ジーニアス・レッド 第八話 助けてといえたなら(2)

 教室へ入ると、すでに席は埋まっていた。
 一番後ろにたったひとつ、空いている場所を見つけると、雪代は腰かけ、バックパックを抱えるように、机の上で顔を伏せる。
 誰もが皆、特理コースから抜けた者、新しく入って来た者の名を、ひそひそ声で噂していた。
「三浦さん、頭ケガでもしたの?」
 声をかけられ、髪の毛を触られる。
「やっだー、何コレ。絵の具?」
「くっさーい」
 体を起こすと、雪代は頭の後ろに手をやった。
(手洗う前、カドミウムレッドがついたまんま、触っちゃったのかな)
 指先についた赤い色を見ながら、立ち上がる。
「何で三浦、このクラスにいんの? 美大とか、受けないのかな」
「学校は一人でも多く、東大合格者を出すことしか、考えてねえよ」
「どっちみち、三浦には関係なくね?」
 アイツならスポーツコースにいたって東大受かるに決まってんじゃん、とあからさまにいう声を背中越しに聞きながら、雪代は教室を出た。
 洗面所へ行き、髪を束ねているゴムを引き抜くと、個室にこもった。トイレットペーパーをがらがらと引き出して、頭の毛を拭う。そうして彼女は赤く汚れたトイレットペーパーを便器に投げ入れると、コックをひねり、流れ出る水の渦を見つめた。
 サイクロトロン共鳴を連想させ、F=maと頭にすぐさま式が浮かび上がる。
(evB=mv^2/r ∴v=erB/m……ω=2π(1/T)=eB/m)
 トイレの床へしゃがみ込み、時間を忘れて熱中していたが、廊下を歩く生徒達のにぎやかな声を聞いて、我に返った。
(何やってんだろ、あたし。どうかしてる)
 急いで洗面所を出ると、名簿を手にした教師に廊下で呼び止められた。
「三浦! 初日早々、どこへ行ってたんだ」
 怒鳴られ、雪代はうつむいた。
「始業式が始まるから、早くホールへ行きなさい」
 数学の教師で、2年生の時には学年主任を務めていた。どうやら彼が新しい担任らしいと察し、彼女には珍しくうなづいて、昇降口へ向かう。
 東光一高には2、000人余りも収容できる巨大なホールが、学校敷地内の一番端にあった。演劇や講演などが行われ、広く一般にも開放されている。入学式や卒業式といった全校生徒が集まる行事には、生徒数が多いこともあり、大抵ここが使われた。
 1階席には1年生、2階席には2年生と、大まかに座る場所が指定されているだけで、生徒はおのおの適当な場所に陣取るのが、普通だ。一番後ろで時間をつぶすだけの雪代は、大して急ぎもせず、ゆっくりと靴を履き替え、外に出た。
 向かいの芸術棟で、まくり上げた白いシャツの袖からのぞく、がっしりとした両手をズボンのポケットに入れ、ぼんやりと立っている男子生徒が目に入る。
 雪代はそちらへ歩み寄ると、彼に並んだ。
「よお」
 声をかけられ黙ってうなづくと、顔にかかる邪魔な前髪をかき上げた。
「ずいぶん、感じが違うな」
「春休み、ずっと描けなかったから。今朝、ようやく新しい色を塗った」
「絵のことじゃない」
 久志は照れたように笑った。
「髪を下ろすと、何だか別人みたいだ」
 久志の頬がみるみる赤く染まる。そんな彼と目が合い、雪代は慌ててガラスの向こうを指差した。
「黒をのせた」
「へえ……」
 アトリエの絵に視線を戻し、久志は感心したようにうなづく。
「すげー、リアルだな。ユニフォームのシワとか。コレ全部、何も見ないで描けるんか?」
「筋肉と骨」
「筋肉と骨?」
「そう。人間の構造を理解してれば、きちんと絵にできる」
「へええ。ちょっとヤラシイな」
「どうして?」
「オレの裸とか、想像してんだろ」
 雪代は彼の腕を軽くつねると、アトリエを離れ、ホールへと向かった。いってえ、と文句をいいながら、久志も付いて来る。
「それにしても、おっせえよ」
「遅い?」
「ホール行く途中、必ずアソコを通るだろ? 立ってりゃ、雪代に会えると思ったんだけどさ。なっかなか出てこねーし。サボりかと思うだろ」
 彼を見上げ、雪代は小さな声で、
「ごめん」
と、いった。
「別に。勝手に待ってただけだから」
 気にすんな、と久志も声をひそめていう。
 風に飛ばされた桜の花びらが、ひらひらと舞っている青い空の下を、二人は無言で歩いた。
「君たち何をやっている。早く中へ入りなさい」
 ホールへたどり着くと、目ざとく彼らを見つけた教師が、入口で注意してきた。
「すんません。遅くなりました」
 丁寧に頭を下げる久志へ、
「仲田君か。もう校長の話が始まっているぞ」
と、笑顔で話しかけ、ちらりと雪代に視線を走らせる。そんな教師を無視し、彼女はさっさと中に入った。
「前から詰めて座るんだぞ」
と、いわれたが、かまわず階段を上がる。最後列を一番奥まで進み、腰を下ろすと、雪代はシートの上で足をぶらぶらさせた。
「ちっこいなあ」
 見ると久志は隣のシートに座り、窮屈そうに膝の上で頬杖を突きながら雪代を眺め、笑っている。
「身長、いくつ?」
「ひゃくごじゅう……に」
 久志は? と雪代がたずね、彼は、
「えーと」
と、天井を見上げた。
「おととい家で計ったら、184になってた」
「家?」
「うん。センバツが終わったあと、静岡に帰ってたんだ」
「久志の家って……」
「沼津。海から歩いてスグだからさ。雪代も遊びに来いよ」
 今度連れてってやるから、といわれ、顔が熱くなった。すると突然、二人の肩を後ろから勢い良く叩いてきた者がいて、雪代は二度びっくりした。
「こら! 校長の話も聞かないで、何をいちゃいちゃしている」
 二人の間へ割り込むように、後ろから頭を突き出し、
「まったく、どいつも、こいつも、見せつけやがって」
と、不満たらたらにいう。
「監督ー、何やってんすか?」
 あきれたように、久志は後ろを見上げた。
「ここでは小宮山先生と呼べ」
 いったかと思うと、雪代へニッと笑いかけてくる。前方に視線を移し、彼女は体を固くした。
「ほら、見ろ。あそこ」
「あー、角倉と三井っすか?」
「アイツ等、入学時からの付き合いだろ? もう丸2年だな。あと、そっち」
「栗原と……おー、カズミちゃん! いつの間にヨリ戻したんすかね?」
 俺が知るか、と小宮山は久志の頭を上から押さえつける。
「い、痛いっすよ、かんと……いや、小宮山センセ!」
 俺が高校生の時はなあ、と小宮山は久志の頭に手を乗せたまま、しみじみと語り出した。
「365日、野球漬け。恋愛してる暇なんて、なかったもんだ。なのに今は……携帯っていう文明の利器のお蔭だよなあ」
 そう思うだろ、と同意を求めるように、久志と雪代を交互に見る。
「なあ。オマエ達も、しょっちゅう携帯で連絡取り合ってんのか?」
「オレ、番号もメルアドも知りません」
 雪代が教えてくれねえから、とムスッとした顔で久志が答えると、小宮山は、
「ふうん」
と、意外そうに雪代を見た。
「三浦」
 突然名前を呼ばれ、雪代は身構える。
「ありがとうな」
 小宮山に感謝の言葉をかけられ、目を丸くした。
「甲子園から帰ってきたら、やたら久志が元気になっていて驚いたが、三浦のお蔭らしいな」
 決まり悪そうにする久志の肩へ腕を回し、小宮山はもったいぶったように、ひそひそと話かけてくる。
「こいつはな、見かけ以上に素直なうえ、何でも内緒にしておけないタチなんだ」
 なっ、と小宮山は派手に、久志の体を揺すった。
「どうだ、三浦。こいつのことが好きか?」
「え……」
「女生徒は誰でも、久志に憧れているぞ。三浦は、どうなんだ。こいつを独り占めしたくないか?」
「あ、あたしは」
 口にして、雪代は自分の声が震えていることに気付いた。
「雪代、黙ってろ。何もいうな」
 肩にまわされた手を乱暴に振りほどき、久志は小宮山に向かって身を乗り出す。
「いくら監督でも、いっていいことと、悪いことがある」
「まあ、いいから聞け」
 そんな久志を制するように、小宮山は落ち着いた声でいった。
「天才は常に孤立して生まれ、孤独の運命を持つ」
 間を置かずに、
「ヘッセ」
と、雪代がつぶやき、
「さすが三浦」
と、小宮山は満足したように何度もうなづいた。
「先生のいいたい事がわかるか? 久志、お前はどうだ」
 たずねられ、眉間にシワを寄せながら、久志は首を左右に振った。
「こうしてお前達二人が一緒にいるのを見るとな、不安になるんだよ」
「はあ? 別にオレ達、付き合ってるワケじゃねえし」
「そこが心配だって、いってるんだ。角倉や栗原のように、きちんと相手を好きだと認識してりゃ、自制も効くだろう?」
「好きっていう、認識……」
 そういって雪代はしばらく小宮山の顔をジッと見つめていたが、すぐに耐えきれなくなって立ち上がると、イスの背もたれを無理やり乗り越え、走り出した。
 ステージの壇上で校長が、
『硬式野球部は惜しくも全国制覇にはいたりませんでしたが、ベスト8まで進出しました。その健闘に皆さん、拍手を送りましょう』
と呼びかけ、大きな拍手が沸き上がる中、雪代はホールを飛び出す。
「雪代!」
 大声で叫ばれ、久志が追ってくるのがわかると、雪代はやみくもに校舎の間を駆け抜けたが、あっという間に追い付かれた。
 校庭の脇で足を止め、桜の木に寄りかかって、荒い呼吸を繰り返す。
「どうしたんだよっ、突然」
 返事をする間もなく、ひどい吐き気に襲われた。
「うわ、マジ? しっかりしろ、雪代」
 雪代はその場にしゃがみ込むと、地面に向かって嘔吐したが、喉を胃液が焼いただけだった。
 どうしよう、と久志は慌てふためきながらも、必死で彼女の背をさする。その様子がおかしくて、つい雪代は吹き出した。
「笑ってる場合かよ!」
「ごめ……ん」
 ふらつく足取りで立ち上がると、雪代は口を拭った。
「ちくしょーっ! オレ、ぜってー監督を許さねえからな!」
「どうして?」
「どうしてって……天才は孤独だの、好きだと認識しろだの。ワケわかんなくねえっ?」
「あたし、わかる」
「雪代……」
 顔をのぞきこもうとする彼に、雪代は背を向けた。不意に涙がこぼれ落ちそうになる。
「頼むから、コッチ向けよ」
 いやだ、と両手で顔を覆ったが、その手を久志につかまれ、顔が近づいてくる。
 咲き乱れる桜の下で、雪代は抵抗する間もなく、彼と唇を重ねていた。