銀行類似会社 という庶民金融
国立銀行以前の制度について調べてみる

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b です 好奇心と遊び心をもって浮世の世事全般を経済学します           If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します 銀行類似会社 という庶民金融  国立銀行以前の制度について調べてみる
自然発生的な成立経緯 金融経済学の教科書でも扱わないその実態  (2006年9月11日)
新潟県の銀行類似会社 殖産事業や貸金業などから普通銀行へ  (2006年9月18日)
青森県の銀行類似会社 小野組から始まった金融事業会社  (2006年9月25日)
埼玉県の銀行類似会社 江戸近郊という特殊な地域事情  (2006年10月2日)
山形県の銀行類似会社 困窮士族の救済事業やその他の金融機関  (2006年10月9日)
岐阜県の銀行類似会社 生糸、米など県特産物の産出地域に設立  (2006年10月16日)
鳥取県の銀行類似会社 士族授産に対する県の積極支援姿勢  (2006年10月23日)
鹿児島県の銀行類似会社 士族の生活安定のために設立  (2006年10月30日)
山口県の銀行類似会社 士族授産という面から明治初期を振り返る  (2006年11月6日)
岩手県の銀行類似会社 明治初期の金融制度状況を知っておこう  (2006年11月13日)
群馬県の銀行類似会社 生糸産業と密接に結び付いた金融業界  (2006年11月20日)
愛媛県の銀行類似会社 商人や士族が中心で設立された類似会社  (2006年11月27日)
佐賀県の銀行類似会社 藩知事鍋島直大が先祖の遺金と家禄を献納  (2006年12月11日)
京都府の銀行類似会社 明治新政府の殖産興業と京都の人々  (2006年12月18日)
東京府の銀行類似会社 三井組や安田商店など大資本が活躍  (2006年12月25日)
富山・石川・福井県の銀行類似会社 同じ北陸でも業績に違い  (2007年1月1日)
長野・香川・秋田県の銀行類似会社 養蚕・士族授産・海上輸送など  (2007年1月8日)
越後屋⇒三井組⇒三井銀行 呉服商⇒銀行類似会社⇒財閥銀行  (2007年1月15日)
小野組顛末記を見る 為替方としてのやりすぎが井上馨を刺激  (2007年1月22日)
銀行類似会社のまとめ 高く評価すべき自由市場での試行錯誤  (2007年1月29日)

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

自然発生的な成立経緯
金融経済学の教科書でも扱わないその実態
 銀行制度の出来始めのことに関しては、サムエルソンの<銀行はどのようにして金細工業から発展したか >とバーナンキの<マネーサプライ決定の原理==バーナンキ他『マクロ経済学』>で書いた<アグリコーラ>の例が詳しい。 日本の経済学の教科書は基本的にこれらの考え方で書かれている。しかし、日本での銀行制度の出来始めの頃のことは、これらの説明とは違っていた。日本の銀行制度は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとしたことに始まる。しかし、日本では江戸時代から庶民のための金融制度があったし、商人向けの金融制度もあった。 今回は、明治維新時代、近代的な銀行=国立銀行ができる前の、「銀行類似会社」について扱うことにした。経済学の教科書では扱わないし、「銀行類似会社」とのタイトルの研究も見当たらない。ここでは「○○銀行○○年史」を資料として、近代的な銀行ができる前、庶民の知恵から生まれた銀行類似会社=まるで銀行のような「庶民金融」を扱うことにした。
具体的に、銀行類似会社とはどのような会社だったのか? 「銀行類似会社法」があったわけではないし、共通の目的を持っていたとも言えない。銀行のようでありながら、国立銀行条例には適合しない。そのような「まるで銀行の様な会社」とはどのような会社だったのか?先ず「○○銀行○○年史」から幾つかの文章を引用しよう。 だんだん周辺部から探っていく方法で本題に迫っていくことにしようと思う。
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<銀行類似会社の出現とその役割=静岡銀行> 為替会社が活躍していた時期、政府は本格的な金融機関を設立するため、調査研究を開始した。そして、明治5年に国立銀行条例を公布し、国立銀行が誕生して、近代的な金融制度の基礎が整備されていった。
 静岡県にも明治10年以降本格的な金融機関が出現し、県内各地に国立銀行、私立銀行が設立されていく。これら銀行の設立に人的・地縁的に、あるいは資本その他の面で深くかかわることになるのが銀行類似会社であった。
 銀行類似会社とは、「銀行」以外の金融会社の総称である。金融面では江戸時代以来の流れをくみ、前近代的な農工商金融中心のものから、商人地主などの資本と結び付き、近代的な商業金融機関へと移行していったものなど、その規模、形態、内容、目的は一様ではない。
 その発生をみると、次のように分類できる。
 1、江戸時代以前から庶民金融機関として広く利用されていた質屋、無尽会社などが、銀行類似業務を営むようになったもの。
 2、旧幕時代の為替方、両替商、蔵元、掛屋、札差などの御用商人・大商人が、金融業を専業とするようになったもの。
 3、旧士族の授産金を資本に、士族による授産事業として始められたもの。
 4、地元の大地主、大商人が殖産興業を目的に設立したもの。
 5、篤志家によって、貧民救済、社会事業として始められたもの。
 6、当局の保護、支援のもとに、殖産興業、金融円滑化を図るため、非営利的事業として設置されたもの。、
 またその立地も、茶、養蚕、米穀その他の生産地である農村や商工業の中心地に設立されたもの、海に面した開港地や宿場など交易の盛んな地に設立されたものなど広範囲にわたり、その事業内容は、金融のほか、物品売買、生産事業、社会事業を兼営していたもの、農業など一定業種の金融を専門にするもの、 同業組合的な特殊なもの、あるいは相互扶助のためのものなど多種多様であった。
 静岡県に生まれた銀行類似会社も、ほぼ同様の設立目的や設立形態をとっていた。後に述べるように、「銀行」という言葉が生まれ、商号として使われるようになったのは、明治5年11月の国立銀行条例公布以降のことである。 しかし、政府が、国立銀行条例のよって設立された国立銀行以外は、商号に「銀行」の2文字を使うことを禁じたため、他の金融機関を「銀行類似会社」と総称し、国立銀行と区別したのである。 また、明治14年までは無認可で開業することができたため、その数は多く、12年6月末現在全国で162社、資本金総額294万円余、14年末には369社、資本総額589万円余と急増している。 その経営状況について正確なことは分からないが、機能的には銀行とほとんど変わらぬものも少なくなく、わが国金融史上、その果たした役割は極めて大きい。
 しかし、政府としては、何の規制もないまま放置しておくわけにはいかず、15年5月、各地方庁に通達し、これら銀行類似会社の設立は、定款規則書をもとに審議せよと指示し、設立に対する諾否の決定権を大蔵省に与えた。 一方、これら銀行類似会社を取り締まる必要性もあって、同年9月、「銀行類似会社ト称スル者ハ貸付金・預リ金及為替・荷為替・割引等凡ソ銀行事業ノ全部又ハ其幾部ヲ専業トスル者ニ限ル」と定義した。
 その15年の社数は438社、資本金総額は796万円弱、19年末には749社、1,540万円と増加している。
 静岡県内に一体何社あったのか、無許可で事業を興すことができた明治時代初期の正確な数をつかむことはできない。ともあれ、各社は、その役割を果たし、26年に制定される銀行条例に基づき、廃業・解散・消滅するもの、「銀行」に生まれ変わったものなど、その延べ数は100社に近いものと思われる。(『静岡銀行史』から)
全国普通銀行・類似会社の推移  単位:円
年 月 末 銀行数 類似会社数 銀行資本金 類似会社資本金 資本金計
12.06 2 162 164 2,150,000 2,941,477 5,091,477
12.12 9 162 171 3,680,000 2,941,477 6,621,477
13.12 38 120 158 7,010,000 1,211,618 8,221,618
14.12 85 369 454 10,827,000 5,894,675 16,731,675
15.12 164 438 602 16,937,000 7,958,375 24,895,375
16.12 199 571 771 18,457,750 12,071,831 30,529,581
17.12 213 741 954 19,025,050 15,227,685 34,252,735
18.12 217 745 962 18,362,200 15,407,982 33,770,182
19.12 219 749 968 17,539,025 15,401,304 32,940,329
20.12 218 741 959 18,371,386 15,117,676 33,489,062
21.12 230 711 941 19,219,200 14,408,264 33,627,464
22.12 255 695 950 22,059,975 14,421,003 36,480,978
23.12 272 702 974 25,571,175 14,512,616 40,083,791
24.12 294 678 972 27,060,755 13,827,434 40,888,189
25.12 324 680 1,004 28,834,775 13,944,644 42,779,419
 資料:旧静岡銀行史 (『静岡銀行史』から)
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<郷倉とよばれた銀行類似会社=山梨中央銀行> 郷倉は農民と深い結びつきを持った機関である。郷倉には、常平倉・義倉・社倉の「三倉」があり、常平倉だけが他と異なった性格をもっていた。 常平倉は、豊年によって穀物価格が低下すれば買入れを行ってこれをつり上げ、凶年に際して暴騰すれば倉米を売り出して引き下げを図り、あるいは、収穫時に買入れ、端境期に売り出すなどの方法によって、つねに穀物価格を安定させる役割をもつものであった。 これに対して、義倉・社倉は備荒、窮民救済のための穀物貯蔵を本来の目的とした。両者の相異は、義倉が特別の課徴または富民の義損によって、穀物の拠出を行ったのに対して、社倉は農民の自治的拠出による点であった。 わが国の郷倉の大半は義倉と社倉を兼ねたようなものであったため、両者はしばしば混同された。
 このように郷倉は決して金融機関と言えるものではなかったが、側面事業として金融をも行っている。すなわち、郷倉の活動は、備荒貯蓄として貯えた穀物を平時には、5月ごろの端境期に飯米・種子の形で貸与するとともに、必要以上の分は売却して現金化し、集落の共同事業にあてたり、低利の金融事業を行った。
 県内における郷倉は、大多数が江戸時代に創設されたものであったが、維新後も創設され、その分布は全県的にわたっている。韮崎市藤井町の「蔵前」、白州町横手の「郷倉」等は。現在も地名として名残りをとどめている。
 こうして郷倉は、農村と共に発展してきたが、この制度は市街地にも取り入れられ、同様の性格をもつ倉が創設された。
 「天保九年中山田町名取作右衛門ヨリ金四千両緑町窪田籐平衛ヨリ金千両合金五千両ヲ出シ米ニ換ヘ城中ニ一所ノ倉ヲ設ケテ之ヲ藏メ町奉行之ヲ管轄シ窮民ニ貸シ与フ其後更ニ米ヲ売リ金ニ換ヘ国内ノ土民ニ貸与ス当時社倉ノ名ナシト雖モ其法社倉遣意ヲ存セリ……」 (『山梨県史』)第1巻P.77〜78)
 天保9年に甲府城内に建てられたこの倉は、名称こそ義倉・社倉を名乗らなかったが、農村における郷倉と同様の機能をもつ公営機関であった。 こうした公共性の強い郷倉の制度は、維新後も県政のなかに広く取り入れられていった。維新に際して荒廃した甲府城内の倉は、甲府市政局によって再興され、また、新に郷倉の制度を取り入れた醸造社倉、蚕業社倉なども設立された。 (山梨中央銀行『創業百年史』から)
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<徳島県の銀行類似会社=阿波銀行> 古くから上方(関西)や紀州(和歌山)との商業流通に関係が密接であった阿波の国は、特産物「藍」をはじめ、商業的農業の発達による商品作物の流通を背景にして、問屋商人の活躍は近畿経済圏という比較的グローバルな活動範囲に組み込まれていたので、久次米家のように全国規模で活動する商人を輩出したわけである。 こうした資金力の豊かな豪商の存在は、明治初頭の徳島県において中小金融を営む銀行類似会社が育つ余地を狭めたと考えられる。
 しかし、このような状況下においても銀行類似会社を見ることができる。その代表的なものとして「有隣会社」の存在がある。この会社の場合は、その営業活動とともに、国立銀行への転換を目指した運動が注目される。
 国立銀行条例が施行されたのは明治5年11月であるが、その4ヶ月前の同年7月10日に徳島県(当時は名東県)において有隣会社が設立されている。日比野家文書によると、有隣会社は 「朝廷大政府末タ銀行之制度アラス、予輩遇然同心協力共立ノ社ヲ結ヒ名東県庁ノ許可ヲ得テ」 設立された。創立当初は、資本金15万円、頭取笹田宜弊・泉三郎・日比野克巳・天羽兵二の4名を役員として、本社を板野郡撫養林崎村に置き、支社を名東郡船場町においた。 その業務は藩の為替方による為替貸付金取立の代行業務、撫養港での諸物品輸出検査、輸出税取立、藩札と新政府紙幣との交換、資金の貸付、那賀・海部・板野・津田・撫養の5つの浦方の公金預かり、預金業務などであったが、特に、旧徳島藩の藩札を政府紙幣と交換する業務が中心であったといわれている。
 『銀行創立願ニ付伺書』に「私共儀昨壬申七月為替会社開業願之通御許容被仰付難有営業罷在候処……」とあり、同社が明らかに銀行類似会社として設立されたことは確かである。従って近代的銀行制度としての国立銀行条例が公布されるや否や、同条例に基づく国立銀行への組織変更を企図している。 6年3月15日、有隣会社の役員4名に木村方辰・西川甫の2名を加えて、名東県庁を経由、大蔵省紙幣寮へ国立銀行創立願書を提出した。 この時、中央では第一国立銀行と第二国立銀行が申請準備中であったので、有隣会社側では3番目と思い、第三国立銀行としての創立を予想していたようである。 紙幣寮への願書では、資本金50万円を企図しながらも、取り敢えず20万円での設立を希望した。
 しかし、すでに大阪において鴻池善右衛門を中心とする大阪商人グループによって国立銀行設立計画が立てられ、有隣会社よりも先に大蔵省紙幣寮に願書を提出済みであったため、有隣会社側は計画変更を余儀なくされた。 そこであえて競争することを避けて合同する道を選んだのである。(中略)
 このようにして大阪・徳島両資本の合同による国立銀行が成立するかに見えたが、6年10月1日、その第1回の株金入金について合意が成らず、翌年1月14日付であっさり銀行廃業願を紙幣寮に提出し、2月2日付で廃業が許可され、大阪第三国立銀行は泡のごとく消えてしまう。 しかし、この間のいきさつについては、『明治財政史』も銀行局年報(『日本金融史資料』第7巻上)も「依願解社」という表現と「創立総会で紛議が生じ」という簡単な説明で済ませている。
 その後、徳島の有隣会社は、改組して資本金を22万円に増額、天羽兵二・泉三郎の2人の商人を役員から除外して日比野克巳・西川甫・井上高格・小室信夫。林厚徳・伊吹直亮・森先雄の7名で再出発する。 この7名はいずれも旧徳島藩士の士族であり、資本金22万円が全額旧藩主蜂須賀茂韶公からの借用であるということから、有隣会社は士族授産会社的色彩を強めていったとみられる。 (『阿波銀行百年史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『静岡銀行史』            静岡銀行50年史編纂室 静岡銀行     1993. 3.31
『創業百年史』            山梨中央銀行行史編纂室 山梨中央銀行   1981. 3
『阿波銀行百年史』         阿波銀行百年史編纂委員会 阿波銀行     1997. 5.30
( 2006年9月11日 TANAKA1942b )
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新潟県の銀行類似会社
殖産事業や貸金業などから普通銀行へ
 先週は銀行類似会社のうち静岡県・山梨県・徳島県の例を見てきた。今週は新潟県の例を見ることにした。 殖産事業、商社、貸金業など、いろんな性格を持った銀行類似会社が銀行条例の公布により普通銀行などに転換していった。 こうした面を北越銀行『創業百年史』から引用することにしよう。平成不況加から脱却し、経済が上向きになったこのごろ、「日本でベンチャー企業を育成するにはどうしたらいいのか?」などという議論が気になる。 明治初期の銀行類似会社を見ていくと、「21世紀とはくらべものにならないほど、明治時代はベンチャー企業の時代だった」と思う。明治政府は国立銀行や私立銀行の条例を作ったが、それとは別に、士族・地主・金貸・名士などが勝手に金融サービスを提供し始めていた。 それは、ベンチャー企業と呼ぶにふさわしいものであったと思う。
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<新潟県の銀行類似会社=北越銀行> 明治前期において、私立銀行、銀行類似会社は急激に増加し、特に銀行類似会社の急増が著しく、明治19年には748社に達した。 新潟県の金融機関の圧倒的多数を占めたのも銀行類似会社であった。ピーク時の明治18年には80社を数えた。
 本県における銀行類似会社の発生はかなり早く、明治12年の『新潟県統計書』には、貸金業として7社、物品抵当貸付金業として3社の名前が見られる。 貸金業の7社は城下町として栄えた高田(現上越市)とその近郷にあったが、そのうち4社が商資励舎、2社が商法用達舎の名称を用いていることからも、士族授産との関係が深かったと思われる。 物品抵当貸付金業の3社は、積小社、北越商会、長岡商会であった。
積小社 新潟の積小社は、『新潟市史』によれば、明治4,5年ころの設立とされており、県内における銀行類似会社の最初のものであった。 新潟為替会社が公金費消事件を起こした際、県から穴埋め資金の立て替えを命じられていることから、かなり堅実な内容の貸金会社であったと思われる。
北越商会 北越商会は、明治12年6月、渋沢栄一、八木朋直ほか8名が中心となり、資本金1万2,000円を募って新潟に設立されたものである。 倉庫業を兼ねて保管の貨物を担保に金融を行う一方、預(あずかり)証券を発行してその流通を図った。当時、預証券の発行はわが国では希有のことであった。
 北越商会設置申合規則は、同社の業務内容と設立の目的を次のように記述している。
 「当商会の業務は、国内の米穀は勿論製茶其他凡そ物産の流通上に於て、農商の便宜を開かんことを旨とし、而して米穀の如きは其依頼により之を預り、預り券を公布し、売買或は質入等の信票となさしめ、 又当商会に於いて右米穀其他の抵当物に就き貸付金の融通を図り、且農商の望により、委託物を引受け、之が運搬販売のことを取扱ひ、世上の信憑を実際に得て、以て逐次殖産の隆盛を興起せんことを企望し、ここに営業上の便法を商議し規則を設く……」
 しかし、倉庫の位置が信濃川の河口から4キロも離れた沼垂鏡が岡にあり、立地条件が悪く、保管を託するものも少なかったため事業不振となり、明治17年7月に解散した。
長岡商会 長岡商会は、明治12年12月、第六十九国立銀行内に資本金8万円で設立され、翌13年3月11日に開業した。
 大株主には、西脇吉郎右衛門(北魚沼郡小千谷町)、山口権三郎(刈羽郡横沢町)、山田権左衛門(三島郡七日市村)、遠藤亀太郎(三島郡藤橋村)を初め、長岡町所在の岸宇吉、佐藤作平、山崎又七、木村儀平、山口万吉、小川清松、目黒十郎、谷利平などが名を連ねている。
 設立当初の株主総数は324名であったが、そのほとんどが第六十九国立銀行の株主によって占められていた。頭取は遠藤亀太郎(第六十九国立銀行取締役、地主)、支配人が岸宇吉(同副支配人)であったことからも、当商会と第六十九国立銀行は姉妹会社の関係にあったと言えよう。 なお、会員は、遠藤亀太郎、長部杉四郎、山崎又七、佐藤作平、山口万吉、小川清松、下田藤太郎、岸宇吉、志賀定七、小林伝作、目黒十郎、渡辺良八、谷利平ほか1名の14名であった。
 商会の目的は、13年3月27日付の『新潟新聞』に、「古志郡長岡商會にてハ、積立金の資本金八萬圓の内から新潟往復の川汽船二艘を買入、また活版所を設け、印刷を盛んにし、人民の便益を謀らんと日頃協議中……」と 奉じていることからも、長岡地方の殖産興業が大きなねらいであった。
 長岡商会は、新潟の有志と図り、川汽船会社(明7.7設立、資本金1万5,000円)に対抗して、新潟・長岡間往復の川汽船会社の創設を企画した。13年9月15日、新潟の荒川太二らが発起人となって、安全社(資本金2万円)の設立願を県に提出、翌10月8日に営業免許を受け、同社は11月20日に新潟区下大川前通り二之町に設立された。 その際、長岡商会は、同社の資本金の32.5%に充たる6,500円(65株)を出資し、ほかに長岡町民5名がそれぞれ7株ずつの35株(3,500円)を出資しており、長岡側の資本は半数を占めた。
(注)その後、安全社の汽船で新潟。長岡間の交通を盛んにした。明治15年、新潟の川汽船会社は安全社に買収され、社名を川汽船会社安全社と改称した。しかす、明治16年2月、小千谷の有力者によって新潟・小千谷間の通運を目的とする藁進社が設立されたことから競争が激化した。 そこで、競争によって弊害が生ずるのをおそれた鈴木長藏(のち新潟市長、衆議院議員歴任)らの熱心な調停により、19年2月、両社合併して社名を安進社と改めた。
 鉄道が開通するまで、東京から県内への貨物輸送は、ほとんど三国峠を越えて六日町から船で下ったものである。当時、六日町・長岡間の船は不定期で運賃も高く、そのうえ船数も少なかったため長岡商人は不便を嘆いていた。 そこで長岡商会は、長岡の商業の発展を期して、魚野川の通運権を掌握しようと図った。六日町の船を全部買い占め、同町に通船取引所を設けて運賃を一定にし、船数を増し、安全社の経験を生かして積極的な通運業務に乗り出した。この通運取引所が後の長岡内外用達会社である。
 このように、長岡商会は、川汽船会社への出資、通運業務などを兼営して長岡地方の商工業の発展を図る一方、貸金業務にも力を注いだ。 『岸宇吉翁』(小畔亀太郎編、明治44.10刊)によれば、「商會の貸金は、生産事業奨励の意に出たのであるから、北海道には最も多くの貸出をした」と記述している。長岡出身の太刀川善之助を商会の代理人として北海道における貸付事務の一切を取り扱わせたが、彼の斡旋で貸し付けた口数は多数に上ったと言われている。 また同書は、「當時の事務担当者は小林喜平、柳町勘平の諸氏で、此の活動の為に如何ばかり産業界を向上せしめたかは人の知る所である」と記述し、商会が貸金業務を通じて長岡地方と北海道の発展に大きな足跡を残したことを物語っている。
 このほか、長生橋の維持・管理のため多額の資金を投下すると共に、事務員を出張させて橋銭の徴収も行うなど多方面にわたって業務を推進した。
 長岡商会は、創立10数年で解散した(時期不明)。その間、長岡地方の商工業の発展に寄与するところ大であったが、収益面では見るべきものfがなく、解散の際にようやく元金の割り戻しができたに過ぎなかった。 しかし、株主中の有志が、この割戻金をさらに出資して長岡製糸場を興しているのは注目に値することである。 (北越銀行『創業百年史』から)
<銀行類似会社の増設と衰微=北越銀行> 新潟県内の銀行類似会社は、明治12年には10社を数えたが、新潟、長岡、高田およびその近在に限られた分布であった。さらに、翌13年には県内各地に23社が増設され、18年にはピークの80社となった。
 本県の銀行類似会社のなかには、県内の国立銀行の足本金を上回る規模のものもある一方、資本金1万円未満の会社もかなりの数に達したが、1社あたりの平均資本金は4万円前後で、他県に比較してけっして小規模ではなかった。 このことは、県内各地の商工業中心地に設立された銀行類似会社が多く、しかもその資本金において、県内国立銀行の下位行を上回るものが16年末ですでに5社を数え、10万円以上を有するものが11社に及ぶなど、当時としては比較的大きな資本のものが含まれていたことによるものである。
 県内各地の銀行類似会社の中には、他行とコルレス契約を締結して積極的に為替業務を行い、公金も取り扱うなど国立銀行に比較して遜色のないものもあったが、総じて資本金を貸し付ける貸金会社であり、預金は僅少であった。
 また、13年以降、山間僻地に至るまで県内各地の農山村に小資本の銀行類似会社が設立されたが、同様に預金は僅少で、そのほとんどが資本金を貸し付ける貸金会社であった。
 松方デフレが信仰するなかで、17年を頂点とする農村不況のため、県内の銀行類似会社のなかには業態が悪化し、19年以降、解散するこのが増加した。 さらに、滞貸金の整理による自社株の所有が増加したため減資する会社が相次いだ。
 このように、県内の銀行類似会社の多くは、農村の不況期に増設され、農村金融の担い手となったが、営業満期前に解散したもの、他業種に転換したもの、普通銀行に改組したものもあり、25年末には34社に激減した。(中略)
 当時は、全国的に零細な貯蓄預金専門の私立銀行も増加していたので、普通銀行よりも厳しい監督を施すため、銀行条例と同時に「貯蓄銀行条例」も制定され、取締役の無限連帯責任、貯金払い戻し保証のための国債供託制、資金運用方法の制限などの措置が講じられた。 この2つの条例によって、ようやくわが国の銀行制度が確立したのである。
 銀行条例は同時に、乱立していた銀行類似会社の取締りを強化するめらいもあったから、その施行を契機にして全国的に銀行類似会社の整理が進行し、約半数が普通銀行に転換した。
 明治25年末に34社を数えた県内の銀行類似会社は、銀行条例施行後、25社が普通銀行に転換し、他業種へ転換したもの3社、解散その他6社となり、26年以降、統計面から姿を消した。 一方、26年7月以降28年までに5行(上能生産金融会社、秋成合資会社、小出荷為替合資会社、雷土銀行、三島農商銀行)の普通銀行が新設され、28年6月には県内貯蓄銀行の嚆矢となった直江津積塵銀行、同年9月には新潟貯蓄銀行が新設されて、28年末の県内銀行数は、国立銀行5行、普通銀行32行、貯蓄銀行2行、計39行に達した。
 日清戦争後、景気が回復し企業熱が勃興したため、銀行の業績は好転し、再び銀行の設立が増加して34年末には1,867行を数えた。この間、国立銀行のうち122行が普通銀行に転換した。 また、特殊銀行も相次いで設立され(明30年日本勧業銀行、31年農工銀行、33年北海道拓殖銀行、35年日本興業銀行)、30年の金本位制と相まって、わが国の貨幣金融制度はいちだんと整備された。 (北越銀行『創業百年史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』              北越銀行行史編纂室 北越銀行     1980. 9.10
( 2006年9月18日 TANAKA1942b )
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青森県の銀行類似会社
小野組から始まった金融事業会社
 今週は青森県の銀行類似会社を扱う。銀行類似会社をテーマに扱うのであるが、その前に明治初期、青森県の金融情勢から話を始めることにする。 青森県で最初に大きな動きを見せたのが小野組だった。この小野組、後に破綻するのだが、とにかくハイリスク・ハイリターンを狙ったベンチャー企業であった。その小野組が突っ走った道を一緒に突っ走ったのが開宝組、岡田組、大六組など。 その先頭グループがズッコケタ後を三井銀行が引き継ぐことになった。そして、公金を扱うグループとは別に銀行類似会社が幾つか誕生することになった。日本列島の最北端でも銀行類似会社が地域経済を支えていた。
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<青森県における銀行業の誕生=青森銀行> わが国に明治維新政府が成立したのは、イギリス産業革命から約1世紀を経、欧米資本主義がようやく自由経済から独占の段階へ移ろうとする時期であった。 当時、先進資本主義諸国のわが国に対する圧迫は強く、植民地化の危険さえはらんでいた。新政府はこうした国際情勢に対処するため、封建制度を打破する一方、殖産興業のスローガンをかかげ、近代的経済制度、近代産業技術の移植を通じて、資本主義的生産方法の保護育成に全力を傾注しなければならなかった。 すなわち、政府みずから機械、設備を輸入し近代的工・鉱業を興し、民間に模範を示すとともに近代的交通通信機関を整備し、他方、民間近代産業育成のため博覧会、共進会などの施策を通じて啓蒙、指導につとめた。 さらにその裏づけとして、近代的幣制の整備、近代的金融制度の確立について多大の努力を払ったのである。
 他の部門はしばらくおき、金融制度についてみれば、政府はまず、明治2年東京・横浜・京都・新潟・大阪・神戸・大津・敦賀の8か所に為替会社を設立している。 設立者はほとんど旧幕時代から御用為替方を務めた商人・高利貸であり、その中心は三井、島田、小野などの特権商人であった。為替会社の主業務は預金、紙幣発行、貸出、為替、両替等であり、その資金源は身元金、政府貸し下げ金、預金等であった。 貸付は旧藩主や士族にたいし優先的に行われ、それはさらに問屋、商人に貸し出された。為替会社は政府の手厚い保護のもとに一時繁栄したが、4年7月の廃止とともにしだいに衰運に向かい、横浜為替会社をのぞき、いずれも巨額の負債を生じて解散するに至った。
銀行類似会社の設立 資本の貧弱なわが国において殖産興業をはかるためには、まず共同出資による会社の設立を促すことがとくに肝要であった。 そこで政府は為替会社を保護育成するとともに、極力、会社知識の啓蒙に努めたこともあって、民間でも4年末ごろから金融機関設立を企図するものが現れた。三井組バンクの創立出願をはじめ、東京銀行、小野組バンク、豊岡の浚疏会社、鳥取県の融通会社、滋賀県の江州会社等多くの設立出願があいついで行われた。 政府はこれに対し法規に反せず、また公益を害さないかぎり、あえてこれに干渉しない方針をとり、「人民相互の結約」にまかせた。 しかし国立銀行条例の関係もあって、「銀行」の名称を使用することを禁じた。一般に「銀行類似会社」と呼ばれたこれらの会社は年を追って増加し、4,5年ごろには百にのぼるありさまであった。
 国立銀行設立以前のこれら銀行類似会社については、旧幕時代からの為替方、両替商、掛屋、銀方、藏元あるいは質屋、無尽、頼母子講等の旧金融業者が引き続き銀行類似業務を営んだほか、士族のための金融授産施設や豪商、豪農等の有力者たちの庶民高利貸、小金融機関としての銀行類似会社が設立されたと言われる。 そのうち、三井組、小野組のような旧幕時代からの為替方の勢力が強く、とくに政府と結び付いて官金取扱を行うものは有力であった。
中央資本の進出 明治初期の青森県において中心的な金融機関は、中央の巨大商人たる小野組であった。明治4年7月の廃藩置県以後、三井、島田、小野の為替方は府県方と称し、3府72県にわたって支店出張所を設け、公金の収支に従事した。 そのうち小野組はもっとも積極的であった。すなわち小野組は4年から府県方をはじめ、5年4月には兵庫、長崎、滋賀をはじめ21府県に出張所をおき、6年7月には1府28県の為替方を勤めるに至った。 これに対し三井組は5年に5か所、6年に13か所の為替方をなすにとどまる。6年5月における小野組「諸店名前書」によれば、小野組は「青盛米町四丁目」に出張所をおき、青森県の公金取扱に当たったことがうかがわれる (宮本又次『明治初期の為替方と小野組(4)』バンキング221号) 。
 ところで、「青森市沿革史」によれば、小野組進出に続いて榎本六造は開宝為替方を青森浜町に設立し、支配人赤松岩次郎を任命し(中巻696頁)、「青森市史」によれば、小野組、開宝組におくれて岡田組、大六組等の為替方が青森に支店を設けたといわれる(中巻309頁)。 このように青森地方に中央の大商人の進出が続いた背景としてつぎの事情がある。すなわち、明治6年の地租改正によって、政府はこれまで穀価の高低による歳入の不安定から免れ得たが、一方農民は農産物の販売の必要に迫られた。 由来津軽は米産地であって、藩政時代余剰米は貢租として大阪、江戸に回送され、北海道、下北方面に輸出されていた。ことに明治期にはいり、政府が北海道開拓を国策事業として計画、鋭意勧奨したため渡道者は急増し、これにともない津軽米の北海道輸出も増加した。 かくて北海道への要津たる青森はがぜん、米の集散市場となるに至った。ここに着目した小野組、開宝組、岡田組、大六組は米買い上げのための金融機関として農民へ融資すると共に、さかんに米相場を行ったのである。 明治8年村林勘六、榎本六造の「米金紛議」の訴訟はこのような貢米買請業務のあり方を示している。(中略) (『青森銀行史』から)
三井組・三井銀行 小野組は明治7年没落したが、その影響を受けて開宝組、岡田組、大六組などいずれも破産し青森を引き上げて行った。 小野組に代わって青森県為替方となったのは三井組である。三井組は9年8月、三井銀行に発展するが、青森県内では明治9年に青森出張店、明治13年に弘前出張所、明治24年に八戸出張所が設けられた(「三井銀行五十年史」による。詳しくは第3部「付・青森県内における県外銀行支店の沿革」参照)。
 ところで三井銀行は三井物産会社との協同によって納税資金荷為替取組をなした。その方法は、三井物産会社出張人は区長、戸長と代理契約を結び、現米受領後、本人への約定金額に相当する三井銀行の振出手形を交付する。 本人から区、戸長にこれを提出し納税の手続きをする。貸出の割合は県下平均時価の6割ないし7割までとする、というものであった(「三井銀行80年史」91−93頁)。 三井銀行はかかる方法に基づいて、当時、青森のほか秋田、宮城、三重、愛知、福岡、長崎、熊本において米穀荷為替取り組みをなしたと言われる。 (『青森銀行史』から)
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<青森県の銀行類似会社> 表は断片的資料から整理し得た地元資本による金融機関である。銀行類似会社についてはこれに記載漏れのあることが想像されるが、同表によれば明治25年までに国立銀行2行、私立銀行3行、貯蓄銀行1行、銀行類似会社12社が設立されている。 国立銀行は後にゆずり、私立銀行、貯蓄銀行、銀行類似会社の設立状況を見ればつぎの通りである。
 まず青森においては三井銀行や第五十九国立銀行が進出し、金融の便をはかってきたが、いずれも支店であった関係上とかく不便を免れず、ために当地の有力者は相はかって講を結んだ(「青森市史」第4巻337−8頁)。 済通社、正進講、盛融舎はその主なものであった。
青森県内、銀行および銀行類似会社一覧 (明治25年まで)
名   称 設立年月 設立地 資本金 資料
済  通  社 14年 青森    青森市史第4巻
正  進  講 不明 同上    同上
盛  融  舎 24〜25年 同上    同上
積  善  講 18年 同上    二代 渡辺佐助伝
共  益   社 19年2月 同上 20年ー2万円 青森県統計書
第五十九国立銀行 12年1月 弘前 12年ー20万円 明治財政史第13巻
明 八 会 社 8年 同上    弘前市史 明治大正昭和編
金  廻  舎 15年 同上    同上
弘 前 進 新 社 15年1月 同上    弘前進新社定則
弘前進新銀行 24年5月 同上 25年ー5万円 弘前市史 明治大正昭和編
両  盛  社 22年4月 木造 25年ー2万円 青森県統計書
高 谷 銀 行 25年7月 同上 25年ー1万円 同上
第百五十国立銀行 12年7月 八戸 12年ー10万円 明治財政市第13巻
八戸節倹貯蓄銀行 14年3月 同上 14年ー2千円 同上 第12巻
階 上 銀 行 15年9月 同上 15年ー20万円 青森県統計書
鶴  令  社 不明 同上    八戸の歴史 下1
積  善  社 6年 同上    八戸商工会議所廿五年史
共  惇  社 14年9月 同上 25年ー3千円 青森県統計書
  設立年月は開業年月をとっていることから本文中の設立年月と一致しないものがある
済通社 済通社は明治14年有志14名によって組織され、その業務は毎月850円を積立て満5ヶ年をもって5万円とする。講員に出資金の範囲内にて金融することにあった。 同社は伊東善五郎の発意から設立され、その実務は渡辺佐助(2代目)が当たった(「青森市沿革史」下巻73頁)。渡辺佐助は明治5年の第一国立銀行設立に際し、率先、青森における株式募集を引受け、後には明治32年、安田銀行が函館支店を閉鎖、青森支店開設するについて安田善五郎の相談を受けるなど中央銀行家と交際し、新知識を持ち、加えてその営業方針はいわゆる丸屋式(丸屋は渡辺家の屋号)で、堅実かつ保守的であったと言われる(「青森市史」第4巻339頁)。
 済通社は設立後、業務大いに進展し、明治18年には初期の5万円の講金を積立てたが、講員の意見分裂のため、ひとまず解体することとなった。しかし同社解散により青森商人の金融上の不便は一層著しく、利用者から済通社再興が強く要請された。
共益社 かくて19年1月、渡辺佐助を代表者とし、社名を共益社と改め、済通社の業務を継承営業することとなった。 社員はつぎの通りであって、済通社の講員をほとんど網羅している。
 渡辺佐助、淡谷清藏、大坂金助、伊東善五郎、石郷岡善蔵、渡辺文助、木村円吉、村林文助、長谷川与兵衛、加藤東吉、長谷川茂吉、小林長兵衛、渡辺治四郎、池田永助、渡辺慶助
 共益社の資本金は19年設立時に2万円、25年には5万円に増加した。その業務は貸金を主としたが、講員および希望者の預金も少額ながら取り扱っていた(「青森銀行沿革史」16−8頁)。同社は銀行条例施行にともない26年に青森銀行に改組発展している。
正進講と盛融舎 正進講、盛融舎について詳細はいま不明であるが、「青森市史」によれば正進講は大坂金助を主唱者とし、博労町の大坂宅に事務所をおき業務をなした。 正進講は青森商業銀行の母胎であったと言われる(「青森市史」第4巻347ー8頁)。
 盛融舎は24−25年ごろ、淡谷清蔵の主張に基づき組織され、講員はつぎの8名で、出資金は月1人10円であった。
 淡谷清蔵、淡谷金蔵、小林長兵衛、樋口喜輔、奥崎浅之助、新岡甚四郎、小島友七、鎌田喜助
 事務所を寺町1丁目の淡谷金蔵焦点におき、会長=淡谷清蔵、副会長=樋口喜輔、会計=淡谷金蔵という構成であった。 業務発展にともない、31年資本金1万円の合資会社に組織を改め、盛融合資会社と改称した。盛融合資会社はのち(第1次)青森貯蓄銀行に買収されている(「青森市史」第4巻356頁)。
積善講 このほか、渡辺佐助、長谷川与兵衛一族の相互扶助機関として積善講なるものが組織され、18年1月から24年12月まで継続している。 26年1月一族有志10名をもって再建され、300円を基金として逐年積立して公債株式を買い入れ、10万円以上の多額に達したときには、十全銀行を設立することを計画したが、永続せず解散した。
明八会社 つぎに弘前地方について見ると、早くから金貸会社が設立され、そのうちいくつかは私立銀行にまで発展している。 明治8年設立された明八会社はこの地方における金貸会社の最も初期のものと言われる。この会社は明治6〜7年に家禄奉還者に下付された産業資金を基礎として設立された。 株主は10名、その大部分は士族であった。「社則」には満3ヶ年をもって一期限としているが、いつごろまで存続したか不明である(「弘前市史」明治大正昭和編315頁)。
弘前進新社 明治10年代に入りこの地方にも各種の工場や会社企業が設立され、ことに第五十九国立銀行の開業後、これに刺激され15年1月には弘前進新社が設立され、またこのころ金廻舎も創業した。のち前者は進新銀行へ、後者は関銀行へ発展している。
 弘前進新社定則によれば、弘前進新社は1株5円で社員を募集し、社員をして5ヶ年間1株につき毎月5円を積立てさせ、株主は原則として自由に退社できない。業務はもっぱら公債証書・銀行株券を買入れ、かたわら抵当貸付をなす。
 会社役員として社長1名、取締4名、支配人1名を置く、取締は投票をもって株主中から5名を互選し、取締は投票をもって社長を互選する。また社は委員をおき、株主中より15名を互選する。 委員は社の事業および役員の勤惰に注目し時宜により社長に意見を具申する。株主総会としては、定式集会と臨時集会を置く。 設立後満5年間利益を据置き積立てる。営業期間は明治15年1月から満5年間を1期とし、1期終了後、株主の協議により銀行を設立することもできる、などが定められた。
 設立当時の株主は総員78名で筆頭株主は武田清七で10株を所有し、ついで上野啓助(5株)、今泉文蔵(4株)、宮本甚兵衛(3株)となっている。以下2株24名、1株50名を数える。
 2株以下の株主にも宮川久一郎、藤田半左衛門、松木彦右衛門、菊池定次郎等弘前の代表的実業家が参加している。第五十九国立銀行が後述するように士族の出資を主体に設立されたのとは対照的である。 もっとも第五十九国立銀行頭取大道寺繁禎も進新社へ2株出資している。役員は同社の第1回半季実際報告によれば、宮本甚兵衛、武田荘七、武田■藏、武田清七、大道寺繁禎となっており、社長は大道寺繁禎が勤めた。
 ところで弘前進新社の実態を同社の「毎期勘定帳」からみると、同社は15年4月開業し、17年末まで「定則」に従って毎月払込みをなし、これに各期の利益金を繰り入れ、資本金となしたが、19年1月には資本金を3万円に固定化している。 一方資金運用では「定則」に反して貸付が圧倒的に多く、有価証券投資は18年下期から現れるにすぎない。いわば同社運営の実情は「定則」とかなり異なったものであった(杉山和雄「明治前期銀行類似会社の一事例──弘前進新社について」弘前大学「文経論叢」3の5参照)。
弘前進新銀行の設立 弘前における最初の私立銀行として、明治24年4月設立した弘前進新銀行はこの進新社の改組発展したものである。資料的制約から銀行への移行の経緯は明らかでないが、弘前進新社は最初5ヶ年を1期とし満期後に銀行設立を予定していたのであるから、なんらかの事情によりこれを変更し、2期後の10年目に銀行への改組を決定したことになる。 設立当時の資本金は5万円、頭取には武田甚左衛門、取締役には村林嘉左衛門、今泉文蔵、宮川久一郎、武田荘七(兼支配人)が就任した(「弘前市史」明治大正昭和編317頁)。弘前進新銀行は明治27年1月弘前銀行と改称し、大正8年10月第五十九銀行と合併している。
両盛社と高谷銀行 「青森県統計書」によれば津軽地方には前述のほか、木造に両盛社と合資会社高谷銀行が記されている。両盛社は22年4月設立され、25年の資本金は2万円であった。 合資会社高谷銀行は15年7月、高谷豊之助によって資本金1万円をもって設立された。ちなみに会社登記簿や「青森県総覧」には同社の設立年月日を26年7月1日とあるが、東奥日報26年1月に同行第1回勘定報告が掲載されている。高谷豊之助は木造地方の大地主(大正13年調査によれば233町歩)、県下屈指の富豪であって、農業のかたわら金貸業を営んでいた。 同行は、木造地方における唯一の金融機関として大いに歓迎された。25年下期の資本金は1万円、当座預金4,483円、定期預金3,030円、これらの資金に対して運用面では貸付1万1,766円、当座預金繰越2,540円、他店株券3,030円となっている。 利益金は926円であった。なお26年10月の役員は頭取山内佐五兵衛、支配人高谷忠三郎、取締役竹林孫右衛門であった。
八戸節倹貯蓄銀行と階上銀行 つぎに八戸地方について見れば八戸節倹銀行、階上銀行があった。八戸節倹銀行は14年3月、資本金2,000円をもって設立された(「明治財政史」第12巻976頁)。 設立事情およびその後の経過についてはほとんど不明であるが、18年には資本金は2,400円、株主は6名であり、(「青森県統計書」明治18年)、東奥日報紙の広告によれば24年末まで営業していたことがうかがわれる(「東奥日報」明治24年12月1日──第3部同行の項参照)。(中略)
 なお、「青森県統計書」(明治25年)によれば八戸には共惇社なるものが14年9月設立され、貸金業と燧木(つけぎ)製造を行った。資本金は25年に3,000円であった鶴令社は旧藩士の利殖機関であったが、のち第百五十国立銀行へ発展し(「八戸の歴史」下1)、積善社は階上銀行の前身であった(「八戸商工会議所廿五年史」21頁)。 (『青森銀行史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『青森銀行史』              青森銀行行史編纂室 青森銀行     1968. 9. 1
( 2006年9月25日 TANAKA1942b )
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埼玉県の銀行類似会社
江戸近郊という特殊な地域事情
 今週は埼玉県の銀行類似会社を扱う。埼玉県は江戸に近く、都会への物資供給地であった、という特徴がある。それと維新後は秩父暴動が地域発展を妨げていた。それでも、銀行類似会社は他県と変わらず地域経済に大きな影響を与えていた。 地域経済を考える場合、中央政府の動きと、歴史に名前が残らないような庶民の動きも考慮する必要がある。金融の歴史を見る場合、明治政府の動きだけでは表面だけしか分からない。地方の士族・地主をはじめベンチャー企業に挑んだ人たちと、それを支えた庶民の動きも見る必要がある。、
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<埼玉県の銀行が繁栄した、その背景=埼玉銀行> 明治から現在に至るまで、埼玉県に設立された銀行は延べ83,銀行類似会社にたっては、当行の調査で確実なものが130社であるから実数150をはるかに越すであろう。 両社合わせて確実分213という数は全国的にみて少ないほうではない、。この多数の金融機関を生んだ原因を探ってみると、次のような事実が浮びあがってくる。
 1、埼玉県は、江戸時代から政治的首都の物資供給地として、早くから商品経済が発達しており比較的富裕であった。
 2、領地細分化政策のため、100町歩前後の地主を筆頭として富が比較的平均化しており、大富豪が生まれなかったので、企業資金の需要は早くから強かった。
 3、同じ理由で大都市がなく、同じくらいの小都市が多く、全県的に結合する気風に乏しかった。加えて小地域内でも互いに党を建てて割拠する風習が強かった。
 4、文化度が比較的高く、郷土の先輩に近代企業の父、渋沢栄一を有するため、その強い影響を受けた。
堅実な経営態度 数多い銀行の中には、いかがわしい経営で預金者に大きな迷惑をかけたものもあるが、一般にその経営方針は堅実であった。 明治期の本県銀行は重役は主として地主によって公債されていた。昔から地主は好むと好まざるにかかわらず金融を行わないわけにはいかなかったから、銀行経営においてその経験がものをいったのであろう。
 また本県は自由民権運動いらい、政争がかなり激しかったにもかかわらず、銀行側に、あるいは銀行内部に政争を持ち込んだ例ははなはだ乏しい。この懸命な経営者の態度と、後述するように大正7年(1918)に武州銀行を創立し、弱小銀行の整理統合を積極的に推進した岡田知事らの適切な指導とによって、 その後の恐慌にも多くの府県に見られるような被害を出さなかったのである。
銀行類似会社の状況
銀行類似会社とは、明治5年制定の国立銀行条例の規制の範囲外のもので、「銀行」の名称を用いることは許されなかったがその業務はほとんど銀行と同様なことを行ったものである。 本県に設立された銀行類似会社は非常に多く、県庁保管の書類によって確認されるものだけで130社に達し、それ以外にも相当あったと推定される。 確認される130社もその結末はどうなったのかほとんど不明である。類似会社から銀行に改組されたものは相当数あると思われるが、確実に立証されるものは6社にすぎない。
 資本金は、明治20年ごろまでは概して多く、銀行に対して見劣りしなかったが、その以後となるとしだいに少額のものが増えていった。埼玉県の銀行類似会社の最盛期は明治30年ごろまでで、それ以後しだいに減少していった。つぎに銀行類似会社のいくつかを記してみよう。
 資本金は明治10年(1877)12月に設立された合資会社生産会社は児玉郡八幡町の福田礼蔵、児玉町の松井竜作、坂本伝平、久米篤太郎、傍示堂村の内野弥三郎の5氏による資本金5万円の会社であった。会社の所在地は児玉町でなくより広い地盤を選んで熊谷町に置き盛んに営業した様子であるが、その終末は不明である。
 明治14年(1881)の設立された比企郡今宿村の青盛社は、石井弥三郎、吉田善太郎、石井鉄五郎の諸氏が、37名の株主から集めた資本金5万円で盛んに営業をしていた。 同社に設立された入間郡久米村の盛産社も高橋国蔵氏が株主30名から集めた5万円をもって付近に勢力を張っていたが翌年金山銀行に改組された。 明治15年に児玉郡本庄町に設立された産盛会社は半田治右衛門氏が中心となって資本金5万円をもって県北一帯から群馬県まで手広く営業をしたという。 比企郡小川村に明治14年設立された儲備一銭会社は、笠間喜八郎、梅沢惣七ら16氏の出資金3万円で、付近の織物業者に融資し織物価格を動かすほどの清涼があったという。 この会社は明治17年設立の小川銀行の前身らしいが確証はない。
特殊銀行の状況 <<農工銀行>> わが国の銀行は商業銀行として成長したのであるが、日清戦争五後の急激な産業発展に対処するため、政府は長期産業資金を供給する専門金融機関を設立することとして、明治29年から33年までに、特別法を公布した。
 埼玉農工銀行は、農工銀行法によって、明治31年に設立され、農工業者に長期資金を供給した。
<<貯蓄銀行>> 国民大衆の比較的零細な貯蓄性預金を吸収する金融機関をさし、わが国では明治23年(1800)貯蓄銀行条例によって始まり、大正6年には全国で663行に上った。今日では実際上専門の貯蓄銀行は1行も存在せず、昭和18年(1943)「普通銀行などの貯蓄銀行または信託業務兼営などに関する法律」によって普通銀行がすべて貯蓄銀行業務を兼ねている。
本県では、明治28年(1895)埼玉貯蓄銀行設立を初めとして、14行設立された。本史ではその計数などは普通銀行と区別せず計上した。
地域別の考察 銀行が全国的ピークに達した明治34年(1901)末までの、郡別の銀行および類似会社の設立数は、表の通りである。入間郡が圧倒的に多いのは、城下町川越の経済力と、周辺の綿織物、飯能一帯の生絹、狭山地方の製茶などの産業によるもので、入間郡は大正中期まで県経済の中心であった。 また、児玉郡は児玉(蚕玉)の名を負うとおり、古くから養蚕の盛んな地で、生糸・生絹の産出が多いことによるものであった。3位の北足立郡は県都浦和を擁し、東京に近接して明治中期から企業が盛んに起こったためである。 小川の和紙・生絹以外これといった産業のない比企郡が4位をしめているのは一見不思議に思われるが、県下最初の第八十五国立銀行の株主に、地元入間郡の地主よりも、比企郡の地主が圧倒的に多いことなどからみて、銀行業に関心を持った富裕な地主が多かったのであろう。 純農村に設立された銀行10行中秩父郡と同数の3行で1位を占めていることでもそれが裏書きされる。
明治34年末までの銀行ならびに類似会社延設立分布 (明治25年まで)
郡  名 行 数
入間郡 60
児玉郡 22
北足立郡 21
比企郡 19
大里郡 13
秩父郡 14
北埼玉郡 12
北葛飾郡
南埼玉郡
合 計 176
 絹織物の産地秩父郡が少ないのは不思議である。面積が広く人口が多い大里郡が以外に少ないのは、農産物以外さして産物のなかったためであろうか。南埼玉郡、北埼玉郡、北葛飾郡は水田地帯で産業に乏しかったのである。
銀行生成期の苦難
埼玉県は武蔵国を東京と分割してできたものだけあって、古くから東京への物資供給地であった。当然、工業も比較的盛んではあったが、明治初期の本県の産業は農業がそのほとんどを占めていた。 絹・絹織物・足袋・和紙などの工業も、主として農家の副業として行われていた。
 当時の金融は、金貸し・質屋・無尽に頼り、肥料・農具・日用品などの購入代金は半年払いであった。工場はほとんど手工業であり、これは商人とともに問屋金融に依存していた。
 明治4年(1871)に商工業の自由選択、農民に作物の勝手作りが許され、同6年には地租がそれまでの米納から金納に代えられた。当時の農村は、貨幣経済に支配されるようになったとはいえ、まだ現物経済の面が強く残っていた。 それが、この地租金納によって完全な資本主義経済に組み入れられた。工業も手工業から、小規模ながら工場制生産に移行していった。こうして金融機関の必要性がしだいに強くなってきた。
国立銀行の設立
明治11年(1878)、川越町に第八十五国立銀行が設立された。その後、2つの国立銀行設立の企画があったが、これは許可されなかった。しかし第八十五銀行の順調な発展、特に収益力の高さが注目され、各地に銀行設立の機運が起こった。
私立銀行の設立
明治13年(1880)1月川越町に川越銀行が設立された。これは私立銀行としては、埼玉県で最初だけでなく全国でも7番目、東京を除く地方としては、徳島県の久米銀行に2ヶ月遅れて、2番目の設立であった。
 14年には鴻巣宿に埼玉銀行(現在のサイギンとは無関係)、松山町(現在の東松山市)に松山銀行の2行が設立され、翌15年には入間郡久米村(現在の所沢市)に金山銀行、同郡入間川村(現在の狭山市)に入間銀行、北足立郡常光村(現在の鴻巣市)に明壌(めいじょう)銀行の3行が生まれた。 16年に入ると横見郡上銀谷村(現在の比企郡吉見村)に横見銀行、北足立郡川田谷村(現在の桶川町)に足立銀行、北埼玉郡加須町に称隆銀行の3行、翌17年には入間郡扇町屋村(現在の入間市)に扇町屋銀行、比企郡小川村(現在の小川町)に小川銀行、同郡大塚村(現在の小川町)に比企銀行の3行がそれぞれ設立された。 終えて19年には飯能町に飯能銀行が誕生した、つまり明治13年から、わずか6年間に13行が発足したわけである。
地租の金納
明治5年(1873)政府は、藩主の土地領有を廃止、土地の私有を認め、地主に地券を与え、土地の売買と作物の勝手作りを許したうえで、地租を金納にした。 1反の米の収穫高を平均1石6斗、代価を石3円(反4円80銭)とし、1反の地価を反当たり収入の10倍、48円に決め、中央地租(国税)をこれの100分の3、地方地租(県税)を100分の1としたのである。 明治6年の米価で計算すると反当たり収入の3割が地租にあたった。つまり米価が高ければ農家の収入に対する地租の負担率は軽く、米価が安くなれば農家の収入に対する地租の負担率は重くなる仕組みであった。 それまで現物経済の傾向が強く残っていた農民にとって、不慣れな貨幣経済への移行は当面かなり大きな負担であった。それはさておき13年に1石10円50銭だった米価が、17年には5円にまで暴落してしまった。 このため地租と肥料代諸掛かりを差し引くと、1反歩(10アール)で2円余、今の生産者米価で換算すると8,000円余の赤字になったと、米どころの川島領の農家の記録に残っている。 このため地租不納で競売にふされたり、あるいは大地主、高利貸に借金のかたに土地を奪われ小作人に転落するものが続出した。
秩父暴動
明治10年前後から起こった自由民権運動は国会開設・憲法制定など民主主義を要求して全国に広がり、しだいに勢力を強めていった。 政府はこれを強く弾圧したので、憤慨した過激自由党員は、困窮した農民と結んで、明治17年(1884)群馬、加波山(茨城)、秩父などで暴動を起こすにいたった。
 秩父暴動の直接の原因は、高利貸の暴利にあった。食糧の自給のできない山間秩父地方は古くから絹織物生産に頼っていた。安政の開港いらいの生糸の暴騰、暴落の繰り返しは結局農民にしわ寄せされて、その結果は高利貸しのはなはだしいぼっことなった。
 当時の高利貸しの貸借は、10円の借用証文を徴収した場合、実際に貸し主に渡される金は、7円ないし8円であった。これを「2分切り」とか「3分切り」という。 これは利息の先取りではなく、利息は別で、利率は年2割であった。そのうえ通常3ヶ月の約定で、期限がきて返済できないとさらに元利合計の2割という違約金を取ったから、7円ないし8円の元金が、1年後には25円20銭4厘にもなった。このため小地主、小生産者は大量に没落して、金貸しのみ太っていった。 秩父の金貸しの筆頭といわれた稲葉良助は、100円足らずの元手を10年間に5万円に増やしたという。
 困窮した農民は困民党を結成、金貸しに条件緩和を再三交渉する一方、郡役所にも請願したが取り上げられなかった。追いつめられた農民は、侠客田代栄助を首領にいただき、高利貸しに対し、10ヶ年据置き40ヶ年賦、郡役所に対しては学費節減のため小学校3ヶ年急行、租税免除などを要求した。 17年11月1日下吉田村(現在の吉田町)に蜂起、2日には大宮郷(現在の秩父市)に突入、郡役所、警察署、高利貸しを襲撃、ほぼ全秩父を支配した。この暴動は、軍隊の出動により11日に至って壊滅したが、被害戸数は秩父・児玉両郡にわたって556戸であった。 襲われた金貸しの中には国神村(現在の皆野町)の永保社、井戸村(現在の野上町)の共救社、大宮郷の興産社などの銀行類似会社が含まれていた。
相次ぐ銀行倒産
秩父暴動に見られるように、小企業者・農民の困窮は、設立後間もないうえに基礎がまだ固まっていなかった銀行に対し大きな打撃を与えた。 明治17年には、設立1年余にして横見銀行が倒産、翌年には松山銀行が倒産するなど、26年末までに9行がはかなく姿を消して、地元銀行はわずか5行に減少した。
銀行の乱立
わが国が近代国家として初めての大試練だった日清戦争(1894-95)も、わが国の勝利に終わり、国民の国家意識がいちじるしく固まる一方、戦争による通貨増発、台湾の領有、償金2万両(邦貨約3億円)の流入などにより、企業熱は全国的に燃え上がった。 銀行設立はその先頭を切り、34年(1901)末には全国普通銀行数は1,867行とピークに達した。本県もまた例外でなく、27年から34年までの間に、じつに55の銀行があいついで設立され、合計58行にも達した。
 県下の主な町で、その町に銀行がないというところの方がまれで、大抵の町で1ないし2の銀行が営業するにいたった。
 このころの銀行は、資本金の運用を主とした貸金業に域にとどまり利率が多少安い点を除けば街の金貸しと大差はなかった。預金はいずれも少なく、信用が格別厚かった第八十五銀行でさえ、創業19年目の30年下期にいたって、ようやく資本金(20万円)を上回る22万4,709円の預金を記録した程度であるから、他は推して知るべきであろう。
銀行、金融界の主流となる
明治初年から25年(1892)ごろにかけて本県の金融の主流は銀行になく、むしろ金貸しであった。正確な資料に乏しいが、明治15年ごろ個人金貸しは約800,銀行類似会社は少なく見積もっても80社あったと推定される。 そのなかには資本金も銀行に劣らない何万円という運用資金を擁し、通称○○銀行と呼ばれるものもあって、誕生間もない銀行と競っていた。一般も銀行と銀行類似会社とをなんら区別することはなく、経営者の信用によって取引を行ったらしい。 これは民間だけでなく官庁でも同様で備荒儲蓄法の項で述べたように明治15年県の公金が銀行と同様に預け入れられている実例がある。 こうした金貸しも時代の推移につれてしだいに銀行業に転身していった。こうして29年ごろになってようやく銀行が金融界の主流となった。 (『埼玉銀行史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『埼玉銀行史』             埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行     1968.10. 1
( 2006年10月2日 TANAKA1942b )
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山形県の銀行類似会社
困窮士族の救済事業やその他の金融機関
 今週は山形県の銀行類似会社を扱う。153の国立銀行は、国の条例に基づいて出来た金融機関、そして、その後の三井銀行や安田銀行などの私立銀行も国の条例・規制に基づいて出来た金融組織だ。 しかし、銀行類似会社は違う。理想的なモデルがあって、それに近い組織をつくろうとしたのではい。各地で人々が試行錯誤を重ねながら作っていった金融サービス。国の規制に収まらない金融システムで、そうした規制からはみ出した機関を、他に良い言葉がないので、「銀行類似会社」と呼んでいた。 中央の司令塔の指示に従ってできたのが、国立銀行であり私立銀行だ。銀行類似会社は、このように捉えていくと、いかにも市場経済・自由経済だから生まれた金融サービスだ、ということが分かる。
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<山形県の銀行類似会社=荘内銀行> 表は明治18年の山形県統計書に記載されたものである。おそらく各町村には、もっと多くの銀行類似会社があったと思われるが、以下、庄内地方の銀行類似会社と、銀行類似会社から銀行になった元商社および米沢義社について述べる。
明治18年現在の銀行類似会社 (単位:円)
社  名 種  類 所 在 地 開 業 年 月 資 本 金
拡 益 社 貸 付 金 西村山郡海味村 明治12.12 2,988
救 急 社 金 穀 貸 付 東村山郡天竜町 12.02 3,600
積金貸付会社 貸 付 金 東田川郡余目村 13.05 30,000
済 救 社 貸付及預金 西川田郡鶴岡五日町 12.12 80,000
公 益 社 貸 付 金 西川田郡加茂村 18.01 3,000
拡 盛 会 社 貸 付 金 西置賜郡山口村 15.05 2,851
米 沢 義 社 貸 付 金 南置賜郡元細工町 13.12 153,387
元 商 会 貸 付 金 南置賜郡元細工町 13.02 57,000
余目積金所 明治13年、東川奈郡余目村の佐藤善治らが発起人となって、余目積金所を創立した。資本金3万円で1株10円、株主は231人。 株主のうち余目村に126人、余目以外の東田川郡に82人おり、合わせて90%を占めた。筆頭株主の佐藤善治は、第七十二国立銀行の頭取。
 この会社は明治13年5月1日、余目村39番地に開業し、社長は斎藤良輔、取扱人(支配人)は佐藤常蔵であった。 斎藤はのちに山形県議会議長、衆議院議員となった人物だが、社長就任は本人が出張不在中に、発起人が相談して決めたので、あとでトラブルの原因ともなった。 積金所の種子は「小前のものをして日々1銭以上預金を為し身元相応の貸付をも可到実に便利なる所業」(自叙伝『還暦の斎藤良輔』)で、5月1日の開業から12月末日までの営業日数は207日間、1日平均の入金275円余、出金は232円余。 株主から期待されて営業をはじめ、大いに利用されたことが、これらの数字からうかがうことができる。
 12月末の定期預り金は1,369円余、当座預り金は67円、貸付金は10,060円で、1,213円余の利益を計上した。その後、預り金、貸付金とも増加したものとみられる。 貸付金の抵当は生糸、金銀、米穀、公債証券などで、期間も1ヶ月から長いもので3ヶ月、証書の書換は3度に限ると取り決めていた。だが、2,3年経ってデフレが深刻になるにつれ、貸付金のとどこおりが増加し、加えて16年3月の第七十二国立銀行の類焼で、この積金所の債務者が大きな損害を受けたとの世評から、株主や預金者のなかには、払戻を請求するものも出てきた。 また、貸付の取り決めにもかかわらず、貸付金は無抵当が多かった。そこで18年に規則を改正するなど、経営改善のための努力を傾けた。 しかし、努力もむなしく、営業を続けることは、いたずらに税金や預り金利子の負担を重くするばかりだったので、ついに19年5月11日に臨時総会を開き、解散を決議した。
 株主が多いうえに、東田川郡に集中していたので、余目積金所の失敗の後遺症は大きく、昭和の初めまで影響を及ぼした。
株式会社済救社 済救社は、困窮した士族の”急を済(すく)う”ために、旧藩時代から経済非凡の人物といわれた山岸貞文が主唱し、設立した貸金会社である。 明治13年7月12日に設立の免許を得て、8月1日に鶴岡五日町103番地で開業、初代社長は山岸貞文。
 当時は士族の生活を安定させることが急務であった。出資者は松ヶ岡開墾に参加したものなど、金禄公債を売って投資した士族であった。資本金8万円、1株20円で、資本金は第六十七国立銀行の最初の資本金と同じであった。 18年の山形県統計書によると、営業種目は貸付および預金、開業は12年12月となっているが、22年以降の統計書では、営業種目は貸金だけとなり、25年からは13年8月の開業として記載されている。26年作成の会社登記簿も同様である。
 済救社の滑り出しは好調であり、利益も多く、当時さかんだった第六十七国立銀行と、営業を競い合うほどであった。これをみて加入者も多くなり、出資者は安心して自分の職業に従事したといわれる。
 ところが、松方デフレが地元に及び、その影響が深刻になるにつれて、抵当品は下落し、得意先の零落などが続いて、経営は次第に困難になった。 当時、第六十七国立銀行頭取でもあった山岸社長は、19年2月に死去し、旧藩士の黒岩謙次郎が社長となった。だが、自体は深刻になるばかりで、同年11月には臨時総会を開き、会社の存廃を論議するまでになった。 その結果「いま解散して資産を分配すれば、20円の株がわずか2円にも達しない」ということで、とどこおっている資金を督促し、抵当品を処分するなどして手を尽くせば、せめて10円を超すことになろうと判断し、会社は存続と決まった。
 その後、黒岩社長が引退し、22年5月に黒崎与八郎が社長になった。黒崎与八郎は嘉永6年(1853)旧藩家老酒井了明の3男に生まれ、黒崎家を継いだ。 菅実秀を師とし、松ヶ岡開墾にも加わり、27年から16年間、町会議員をつとめた。また、研堂と号し、庄内地方を代表する書の大家でもあり、多くの門人をもった。
 社長に就任した黒崎与八郎は、会社再建に尽力したが、予期したせいかをあげることができなかったので、26年には資本金を6万円減じ、2万円ぬするという思い切った措置をとり、不良債権の整理を行った。 この26年には新商法が施行されたので、はっきりした株式会社組織をとえい、役員は取締役社長黒岩与八郎、取締役副社長細井旧服、取締役三矢弘義、取締役支配人永井友信、監査役金井成功、同秋保親兼という顔ぶれであった。
 決算は5月と11月の年2回で、28年上期(第3期)の株主名簿を見ると、旧藩主酒井忠篤を筆頭に、全部が旧庄内藩の士族である。同期の配当は年4%であったが、33年からは5%、大正3年からは10%の配当を継続して行った。 この間の経済界の激しい変動を考えると、当事者の経営の努力の跡を忍ぶことができる。
 預金を取り扱わなかったので、資金の調達は借入金に頼ったが、主に六十七銀行から借り入れ、時に地主、商人から借り入れることもあった。
 貸付先は商人、機業家などだったが、農家にも貸し出した。農家への貸付の多くは、春先に肥料資金として貸し、出来秋に回収する短期資金で、資金需要は東田川郡に多く、飽海郡平田村方面へも出張することがあった。 商人、機業家などには、主に地所、建物を抵当として貸し出したが「動産物抵当ノ却テ手数ヲ省キ詐欺ニ陥ルノ懼レ寡ナク甚タ便益ナルヲ認メ鋭意ニ之ヲ実行スルヲ務メ」(明治28年上期営業報告書)ることにした。 担保品保管倉庫を持ち、商品担保貸出が増えていった。28年下期は、報告書で「限アルノ財以テ限リナキノ需メテ充タス事態ハス」というほどの景況であり、機業勃興期の資金需要の旺盛さを物語っている。その後も地元の産業経済の消長に対応しながら、堅実な経営を続けた。
 大正に入ると、鶴岡町には六十七銀行、鶴岡銀行の本店、両羽銀行の支店、同じ五日町には両羽農工銀行の須点、荘内実業会があり、さらに大正6年3月には風間銀行が開業するようになった。 経済の急激な発展が、金融の需要を高めた結果だが、もはや資本金2万円の貸金会社では、経済の実情にそぐわなくなってきたので、大正9年2月11日に臨時株主総会を開き、解散を決議することになった。
 解散にあたって「理由、当社ハ小資本ニシテ金銭貸付ノ業ヲ営ムモ将来経費ハ倍加シ諸税ハ増額ノ趨勢ニテ収益ノ多キヲ望ミ難ク配当及積立ヲ従前ノ通リニ持続スルハ至難ノ業ニ属スルニヨリ幸ヒニ株式会社六十七銀行ニ増資ノ挙アツヲ機トシ当社ヲ解散シ該銀行株券ヲ譲リ受ケ株主諸君後来ノ福利ヲ謀ラントス」 と訴え、株主の理解を求めた。
 そして、人の面でもつながりのある六十七銀行へ、資産、負債のすべてを譲渡し、同社の株式1株につき六十七銀行の新株(12円50銭払込済み)3株を譲り受けることにした。 このようにしてすべてが円満に生産できる見通しがつき、9年4月30日限りで42年にわたる歴史を閉じた。
 解散のときの役員は、取締役社長黒崎与八郎、取締役三矢弘義、同図司重正、同永田健雄、監査役金井功、同鳥海良邦であった。
公益社 公益社は明治13年4月、県令の認可を得て、加茂村浜町46,加藤三九郎宅に設立された。党にの旺盛な資金需要に応ずるとともに、地主、商人の利殖のためためた投資が目的だったとみられる。 古くからの商港であった加茂港の商人は、蓄積した資金で田地の所有をふやしていったが、なかでも秋野茂右衛門家は、18年には酒田の本間家に次ぐ巨大地主となっていた。
 資本金は3,000円、1株50円、全部で60株のうち、秋野家一門が29株も占めていた。毎年5月と11月に決算したが、貸金の利用者は広く分布し、50円以下の小口貸金が多く、抵当の大部分は耕地、宅地であったといわれる。 預り金1万1,808円のうち、有福講の分が7,486円(53件)であった。預り金は23年がピークで、24年の預り金の返還は、それまでの半分になり、25年にはゼロになった。阿須解禁を手いっぱい貸し付けるので、貸金の返済がとどこおると、たちまちショートを起こすようになった。
 23年ころから整理を要する貸金が増え、未収利子も同様に増えた。当時、秋野家が預り金を提供したが、これは救済融資的なもので、23年下期の預り金2万4,061円のうち、9,610円は秋野家からのものであった。 さらに、秋野家一門による株式の肩代わり、社長就任などがあって、実質的には秋野家の経営に変わった。しかし、それでも公益社の経営は好転することもなく、30年ころには解散した模様である。 そのころは金融機関が形を整えてきており、第六十七国立銀行は30年に加茂に店舗を設けた。
元商社 藩政時代に米沢藩では商法局、商法会所が藩札を発行し、広く貸付を行い、正貨を蓄えて藩札引換の準備金としていた。 廃藩の際、商社と改称、その後も元商社と称して、貸金業を継続して営んだ。維新後の激動期に社業は衰えたが、明治7年に池田成章が社長となり、次第に興隆へ導いた。26年の商法施行で、合資会社とした。 会社の目的は貸金と預金で、所在地は元細工町、資本金は3万5,000円、この時の業務担当社員は池田成章であった。
 県の統計書では、26年から元商合資会社と次項の米沢義社を、銀行業として分類せている。大正9年には資本金を20万円としたが、出資のほとんどは上杉家であった。 昭和3年に社名を変更して、合資会社元商銀行となったが、翌4年8月、会社存続期間の満了を機会に解散した。
米沢義社 廃藩の際、米沢藩主上杉茂憲は東京に移住するにあたって、旧藩時代に蓄えた金と米とを家臣に与えた。士族1戸につき金10両、もみ3俵ずつで、将来に備える資金として士族全体に与えた総計は、金が17万円余、もに10万俵に達した。 士族はこれを管理する機関として、義社を設立した。上杉家は士族授産のために、別に1万円を寄付したので、生産者を興し、漆器、糸織などを製造した。
 義社は飢饉を生産社や藩内の富豪らが設立した商法通幣方に貸し付けたが、やがて基金の一部を士族にも貸し付けるようになった。 明治13年には株券を発行したが、株券が次第に平民の手に移り、かなりの数になったので、26年に商法上の株式会社とした。このときの払込資本金は7万円で、所在地は元細工町であった。 年月がたつにつれて、士族結社の正確が薄れ、32年には銀行として登記した。大正5年、両羽銀行に合併したが、当時の資本金は10万円で、株主の数は122人であった。
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<その他の金融機関> これまで述べた国立銀行、私立銀行、銀行類似会社のほかに、庶民の生活に密着したものとして、無尽、質屋、貸金がある。 これらはいずれも、わが国古来の金融の組織で、社会生活に深く根ざしたものである。銀行とはどういうものか、よく知られなかった明治前半に時期に、これらの期間が貸し出した金額が、おそらく銀行のそれを上回るものであることは、容易に想像できる。 このほかに、明治の初めには政府の手によって、駅逓寮貯金(のちの郵便貯金)が始められた。
無尽 頼母子講と同様である。例えば、講元が中心となって講をつくり、決まった期日に一定の掛金を出し合い、くじ引きまたは入札の方法で、講参加者全員に順次一定額を給付する仕組みが無尽講である。 困窮者の救済、農具の購入、旅行など、いろいろな面で役立ってきた。その形は経済社会の発展とともに、多種多様となり、富くじ的性格を加味した複雑なものもあった。 明治30年代以降は、徐々にではあるが、より多数の人びとを相手とする営業無尽が発達して、中小商工業者」の金融機関として活動を始めた。これが無尽会社であり、現在の相互銀行=第2地方銀行の母体である。
質屋 商人や地主で兼業するものも多く、明治18,19年ころの県内の質屋の数は、およそ300軒であった。 市や町の多かったであろうから、質屋のない村もだいぶあったとみられる。そのころの質屋の流れ1件あたりの金額は、1円程度であるので、零細な生活資金の融通であったことがわかる。 当時は、貸金業とほとんど同じような営業内容で、質種となる担保物件は、品物だけでなく、土地建物という不動産も含まれていた。 土地の商品化は、地租改正によって促進されたけれども、6年の地所質入書入規則によって、土地抵当金融が保証された。
貸金 貸金業専業のものもあったが、商人、地主で貸金業を営むものは多かった。ことに地主にとっては、貸金利子は小作料、その他の収入(配当金など)とともに、収益の大きな源泉であった。 そして、抵当流れの土地は、地主の土地集積に大いに役立った。また、大地主のなかには、貸金部門を銀行として分離、独立させるものも現れた。その蓄積した資金をより広く運用するためにである。
郵便貯金 イギリスの郵便貯金制度を導入し、内務省駅逓寮の付帯業務として、「貯金預かり規則」を制定し、明治8年5月に東京の18局と横浜で取扱を開始、次第に各府県の郵便局に貯金預所を設け、鶴岡では12年に貯金の取扱を始めた。 16年10月、山形県令は告第149号で「夫レ勤倹ハ先哲ノ難ンスル所之レヲ守ルノ家ハ興リ守ラサルモノハ亡フ」と、貯金を奨励した。そして管内の貯金預所を記し、山形、酒田、米沢では郵便局のほか、個人も預所となっている。 20年には郵便貯金と改称され、やがて山間へき地に至るまで、郵便局が設置され、庶民の生活と深く結びついた存在となる。 (荘内銀行『創業百年史』から)
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<銀行類似会社が続々設立=山形銀行> 国立行の創設で山形県内には初めて銀行という名の金融機関が出現した。明治初期にはこの他のも金融業務を営む数多くの会社が設立され、それらは一般に銀行類似会社と呼ばれるもので、金融業務のほかに商業や不動産などの事業を兼営するものが多く、また預金業務を取り扱わないものもあったため、銀行と区別して銀行類似会社と呼ばれている。 このなかには三井組による三井銀行のごとく都市銀行にまで成長したものもあったが、これはまったくの例外で大部分は弱小資本によるいわゆる貸金業であった。
 県内の銀行類似会社は明治18年現在で8社存在していた。このうち救急社と拡益社についてはその実態は明らかではないが、残る6社のうち米沢義社・済救社・元商社は、いずれも士族の出資による金融会社で、のちに普通銀行に合併ないし転換した。 これに対し積金貸付会社・広益社・拡盛会社は地主や商人らの手になるものであった。これらは次々と経営不振に陥り、明治30年ごろまでにはすべてその姿を消した。 この他明治12年の『山形県統計書』によると、東置賜郡中和田村(原高畠町)に金銀貸付会社(資本金1,800円)なる銀行類似会社もあったが、その顛末については不明である。
 のちに当行に合併された米沢義社も、もともとはこの種の金融会社であった。明治4年の廃藩置県に際して、旧米沢藩主上杉茂憲は東京に移住しりにあたり、旧藩士1人あて金10両と籾3俵(藩全体では金17万両と籾10万俵)を与えた。 これを共同で管理運営し、士族の生活援助にあてようと設立されたのが同社である。当初は士族義社と称したが後に米沢義社と改名、明治26年には株式会社に改組した。 創業のころは同じ士族結社で漆器や織物の製造を行っていた生産社や、藩内の富商が設立した商法通弊局などに資金を貸し付け、その運用収益の3分の2を旧藩士族に配分していたが、やがて士族自身にも貸付を行うようになり、その株も士族以外のものでも所有することができるようになった。 同社は大正5年3月、資本金のうち10万円を当行株式に応募しその業務を譲渡して解散した。
 同じ旧米沢藩とかかわりの深い金融会社に元商社があった。同社は明治13年2月に開業したことになっているが、歴史はさらに古く、藩政時代米沢藩商法局長の片桐籐右衛門が藩内富商とともにつくった結社にまで遡る。 当初は藩札貸し付けて金貸し業を営んでいたが、廃藩後は商社と改称し、上杉家からの資金を入れて営業を継続した。一時衰退したものの明治7年に池田成章を社長に迎え再生、その後置賜県令関義臣のよって廃社を命ぜられたが元商社の名義で営業を継続した。 明治26年には元商社合資会社に改組し、さらに昭和3年、合資会社元商銀行と改称したが、翌4年8月の会社存続期間満了を機会に解散した。
 済救社も士族のつくった金融会社で、これは旧荘内藩士の山岸貞文の主張によるものであった。開業は明治12年、資本金は8万円で、出資者には旧荘内藩主の酒井忠篤を筆頭に旧藩士が名を連ねている。 出資者の多くは金禄公債の売却代金を投資したもので、この資金を商人・機業家・農家などに貸し付け、その運用益で、もって困窮した士族の「急を済(すく)う」のがねらいであった。一時減資をして不良債権の償却にあてたこともあったが、比較的堅実な経営を続け、大正9年には資産と負債を六十七銀行に譲渡して解散した。
 これら士族の手になる金融会社が比較的堅実な経営を展開したのに対し、商人や地主層の設立した金融会社はいずれも短命に終わった。 第七十二国立銀行の初代頭取でもあった砂糖善治の設立した積金貸付会社は、わずか数年で解散、加茂村(現鶴岡市)の大地主秋野家が出資した公益社も十数年で解散に追い込まれた。 山口村(現白鷹町)の拡盛会社は生糸売買商人が株主となり養蚕・製糸業者相互の金融の便をはかろうと設立されたもので、もっぱら蚕糸業者への営業資金の貸付を行っていたが、これも十数年で解散した。 ただ同社は、貸付業務を行うだけではなく蚕糸技術の粗銅なども行っており、いわばユニークな金融会社であった。
多様な地方金融の担い手 明治初年、山形県内には国立銀行や銀行類似会社等が相次いで創設され、金融の途も次第に多様化してきたが、一般の庶民の間では依然馴染みの深かったのは質屋や貸金業などの貸金資本であり、庶民で相互に金銭を融通しあう頼母子講(無尽)であった。
 当時の山形県内の数は明治19年時点で300軒、同年末現在での貸出総額はおよそ12万3,000円、この貸出口数が約14万6,000口であったので、1口当たりの貸出額は84銭程度と、きわめて小口零細なものであった。 当時の県内の世帯数はおよそ11万6,000世帯で、貸出口数はその1.27倍にあたり、質屋の利用が相当一般化していたことをうかがわせる。 このように質屋は庶民の間における小規模金融の担い手の一つであったが、高利であり小口でもあったため庶民層もこれだけに依存しているわけではなかった。そこで頼母子講と称する講集団が組織され、庶民相互間の金銭の融通が盛んに行われていた。ただこれがどの程度普及していたかについての統計資料は見当たらない。
 このほか藩政時代から明治期を通じ、きわめて重要な地方金融の担い手となっていたのは、地主および商人層であった。多くの富商や大地主は貸金業を営み、その主要な収入源となっていたが、一方ではこれが土地集積の梃子ともなっていた。 山形県内最大の大地主本間家では、小作米売却代金に知って器する貸金の利息収入をあげていたとされており、また山形の豪商長谷川家や佐藤家などは、藩政時代から各層の事業資金を広く貸し付けていたとされている。 時代と共に大地主の間にはこの貸金部門を銀行として分離独立させるものも出た。明治21年に本間家によって設立された本立銀行、鶴間の風間家によって大正6年に設立された風間銀行などはその例である。 (『山形銀行百年史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『創業百年史』             荘内銀行百年史編集室 荘内銀行     1981.12. 1
『山形銀行百年史』          山形銀行百年史編纂部会 山形銀行     1997. 9.30
( 2006年10月9日 TANAKA1942b )
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岐阜県の銀行類似会社
生糸、米など県特産物の産出地域に設立
 今週は岐阜県の銀行類似会社を扱う。引用したのは『十六銀行百年史』と『大垣共立銀行百年史』。十六銀行とは明治10年8月に設立された「第十六国立銀行」が継承されてきた銀行であり、 大垣共立銀行は明治11年12月に設立された「第百二十九国立銀行」が継承されてきた銀行。
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<岐阜県の銀行類似会社・私立銀行の発展=十六銀行> 当行の設立以前、県下にはすでに明治7年(1874)6月に、銀行に類似した業務を行う会社として、「資本金貸与会社」(資本金2,000円、株主6名)が武儀郡富之保村に設立されていた。 同社は製茶業者などに金融を行っていたとみられる。「岐阜県史」(近代・中)によれば、同社は17年ごろまで営業を続けたが、松方不況によって純益が減少し、遂に同年廃業したとなっている。
 また明治初期の岐阜県内各地には、商工業を営むかたわら仲間金融を行う一種の銀行類似会社とみられるものがあった。このような会社を「岐阜県統計書」から拾うと、表の通りであるが、実際にはこの他にも類似会社とみなされるものがいくつかあったと思われる。 これらはいずれも生糸、米など県特産物の産出地域に設立された。その地域の特産物と密接な関係を保ちつつ金融機能を果たした。
岐阜県下銀行類似会社 (単位:円)
設立年月 名 称 本業 所 在 地 資本金 代表者名 営業を引継いだ銀行
7.06 資本金貸与会社 金融 武儀郡富之保村 2,800      
8.04 開産社 生糸 大野郡高山町 14,709 三木七郎右衛門   
12.01 成功社 金融 安八郡大垣町      
13.06 濃厚会社 生糸 厚見郡岐阜町 110,000 三浦儀左衛門 濃厚銀行
〃  〃 濃北会社 郡上郡八幡町 50,000 杉下五平 郡上銀行
〃  〃 濃東会社 加茂郡神戸村 32,850 神戸弥助  
〃  〃 濃恵会社 恵那郡付知村 3,500 熊谷孫六郎  
〃  〃 濃明会社 恵那郡明知村 50,000 橋本幸八郎 濃明銀行
〃  〃 高陽会社 大野郡高山町 60,000 平田忠次郎  
〃  〃 濃陶会社 陶器 土岐郡多治見村 60,000 西浦円治  
13.08 濃産会社 武儀郡上有知村 50,000 須田万右衛門  
13.09 濃兼会社 生糸 加児郡兼山村 18,000 藤掛文平  
13.09 永昌社 大野郡高山町 1,000 直井佐兵衛  
14.01 美濃縞会社 織物 羽栗郡笠松村 70,000 田中善兵衛 笠松銀行
14.03 共営社 金融 安八郡大垣町 25,000 田中宗一 共営銀行
14.05 興益社 7,500   興益銀行
14.11 真利宝会社 郡上郡八幡町 50,000 水野伊兵衛 郡上銀行
12.12 濃有会社 生糸 武儀郡上有知村 10,000 篠田裕次郎  
15.01 後栄社 金融 安八郡大垣町      
15.10 広融社 海産物      
16.01 貸付金会社 金融 各務郡鵜沼村 3,000    
18.04 真利宝会 安八郡大垣町 10,000 森正雄 真利銀行
21.01 興産会社 石灰瓦 不破郡赤坂村 7,500 矢橋敬吉 赤坂銀行
(『十六銀行百年史』から)
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<岐阜県西濃地域に設立された各種金融機関=大垣共立銀行> 全国各地に設立された国立銀行各行の出資者の大半は、旧士族階級の出身者であった。そのため、それら国立銀行は、一般的に殿様銀行とか士族銀行と呼ばれることが多く、ある意味では国立銀行の特殊性を表していた。 これに対し、主として地域の農工商人や地主などが設立したのが銀行類似会社である。
 多くは農村や産業交易の中心地に設立され、資金の融通のほか、物品売買、生産事業を兼営するものが少なくなく、なかには農業金融を専門とするものとか、地域の殖産興業を目指すもの、あるいは貸金会社的なもの、貯蓄組合的なもの、同業者組合的なもの、士族授産を目的とするものなど、その性格・機能や経営形態は必ずしも一様ではなかった。
 これら銀行類似会社は、地方庁の許可もしくは認可で設立されたものの他、主務省の許・認可を受けたものがあった。
 しかし、許・認可後の状況については報告の義務がなかったため、記録が残っておらず、詳しいことはわからない。明治15年5月に設立許否の決定権が大蔵省に移され、同年9月、銀行類似会社は、貸付金、預り金および為替、荷為替、割引き等およそ銀行事業の全部またはその一部を専業にするものに限ると定義され、名実ともに金融機関として地域金融になくてはならない存在となるのである。
 一方、明治9年の国立銀行条例改正時に、「銀行」の名称使用を禁止した条項が削除されたため、銀行類似会社も銀行と称することができるようになった。 商号を変更しないものもあったが、国立銀行の新設が許可されなくなった12年以降、私立銀行の新設が増加して、地域の産業・経済の発展に大きな影響を及ぼした。
大垣地区金融機関の盛衰 この時期に西濃地域に設立された金融機関は別表のとおりである。
西濃地域金融機関設立一覧
設立年度 商  号 業種 所 在 地 備  考
明治11 第百二十九国立銀行 金融 安八郡大垣町 大垣共立銀行に継承
11 第七十六国立銀行 海津郡高須村  
12 成 功 社 安八郡大垣町  
14 共 営 社 共営銀行と改称
14 興 益 社 美濃実業銀行と改称
15 大 垣 銀 行  
15 後 栄 社  
15 広 融 社 海産物  
15 南 濃 銀 行 金融 安八郡三郷村  
15 真 利 宝 会 安八郡大垣町 真利銀行と改称
21 興 産 社 石灰 不破郡赤坂村 赤坂銀行と改称
27 大垣商業銀行 金融 美濃商業銀行と改称
27 大垣貯貯蓄銀行  
28 西濃貯蓄銀行 西濃銀行と改称
28 神戸興業銀行 安八郡神戸村  
29 大垣共立銀行 安八郡大垣町  
30 大 橋 銀 行  
30 高須貯蓄銀行 海津郡高須村  
32 富 秋 銀 行 揖斐郡富秋村  
33 久瀬川銀行 安八郡大垣町  
33 浅 沼 銀 行 千葉県 大正元年に大垣に移転
34 津 保 銀 行 武儀郡上之保村 積善銀行と改称(大垣に移転)
 以上のほか、西濃以外の他地域に銀行類似会社が17社あり、岐阜県下に本店をおく銀行類似会社は24社を数えていた。
 上記した表のうち、共営社は明治14年3月設立で本店を大垣町東船町73番戸におき、西濃地域のほか、滋賀県の長浜や三重県の桑名にも支店をもっていた。 26年に共営銀行と改称、資本金は当初6万円、36年に25万円に増資したが、大正15年4月に当行(大垣共立銀行)に吸収される。
 興益社は明治14年5月に資本金30万円で大垣町東船町14番戸に設立、高須、神戸、黒田、氷取、加納(現・揖斐郡大野町)に支店をおいていた。 26年に興益実業銀行と改称、33年の金融恐慌時に当行へ支援を求め、吸収された。
 大垣銀行は明治15年6月に設立、市川武真が頭取となった。当行取締役松原芳太郎も頭取を務めたが、大正7年5月に愛知銀行(現・東海銀行⇒UFJ銀行⇒三菱東京UFJ銀行)に吸収された。
 真利宝会は、大谷派本願寺の本山志納金取扱機関として大垣町岐阜町に設立、明治18年4月資本金1万円で銀行業務を兼営することとなった。 26年に真利銀行と改称、岐阜市のほか、高田、船附に支店を、呂久に出張所を設置した。37年の恐慌時に当行の支援を仰ぎ、43年に吸収合併となった。
 大垣商業銀行は明治27年5月に大垣町俵町にて設立、28年12月には美濃商業銀行と改称、資本金50万円とした。岐阜、今尾、笠松、北方、揖斐、黒野、長良、そして滋賀県の醒ケ井、長岡にも支店をおいたが、役員奥田平八の自己資本的な銀行と化し、37年の恐慌時に破綻・倒産した。
 西濃貯蓄銀行(代表森正雄)は明治28年12月に大垣町岐阜町で設立、大正11年1月に西濃銀行と名称を変更したが、昭和2年の金融恐慌時に蘇原銀行(稲葉郡蘇原町、昭和7年に破産)に吸収された。
 大橋銀行は明治30年3月に資本金1万円で大垣町本町に設立、その後逐次増資を行い、垂井、赤坂、今尾、竹鼻、高田、高須、揖斐、黒野、牧田、神戸、大藪、野寺、栗笠、太田、駒野、池野、そして三重県の香取に支店を開設していった。 代表者の大橋興一は39年ころから朝鮮半島の土地経営に乗り出したが、これがもとに昭和7年には経営が破綻し、7年12月に業務廃止が認可された。
 久瀬川銀行は明治33年11月に資本金15万円で大垣町久瀬川に設立(代表者鈴木徹)、大正13年6月には恐慌の余波を受けて破綻、浅沼銀行に吸収された。 浅沼銀行は明治33年に千葉県に設立、大正元年8月に代表者の浅沼定之助が郷里の大垣に本店を移転、岐阜をはじめ県内各地に支店を出したが、大連に雑貨店を開くなど海外への多角経営につまずいて資金難となり、昭和2年の金融恐慌時に取付けにあって休業し、債務整理後の昭和6年6月に廃業した。
 積善銀行は明治34年3月に武儀郡上之保村に津保銀行として設立、37年5月に積善銀行と名称を変更して大垣町に移転、大正5年3月さらに大五銀行と改称し、7年12月には安藤銀行と改め、名古屋市に本店を移した。
 大垣以外では、神戸興業銀行が明治28年1月安八郡神戸村に資本金3万円で設立、金融久横行の影響を受けて昭和7年12月には解散した。
 不破郡赤坂村に、後に当行取締役に就任する矢橋徳次郎ら26人によって興産社が明治21年1月に設立され、26年12月に興産銀行となり、35年1月には赤坂銀行と改称した。 その後、昭和17年5月に企業統合により十六銀行と合併した。
 また南濃銀行は安八郡三郷村に明治15年9月に設立したが、25年には廃業している。 (『大垣共立銀行百年史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『十六銀行百年史』                編集・発行 十六銀行     1978. 3.30
『大垣共立銀行百年史』              編纂・発行 大垣共立銀行   1997. 2.─
( 2006年10月16日 TANAKA1942b )
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