ジーニアス・レッド 第九話 迷える子羊(1)

 グラブに手を入れてボールを放り入れながら、ヒモを締めたり、緩めたり、念入りに具合を確かめる。
「久志、そろそろ出る時間だぞ」
 寮で同室の小池から声をかけられると、グラブを置いて立ち上がり、紫色のアンダーシャツを目の前に広げた。
「おっ、ソレ着てくのか」
「本気モード突入って感じだよなあ」
「コッチが緊張しちゃうよ」
 久志と同じ最上級生の部員達が、肩越しに次々とのぞき込む。彼らの前で、久志はそのアンダーシャツに腕を通すと、ユニフォームを着込み、帽子をかぶった。
「……行くか」
 グラブを手にし、そう口にすると、久志は部室のロッカーをバタンと閉めた。
「あれ、仲田先輩。何で試合用のアンダーなんすか?」
 聞いてきたのは、4月に入ったばかりの新入生、原崎だ。
「これは久志先輩のジンクスなんだよ」かわりに、2年生の田上が答え、
「久志は試合の前日、必ず試合用のアンダーを着用して、練習に挑むのさ」
と、3年の角倉がいい添える。
「えー、でも今日はタダの練習じゃ」
 バカ、と上級生達に叩かれ、原崎は帽子の上から頭を押さえた。
「ソレぐらい、気合い入ってるっつう、意味だろうが!」
「今朝、監督のお許しが出たんだってさ」
「ええーっ、じゃあ仲田先輩」
「そっ、ようやくマウンドに立って、本格的なピッチングを開始するんだよ」
 なあ! と皆から笑顔を向けられ、久志は大きくうなずいてみせた。
「さーて、今日も練習、明日も練習」
と、誰かが明るい声を出す。それを合図に、用意を終えた者から、次々と道を下り、フェンスをくぐった。
 『第一、第一、第二もないのに、第一高校』と、寮に伝わる、誰が作ったかもわからない歌を呑気に口ずさみながら、グラウンドに足を踏み入れ、慣れた手付きで道具を運び出す。
 5月を迎え、日差しは強く、蒸し暑さが増してきている。
 野球部は新年度を迎え、部員数が100名にまでふくれあがったが、激しい練習で淘汰された結果、今のところ38人で落ち着いていた。
 その内の20名が寮に暮らす生徒達で、彼らは午前中で授業を終えると、一般の生徒達よりも一足早く、練習を始める。
 結局のところ、記録員として同行するマネージャーの杉浦を除けば、レギュラーはおろか、ベンチ入りする選手全員が、スポーツ特待生である野球部の寮生達であった。
 すぐさま練習が始まり、40分という短い時間でウォームアップを行う。
 ジョギング、ストレッチを順にこなしていき、スパイクへ履き替えると、様々なパターンのショートダッシュを繰り返す。部をやめてしまう者の多くは、大抵このダッシュに付いて来られず、根を上げてしまう。
 そんな激しいアップを終え、ぜいぜいと苦しげな呼吸をする部員達の中にあって、久志は帽子をとり額を拭うと、さして疲れた様子もみせず、グラブを手にはめ、平然と肩を回す。
「あのヒト、化け物かよ」
「故障明けになんか、マジ見えねー」
「おめえら、いつまでムダ口叩いてんだ! さっさとキャッチボール始めろ!」
 地べたに座り込んだまま動けない新入生達の尻を叩くのは、コーチの田中だ。東光一高の野球部OBで、部員達と共に寮で暮らしながら、彼らを指導している。
 バラバラと散らばり、皆がキャッチボールを始める中、監督の小宮山も姿を現した。ちわっす、とグラウンド上に挨拶の声が響く。
「遅くなって、悪いな」
 ベンチの前で田中と並び、監督はグラウンドを見回す。
「関東大会の先発メンバーでしょう?」
「ああ。竹下先生とも話し合ったが、迷う必要もないと思ってね」
 竹下というのは野球部長で、責任教師と呼ばれる立場だ。
「決まりですか」
 小宮山は力強くうなずき、次いで田中にたずねた。
「久志の様子はどうだ」
「センバツのあと、いったん家に帰したのが、良かったのかもしれません。落ち着いてますよ」
「ケガの回復具合は?」
「すごい、のひと言ですね。普通ケガをすると、なかなか怖くて全力を出せないんですが、アイツの場合は別です」
「そうか」
「通常のメニューに移っていった段階でも、一切手抜きナシですからね」
「自己管理を厳しくしているって話を、杉浦から聞いたが」
「食事のカロリーコントロールから、プロテイン摂取、筋力トレーニングまで、そりゃあ細かい数字を持ち出してきて、感心するぐらい徹底してますよ」
「風呂も長いんだってなあ」
「水とお湯を交互に浴びる、アイシングの一種みたいなこと、やってます」
「どこで覚えてきたんだ?」
「治療に通ってた病院のスポーツ専門医を、質問攻めにしたらしいですよ。一年生は不満をいってますけどね。先輩が出ないと、風呂に入れないって」
「一年坊主共は、久志のことを怖がっているらしいな」
「そうなんですよ。みんな仲田先輩って、名字で呼ぶんですよね」
「そういや、俺も含めてだが、みんな久志って、下の名前で呼ぶのが普通になってたな」
「1年生にとっては、憧れや尊敬もあるでしょうから。まあ、新しい後輩達も入って、久志も上級生の自覚が出てきたんでしょ。子供っぽさが抜けました」
「確かに……4月に入ってからというもの、すっかり無口になった」
 急に黙り込む監督を横に、田中は怪訝な顔をした。
「何か、問題でも?」
「いや。何でもない。それよりどうだ、アップはもう十分か?」
 大丈夫でしょう、という田中の言葉を聞くと、小宮山は大声を出した。
「長谷川!」
「はいっ」
 すぐに元気な返事が聞こえてくる。
「防具をつけろ! あと、久志!」
 部員達が一斉に久志を見た。
「マウンドへ上がれ」
 はい、とグラブに握り拳を当てながら、久志はマウンドへと向かう。
「ずっと田山相手にほおってたろ。オレもオマエ相手は久しぶりだから、まずはゆっくりな」
 長谷川がプロテクターのバックルをはめ込みながらいい、久志は右手を上げて応えた。
 監督の指示もあり、久志は田山という、まだ入部したてのキャッチャーを相手に、投球練習を再開していた。まだ高校生の強い球を捕ることに慣れていない田山相手では、久志も全力投球を抑えねばならず、調整には丁度良いと、監督は考えたのかもしれなかった。
 そんな田山と違い、長谷川は卒業した3年生に代わり、センバツから正捕手となっている。1年生の時から久志の球も受けていて、格段にレベルが違った。
 やがてレガースを着け終え、ヘルメットの上にマスクをあげた格好で、長谷川はホームの後ろに立つと、久志を相手にキャッチボールを始める。
 ボールをグラブが行き来する軽やかな音が、しばらく続いたのち、長谷川はマスクを下ろして、しゃがみ込んだ。
「よし、来い!」
 キャッチャーミットをかまえる長谷川に、気負いはなかった。それでも久志の第一球を受けた途端、マスクの下で顔色を変えた。
 球を投げ返し、再び腰を下ろすと、さらに深くミットをかまえ直す。
「あんま、速くないなあ」
「まだ投げ始めだからだろ」
「田山、オマエ相手でも、あんな感じだった?」
「うーん。ミットの音が違う」
「そりゃ、長谷川先輩はいい音させて、ピッチを気分良くさせるの、上手いもんな」
「いや、そうじゃなくて……仲田先輩の球、いつもと違う気がする」
 後ろで一年生達がコソコソいい合っているのを聞き、田中は苦笑いしながら、かたわらの監督へ話しかけた。
「アイツ等は入ったばかりで、本調子の久志を間近に見たことないですからね」
 小宮山は、深くうなずいた。
「あんな速さでも、伸びがあって重いからな。さすがの長谷川も、直に受けて、ようやく思い出したか」
「あれで久志本人は、肩慣らしのつもりなんですから」
 高校生レベルじゃないです、と田中がため息混じりにつぶやき、小宮山は目を細めた。
 野球部員全員が見守る中、投球は続く。そろそろ投球数が20球を超えるところで、久志は帽子のつばに、指で触れた。
 長谷川が首を縦に振り、ちらりとベンチの監督を見やると、目で合図をする。
 久志はスパイクの底で丁寧に足元を均(なら)した。
 ――雪代。これが、オレの答えだ。
 投手板に足を置き、振りかぶる。
 ――オマエの世界が孤独で、孤立しているものなら。
 つま先から頭のてっぺんまで、久志は自分が目指すフォームを、完璧に再現してみせた。
 ――オレも、そこへ行く。
 長谷川がとっさに頭を下げ、その球威を必死で抑え込むかのように、左手を固くミットに添えると、久志の投げた球は、寸分のずれもなく、彼のかまえたところへ真っ直ぐに吸い込まれていった。
 無意識のうちに、小宮山は小さくガッツポーズをし、その手には汗を握っていた。
 まだ就任して5年にしかならない、この若い監督は、久志が入学した時から、彼を中心に据えて、チーム作りを行ってきた。そうして久志が2年生となった夏、東光一高は12年ぶりとなる甲子園出場を勝ち取り、全国制覇まで成し遂げることができたのだ。
 久志は変化球を交え、淡々と投球を続ける。
 チェンジアップやカーブにいたっては、まったくフォームを変えることなく、急激に球のスピードを落とすことができた。150キロを超えるストレートと組み合わせれば、余程の打者でない限り、対応するのは不可能だと思わせるに、十分だ。
(天才だ。こいつは本物だ)
 元来、選手と同じ目線に立ち、時に感情を包み隠すことなく、体当たりで指導にあたってきた小宮山が興奮するのも、無理はなかった。
「よーし! 全員、守備につけ!」
 バットを手に持ち、監督自らホームへと向かう。
 駆け足でレギュラーの面々が各ポジションへ散らばる中、他の選手達はボールを運んだり、次のティーバッティングの用意を始めたり、グラウンドの中はにわかに活気づいた。
 やがて一般の生徒達も授業を終え、野球部の人数も、フェンスを取り囲む人間も、あっという間に増えていく。
 連携プレーの練習をする最中(さなか)、時折黄色い歓声があがり、久志の名前が叫ばれた。当の本人は黙々とボールをさばき、それが耳に入らないかのようだ。
「久志のヤツ、変わったな……」
 試合日程や、備品の補充について打ち合わせていたマネージャーの杉浦が、監督の横でポツリと漏らした。
「どこがだ?」
 すかさず監督に問われ、杉浦は少し間を置いたのち、言葉を選ぶようにいった。
「以前の久志なら、ニコニコとフェンスの外に手を振って、ファールボールに気をつけろとか、けっこう普通に声をかけたりもしてたんですけど……」
「愛想が悪くなったか」
「いえ、そんな」
と、杉浦は決まり悪そうに、口をつぐむ。
「1年生にも素っ気ないらしいな。久志と一番仲がいいのは、お前だろ、杉浦。気になることがあるのなら、いっておいたほうがいいぞ」
 そもそも杉浦は中学時代、シニアの選手として活躍していた。しかし野球肘が原因で、思うように投げられなくなり、それならばと一般入試で東光一を受験し、合格したという経緯がある。
 最初からマネージャーを志望し、野球部に入部を許された点や、一般の文系コースで進学を目指していることからも、野球部内では一目置かれていた。
 そんな彼だからこそ、久志も信頼し、何でも相談していたのだった。それを知っている小宮山は、始業式での一部始終を、それとなく杉浦に話して聞かせ、反応を探る。
「まあ、飛び出していった後のことは知らないが」
「監督……」
と、杉浦は明らかに非難するような、視線を向けてきた。
「どうだ、やっぱり三浦が関係しているのか」
「知りませんよ。直接、久志に聞いたらどうですか」
と、杉浦はにべもない。
 とうとうしびれを切らして、小宮山は久志を呼んだ。
「なんすか」
 ダウンの最中だった久志はベンチへやって来ると、帽子を取り、監督と杉浦を交互に見ながら、わずかに顔をしかめる。
「おい、久志。三浦とエッチでもしたか」
 あまりの物言いに、横で杉浦は目を丸くした。何かいったのかと、にらみつけてくる久志へ、必死に首を振ってみせる。
「どうだ。ビンゴか?」
 挑発するように、小宮山は白い歯をみせて、からかい混じりの態度をとってみせた。
「監督」
と、久志はゆっくり口を開いた。
「オレ、もう1ヶ月以上、アイツには会ってません」
 グラウンドには強い西日が差し込んでいた。ベンチの前で、
「始業式以来、ずっとです」
と、告げる久志の影が、長く地面に伸びている。
 本当か? と小宮山は腕を組んで、杉浦を見た。
「自分が知っている限り、久志は嘘をいってません」
   杉浦がいい、小宮山は帽子を取って頭をかくと、久志の肩に手を置いた。
 ところで、と思いついたように、たずねてくる。
「キスは、どんな味がした?」
「えーと。苦くて、酸っぱい……」
 ゲロの味、と久志がいい、豪快に小宮山は笑い出した。隣で聞いていた杉浦も、お腹に手をやってうつむき、懸命に笑いをこらえる。
「心配するな、杉浦! コイツの根っから素直なところは、そうそう変わりゃしない」
 ムスッとしたままの久志を前に、
「知り合って間もないのに、いきなりキスなんかしたら、そりゃあ振られるさ」
と、監督はいい、
「あの三浦相手じゃな」
と、付け加え、ひとしきり笑った。
「みんな、集まれ!」
 やがて満足したのか、小宮山は声を張り上げて部員達を集めた。
「これから、春季関東大会の先発メンバーを発表する。1番、ファースト、栗原和樹」
「はいっ!」
 次々と名前が呼ばれ、誰もが力の限り、大きな声で返事をする。
 最後に監督は久志の目を真っ直ぐに見て、いった。
「9番、ピッチャー、仲田久志!」
「はいっ!」
 久志は皆に囲まれ、派手な歓声と共に、次々とグラブで背中を叩かれる。センバツで久志の代わりにピッチャーを務めた、原田や戸辺のような、控えにまわることになってしまった選手までもが、エースの復活を、心から喜んでいた。
 他の部員達を、否が応にも納得させてしまう。それほどの実力が、間違いなく久志にはあった。
 さりげなく杉浦が横に立ち、
「正直にいわなくて、良かったのか?」
と、小さな声で目立たないように、いった。
「さっきの? 別に嘘は、いってないだろ」
「まあ……あの、キスの話はな」
 思い出したのか、杉浦は小さく吹き出した。
「あの程度の話で、大喜びだもんな。監督もチョロいよ」
「でも、振られたっていうのは違うだろ」
「アレだって、勝手にアッチが勘違いしてんだから」
 いくら笑われたっていいさ、と久志は夕闇に沈むグラウンドを見回す。
「俺はお前が心配だよ、久志」
 何も答えず、久志はただ、杉浦にうなずいてみせた。
 ――アタシ達、追いつめられてる。ヒトと違い過ぎて、どこにも行けない。
 そういった雪代の声が、今でも耳に残り、離れない。
 久志はアンダーの袖で、乱暴に目をこすると、そびえ立つ校舎に背中を向け、歩き出した。
 ――レギュラーに復帰したら、ちゃんと話をしよう。
 それまで会わない、といい出したのは自分の方だ。
 明日――そう決心し、久志は夜空を仰いだ。