本多町 30 本多衛政養 明20年頃破産
交 換 社 13. 5 金沢区博労町 20 不 詳 不 詳
共 真 社 13. 2 金沢区荒町 15 大矢八郎 不 詳
栄 元 社 13. 7 金沢区下堤町 谷 勇吉郎 不 詳
一 真 社 13. 9 金沢区横安江町 20 吉田弥寿万 不 詳
確 成 社 13.10 金沢区蛤坂新道 平井 清 不 詳
金 肆 社 13. 5 金沢区彦三町 10 南 義三郎 不 詳
金沢融通会社 13.12 金沢区石浦町 阪倉八百馬 不 詳
石川義倉社 13. 3 石川郡松任町 68.6 不 詳 不 詳
信用社(組) 13. 4 石川郡金石町 3.6 高松佐太郎 不 詳
融通会社 3. 1 江沼郡大聖寺本町 27.5 堀江勘七郎 不 詳
用度会社 11. 9 江沼郡大聖寺寺町 20 前田 幹 不 詳
成立会社 12. 5 江沼郡大聖寺京町 10 不 詳 不 詳
任申会社 12. 9 江沼郡大聖寺寺町 西出義門 不 詳
積立会社 13. 1 江沼郡大聖寺荒町 3.5 三宮喜三 他6 不 詳
通 明 社 9. 3 鹿島郡七尾町 2.5 松田久平 明27.3 通明銀行と改称
合本会社 不 詳 金沢区尾張町 150 不 詳 不 詳
実 有 社 13. ─ 金沢区栄町 北村忠和 不 詳
新 昌 社 13. ─ 金沢区上大樋町 0.5 笠瀬清吉 不 詳
盲人協募社 13. ─ 金沢区塩屋町 1.5 末吉都一 不 詳
金通会社 13. ─ 金沢区下新町 鶴谷市郎右衛門 不 詳
石川県 明治25年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備    考
済 海 社 明治14. 4 能美郡小松町 50 新沢文四郎 明33.4 解散
共 保 社 14. 6 石川郡一木村 12.1 石田庄三郎 大7.1 共保銀行と改称
誠 真 社 16. 2 石川郡鶴来町 2.4 掘喜右衛門 明31.2 解散
熊 木 社 16. 2 鹿島郡中島村 15 室木弥八郎 明26.10 熊木銀行と改称
第一拡産社 14.12 鹿島郡七尾町 15.6 永江久常 明26 鹿島銀行と改称
第二拡産社 15. 9 鹿島郡田鶴浜村 21.5 永江久常 明26 田鶴銀行と改称
厚 生 社 16. 1 鹿島郡御祖村 三宅伊右衛門 明27.4 厚生銀行と改称
通 明 舎 9. 3 鹿島郡七尾町 松田久平 明27.1 通明銀行と改称
要 用 社 22. 7 鹿島郡越路村 10 (堀岡万吉) 明26.11 要用銀行と改称
起 業 社 22. 7 鹿島郡徳田村 10 (林貞次郎) 明26 徳田銀行と改称
斉 立 社 15.10 鹿島郡越路村 0.9 上島庄太郎 明26 越路銀行と改称
(注)カッコ内の氏名は推測による
福井県 明治13年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備考(社員数)
徳 潤 社 明治 5. 2 足羽郡宝永中町 2  大橋半蔵 (10)
明和講社 6. 2 足羽郡豊島上町 坂野常善 ( 5)
通商会社 8. 3 足羽郡老松下町 2.7 前田 厚 ( 3)
豊 講 社 9. 3 足羽郡佐佳枝上町 1.5 瀬尾喜代太 ( 1)
協 同 社 13. 3 足羽郡佐佳枝上町 1.5 岡田 信 ( 7)
竜 成 社 13. 3 足羽郡照手上町 30 毛受 洪 (69)
精 信 社 13. 7 足羽郡旭町 岩佐甚蔵 (91)
良 休 社 6.12 大野郡清水町 11.8 中村重助 (85)
金壁会社 7. 4 大野郡袋田町 6.3 近藤欣平 ( 2)
協 力 社 13. 4 大野郡清水町 33 大熊 潜 (59)
盈進会社 7.11 今立郡鯖江上深江町 1.3 河口 孚 ( 2)
福井県 明治25年
社 名 設立年月 所 在 地 資本金(千円) 代 表 者 備  考
洪 盛 社 明治14. 7 坂井郡丸岡町 15 松浦長順 大6.3 洪盛銀行と改称
良 休 社 6.12 大野郡清水町 21.7 中村重助 不 詳
本 立 社 16. 1 大野郡富田村 1.6 不 詳 不 詳
鵜 羽 組 19. 8 遠敷郡小浜町住吉 30 不 詳 明26.12 小浜銀行と改称
止 信 社 16. 7 遠敷郡遠敷村遠敷 16 不 詳 不 詳
興 府 社 23. 4 遠敷郡今富村府中 不 詳 不 詳
国 全 社 17. 1 遠敷郡国富村高塚 2.3 不 詳 不 詳
開 富 社 16. 9 遠敷郡国富村羽賀村 6.6 不 詳 不 詳
悠 久 社 23. 3 遠敷郡宮川村新保 2.1 不 詳 明32.3 悠久銀行と改称
開 通 社 24. 7 遠敷郡国富村奈胡 不 詳 不 詳
(北陸銀行『創業百年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<福井県下の経済情勢と銀行の誕生=福井銀行> 明治のはじめ、現在の福井県(越前・若狭)には、福井、丸岡、大野、勝山、鯖江、敦賀、小浜の7版と幕府の直轄地があった。 明治4年7月の廃藩置県に伴い、本保県(明治3年12月、旧幕府直轄地が本保県となる)のほか、福井、丸岡、大野、勝山、鯖江、小浜の各県が新設され、こてまでの藩はすべて配しされた。 この時福井県がはじめて誕生したのであるが、旧福井藩がそのまま福井県となったため、現在の福井県よりはその管轄地は極めて狭いものであった。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
福井県各地に銀行設立 明治13年10月坂井郡丸岡町に丸岡銀行が資本金3万円で誕生した。これは北陸における私立銀行の最初であった。ついで銀行類似会社として、同じく丸岡町霞に14年7月7日資本金1万円で、洪盛社(大正6年3月洪盛銀行と改称)が設立された。 いずれも士族を主体とする銀行であった。丸岡銀行の方はデフレの余波を受けて、明治21年に身代限り(破産)となり消滅した。
 以下当行が設立されるまでの普通銀行の設立状況(貯蓄銀行、農工銀行を除く)を記すと表の通りであり、当行は明治時代に県下で最後に設立された銀行であった。
 本県の普通銀行が本格的に設立されたのは、明治25年の大和田銀行設立以降のことで、それまではまだ萌芽期で地場産業と強く結びつくまでには至っていなかった。
 一方、士族により設立された県下の国立銀行4行」(小浜第二十五、武生第五十七、福井第九十一、福井第九十二)は、明治16年5月の国立銀行条例の再改正により営業年限20年の規定に基づき、明治30年末までにすべて普通銀行に転身した。
福井県下の普通銀行設立状況   (明治時代)
銀 行 名 住   所 設立年月 資本金 備      考
丸 岡 銀 行 坂井郡丸岡町 13.10 30,000 明治21年に破産
洪  盛  社 坂井郡丸岡町霞 14. 7 10,000 大正6年3月に洪盛銀行と改称
本 多 銀 行 南条郡大門河原村 16. 1 100,000 明治24年に廃業
南 越 銀 行 大野郡大野町 16. 4 60,000 明治21年に廃業
鵜  羽  組 遠敷郡小浜町 19. 8 30,000 明治27年11月に鰹ャ浜銀行と改称
悠  久  社 遠敷郡宮川村 23. 3 2,100 明治32年3月に蒲I久銀行と改称
大 和 田 銀 行 敦賀郡敦賀町 25.10 100,000 大正7年6月に株式会社に組織変更
森 田 銀 行 坂井郡三国町 27. 3 100,000 明治36年11月に株式会社に組織変更
敦 賀 銀 行 敦賀郡敦賀町 27. 4 100,000  
勝 山 銀 行 大野郡勝山町 27. 8 50,000 大正13年11月鰹沁R野村銀行と改称
高 浜 銀 行 大飯郡高浜町 28. 8 20,000  
且瘠キ商業銀行 遠敷郡小浜町 28. 9 100,000  
大 七 銀 行 大野郡大野町 29. 1 50,000 明治32年12月に株式会社に組織変更
熊 川 銀 行 遠敷郡熊川町 29. 7 50,000  
大 手 銀 行 大野郡勝山町 29. 8 30,000 明治32年3月に株式会社に組織変更
渇z前商業銀行 今立郡鯖江町 29. 9 100,000  
三 方 銀 行 三方郡八村 29.12 80,000  
亀 城 銀 行 大野郡大野町 30. 4 80,000  
若 狭 銀 行 遠敷郡雲浜村 31.10 120,000  
且O国商業銀行 坂井郡三国町 32. 9 120,000  
福 井 銀 行 福井市尾上下町 32.12 300,000  
(注)1.資本金は設立当初の公称資本金 2.貯蓄銀行、農工銀行を除く  (『福井銀行80年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』        北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行         1978. 3.15
『福井銀行80年史』     福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行         1981. 3. 5
『福井銀行六十年史』             編纂・発行 福井銀行六十年史編纂委員 1965. 5.20
( 2007年1月1日 TANAKA1942b )
▲top

長野・香川・秋田県の銀行類似会社
養蚕・士族授産・海上輸送など
 今週は長野・香川・秋田3県の銀行類似会社を扱う。引用する文献の量が少ないので、まとめて3県を扱うことにした。 引用した各銀行の略歴は次の通り。
「十六銀行」=1877年(明治10)10月に岐阜県で第十六国立銀行として営業開始。1896年(明治29)12月に株式会社十六銀行として発足。
「大垣共立銀行」=1878年(明治11)12月に岐阜県大垣市で第百二十九国立銀行創立。1896年(明治29)3月に第百二十九国立銀行の業務を継承して株式会社大垣共立銀行設立。
「八十二銀行」=1877年(明治10)10月に長野県に第19国立銀行設立。1878年(明治11)10月に長野県に第63国立銀行設立。1931年(昭和6)8月に両銀行が合併し、両銀行の数字を合計し株式会社八十二銀行設立。
「百十四銀行」=1878年(明治11)11月に香川県に第百十四国立銀行設立。1898年(明治31)10月、普通銀行に転換、株式会社高松百十四銀行に改組。 1924年(大正13)3月、高松銀行と合併し、あらたに株式会社高松百十四銀行が設立される。1948年(昭和23)6月、商号を株式会社百十四銀行に改称。
「秋田銀行」=1879年(明治12)1月、秋田県で第四十八国立銀行開業。1896年(明治29)5月、旧秋田銀行開業。1941年(昭和16)10月、旧秋田銀行、第四十八銀行、湯沢銀行が合併し株式会社秋田銀行誕生。
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<長野県、銀行類似会社の多設=八十二銀行> 政府は、為替会社の創立によって会社制度の見本を実地に示すとともに、『会社弁』および『立会略則』などを刊行(明治4年)して共同出資による企業の普及を図った。
 当時は、会社というのは銀行のことと考えられた向きもあって、明治4〜5年ごろから銀行設立を出願するものが続出した。政府は、国立銀行以外は銀行の名称をつけるのを禁じたが、 「成法ニ抵触セス且敢テ公益ヲ害スルコトナシト認ムルモノハ概シテ人民相互ノ結約営業ニ委(まか)シテ問ハサル」(『明治財政史』第12巻)こととし、これを銀行類似会社として扱うこととした。 営業は貸付を主体とし、為替、両替、預り金なども扱っていたが、これらの金融業を営む会社は他にどのような業務を営むものであっても銀行類似会社と呼ばれていた。 したがって、業態は、同業組合的なもの、貯蓄組合的なもの、金貸会社的なものなど雑多であった。
 銀行類似会社の数は正確にはとらえられないが、年ごとに増加し、明治13年には全国で120社、18年には744社となった。 長野県内では、13年に6社だったが、18年には110社と全国一の多数となっている。山梨、新潟、石川、静岡などの諸県にも多く、いずれも養蚕、製糸、米、茶など商品性の高い農産物の主産地であった。
 長野県内の銀行類似会社は、全体の710%近くが小県郡内に集中していた。明治初期、同地方は県内でも製糸業(座繰=ざぐり)、養蚕業が盛んであり、また生糸商人も多く、いきおい資金需要が活発だったものとみられる。
 銀行類似会社のなかには、三井組のように数百万の巨資を擁して実体は大銀行に匹敵するものもあったが、県内の銀行類似会社はいずれも小資本であり、概して言えば、小範囲の村落を基盤にして地主、商人によって設立された小規模な農村金融機関であった。
 銀行類似会社は、明治17年ごろまで増え続けたが、政府の規制や経営悪化によりその後は漸滅した。なかには、後述のように普通銀行に転換したものも多い。
長野県内銀行類似会社数
年 末 会社数
明治13
18 110
23 90
28 24
33 18
43 10
大正 4
14
<長野県における私立銀行の設立=八十二銀行> 明治9年の「国立銀行条例」改正により、国立銀行以外にも銀行の名称を使えることになったため、かねて出願していた三井組が同年7月に三井銀行を開業し、私立銀行の第1号となった。 12年に国立銀行の新設が禁止されてからは、私立銀行設立は急増し、15年には176行となって国立銀行を超えた。
 長野県内においては、13年中、長野銀行(4月)、塩尻銀行(5月)、長野貯蔵銀行(11月)の3行が設立された。その後、年々増加して17年末の私立銀行は31行となり、静岡県の35行に次ぐ善行第2位の数となった。
 地域的分布では、銀行類似会社と同じく、小県、佐久を含む東信地方に圧倒的に多い。やはり蚕糸業の発達を背景としたもので、金融業が有利な投資であるという考えがあり、資力のある地主、商人が競って設立した結果とみられる。
 私立銀行の資本規模は、須坂銀行、佐久銀行などのように国立銀行に近いものがある一方、5万円未満の銀行類似会社程度の銀行が31行中13行もあった。
 当時は、私立銀行の設立を直接取り締まる条例がなく放任状態であったが、明治15年5月以降、私立銀行ならびに銀行類似会社の設立許可が大蔵省の権限となり、許可を厳重にしたことに加え、デフレ政策の影響もあって、県内の銀行設立熱は、16年をもってひとまず鎮静した。 (『八十二銀行50年史』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<香川県の銀行類似会社と私立銀行の出現=百十四銀行> 為替会社の設立により、民間での銀行制度に対する認識も次第に広まり、明治4年ごろから、銀行設立伊を大蔵省に出願する者が続出した。 政府はこれに対し、法規に反せず、また公益を害さないかぎり設立を認める方針を採った。しかし、これらの会社は国立銀行のように法律上の保護がない上、紙幣発行権もなく、「銀行」の名称を用いることも許されなかった。
 これらの会社は、為替、両替、預り金、貸付など銀行に類似する業務を営んでいたため「銀行類似会社」と呼ばれたが、その大部分はごく小規模で、実態も不明で不健全なものが多かった。 しかし、中には三井組や安田商店のように旧幕府時代から巨資を運用して、国立銀行と遜色のないものも現れてきた。そこで政府は、明治9年の国立銀行条例の改正を機に、こうした銀行類似会社にも「銀行」の名称を付けることを正式に認めることとした。
 この決定を受けて、明治9年7月に初の私立銀行として三井銀行が誕生したのをはじめとし、旧来の名称を廃して「銀行」を名乗る銀行類似会社や、新に銀行を設立する者が続出した。 特に明治12年以降は国立銀行の設立が許可されなくなったこともあって、民間資本が私立銀行の設立に向かい、その数が急増した。
信立社(明治8年設立) 信立社は、松平家旧家臣の松本貫四郎、福家清太郎らが中心となって士族の教化指導のために高松丸亀町に設立された。大阪府の中立社に模した商法貸借をはじめ、婚姻の紹介、斡旋に至るまで行ったと言われ、士族救済のため産業開発を図った。 基金4,300円、社員430人であった。この信立社設立発起人のほとんどが当行の前身である第百四十四国立銀行の発起設立に関与しており、当行の淵源(えんげん)は遠くこの信立社にあると考えられる。 なお、この信立社に対抗して明治10年12月、南新町に町家ばかりで純民社(発起人佐々木清三、鈴木伝五郎ら)が設立されたが、同社と三本松の興民社(明治11年設立、泉川建、筧康志主宰)は合同して、高松銀行の前身である讃岐糖業大会社を明治18年1月に設立してうる。 このことから、広い意味で当行の前身は信立社、純民社、興民社の3社であったとも言える。
蟻集舎(ぎしゅうしゃ)(明治9年設立) 儀集社は、丸亀において困窮士族の就職を諸問屋に斡旋するために設立された機関であったと見られる。
鋒蟻社(ほうぎしゃ)(明治13年設立) 旧高松藩士赤松渡、明石巌根、堀田幸持、下津永行(当行監査役および取締役を歴任した下津揆一の父)、大熊光施などが、旧藩主松平家から5,000円の協賛出資を得て創業したものでマッチ製造を行った。 鋒蟻社は、明治19年6月、下津永行に譲渡されて下津製燧(せいすい)所と名称を変更し、後に南海燐寸となり、本県の近代的工場会社の走りとなった。
高松就産会社(明治18年設立) 高松就産会社は、各地士族の困窮を見かねた愛媛県令関新平の発議により、政府から補助金の下付を受けて愛媛県下11藩の各地に設立された就産会社の1つである。 明治18年2月政府から金2万202円を無利子で、2年据置、4ヶ年賦償却の条件で下付を受け、松平家から3ヶ年賦々金1,500円の出資を受け、1株4円の株式組織であった。 傘、提灯、人形、マッチ、保田織、木綿、養蚕などに励んだが、明治23年失敗し解散した。
香川県内金融機関の状況 香川県は四国の一隅という地方的後進性をぬぐえず、商業資本の生成も未熟であたため、都会のように両替商が維新後に近代的金融経営を身に着けて銀行に発展したというような例はなかった。
 香川県では、維新前に質取営業者、貸金業者といった商業金融はある程度発達しており、生産金融についても、特産の砂糖、塩などに問屋金融や藩の保護政策による低利貸付があった。 しかし明治に入り、藩政時代の糖業に対する肥為替、荷為替などの諸貸付制度がなくなり、一時金融に類するものは途絶え、わずか松枝舎の付帯事業として砂糖、穀物、肥料、塩などに質取営業が存在するのみとなった。 この状況に対し、都崎秀太郎(高松銀行初代頭取)は明治9年松平旧藩主に生産金融の再開を請願し、明治11年には県令に建議し、13年には民産維持共立銀行結社の趣旨を発表して世論の喚起に努めた。 その内容は地方の小康状態に慣れ親しみ、次第に奢侈になるのを憂え、民産の維持を助け金融の便を起こすためという趣旨のものであった。 このように、銀行設立への機運と要望は常にあったものの、明治10年代には11年11月に開業した第百十四国立銀行のほか見るべき銀行はなかった。 (『百十四銀行百二十五年誌』から)
(^_^)                 (^_^)                  (^_^)
<銀行類似会社の設立=秋田銀行> 銀行類似会社は前述のように、明治12年末に国立銀行の新設が禁止されて以降、急速に増加していったが、14年の松方デフレ政策の開始から17年ごろまでの間に、最も多く設立されている。 秋田県においても13年に秋田改良社が、20年に五業会社がそれぞれ設立され、為替・両替・貸付・預り金などの業務を営んだ。
秋田改良社 県南穀倉地帯の中心に位置する平鹿郡角間川村は、雄物川の舟運で土崎港と結ぶ県南最大の良港であったため、農産物の一大集積地となっており、ここから土崎港に集積された農産物は、遠く北海道・東京・関西方面へ移出された。 他方、全国各地からは商品が移入されたので、角間川村はまた、県南商業の中心地でもあり、富商や大地主も多かったことから、県南の富を一手に収める観を呈していた。
 明治初期において、同地方にはこれと言った金融機関が存在しておらず、問屋間で物々交換に近い商取引が行われていたに過ぎなかった。 主要産物である米穀は「耕耘宜しきを得ず」、刈り取り後の乾燥も不良であったため、長期保存に適せず、秋田腐米(方言では柳指米)と言われ、他県米の半値で取引されることも稀ではなかった。 そのため、これが地方経済上の言い柔な問題とされ、地主や、米商はその改良について絶えず苦心していた。
 角間川村の大地主、最上広胖は、腐米の改良と良米の増産を志し、同志とはかって、明治13年3月、農村金融機関として秋田改良社を同村に設立した。資本金は5万円で地方産業の開発・腐米改良資金の融通、預金の受け入れなどを目的としていた。
 開業以来、秋田改良社の業績はしだいに伸長し、大蔵・農林両省からも、その業績を認められ、産業奨励金として低利で5万円の融資を受けたので、貸出も低利で潤沢に実施できた。こうして、土地開拓と腐米改良の実績が大いに上がり、秋田米は内務省上納米に指定されたほか、県外への移出も増加するなど、見るべき成果をおさめ、ついには今日の秋田米としての声価を得る基礎をつくった。 秋田改良社はその後、銀行条例の制定に伴い、明治27年4月、平鹿銀行と改称し、普通銀行へ転換した。(T注)平鹿銀行はその後1938年(昭和13)1月、秋田銀行と合併。
五業会社 平鹿郡横手町の前田助右衛門、富岡久助、斎藤三蔵の3人は、共同して耕地を購入し、それから得る利益の一部を積み立て、耕地の購入に充てようという目的をもって、明治4年5月、地主協調団体を結成した。 やがてこれが発展し、20年4月、前記3名に斎藤万蔵の参加を得て、「斎藤、前田、富岡合名五業会社」の設立をみた。
 同社の資本金は2万5,000円で、営業種目は@養蚕資金の貸付、A植桑の仕入れ、B製糸資金の貸付、C腐米の改良、D通常の貸付などであった。
 その後、銀行条例の制定により普通銀行に転換し、さらに41年11月、本郷吉右衛門の入社とともに、「斎藤、前田、本郷、富岡、斎藤合名五業銀行と改称し、大正11年には資本金を25万円に増額した。 設立以来、主として不動産金融の面で県南経済に寄与してきたが、昭和6年に東北地方を襲った金融恐慌の余波を受けて、経営困難に陥り、7年5月、解散するに至った。 (『秋田銀行百年史』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『十六銀行百年史』             編集・発行 十六銀行   1978. 3.30
『大垣共立銀行百年史』           編纂・発行 大垣共立銀行 1997. 2.
『八十二銀行50年史』           編纂・発行 八十二銀行  1983. 6.20
『百十四銀行百二十五年誌』         編纂・発行 百十四銀行  2005. 8.31
『秋田銀行百年史』      秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行   1979.12. 1
( 2007年1月8日 TANAKA1942b )
▲top

越後屋⇒三井組⇒三井銀行
呉服商⇒銀行類似会社⇒財閥銀行
 今週は銀行類似会社の中でも最も大きかった三井組を扱う。三井組の歴史は遠く江戸時代、延宝元年(1673)8月、三井高利が江戸本町(東京都中央区日本橋本町2丁目=日本銀行の新館辺り)に呉服店を開いたのが始まりだった。 その後、明治になって、銀行類似会社三井組として大きく発展し、明治9年(1876)に日本初の私立銀行として発足し、その後の日本金融業界の中心的存在となる。
 明治初期の金融機関である為替会社も国立銀行も私立銀行も国が定めた条例に従って設立されたものだった。 しかし銀行類似会社は国のルールから外れたものだった。政府の考えとは別に民間人が勝手に設立し、「別に悪い影響もないだろうから」と政府は干渉しなかった「金融機関」であった。 「明治政府は富国強兵政策を採った」と表現すると、明治政府が中央集権的に経済政策を進めていたように思う。しかし、政府の思惑とは別に、民間で金融システムを勝手につくっていった面も見逃せない。 その代表的なものが銀行類似会社だ。そしてその巨大な銀行類似会社として、三井組・小野組・島田組・安田商店がある。明治初期の金融制度を振り返る場合、これらの銀行類似会社を無視して正確に理解することは不可能だ。 それでも、経済学の教科書では扱われていない。銀行の○○年史で扱われている、ということは、銀行員の意識のなかには銀行類似会社のことが生きているのだろう。各県の銀行類似会社を見てきた、銀行類似会社シリーズ、終わりに近くなった今週は、これらの銀行類似会社を扱うことにした。 今週は、銀行類似会社のなかでも特に大きく、銀行制度確立に大きな影響を与えた「三井組」を扱う。
 呉服商越後屋⇒銀行類似会社三井組⇒日本最初の民間銀行三井銀行、この流れのポイント、ポイントを引用しながら、銀行類似会社三井組の歴史を見ていくことにしよう。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<三井両替店の創業> 明治9年(1876)7月1日、三井銀行はわが国最初の私立銀行として他にさきがけて開業したが、その背景には江戸時代につちかわれた三井両替店の信用と、幕末維新の激動期をよく乗り切り得た先見性があった。まず、第1点についてみよう。
 三井家が、江戸駿河町に三井両替店を創業したのは、天和3年(1683)であった。店は表口3間1尺6寸(約6メートル)、奥行8間(約14.5メートル)で、呉服店越後屋の西隣(現在の日本橋三越の一部)であった。 当時、大きな呉服屋には為替送金の便宜などから、両替業を兼営するものが少なくなかった。三井もその例外ではなかった。すなわち、三井高利(たかとし)は延宝元年(1673)、京都と江戸とに呉服店越後屋を開業し、江戸店では現金販売を行い、当時一般的商法であった掛売りに対して新機軸を開いたが、一方、早くから小規模ながら両替業にも進出していた。 天和3年5月、それまでの実績をふまえて、呉服店を本町から駿河町に移転し「現金安売掛値なし」の看板を掲げ、同時に独立の両替店を開いたのであった。
 越後屋が盛大になるにともない、上方への送金も多額にのぼり、そのために両替屋へ支払う手数料も増加した。さらに当時の貨幣制度のもとでは、金銀銭の三貨が日々の相場をもって流通しており、貨幣の取扱いも煩雑で両替屋の手をわずらわすことが多かった。 呉服店の駿河町移転を期として両替店を創立したのは、兼業体制を明確化することによって、この弱点を是正するためであった。 こうして三井両替店は、越後屋のための補助機関として発足したのであった。ついで貞享3年(1686)、京都両替店を開設した。高利が京都において全事業を統轄運営する必要からであった。 (『三井銀行100年のあゆみ』から)
<明治新政府と三井> 慶応4年(=明治元年・1868)1月3日、薩摩軍の発砲に始まった鳥羽・伏見の戦いは、6日、徳川方の敗走によって終わった。 同日夜、徳川慶喜は部下の将兵を置き去りにして大坂城を脱出、軍艦で江戸に向かう。
 翌1月7日、京都の新政府は慶喜追討の勅令を発表した。その夜政府は、岩倉具視を議長に太政官会議を開く。議題が財政問題に及んだ時、出席者の1人は、賊軍追討の軍費を含め、政府資金として金20万両くらいが必要だと発言した。 米価をもって大まかに計算すれば今日の20億円にあたる。いまだに財政収入が制度化されていない新政府にとって、これだけの資金調達は難題というほかない。 ところが、「いや20万両では足りない」という声がした。金穀出納所取締の三岡八郎(由利公正)である。三岡は、「政府としては3百万両は準備する必要がある」と言って一同を驚かせた。 三岡は、これだけの金額を多数の有力商人達から借り上げる方策をすでに練っていたのである。また同時に、政府紙幣を発行し、3百万両吸い上げに伴う民間資金の不足を補おうとする計画も抱いていた。 当時政府内で経済・財政問題を論じうるのは三岡ただ1人である。三岡は金穀出納所御用を勤める三井、小野、島田の三家と協議しつつ立案を進める。
 一方、慶喜は1月11日夜品川沖に到着、翌12日江戸城に入った。江戸の将士は、慶喜に随行して帰城した老中らから鳥羽・伏見戦の顛末を聞いて驚き、薩長方への憤激に燃え上がった。 幕府外国方翻訳局に勤務していた福沢諭吉は、この時の情景を後年回想して「武家はもちろん、長袖の学者も医者も坊主も皆、政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない」と語っている。
 榎本武揚、大島圭介はじめ諸士盛んに反撃実行を主張し、陸海での作戦を論じ合う。最も強硬に薩長攻撃策を論じたのが、勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順であった。 しかし、水戸家出身の慶喜にとっては、何よりも薩長方から「朝敵」の汚名を受けたことが衝撃であった。慶喜は朝廷に対し「恭順謹慎」の姿勢をとる。 激論する小栗は慶喜の不興を買い、1月15日、勘定奉行兼陸軍奉行並の役職を罷免された。
 退官した小栗忠順の邸を、ある日、眼光するどい町人が訪れる。三井御用所の三野村利左衛門である。小栗と三野村は幕府最後の時期の経済・金融行政に協力し合った間柄であった。 三野村はこの日、小栗に米国への亡命をしきりに勧めたという。しかし、これまで見てきたような進歩的官僚であった反面、また一徹な旗本でもあった小栗は、全く三野村の勧めに応じなかった。 ただ自分の万一のことがあった場合のために、妻子の後事だけを三野村に託したと伝えられる。小栗は所領の上州(群馬県)の山村に退隠する。 多くの洋書も新居に運ばれた。 (『物語三井両替店』から)
<東征軍も軍資金に困窮=三井らに依存する政府> 京都の新政府は組織・制度の整備におおわらわである。1月17日、政府は、内国、外国など現在の内閣各省に相当する行政7科(課)を設置した。 このうち財政を司ることとされたのは会計事務課である。金穀出納所は会計事務課の管理下に置かれることになった。そして三井、小野、島田の3家はこの日「金穀出納所為替御用達」を命じられ、 同時に「いつ御用を仰せられか分からないので、分相応に手元資金を用意しておくように」との指示を受けている。
 翌々日の1月19日に為替御用達三家は、合同して金1万両を金穀出納所に献上した。三井では、万一に備えて新町の京両替店(現在、三井銀行新町クラブの所在地)地下穴蔵に保管していた秘密積立金を取り崩して献金にあてている。
 慶喜追討の東征は、東海、東山、北陸の3軍によって行われることになる。1月18日、東山道軍から三井に対して、経理担当のため手代を派遣するように、との命令があった。 東山道軍の鎮撫総督は岩倉具視の子具定である。翌日三井の手代が岩倉邸に出向くと、岩倉は部下を通じて「約五百名で出発する東山道軍の道中費用を支障のないよう繰り回してほしい。 人数は次第に増加の見込みで、その人命は金穀の力に依存する」と述べ、「容易ならざる御大役に候ゆえ別格の尽力頼み候」と告げたという。 東征軍といっても資金的には徒手空拳に等しく、岩倉らも三井の手代を頼りにせざるを得ない状況であった。 東山道軍金穀方任命について三井では「何とも心痛浅からず」と記録している。
 東山道軍は1月21日京都を出発したが、はたして23日には大津で早くも軍資金を使い尽くしてしまう。三井組から参加した堀江清六ほか手代1名は、この時の金3千両取り寄せを手初めに、道々資金調達に追われることになった。
 会計官事務掛であった三岡八郎は、21日の太政官会議に「会計基立(もとだて)金」3百万両の徴募案を建議した。京阪地区などの商家から年利12%でこの巨額の資金を借入れ調達しようというものである。 従来幕府や諸藩からの御用金は、建前はともかく実際には返済を期待しえない事例が多かったが、会計基立金は政府が計画している租税(地租)収入を担保として返済を確約するものであった。 三井案には反対論も出たというが、翌々23日にようやく可決された。三岡は前もって三井らに有力商家リストを提出させて準備を進めた。 (『物語三井両替店』から)
<産業振興のため金札発行=三井は紙幣製造に協力> 江戸高輪の薩摩藩邸で史上名高い西郷・勝会談が行われたのは、慶応4年(1868)3月13、14日の両日であった。 その13日に、東山道軍はようやく武州蕨宿(現・埼玉県蕨市)に到着している。これに従軍してきた三井組の手代堀江清六は、兵糧大量調達の特命を受けて江戸に潜入、夜、駿河町の店に入った。 三井高喜(たかよし)ら江戸の首脳は、この時、堀江から多大の情報を得たものと推測される。 (『物語三井両替店』から)
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
◎三井組は呉服業を分離し金融業に専念すべし──井上馨の提案・命令◎ この頃、三井組は経営制度の改革を鋭意進めていた。5ヶ月前の明治5年1月25日に、三井三郎高喜・治郎右衛門高郎・篤次郎高潔の3人の在京三井家の家人と三野村利左衛門・斎藤純造の重役が、大蔵大輔の井上邸に呼ばれていた。
 その時、その席には、参議大隈重信と渋沢栄一も来ていた。
 皆が揃ったところで、井上が言った。
「どうじゃな、この際、三井組は呉服業を分離して金融業1本に専念したらどうだ。今日集まってもらったのは、ほかでもない。それを取り決めると共に、組合銀行の創設に向かって手筈を整えてもらいたいからだ。 組合銀行の創設が成功するか否かは、三井と小野の協力と尽力にかかっている。その意味でも、大三井は金融業務に専念すべきじゃよ」
 井上の言葉は命令に等しかった。大隈参議は上座で黙って聞いていたが、渋沢は頷いてみせた。しかし、三井組としては重大問題でもあり、即答できることではなかった。 延宝年間から家業として続いてきた呉服業を三井から分離することは、経営の大改革になることは言うまでもなかった。
 押し潰されたように、三井の面々は無言で顔を合わせた。が、井上の命令に背けば、今後の三井組に決定的な不利をもたらすことは目に見えていたし、また「三井の大番頭」と陰口される程の井上が、三井を困らせるために提案したものでないことがわかるだけに、無下に断ることができなかった。
「どうじゃな……」
 井上が促した。
(ここは肚を決め手、井上様のご提案を受け入れなくてはなるまい……)
 三野村利左衛門はそう心中で呟き、三郎助に目で促した。
 それを受けて、三郎助は三井の他の者に目で言い含めてから、
「井上様のご提案は、三井家にとりましては大改革になることは必定ですが、謹んでお受けし、早急に実施するよう努めてまいります」
 と、一同を代表して言った。三郎助の温厚な顔は緊張して固くなっていた。
 三野村は、期するところがあるかのように精悍な顔を頷かせた。
 これ以来、三井は機構改革に乗り出したのである。そして協議の末、呉服店は三越姓を名乗る同族三家(小野田、家原、長井の三家)の共有として三井家の営業から分離させ、三井組の方は駿河町の両替店と鉄砲洲の御用所を合体して、金融業一本の三井為替座として発足させた。 それと共に、三野村利左衛門は、所有と経営の分離の方針を推し進め、手腕のある者が能力を発揮できるように経営の合理化を図っていった。 (『『小野組物語』』から)
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<三井高福(たかよし)、第一国立銀行頭取に──小野組破綻、その時三井は……> 第一国立銀行の創立総会は明治6年6月、海運橋洋館で開催された。7月、認可を受けて営業を開始した。 次いで8月1日に開業式が行われた。三井八郎右衛門(高福)は小野家の当主善助とともに頭取となり、副頭取には三野村と小野善右衛門とが就任している。 また、この5月に各省間の対立がもとで井上と渋沢は大蔵省を退官したが、渋沢は総監役として新銀行に迎えられた。
 三井小野組合銀行の取り扱った大蔵省御用は第一国立銀行に移された。しかし地方公金業務の移管については両組の抵抗も強く、結局従来通り三井、小野両組による取扱が認められることになった。
 この頃小野組自体は、金融業のほかに米穀取引や生糸貿易など投機性のある事業や、鉱山のように莫大な設備投資を要する事業に手を広げていた。 第一国立銀行は小野組にとって都合のよい資金調達となってゆく。
 明治7年秋のある夜、渋沢は井上馨から小野組の経営に注意するよう警告を受けた。第一国立銀行の小野組関係事業への貸出金は約130万円に上っており、その多くは無担保扱いであった。 井上の言葉に決心のついた渋沢は、銀行の大株主である小野組に対し、急ぎ不動産や公債証書などの提供を求めて保全に努めた。
 また小野組は、各地の府県為替方として受け入れた公金も、結局さまざまな事業に投じており、その結果これら公金の納付期限に遅れることが度重なっていた。 こうした状況を見た政府は、府県為替方に対する担保条件を厳格化し、明治7年10月には、公金預り高と同額の担保提供を求めた。しかも追加担保提供の期限を、2ヶ月以内の12月15日と定めた。
 これは三井組にとっても重大な事態であった。三野村は手代12名と共に各所を死に物狂いの勢いで走り回ってようやく必要なだけの担保品を調達した。 しかし進退きわまった小野組は、11月、ついに閉店した。第一国立銀行は前記の井上のアドヴァイスによる渋沢の担保徴求によって破局を免れたわけである。 井上はまた、小野組の破綻が共同事業者である三井に累を及ぼさないよう、事前に大蔵卿大隈重信の承認を取りつけ、両者の債務を明確に区分させていた。 こうして不死鳥三井は、危機を脱して飛びつづけることになった。 (『物語三井両替店』から)
<小野、島田破綻し、経済混乱──事業組織の変革図る三野村> 国立銀行は明治7年8月までに4行が開業したが、いずれも銀行紙幣を発行すればただちに兌換請求される有様で、国立銀行方式による政府の通貨政策は、失敗に帰したことが明らかになる。 ことに明治7年11月、12月の小野、島田両組の破綻が巻き起こした経済界の混乱は国立銀行4行の経営を大きく動揺させ、翌8年3月、4行は連盟で兌換制度の変更を政府に請願するに至る。 こうして政府も、国立銀行条例の改正を検討せざるを得なくなった。
 小野組閉店翌月の明治7年12月、第一国立銀行副頭取でもあった三野村は、三井組の全面的バックアップにより同行を三井の経営組織の中に取り込む案を作成し、渋沢栄一総監役に提出した。 しかし渋沢はむしろ同行と三井組との特殊な関係を廃止したいと考え、三野村の提案を批判した。同8年1月、渋沢は自らの方針による第一国立銀行改革案を大蔵省に提出し、8月には三井八郎右衛門高福に代わり、渋沢自身が同行頭取に就任して自主路線への転換を進める。
 小野、島田が崩壊した時、三井は三野村のすさまじい奔走によってようやく難局を切り抜けたのであったが、三井もまた資金調達を官金に依存し、その運用が固定化しているという体質においては小野、島田両組と同類であった。 三野村は、この社会、経済の激動期を乗り切るためには、金融機関としての三井組を欧米式会社組織に変える必要があると考えていた。 しかし当時、わが国の法制はまだ整備されておらず、政府の方針もしきりに変化する有様であったから、三野村の苦心も一通りではなかったのである。
 この明治8年前後に大蔵省では、国立銀行条例改正案の検討と並行して「通常銀行」についての条例案の作成も進めていた。 「通常銀行条例」自体は「一般会社法制定の後でよい」との意見が政府内に強かったため結局廃案となったものの、銀行設立についての政府の態度が、現実を容認した弾力的なものに変わりつつあったことは確かであった。 こうした動きを眺めながら、三野村は三井による銀行設立計画を詳細に練ることになった。 (『物語三井両替店』から)
<「三井銀行創立願書」を提出──初代総長には三井高福> 明治8年7月、三井組は総取締三野村利左衛門名をもって東京府知事大久保一翁宛に「三井銀行創立願書」を提出した。 この願書には、「創立之大意」「創立証書」など5部の書類草案が添付されたが、それによれば新銀行は三井組の営業を継承するもので、無名会社(フランス語の「株式会社」にあたる。ここで渋沢がフランスの国債に通じていたことが思い合わされる)の形態をとり、 この形態を「保証有限社」と称する、営業目的として諸官庁、府県の御用、為替、両替、貸付、地金売買等を営む、とされている。 また、銀行が万一閉鎖される時株主は「更ニ株式金高十分ノ一」の有限責任を負うものと立案された。
 この創立願書は、提出翌々日には東京府から大蔵省に送付されたが、これを受けた大蔵省では、「銀行」の称号をめぐり、また株主の有限責任制をめぐり、賛否両論が起こって対立した。 しかし三野村はただちに銀行創立の準備委員を発令し、着々と準備を進める。12月には役員選挙を行い、総長に、三井八郎右衛門高福、副長兼総長代理に三野村、副長に三井三郎高喜、監事に西邑逓四郎ほか2名を選出した。 翌明治9年初頭の頃大蔵省は、官金取扱いをすべて民間から引き揚げて同省の出納寮直扱いに変更しようとする動きを見せたが、三野村はこの時も渾身の力を揮って関係方面に折衝し、3月上旬、新銀行が官金取扱いについても三井組から継承することの承認を得た。
 明治9年3月末、大蔵省は「私立銀行に関する条例が制定されるまでは当座の措置として、人民相対(官許ではなく民間の合意)によって営業するように」という実質的な認可を東京府に指示した。 ただしこの時大蔵省は、株主の有限責任制を無限責任制にすること、また準備金の規準を預金の20%から25%に引き上げること、の2点を条件づけた。 無限責任制への変更の結果、三井では「保証有限社」の呼称を「私盟会社」と改めた。こうして資本金2百万円、店舗数31か所、事務行員543名の三井銀行創立準備がすべて整った。 銀行開業日は7月1日と定めた られ、6月30日に預金9百8万円ならびに洋銀228万ドル、貸出金924万円ならびに洋銀224万ドルの勘定が三井組から三井銀行に引き継がれた。 ただこの時、ここまで身をもって三井組を引っ張ってきた三野村利左衛門がにわかに胃病のため床に臥した。 (『物語三井両替店』から)
<明治9年7月、三井銀行開業──不死鳥は未来へ飛ぶ> 明治9年1日、わが国初の私立銀行である三井銀行が開業した。本店となった駿河町三井ハウス3階の大広間で、午後2時から開業式が行われた。 集まった一同を前に、本来ならばそこに立つはずであった三野村に代わって次席副長三井高喜が進み、一場の挨拶の後、取り出した原稿を掲げ、 「三井銀行ハ正ニ今日ヲ以テ業ヲ開(ひらか)ントス……」と式辞を読み上げる。窓外には3時頃から雨が降り始めたが、会場では参会者の祝詞がしばし続いた。
 天和3年(1683)の両替店創業以来、幾度かの危機をくぐり抜けてきた不死鳥三井は、この時再び新しい生命に生まれ変わった。 そして2度、3度と大きく翼を振って、降りしきる雨の中をはるかなる未来の日に向かって飛び立った。その羽音は今もなお、日本各地の、さらに世界各地の人々の耳に響いている。 (『物語三井両替店』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『三井銀行八十年史』       三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行      1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』        日本経営史研究所 三井銀行      1976. 7. 1
『三井両替店』           「三井両替店」編纂委員会 三井銀行      1973. 7. 1
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点   三井銀行調査部 東洋経済新報社   1984. 6.14 
『小野組物語』                  久保田暁一 かもがわ出版    1994.11.21 
( 2007年1月15日 TANAKA1942b )
▲top 

小野組顛末記を見る
為替方としてのやりすぎが井上馨を刺激
 銀行類似会社の大手は三井組と小野組だ。三井組はその後三井銀行へと発展していったが、もう一方の雄である小野組は消え去ってしまった。 今週はその小野組を扱うことにする。明治維新になり、三井組や島田組とともに為替方をつとめた小野組、為替方としてのやりすぎが井上馨を刺激したために破綻させられた。預かった公金を勝手に投資し、大きな利益を得ていた。これが一般大衆を刺激し、政府をも刺激した。 これが一面ではあるが、公金を投資したことによって地方で産業が興ったのも見落とすことはできない。今まで各県の銀行類似会社を見てきて、小野組の影響の大きいことは無視できないことが分かった。 キチンとした金融制度が確立していなかった明治初期、現代の倫理観からはやりすぎと思われることも、当時としては地方産業振興には必要であった、という面も見るべきだと思う。 「小野組顛末記を見る」と題したけれど、このように、地方産業を刺激した面も見るとすれば、これだけでもっともっと長く書かなければならない。ここでは、ほんの入口だけを扱うことにする。 さらなる、「明治初期における小野組の地方産業振興に果たした役割」とでも題しての研究が待たれる。経済学教育業界ではあまり銀行類似会社を重視していないようなので、アマチュアの研究家が出てくることを期待しています。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<小野組の隆盛> 小野組は新政府の為替方になると同時に各府県の為替方にもなり、県金庫業務をおこなうことによって巨大なる無利子資本をにぎることが出来たのである。 かねて藩政時代から各所の有力なる土地と取引があり、その点小野組は三井・島田よりもすぐれていた。重要な土地は大抵小野組の勢力範囲に属していた。
 明治初年、政府は通商司の下に為替会社を設立したが、東京・大阪・西京の各為替会社に為替三家の出資額はきわだって多く、明治4年8月関西鉄道会社が創立されると、三井三郎助が総頭取になり、小野善助は副頭取であった。(中略)
 小野組は東北11県の収税を扱い、11県の貢米を集約して、それを売却して、その代金を政府に納める機能をもった。これは貨幣の少ない、から米を売ることも出来ぬ農村には便利な方法であるし、政府もこの方便を利用した。 この場合租税として米を集める時の米金換算率と、その米を売る場合の米相場の差が小野組の儲けになった。
 明治6年に租税の石(こく)代納が始まるが、このとき小野組は当初の米の平均価格で税金額を割り出して、官民の便益をはかった。 しかし農民がその平均価格で米を売却することは容易ではなかった。その頃の米価は各地マチマチで相場もちがうのに、そんな米価を統一的に税納をはかることはむずかしいので、三井や小野を利用する方が便利であったのであろうが、これはますます彼らを富ませることになった。 また金納租税になって農民がこまると、これにも金を貸した。米穀引換えの貸付であるが、これで農民は土地を失うハメになる。だから農民は小野組らの巨商を恨むようにもなった。 (『小野組始末』から)
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<京都から東京への小野組転籍事件> 明治になり、小野組の小野善助は京都の小野組を東京に移転させようとした。これに対し、京都府知事の長谷信篤は、小野組が東京に行くと困るので、之を許可しなかった。 困った小野組は裁判に訴えた。ここにおいて裁判所と京都府が対立する。結果は小野組は東京に移転し、京都府は敗訴する。
 この事件は当時話題を呼び、木戸孝允と江藤新平の太政官における問題にまで発展した。
 この事件と明治7年の小野組の破綻とはなんらかの因果関係があったと見られている。当時政府の小野組に対する態度は苛酷なものがあり、維新時の多大な貢献をした小野組を破滅に追いやったことには何か悪意が潜在していたと考えられる。 この転籍事件もまた1つの原因とも考えられる。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<小野組は破綻しなかった> 「小野組」と言っても、今では耳にすることも滅多になくなってしまった。
 始祖は小野善助と言い、近江の国高島町大溝から南部の国盛岡で井筒屋として事業を始め、その後、京に上り、東京で明治初期に小野組として、三井組、島田組と共に政府の公金扱いの業務を任されていた。
 政府は、明治7年に1年分の公金取扱い金額に見合う担保金等をこの3組に求めたが、小野組と島田組は用意することが出来ず、多くの歴史学者や経済学者によって、「小野組破産」「破綻」「戸を閉めた」「没落した」とされている。
 しかし、実際には小野組は、担保金等提出期限前に公金取扱いの返上をし、しかも、明治6年に日本で最初の第一国立銀行を三井組と共に創立し、日本の資本主義の成立に大きな役割を果たした。 これらの功績にもかかわらず、今では耳にすることも少なく、かすかな残り火を前に消え去ろうとしている。 このような役割を果たした小野組に対し”小野組ハ破産モ破綻モセズ”とする人は数少なく、今のところ1人か2人位しかいないだろう。
 私は、本書で、盛岡に残されている一握りの資料によってこの通説に異を唱え、近江の国高島町と南部の国盛岡の人々と共に”小野組ハ破産モ破綻モセズ”と主張したい。
 なお、本書では、諸資料から「小野組ハ破産モ破綻モセズ」として、これについてさらに詳しく述べられているが、要点は主に次の7点である。
1、小野組は、担保金等提出期限前に公金取扱いを返上している。
1、政府大蔵省は勘査局の調査は、事業の生産を目的とするものではなく、債務の返済のための調査と一部の財産処分であり、決して小野組の財産全てを処分するものではなかった。
1、小野組事業に係わる財産、借財の状態は債務超過ではなく、また、財産の換金等のため支障はあったものの、全ての債務返済を期限を付けた上で公債等で返済し、さらに利子証券も発行した。
1、政府は、利子支払いに支障をきたさないよう、事業の継続を認めた。
1、大蔵省勘査局の調査では、この事件に関連する不正隠匿は発見されなかった。
1、法律用語として破綻という言葉はなく、破綻と定義するにはその理由た説明を必要とし、しかも、破綻後の処理等などの結果の説明も要するだろう。
1、当時の政府大蔵省にも落ち度はあり、日本の歴史の反省点の1つでもあると考えている。 (『明治初期の進取的商人 小野組破産モ破綻モセズ』から)
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<佐賀憂国党の乱> 明治7年(1874)2月1日の夕刻のことである。
 昨年の福岡における竹槍一揆に追い討ちをかけるように、佐賀士族の憂国党が小野組の佐賀出張所を襲った。
 佐賀憂国党の旧士族たちは、主に上級の武士たちであり、佐賀城南の宝琳院に終結し、そこを根城にしていた。彼らは、新政府の政策、特に家禄奉還と徴兵令によって士族の地位が奪われ、経済生活が窮乏に追い込まれていたことに不満を抱き、封建復帰を主張していた。
 一方、佐賀征韓党は、下級武士の不満分子たちの集まりであり、西郷隆盛や江藤新平らが唱える征韓論に共鳴し、江藤が下野して帰県すると、江藤を首領に仰ぎ、間もなく憂国党と征韓党は手を握るに至った。
 その憂国党の浪士たちの中の20数名が、軍資金を得るために、小野組の店を襲ったのだ。
 浪士たちは店の四方を取り囲み、数人が戸口から乱入した。彼らの中には、抜刀している者もあり、鉄砲で脅す者もいた。数十名の店員たちはがたがたとふるえ、逃げ出すのに精一杯であった。 手代の鶴野と田辺が引き据えられ、2人の周りを浪士たちが取り囲んだ。
「やい、人民の苦しみをよそに、利益を貪る悪徳商人め。命が欲しくば、軍資金として有り金を出せ」
 隊長が、鶴野の首の下に抜き払った刀を付けて言った。他の1人は、今にも田辺を斬ってすてようと、刀の柄を握りにめて構えている。 2人の側面と背後で、銃を構えている者もある。
「どうぞ、命ばかりはお助けを……」
 2人は必至の命乞いをし、言われるままに、あるだけの金子を差し出した。20万円に及ぶ金額であった。
「よし、命は助けてやる。ありがたく思え」
 隊長はそう言うと、鶴野を足蹴りして倒し、踏みつけた。田辺も蹴り倒された。
 浪士たちは散々店を荒らした後、喚声をあげて引き揚げた。
 この事件は、小野組に強い衝撃を与えただけでなく、これが佐賀の乱のきっかけになった。
 宝琳院に結集した浪人たち3千人は、軍備を整え、江藤を首領として兵を起こした。江藤は、蜂起すればこれに呼応して、鹿児島・白川・福岡等の各県の士族が、同時に立つことを期待していた。 しかし、その期待は外れ、反対に、西郷隆盛らは自重を促す有様であった。
 政府はこの反乱に対し、2月4日に陸軍省に出兵を命じ、10日には、参議の大久保利通が全権を担って来県し、断固処断の処置に出た。 このため、当初、反乱軍は佐賀県庁を落とす勢いであっらが、洋式鉄砲戦の訓練を受けた政府軍の前に敗退し、同月29日、江藤は逮捕された。 そして、4月に江藤と憂国党の首領の島義勇(よしたけ)は、残酷な曝し首の刑に処せられ、その他の者も断罪された。江藤らに対して苛酷な刑を課したのは、各地の不平士族たちの反政府的言動に対して、政府が断固とした態度で臨むことを示したものであった。
<為替方に対する厳しい政府の態度> 政府は、為替方として官金を扱う小野組・三井組・島田組に対して厳しい方針と姿勢で臨むようになった。 それまで大蔵省は、為替方の官金の取り扱いには寛大であり、為替方は、ほとんど無利子・無制限に近い状態で官金を運用することができた。
 しかし、豪商に対する世論の反発や、政府財政の堅実化のために、6年の7月には、大蔵省第108号通達を出し、「各府県為替設置手続及び為替規則」を制定し、官金取り扱いに担保として公債その他、確実な資物を徴収することにしていた。
 更に7年2月には、毎年取扱金額の概算3分の1の担保を提供すべきことにした。
 大蔵省の首脳たちは、為替方の小野組が官金を利用して経営を拡大し、放漫経営を行っていること、しかも、各府県の為替方として勢力を振るい尊大になっていることに、世論が厳しいことを考え、特に小野組に対して警戒感を深めていた。 大蔵卿大隈重信は、佐賀藩出身であったが、他の首脳が長州藩であり、井上馨の息がかかっている者が多かったことも、小野組には不利なことであった。 (『小野組物語』から)
古河との鉱山経営に対する考えの違い その頃、古河市兵衛は、岡田平蔵が明治7年1月14日に大坂で急死した後を受けて、岡田が経営していた阿仁銅山・川口銅山・加護山吹所・院内銀山・太良銅山・荒川銅山・八森銀山等の13鉱山の経営を、小野組が一手に引き受ける契約を進めていた。 買収額は、26万1,316円余りであった。この鉱山経営は、井上馨が岡田と共同して行う予定であったのだが、岡田の急死によって、その計画は挫折し、岡田と親交を結んで鉱山経営を手がけていた市兵衛のもとに、買収の話が転がり込んできたのである。
 市兵衛は、この投資金を第一国立銀行からの融資でまかなった。小野組の第一国立銀行からの借入は、71万円余、市兵衛個人名義の借入も、61万円余の多額に達していた。 が、総監の渋沢栄一は小野組の経営状態を危ぶみながらも、市兵衛の能力と人物に信頼を寄せていた。渋沢が特に不安視したのは、為替方部門における莫大な官金預かりと、放漫経営であった。
 ある日、渋沢は市兵衛を呼び、これについて忠告した。
 忠告を受けて市兵衛は率直に頷いた。
「ご指摘されることは、もっともなことだと私も思います。鉱山経営は、これからの進展に待たなければなりませんが、幸い、生糸取引は順調に進められており、わたしが中心になっている経営部門は安定していると考えます。 問題は、為替部門における官金の取り扱いです。この部門は、善右衛門が取り仕切っているのですが、小野組の一員ととして、十分に注意していきたいと考えています」
 渋沢は、市兵衛の言葉に頷き、
「今後の小野組を支えるのは、貴公において他にはない。お頼みしますぞ」
 2人は、互いに信頼の情を込めて握手を交わしたが、市兵衛は小野組に危機がしのびよっていることを強く感じて身の引き締まる思いであった。 (『小野組物語』から)
 市兵衛が渋沢と会って数日後のこと。
 小野組の東京本店に、善右衛門を中心にして、古河市兵衛、行岡庄兵衛、浅野幸兵衛、田畑謙蔵、江林嘉平らの元方の面々が集まって協議していた。 その他、組頭総括の善助、包賢をはじめ、助次郎も出席していた。為替方に対する政府の方針の厳しい変化に対して、小野組としていかに対応していくかが、中心の議題であった。
 各府県における為替方支店の数は、三井の5県13か所に対して、小野組は28県49か所のおよび、小野組がだんぜん優位を占めていたとはいえ、それだけに、官金の預かり高に対する担保の準備額は多大であった。 推定するところ、450万円にもおよぶ預かり高であった。
 この状況について、市兵衛が厳しい口調で言った。
「今から、各支店の経営状況を十分に把握して、担保の備えは勿論のこと、経営の堅実化を早急に図っていかなければ、えらいことになりかねない。 聞くところによると、1つの支店が仕入れてきた米穀を、他の支店に売りつけて利益を計上するというような、杜撰(ずさん)なこともやっている。 それに三井に比して、小野組の従業員は、派手で頭が高いという世評がしきりである。この際、早急に手を打っていかねばなるまい」
 市兵衛は、睨むように善右衛門の顔を見つめた。
「そうだ。古河の言う通り、経営を刷新して、統制のとれた堅実な対応をしていかなければ大変なことになりはしないかと、わたしも危惧する。 わたしの予感では、大蔵省は、小野組を目つぼにしているように感じられる」
 包賢がわが意を得たように同意した。
 しかし善右衛門は、動ずる風を見せなかった。
「為替方に対する政府の方針が厳しくなったことは事実だし、勿論それに対応する備えをしていく必要はあるのだが、そんなにびくついて深刻に考えることはあるまい。 今日の小野組の力を、政府とて軽視することは出来ないし、また今日まで、政府の御用に応じて献金などに尽力してきた小野組を潰そうなどということは到底考えられない。 われわれは自信をもって、ここまで拡張し発展させてきた事業を、堅実に運営していけばよいのではないか。問題は、小野組内部の結束力と組織にある。 為替部門と生糸部門との関係をすっきりさせると共に、組頭たる包賢殿が、要らざる指図をしないで、総理たるわたしのもとに結束して進んでいく体制を確立出来るか、否か、にかかっていると存ずる。 口はばたったい言い方と受け取られるかも知れぬが、この内部結束のみが、一番問題だと思うのだ」
 善右衛門の言葉は、まさに市兵衛や包賢に対する挑戦であった。
 座はざわめき、険悪な空気が流れた。
「為替部門の官金取り扱いのあり方こそが、今問題なのですぞ。糸店部門は、堅実にやっておるし、貴殿が総括者の地位に固執されていることは、糸店部のわれわれとしては、意に添わないことである」
 市兵衛も、負けてはいなかった。
「では、鉱山経営はどうなのだ。貴殿は独断でことを進めているが、十分に利益をあげているのか」
「鉱山経営は、これから発展していく事業だ。わたしには自身がある。貴殿から指図される必要はない。それよりも、小野組の結束のためには、貴殿は両部門を総括するというような、出過ぎたことをせぬ方がよい」
 市兵衛は敢然と言い、善右衛門を睨みつけた。
 善右衛門も市兵衛を睨み返した。
「為替部門と糸部門との敢然な分離と、両者の総括者の選任は、早急に実施しなくてはなるまい」
 包賢が釘をさした。
「同感でござる」
 市兵衛が言い切った。
「何を言う。私は総括の地位から退かぬぞ。ここまで小野組を盛り上げてくた私だ。きちんと組織体系が決まるまでは、全体の総括の地位を降りるわけにはいかぬ。小野組のためにもな」
 自信と傲慢さの入り混じった口調で、善右衛門が言い放った。
「まあまあ、こう水掛け論に対立しては話が進まぬ。為替部門と糸部門との関係をいかにするかは、現在検討されている事柄でもあるので、それはまず置いて、当面の急務である官金預かりに対する担保の備えに手抜かりがないよう、 一同が結束して内部の統制を厳しくすると共に、連帯を密にして、当たっていくようにしましょうぞ」
  行岡庄兵衛がとりなすように言った。
「同感でござる。今のこの時期に、首脳人が2つに分かれてしまっては、小野組は立っていかぬ。行岡殿が言われるように、小野組の組織については、今後早急に結論を出すこととし、今は結束して、現状に対応するために具体策を考えねばなりなすまい」
 浅野幸兵衛が、行岡の意見に賛意を表した。
 出席者の大半は、行岡と浅野の意見に同意して頷いた。そして、小野組の分裂を避けるために、今のところは、善右衛門の総括者としての地位を認めて結束していくこと、 各支店の経営・財政の堅実化を推進することを申し合わせた。しかし、この臨時に開かれた会議は、善右衛門と包賢、市兵衛との間の溝を、より深いものにする結果になったのである。 (『小野組物語』から)
破局 市兵衛が予測した通り、短期間に資金回収や不動産売却を図ることは到底不可能であった。善右衛門は為替部門の各支店に指令を出して懸命に回収に努めたが、小野組の官金預かり高450万円相当の担保を調えることの困難さを、日とともに感じざるを得なかった。 しかも、大蔵省当局の小野組に対する対応は厳しかった。善右衛門は、井上馨をはじめ大隈重信らに会って追求の手をゆるめてこらうべく奔走したが、彼らは会おうともしなかった。 それどころか、小野組が期日までに担保を差し出さない場合には、大蔵省が各府県に訓電を出して小野組の財産を取り立てる方針すら立てていた。まさに万事窮すの状況に追い込まれていった。
 善右衛門は再び緊急元方会議を招集した。
 組頭の包賢、助次郎、又次郎をはじめ、行岡庄兵衛、古河市兵衛、浅野幸兵衛等の小野組幹部たちが集まった。彼らの善右衛門を見る目は厳しかった。それでも善右衛門は、小野組総理の座から降りる気配は微塵も見せなかった。
「この前の会議の決定に従い、全力を上げて資金の回収に当たってきたが、担保全額を調えることが到底無理な状況に立ち至った。ついては、小野組としてどうすべきかを決していただきたい」
 さすがに、善右衛門の声は緊張から上ずっていた。
 重い沈黙が続いた。
「貴殿は責任を取って、即刻辞任すべきだと思う。しかし、辞任によって責任逃れをされても困る。この際、貴殿が為すべきことは、小野組の財産を隠蔽することなく残らず把握して公開すること、 第一国立銀行や民間の預金者に出来る限り被害を及ぼさないようにすること、そのために、大蔵省に為替方辞退の嘆願書を出して財産整理を願い出ることであると考える。 それを貴殿が責任をもってやるべきだ。貴殿がやれないと言われるなら、わたしが代わって、やろうと思うがどうだ」
 ややあって市兵衛がずばりと言った。どよめきが起こった。
「小野組は潰れるのか。善右衛門の責任は重いぞ。何という不始末だ」
 包賢がうめくように言った。
「ご当主、やむを得ません。この際、小野組はすっきりと撤退すべきです」
 市兵衛は包賢に声を和らげて言った。
「まことに止むを得ない。古河殿の言われるように、大蔵省に嘆願書を出して整理を願い出た方が小野組のためにも、社会のためにもなるのではないか」
 浅野幸兵衛が同意した。事ここに至っては止むを得まいと嘆く者が多かった。その空気を見て、善右衛門が口を開いた。
「ご一同、古河が言うように大蔵省に嘆願書を出しましょうぞ。いたずらに引き延ばし、期日が来て破綻することになるよりも、覚悟して自ら撤退しましょうぞ。 わたしがその先頭に立ち、責任をもって整理に当たりたいと決意している。ご一同としても、私心を投げ打って小野組のためにご協力願いたい」
「無念だ。誠に無念だ。小野組が潰れるとは……何ということだ」
 包賢は再びうなるように言い、憎しみの目をこめて善右衛門を見つめた。目は涙で湿っていた。
 11月20日、小野組は「嘆願書」を大蔵省に提出した。
 この「嘆願書」を大蔵省に差し出すと共に、その他の官省・各府県庁にも為替方御用辞退を願い出た。
 この夜、陸・海軍両省会計官が本店にやってきて金庫を封印してしまった。預金の取りつけ騒ぎが起こるのを防ぐため、小野組の閉鎖が一般に知られる前に手を打ったのだ。
 それから1週間後、小野組に対して大蔵省は破産宣言を下した。そして、大蔵省内に臨時取調掛を置き、小野組の閉店勘査処分に当たらせることになった。 この臨時取調掛は後に勘査局となった。小野組の処分は司法処分でなく、大蔵省への委任による行政処分とすることが太政官によって決定された。 (『小野組物語』から)
小野組関係者の記録から 維新後、街道筋の本陣には「小野組御定宿」の標札をかかげて誇りとし、東京柳橋にても小野組の顔ききは非常なもので、大蔵省の役人をも席を変えさせたりしたということだが、こうした豪遊に深く含むところがあったともいわれている。転籍事件もまたその一因であろう。
 小野組は明治7年に改組するまで本店と各支店との統制はばらばらで、独立採算性であった。九州の支店から中国の支店が米を買ったりしていた。 井上馨は小野組が馬関の支店で米を売り、広島支店でこれを買うことを非難しているが、これは独立採算性の小野組の組織を知らなかったからであろう。 明治になって京都の4店を合して小野組としたが、会計は別々だったし、本店も支店も金融と事業を兼ねており、金にまかせて為替方経営によって得た資本を新事業に投資していたので、一層不安をいだかせた。
 すでに三井組は小野組・島田組を出し抜いて、たっbどくで新貨幣為替座の仕事を明治4年6月に得ていた。そこで三井・小野の不和もあり、 遅れを取り戻すべく小野組は小野善右衛門を中心にして五代友厚を仲介にして大蔵省当局に銀行創立願を要望し、これは実らなかったが、5年6月には三井・小野両家の銀行創立願書になった。 こうして形式的には為替方を廃止て三井・小野組合銀行が為替座内に設置されることになった。これは先にのべた第一国立銀行の前身である。銀行とはいえ、これは官金取扱いを主とするものであった。 三井・小野・島田は府県取扱金を委任されたが、各地の支店を為替方支店にしていた。
 三井組は先に新貨幣座(造幣寮御用)の独占をなしていたが、これに対し小野組は各県の公金取扱いの方に大いに進出し、この点三井を凌駕していた。その状況はすでに述べた通り。
 しかし府県為替方というのは、米穀売買と結び付いてはじめて意味のあるものであった。地租改正条例公布以前の貢米請業務は、その為替方の引受け地域と関連していた。 この点からいえば各地に支店網をはっていた小野組は断然優位であったが、それだけに代金回収は困難で、為替金上納期を遅らせることになった。 当時における米穀市場の狭隘性は、たえずこの危険をはらんでいた。そのため自然為替金の延納になり勝ちである。これを政商として政府が黙認し、大目に見ていた間は事はなかったが、、 上級官吏の更代・転任によって支障を来すハメにもなった。
 その上、小野組は米穀のみならず、生糸の輸出をなしていたが、これは実に価格変動の激しい商品であった。この点、生糸輸出を中止していた三井の要慎深さを思う。
 岡田平蔵が死去したとき、小野組はその経営の諸鉱山を買収して古河市兵衛に経営させた。しかしこれらの13鉱山中、真に利益のあがるのは5鉱山ばかりで、まだ利潤収入があったわけではなかったのである。
 しかし実際にどの支店が公金の支払を不能としたわけではない。ただ何となく小野家にはこれ以上為替方をさせておくのは不安だという空気が醸成されたのである。
 前述の如く、ともかく鉄槌が下され、明治7年11月20日、為替御用、官省府県の全国にわたる金銀出納取扱御免を自発的に願い出たのである。 帳簿の整理を大蔵省の検査にあおぎ、巨額の貸出金は一朝回収不能なるをもって、上納金の猶余について大蔵省はじめ官省府県に歎願書を提出し、かくて小野組は瓦解した。 しかし別に破産・身代限りになったわけではなく、清算の段階にはいったのである。
 為替取引規制改正の影響は独り小野組だけに適用されたのでなく、三井組にも適用されたが、三井組がこれをよく免れたのは経営よろしきを得たからであろうが、 また三井家と藩閥との間には特別の関係があり、井上馨を通じて三井の番頭三野村利左衛門には会計検査院の命令を予報されていたため、当局から正式の達しがあった頃には十分の用意が出来ていたと言われている。 三井組は特に出願の銀行株券を為替方の抵当に採用されたく陳情し、政府はこの違例を容認したという噂さえある。この手加減は片手落ちと非難する向きもある。 もとより為替方業務は明治政府草創期における政府金融の便法であって、やがては改正させるべきものであったろうが、小野組の弱点をついたもので、破産させるための方策のようにも思われるし、尾去沢事件と同様、井上馨の陰謀のようにも受けとめるのである。
 しかしながら高処から見れば、すでにして小野組は為替御用を自ら辞退したのであるし、その直後の財界の狂瀾をすくうの途として三井組を擁護したと、言うよりも、日本の財界を救済すべく、むしろ機宜の処置であったかとも思われる。 (『小野組始末』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『明治初期の進取的商人 小野組破産モ破綻モセズ』   西川廣 西川廣事務所   1997.12.31 
『小野組物語』                  久保田暁一 かもがわ出版   1994.11.21 
『小野組始末』           小野善太郎 宮本又次校訂 青蛙房      1966. 1.20
『明治黎明期の犯罪と刑罰』            小泉輝三郎 批評社      2000.10.10
( 2007年1月22日 TANAKA1942b )
▲top 

銀行類似会社のまとめ
高く評価すべき自由市場での試行錯誤
 今週は銀行類似会社シリーズの最終回、「高く評価すべき自由市場での試行錯誤」と題して銀行類似会社のまとめを書くことにした。 このシリーズの初めに次のように書いた。
 銀行制度の出来始めのことに関しては、サムエルソンの<銀行はどのようにして金細工業から発展したか ==サムエルソン『経済学』>と バーナンキの<マネーサプライ決定の原理==バーナンキ他『マクロ経済学』>で書いた<アグリコーラ>の例が詳しい。 日本の経済学の教科書は基本的にこれらの考え方で書かれている。しかし、日本での銀行制度の出来始めの頃のことは、これらの説明とは違っていた。日本の銀行制度は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを金融システムの中核としようとしたことに始まる。しかし、日本では江戸時代から庶民のための金融制度があったし、商人向けの金融制度もあった。 政府の考えたシステムとは違った組織も活動していたし、それを無視して明治初期の金融システムを理解することはできない。 今回は、明治維新時代、近代的な銀行=国立銀行ができた頃の、「銀行類似会社」について扱うことにした。経済学の教科書では扱わないし、「銀行類似会社」とのタイトルの研究も見当たらない。ここでは「○○銀行○○年史」を資料として、近代的な銀行ができる前、庶民の知恵から生まれた銀行類似会社=まるで銀行のような「庶民金融」を扱うことにした。
具体的に、銀行類似会社とはどのような会社だったのか? 「銀行類似会社法」があったわけではないし、共通の目的を持っていたとも言えない。銀行のようでありながら、国立銀行条例には適合しない。そのような「まるで銀行の様な会社」とはどのような会社だったのか?先ず「○○銀行○○年史」から幾つかの文章を引用しよう。 だんだん周辺部から探っていく方法で本題に迫っていくことにしようと思う。
 そして銀行類似会社がどのようにしてできたか、それに関して『静岡銀行史』から次のように引用した。
 1、江戸時代以前から庶民金融機関として広く利用されていた質屋、無尽会社などが、銀行類似業務を営むようになったもの。
 2、旧幕時代の為替方、両替商、蔵元、掛屋、札差などの御用商人・大商人が、金融業を専業とするようになったもの。
 3、旧士族の授産金を資本に、士族による授産事業として始められたもの。
 4、地元の大地主、大商人が殖産興業を目的に設立したもの。
 5、篤志家によって、貧民救済、社会事業として始められたもの。
 6、当局の保護、支援のもとに、殖産興業、金融円滑化を図るため、非営利的事業として設置されたもの。、
 またその立地も、茶、養蚕、米穀その他の生産地である農村や商工業の中心地に設立されたもの、海に面した開港地や宿場など交易の盛んな地に設立されたものなど広範囲にわたり、その事業内容は、金融のほか、物品売買、生産事業、社会事業を兼営していたもの、農業など一定業種の金融を専門にするもの、 同業組合的な特殊なもの、あるいは相互扶助のためのものなど多種多様であった。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<銀行制度確立までには試行錯誤の連続であった> 経済学の教科書では、金融制度を説明するのに、現代のシステムを説明し、このシステムになるように制度が作られたかのように書かれている。 最初に目標が定められ、それに従って制度が出来たかのように読める。アメリカの教科書、バーナンキ、サムエルソンをはじめすべての教科書はこのような姿勢で書かれている。 日本の金融制度は試行錯誤の連続であった。明治政府は為替会社で失敗し、国立銀行も初めはそれぞれの国立銀行が紙幣を発行する予定で始まったがうまく行かず、日本銀行を設立し「日本銀行券」を発行する。 こうした政府の試行錯誤とは別に、民間では勝手に金融機関を設立し、活動を始める。特にその存在は害がない、ということで政府は規制をせず、勝手に活動させる。
 ここには統制経済とは違った面がハッキリ見える。アメリカの教科書も、それを真似た日本の教科書も、初めにハッキリした目標があってそれに向かって制度が整備されたかのように読まれる。 日本の金融制度の成り立ちは、デモクラシーに似ている。「デモクラシー(民主制度)とは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、試行錯誤を繰り返しながらよくなっていく、政治的・経済的な個人の自由を保証するための 功利的な制度なのである フリードリッヒ・A・ハイエク」 
 日本の金融制度は、完全無欠な制度ではなく、試行錯誤を繰り返しながらよくなってきた、市場での自由な競争を保証するために進化して来た、 功利的な制度なのである。
 アメリカの教科書は、バーナンキでさえ、設計主義の匂いがする。    
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<トランスミッションメカニズムとは違う> 銀行類似会社はその後普通銀行に変わったり、解散したりして、現在は残っていない。 明治初期銀行制度が確立するまでの一時的な制度であった。このこともあってか経済学の教科書では扱われない。しかし、今まで見てきたように現在の銀行制度を知る上で無視できないし、教科書でも扱うべきべきだと思う。
 明治初期の銀行制度確立期の金融機関としては「無尽」も無視できない。江戸時代から続いた金融制度で、これは日本独特なもので欧米の金融経済の教科書では扱われることもないだろう。 しかも、これはその後「相互銀行」から「第2地方銀行」へと少し変わりながらも生き残っている。こちらの方は銀行類似会社よりも歴史もあり、現在も営業していることもあって、日本の銀行制度を知る上で重要な制度と言える。
 日本の銀行制度は、サムエルソンやバーナンキが教えるアメリカの金融制度とは違う。アメリカの教科書の請け売りでは日本の金融制度の歴史を理解することはできない。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<演繹法と帰納法> 経済学を研究する場合、@まず抽象的なモデルをつくって、それで実体経済を説明しようとする方法。A事実を調べて、そこから共通の点を探し出し、理論を組み立てる方法。の2つがある。 どちらが正しいとか、間違っているとかいう問題ではなくて、どちらかで創り出した理論がもう一つの方法でも確かめられて人々が納得する。
 <経済学の神話に挑戦します 「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という神話>で批判したかったのは、 「抽象的なモデルとしては説得力があるが、現実の経済は違っていた。事実を調べることを怠っている。<準備預金制度における準備率>に至っては、日銀のサイトを見ればすぐ分かるのに、30冊以上の教科書がいいかげんな数字を学生に教えている」 ということが分かった。
 それが分かると、「銀行制度の出来始め」についても教科書の説明に不信感を持つようになった。そうして、教科書が見ようとしていないこと、銀行類似会社の存在を無視していることに気づいた。 銀行類似会社を調べれば、好奇心と遊び心があれば、興味津々、さらに日本の金融制度に興味を持つに違いないと思った。
(^_^)                            (^_^)                             (^_^)
<まだまだ研究の余地がある銀行類似会社> 「庶民金融」という言葉で銀行類似会社を捉えて始めたこのシリーズ、幕を開けてみると、旧士族の授産という面が強いものが多かった。 ここでは○○銀行○○年史を中心に引用してきたが、資料は他にもある。調べ方によってはまだまだ個々では扱わなかった面が分かってくるに違いない。 旧銀行類似会社が普通銀行に転換してから資料を集め直して、今まで取り上げられなかったような事実が明るみに出るかも知れない。 幸か不幸か、本来の専門家であるはずの経済学者はこの銀行類似会社にはあまり興味を持たないらしい。アマチュアでも新しい見方を提言できるかも知れない。 このような言い方で「アマチュアエコノミストのすすめ」をお奨めする次第なのであります。
(^o^)            (^o^)            (^o^)
<主な参考文献・引用文献> 今までに扱った<主な参考文献・引用文献>を列挙することにしよう。
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行     1993. 3.31
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行   1981. 3
『阿波銀行百年史』         阿波銀行百年史編纂委員会 阿波銀行     1997. 5.30
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行     1980. 9.10
『青森銀行史』              青森銀行行史編纂室 青森銀行     1968. 9. 1
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行     1968.10. 1
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行     1981.12. 1
『山形銀行百年史』          山形銀行百年史編纂部会 山形銀行     1997. 9.30
『十六銀行百年史』                編集・発行 十六銀行     1978. 3.30
『大垣共立銀行百年史』              編纂・発行 大垣共立銀行   1997. 2.─
『鳥取銀行の歩み』         鳥取銀行の歩み編纂委員会 鳥取銀行     1994. 8. 1
『山陰合同銀行五十年史』     山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行   1992. 6. 1
『鹿児島銀行百年史』           児島銀行行史編纂室 鹿児島銀行    1980. 2.29
『宮崎銀行五十年史』             宮崎銀行資料室 宮崎銀行史編纂室 1984. 7.31
『山口銀行史』                   山口銀行 山口銀行     1968. 9.25
『岩手銀行五十年史』               編纂・発行 岩手銀行     1984. 5.─
『群馬銀行五十年史』      群馬銀行調査部五十年史編纂室 群馬銀行     1983. 6. 1
『伊予銀行五十年史』       伊予銀行五十年史編纂委員会 伊予銀行     1992. 6.25
『千葉銀行史』                  編集・発行 千葉銀行     1975. 3.31
『佐賀銀行百年史』                総合企画部 佐賀銀行     1982.12.25
『京都銀行五十年史』               編集・発行 京都銀行     1992. 3.31
『東京百年史』             東京百年史編集委員会 東京都      1982. 3.31
『中央区史』中巻                 編集・発行 東京都中央区   1958.12.25
復刻『千葉県・東京府の統計』明治21.11.20出版   藤井隆至編 東洋書林      1997.11.30
『創業百年史』          北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行     1978. 3.15
『福井銀行80年史』       福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行     1981. 3. 5
『福井銀行六十年史』           編纂・発行 福井銀行六十年史編纂委員 1965. 5.20
『十六銀行百年史』                編集・発行 十六銀行     1978. 3.30
『大垣共立銀行百年史』              編纂・発行 大垣共立銀行   1997. 2.
『八十二銀行50年史』              編纂・発行 八十二銀行    1983. 6.20
『百十四銀行百二十五年誌』            編纂・発行 百十四銀行    2005. 8.31
『秋田銀行百年史』         秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行     1979.12. 1
『三井銀行八十年史』       三井銀行八十年史編纂委員会 三井銀行     1957.11.25
『三井銀行100年のあゆみ』        日本経営史研究所 三井銀行     1976. 7. 1
『三井両替店』           「三井両替店」編纂委員会 三井銀行     1973. 7. 1
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点   三井銀行調査部 東洋経済新報社  1984. 6.14 
『小野組物語』                  久保田暁一 かもがわ出版   1994.11.21 
『明治初期の進取的商人 小野組破産モ破綻モセズ』   西川廣 西川廣事務所   1997.12.31 
『小野組始末』           小野善太郎 宮本又次校訂 青蛙房      1966. 1.20
( 2007年1月29日 TANAKA1942b )
▲top 
趣味の経済学                        
銀行類似会社 という庶民金融
国立銀行以前の制度について調べてみる



         
アクセスカウンター