日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
(7)新大陸からの金銀以上の宝物
トマト、ジャガイモの普及と改良
<西洋野菜の履歴> トマトがなかったらイタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう?もしジャガイモがなかったら、ドイツ人やロシア人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 現代の西洋料理、その食材にはかつて西洋諸国には存在していなかったものが多くある。
 1492年10月12日、クリストファー・コロンブスと彼の部下たちがインドや東インド諸島への近道を探しているうちに、カリブ諸島に到着した。アジアの一部と思い込んでいたアメリカ大陸を発見してしまったコロンブスの後、多くの冒険家が新大陸を目指し、帰りには金や銀や、そして野菜を持ち帰った。 ヨーロッパ人が知らなかった多くの野菜、それがどのように受け入れられていったのか?「新大陸からの金銀以上の宝物」「ヨーロッパ人が食べ始めた農産物」について調べてみた。
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<トマト> 新大陸からヨーロッパへやってきて、今日ではあたかも古代からヨーロッパにあったかのように思われているトマト。最近では高糖度トマトが話題になり、さらに品種改良が進み、需要層を広げている。 そのようなトマトの履歴を見ると、トマト属に入る野生の植物は、南アメリカの西側、アンデス山脈周辺の多くの地域でみつけることができる。しかし古代の人々は栽培植物として育ててはいなかった。野生の植物を改良してトマトの栽培をはじめたのはメキシコ人だった。1500年代前半にスペインの征服者たちはトマトの種持ち帰ったが、あまり歓迎はされなかった。せいぜい観賞用として育てられていた。イギリスと北ヨーロッパ諸国では、トマトにはジャガイモと同じような催淫効果があると信じられていた。
 アメリカでは植民地時代に入植したスペイン人によって栽培されていた。1800年初頭にトマス・ジェファーソンはヴァージニアの自宅でトマトを栽培した。そのアメリカでトマト普及のきっかけとなった出来事があった。1820年、アメリカ独立戦争の退役軍人ロバート・ギボン・ジョンソン大佐は、トマトが危険な食物ではないことを証明しようと、ニュージャージー州セイレムの裁判所の階段に立って、かごいっぱいのトマトを食べ始めた。しかしすぐに気分が悪くなることも、あとで高血圧や脳炎、あるいは癌になることもなかった(当時、トマトを食べるとこういう病気になると考えられていた)(もっともジョンソン大佐は実在したが、これは俗説だ、との意見もある)。
 1876年、H・J・ハインツが商業生産したトマトケチャップを売り出した。この2つの出来事がトマト普及の大きなきっかけになった。
 ヨーロッパ人が400年以上も前にアステカ帝国の畑で栽培されているのをはじめて目にして以来、トマトは長い旅を続けてきた。そしてトウモロコシやジャガイモのような世界経済に影響を与えるような作物にはならなかったが、人々の料理や食事のあり方にとても大きな、楽しい影響を与えてきたのだった。
トマトの品種改良 アメリカには1860年頃イギリスやフランスから導入された。1910年頃にかけては、偶然変異の選抜や純系選抜法によって、ポンデローザ、アーリアーナ、ボニー・ベストなどの優れた品種が育成された。さらに1911年から1935年頃には、品種間交雑に重点をおいた改良で、地域適応性や輸送加工性に優れた品種が多く育成された。1936年以降は一代雑種の利用が急速に普及するようになった。
 トマトの品種改良、それには他の農産物とは違った目標を持った改良が行なわれた。「世界を変えた作物」から引用しよう。
機械で採るトマト
サンフランシスコから双発のプロペラ機で、サクラメントに飛んだときの話である。海岸山脈を越えてセントラル谷に入ると、色タイルを敷き詰めたような模様が眼下に開けた。西の海岸山脈と東のシェラネバダ山脈にはさまれて広がるセントラル谷は、温暖な気候とサクラメント川の豊かな水に恵まれて、みごとな灌漑農業を発達させていた。色タイルのように見えた模様のなかの赤い部分がとくに目についた。双発機がサクラメントに近づき高度を下げたとき、赤いタイルがなんとトマト畑であることがわかった。トマト畑を大型コンバインが走り、トマトが機械で収穫されていた。これは、著者の一人が、もう10年以上も前にアメリカで見た光景である。 (この本は1985年初版)
機械で収穫できるトマトの改良は、まず草丈の短縮。2メートル以上の草丈になると支柱を立てて茎を固定することになる。しかし支柱があると機械収穫ができない。草丈の低い矮生と呼ばれる突然変異体を利用し、草丈の低い品種を改良した。
機械収穫に必要な第2条件は、均一な成熟だ。機会で一気に収穫するには果実がいっせいに成熟する必要がある。
第3の条件は、果実の離脱性が優れていること。普通の栽培ではあまり取れやすいと、収穫前に落ちてしまうので、逆に離脱しにくい方に改良がされていた。
そして第4の条件は果実の破損耐性。トマトは薄い果皮と多汁質の軟らかい果肉からなっているので、少しの衝撃でも果実が破損しやすい。機会収穫に適したトマト品種育成では、衝撃に強いことが最も大切であった。
 1942年、アメリカのトマト栽培家ジョンゲニールが思いついた、トマトを機械で収穫すること、これは約20年かけて達成された。矮性化で無支柱栽培を可能にし、心止まりで果実の成熟をそろえて一斉収穫を可能にし、果実の小形化、細長化、硬質化によって損傷にたえるようにし、さらに離脱性を適度につけて、機械収穫用トマトの改造は成功した。いかにもアメリカ的な改良。これによって「トマト栽培は先進国型産業である」ことがはっきりした。
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<ジャガイモ> ヨーロッパ人は最初に、カリブ海とメキシコで新世界のほとんどの作物に出会っていた。1492年、クリストファー・コロンブスの一行は上陸してまもなく、エスパニョーラ島でトウモロコシとアヒ(トウガラシ)が栽培されているのを発見し、エルナン・コルテスは1519年、メキシコに到着後、チリ(これもトウガラシ)で味付けされたトウモロコシのトルティーヤを食べ、アステカ族のカカオの飲み物、カカワトルをすすった。侵略者であるスペイン人たちはアステカ帝国の首都テノチティトランの青空市場を訪れたとき、トウモロコシやチリやカカオの実のほか十数種類ものトマトとインゲンマメを目にした。 しかしアステカの大市場では、とても重要なアメリカの作物が売られていなかった。それは北アメリカや熱帯のカリブ諸島の人々はもちろん、アステカ族やマヤ族の人々も知らないものだった。この作物、つまりジャガイモは南アメリカだけで、それもアンデス山脈の麓でのみ栽培されていたのだった。
 高く連なるアンデス山脈とその周辺地域は、数千年にわたってアメリカ先住民の文明の発祥地だった。すでに紀元前1000年には、人々はペルーの開眼周辺と安です山脈の山あいの高原に都市を建設し、作物を栽培していた。それから2000年を経て、アンデス一帯は強大なインカ帝国に支配されるようになる。メキシコのアステカ帝国と同じように新しく台頭してきたインカ族は紀元1400年ごろペルーでインカ帝国を建設したが、アステカ帝国よりもはるかに短命に終わった。1532年、およそ260人の兵士を率いたスペイン人フランシスコ・ピサロが、黄金を求めてペルーを侵略する。ピサロが皇帝アタワルパを拉致し処刑すると、インカ帝国は崩壊した(インカ帝国はメキシコからひろまったヨーロッパの伝染病によってすでに弱体化していた)。
 ジャガイモはインカ帝国が権力をにぎる数百年もまえからその土地で作られていたし、インカ族の暮らしになくてはならない作物だった。しかしヨーロッパ人には目新しい、とても不思議な食物だった。1500年代のヨーロッパ人は、地下茎を作る植物についてあまり知識がなかった。ニンジンやカブのような根菜なら知っていたが、ジャガイモはそれらとあまり共通点がないようにみえた。芽の出方も変だった。ヨーロッパ人が知っていた作物はたいてい土にまいた種子から芽が出てくる。しかしジャガイモは一部をそのまま植えると、やがて新しい芽が顔を出すのだ。
ジャガイモに毒がある? トマトもそうだったように、ジャガイモも初めのうち毒があると信じられていた。迷信は長く信じられたが、次第に実用的な特徴に気がつき始めた。 栽培が簡単である。 北ヨーロッパの寒い地方でもよく育つ。 収穫量が多い。 苗を植えてから3ヶ月もすれば収穫できる。 同じ広さの土地から、コムギはもちろんトウモロコシの5倍の収穫がある。 炭水化物はじめビタミン類など栄養面で優れている。 地下に育つため強風や雹の影響を受けない。
 これほど優れているにもかかわらず、1600年代から1700年代のヨーロッパの農民はすぐにジャガイモを植えようとはしなかった。「デンプン質で風味がなく、命を永らえることだけを考えている人々の食物」と考えられていたのだった。
 プロイセンでは1600年代後半、何度か凶作に見舞われた。このためプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルムは、すべての小作人にジャガイモを栽培するよう命令した。プロイセンで広く栽培されるようになった結果、1700年代後半におこった戦争でジャガイモは重要な役割を果たした。17780年プロイセンのフリードリッヒ大王は隣国オーストリアと一戦を交えたが、両軍はたがいに敵国のジャガイモ畑を徹底的に荒らした。この戦略のせいでこの戦いは「カルトフェルクリーク(Kartoffelkrieg) 」、つまり「ジャガイモ戦争」(正式名称は「バイエルン継承戦争)としてひろく知られるようになった。
 もう一つヨーロッパ人がジャガイモを食べるきっかけを作った戦争がある。1756年から1763年まで続いた7年戦争中に、フランス軍に従軍していた薬剤師アントワープ・パルマンティエはプロイセン軍に捕らえられて3年間投獄された。牢獄でジャガイモ料理をあてがわれたパルマンティエはこのアメリカからきた地下茎はフランスの農民にとって理想的な作物になる、と確信した。そして1771年、栄養豊富なジャガイモは「緊急時には普通の食物の代用品になる」と、栽培を推薦する学術論文を書いて賞を受けた。パルマンティエのジャガイモ推進運動は王室の関心も捉える。1785年バスケットいっぱいのジャガイモをルイ16世に、ジャガイモの花で作ったブーケをマリー・アントワネットに贈って好印象を得た。
 1700年代後半になってパルマンティエの努力が実を結ぶ。農民はジャガイモを栽培し始め、多くの料理が工夫され、「フライドポテト」(フレンチフライ)の世に生み出されるようになった。1765年、ロシアではエカテリーナ2世がジャガイモの栽培を国民に奨励する。ポーランド、オランダ、ベルギー、スカンジナヴィア諸国でもジャガイモのお陰で、栄養のある安定した食生活が送れるようになった。
アイルランドのジャガイモ アイルランドでは1754年から1845年までに人口が320万人から820万人に増加した。ジャガイモのおかげで増加した人口、しかし1845年ジャガイモの凶作が訪れた。1848年にもジャガイモ凶作になる。1849年までに150万人が死に(200万人との説もある)、年間20万人、計100万人がわずかなたねイモをもって北アメリカに渡った。アメリカ東北部にアイルランドからの移民が多いのは、このことに関係がある。このジャガイモ凶作からの移民から、後に2人の大統領、ケネディとレーガンが選出された。
 1700年代の末以降、フランスでは薄めに切ったジャガイモを熱い油で「フランス風に揚げて(フレンチフライ)」いた。トマス・ジェファソンは1789年に駐仏対しとしてフランスに赴任したとき、フライドポテトを知り気に入ってしまった。それが高じて、数年後アメリカ大統領になると、晩餐会の客のためにフライドポテトを作るようにホワイトハウスのコックに命じたという。フランス人はフライドポテトが大好きだったので、それを2度揚げする方法を思いつき、きつね色にふっくらと揚げるポテトスフレを生み出した。アメリカではポテトチップスが生まれた。1870年代、ニューヨーク州サラトガスプリングズの避暑地で、レストランの客が「フライドポテトが分厚すぎる」と文句を言ったので、コックはジャガイモを紙のように薄く切って熱い油で揚げて見せた。すると客たちは大満足し、「サラトガチップ」が誕生した。合衆国ではその名前はのちにポテトチップスに変わったが、イギリスではポテトチップスと言うとフライドポテトのことになるので、この新しいチップスは「ポテトクリスプ」と呼ばれている。
ジャガイモの品種改良 ジャガイモが多く栽培されるヨーロッパは、赤道に近い原産地アンデスとは違って、高緯度が多い。このため夏には昼が著しく長くなり、北欧では白夜がみられる。ヨーロッパでは夏がすぎて故郷アンデスとおナ時程度の短い日長になるまで、イモが太らない。このためいちじるしく晩成になるか、まったくイモをつけずに終わることがある。このためヨーロッパの夏の長い日長条件でもイモを太らせ、秋の早霜がくる前に収穫できるタイプが選ばれていった。長日適応性と早熟性をそなえた新しいタイプのジャガイモ、テュベロスム種テュベロスム亜種の原型ができたのは1830年ごろであったが、本格的に栽培されるのは疫病発生以降であった。
アイルランドのジャガイモ疫病から、科学者のジャガイモ研究が始まった。今回の疫病の犯人は、糸状菌の一種で、フィトフトラ・インフェスタンスト名付けられた。フィトフトラとは植物破壊者という意味で、防除にはブドー栽培で発見された農薬ボルドー液がよくきくことがわかった。
イギリスで疫病抵抗性の品種を作ることを目標に、ジャガイモの計画的な品種改良がスタートした。イギリス人、W・パターソンは、スコットランドの在来種の中から優良な個体を選抜し1856年に品種ヴィクトリアを育成した。
アメリカにジャガイモはヨーロッパから逆輸入された。それは1719年、ニューハンプシャーのロンドンデリーに入植したスコットランドとアイルランドの移民がもってきたのが最初であると伝えられる。1845年からのジャガイモ疫病はアメリカにも及んだ。ニューヨークのC・グッドリッチは1851年、原産地チリから数品種のジャガイモを取り寄せた。これを基に1854年から3年間に8700の実生系統を育てた。その中で早生で多収の淡紫色のイモをつける品種、アーリー・ローズは、北アメリカだけでなくヨーロッパへの伝わり、早熟性への改良のための重要な母本として使われた。
1870年にルーサー・バーバンクは、大きな白い丸いイモをつける個体を選び、新しい品種とした。この品種はバーバンクと呼ばれ、彼はこの品種の特許を売った金を元手に800種以上の植物の品種改良を成し遂げた。
1876年、アメリカ在住のアイルランド系靴屋により、白花で淡紫色のイモをつけるアーリー・ローズの畑から、淡紫色の花でイモの黄色な個体が見つけられた。このアイリッシュ・コプラーと呼ばれた品種は、北海道函舘当別の農場主、川田竜吉男爵によって、1907(明治40)年わが国に輸入され、男爵イモの名で、いまも北海道の主要品種として広く栽培されている。
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<主な参考文献・引用文献>
世界を変えた野菜読本    シルヴィア・ジョンソン  金原端人訳    晶文社      1999.10.10  
世界を変えた作物      藤巻宏・鵜飼保雄              培風館      1985. 4.30
じゃがいもの旅の物語    杉田房子                  人間社      1996.11. 7  
( 2003年8月11日 TANAKA1942b )

(8)美味いものには国籍不用
進歩する品種改良手法
<トウモロコシ> 1492年10月12日、3ヶ月も続いた航海の後クリストファー・コロンブスの一行はようやくカリブ諸島に到着した(アジアの一部と思いこんでいた)。この見知らぬ土地を探検してみると、見たこともない不思議な光景につぎつぎ出くわした。とくに好奇心をそそられたのは、畑に横たわっていたある植物だ。それは人の背よりも高く、人の腕ほどの太さの穂をつけ、その穂は「エンドウマメほどの大きさの粒でおおわれていた」。それはマイスという名の植物で、島に住むアラワック族が作物として育てていた。 4回目のアメリカへの航海に同行し、すなわちトウモロコシ(マイス)を試食してみたら、「茹でてあったり、焼いてあったり、挽いて粉になっていたりしたが、とても美味しかった」と記している。 コロンブスの航海に続いてほかのヨーロッパ人たちも出航し、この不思議な新世界を探検してその富を搾取した。トウモロコシは、彼らが足を踏み入れたアメリカ大陸のほとんどすべての土地で栽培されていた。
 1519年、スペイン人エルナン・コルテスの一行は、メキシコの岩だらけの土地を行軍してアステカ帝国の首都テノチティトランにたどり着いた。大きな都市を囲んでいる浅い湖には、チナンパと呼ばれる人口の浮島を利用した畑がいくつもあり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。スペイン人は、アステカ族の人々が作るトウモロコシ料理の多様さに驚いた。紙ほどの薄さのパンのようなトルティーヤ、トウモロコシの軟らかいパン生地で具を包んださまざまな種類のタマーレ。タマーレには、「幅広のタマーレ、先の尖がったタマーレ、白いタマーレ……貝殻の形にマメを並べたタマーレ……赤い果物のタマーレ、シチメンチョウの卵のタマーレ」があったという。
 フランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちは、ペルーのインカ帝国に「兵士の槍のように背の高い」トウモロコシが栽培されているのを発見した。彼らは1533年、インカ帝国の首都クスコに到着し、聖なる太陽神殿に隣接する庭園で金と銀でできたトウモロコシの茎を見た。インカに市場では、本物のトウモロコシの粒が貨幣として使われていた。スペイン人の記録によれば、食べ物を買いにきた女は、品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に一粒づつ足していったという。
 1500年代から1600年代にかけてアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人がみんな、コルテスやピサロのような探検家や征服者だったわけではない。新天地を求めて旧世界に別れを告げてきた開拓者たちもいた。彼らにとってトウモロコシはただの珍しい植物ではなかった。このアメリカの穀物は、未知の危険にみちた土地で彼らを飢えから守ってくれる食糧となったのだから。
(世界を変えた野菜読本 シルヴィア・ジョンソン 金原端人訳 晶文社 1999.10.10)
ヨーロッパで普及するまで トマトやジャガイモと同じように、トウモロコシもヨーロッパで普及するには時間がかかった。トウモロコシは次の様に優れた作物であった。
収穫量が多い。同じ面積でコムギのおよそ2倍の収穫量。 収穫までの期間が短く、ほかの穀物に比べて手間も暇もかからない。 様々な気候や異なった条件下で栽培できる。
 こうした利点がありながらヨーロッパではコムギが常食だった。その最大の理由はパンを作ることができないことだった。トウモロコシにはグルテンが含まれていない。グルテンはコムギに含まれているたんぱく質で、イーストと結びついてパンを発酵させふくらませる働きをする。トウモロコシはビスケットのように硬くてパサついていた。パンを常食とするヨーロッパ人にはなかなか受け入れられなかった。ごく一部の地域=ルーマニアやハンガリーなどヨーロッパ南東部の、貧しい人々は安くて収穫量の多い穀物だと気付いていたが、ヨーロッパのほとんどの地域では、トウモロコシは家畜やブタの飼料にふさわしい穀物だと考えられていた。
 1600年前半にスペインやポルトガルの小作農がトウモロコシを栽培し始めていたようだ。1670年代にイギリスの哲学者ジョン・ロックは、南フランスを旅行中にトウモロコシ畑を目にしている。彼は、その穀物がプレ・デスパーニュ(スペインコムギ)と呼ばれ、「貧しい人々の食欲を」満たしていることを知った。
 北イタリアでは、トウモロコシ粥はポレタンと呼ばれた。ポレタンはポリッジにあたる古いラテン語からきている。1780年にこの地方を訪れたドイツの作家ゲーテは、小作農の家族が毎日ポレタンを「そのまま何も加えずに食べたり、たまにすりおろしたチーズを振りかけて食べている姿」を記している。
アフリカで普及するまで ヨーロッパではトウモロコシは限られた地域でしか常食されることはなかったが、アフリカでは何百万人もの人がこのアメリカの穀物に依存するようになった。トウモロコシが初めてアフリカに伝わったのは、国際的に奴隷貿易が行なわれるようになってからだった。それは1400年代に始まり、ポルトガル人がアフリカの西海岸にやってきてアフリカ人を連れていき、ヨーロッパや中近東で奴隷として売った。1600年代にヨーロッパの国々が新世界に植民地を建設するようになると、奴隷の需要は大幅に増え、およそ300年のあいだ奴隷船は大西洋を横断して、多くのアフリカ人をアメリカ大陸のプランテーションへ運んだ。初期の奴隷商人は帰路につく際、新大陸からアフリカへトウモロコシを持ち帰った。トウモロコシは初めアメリカ大陸へ輸送されることになっている奴隷に、安くて手ごろな食べ物を供給するために西アフリカで栽培されていた。しかしそのうちアフリカの多くの地域で栽培されるようになる。それは育てやすく収穫量の多い、アフリカの人たちにとって最適の穀物であった。
世界中に普及する トウモロコシはアメリカ大陸から世界中を旅して、多くの人々の食生活や料理に影響を与えてきた。インド北部では1800年代にトウモロコシが常食されるようになったが、あまりにも広く行き渡ったので、多くのインド人が、トウモロコシは太古からインドの食事に欠かせないものだと思っているらしい。中国でのトウモロコシ栽培は1700年代まで南西部に限られていたが、1800年代になると北部にも広がっていった。現在中国のトウモロコシ年間生産量はアメリカについで世界第2位になっている。
 トウモロコシは現代では昔のアメリカ先住民には想像できないようなかたちで消費されている。一つはコーンオイルで、これは粒のなかの油分豊富な胚芽から作られる。胚芽はやわらかくしたトウモロコシ粒を現代の製粉技術ですりつぶして分離させる。もう一つはコーンスターチやコーンシロップで、残ったものをさらにすりつぶして加工するとできる。これらのトウモロコシ製品は、マーガリンやサラダドレッシングやパン・ケーキ類など沢山の種類の加工食品に使われている。このようにトウモロコシは、昔と同じように今もアメリカ大陸の人々の食卓をほとんど毎食のようにかざっている。
トウモロコシの品種改良 トウモロコシがアメリカ大陸からせ買い各地で栽培されるまで長い時間がかかった、そして品種改良も本格的に行なわれるのは18世紀後半になってからだった。20世紀に入って、雑種強勢(ヘテロシス)を利用する一代雑種(F1ハイブリッド)による改良が始まるまでは、このやっかいな他家受粉植物の改良に、あの手この手の育種法が試みられた。
 第一の方法は品種混植法による改良で、1808年に発刊されたフィラデルフィア農学会誌によると、ニュージャージー州の農業主が、1772年に、ギニアから導入したフリント種と在来の早生種とを混合栽培して、早生で穂の大きい株から種子をとったという記録がある。 インディアンから贈られたトウモロコシに本格的な改良の手が加えられるようになり、品種混植法、集団選抜法、一穂一列法などの育種法が考案され、アメリカのコーンベルトの大穀倉地帯を形成する基本品種が生まれた。しかし、他殖性植物のトウモロコシは自殖性植物と違って、選抜された材料の受粉様式を厳密に制御しないと、選抜の高価があがらない。このため20世紀になって一代雑種を利用する育種がさかんになるまでは、トウモロコシの改良のテンポはゆっくりしたものだった。アメリカのコーンベルト地帯におけるトウモロコシの収量は、一代雑種の利用によってはじめて飛躍的に向上した。
 この新しい一代雑種合成法は、つぎのような手順で進められる。
(1) 自殖によって多数の系統をつくる。
(2) その中から優良な自殖系統を選抜する。
(3) それらを交雑する。
(4) 雑種強勢の顕著にあらわれる組合せを探す。
(5) この組合せの両親系統を自殖で繁殖させる。
(6) 毎年一代雑種を作って利用する。
一代雑種法の進歩 この一代雑種を利用する方法、しばらくは普及しなかった。その理由、自殖系統間の交雑では、母本とする系統の生育が貧弱で、十分な交雑種子を生産できなかったことによる。そこでコネチカット州のジョンズは、自殖系統間交雑で得られる一代雑種どうしを交雑する複交雑法を提案した。雑種強勢のよくあらわれる4種の系統A,B,C,Dを用意する。AとBとの交雑で得られる一代雑種を母本とし、CとDとの交雑で得られる一代雑種を父本として、一代雑種同士を交雑する。交雑によって強勢化した一代雑種どうしの交雑で、農家に配布する種子を生産できるので、採種効果は高まった。この方法は一代雑種を2度行なうので、「二代雑種」とでも言うべき方法だ。 こうして普及した複交雑、しかし現代では生育旺盛な自殖系統が育成できるようになり、単交雑によく一代雑種種子の生産が効率よくできるようになった。このようにトウモロコシはアメリカでの品種改良により生産効率高まり、先進国では家畜の飼料用穀物として重要な農作物になっている。
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<トウガラシ>トマト、ジャガイモ、トウモロコシと続いてその後がトウガラシ。インゲンマメとかピーナツ、カカオ、カボチャ、パイナップル、アボガドなど差し置いて「トウガラシ」。その理由は追々明らかにするとして、ヨーロッパ人とトウガラシの出会いから話しを始めることにしよう。
 クリストファー・コロンブスは1493年1月15日の日誌に、カリブ海のエスパニョーラ島で沢山の「アヒ」を発見したと書いている。彼は、ヨーロッパで珍重されている高価な黒い香辛料のいたとえて、アヒを先住民の「コショウ」と呼び、「とても体に良いので、人々は毎食欠かさず食べている」と記している。 26年後にメキシコを征服したスペイン人は「チリ」と呼ばれる刺激の強い作物がアステカの料理でとても重要な役割を占めていることに気づいた。アステカ族は「辛くないレッドチリ、太いチリ、辛いグリーンチリ、イエローチリ・・ウォーターチリ・・ツリーチリ」などいろいろな種類を栽培していた。
 アヒとチリはそれぞれ別のアメリカ先住民の言葉だが、両方とも一つの重要な植物を指す。この植物とそれから作られる食品は、新世界から旧世界へ輸出されたものの中でもっとも人気のあったものの一つだが、もっともその原産地が忘れられがちなものでもある。現在その植物は世界中で栽培され、いつでも沢山の紛らわしい矛盾した名前で呼ばれている。例えば英語圏の人々のあいだでは、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カプシムカ、カイエン、パプリカなどと呼ばれている。
 これらの聞きなれない名前はどれも紛らわしく謎めいているが、植物学者にとってその植物は謎でもなんでもない。これはナス科の仲間であり、ナス科には他にジャガイモ、トマト、タバコといったよく知られたアメリカ原産の作物がある。この植物はナス科の「トウガラシ」(カプシムカ)属に入っている。カプシムカという言葉は箱という意味のラテン語からきているのだが、この名前の付いたのは種の入っている部分、つまり実がなんとなく箱のかたちに似ているからだろう。トウガラシの実は内側に沢山の種子がついた肉質の壁でできていて、中は空っぽになっている。ほとんどが未熟なときには緑色で、熟すと黄味や赤味がさす。 (「世界を変えた野菜読本」から)
 別の文献には次のように書いてある。
 1492年11月4日、日曜日付けのコロンブス航海誌によれば「キューバ島でインディオたちがクルミのような形をした果実を持っていたという部下の言葉に大変驚き、もしやそれが探し求めているコショウかニッケイではないかと、体が震えるほど興奮した」とあります。当時、ヨーロッパではコショウは肉の防腐や香り付けになくてはならないものとして貴重品扱いされており、大航海時代はこのコショウの資源拡大を求めて始まったともいえるわけです。しかし、キューバ島の赤い果実はコロンブスが求めていたコショウでもニッケイでもなく、現地でアヒーと呼ばれている植物でした。このアヒーは、今日私たちがトウガラシと呼んでいるもので、クルミのようだという記述から、当時すでにトウガラシの栽培品種が存在していたことがうかがえます。これがコロンブスとトウガラシの初めての出会いでした。 (「世界を制覇した植物たち」から)
コショウ、東方貿易、トウガラシ インド、インドネシア、マレーシアで取れるコショウはヨーロッパ人にとって生活必需品だった。肉食を維持するためには、防腐、消臭、調味のためにコショウはなくてはならないものだった。しかしこれはヨーロッパでは栽培できない。アジアから持って来なければならない。そこに東方貿易の目的があった。ジェノバ商人が独占していた東方貿易、しかしオスマントルコがビザンチン帝国を滅ぼし、コンスタンチノーブルをイスタンブールと改名するに及んで、東方貿易は消滅する。ヨーロッパ人はコショウなどの香辛料を何らかの方法で入手しなければならなかった。
 ちょうどこの頃羅針盤が改良され、地球球体説が認められてくる。そこで「コショウ一粒は黄金一粒」とまで言われた香辛料の、新たな輸送ルート開発が待望される。そして多くの冒険家が登場した。ヘンリー航海王子、バーソロミュー=ディアス、バスコ=ダ=ガマ、フェルディナンド=マゼラン、アメリゴ=ベスプッチ。ここでは名前をあげるにとどめて置くが、この時代香辛料は命を賭けて探し求めるほど価値があった。トウガラシの英語はRed pepper、つまり「赤いコショウ」となる。
トウガラシの普及 コショウを求めて新大陸へ向かった冒険者たち、しかしトウガラシは余りも辛すぎて直ぐには普及しなかった。そんなヨーロッパ人とは違った、アフリカ、アジアでは直ぐに普及した。1500年前半にはサハラ砂漠以南のアフリカの多くの地域で栽培され、インド、中国(とくに雲南省と四川省をふくむ南西地方)でも栽培されるようになった。こうしてアジアで栽培されたコショウはオスマン帝国へ普及し、東ヨーロッパを経由し西ヨーロッパへと普及していった。そうしてアメリカ大陸のヨーロッパからの移民には、ヨーロッパを経由して伝えられて行った。
 ビタミンCの発見でノーベル賞を受賞したセント・ジェルジーが1937年にトウガラシの果実に大量のビタミンCが含まれていることを見つけた。このことが契機となってヨーロッパでのパプリカ系の甘味トウガラシの栽培が急増することになった。このようにヨーロッパでは新しい食材に対して保守的であった。 
トウガラシの仲間たち ピーマン、シシトウ、パプリカ(カラーピーマンとも言われた)これらはトウガラシの仲間。トウガラシは戦国時代、日本に入って来て江戸時代にはかなり普及した。ピーマンはアメリカで品種改良された(一代雑種)辛くないトウガラシであり、カリフォルニアワンダーなどが日本で栽培されだしたのは明治に入ってから。 本格的に作られるようになったのは昭和30年以降で、昭和20年代には売上高は第50位くらいであった。 現在はベストテンに顔を出す売れっ子で、昭和30年の売上高は5,700万円、昭和50年の売上高は62億9,000万円だった。生産高トップは宮崎県。
 「ピーマン」をキーワードに検索したら、次の様な文があった。 
 子供の「嫌いな食べ物」の上位にランキングされるピーマン。舌がピリピリして苦くてまずくて…わからないでもない。なぜこんなピーマンが食用として流通しているのか。これには戦後の食品流通が関係している。 敗戦直後、食料品には経済統制の網がかけられ、ほとんどの食品は自由に売買することが出来なかった。この時、ピーマンは対象外。というのも、そもそも日本人の食卓にピーマンが出てくることはほとんどなく、その存在も忘れ去られていたため。 東京近郊の農家は、他の野菜や米は自由に作れないのに対してピーマンなら自由に作って自由に売買できることに目を付けた。食糧難の時代、闇市で飛ぶように売れて日本人の食生活に浸透していったのである。食糧難だからマズくても食べていたが、次第にそうもいかなくなる。だから、最近では品種改良も進みピーマンはおいしくなってきているらしい。
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<主な参考文献・引用文献>
世界を制覇した植物たち        日本園芸化学会編              学会出版センター    1997. 5.10  
( 2003年8月18日 TANAKA1942b )

(9)まだまだあった新大陸の味覚
コロンブス時代からの植物史
<インゲンマメ> コロンブスは、アメリカとヨーロッパの「果物」と「草木」には「昼と夜ほどの違いがある」と言ったが、かれの言葉は当たらずといえども遠からずだった。たしかに全体がすっぽりと皮につつまれ、その中に丸々とした粒が並んでいる穂をつけた背の高いトウモロコシ、あるいはアメリカ先住民が作る特別な飲み物の材料、カカオ豆が実るカカオの木のようなものはヨーロッパにはなかった。ヨーロッパ人は、甘くてとげのあるパイナップルのような不思議な果物、あるいはピーナツのように土の中で育つ「木の実」も見たことがなかった。
 しかしアメリカの作物の中にはあまりエキゾチックとは言えないものもある。実際、ヨーロッパで栽培したり食べたりしているものととてもよく似た作物もあったのだ。その良い例が新世界のマメだろう。アメリカ原産のマメはそのうちヨーロッパで広く栽培されるようになるのだが、ヨーロッパ人によって発見された当時はあまり注目を集めなかった。コロンブスをはじめとする探検家たちはヨーロッパのマメをよく知っていたので、アメリカ大陸の新種のマメもまた、何千年ものあいだ人間の食生活に取り入れられてきた作物と同じ科に属しているのだろうと考えていた。
 ヨーロッパでは古くからソラマメを食べていた。古代ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパでも一般庶民はソラマメを常食していた。アメリカ原産のインゲンマメがヨーロッパに伝わったのは、ヨーロッパ人がはじめて新世界に上陸した直後だった。コロンブスが1493年に2回目の航海をした後、スペインにマメの種子を持ち帰った。その新しいマメは1540年大にはヨーロッパで出版された植物誌に載るようになったが、アメリカ原産であることは知られていなかった。初めイギリスで広まったときは、食糧としてではなく、きれいな赤い花を観賞するために育てられた。 しかしヨーロッパ人は、このマメが目を楽しませてくれるだけでなく、お腹も満たしてくれることを発見した。現代、インゲンマメはアジアではそれほどでもないが、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカで広く普及するようになった。
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<ピーナツ> 南アメリカは今から3000年以上も前にピーナツが初めて登場した場所であり、古代のペルー人は野生のピーナツを栽培し、乾燥した海岸地方の砂土で作物として育てていた。ピーナツがこの地域で常食されていたことは、考古学的な発掘から明らかになっている。紀元前500年以前に、ピーナツは原産地の南アメリカからメキシコへ伝わっていた。そこではピーナツを食物というより薬として考えていたようだ。サアグン修道士の本によれば、アステカの市場でピーナツは「ハーブの知識と根菜の知識をもった治療師」である、「薬屋」で売られていたという。粉にして水にとかしたピーナツが解熱剤として使われていたらしい。1500年代に初めてピーナツの存在を知ったヨーロッパ人は、それがなじみのある木の実とは妙にちがっていることに気づいた。おそらくスペイン人とポルトガル人が持ち帰っただろうが、ピーナツは広く栽培されることはなかった(ヨーロッパの大部分の気候はピーナツを栽培できるほど暖かくなかった)。そのかわりトウガラシと同じように、ピーナツはアフリカやアジアに新天地をみつけた。 トウガラシ同様、最初にピーナツをアフリカに持ち込んだのはポルトガルの商人と船乗りだった。1560年代にはアフリカの西海岸で栽培されており、その同じ地域でポルトガルなどのヨーロッパの奴隷商人が奴隷売買をしていたのだった。
 アフリカでピーナツはトウモロコシやキャッサバと同じように、深刻な栄養不足を補ってくれた。アフリカ大陸は広大で気候や地形も変化にとんでいるにもかかわらず、耕作に適した作物がほとんどなかった。そこで育てやすいだけでなく、ひどく不足していた栄養分を補給してくれるピーナツはとりわけ歓迎されたのだった。北アメリカではのちにスナックになったが、西アフリカではたちまち日々の重要な食材になった。
 ピーナツがアジアにたどりつくと、アフリカの場合と同じようにたちまち毎日の食事に欠かせないものになった。東南アジアの人々は、ひき割りピーナツがコメや肉や野菜にかけるソースにぴったりなことに気づいて、ピーナツにトウガラシやココナッツやミルクやライムの果汁などさまざまな種類の材料を混ぜて辛味のあるソースを作った。 ピーナツをつぶすと、料理に使える透明な油が出てくる。これはアフリカやアジアの多くの地域でもっとも重要な料理用油になった。ヨーロッパの人々もピーナツ油の質の高さに驚いた。ヨーロッパでピーナツは食材として人気は出なかったが、ピーナツ油はひろく使われるようになった。
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<カカオ>チョコレートといえばこのHPでは「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」で取り上げた。 カカオ豆最大の輸出国コートジボアール(象牙海岸共和国)の輸出量は106万トン。ガーナは輸出量29万トン。日本の2001年の輸入量は約5万トン。ガーナからの約3万7千トンがトップ。別の資料による生産量はコートジボアールが120万トン、ガーナが35.5万トン。ヨーロッパの輸入量はドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・オーストリア・デンマークの7ヶ国で計81万トン。  
 日本ではカカオはアフリカ産と思われている。しかし原産地はアメリカ大陸。1519年、エルナン・コルテスの一行は、メキシコの東海岸に上陸すると皇帝モクテスマの特使たちに歓迎され、友好と平和のしるしに食べ物や飲み物でもてなされる。飲み物はカカワルト(カカオ水)だったが、あまり美味しそうには見えなかった。「スペイン人が飲もうとしないのを見たインディオたちは、すべてのヒョウタンの中身を毒見してみせた。スペイン人はチョコレートでのどの渇きをいやし、それを飲むとどんなに元気になるか、知った」
 ヨーロッパに初めて伝えられたカカオ豆は、1528年にスペインに帰国したコルテスによってスペイン王であり神聖ローマ帝国皇帝でもあるカール五世の宮廷に献上された。1500年代、カカオの木はメキシコのプランテーションだけで栽培されていたので、スペインがココアの原料を統制していた。しかし直にイタリア人やフランス人もその泡だった濃厚な飲み物の存在を知った。カカオ豆はスペインやメキシコからひそかに持ち出され、裕福なヨーロッパ人はすぐにスペイン人がしていたように、カカオ豆を炒ってから挽いて粉にし、できあがったココアを泡だてて飲むようになった。
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<タバコ>「1492年10月15日……丸木舟に1人で乗った男が、サンタ・マリア島からフェルナンディナ島へと向かうのに出会いました。彼は、握りこぶしほどの大きさの彼らのパンを少しと、水を入れた瓜殻(カラバサ)と、赤土を粉にして練ったものと、乾いた葉っぱを2,3枚持ってきました。この葉っぱは、サン・サルバドール島でも贈り物として私に持ってきましたから、彼らが珍重しているものに違いありません」
 これは「コロンブス航海誌」(林屋永吉訳)の1節で、「私」とはコロンブス、「乾いた葉っぱ」とはタバコのことです。コロンブスの新大陸発見は、先住民にとってはその後の悲惨な歴史の始まりだったわけですが、黄金を求めていたコロンブスはタバコには目もくれず、最後までタバコとは縁のない男だったのです。
 当時、南アメリカからカリブ海の周辺にかけては、先住民のインディオによってタバコが栽培されていました。一方、北アメリカ東部では、タバコと比べると香りや味が劣るルスティカタバコが栽培されていました。
 これらのタバコがヨーロッパに伝来したのは16世紀初めごろで、まずスペインに伝わり、その後16世紀のうちに、ポルトガル、フランス、イギリスへとそれぞれ別の経路で伝えられました。しかし、16世紀前半の約50年間はタバコはあまり問題にされず、ごく限られた人たちがたばこを吸っていただけでした。ところが、1543年、スペインのサラマンカ大学の教授が医薬品としてのタバコの効能を発表してから50年間は「万能薬」として盲信されました。たばこ喫煙がヨーロッパ中に広まったのは、17世紀前半の30年戦争がきっかけでした。なお、「シガレット(紙巻たばこ)」の歴史は新しく、18世紀ごろに始まりましたが、19世紀中ごろのクリミア戦争中に、兵士らが大砲の火薬を包む薬包紙で巻いてたばこをすったことをきっかけに、広く普及したといいます。
(「世界を制覇した植物たち」から)
タバコの品種改良 タバコの品種改良はアメリカがリードしている。17世紀初め(1612)にイギリスの開拓者がアメリカのヴァージニアに入植し、ベネゼラのオリノコから伝来したタバコの栽培を始めた。雑種集団の中から個体を選び、その自殖系の分離集団のみを利用したり、突然変異株を利用していた。1859年に黄色種乾燥法の基盤ができ、同じ時期に紙巻たばこが開発され、アメリカのたばこ産業は発展した。 20世紀に入ると、メンデルの法則が一般の育種家たちにも受け入れられ、各地で交雑育種による品種改良が行なわれるようになった。アメリカでは、農務省、州立大学や農業試験場、が一体となって品種改良に取り組んだ。産学協同、官民共同で改良が行なわれた。1930年代には紙巻きたばこの全盛時代になり、改良は各種病害対策が主流になった。この流れは現代にも通じ、抵抗性品種を開発するとそれを侵す新しい菌糸が出現し、常に新しい抵抗品種の開発に力が注がれている。
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<その他の農作物>この他にも多くの農作物がヨーロッパに伝えられた。これまで取り上げた植物に比べたら大きな社会的影響力を発揮したわけではないけれど、かと言って無視することはできない。そのような植物について調べてみた。
パイナップル 1500年代にパイナップルはヨーロッパに船積みされた。すぐに富裕な人々の贅沢品として普及した。それが1800年代にはアメリカ大陸だけでなく、オーストラリア、アジア、アフリカでも栽培されるようになり、富裕な人々の贅沢品ではなくなった。現在ではタイが最大生産国で世界の総生産量のおよそ4分の1を栽培している。
カボチャ 1500年代にインカ族、アステカ族、マヤ族など多くにアメリカ先住民族の畑でカボチャが栽培されていた。これは割合に素直にヨーロッパ人に受け入れられた。ミルクと卵と蜂蜜を加え、ヨーロッパではパイの具にするようになった。このカボチャの仲間でイタリア名で通っているのが、ズッキーニ。この皮のやわらかいカボチャは1600年代にイタリアに伝えられ、イタリア料理に取り入れられた。
キャッサバ 日本人には馴染みのないキャッサバ。北アメリカでもヨーロッパでも知られていない。1500年前半ヨーロッパ人はキャッサバの栽培があまりにも簡単なのに驚いた。茎を切って土中に植えるだけで、1年以内にその根は人間の足ほどの大きさに育つ。またヨーロッパ人は、あらびき粉が腐ることなく数年も保存できることにも強い印象を受けた。しかしその風味の乏しい味を好まず、普及しなかった。しかし、ポルトガル人によってアフリカに伝わると、たちまち広まった。ほかに作物がない熱帯地方で主要な穀物となった。こうして北アメリカやヨーロッパでは知られていないキャッサバ、しかしプディングを固めたり、ソースにとろみをつけるために使われるタピオカは、乾燥したキャッサバから作られたものなのだ。
アボカド アステカ族はアファカ・ムリと呼ばれるアボカドソースを作り、トウモロコシのトルティーヤといっしょに食べていた。ちょうど現代人がトルティーヤチップでグアカモーレをすくって食べるように。アボカドは傷みやすくヨーロッパまでの船旅に耐えられなかったので、1900年代になって船積みと保存の有効な方法が開発されるまで、アメリカの作物にとどまっていた。現在はアメリカとメキシコ、ブラジルが主要生産国。
バニラ アステカ族がカカオの飲み物カカワトルを作るときによく加える香味料のひとつに、ランの莢から作った「トリルショチトル tlilxochitl」があった。これが現在よく使われる香味料バニラのことだった。スペイン人はそれを「小さな莢」という意味で「バニラ」と呼んだ。1800年代にメキシコ以外でもバニラを栽培できるようになった。ベルギーの植物学者が人工的にそのランの花を受粉させる方法を研究したからだ。それまでは他の土地ではうまく栽培できなかったが、それはメキシコで花を受粉させていたミツバチとハチドリがいなかったからで、人工受粉が開発されると、バニラが大好きなフランス人は熱帯地方の植民地にプランテーションを開いた。
サツマイモ サツマイモは1500年代には、ペルーの低地はもちろんのこと、カリブ諸島やアメリカ大陸の暖かい地方で栽培されていた。1500年代後半にはヨーロッパで普及するようになった。ジャガイモ=ポテト(poteto)、に対してサツマイモはスイートポテト(sweet poteto)と呼ばれた。新大陸からヨーロッパへ渡ったスイートポテト、新大陸からの食物としては珍しく、ヨーロッパ人に素直に受け入れられた。 まずコロンブスの船員たちが船上食糧として採用した。この時代の航海で恐ろしいのは壊血病であった。貧血・衰弱・脛骨の疼痛・歯ぐきの炎症・皮膚からの出血などで、治療の方法がなかった。ところがこの新大陸産のイモを食べるとこの病気にはかからないことが分かった。生で食べることもできたし、船の中でも腐らなかった。
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<地産地消という微視的感覚> 新大陸原産の野菜がヨーロッパ、アフリカ、アジアと旅をして、新たな料理法が考えられ、普及していく。その時間は1492年から現代までに亘っている。この広さと時間の長さ、これに頭の働きを合わせていると、あの「地産地消」とか「身土不二」という微視的感覚に対しては、一体なんとコメントしたらいいのだろうか?あまりの感覚の違いに何も言うことが出来なくなってしまう。 これでもシルクロードや東方貿易やその他、ゲルマン民族の大移動、アレキサンダー大王、十字軍などによる食材の遠征なども考えたら、「地産地消」とか「身土不二」は余りにも小さい、狭い感覚でしかないので、やはり問題点にピントを合わすことが出来ない。今は1492年から現代に至り、さらに未来の食糧に思いが走って行く。品種改良の将来、いずれ技術者の夢も扱ってみようと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
さつまいも史話            木村三千人                 創風社出版       1999.11.10
( 2003年8月25日 TANAKA1942b )
(10)江戸町人の好奇心と遊び心
花卉園芸・元禄グルメ・西鶴
<大江戸品種改良> コシヒカリの品種改良から始まった、「日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論」はコシヒカリ系=美味しい系の品種改良、野菜・果物の品種改良へ、それから緑の革命、コロンブス以後の新大陸からの宝物=農作物へと話を進めた。TANAKA1942bの話の進め方としてはどうしても江戸時代を無視するわけにはいかない。江戸時代は好奇心と遊び心いっぱいの江戸町人の花卉園芸関係の話、それと現代的な意味では品種改良とは言えないにしろ、品種の特性を充分生かして生産していた稲作、これらについていろんな文献を調べてみた。それらをTANAKA1942bなりの視点からまとめてみた。
<大江戸キク事情> 関が原の合戦(1600[慶長5]年)の勝利のあと、徳川家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた(1603[慶長8]年)。ようやく平和な時代を迎えることとなって、園芸復興の時代が訪れる。たとえば後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)の嗜好に倣って、大御所(二代将軍)徳川秀忠(1579-1632)や貴人たちはツバキの鉢植えに熱中する。時は寛永年間(1624-44)であった。
 この<寛永ツバキ>の流行と同時に、秀忠は諸国から珍しい木や草花を集めることに執心した。これがおそらく江戸時代の庭園造りの始まりでもあったろう。こうした<将軍の道楽>がゆるされたのは、なにより世情の安定がもたらされた故に他ならない。江戸城を中心に周辺の町割り計画による市街化の進行や、利根川・隅田川等の河川の整備が進んで、江戸幕府の財政的基盤の安定と幕藩体制の定着が背景にあった。
 秀忠に続いて三代将軍徳川家光(1604-51)もツバキの愛好者であった。もうこの頃になると、大名や貴人たちの中にあって「お留花」と称して、自慢の品種の花を確保し、門外不出として愛でることも、ままなされていた。この「お留花」は、園芸を自身だけもひそやかな楽しみにするという精神構造から生まれた典型的なものであったともいえよう。
 寛永期には、キクの栽培もいっそう熱心に行われた。江戸時代になると、キク作りも趣味から高価な珍種売買の実利を兼ねた商売まで、平安期の貴族趣味とはまた違った発展があったようだ。そこには「菊合せ」の復活によって再びキク作りが盛んになったという事情があった。京都や大坂の上方では、キクなどの「花合せ」(花の品評会)が頻繁に行なわれていたのである。もっとも、こんどの「菊合せ」のやり方は、左右に分かれて競いはするものの歌は添えない。花だけを並べ、一対ずつ純粋に花の優劣を競ったものであった。いわゆる今日のキクの品評会に近いものであるといえばよかろう。
(棚橋正博「江戸の道楽」)
<江戸名所花暦 雑司ヶ谷の菊> 巣鴨村や染井村と隣接する雑司ヶ谷(豊島区雑司ヶ谷、南池袋)も観菊の季節になると賑わった。岡山鳥の著した「江戸名所花暦」(1827[文政10]年)から現代文にしたものを引用しよう。
 鬼子母神の境内や、貨食屋(りょうりや)の奥庭や、あるいは茶店、植木やはいうまでもなく、どこでもみな、よく菊を栽培して造り、毎年十月八日より、死者の追善供養をする会式なれば、その参詣の群集を期待しているのである。浄土宗や日蓮宗の寺院にも、おなじ時、境内または庭中へ菊を植え、日光からの日陰をつくる障子をかけ渡して、菊作りの見事さを見せようとしているところもある。また日蓮上人が諸人を救い給うところを、または浄土宗の寺では法然上人御難のところなどを菊の作り物とする。そんなことで参詣する人々は、本堂前に充満して、帰ることを忘れることを忘れるほどなのである。
<江戸の朝顔> 江戸の町では、朝顔は5月のなかばから売り出して、8月前までを限りとした。「アサガオやあ、あさがお」と棒手振りで夜明けから朝顔売りが町々を歩き、正午までに売り切って帰る。素焼きの小鉢作りで、花には紅、白、瑠璃、あさぎ、柿色、ふちとり、しぼりなど多様な色と模様があり、花の大きいものが喜ばれた。裏長屋の門口にも、貧富の差なく咲く朝顔、それが江戸の夏の風景であった。朝に咲き、夕べにしぼむ朝顔は、江戸っ子気質に合ったのだろう。その栽培は」盛んだった。
 朝顔は元来観賞用草花ではなかった。はじめ薬用として栽培されていたものが、しだいに観賞用として人々が愛好するようになったものである。文化のはじめに、下谷御徒町(したやおかちまち)の植木職人が朝顔の栽培を行なっていたのだが、このころから花や葉の改良が始まり、文政期(1818-30)になると、深川や浅草方面に広がっていった。
 そして、この元来は観賞用草花ではなかった朝顔を観賞用として、花を開かせたのは、それは江戸の”先端科学””江戸のバイオ”の成果であった。園芸文化の世界でメンデルよりも前に遺伝の法則を心得た極地の花を創り出したのは、江戸の人々であった。バイオ時代を迎えたいまこそ、もう一度彼らの知恵と経験をたどってもいいのではなかろうか。(中略)
 「変化朝顔」は見かけは普通で奇形とは思えないが、種子のできる兄弟株の朝顔から生まれてくるのだ。その秘密を見抜いたのが江戸の植木職人で、兄弟株の種子を保存しながら系統を残してきた。これはメンデルの遺伝法則では「劣性の形質」にあたるもので、両親からその遺伝子をともに受け継いだ場合に出てくる。また、表面に出なくても、遺伝情報として隠しもっている。出てきた双葉の形を見て、「変化朝顔」になるか否かを判断すればよいのだ。
 文政元年(1818年)の栽培手引書「牽牛花(あさがお)水鏡」には「雑花よりして奇品を変じ出さしむるをもって、この花をもて遊ぶ楽しみとなす」とあり、一大ブームになっていく要因がうかがえる。江戸の人々は経験からメンデルの法則をつかんでいたわけで、その技の巧みさは、現代の遺伝研究者も舌を巻くほどだった。この”先端科学”の技術は「世界に類例のない園芸文化」の達成とまでいわれている。再び遺伝子の研究が盛んになったいま、朝顔にはまだまだ隠された変化の秘密が明らかになったら面白いはずだ。
(中田浩作「江戸は躍る!」)
<ソメイヨシノ>
江戸時代の品種改良といえば、この「ソメイヨシノ」を忘れてはならない。しかしそれでも古い時代のこと、必ずしも学説が統一されているのではないようだ。そこでその中の一つの説を紹介することにしよう。
 1716年ころから8代将軍徳川吉宗が江戸の各地にサクラをうえて一般に開放し、1800年ころから江戸中の人たちがお花見で大騒ぎをする基礎を作った。しかしすでに1720年ころからサクラの品種改良をしようとする動きがでていた。現在、世界中でも、古い品種では「この品種はこの人が作ったのだ」と言える植物はほとんどない。ところが江戸時代に生まれたサクラで、作った人の名前がほぼ確定した品種がある。それが、現在、日本中の人たちが見ている「ソメイヨシノ」なのである。
 「ソメイヨシノ」は1730年ころに、江戸染井村の植木屋、伊藤伊兵衛・政武が人為交雑を行なって作りだした、という説がある。この説に従えば、次のようになる。 「ソメイヨシノ」が作られたと推定される1730年ころは、世界の生物学者の間では、雌しべ、雄しべがどのような役割をもっているかについて、詳しく知らなかった時代なのである。このような時代に「ソメイヨシノ」が作られ、1750年ころには幕府の直轄薬草園(現在の東京大学の小石川植物園)の入口近くに1本植えられた。現在も小石川植物園の入口近くに、その「ソメイヨシノ」がひこぼえ(切った根や株から芽が生え出ること。その芽)によって生きている。これこそは、日本人が作った世界で最初の人為交雑個体である。なお、「ソメイヨシノ」は江戸時代末期(1845年ころ)の「吉野桜」として染井の植木やから売り出され、隅田川堤その他に植えられた。その後、上野公園の「吉野桜」が吉野山の「ヤマザクラ」と違うことから、1900年に藤野寄命によって改めて「染井吉野」と命名された。 (「日本人が作りだした動植物」から) 
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<アヘス→バタタ→Sweet Potato→甘藷→薩摩芋> サツマイモが人類によって野生から栽培されるようになったのは、古く1万年前からとも言われるが、考古学的には紀元前3000年頃には、熱帯アメリカでかなり広く食べられていて、南太平洋の島々には紀元前1000年頃には伝わっていたとされる。しかし一般には1492年コロンブスのアメリカ大陸到着からスペインにもたらされ、15世紀松にヨーロッパに広まり、アフリカやインドを通って東南アジアに達し、中国を経て日本に伝来されたルートがよく知られている。日本に伝わったのは、1597年に宮古島、1605年に沖縄、1705年に鹿児島、そして関東には1734年に徳川吉宗の命で青木昆陽が江戸小松川でサツマイモを試作したのが最初。コメ、ムギなどに比べて日本では比較的新しい作物だ。
 コロンブスが到着した島々で「アヘス」と呼ばれる芋があった。これがスペインに持ち帰られ「バタタ Batata」と呼ばれるようになる。やがてジャガイモが入ってきて、名前を区別するために「スペインいも(Spanish Potato)」あるいは「甘いいも(Sweet Potato)」と呼ばれるようになった。これがポルトガルの人たちによって開かれたアフリカの南端を経由する海の道によってまずベトナムあたりに伝わり、それが中国で「甘藷」と呼ばれるようになった。
 この伝播のルートがわかりやすいのだが、学問的にはサツマイモが世界に伝播したのには3つのルートがあるとされているので、専門家に批判されるのもシャクなので、ここに記すことにする。
@バタタ・ルート 前述ルート。西インド諸島⇒ヨーロッパ⇒アフリカ⇒インド⇒インドネシア⇒ベトナム⇒中国
Aカモテ・ルート 16世紀以降、スペイン人によりメキシコ⇒ハワイ⇒グアム⇒フィリピン
Bクマラ・ルート 有史以前に南米ペルー⇒マルケサス島⇒イースター島⇒ニュージーランド⇒ハワイ⇒ポリネシア⇒メラネシア⇒ニューギニア
 サツマイモの現在の作付面積は55,000ha、生産量は130万t前後。作付面積は減少しているが生産量はあまり変わらない。それは単位面積あたりの収量の向上で、明治11年の10aあたり560kgから大正年代および昭和初期の1300kg前後、戦後の食料増産時代の1500kg前後、イモ作が安定した昭和35年頃の2000kgへと増加し、現在では2300kg前後にまで向上した。この原因は昭和15年以降の在来品種に代わる育成品種、とくに昭和20〜30年の沖縄100号と護国藷、30〜45年の農林1号と農林2号、45〜60年の高系14号とコガネセンガンの新品種の普及と育苗技術の改善による適期挿苗、チッソとカリの合理的施用による施肥改善など、栽培技術の改善によるところが多い。
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<元禄のグルメ、西鶴を現代文で読む> 江戸時代の文化、そのキーワードを「好奇心」と「遊び心」としたならば、江戸時代のグルメにも目を向けてみよう。
 当時最高の高級レストランであった揚屋に出入りしていた西鶴が食通であったのは言わずもがな、その一端を示した書簡体短編小説集「万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)巻一の「来る十九日の栄耀(えよう)献立」を現代語訳でお目にかけよう。
 「昨日は御ていねいに二度までもお手紙を頂きましたが、あいにく北野不動へ参詣していましたので、御返事がおそなりました。さて来る十七、八、九日の三日のうちに、川舟で御馳走なさりたいとの事、ついでがありましたので、その事を旦那に申し上げて都合をうかがってみました。
 十七日は堺へ茶の湯の先約があり、十八日は生玉(いくたま)の観音講へ御出(おい)で、十九日も昼までは何かと御用があります。それを片付けてから夕涼みにうかがおうと申されました。十九日が今月中の旦那の暇日(ひまび)でしたのは、あなた様のお仕合せで御座います。こちらから旦那がお連れなさる者は、按摩取りの利庵、鍼医者の自休、笛吹きの勘太夫、もしかすると浪人の左太兵衛も参るかも知れません。そのほか小坊主を二人お連れになるだけで御座います。そちらからは碁打ちの道円をお連れになるとの事ですが、長話をせぬよう耳打ちしておいてください。歌舞伎若衆などは、さい当たってお乗せなさるに及びなせん。旦那の御機嫌を見合わせ、お指図しだいに致しましょう。
 さて格別にお心遣いの献立をお見せくださいましたが、舟遊びの御馳走としては結構すぎるよう存じます。諸道具類も船中では面倒です。旦那も近ごろは病後のことなので、美食はお好みになりません。無用と思われま分を指摘しておきましょう。
 はじめに出る汁に雑魚(ざこ)をごったに入れるのは一段と結構ですが、竹輪や皮鰒はのけていただきたい。しつっこ過ぎます。膳の先に置く鮎(あゆ)の鯰は見合わせてください。川魚が重なります。めいめいに杉焼をそえてお出しなさるがよい。その材料も鯛と青鷺の二色にするようにお申しつけください。冷采(にざまし)は真竹の筍一種のほうが、さっぱりしてよろしいでしょう。割海老(さきえび)と青豆のあえ物、吸物は鱸(すずき)の腸(わた)、お膳に添えて出す肴は小鯵の塩煮とたいらぎ(海産二枚貝)の貝柱の田楽、それから二度目に出す吸物の実は舶来の燕巣(えんす)と金柑麩(きんかんふ)にして、どちらも味噌汁にしないでいただきたい。
 酒は三盃でやめて膳を引いてください。それから後は寒晒粉(かんざらしこ)の冷やし餅と鱚の細(ほそ)作りの吸物で酒を一盃のまれてから、早鮨(はやずし・鮎の一夜鮨)を召し上がりますが、旦那は蓼(たで)をたべられません。山椒か生姜を付け合わせてお出しください。日野真桑瓜(河内日野産)に砂糖をかけてお出しになり、御茶は菓子抜きで一服ずつ立ててお出しになさるがよろしいでしょう。なお御馳走ついでに小さい屋形船に風呂をこしらえ、暮れ方に湯浴みなさるよう御用意しておいていただきたい。これまでで、その後の夜の用意はいっさい御無用に願います。すでに当方も旦那より、太夫元(もと・歌舞伎の興行人)へ十九日の夜は取巻きの役者を用意しておくよう申し込まれました。日暮れに舟を上がって、そちらへお出かけになります。ともかくこの上は天気のよいよう祈っています。いずれ十八日にそちらへうかがい、最後の御相談をいたしましょう。(下略)
 この手紙の差出人は長崎屋という一流の貿易商人の番頭で、宛名の呉服屋次左衛門は日ごろ御出入りの商人。
 成績をあげるために得意先の旦那を招待したわけだが、西鶴の注に曰く、町人の饗応にしてはぜいたくな話で、この費用も内輪に見積もって銀三百四、五十匁(約六十三万円)はかかるだろう、といっている。
 旦那が病後でしかも夏料理という設定なので、いかにも西鶴らしく材料の吟味は行き届いているが、全体に淡白な懐石料理風であるのは、「生類憐れみの令」強行中の元禄の世相の一端であろう。 (暉峻康隆「江戸の素顔」から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸庶民の四季              西山松之助   岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る                中田浩作    PHP研究所    2001.11. 7
江戸の道楽                棚橋正博    講談社       1999. 7.10
江戸の素顔                暉峻康隆    小学館       1995. 7. 1
さつまいも ものと人間の文化史90    坂井健吉     法政大学出版局   1999. 2. 1
さつまいも史話 コロンブスから芋地蔵まで 木村三千人   創風社出版     1999.11.10 
( 2003年9月1日 TANAKA1942b )
(11)稲の品種の使い分け
非情報化時代の情報網
<品種改良は花卉園芸関係だけだった?> 江戸時代はわが国において花卉園芸の分野で著しい進展が見られる時代であるが、何か新品種育成について新しい技術が生まれても、それを主食である稲に技術転換しようといった発想が、ほとんどなかったようである。稲を栽培したのが農民であったため、当時の身分制度のなかで花卉の改良の主役であった武士、町人が生み出した技術が稲に転移されるような機会はなかったのである。それよりも、幕藩体制の中で政治の主体であった藩庁に品種の改良を意識して行い、それを主催するといった意識がほとんど生まれなかったのが原因であったと見られ、当時の科学知識のもとでは、それは止むを得ないことだったのであろうか。
 コシヒカリの育成者のひとりであった池隆肆は、稲品種の来歴の調査にも情熱を傾けたが、同氏の調査によると、年号が明治と改められるまでに成立した品種の中でながりなりにも成立や育成の事情のわかったものは15品種あった。その中で1800年以前のものは3品種にすぎない。
(菅洋「稲」から)こうした見方がある一方、また違った視点もある。
<農民的余剰の成立> 徳川家康が、年貢は「百姓を生かさぬよう殺さぬよう、ぎりぎり一杯まで取り立てるのが理想だ」といったという有名な話が残っている。このように農民の手元に一粒の余剰も残さず収奪する体制を学問的には全余剰労働部分収奪体制といい、江戸時代初頭の年貢は、ほぼそのとおりだったと考えられる。しかし四代将軍家綱のはじめごろになると、このような体制はくずれ、農民の手元にも年貢納入後一定度の剰余が残るようになる。これは全江戸時代をとおしてみても注目すべき重大変化で、その影響はあらゆる方面に及んでいる。(中略)
 農民の手元に剰余労働部分の一部が残るようになると、より多くの品を交換にだそうという意欲を持つ。自給経済時代にもっていた「今日を満たせば足りる」といった自足的意識は農民から脱落していく。少しでも多くのものを生産し、それを交換に出して、より豊かな生活をしようという、飽くことを知らない経済人的労働人間へと農民の体質は変わってゆくのである。 (大石慎三郎「江戸時代」から)
 この本では、農民がコメを商品として意識し始めたと指摘している。江戸時代に農業は公共事業ではなく、産業になったわけだ。
 わが国の気候風土はきわめて多様であり、そのうえにたった適地適産は農業の要諦であるが、米が商品としての意味をもってくると、農民たちはより自分の土地にあった稲をつくりだすことに全力をあげるようになる。
 この文の後、多くの品種のコメが栽培されていた例をあげている。1706(宝永3)年、1734(享保19)年の例をあげ、一つの郡で、早稲27種、中稲36種、晩稲46種、計109種が栽培されていたという。江戸時代中期(元禄ー享保)に適地適産原理にもとづく稲の品種改良熱が農民層を捉えていた。 このように多くの品種を栽培していたということは、リスクを分散していた、と言える。こうしたリスク管理能力、経営感覚は現代のような政府・農協の保護がなかった分「自己責任」に徹底していたのだろう。
※                   ※                   ※
<イネに対する知識> 江戸時代にイネに対する知識が深かった例として、次の文を引用しよう。
 江戸時代中期の寛政年間(1789-1801)に、羽後国平鹿郡浅舞町の玄福寺の住職であった釈浄因が書いた「羽陽秋北水上録」にはイネの品種について貴重な記録があるが、それを詳しく調べた木原らによってその内容を紹介しよう。(中略)
 同書の中には「各地方は、気候、土、水などにおいて異なっており、決して同一ではないので、ある土地の植物をほかの所へ持ってきて植えても、性質が変わって別のものになってしまうものである。とくに稲は変わりやすいもので、無芒のイネは有芒となり赤い種子をつけるものの中から無色のものが生じ、種の色や形や成熟の早晩など千差万別に容易に変化する」と述べている。これらのことは、生物の変異性を認め、これが新しい品種の生まれる原因となることに気がついていたことを示している。
 この本を研究した篠遠・筑波・木原は、明治以前の記録の中で、作物の品種についてこれほど広範な知見は空前絶後だとして、その特徴をつぎの10点に要約している。
単なる品種の羅列ではなくて、品種の由来についても考察している。
当該地方における品種の変遷が、その理由と共に記述されている。
品種選択は機構を考えてなすべきことが指摘されている。
珍奇な品種の無批判な導入に対して反対している。
奨励品種を決めて作付けを奨励すべきことを述べている。
作物に変異する性質があることに気づいている。
環境の変化に応じて、品種は性質を変えると考えている。
突然変異の存在を事実上発見している。
品種の管理の重要性を説いている。
10 純系分離淘汰の有効であることに、事実上気がついている。
 おそらく明治以前には、観察眼の鋭い農民がここに紹介したような経緯で周辺のイネと異なった個体に注目し、それを選抜することにより新しい品種が育成され成立していったものであろう。少ない旅の機会に、他の地方からイネを持ち帰ることもあったと思われる。比較的、旅の機会の多い武士があまり関心を示さなかったことを思えば、このような経緯でイネが持ち帰られたのは、近世以降であろう。(「日本人が作りだした動植物」から)
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<百姓の品種交流の実態> 当時新興商品作物については、例えば初期の甘しょ、イグサ、アイなどは藩のきびしい統制によって国外流出が禁じられたので、従来、稲の優良品種の交流についてもこれと同様で、藩の壁が普及上の大きな障害となっていたのではないか、とする考え方が強かったようだ。実際かかる例がごく一部には見られないわけではなかったが、一般的に見ると、もちろん現在ほどの円滑さはないにしても、品種交流はかなりよくなされていたものと思う。当時精農家といわれた人々の間では、初歩的ながら民間育種がある程度行なわれていたことは、品種名などからも推察され、また既述のように種々の機会に地域間交流のあったことがわかる。当時はすでに進んだ農民の間では品種に対する関心は著しく高かったであろうし、優良品種を求めようとする欲求はきわめて強く、そのためにいろいろの機会が利用されていたものと思われる。18世紀の「雑事紛冗解」に示された細川藩領における栽培品種503種のうちには、国外、国内の地名のついたものが20%、選出種をも含めて人名のついたものが10%も含まれていたことは、上記の考えの一つの根拠になるであろう。(中略)
 江戸時代、九州での早生種はそれに適する早植栽培がかなり広く行なわれていたのに大使、品種名などからみて、おそらくこれと同系または類似系と思われる一部のものが東北地方南部では晩生種として栽培されていた、と思われる。しかしこの型の稲作は東北地方の平坦部では平年でこそ成立をみたが、冷害年ではひどい打撃を受け、そのため年々安定した稲作は比較的近代まで成立をみなかったといっても過言ではなかろう。このようは東北地方における晩稲晩植栽培も、また、九州での早稲早植栽培もともに、まだ充分に進歩をみない以前の時代の稲作法であったといえるのである。
 その後、その大部分が九州では晩稲晩植化の芳香へ、東北では逆に早中稲早植化の方向へと動き、両地域とも品種と作季の両面で大きな地域分化を示し、それぞれ進歩の方向をとったのである。このように、藩政期におけるわが国の稲作は全国的にみて、まだいくつかの共通品種をもち、それに適応した古い形の作季がみられたことは、さらにそれより古い時代のわが国における稲作技術の地域分化の未発達状態の残りともみられるのではなかろうか。 (嵐嘉一「近世稲作技術史」から)
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<伊勢参りは新品種採種の旅>  日本の隅々の人までが何らかの蓄えをして、そして伊勢講をつくったり、あるいは金毘羅講をつくったり、善光寺講をつくったりしまして、順番で参詣に出かけて行くというようなことが全国的に行なわれるようになりました。こういった参詣には字が読めなくても出かけて行くことができましたし、その旅はその人たちにとっては、精神的にはたいへん豊かな文化生活であったと同時に非常に新しい知見を、いたるところで得ることもできたのです。たとえば伊勢参りでは、自分が作った稲の穂をお供えして、人の供えた新しい稲をもらってくる、ということがなされなした。つまり新種を手に入れてくる、といったようなこともいたしましたし、栽培法を新しく勉強してくるとか、いろいろな勉強をしてくることになったのです。 (西山松之助「江戸庶民の四季」から)
旅の土産は新品種
 「山口県農事調査書」(明治24年)によると、山口で多く見られた「都種」は、1832(天保3)年に弘永半助、内海五郎左衛門の2人が、旧藩主と同道して上洛の途中、摂津国西宮付近から持ち帰ったものであるが、その際西宮付近の農民が言うには、この稲はそれより2−3年前、船乗りが筑前から持ち帰ったものだという。
 大坂市場で好評を博した「栄吾種」という品種は、1849(嘉永2)年和気郡堀江町大字大栗の植松栄吾が、四国霊場を巡礼した折に、土佐国幡多郡山谷の小さな溝に生えていた一株を採集してきて、これから育成したものといわれる。また、「相生(中)」は当時備中から伝わった「一本稲」という品種から、伊予郡稲荷村の浅田嘉蔵が明治3年頃選び出したもので、下浮穴郡では作付の面積の6割を占めた。「三宝米」は別名「三盆米」とも称し、越智郡の別宮村南光坊の住僧寛雄が高野山に参詣した折、三宝院から良い籾だとして得てきたものだという。 (菅洋「稲」から)
 このように幕藩体制はそれぞれの藩が国家のようで、日本全体で鎖国していて、各藩も鎖国していた、というイメージとは少し違う。幕府の公式姿勢はともかく、現実には稲の品種が藩の壁を乗り越えて、地方に伝播していたことになる。
関所はどうした? 江戸時代は関所があって、百姓,町人が自由に旅することはできなかった、とのイメージがあるかもしれない。建前はともかくとして現実にはかなり自由に旅していた、という例。
 江戸時代の一揆、そして幕府に直接訴える越訴、こうしたことと道中手形の問題を考えてみましょう。いま仮に「非情な」名主を訴えるために、「耐えかねた貧農」が江戸に向かって越訴を試みたとします。当然名主や代官役所には「無断」のはずで、道中手形の交付も受けられないでしょう。この場合もし途中に関所があればどうなるのか、という問題が起きます。当然間道を抜けたり、その他非合法な手段を講じて通り抜けざるを得ないわけで、関所破りの罪に該当します。これは幕府の規定では死刑に該当する重大犯罪のはずです。ですから訴訟になれば、この違反事態、越訴とは独立に深刻な問題になり得るわけですし、幕府が不埒な越訴を本気で抑圧するつもりなら、この点だけ取り上げて処分してもよかったでしょう。
 では実態はどうだったのでしょう。幕臣実務担当者の回想証言によりますと、このような場合の標準的対応は次のようだったとされます。つまり、関所近くの山中で道に迷っていたところ、たまたま、土地の木こりか猟師に助けられ、教えられた道をたどったところ「図らずも」関所を越えた次の宿場に出てしまった。関所破りをする積りはなく、ともかく「無知蒙昧」はわれら農民にはありがちのことで、お咎めをうけるのもやむを得ないが、追い込まれ、切迫した特殊事情を何とぞ斟酌下されたく、うんぬん。大筋こんな弁明を取り調べ記録(口書)に載せ、「恐れ入ります」の一札で済ませるのが普通だったようです(安藤博「懸冶要略」青蛙房)。
(水谷三公「江戸は夢か」から)
 これは一揆とか越訴など深刻な問題で、お伊勢参りなどとは違うが、これほど深刻な問題でもこの程度、ならば信仰の旅に対する幕府・末端の姿勢もおおよそ推測できる。
往来手形と旅の心得 江戸時代の中ごろから庶民の旅が盛んになった背景に、講の発達があった。講とか頼母子講とか無尽とか言われる。この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀となっている。
 江戸で人気が高かったのは、相模の大山詣や下総の成田山新勝寺などで、遠くは出羽三山や越中の立山、加賀の白山などへの宗教登山の講。特に人気のあったのは富士講と伊勢講、富士登山と伊勢神宮参宮の旅のための講。共に100を超える講社があり、富士講などは俗に江戸八百八講と言われたほどであった。
 往来手形の申請も講が事務手続きを代行したし、手形を発行するのが地元の社寺であったので、こうしたことに不慣れな百姓でも心配はなかった。さらに講は現代の旅行代理店でもあり、参詣や登山に必要な衣装や笠、杖など、さらに土産物、宿泊施設の手配など、至りつくせりであった。同じ時代のヨーロッパなど比べ物にならないくらい庶民の旅行は盛んであった。 とくに伊勢神宮(お伊勢さん)には多い時で(1829年=文政12年)500万人の人々が参宮したと言われている。また雇い主、代官所などに無許可で熱狂的に伊勢神宮を目指し歩き出す、「おかげ参り」とか「ぬけ参り」といわれることが50年毎にあった。これに関しても取り上げれば面白いのだが、ここでは突っ込まないことにしよう。
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<旅学者という農業カウンセラー> 稲の品種や農業技術の普及に「旅学者」が活躍した。これについては山本七平の「江戸時代の先覚者たち」から要約しよう。 徳川時代は、考えれば考えるほど面白い時代である。まず1640年から1853年までは定義どおり鎖国であり、、この間はもちろん、その前後も日本はほぼ完全に自給自足の世界であった。韓国・中国・オランダと貿易があったとはいえ、それは国内の需給に基本的な変化を与えるほどのものではない。そして人口は、さまざまな推計があるが、1600年ごろが1千万台、1720年を2千600万台とすると、120年間に2.6培の増加を見せ、これが幕末には約3千万人になっている。そしてこの人口増加は、おそらく家康も予期していなかったであろう。いずれにせよ3千万近い人口がこの4つの島で、自給自足で生きてきたのであり、このことはたとえ生活水準を上げなくとも、生産量を3倍に増加させねばならなかったということである。この鎖国下の人口増に対応するという課題は、ヨーロッパにはなかった。彼らには植民地があった。
 鎖国し自給自足でやってきた江戸時代、すべてを国内で調達し、そのために多くの工夫がなされた。米俵一つでさえ大きな発明だった。しかし江戸時代は情報化社会ではなかったから、どこかの藩のどこかの村で何らかの発明がなされても、すぐこれが全国に普及するわけではない。だがそうなると、旅学者というのが現れてくるから面白い。
 藩の経営がうまくいかないと、武士の給料が半分になったりする。そうなると「わが藩の経営はどうなっているのだ」と言いたくなり、全国を旅行して諸藩のことに詳しい旅学者の抗議を聞いて、藩の財政を立て直そうということになる。そこで海保青陵や本多利明が招かれて、藩の経済建て直しのため講義するようになる、といったことも起こっている。また山片蟠桃は仙台藩の経済再建に独自の方策を生み出している。 (山本七平「江戸時代の先覚者たち」から)
 こうした旅学者は農村では名主に招かれ、農業コンサルタントとして活躍した。このように百姓も情報網をもっていた。それは幕府や藩に頼るのではなく、自分たちで情報源を確保しようとする姿勢に応えるものであった。
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<主な参考文献・引用文献>
近世稲作技術史               嵐嘉一     農山村分化協会  1975.11.20
江戸時代                  大石慎三郎   中公新書     1977. 8.25
江戸は夢か                 水谷三公    筑摩書房     1992.10.30 
江戸の旅人                 高橋千劔破   時事通信社    2002. 5. 1
村からみた日本史              田中圭一    ちくま新書    2002. 1.20  
江戸の宿                  深井甚三    平凡社      2000. 8.21 
江戸庶民の信仰と行楽            池上真由美   同成社      2002. 4. 1
百万都市 江戸の生活            北原進     角川書店     1991. 6.30
江戸時代の先覚者たち            山本七平    PHP研究所   1990.10.19
近世の村と生活文化             大藤修     吉川弘文館    2001. 2.20
江戸の産業ルネッサンス           小島慶三    中央公論社    1989. 4.25
百姓一揆とその作法             保坂智     吉川弘文館    2002. 3. 1
江戸商人の知恵嚢              中島誠     現代書館     1999. 5.20
稲 品種改良の系譜 ものと人間の文化史86 菅洋      法政大学出版局  1998. 5. 1
( 2003年9月8日 TANAKA1942b )
(12)品種改良の方法
メンデル、選抜育種法、交雑育種法
<遺伝学の基礎=メンデルの法則>  赤い花と白い花を交配するとその子(F1)は赤い花となり、そのF1の自殖で得た子(F2)を100株育てると、赤い花が全体の3/4、白い花が1/4となる。赤白の違いが1遺伝子によって決まっていて、赤が優性のときに、F1が赤い花となり、F2で赤と白が3:1に分離する。 赤の遺伝子をA、白の遺伝子をaとすると、赤花の親の遺伝子型はAA、白花の親の遺伝子型はaaであり、F1の遺伝子型はAa、F2の遺伝子型はAAが1/4、Aaが2/4、aaが1/4となり、Aがaに対し優性でAaの株は優性の性質である赤花となると考えることにより説明できる。 AAやaaのように同じ遺伝子をペアでもつものをホモ接合体、Aaをヘテロ接合体といい、F1で優性の性質が現れることを「優性の法則」、F2で両親の特性が3:1に分離することを「分離の法則」という。
 遺伝の法則がこれだけでは、違うものを交配しても何も新しい特性のものが生まれてくる訳ではなく、面白くもない。メンデルが明らかにしたもう1つの法則が、品種改良を行う上で重要な法則、2つの独立した遺伝子の関係だ。赤花で正常な形の花を持つホモ接合体の親、白花で切れ弁の花をもつホモ接合体の親があり、赤花が白花に対して優性で、正常花が優性で切れ弁が劣性とする。 F1では全てが赤花で正常花。F2では赤花の正常花が9/16、赤花の切れ弁が3/16、白花の正常花が3/16、白花の切れ弁が1/16に分離するというものだ。ここで重要なことは、「親とは異なる新しいタイプである、赤花の切れ弁や白花の正常花が得られること」なのだ。このように親とは違う特質をもつ種類が得られることになる。これを
「独立の法則」という。
 このメンデルの法則が正しいことは証明されているが、実際はこれほど単純ではない。たとえば、直径10cmの大輪花と直径3cmの小輪花を交配しても、単純にF2で10cmの大輪花と3cmの小輪花が3:1で分離するわけではなく、大輪花から小輪花まで連続して分離する。10cm以上、3cm以下の花が分離することもある。6cmの中輪花のものを選んで自殖し続けると、だんだん花径の変異の幅が狭くなり、数世代続けると花径がほぼ均一となり新しい中輪の系統を得ることになる。これを「品種が固定化された」という。
<選抜育種法>人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 食料を生産する者は、野生の植物を作物として栽培し、その作物の生産性を向上させようと努力した。それは農作物の品種改良となった。原始林の木々を切り倒し、そこを農地とすれば、一種の環境破壊であったが、誰も咎めなかった。ではその当時どのような品種改良が行われていたのだろうか?
 農耕が定着して人々の安住生活が安定してくると、栽培植物の中から、より多くの収穫できるものや、より食べやすいものが経験的に選ばれるようになった。その方法は「選抜育種法」(分離育種法)と呼ばれ、現代でも十分に利用されている技術の一つだ。植物の品種改良はその植物の持つ性質を鋭く見抜いて「選ぶ」ことが基本になる。その「選ぶ」ということは、いい物を守り、いらないものを捨てることだ。「もったいない」と不要なものを残しておくと生産性が下がる。 日本では明治になるまでこの方法で品種改良を行っていた。江戸町人のアサガオ、アヤメ、ハナショウブ、サクラソウ、フクジュソウなど、の品種改良はこの方法だった。 西洋では20世紀になるまで、メンデルの法則が広く認められるまでこの方法が唯一の品種改良方法であった。
 花ならば種を播き、目標とするものに近いものを選び、その種を播く。こうしたことを繰り返す内に、花にばらつきが少なくなり、品種が固定されてくる。「在来種」とか「固定種」と呼ばれる品種で、「京野菜」は長い間かかって京都の気候・風土と京都の人々の好みに合ったものに改良されてきた。加茂なす、壬生菜、九条ねぎ、練馬だいこん、三浦だいこん、小松菜など全国各地にそこの風土・気候・土地の人の好みに合ったのもが栽培されている。固定種になっても長い時間の間には選抜育種が行われ、必ずしも昔の味ではない。 時代と共に人々の好みが変われば、それに併せて在来種も品種改良されていくので、昔の姿そのものではない。従って「在来種を守ろう」とは「昔の味そのもの、現代人の舌に合わないものを守ろう」なのか「昔からの品種を絶やさないように、現代人の好みに合わせて守っていこう」かで守る姿勢も変わってくる。
<交雑育種法> 1865(安政3)年、チェコの修道院のヨハン・メンデル牧師が43才のとき、7年間にわたって修道院の庭で続けていたエンドウマメの交配実験をまとめて、「植物の遺伝の研究」の論文を発表するまでは、選抜育種法が唯一の品種改良方法であった。 しかしこのメンデルの業績、当時の学者には注目されることもなく、彼は失意のうちに1884年、64才でこの世を去った。没後16年、1900年にフランスのド・フリースら生物の突然変異の研究者たちが、メンデルの研究業績に気づき、高く評価して、人々の知るところとなった。 メンデルの遺伝の法則が知られるようになって、作物に品種改良には遺伝的に優れた因子を持つ植物が重要であるとの認識が広がった。品種改良の成功は、どれだけ変異の幅を広げ、交雑によっていかに多くの因子を取り込めるかにかかっていると研究者は考えた。そのため、国の内外から素材となる野生種などを集め、それらを適宜交配して、その子孫から良い個体を選抜する「交雑育種法」が品種改良の中心になった。そしてこの品種改良方法は現代でも中心になっている。
 日本のコメの品種改良はこの方法によっている。1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配、それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。1956(昭和31)年に登録されるまで多くの人の手によって、度重なる幸運な偶然によってコシヒカリは生まれてきた。ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397なども交雑育種法によって育成されてきた。
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<コシヒカリの交配> 選抜育種法では交配すべき品種選びから始まる。コシヒカリでは晩稲(おくて)種の「農林22号」を母とし、早生(わせ)種の「農林1号」を父とする組合せだった。1944(昭和19)年7月末、新潟県農事試験場の水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配どのような苦労があったか、「コシヒカリ物語」から引用しよう。
 当時国内の資源はほとんどが戦争のために徴発され、人手も物資も極端な欠乏状態に見舞われていた。新潟県農試でも、働き盛りの青壮年の職員はほとんど戦争に駆り出されてしまっていた。つい4カ月前にも、高橋が片腕と思って頼りにしていた同試験地技手の池隆肆(いけたかし)が出征してしまい、30歳代で残っていたのは、高橋ぐらいまものだった。高橋は1935年九州帝大農学部を卒業、農林省農事試験場鴻巣試験地に入ったが、徴兵検査の3カ月前、同試験地のスポーツ大会で腹部を蹴られて膵臓が破裂する事故に遭い、その手術の経過が思わしくなく、「兵に向かず」として「丁種」になったため兵役を免れ、 戦時下にもかかわらず念願の育種の仕事を続けることがでくたのだった。
 しかし、屈強な青年職員が応召されてしまった後、事実上、高橋独りで水稲新品種育成の仕事を引き受けていくのは、まさに大変なことだった。同試験地の試験田は2ヘクタールと広く、育成中の稲は、栽植本数にして約20万本に達していた。水稲育種の仕事というのは、それを一本一本丁寧に見て回り、草丈や穂数はどのくらいか、茎は丈夫か、病害虫の被害はないか、出穂期はいつかなど、いろいろな形質を調べ、優秀な系統を選抜するという作業である。
 しかも9、当時はトラクターも除草用農薬もない人力中心の米づくり時代。雑草を抜き取る作業一つ取り上げても、田んぼを中腰になってはいずり回るという重労働を強いられた。そして、2ヘクタールの試験田を全部見回ると約10キロも歩く計算になり、一人で管理するのはまさに超人的な努力を要したのであった。
 一応、田植え作業は県農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に勤労奉仕を頼み込み、女学生に作業を手伝ってもらったりして、ようようの思いでこの日の交配作業にたどりついたのであった。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山練太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、きょうもまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 確かに、無類の頑張り屋の高橋であって初めて戦時下の困苦欠乏期に2ヘクタールの試験田を管理し、新たな人工交配作業に取り組むことができたのであろう。高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。 今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
 さて、44年7月末、高橋が取り組んだ人工交配は、晩生種の「農林22号」を母とし、早生種の「農林1号」を父とする組合せだった。高橋にとって手慣れた作業とはいえ、決して簡単な作業ではなかった。
 まず、この晩生種と早生種では開花時期が大きく異なるため、普通に栽培していたのでは交配は不可能。従って晩生種を暗室に入れるなど、人為的に日長時間を調節する「短日処理」を施し、早生種の開花時期とぴったり一致させるよう、準備作業をしておく必要があった。
 さらに、稲の交配作業で厄介なのは、稲は自家受粉植物であるという点である。稲の開花といっても、いわゆるモミ(専門的には頴果(えいか)と呼ぶ)の殻がわずかに開き、6本の雄しべがほんの少し顔をのぞかせる程度。しかも、開花し始めるやいなや、花粉を包んでいた雄しべの袋が破れて中央の雌しべに花粉が降りかかり、簡単に受精を完了してしまう。つまり、稲の雌しべは自分の花粉以外は受け付けない構造になっているわけである。
 このため、別の稲との交配を成功させるためには、受精前の母本となる稲の雄しべをすべて殺し、雌しべだけは生かしておくという芸当が必要になる。この雄しべ除去作業は、昭和初期までは開花前のモミの先端をはさみで切ってモミに穴を開け、中の雄しべを一本一本除去するという、手間のかかる仕事だった。しかし、その後、雌しべと雄しべでは温度に対する抵抗力に差のあることが判明した。穂を43度のお湯に入れると雄しべはすべて死滅するが、雌しべは丈夫で受精能力も健在であることから「温湯除雄法(おんとうじょゆうほう)」が開発され、人工交配作業は非常に容易になる。高橋もこの方式を実施したのだった。
 ただ、この「温湯除雄法」の際、もう一つ重要な作業をこなす必要があった。それは、この日開花するモミだけを残し、その他すべて除去すつという作業である。湯に入れたとき、かすかに殻を開くのがこの日開花するモミで、このような受精可能なモミだけが大切なわけである。その他の固く殻を閉じているようなモミは、この日より前に開花し、すでに自家受粉を済ませてしまった早熟のモミか、あるいはこの日より後に開花する未熟モミで、これらはすべて邪魔ものだった。もしもこのようなモミが残っていたりすると、人工交配によって実った種子に自家受精の種子が混入することになり、交配作業は失敗に終わってしまうからである。
 稲の開花は朝9時ごろから始まり、交配作業は昼ごろまでが勝負である。高橋はこの日、まず父本となる「農林1号」の植わっている試験田から、間もなく開花しそうな健康な穂を抜き取って交配室に持ち帰り、しばらくの間、切り口をぬるま湯につけ、花粉の出が良くなるよう温めた。そして、「温湯除雄法」処理によって雄しべは死に、雌しべだけが健在な「農林22号」が十分に開花するのを待って、「1号」の穂を「22号」の花の上にかざし、何回となく指先で穂を弾いた。すると、「1号」の雄しべから花粉が霧のように「22号」に降りかかり、やがて「22号」は殻を静かに閉じていった。これで交配作業は無事に終了。この稲穂が黄金色に色づき、種モミとして収穫されたのは、9月下旬であった。
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<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一     誠文堂新光社  2001. 6.15
続 図解・米の品種            日本穀物検定協会             1999. 6.30
図解・米の品種              日本穀物検定協会             1999. 9.20
植物の育種学               日向康吉         朝倉書店    1997. 3. 1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生  酒井義昭著        中公新書    1997. 5.15
( 2003年11月10日 TANAKA1942b )
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日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
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