(13)陸・海軍、御前会議などの動き
無謀な大東亜戦争へと追い込まれて行く過程
 このホームページでは、保護貿易によりどれほど日本経済が苦しみ、無謀な大東亜戦争に追い込まれたか、という経済の面を扱うのだが、今週は少し趣を変えて日本の軍部、御前会議などを扱うことにした。
<天皇の苛立ち>  1941(昭和16)年も初秋の時節を迎え、9月10日には『信濃毎日新聞』などの主筆を務め、一貫して反軍部の健筆を振ってきた桐生悠々が死去する。さらに10月15日には、著名な中国問題評論家で近衛文麿のブレーンとしても活躍した尾崎秀実が国際スパイの疑惑で検挙される事件が発生した。いわゆるゾルゲ事件である。
 軍部の横暴に意義を唱え続けた桐生の死去、帝国主義戦争の停止と日中ソの連繋の実現に奮闘した尾崎の検挙(1944年11月7日刑死)は、日本がいよいよ日米開戦に向かって拍車がかかり始めた時期と重なった。この2人の運命も、どこか日本の先行きを暗示するものだった。
 さて、末次大将と階段した同日(1942年9月5日)、近衛首相は翌日に迫った御前会議に提出する「帝国国策遂行要領」の案分をを天皇に内奏した。その暴騰には、「帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完遂す」と記されていた。事実上、日米交渉の期限を後1ヶ月とし、妥協の見込みがなければ対英米戦を決定し、10月下旬には戦争に踏み切るとしたものだ。
 この時点でも日米双方が何らかの妥協点を見出せないことから、交渉妥結を期待して1ヶ月の猶予を設定しても意味ある選択とは言えなかった。それは実際のところ、開戦準備のための時間稼ぎ以上のものではなかった。
 この案文は統帥部が作成したものだが、これから後1ヶ月を経ても妥協の余地は期待できないことを前提として作成された文案に等しく、事実上開戦決定を明らかにしたものだった。これにはさすがに天皇も不安にかられ、すぐに永野・杉山両総長を呼び出し、案文の内容について、「何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」との感想を漏らしていた(『平和への努力』)。
 この席上、天皇は永野総長に日米開戦となった場合に、「絶対に勝てるのか(大声にて)」と下問した。永野は、「絶対とは申しかねます。而して勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申しかねます」と答えた(『杉山メモ』上巻)。天皇は絶対に勝利する戦争を欲したのであり、そのための確実な勝利への展望を両総長から聞きたかった。だが、永野のどちらともつかない曖昧な返答に大声で、「ああ分かった」と明らかな苛立ちの様子を見せた((同前)。
 9月6日に開催された御前会議では予定通り「帝国国策遂行要領」を決定し、これで正式に日本の対米開戦を決定することになった。だからといって、この後一気に開戦に突き進むのではなく、陸軍省筋では武藤章軍務局長が、海軍では及川古志郎海軍大臣などが、依然として開戦への不安を拭い斬れない天皇の意向に配慮を見せながら、開戦には慎重な姿勢を崩していなかった。
 その一方で、服部卓四郎参謀本部作戦課長や石川信吾海軍省軍務局第2課長ら、早期開戦を説く強硬派からの突き上げが激しくなっていき、これら強硬派が中心となって天皇の開戦決意を迫る計画を進めていく。 (『日本海軍の終戦工作』 から)
<開戦論に傾斜する天皇>  日米交渉が大詰めを迎えた段階で、日米開戦に向けた海軍の決意がどのようなものであったかは、『杉山メモ』をはじめとして、多くの史料により確かめることができる。そうした史料の記録と一部重複するが、「高木惣吉史料」収録の記録を以下に引用しておく。
 「政界諸事情」に収められた「無題 9月5日(内奏)及9月6日(御前会議)概況」(昭和16年9月8日)には、日米開戦を決定づけた昭和天皇と杉山参謀総長との下問と上奏の内容が、次のように記されている。少し長いが書き出しておく。
 二、御上より
 (ロ)「愈々(いよいよ)開戦となりたる場合作戦上の勝算ありや」
  杉山総長「勝算あり」
  御上「支那事変勃発の際陸軍は僅か3D[3個師団]を以て一撃を与うれば直(ただち)に和平となるとのことを聞けり、杉山は当時陸相の職にあり……」
  杉山総長「支那は地域広大出口入り口多くして作戦上の困難以外に多く……」
  御上「夫等については其都度注意したるにあらずや、杉山は虚言を申すや」
 三、杉山総長より
  「御容しを得まして永野より奏上申上たきことあり、発言の御容しを乞い奉る」
  御上「宜しい」
  杉山総長「在来兵に100パーセント勝算ありというが如きことなし、孫子曰く独乙とセルビアと戦うが如き場合はともかく苟も相近似する国家間の戦は決して成算を万期することは難し、但し茲に病人ありて放置すれば死すること確実なるも手術すれば七分は助かる見込みありと医師の診断ありとすれば手術をなさざるべからず、而して其の結果若し死亡することありとせば夫は已むを得ざる天命と観する外なかるべし、今日の事態は将に然り、……若し徒らに時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強いらるるも最早如何ともなすこと能わざるなり」
  御上「よし解った」(御気を和げり)
  近衛総理「明日の議題を変更致しますが如何取計らいましょうか」
  御上「変更に及ばず」
 以上の天皇や永野の発言については幾多の史料で有名なものであり、また天皇の杉山への不信感を表明した件(くだり)として盛んに引用されてきた。しかし、この天皇発言の真意をもう少し注意深く分析する必要がある。
 とくに永野の発言への天皇の反応は、天皇自身の開戦決意、あるいは日米開戦への展望を考慮するとき、重要な意味を持つ。従来の解釈は、開戦決定に天皇自身は不安を抱いていたが、杉山と永野という陸海両軍令機関の最高責任者である両総長の強硬論をやむなく呑んだというものだ。(『日本海軍の終戦工作』 から)
<「四方の海みなはらからと思う世に」 帝国国策遂行要領──第6回御前会議>   1941年(昭和16)9月6日午前10時から、第6回御前会議が開かれた。議題は「帝国国策遂行要領」である。出席者は、総理大臣近衛文麿、外務大臣豊田貞次郎、内務大臣田辺治通、大蔵大臣小倉正恒、陸軍大臣東条英機、海軍大臣及川古志郎、参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身、参謀次長塚田攻、軍令部次長伊藤整一、枢密院議長原嘉道、内閣書記官富田健治、陸軍省軍務局長武藤章、海軍省軍務局長岡敬純、企画院総裁・国務大臣鈴木貞一の15人であった。
 政府から国策決定に重要な役割をもつ主要閣僚、陸海軍の統帥部から総長・次長、憲法上の天皇の諮詢(しじゅん)機関である枢密院から議長がこの御前会議の構成員として参加し、それに会議の幹事役として内閣書記官長と陸海軍の軍務局長が列席していた。
 議題の「帝国国策遂行要領」の全文は以下のとおりである。
 帝国は原価の急迫せる情勢特に米、英、蘭等各国の執れる対日攻勢、「ソ」聯の情勢及帝国国力の弾撥性等に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に拠り遂行す。
 一、帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完遂す。
 二、帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。
   対米(英)交渉に於いて帝国の達成すべき最少限度の要求事項竝に之に関聯し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。
 三、前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す。
 対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米「ソ」の対日聯号戦線を結成せしめざるに勉む。
 この場合、第2項に書かれている外交交渉で実現しようとする「別紙」の内容が最大の問題であるが、それはひとまず措く。この御前会議で主として問題になったのは、第1項と第2項の優先順位であった。杉山参謀総長の『メモ』に御前会議での質疑応答が記載されている(以下会議等での発言筆記は引用にあたって原文の感じをかなにするなど読みやすくするために手を加えた)。
 質問および意見の開陳は原枢密院議長が行い、近衛総理が訪米してルーズベルト米大統領と会談して厚相を妥結させたいという決意を支持したあと、次のように述べた。
 国民は日米関係をながめ最悪の場合に至らずやと思い、これにいたらざるを願っている。自分はこの前の会議の時に対英米戦を辞せずとありしがゆえに、できるだけ外交をやるよう希望しおけり。現在政府の考えもそのようであり、両総長の考えも同じようだ。しかし外向的手段だめとなれば好むと好まざるとにかかわらず最悪の場合戦争となるだろう。而してこれは適当な時に決意するを要する。そこで戦争準備をやるのであると諒解する。
 次に案文中の一、二、三、を一瞥すると、自存自衛のために戦争準備と外交とを併行し、また開戦の決意等のことがある。戦争準備もやむを得ないが、できるならば外交によってやってみようと見られるふしもある。すなわち戦争が主で外交が従であるあかの如く見えるが、自分は外交手段を取っているあいだずっと今日から宣そう準備をするという趣旨であると思う。すなわち今日は何処までも外交的打開に勉め、それで行かぬ時は戦争をやらなければならぬとの意と思う。戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力して万やむおえない時に戦争をするものと解釈する。
 これに対して及川海軍大臣が答弁した。
 書いた気持ちと原議長と同一であります。
 帝国政府としては事実において日米交渉は今日まで勉めているところである。現在の事態に直面しやむなき時は辞せざる決意をもってやるということを取り上げて書いたのである。第1項の戦争準備と第2項の外交とは軽重なし。而して第3項の目途なき場合の戦争の決意まで行うというのである。しかしこれを決意するのは廟議で允裁をいただくことになる。重ねていえば書き表した趣旨は原議長と同様にて出来うる限り外交交渉をやる。
 また近衛首相が訪米を決意したのはさような観点であると思う。
 これに対して原議長が再び発言した。
 お話により本案の趣旨は明らかとなれり。
 本案は政府統帥部の連絡会議で定まりし事ゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと同じと信じて自分は安心いたしました。尚近衛首相が訪米の際には主旨として宣そう準備をやっておくが、できるだけ外交をやるという考えで、なんとかして外交により国交調整をやるという気持ちが必要である。どうか本案の御裁定になったら首相の訪米使命に適するように、かつ日米最悪の事態を免るるよう御協力を願う。
 『杉山メモ』には「最後に特に陛下より御言葉あり」として、別紙に「御前会議の席上、原議長の質問に対して及川海軍大臣の答弁あり、其後」と、昭和天皇が直接に発した質問の内容を記録している。
 私から事重大だから両統帥部長に質問する。
 先刻原がこんこん述べたのに対し両統帥部長は一言も答弁しなかったがどうか。
 きわめて重大なことなりしに統帥部長の意志表示なかりしは自分は遺憾に思う。私は毎日、明治天皇御製の
 四方の海、皆同胞と思う代(まま)に などあだ波の立騒ぐらむ
 を拝誦している。
 どうか。
 この天皇じきじきの質問に対し、永野軍令部長が「まったく原議長の言った主旨と同じ考えでありまして、御説明の時にも本文に二度この旨を言っております。原議長がわかったと言われましたので改めて申し上げませんでした」と答弁し、杉山参謀総長も「永野総長の申しましたのと全然同じでございます」と答弁した。(『御前会議』 から)
<8月6日の御前会議についての天皇の言葉>   9月6日の御前会議の顛末について天皇は次のように語っている。
 9月5日午後5時頃近衛が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると以外にも第1に宣そうの決意、第2に対米交渉の継続、第3に10月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなっている。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった
 私は軍が其様に出師(すいし)準備を進めているとは思って居なかった。近衛はそれでは、両総長を呼んで納得の行く迄尋ねたら、と云うので、急に両人を呼んで、近衛も同席して1時間許り話した。この事は朝日新聞の近衛の手記に書いてある事が大体正確で、この時も近衛は、案の第1と第2との順序と取替える事は絶対に不可能ですと云った。
 翌日の会議の席上で、原枢密院議長の質問に対し及川が第1と第2は軽重の順序を表しているのではないと説明したが之は詭弁だと思う。然し近衛も、5日の晩は一晩考えたらしく翌朝会議の前、木戸の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で事を進める様論して貰い度いとの事であった。それで私は予め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ、之も近衛の手記に詳しく出て居る。
 しかし、天皇が「大体正確」と評価している近衛の手記には、「私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった」という趣旨の天皇の発言は記録されていない。(『御前会議』 から)
<15回の御前会議>   御前会議が全部で何回開かれ、それぞれの御前会議はいつ、何を議題として開かれたかを明らかにしておこう(年は西暦の下2桁)。
  回   年・月・日  議 題                 内 閣
 第1回  38. 1.11 支那事変処理根本方針         第1次近衛内閣
 第2回  40. 9.19 日独伊3国同盟条約          第2次近衛内閣
 第4回  40.11.13 支那事変処理要綱に関する件ほか    第2次近衛内閣
 第5回  41. 7. 2 情勢の推移に伴う帝国国策要綱     第2次近衛内閣
 第6回  41. 9. 6 帝国国策遂行要領           第3次近衛内閣
 第7回  41.11. 5 帝国国策遂行要領              東条内閣
 第8回  41.12. 1 対米英蘭改選の件              東条内閣
 第9回  42.12.21 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針    東条内閣
 第10回 43. 5.31 大東亜攻略指導大綱             東条内閣
 第11回 43. 9.30 今後採るべき戦争指導の大綱ほか       東条内閣
 御前最高戦争指導会議
 第1回  44. 8.19 今後採るべき戦争指導の大綱ほか       小磯内閣
 第2回  45. 6. 8 今後採るべき戦争指導の基本大綱       小磯内閣
 第3回  45. 8. 9 国体維持を条件にポツダム宣言受諾      鈴木内閣
 第4回  45. 8.14 ポツダム宣言受諾              鈴木内閣
 御前会議という名称でひらかれた会議が合計11回、大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議と名を改めた後、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称でひらかれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議がひらかれている。(『御前会議』 から)
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<近衛手記から>   近衛は、日本の敗戦後なお、3国同盟の締結は当時の国際情勢の下に於いては、やむを得ない妥当の政策であったとしている。近衛手記はこれを説明している。
 ドイツとソ聯とは親善関係にあり、欧州の殆ど全部はドイツの掌握に帰し、イギリスは窮境にあり、アメリカは未だ参戦せず、かかる状勢の下に於いてドイツと結び、更にドイツを介してソ聯と結び、日独ソの連繋を実現して英米に対する我国の地歩を強固ならしぬることは、支那事変処理に有効なるのみならず、これによりて対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。従って昭和15年秋の状勢の下 に於いて、ドイツと結びしことは親英米論者のいふ如く、必ずしも我国に採りて危険なりとは考へられぬ。之を強いて危険なりといふは感情論である。
 と書いている。併し、以上に叙述した同盟成立の経過に照らし、果たしてこの時期に於ける同盟の締結が妥当な政策であったかは頗る疑問である。独ソは不可侵条約によって表面親善の観を呈していたが、実は当時既にポーランド問題やバルト諸国をめぐって悪化の途を辿っており、ドイツの対英上陸作戦も漸く困難を加え、スターマーの渡日が日本を対米英牽制に利用せんとする打開の策であったことは前述の通りであり、またアメリカ未だ参戦せずとはいえ、アメリカの対英援助は益々真剣となり、いよいよ戦備を整え事実上参戦の態勢にあったといえる。かかる反面の事実を見れば、近衛は確かに状勢判断を誤ったものと言う外なく、而もスターマーの言に依存してソ連との国交調整を後回しにしたことは明らかに重大な手落ちであったと言わなければなるない。のみならず、同盟の2大目標たるアメリカの参戦防止も対ソ国交の調整も完全に外れた。その必然的結果として日華事変の解決、南方への進出、東亜新秩序の建設が相共に総崩れとなり、日本を日米開戦に引きずり込んだことを想えば、3国同盟の締結が国家百年の計を誤ること、如何に甚しかったかが分かる。
 更に遡って、3国同盟の締結は、同盟の前身とも言うべき日独防共協定強化の段階に於いて既に大きな無理があった。軍殊に陸軍はドイツを崇拝する考え方から次第に英仏をも含む世界対象の無条件軍事同盟をドイツと結ばんとする態度となり、これに同調しない平沼、阿部、米内の各内閣に強力な圧迫を加え、遂にこれ等の内閣を相次いで打倒しつつ、強引に3国同盟をつくり上げてしまったのである。kの間、陸軍が如何にして国家の政治や外交に干渉して行ったかの経路は特に注目に値する。また、陛下を始め対米関係を顧慮して内心同盟に深い危惧を抱きながら、海軍や枢密顧問官、その他の諸閣僚は結局反対を貫き得なかった弱気、或いはこれ等の間に立って定見なく国策を指導することなくして陸軍に引きずられた近衛総理の態度も、深く反省しなければならぬところである。
 松岡外相は、3国同盟がスターマーの着京以来、僅か20日に足らずして締結された快速外交を自賛して「所謂慎重審議に名を借りて礦日弥久」することは「皇運を扶翼」する所以でないと称したと言われるが、我々はむしろ「疾風迅雷にも似たる痛快さを以て3国同盟を締結した第2次近衛内閣が、果たして皇運を扶翼し、積極的に国運を開拓したと言い得るか」と反問した有田外相の言葉を、多少の反対論もあるが、是認せざるを得ない。あの強情我が儘な松岡が、1941年12月8日、日米開戦の報に驚いて駆けつけた斎藤良衛に、病床から涙を呑みながら語ったと言われる次の懺悔は、遂に3国同盟の失敗を自認したばかりでなく、平和のためと思って結んだ同盟が、実は日本を戦争に追いやる決定的な第1歩であったことを告白したものであり、3国同盟研究の最後に掲げる言葉として意義深いものがあると思う。
 3国同盟締結は僕一生の不覚だ。此の同盟によってアメリカを牽制し、その参戦を思い止まらせ、日ソ両国の国交を調整し、以て平和を維持し、我国を泰山の安きに置こうとしたのだが、私のこの真剣な試みは、遂に何等実を結ばなかったばかりか、今度のようなことに立ち至って終わった。誠に遺憾千万だが、皆僕の不敏浅慮の致すところ、国家の将来誠に憂慮に堪えざるものがある。之を思うと、死んでも死に切れない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない。君にまで片棒を担がせたが、誠に済まない。(『太平洋戦争原因論』 から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『日本海軍の終戦工作』アジア太平洋戦争の再検討       綾瀬厚 中公新書     1996. 6.15
『御前会議』昭和天皇十五回の聖断            大江志乃夫 中公新書     1991. 2.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年11月17日 TANAKA1942b )
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(14)東亜新秩序とそれに対する英米の圧力
日本が考えていた以上の綿密な計画  
 今週は日本が中国をはじめアジアへ進出する口実である「東亜新秩序」ということと、その日本のアジア侵略を阻止しようとする英米の対日政策について取り上げることにする。英米の対日政策は十分な計画で進められていた。日本の性gふ・軍関係者の見通しは非常に甘かった。そのような点についていくつかの文献から引用することにした。
<大東亜新秩序建設の意義>  今や我が国は放題な戦線において皇威を発揚すると共に、日独伊枢軸を窺ふ第3国の攻撃に備へ、進んでは大東亜新秩序の建設を目指して万全の方策を樹てつつあるのである。即ち、昭和15年8月1日に発表せられた基本国策要綱にはその策定の要旨が大要次の如く述べられている。
 世界は今や歴史的一大転機に際会し、数個の国家群の生成発展を貴重とする政治・経済・文化の創成を見んとして居り、皇国も亦有史以来の大試練に直面している。この秋に当り、真に筆国の大精神に基づく皇国の国是を完遂せんとすれば、この世界的発展の必然的動向を把握し、庶政全般に亙って速やかに根本的刷新を加え、万難を排し、国防国家体制の寛政に邁進することがことがことが刻下喫緊の要務であると。
 更にその根本方針についても該要綱中に明らかに示されるが、それによれば、皇国の国是は「八紘を一宇とする筆国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを根本とし、先ず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことにある。
 これが為には、内には先づ国内の政治・経済・文化の諸態勢を整備して新事態に即応すべき不抜の国家体制を確立し、外には既に皇国の指導の下に道議国家としての成長を見た満州国並びに更正支那と提携して東亜の天地を欧米の侵害より防衛し、日満支相携へて政治・経済・文化の各般に亙り互助連環の関係を樹立し、大東亜共栄圏内に国際正義の確立、共同防共の達成、経済結合の実現、新文化の創造を期し、更に進んで圏外との関係を是正し、志を同じうする第3国との間に道議的国際関係を樹立し、以て世界新秩序の確立に邁進することを要する。
 かくの如き世界新秩序の根底たるべき大東亜の新秩序は、言ふまでもなく欧米の経済及び文化と全く絶縁する意味ではなく、東亜の自主的な正確を明らかにすることによって、東西相互の尊敬と信頼とを基調とする提携協力を緊密ならしめ、進んで世界新文化の建設に貢献しようとするのである。
 併しながらこの大東亜新秩序建設の前提条件となるものは、既に述べたように、内にあっては国家体制の整備、国力の充実による指導国家としての実力の  であり、外に対しては支那事変の完遂、即ち日支紛争の原因たる東亜積年の禍根の除去である。而して支那事変たるや単に日支両国の関係のみに起因するものではなく、支那と欧米諸国及びソ連との間の錯雑した関係が支那を混乱に陥れた結果に外ならない。従って真に大東亜新秩序建設の精神を理解せんが為には、従来支那が如何に欧米諸国の侵略の犠牲となり、共産主義の魔手に踊らされ、徒らに欧米と結んで日支の提携を破壊し、以て自らの独立と平和とを脅かされ混乱を続け、常に東亜の天地に禍乱の因を作って板かを知る必要がある。(『大東亜新秩序建設の意義』興亜教育参考資料第1輯 から)
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<米国の経済戦争への道のり>  米国が枢軸国に対する道義的禁輸から選別的禁輸へ、さらに全面的禁輸の政策に猛攻転換を試みるきっかけになったのは、ドイツの開始した40年春の北欧や西方に対する電撃作戦とフランスの崩壊、孤立化した英国の存在をかけた戦いであった。米国は英国の強い要請と自国の安全保障の観点から、重大な政策転換に迫られた。同年7月初めには、輸出統制法が導入され、大統領の権限を代行する輸出統制官の制度が発足した。
 輸出統制官の制度は、米国の安全保障強化の必要と、中立国であった米国が経済戦争の政策を公然と打ち出せなかった政治的ギャップを埋めるための一時的な性格を持つことになった。輸出統制官は戦争一歩手前の特殊な働きをする政府機関と解釈され、経済戦争への突入に備えることになった。その意味で戦争を否定しながら、戦争のための準備をする機関であった。
 さらに同年9月における日独伊3国による軍事同盟条約の署名は、英国の経済戦争に米国が主体的な役割を果たしていく決定的な道筋をつけたことになった。米国の輸出統制官とその組織は、輸出統制の業務を進めるにあたり、英国がドイツとの経済戦争で積み重ねてきた判断の基準を適用することになった。英国の交戦国であるドイツとイタリア、及び、敵性国家とされた日本は、米国にとっても重要な輸出品目の目的地として資格に欠けると判断された。
 米国では、41年1月末までに、経済戦争の原則は明確にされ、そのための計画が進められた。経済戦争に関する認識では、それは戦争の一形態であり、攻撃的な面と防衛的な面を有するものであった。攻撃的な面では、敵国の力を制限し、弱め、あるいは破壊するための、生産から富みの分配に至るまでのあらゆる種類の経済活動を含むものであった。そのような経済活動全体が、敵国の戦闘部隊の敗北につながり、また軍事行動を継続する意思を失わせることに結びつくと想定された。また防衛的な面では、自国の国力を保護・増大させ、正常な国民生活を維持することが目指された。
 41年夏、日本の南部仏印への軍事進出に対応してとられた在米資金の凍結、石油の全面的禁輸は、敵性国家の力をそぐための最も攻撃的な手段となった。また同年7月31日に行われたベルリン・ローマ・東京の枢軸3国に対する経済戦争強化の大統領宣言は、対日経済戦争宣言とも言えるものであった。同日には、経済戦争に備えたホワイトハウスの組織改編が行われ、副大統領を議長とした経済防衛会議が発足し、輸出統制官とその組織は経済防衛会議の指揮下に入った。米英両国連帯の包括的な対日経済戦争が、経済防衛というかたちで軍事作戦に先行して実現することになった。 (『対日経済戦争』から)
<経済戦争の形態>  米英両国の日本など枢軸国に対して行われた経済戦争の形態は、8つに大別することができる。これは経済戦争一般にあてはめることができるものである。
 第1は、経済戦争を遂行するための法律整備と行政上の規制活動である。利敵行為は厳しく禁じられ、また輸出入規制と船舶輸送の規制が行われた。輸出規制と輸入規制については、特定の重要物資の数量制限から、すべての物資に全面的な禁止まで、多様な手段がある。
 第2は、利敵行為に対する機密情報の収集である。政府は、自国や味方の国々における利敵行為の疑いのある企業や組織、個人はむろんのこと、中立国における利敵行為のリストを作成し、絶えざる監視の下に、彼らの活動に規制を加えた。リストには公表、非公表の区別はあるが、彼らのブラックリストとして知られるものであった。
 第3は、中立国から戦争遂行に必要な重要資源の供給を確実に受け取ることである。特定の重要物資の獲得を目的とした中立国に対する戦時貿易交渉は、外交的説得から軍事圧力に至るまでの手段によって行われた。
 第4は、第3の目的の裏返しであり、中立国の重要物資が相手国に供給されないようにすることであった。中立国が敵国に対して特定の重要物資を輸出してきた歴史がある場合には、その数量を規制するための高唱が行われた。中立国が味方に有利であり、敵に制約を与える自主的な輸出割当計画、あるいは強制的な割当計画を実施し、そのために輸出許可制度をとることが望ましかった。
 第5は、最恵国待遇を取り消すことである。通商航海条約の破棄など、相互主義に基づく貿易上の便宜をいっさい認めず、通商上の立場を不利にさせることであった。
 第6は、敵国、あるいは敵国の支配地域の政府が自国に有する資金を凍結することである。資金凍結に加え、国際金融市場へのアクセスの禁止により一切の国際経済関係から切断されることが目的とされる。それには主要な連合国ばかりではなく中立国の協力もまた必要とされた。
 第7は、公海、もしくは封鎖線で、交戦国へ戦時禁制品が持ち込まれないように海軍力を使って臨検し、強制的な阻止行動をとることである。
 第8は、封鎖あるいは経済活動破壊のための軍事行動であり、経済戦争の手段であると共に、軍事作戦行動の一環であった。航海上の敵国の船舶輸送への攻撃、重要物資の生産・貯蔵・流通の拠点攻撃などが含まれる。
 以上8つの形態のうち、開戦前の対日経済戦争は41年7月末から8を除いて実施された。また1についても交戦状態に入る以前は、国際法や国内法による敵国としての位置づけが困難であるため一定の限度のあるものであった。しかし、日本軍の南部仏印進駐を契機にした対日石油禁輸は、大統領権限に基づいて徹底したものとなった。
 米政府の内部資料からうかがえることは、対日経済戦争の発動や石油の全面禁輸については、ルーズベルト大統領の作為的な指導という特徴はみられず、米政府内部のハト派とタカ派が接近し、官僚組織あげての行政敵対応となっていたという点である。 (『対日経済戦争』から)
<英国の経済戦争への道のり>  日本に対する経済圧力の必要性が英国で検討されたのは、31年に満州事変が発生し、国際連盟を軸として日本にペナルティを科そうとする潮流が次第に満ち始めることになった時期である。日本が中国における米欧諸国の経済活動に制約を加えているとして、差別政策への報復手段としても経済制裁の政策の適用が討議された。そして具体的な計画が練られたのは、37年7月盧溝橋事件に端を発した日本の対中戦争が本格的に進展したときであった。
 これらの討議から常に引き出された結論は、日本に対する経済圧力の成功はいつに米国の協力にかかっているということであった。この基本的な判断は、その後確固不動のものとなり変わらなかった。37年10月の英産業諜報センター報告書は、「日本の備蓄が枯渇したあと、英帝国や連合国、及びその影響下にある地域からの原料資源の供給がなければ、日本の経済は立ち行かなくなる。ただし米国の効果的な協力がなければ、対日ボイコットの手段はその目的を達成しない」とした。
 英帝国の安全保障を検討する帝国防衛委員会は、37年12月末、対日経済圧力を行使するための明確な計画を準備することは、ドイツに対する同種の計画を準備することより優先的に行わなければならないという指令を下したが、このため対独経済圧力の具体的計画を作成するための作業は一時中断されたが、38年3月に復活している。対独戦争時の経済戦争計画に水をさすかたちで、対日経済圧力の計画準備を優先させようとした指令の意味するところについては、いくつかの背景が考えられなければならない。
 まず国際情勢を考えると、英国ではドイツとの緊張が37年の前半を通じて継続したとはいえ、38年3月のオーストリアのドイツによる強制併合や9月のミュンヘン危機の前であり、ドイツとの関係が緊張感を帯びていたとは必ずしも言えないことである。これに対して日本は南京攻略作戦を行い、中国人虐殺のいわゆる南京事件が世界に報道され、英米のも大きな衝撃を与えた時期であった。しかしそれ以上に、対日経済圧力を成功させるためには米国の協力が必要であり、またドイツとの全面戦争に米国の協力を引き出す上でも、対日経済圧力の具体策を早く描き出す必要があったと見ることができる。
 対日・対独どちらの具体案にしても、戦争遂行に欠かせない重要物資の備蓄状況を洗い出し、戦時禁制品のリストを作成しなければならなかった。またこれら敵性国家と交易を行っている中立国の経済関係を調査し、交易規制のための外交的説得に乗り出したり、説得不能の場合には、さまざまな圧力をかけることを計画する必要があった。とくにアジア太平洋では、英仏蘭の植民地や米国の影響力圏が入り込んでおり、さらにオーストラリアやカナダなど大英帝国内の事実上の独立国の経済関係も考慮しなければならないので、対日圧力をかける上での調整活動はきわめて複雑な道のりが予想された。
 対日経済圧力と対独経済圧力が並行して検討され、戦時における経済戦争の具体案がそれぞれ策定されたのは、ほとんど同じ時期であった。日本のそれは38年2月、ドイツのそれは同年7月である。対日計画はかなり精巧にまとめられたもの、対独計画は一応その時点で完成されたものであた。対日経済圧力は道義的禁輸政策と呼ばれる段階にとどまっていた。
 しかし、40年9月に日独伊3国の軍事同盟が成立したことは、枢軸国に対する英国の経済戦争と米国の経済圧力を結びつける重要な役割を果たすことになった。日独伊が軍事同盟で結ばれたその2ヶ月ほど前の7月に、米国で国防強化の目的で導入された輸出統制管理官の制度は、3国同盟によって日本に経済的な圧力を経済戦争同様にかけていくことのできる刺激的な第1歩となったのである。米国で経済戦争を行うにあたってのメカニズムが動き始めたことについての、日本の政軍指導者の反応はみられなかった。 (『対日経済戦争』から)
<大恐慌期における貿易政策転換の中核的推進主体>  アメリカは、第2次世界大戦終了後に資本主義世界の中で経済力において圧倒的地位を占め、世界的自由貿易体制の中軸国として現れてくるが、その歴史を振り返って見ると、保護貿易国家を任じてきた期間の方がはるかに長い。すなわち、1826年関税法の制定によって初めて保護関税が導入されて以来、1846−61年および1913−22念の両期間に低率関税期が存在したとはいえ、大恐慌期の最中にあたる1934年に互恵通商協定法が制定されるまで、基本的には高率保護関税政策が維持されてきたのである。
 ハル国務長官の唱道のもとで「合衆国産品の国外市場を拡張する」目的をもって、各国と通商協定の締結を図るために大統領に対し現行関税率の50%までの変更権を認めた1934年互恵通商協定法は、アメリカ貿易政策史上に「おいて画期的意味を持つものであった。そなわち、同法の制定によって従来のような議会の専権に基づく自主関税1本槍の政策が改められ、初めて行政協定に基づく協定関税が本格的に導入されたのである。ここにおいて高率保護関税の維持を前提とした報復関税賦課の威嚇による輸出拡大策が破棄され、相手国から譲歩を獲得するために輸入関税面でみずからも譲歩するという、いわば輸入の拡大を伴う輸出拡大策が導入された。さらに、同法には1922年関税法317条を契機として1923年に導入をみていた無条件最恵国待遇の原則が条文として明記され、同法に基づく通商協定には同原則が適用されることとなり、あめりかは自由貿易化の方向を鮮明に打ち出してくる。そして互恵通商政策の展開=各国との通商協定の締結をみるなかで、高率関税体制は最終的に崩壊への道を辿っていくのである。したがって同法の制定は、伝統的な保護貿易政策から自由貿易政策への180度の方向転換の起点をなすちともに、第2次世界大戦後に成立をみたアメリカを中心とする世界 的自由貿易体制の形成に向かう萌芽が孕まれた起点としても位置づけられよう。
 互恵通商政策について、内外の研究史ではほとんど政策史ないし政治史レベル における論及に限られており、その指示基盤と政策志向自体に関して詳しく論じられたことはなかった。ここでいう支持基盤とは、主要産業諸部門のうちにあって、貿易政策の転換を下から推進した有力企業や業界団体を指す。大恐慌による過剰生産と失業問題、農業問題に直面するなかで、これらの利害関係者は、このこととの関連において貿易問題に対していかなる立場を示していたのか、この点を究明することは、政策転換の歴史的特質の解明にとって不可欠の前提をなすものと思われる。本章では、貿易政策転換をめぐる実業界の動きに焦点があてられる。とくに、大量生産と大量販売を統合してアメリカの巨大な生産力を最も典型的に体現しながら最大の産業にして最大の輸出産業に成長した自動車産業の立場はどうであったのか、まず当該産業こそが貿易政策転換の中核的推進主体をなす位置にあったことを認識したうえで、この点を互恵通商政策の導入・実施・継続をめぐって斯業の同業者団体である「全国自動車商業会議所(Automobile Manufacturers Association と改名)から国務省に送られた書簡・文書の所論に即して実証的に明らかにし、ここにみられるビジネス側の論理を軸心に据えて大恐慌期アメリカにおける貿易政策転換の歴史的特質について若干の論点を提示したい。 (『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』から)
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<アメリカの対日経済圧迫>  アメリカの対日圧迫は、日華事変の進展に伴い次第に強化される機運にあったが、その目的は、1つには援蒋目的から発したものであり、他の1つは日本の南進を阻止せんがためであった。アメリカの対日圧迫は国際連盟によって明確に表現された。連盟は昭和13年2月2日ならびに5月初旬、対日決議案を採択し、9月には日本に対し連盟規約第16条の経済制裁条項を適用することに決定した。これらの措置に対して日本は、10月3日連盟に対する一切の強力を停止し、ついで昭和13年12月2日には、遂に国際連盟を脱退することとなったのである。
 これよりさき、日華事変は、華北から華中へ、さらに華南へと拡大し、10月27日の武鑑三鎮の完全占領によって、米英権益の大部分は日本軍の占領下に置かれることになった。日本政府が昭和13年11月3日に行った東亜新秩序建設の声明(近衛声明)および、「日本は東亜において、真の国際主義に基づく新秩序建設に全力を挙げている。東亜の天地に新たなる状勢が展開しつつある際、事変前の事態に適用ありたる過去の観念ないし原則をもって、現在および今後の事態を律することは当を得ない」との有田外相の門戸開放主義修正の必要を要求せる通告は、米英諸国をいたく刺激した。イギリスはこれに対し、昭和14年1月15日付の対日通牒を日本に寄せたが、アメリカにおいてはイギリスよりも早く、昭和13年12月31日、既存の門戸開放原則を無視して打ち立てられたる中国の新秩序を承認し難いとの対日通牒を公表したことにより、日米関係は従来の如き個々の権益侵害を中心課題とした「懸案交渉」の域を超えて、「主義原則に関する対立」に立ち至ることになったのである。
 空爆問題、在華米人権問題により悪化の一途を辿っていたアメリカの対日感情は、一層拍車をかけられることになり、従来の対華援助はさらの一歩進めて、積極的対日牽制の態勢をとることとなった。すなわち、従来実現されていなかった総額2,500万ドルにのぼるアメリカの対支借款が、昭和13年12月15日、アメリカ復興金融会社社長G・Sジョーンズ氏により発表され、ついで昭和14年1月14日には、航空機並びに部分品の事実上の対日禁輸が実行されることになったのである。これは昭和13年7月以来の国務省当局の航空機製造業者への対日航空機輸出の道義的禁止勧告の結果を具体的に公表することによって、対日供給者を威嚇し目的を達成せんとしたものだった。すなわち、当時の新聞報道によれば、昭和14年1月9日に発表された軍需品統制強化の議会への年次報告の中で、非戦闘員を爆撃する国に対する飛行機並びに部分品の輸出を歓迎しないと云う国務省の方針は、唯一の例外を除き、民間業者の協力を得た旨を述べ、さらに14日に至りその例外とはコネチカット州のユナイテッド・エアクラフト会社であることを公表した。これに対しユナイテッド・エアクラフト会社は、同19日声明を発し、自己の弁明と、今後の国務省方針への協力を誓ったのである。
 これと相前後してしょうわ14年2月7日国務省当局は、1924年の外国への投資に関する外交文書を公表し、日本勝者に対する投資には国務省は反対であり、就中、中国の経済開発にtsめにする対日投資はこれを阻止する方針であると発表した。かくの如く次第にアメリカが対日経済圧迫を歩を進めている間も、日華事変は進展し、日本空軍の重慶、その他の都市への空爆に対し、アメリカ側から抗議が提出されていたが、昭和14年7月10日ハル国務長官は堀内対しと会見し、アメリカは日華事変に直接介入する意志はないが、アメリカとしては、在華米権益の尊重、在留米国民の生命財産の安全を要望するものである旨を希望し、在留米国民の生命、財産を擁護する上からも重慶爆撃に対し、日本の注意を喚起するとの意見を表明した。これらの状勢のの反映としてアメリカ国内のおいては、上院外交委員長ピットマン氏の「9カ国条約違反に対する貿易制限決議案」、シェンバッハ上院議員の同主旨の提案、7月18日には共和党上院議員ヴァンデンバーグ氏による「日米通商漸く廃案」の提案などがなされた。
 また、中国に関しては昭和14年6月14日に日本陸軍による天津英租界の封鎖から端を発した日英東京会談が行われた。アメリカ政府がこの日英会談を単に日英間の問題であるにとどまらず中国に利害を有する総ての国の問題として重視していたことは当時の新聞論調に明らかである。これがイギリス側の一応の譲歩によって妥結に近づき、また同じ頃日本軍による珠江の封鎖(7月26日)が発表されるや、アメリカ政府は同日午後10時突如として1911年締結された日米通商航海条約の破棄を発表した。これはアメリカ政府が日本に対する牽制の法的障害を除去し、極東の今後の新情勢に処して随時、合法的に対日制限をなし得ることにより、日本の今後の動きに警告を与えたものと解せられる。その後昭和15年1月26日を以て条約は満了し、新条約の締結の可能性もなく、日米関係は全く無条約時代に入ることとなったのである。(『太平洋戦争原因論』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『大東亜新秩序建設の意義』           文部省教育調査部  文部省教育調査部 1941.11.20
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版 2002. 8.15
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年11月24日 TANAKA1942b )
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(15)保護貿易の反省から生まれたガット
二度と再び日本のような被害国を生むな
 自由貿易体制のもとで経済成長を遂げていた日本が、保護貿易政策のために経済成長のための外的環境が変わったことにより、大東亜経済圏建設という無謀な幻想に惑わされることになっていく。こうしたことへの反省で、戦後自由貿易を推進するガットが創設されることになった。今週はこの「ガット」について扱うことにする。
<歴史的仮説とクレオパトラ>  人間の歴史には、さまざまな仮説を立てて試みるに価するものがある。しかし歴史の時間を遡行して、すでに起きてしまった事実を取り替えることはできない。ここでガットがなかったらと考えてみることは、古代エジプトのクレオパトラがそれほど美しくなかったら、世界史を変えるほどの恋いに陥る人も現れなかったかもしれない等という仮説とは違った意味をもっている。
 ガット(関税貿易一般協定)は今では空気のように、在ることが当然とも感じられるが、それがなかったら、今日の世界の経済発展と貿易はどうなっていたかと考えてみることは可能であるばかりか有益である。それは、空想の中で仮説を立てるのではない。現代史の中でガットがなかった第2次世界大戦のすぐ前の頃に、世界の貿易と通商に実際に起こったことを、私たちは歴史的に憲章することができるからである。
 歴史や経済学を含む社会科学は、自然科学と違って通常は実験を繰り返せない学問である。しかしガットが存在しなかった時代については、史実を見ればよい。ほんの60年前の世界的保護主義の嵐の中で、日本を焦点としてほぼ世界中が実施してしまった壮大な、苛酷な歴史的実験の跡を見ることができる。(『ガットからWTOへ』から)
<ガットなき時代の対日貿易差別>  第1次世界大戦が終わって第2次世界大戦が始まるまでの機関は、「戦間期」と呼ばれ、世界的に平和な時代であったと言われる。だがよく見れば、この時代は、その時まで世界を支配していた大きな流れが変わっていく、ダイナミックな期間であった。それなでの世界秩序の中心的役割を担っていた大英帝国の枠組みが弛み、その力の相対的衰えと伴に、世界のリーダーシップが米国へと移っていった。いわゆる「覇権」の交替期であった。つまりヨーロッパ中心であったそれまでの世界の秩序が、大きく崩れつつ先は見えてこない過渡期であった。当時日本は、ちょうど今日のNIESのように欧米の先進国に「追いつこう」と努力していた発展途上国の1つであった。
 当時の日本は、1つの産業の分野(特に繊維工業)で発展し、世界市場に参入し、先進諸国にチャレンジしていた。そうした世界市場での競争を通じて、それまでの世界の覇者英国を、綿工業の分野で「追い上げ」た。それのよって、若い日本はそれとは意識していなかったが、英国を中心とした旧世界秩序の破壊に拍車をかけ、世界の新しい時代への移行に影響していった。1929年、米国に世界大恐慌が始まった。それが世界中に波及し深まった1933年ころに、世界貿易は、1926年水準の約3分の1に低下した。世界大恐慌の中で各国は自国の救済に必死となり、保護主義は世界を覆って激しくなった。しだいに日本は通商の世界的保護主義の対象となり、十字砲火を浴びせられていった。昭和元年(1926年)から12年間(1937年まで)のことである。
 なぜ日本が保護主義の標的となったのか。その原因の中には、世界経済が大恐慌の底に沈んでいくなかで日本経済の回復力は速く、1937年までに輸出が1926年水準の95パーセントまでも回復したことがあった。同年の世界貿易の回復力44パーセントと比べて、その速さが分かる。輸出回復の過程で、日本は世界中から激しい通商規制と差別の対象となった。その事実は、当時の日本の貿易摩擦の様子を海外市場別に振り返ってみれば明らかになる。
 先ず中国は、当時の日本にとって輸出入とも25パーセント以上を占める良い市場であった。それが、日本の中国への「21箇条の要求」を、時に中央政府が受諾して以来、日本製品のボイコット──商品の不買運動──が燃え上がった。
 特に満州事変以後は、この運動は中国全土に広がり、厳しい貿易障害となった。その結果、日本はボイコット運動の激しかった地域、とりわけ豊かな中部と南部の中国市場を失った。そのため日本は、発展を続ける国内産業の生産品の市場とその原料市場を、世界中にますます広く求めていくようになった。(『ガットからWTOへ』から)
<日本が震え上がった対米輸出の凋落>  1926−29年に、米国向け輸出は日本の総輸出の42パーセントを占め、年間平均94万ドルの黒字を稼いだ。この輸出は1937年までに輸出額は20パーセントと半減し、対米輸出依存度の高かった日本を震撼させた。凋落の要因の1つは、対米輸出の82−83パーセントを稼いでいた1次産品生糸の米国市場の崩壊であった。
 しかしそれを補うべき工業製品の輸出も、他の地域への輸出と比べてまことに思わしくなかった。その要因の1つに米国の対日通商政策がある。ニューディールの一般的な対外政策は、悪名高き1929年のスムート・ホウレイ保護関税法による通商規制を緩和させる方向にあった。しかしその流れとは反対に、対日関税は重くなった。
 また日本からの工業製品に対しての、当時の米国の重量税も、低価格の工業製品を多量に輸出して伸びていた後進国日本にとっては、高い実質関税となった。そもそも、関税には従価税と重量税の2通りがある。従価税は輸入価格に対して、たとえば30パーセントをかける。これに対して重量税は、輸入量に対してかける。実例を挙げれば、1934年に米国が日本製鉛筆(登録商標以外のスタンプのある安いもの)にかけた関税は、従価税25パーセントと重量税が1グロス(12ダース、144本)につき50セントを加えた複合関税であった。従価税は、どの国の製品に対しても平等な一律関税である。しかし重量税は、質では先進諸国の製品と太刀打ちできず、安い単価の品数で輸出を稼ぐ後進国(途上国)の製品に対しては、単価が安く数量が多いほど実質的に高関税率となる。先にあげた鉛筆の実例で日本は、英国製やドイツ製品と競合していた。従価税に換算した実質関税率は、この製品一般(英・独・日)に対して180パーセントであったが、日本製品には実に288パーセントの高関税となた。そして37年までにこの品目の日本製鉛筆の輸出は皆無と、惨敗した。
 また白熱光電球の輸入には、一律に20パーセントの従価税がかかった。しかし日本製には、さらに30パーセントのダンピング関税がつけ加えられた。したがって日本製品には50パーセントの関税となった。こうしたダンピング関税は、当時の米国の通商統計を見れば、稀なことが分かる。どうして日本製品にだけこのような重い関税をかけることができたのか。
 当時の米国と日本が結んでいた通商協定は、条件付き最恵国待遇(MFN)の条項を含んでいた。米国は1922年以降、多くの国々との間の通商条約を条件付きから、無条件最恵国待遇条項を含むものに変えていった。しかし11カ国に対しては条件付き最恵国待遇のままにとどまっていた。日本はその条件付き通商条約グループの中にあった。日本が条件付き最恵国待遇のままにとどまっている限り、通商上、他の諸国と平等に扱ってもらえない、つまり差別が生じてくる。
 最恵国待遇の条件付きと無条件とは、どこが違うか、米国はフランクリン・ルーズベルト政権のもとで、1934年以降、ハル国務長官が関税緩和と貿易拡大政策に乗りだした。多くの交易相手国と新しい通商協定を結び、関税を引き下げた。たとえば米国と英国との間の通商協定は無条件の最恵国待遇であった。そのために米英通商協定によって引き下げられた新関税率は、米国または英国と無条件最恵国待遇条項を含む通商協定を結んでいたいかなる国(第3国)の貿易にも、、同率の関税引き下げ優遇待遇がそのまま無条件に適用された。たとえばカナダでも、その他のどの第3国へでも、米国か英国と無条件最恵国待遇を持っている国には、関税引き下げが波及した。しかし日本は、米国ともカナダとも条件付き最恵国待遇しか持っていなかったため、当時の米国の通商政策の流れであった関税引き下げの恩恵には、いっさい与るすべもなかった。
 この間に、米国の対日通商政策はかえって厳しくなった。そればかりかその後、世界の各地で対日輸入規制と差別は激しさを増していった。
 今、ここに、ガットの無差別主義の原則が最もよく現れているものがある。その1つは、ガット加盟国には当時日本が受けた差別の根元である条件付き最恵国待遇が存在しないこと。ガット加盟国に提供されるのは、すべて無条件最恵国待遇である。これは大きな進歩である。現在ではそれが当然なので、特に無条件と記す必要がない。
 第2次大戦前の話に戻れば、当時、英国は力の相対的衰えを憂慮し、いまひとたびかつての栄光を取り戻したいと願った。それには英帝国連邦の結束を強化するために、帝国内交易の拡大を図り、帝国特恵の強化を要請した。
 帝国特恵とは帝国領域内の貿易は特に低関税とし、域外との交易には高関税を課して、関税格差を作り出すものである。領域内の関税が域外品の関税よりも安いときには、他の条件が同じならば──たとえば関税格差を相殺する、ずっと安い価格で輸出してくる域外の国が現れない限り──関税格差による保護のために、帝国領域内の貿易は相対的に拡大に向かうであろう。
 こうして帝国領域内の貿易を活発にし、その拡大を通じて英国経済の活性化を図ろうとした。ここまで見てくれば、これは現在のEUや米国が率いるNAFTAの域外関税格差の問題に、ひとまず通じるところがある。両者とも域内の関税を自由化し、その貿易拡大を通じて、経済の活性化を図っているからである。(『ガットからWTOへ』から)
<貿易戦争回避のために設立されたガット>  第2次対戦前の1930年代、米国が経済不況による失業者増大対策としてとった貿易政策が原因となって貿易戦争が起こった。この貿易戦争が引き金となって世界中に不況が広がり、これが第2次世界大戦の遠因になったのであった。ガットは、この貿易政策上のあやまちを反省した米英主導のもとに、終戦直後の1948年に殺率された。以下、その経緯を追ってみよう。
 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が暴落し、米国経済は恐慌状態に陥った。株券が紙切れのようになって資産を失った米国人の中に自殺者が多く出た。資産の減少は消費を停滞させ、生産を減少させた。終身雇用のような長期的雇用制度を採らない米国では、生産削減は即失業者の増大につながる。失業者が街に溢れ、その救済が最大の政治的課題となった。
 そこで輸入を抑えて、それなで輸入してきた物を国産にすれば、失業を減らせるのではないかとの考え方が浮上し、米国議会で支持されるようになった。翌30年、米国議会はホーレー・スムート法と呼ばれた新法を通過させて、輸入品に対する関税を大幅に引き上げた。その結果、米国市場に輸出の大部分を依存している隣国カナダがまず打撃を受け、カナダで失業者が増加した。そこで報復としてカナダも関税を引き上げたのであった。米・加の関税引き上げで輸出が減少した日本と欧州各国も、連鎖的に関税引き上げに走った。
 新法による米国の政策はまったくの失敗に終わった。自国の政策が貿易相手国の与える悪影響とそれに対する相手国の報復を考慮に入れない独り善がりの政策が成功するはずがない。貿易相手国からの輸入を減らすと、その国への輸出が減ることは国際貿易の通例である。さらに貿易相手国が報復t9おして関税を引き上げると、輸出減少に拍車がかかる。その結果、米国自身の1934年の輸出額が不況以前の約3分の1にまで減少し、輸入額をかなり下回ってしまった。全世界の貿易も同様に約3分の1にまで落ち込んだ。このようにして、米国に始まった不況が世界中に広がり、世界の大不況を招いたのであった。
 のちに上記の関税引き上げ競争が「貿易戦争」と呼ばれ、輸入を抑制して輸入先の国に失業者を出させ、自国の失業者を減らそうとする政策が「隣国窮乏化政策」と呼ばれるようになった。このようなばかげた政策は、戦前の苦い経験から今ではまったく考慮されないかと言うとそうでもない。米国のブキャナン氏は、このような政策を95年の共和党の大統領候補指名戦で提案し、かなりの米国市民の支持を得た。
 それでは当時の日本経済はどういう状況であったろうか。日本は第2次大戦前にも驚異的な経済成長を遂げ、激しく欧米諸国に叩かれていた。その間の経緯は、かつてガット事務局の経済分析官、東海大学教授などを歴任された池田美智子博士(池田右二大使夫人)が書かれた『対日経済封鎖』に詳しい。
 池田さんは言う。「当時の日本は努力の集積の結果、先進の欧米諸国に追いつきつつある相対的後進国であった。日本の経済的追いつきは海外市場への輸出の京背負う力として現れた。……特に発展途上国へ工業品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の東条はその市場への侵略と見なされた。……暗黙裡に日本はその既得権益と市場の秩序を破壊する侵略者と感じられた。……欧米諸国とその植民地などは、日本からの輸出を厳しく規制し、差別的規制もあった。日本の対中政策に対する反発もあって、日本の対米輸出と対中国本土への輸出は、対日規制と日本品ボイコットの影響で1926年と37年の間にそれぞれ4分の1に激減した」
 「しかし、日本はインド(英領)、インドネシア(蘭領)、英国、満州およびアフリカ諸国への輸出増で補った。日本は折角苦労して獲得した新市場でも圧迫を受け、そのためますます満州の資源と市場への依存度を深めていった。これが対中戦争開戦前の状況であった」
 また日本は、米英蘭による対日石油輸出禁止が直接の原因となって開戦を決意した。
 第2次大戦は、つまるところ経済不況の中で、主要国が資源と市場の争奪戦を演じた帰結であったと言えよう。戦勝国米英は、このようなことが繰り返されると、世界大戦が度々起こることが避けられないという認識するに至った。第1次大戦後の敗戦国ドイツに対する苛酷な戦後処理が、ヒットラーの台頭と第2次大戦を招いたという反省も戦勝国側にあった。
 そこで、世界各国が無差別・自由に資源と市場を入手できれば相争う必要がなくなり、世界大戦の反復が避けられると考えたようである。このような経緯で、無差別待遇と自由貿易を基本理念とする国際機関ガットが作られたのであった。
 この基本理念が、経過期間をおいてであったが、敗戦国にも無差別に適用されたことは、日独両国にとって過去の歴史に前例を見ない思わぬ恩恵であったと言えよう。特に日本にとって、歴史上はじめての敗戦の結果が寛大なものとなり、第2次大戦後に経済躍進を遂げることができたのは、ガットの存在に負うところが大きい。このように世界の将来を見通してガット体制を構築することを提唱した英国の経済学者ケインズ氏や米国のホワイト氏、彼らを支持してその提唱を実現させた人々の恩恵を、幸運な国日本は忘れたはならないであろう。(『ガット29年の現場から』から)
<日本経済の発展に不可欠であったガット>  日本は1955年に米国の後押しでガットに加入することができた。しかし、すべてのガット加盟国がただちに日本にガット待遇を与える(すなわち他のガット加盟国に与えている最恵国待遇を日本にも与えて、対日差別待遇を撤廃するする)というわけにはいかなかった。英、仏、蘭、豪、南アなどの第2次大戦の相手国がガット35条を適用して日本にガット待遇を与えることを拒否したからである。当初ガットに加盟していた34カ国中の14カ国が、日本に対して第35条を適用した。英、仏、蘭、は後に独立することになる植民地を投じ多く抱えていたから、日本は世界の多くの市場で貿易上の差別待遇に苦しんでいたことになる。
 当時の日本では、対日差別待遇を許すガット35条の適用を撤回してもらうことが国民的悲願であった。新聞が連日それを書き立て、多くの日本人がそれに関心を寄せていたからである。戦後行われた対日戦犯裁判で日本の立場に理解を示してくれたインドが、他国に先駆けて1958年に第35条の対日適用を撤回した。日本の辛抱強い2国間交渉の結果、英、仏、蘭などの主要国が65年までにそれを撤回し、残りの適用国の大部分(独立して第35条の適用を旧宗主国から継承した開発途上国が多い)も75年までに撤回した。こうして懸案の対日差別待遇が徐々に撤廃され、日本貿易発展のための外的環境が次第に整っていった。
 64年には経済協力開発機構(OECD)に加盟して先進国の仲間入りをした日本は、池田勇人首相が指導力を発揮して、当時OECDが推進していた輸入の数量制限(IQ)の撤廃を工業品について積極的に押し進めた。日本はガットの交渉で関税引き下げも進めた結果、工業品に対しての貿易自由化が進んだ。それに対応して日本の工業が努力した結果、その体質が強化され、日本の工業品の競争力が増していった。こうして日本経済発展のための内的環境も整っていったのであった。(『ガット29年の現場から』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
( 2008年12月1日 TANAKA1942b )
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(16)ガットが進化してWTOへ
日本の農業保護関税政策は世界で容認されるのか
 保護貿易の反省から生まれたガットは「とりあえずの組織」であった。自由貿易体制を維持・管理するには不十分はものであったが、ウルグアイ・ラウンドを通して充実したものへと変わっていった。今週は「ガットが進化してWTOへ」と題して、ガットとWTOについて扱う。
<ガット/WTOの原則とコメの関税化>  WTOがガットから受け継いだ最も重要な原則は無差別待遇である。この原則は、車の両輪のように最恵国待遇と内国民待遇という2つの待遇によって適用されてされてされて最恵国待遇とは、関税や輸出入規制を外国に適用するにあたって、いずれかの国に与えた最も良い条件を全てのWTOメンバーに与え、国によって差別しないということである。内国民待遇とは、内国税(酒税、一般消費税などの間接税)と国内規制を適用するにあたって、事項と同じ待遇を外国に与え、内外無差別に取り扱うということである。したがって、国内産業を保護するために内国税を使って外国品を差別することはできない。たとえば、他の類似の酒と比べて異常に安い焼酎に対する酒税は国内産品優遇となっており、内国税で外国産品を実質的に差別するものであるという裁定をWTOは96年に下した。
 次に重要な原則は、関税による保護の原則である。すでに述べたように、WTOの機能の1つは市場経済を推進することである。市場経済の利点は、」生産と消費が市場価格の動きによって自動的に調節されることに」ある。たとえば、供給不足または需要の伸びのため、ある物の価格が上がれば、生産者はその物の生産を増加させ、消費者はその物の買い付けを控える。逆に、供給過剰または滋養減退のためにその物の価格が下がれば、生産が減り、消費が伸びる。このように、市場経済においては需要と供給がスムーズに均衡し、ムダがない。英国の経済学者アダム・スミスはこれを「神の見えざる手の動き」と言った。
 共産主義の中央計画経済では、物の生産が中央政府の計画によって決められていた。物の需給バランスが計画通りにいくことは少ないから、中央政府は年次計画を絶えず修正しなければならない。しかし、それを「人間の手」で行うのであるから、時間がかかるうえに不正確で、大きな経済上のムダを避けられない。計画経済はそのために失敗し、放棄された。市場経済と言えども問題が多く、規律をもって運用されなければならないが、基本的には計画経済よりも優れていることは、東西冷戦体制の崩壊に至る最近の歴史が証明した。
 市場経済を基本理念とするWTOは、輸出入の数量を制限することを原則的に禁止している。輸入の数量制限は、中央政府の計画によって輸入の数量を固定し、国内市場を世界市場の動向から剥離してしまう。このような絶対的保護を受けた産業は、合理化努力を怠って競争から離脱し、国の重荷になることが多い。そのため、WTOは数量制限に代えて関税を産業保護の正当な手段として認めている。関税からの収入は国庫に入るが、輸入制限の場合は輸入割当を受けた者に不労所得を与え、それが利権の種となり、政治汚職の温床になる。甘い汁を吸えなくなるので、数量制限による保護を関税に保護に変えることに反対する政治家が多い。
 ウルグアイ・ラウンドの交渉では、ガットを法的に強化するために、が十の原則と合致しない措置を廃止し、すべて合致した措置に変える交渉が行われた。日韓のコメの輸入制限以外のガットの原則に反する措置については、「WTO協定」の発効と同時に、あるいは一定の猶予期間をおいて、すべて廃止することが合意された。たとえば、米国は農産物の輸入制限について無期限のウェーバー(ガットの義務からの免除)を取得していたが、このウェーバーを96年末に失効させ、農産物の輸入制限をすべて関税による保護に変える、すなわち関税化することに合意した。
 日本と韓国のコメについても、ガット違反の輸入制限を合法的な関税に変える、つまりコメの保護を関税化する案が、最初は米国から、のちには貿易交渉委員会議長であるダンケル事務局長から提出された。ダンケル案は米国案と比べるとはるかに寛大で、日・韓の事情をよく考慮しており、農政の停滞を打破して農業を活性化させることに使えるものであった。しかし、農協の利権を守ろうとする政治化の意向に従って、日本政府がコメの統制を継続することに固執し、最後まで関税化に反対したことはすでに述べた。
 それではウルグアイ・ラウンド交渉全体を失敗させることになる。最終的には、問題の解決を6年間猶予する妥協案が出され、それを細川首相が受諾したことも既に述べた通りである。この案によれば、6年の経過期間の初年度(95年)に日本はコメを40万トン輸入し、徐々にそれを増やして6年後(2000年)には80万トン輸入しなければならない。もし、ダンケル案を日本が受け入れていたとすると、コメの輸入は初年度に30万トン、最終年度に60万トンか、それを若干上回る程度で済んだものと推定される。
 最終妥協案は、国内の消費者はもちろん、農民の利益にもならないものであったが、農協の既得権を延命させる役割を果たした。日本国内では、関税化が農業を崩壊させるという誤った宣伝が行われたが、話は逆であった。農家の後継者がほとんどいない現状を打破して農業を守るためには、思い切った農政の改革が不可欠であることが明らかである。たとえば、規模の拡大と経営の合理化を強力に推し進めなければならないと思われる。そのようにして初めて日本の農業が活性化し、若者に対する魅力を取り戻し、農家存続の基盤が得られるであろう。関税化が日本の農業に刺激を与え、必要な改革を促進する効果を持つことが期待されたが、その猶予が日本農業の再生を遅らせるのではないかと懸念される。
 日本に許されたコメ関税化の遅延についての合意は、WTO発効後6年目(すなわち2000年)に再交渉することが条件とされている。この再交渉において関税化を拒否すれば、日本の農業がきわめてふりな状況におかれる可能性が高い。非合法な輸入の数量制限を続けるためには、輸出国が要求する大きな輸入枠を受け入れるしかなく、関税化した方がコメの輸入が少なくて済むと見込めるからである。
 私が92年にガット事務局があるスイスのジュネーブから帰国して驚いたことは、コメをはじめとする農産物の交渉について一方的な宣伝が広く信じられており、誤解が充満していたことである。その1つは「輸入食糧にはポスト・ハーベスト(収穫後)の農薬が多く使われているから、輸入しない方がいい」という農協の宣伝で、この考え方は消費者にも広く浸透していたようである。ところでガット第20条は、ガットのルールからの例外の1つとして「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」をあげている。それによれば、有害食品については、一般に許されない措置(たとえば輸入の禁止や数量制限)を採ることができる。ただし、この規定を適用するためには「その措置が国別の差別となったり、偽装された輸入制限にならないこと」という条件を満たさなければならない。この規定の適用について輸出入国が争ったり不満を残す場合が多く、貿易摩擦の1原因になってきた。そのためウルグアイ・ラウンドで、この問題をできるだけ客観的、科学的に処理する手続きを定める「衛生および植物検疫に関する協定」が採択された。
 したがって、輸入食糧に使われたポスト・ハーベストの農薬の問題があれば、それはガット第20条とこの新協定に規定に従って処理すればよい。また、この協定に規定に不満があれば、次のラウンドの交渉でその改善を求めるべきである。衛生問題は一般の輸入制度の問題とは別個に取り扱わなければならず、この2つの問題を混同してはならない。一般の輸入制度は、WTOの原則とルールに従わなければならず、輸入の禁止や数量制限ができないことは言うまでもない。(『ガット29年の現場から』から)
<世界の貿易・経済制度とガットまたWTO>  庶民の生活に関係するガットとWTO  世界および世界各国の将来を考えるとき、制度の選択が重要課題となる。制度がよければ、その制度の下での個人や法人の努力が報われるが、制度が悪ければ個人や法人がいかに努力しても無駄が多く、成果が上がらない。歴史の経験によって、良い制度は続けられ、悪い制度は放棄されてきた。
 この世の中には、政治・経済・法律・社会・文化などについて諸々の制度がある。ガットとWTOは主に貿易・経済に関係している。その活動は一般庶民の生活に深く関係していて、生産者にとっては商品やサービスの国際競争力に影響しており、消費者にとっては物品やサービスの質と価格に影響している。これらのことは、どの程度国が貿易を自由化し、管理しているかに関係することが多い。例えば、安くて安全な食料品を消費者に提供するには、各国が食料品の輸入についてどのような貿易政策をとっているか、あるいは国境でどのように貿易を管理しているかに依存している。
 ガットとWTOは本来貿易機関であるが、貿易問題を解決しようとすれば、国内経済制度の改善が必要になる場合が増えてきた。そのためガットとWTOは次第に国内経済問題に関連したルールを作ることが多くなってきた。特に、新分野のサービス貿易や知的財産保護の関係にそれが多い。
 また、輸入制限や関税のような誰の眼にも明らかな貿易障害が少なくなるにつれて、ガットとWTOが主宰してきた貿易交渉の範囲も次第に広がってきた。保険衛生措置のように十分検討しなければ貿易障害であるかどうか分からない措置にも近年注意が向けられてきた。現在問題とされる非関税貿易障害(関税以外の貿易障害)には保険などの厚生関係が多い。
 初期の交渉では関税が主要な地位を占めていたが、ガットとWTOの管轄範囲が拡大するにつれて関税の地位が次第に低下した。しかし、関税がWTOで中心的な地位を占めていることには変わりがない。(『WTOとFTA』から)
市場経済を推進するガットとWTO ガットとWTOは市場経済を推進しており、市場経済国以外を原則として加盟させていない。長い間米国とソ連は異なる経済制度の下で対立してきた。しかし、ソ連が計画経済を放棄して東西冷戦が終わり、市場経済が計画経済に優れていることが証明された。今では大部分の共産圏諸国が「計画経済」に代わり、「市場経済」を採用すると言明している。また、これらの共産圏諸国は制度改革を促進するために、市場経済国の国際機関であるガットまたはWTOに加入を申請した。2001年12月に中国がWTOに加入し、経済が躍進した。また、ロシアやヴェトナムなども市場経済化およびWTO加入交渉を進めながら、WTOに加入できるように制度改革を進めている。
 ガットとWTOは政治と間益することをできるだけ避けてきたが、間接的には政治と関係している。専制君主や独裁政治家も、よい政治をした時期があったと言われることがあるが、長期間権力を握っていると国民を犠牲にした独善的行動に走りがちであることを、歴史は証明している。政治体制はその時代や国民性などによって多少異なっているが、情報社会においては国民に主権がある民主主義が独裁政治に優っていることが明らかである。しかし、民主主義にも運用上の問題が多く、日本には反省すべき点が多い。
 世界には、未だ貿易よりも政治が重要で、WTOへの加入を表明していない北朝鮮、イラク、イラン、アフガニスタンなどがある。これらの国々にとっても、徐々に経済を市場経済化し政治を民主化していくのが、究極的な問題の平和的解決法であると考えられる。改革は危険と困難を伴うが、それが遅れれれば遅れるほど国民がその結果に苦しみ、指導者にとって危険が増す。
 経済が市場経済化されれば、政治も次第に民主化されてくる。WTOのよい点はWTO加入に市場経済化が要求されるが、政治上の改革は当事国に任せることである。各国の政治事情は異なっていて、国の秩序を守りながら国内制度の改革を進める必要がある。
 例えば、巨大な国土と人口を抱える中国では国家の統治が難しい。現政権は経済で市場経済化を進めながら、政治上は共産党独裁を続けている。しかし、市場経済化も政治の民主化が進まなければ効果が少ない。中国は2003年3月に新しい指導者と交代したが、新指導者は皆教条主義的な政治家ではなく、実務家であると伝えられている。看板は同じでも中身は次第に変わってきた。(『WTOとFTA』から)
グローバル化への対策 世界経済がグローバル化したと言われているが、世界経済が国際化し、さらに一歩を進めて一体化してきたのは、主としてコンピュータや航空機運送などが普及し、世界の通信と交通が飛躍的に発達したためであった。しかしそれだけではない。ガットとWTOが多角的ぶすすmねてきた貿易自由化のみならず一部の国が進めてきたFTAによる貿易・経済の自由化も世界各国の相互依存関係を深め、グローバル化に貢献した。
 グローバル化した世界経済で成功するためには、複雑な多文化・多民族を理解し、それぞれに肝要であることが必要となってきた。また、世界語となった英語を使うことが貿易・経済をはじめとする社会において相互のコミュニケーションのために必要となってきた。
 グローバル化時代は時の流れによって訪れたもので、グローバル化の反対を唱えても問題が解決するわけではない。しかし、WTOは今やグローバル化が問題を伴っているという事実を認識し、グローバル化した世界の貿易問題に対処しなければならない。例えば、グローバル化の波に乗れない開発途上国の問題がWTOで登場してきている。それは疎外化(marginalization)と呼ばれている。
 グローバル化対策が実行できるかどうかは、多角的貿易交渉に参加する国々の働きにかかっている。その意味で、WTOにおける日本の行動が注目される。(『WTOとFTA』から)
制度改善を進めるガットとWTOの交渉 世界政府は未だ誕生していないが、貿易・経済に関する限り、WTOが拘束的な国際ルールを導入して世界における貿易・経済制度の調和化に貢献している。WTO加盟各国の法律が国際ルールに従って整備され、法律の実施に安定性と予見性があることをWTOが求めてい0る。法律の解釈が国内で統一されておらず、裁量の余地が大きい人治主義にはWTO上問題が多い。ガットとWTOでは加盟国が法治主義を採用していることを前提としてきた。
 大国は、その支持があってはじめて国際ルールができるといった面もあるが、一方的に自国の決定を他国に押しつけることがある。ある国が国内の政治事情を反映して国際ルールに違反した措置を取れば、それから損害をうけた他の加盟国がWTOの紛争解決手続きを使ってその措置の是正を求めることができる。それはWTO上の権利と考えられており、WTOに加入していれば小国でも行使することができる。例えば、コスタリカは中米の小国であるが、繊維問題についてガットに提訴し、米国に勝訴した。そのため多くの開発途上国にとってWTOの価値が上がってきたと言われる。
 ガットまたはWTOに提訴しダンピング防止税やセーフガード措置bを使う加盟国が近年増えてきた。強力な軍事力あるいは経済力を背景として一方的措置をとる国があっても、貿易面においてその国は加盟国の1つである。いずれの加盟国も国際ルールの枠からはみ出した行動をとれば、被害を受けた国はWTOに提訴することができる。提訴すればその措置が撤回されるか、直ちに撤回されなくても、制裁するか代償を受け取ることができる。
 日本を含むWTO加盟国の貿易・経済制度は、WTO加盟国が合意してできた国際貿易ルールの枠内にあり、優れた貿易・政界制度に基づいている。しかし、ルールは一旦できると、やがては古くて実状に合わなくなり、欠陥が露呈する。ラウンド貿易交渉の度に、既存の国際ルールを改定して、新ルールを導入するのはそのためである。したがって、WTO加盟国は、国際ルールの交渉を他人任せにしておけない。その結果が各国内の貿易・経済制度に影響するからである。(『WTOとFTA』から)
<世界貿易機関(WTO)の設立>  ガットとWTOの違い ウルグアイ・ラウンド交渉は、個別分野についてルールを新たに作ったり、強化するほかに、それらルールを包み込む枠組みであるガットを一新するという大きな成果を達成した。
 ガットを家にたとえれば、、昔からその中にある家具を新調したでかでなく、新たな機能をもった家具を買い入れ、家自体も新築したということになる。それでな、ガットと、ウルグアイ・ラウンド交渉の結果、新たに設立sだれることになる世界貿易機関は、どのように違うのであろうか。
 第1に、ガットは正式な国際機関ではない。これを聞いて、疑問に感じる方もいるかも知れない。ガットには、理事会もあり、事務局長も置いており、たの国際機関となんら違いはないように見えるかも知れないが、ガットは、国際連合や経済協力機構(OECD)のように国際約束(条約や協定)に基づいて設立された国際機関ではない。それではガットは何かと言えば、その名称(関税および貿易に関する一般協定)が示すように、協定の名称である。
 もともと、第2次大戦後、安定した国際経済体制を築くため、金融面である国際通貨基金(IMF)、世界銀行と並んで貿易面の柱となるべき国際貿易機関(ITO)を設立する構想があり、ガットに定められるルールは、もともとITO憲章の一部を構成するものであった。
 しかし、、ITOの主唱国である」アメリカで議会がITOの設立に反対し、当時のトルーマン大統領はITO憲章の議会提出を断念せざるを得なかった。また、アメリカの動きを見たヨーロッパ各国もITO憲章への参加を拒否したため、結局ITOは発足しなかった。
 このように、ITO設立は実現すなかったが、戦後の国在経済体制を支える何らかの貿易ルールが必要であるとの認識から、ITO憲章起草に参加した各国は、関税交渉の結果を記載した譲許表(税率表)と、その効力を確保するために必要な規定などをITO憲章から抜き出して、ガットを作成し、「暫定的」なものとして適用することにした。
 「暫定的」という言葉には、将来、ガットおよびこれを管理する国債期間が正式に発足するまで、とりあえず必要なルールを適用するという意味が込められていたが、結局、ガットは正式に発効せず、「とりあえず」適用されているという状態が40年以上続いていた。
 このように、ガットが暫定的に適用されていることと同様、」組織面でも暫定的な状態が続いていた。ガットは国際機関を設立する協定ではなく、むしろ、各国間の「契約」としての正確を持つものであり、ガットを運用するために必要な組織的事項については、とりあえず、ガット25条に規定される「締約国の協同行動」に基づいて決定されることになった。ガットの「理事会」も、このような決定によって設置されたものである。また、ガットにも事務局長がおり、事務局はあるが、ガットには機構についての規定が置かれていないので、ガット事務局長や事務局はガットの規定に基づく存在ではない。
 これらは、1949年のガットと国際貿易機関中間委員会(ICITO,ITOが設立されるまでの機関の事務を執行するためのもの)との間の取り決めに基づいて設置されたものである。
 他方、ガットを運用するための国際機関を設立する努力が、これまで行われなかったわけではない。55年には「貿易協力機構(OTC)の関する協定」が作成され、この協定にはミニITOとも言うべく、期間の任務、権限などの他、総会、執行委員会、事務局、予算および分担金、地位(特権、免除等)が規定されていた。しかし、この協定も、ITO憲章と同様、発効することなく、歴史的文書として終わることになってしまった。
 ウルグアイ・ラウンドでは、このように40年以上の長さにわたって「とりあえず」の存在であったガットの組織を、より強固な基盤の立つWTOに一新することとなった。これによって、名実ともに多角的自由貿易体制を管理するための組織が寛政するのであり、過去40年の経緯を振り返れば、WTOの設立はウルグアイ・ラウンドに参加したガット締約国、さらには自由貿易にとって非常に重要なせいかであると言えよう。
 ガットとWTOの違いの第2は、前者がモノの貿易についてのみ規律するのに対し、後者はサービス貿易、知的所有権、貿易関連投資措置といったウルグアイ・ラウンド交渉の新分野も規律するということである。国際経済をとりまく環境の変化に伴い、サービス貿易などの重要性が大きくなったことにより、従来のガットのルールのみでは、多角的自由貿易体制を効果的に維持・強化することはできない。ウルグアイ・ラウンド交渉で、新分野についてのルールが作られ、これを運用する組織が確立したことは、大いに意義のあるとと言える。(『ウルグアイ・ラウンド』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『WTOとFTA』 日本の制度上の問題           高瀬保 東信堂      2003.11.10
『ウルグアイ・ラウンド』            溝口道郎・松尾正洋 NHKブックス  1994. 7.25
( 2008年12月8日 TANAKA1942b )
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(17)FTAは最恵国待遇に反しないのか?
新たなブロック化の危険性はないのか?
GATTやWTOでの交渉が難航する一方、個別の国々が協定を結ぶFTAが多く見られるようになった。確かに御別での国々の自由貿易は進むのだが、その一方で最恵国待遇の精神に反することになる。協定を結んだ国は自由化の恩恵を享受できるが、逆に協定外の国にとっては差別待遇となる。貿易自由化を促進する一歩となるのか?それとも一種のブロック経済となるのか?今週はこうしたことで、FTAを扱うことにした。
<FTAが創る日本とアジアの未来>  日本は、他国と繋がりがなければ維持できない国であることを我々は改めて認識しなければなりません。食料は約6割を、そしてエネルギーについては水力を除き、ほぼ全量を海外からの輸入に頼っています。つまり、原材料、エネルギーなどを輸入し、それを加工し、付加価値をつけ、自動車、電気製品などを輸出し、外貨を稼がなければ、日本は生きていけないのです。
 一方、世界を見ると、グローバリゼーションが急速に進展しています。まず、貿易、金融、企業ルール、製品標準などが国際的に統一されつつあります。いままで中央政府の仕事は、「国内の政策の調整」であったものが、「国際ルールの作成において日本に有利なルールをいかに創るか」に変化しつつあります。しかしながら、銀行の自己資本規制、企業会計ルール、通信・ソフトウェアの国際規格、貿易ルールなどの策定において、日本は十分な主張を行えていない状況にあります。
 また、中国をはじめとしたアジア各国・地域が本格的に国際市場経済に参入することが、国際経済に大きな変化をもたらしています。日本においても中国が米国を抜がいて最大の貿易相手国になり、東アジアとの貿易・投資関係の比率もますます高まっています。
 日本としては、こうした国際的な経済環境の変化を踏まえて、21世紀の国家像、およびその工程図を作ることが求められています。年金問題、財政赤字問題でもすでに見られるように場当たり的な、その場をやり過ごせばいいといった官僚的な対応では必ず破綻します。わずか数年で職場を変わる官僚に長期的な政策の戦略を任せることはやってはいけないと考えます。日本の10年、20年後の姿と言うものは、やはり「政治」の場で示されるべきであると考えています。
 本書は、2004年の1月に大学の研究者を辞め、参議院議員となった藤末健三と2004年まで米国、イギリスの研究所で研究そ重ねてきた小池政就が、変遷する国際通商体制と新しいアジアおよび日本の姿を示すことを目的に書いたものです。
 日本を取り巻く世界では政治・経済・文化等を多くの分野において、これまでの体制や常識だけでは対応が困難な状況が拡大しています。その一方で国内に目を向けると、損後から続く旧来の体制から抜け出すどころか、日本の内政・経済は沈滞ムードに包まれ、加速する少子高齢化、経済成熟化による需要の停滞、拡大する財政赤字といった将来への不安は悪化する一方です。更に、膨らむ将来不安は国民のチャレンジ精神を削ぎ、国全体を内向きで守りの姿勢へと向かわせてしまっています。
 しかしながら、日本はもはや鎖国をすることは不可能であることを再認識しなければなりません。今、門を閉じ、狭し家の中に引きこもることはできないのです。日本に求められるのは旧来の体制や成功体験を守る消極的な姿勢ではなく、国境を超えたオープンでフェアは社会を自らが創造し、その中で共に競い合っていくために自己改革するという、「フロンティア」の精神なの」です。
 アジアや世界の国々との経済統合が進み、企業や人の交流、投資の活性化、知識の移動がより一層進展することが予想される中で、日本が為すべきことは、現政府が取り組んでいるような内向きで閉鎖的な構造改革ではなく、近隣諸国との関係を考慮した「開放的な構造改革」であるべきです。このような新しい経済連繋の時代が始まった今こそ、日本が失った自信とアジアからの信頼を取り戻すチャンスなのです。地域に開く形で国内改革を実現することは、歴史上初めての日本の自主的な開国・改革政策であるとともに、アジア太平洋諸国との関係強化という大きな意味を持つことにもなります。それには、関税の撤廃を超えた、投資・人の交流・経済協力・金融制度などの広い分野における「解放政策を通じた国内改革」が急務なのです。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<グローバル化は現代が初めてではない>  グローバル化の波が押し寄せたのは現代が初めてではない。1820年代から第1次世界大戦の前までの約1世紀にわたり、第1次グローバリゼーションが到来している。この間グローバリゼーションを押し進めたのは、輸送費の劇的な低下と、イギリスをはじめとする自由貿易体制の確立と維持がもたらした関税障害の低下などである。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<19世紀における輸送/通信の進歩>  19世紀における輸送・通信に関する技術確信の進歩は、大陸間の商業取引範囲の大幅な拡大をもたらした。1838年に蒸気力のみによる大西洋横断を皮切りに、蒸気船という輸送の技術確信が奢侈品以外の一般財や工業化に必要な原材料の大陸間取引を可能にし、輸送コストの急速な低下は大陸間取引の拡大を後押しした。船舶に古くからよる輸送コストは1870年代半ばから1900年代には半分にまで低下している。通信についてもモールス方式の電信の実用化、海底ケーブルの敷設により、瞬時に大陸間で情報を伝えることが可能になった。また原材料の輸出国は貿易で得た収入を輸出先である先進諸国からの工業製品の調達に充てることにより、自由貿易体制は地域の拡大だけでなく貿易量も高まっていった。1870年から1914年までの間に、世界の経済生産が年率2.7%増であった一方で、貿易量はこれを超える年率3.5%の高水準で伸びている。この間の世界貿易に占める先進国ー途上国間の貿易のシェアは過半数を超えており、産業別でも食料や原材料などの占める割合が高かった。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<自由貿易体制の始まり>  制度面のおいては18世紀以前まではヨーロッパを中心に保護主義的重商政策が行われていたが、まずイギリスが自由貿易の推進へと転換し、相手国の自由化レベルによらない一方的な貿易自由化を実施し始めた。国内において急激に資本家が台頭し、彼らの間でアダム・スミスによる自由貿易の思想的基盤が広まり、市場の拡大に伴う規模の利益を求めて自由貿易推進を首長し始めるようになったのである。拡大する国際貿易においては、しばしば民間のイニシアティブによって基準や規則の一致を図ろうという動きが見られたが、一方で政府主導の国際協定レベルでの自由貿易体制の構築も行われた。イギリスとフランスは対オランダ政策の一環として長く貿易産業に対して保護主義的な重商主義政策をとってきたが、1860年に英仏通商条約が締結され、フランスはイギリス綿製品・鉄製品・陶器の輸入を解禁し、イギリスはフランスのぶどう酒・酢・オリーブ油の輸入を容認した。この英仏通商条約の締結が端緒となり、英仏両国は主要な欧州諸国と立て続けに同様な通商条約を締結し、関税が引き下げられ欧州における自由貿易ネットワークが構築されたのである。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<不況の拡大と保護主義への転換>  しかし、このような自由貿易の動きは19世紀後半の不況を境に徐々に停滞し始め、ヨーロッパ大陸諸国は再び保護主義政策へ転換するようになった。また、この時期の米国の通商政策は、他の西欧諸国よりも更に保護主義的な政策をとっており、高関税、条件付き最恵国待遇、「公正」原則の強さ、低い貿易依存度といった特徴が見られた。イギリス国内でも、保護貿易を行っている国々に対して自由暴政で臨むのは不公正であるとする議論も出てきた。ドイツや米国の工業化や高関税政策に伴い、自国輸出がが原始する一方で、輸入が徐々に増加していったのである。世界が保護主義に向かう中イギリスもやがて第1次大戦後には転換していくことになる。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<より複雑になる国際通商体制>  1980年代になると、これまでのGATT体制での多国間による自由貿易交渉の難航や、ECの市場統合の深化をきっかけとして、地域経済連帯構想が相次いで打ち出されるようになった。更に、冷戦という枠組みが崩れ新たな世界秩序を模索する中で、同様の歴史的な背景をもち文化的・社会的なつながりを持っている国々や地域でまとまる動きが加速してきた。この結果、安全保障面で大きな転換が起こったばかりでなく、現実の通商秩序においても、GATTルールとNAFTA(北米自由貿易協定)等の地域内通商取り決め、更に2国間での自由貿易協定も並立した複雑なな対せが広がっている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<戦前のブロック経済との違い>  ここで戦前のブロック経済と異なるのは、障壁を高めて域外国を排除するのではなく、域外へのハードルは高めずに域内の関税や非関税障壁撤廃によって貿易の促進と投資の増大を目指す点である。世界全体における自由貿易体制の機軸はGATTに基づくWTO体制であり、、各地域間協定は圏内の経済活性化と団結を深めるだけでなく、WTO交渉において発言力を強めよく拡大した世界経済の中でルール形成に貢献していこうという思惑がある。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<自由貿易協定(FTA)の急増>  また、新しい動きとしては2国・地域間における自由貿易協定(FTA)が急増していることが挙げられる。特に1990年代後半以降にFTAの締結が急増しているのは、WTOでの合意形成の難航から自由貿易の利益を関係国間で先取りしようとする国々が出てきたことや、この新しい潮流に乗り遅れることによって表出してきた経済的不利益を取り戻そうといった理由が大きい。また米国のように、FTAを通して相手国に民主化を浸透させる等の政治的戦略の一環として推進する例もある。最近のFTAは、関税の撤廃等だけでなく、人の移動や労働制度などWTOにおいてさえ新しい分野にまで協定の対象が拡大している。拡大する一方で、経済学者の間では、WTOを通じた多角的自由化の理念が維持できるかどうかという大きなポイントについて、問題提起もなされており、今後の両者の強調が課題となってきている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<地域間を繁げる試みも始まっている>  別の新たな動きとしては、地域連繋の動きが活発化する中で、距離的に遠く離れた地域と地域を繋げる試みも見られる。例えば、アジア太平洋経済協力(APEC)、アジア欧州会合(ASEM)、EUとメルコスールの連合協定などがある。また、近年直接投資を通じ企業の国境を越えた活動が一層進展する中で、民間ビジネスレベルでも地域を越えた連携が見られる。その代表的なものとしては、欧米の多国籍企業間の動きとして近年影響力を増している大西洋ビジネスダイアログ(TABD)が挙げられる。欧米を中心としたこれらの動きは、先端産業などの分野で欧米の地位が相対的に低下したことへの危機感から来ている。最近の成長産業では、技術開発や設備投資の面で規模の経済が拡大しており、これらの産業を活性化するためには、市場の拡大と国際分業体制の推進による資源配分の効率化が不可欠になってきているのである。世界的規模での自由経済市場が実現されてない現状においては、当面、密接な貿易パートナーとの間で統一的な市場を形成するとともに分業体制を進めることが、産業活性化のために必要だと捉えられている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
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<3国協同研究による日中韓FTAの意義> 東アジアを取り巻く自由貿易協定(FTA)の状況  「チェスよりも将棋が好きでも、ほかの人がチェスをしていればそれに応じるしかない」、「たとえ、意に沿わないルールでも世界が其れを採用しているのであれば追従するしかない」、その制度に多少の問題があっても、日本が自由貿易協定(FTA)を推進しなくてはならない第1の理由はまさにここにあると言えよう。
 2000年代初頭、GDPで世界トップ30の国々で、いかなるFTAも結んでいなかった国は、日本、中国、韓国のみであった。北東アジアは、FTAに関する限り、後進地域であったと言えよう。しかし、こうした状況は近年大きく変化している。中国は近隣諸国と積極的にFTA締結に動き、日本との交渉が頓挫している韓国はアメリカとの締結に至った。オーストラリアやASEAN諸国も中国などと交渉を行っている。こうした、FTA締結に向けた中国・韓国政府の積極的な姿勢への転換は、日本政府の姿勢を大幅に修正させたのである。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
FTAの利点と問題点  日本政府がFTA締結に向けて積極的な姿勢に転換したのは、単に近隣諸国の動きに追随したためだけではない。こうした変化の背景には、いくつかの理由が挙げられる。
 第1の理由として、世界の自由貿易体制を推進してきたGATT=WTO体制の変化が挙げられよう。WTO体制の世界中への新党とそもに、交渉に参加する国が増え、かつ、より多くの分野での交渉が求められることとなり、交渉により多くの時間がかかるようになった。そうした中でより速く自由化の成果をあげるためには、近隣諸国や友好国とのFTAを同時に進めていった方が好ましいと考える国が増えたのである。
 第2には、情報化の進展、輸送コストの低下、途上国や新興国の産業発展などを背景に、国境を越えた国際的な分業が拡大したことで、世界の貿易構造が変化し、近隣諸国との貿易・投資の従調整が高まってきたことである。東アジアでは日本、韓国、台湾などの工業国から東南アジア諸国や中国に向けて高度な部品や資本財が輸出され、そこで最終製品に組み立てられて欧米に輸出する貿易が拡大している。このような域内での分業の展開と域内貿易の拡大が、域内での経済連携の強化の必要性を高めている。
 第3に、新興工業国や発展途上国の自由化を促す手段としての、FTAが注目されてきたことでことである。WTOの下でも、自由化交渉は 進められているが、先進工業国に比べ途上国の貿易障壁は依然として高くなっていら。アメリカにとってのメキシコ、日本にとっての東南アジア諸国など、FTAは、地域の貿易自由化のスピードを速める上で有効な手段であるとみられている。また、途上国の側にも、自由化交渉を進めることが経済発展に繋がるという見方が広がっている。世界になかでは、貿易障壁を下げることで大きな経済圏をつくり、中国のような大きな市場に対抗しようとする意図を持つASEANのような国々もあり、看過できない状況である。
 一方で、多国間での自由化を目指すWTOでの交渉とは異なり、特定の国の間でのみ行うFTAには様々な理由から貿易のゆがみをもたらす可能性があると指摘される。古くから多くの研究者によって議論されていたように、FTAはその名の通り自由貿易を実現するというのではなく、特定の国との間の貿易障壁は撤廃しても、その他の国には差別的な対応をとるということでもある。その結果FTAの導入が、「貿易創造効果」と呼ばれる貿易拡大の利益をもたらす一方で、「貿易転換効果」と呼ばれる貿易のゆがみを産み、FTAの当事国でさえも、経済的な損失をもたらす懸念も払拭できない。また、FTAでは、加盟国経由で第3国の商品が無税で入って来ることを阻止するため、FTA加盟国内で実質的に生産されたものであることを証明する「原産地表示」が義務づけられる。例えば、シンガポールから日本に向けて船積みされた商品でも、それが中国のような日本とのFTA非締結国でその大部分が加工されたものであれば、シンガポールを原産国とはせずに中国製品として扱われて関税の課税対象となる。したがって、複数の2カ国間FTAは、関税手続きを複雑化させ、やがては「スパゲッティ・ボウル現象」と呼ばれるような世界全体の自由貿易の機能低下をもたらすことは容易に想像できよう。加えて、主要国が地域経済連携のレベルで自由化交渉が止まり、多国間の貿易自由化実現への building block(積み石)ではなく、過去区間の自由化を抑制する stumbling block(躓き石)になる状況も考えられる。このようなFTAの鋼材は、現在も多くの研究者の間で議論されている。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
日中韓FTAの推進の意義  東アジアにおけるFTAの締結の動きをみると、日中韓は、ASEAN全体および各国に対して、それぞれ個別に自由貿易協定を締結しており、一体としてのASEAN+1が3つ併存する方向へ向かっている。しかし、東アジアにおいて、名目GDPで90%、人口規模で7割をしめる日中韓3国の存在は非常に大きく、また、近隣国であるこの3国は貿易・投資面において密接に結びついている。特に、日韓両国の製造業は、ASEAN諸国と中国に生産拠点の移転を進め、生産のネットワークを形成しつつあり、東アジア全体のFTAは、こうした広域の自由貿易地域の形成をを促すものである。したがって日中韓FTAを先送りすることは東アジアにおいても大きな経済的な利益を逸することになりかねない。
 一方で、日中韓FTAの実現への道のりは、決して平坦ではなく、日中韓各国の構造調整コストは政権に対する政治的なリスクをもたらすであろう。特に、センシティブ部門である農業への影響を優先する日本政府の姿勢は日中韓FTA締結に大きな障害となることが予想される。しかし、現在、国内の農業部門の担い手は高齢者で占められている状況を考えれば、少子高齢化が進む中で、農業部門の存在は小さくなりはするものの、拡大するとは考えにくい。米国の繊維産業で見られるように、地遺産集団ほど集団内の結束力が強いため、政治的な影響力を高めようとするインセンティブがさらに高まる懸念も払拭できないが、行き過ぎた産業保護には国民的コンセンサスを得ることが難しいことも事実である。
 現在まで、中国はWTO加盟による自由化のコミットメントとして、財の輸入関税率低減だけでなく、投資やサービス貿易などで自由化措置の実施を進めている。しかしながら中国との経済統合の実質的な利益を享受するには、財の輸入関税の引き下げだけでだけでだけ直接投資を促進する必要がある。特に、日本からの直接投資が拡大するに伴い、その保護が重要性を増している現状では、日本政府が中国に対してFTAによる財の輸入関税撤廃・低減よりも投資協定の締結を選考させようとしている姿勢は打倒な政策的な判断として受け入れられよう。しかし、投資の邦語は貿易自由化と補完的な意味を持つことから、投資協定だけでなく、サービス貿易自由化、地底財産権保護、エネルギー・環境協力など範囲を拡大して、幅広い自由化措置を盛り込んでいくことも検討に価しよう。それにより、3国間の貿易投資関係がさらに促進・深化すればFTAによる関税撤廃・低減の実現に向けての経済的な要請や政治的な機運も増してくるであろう。
 日中韓3国の経済連携の強化のメリットは、日中韓3国だけでなく、東アジア全体にも及ぶ。日本が、地域貿易協定の締結に向けた世界的な潮流からこれ以上遅れないためにも、また、東アジア全体の経済的な便益向上の機会を逸しないためにも、政府は、首相の強いリーダーシップのもとで日中韓FTA交渉の具体化の検討を開始すべきであろう。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『FTAが創る日本とアジアの未来』       藤末健三・小池政就 オープンナレッジ 2005.12.20
『日中韓FTA』その意義と課題 阿部一知・浦田秀次郎・綜合開発機構 日本経済評論社  2008. 2. 5
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版 2002. 8.15
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年12月15日 TANAKA1942b )