ジーニアス・レッド 第十話 迷える子羊(2)

 鐘の音を聞くと同時に、久志は立ち上がった。
 教壇の上で、まだ教科書を開いていた日本史の教師が、
「お腹がすいて我慢できないか、仲田」
と、笑うのを聞きながら、ショルダーバッグを手に持ち、教室を出る。
 廊下でバッグの肩ひもに腕を通し、たすき掛けに背負い直したところで、杉浦を見つけた。
「頼む。購買でサンドイッチ買っといて。野菜いっぱい入ってるヤツ」
と、声をかけて立ち去ろうとしたが、 杉浦は意味ありげに笑い、肩を叩いてきた。
「今朝、三浦さんに会ったよ」
「え、マジ?」
 思わず立ち止まり、久志は振り返った。
「オーラルコミュニケーションのクラスで一緒になってさ」
「おーら……?」
と、久志は考え込む。
「英語の授業だよ」
 杉浦は苦笑いを顔に浮かべた。
「すっげ、杉浦。オレなんか、ぜってー雪代とクラスが一緒になるコトねえよ」
「まったく……有り得ない組み合わせって、気がしてくるよ」
「ソレ、オレと雪代のこと、いってる?」
 いいから、と久志の背中を、杉浦は押した。
「早く行ってやれよ。三浦さんには、いってあるから」
「へっ?」
「関東大会、久志が試合に出るって、伝えといた」
 顔赤くしてたよ、と杉浦はわざとらく、いった。
「可愛いな、彼女!」
 そういう杉浦の尻めがけて、久志は右足で蹴り上げる真似をしてみせると、走り出す。
「サンドイッチ! あとで、ちゃんと金返せよ!」
 後ろで叫ぶ杉浦に、久志は右手をふり、階段を降りた。教室から生徒達が廊下に出て来る中を、早足で東校舎へ向かう。
 久志が学ぶ西校舎と、雪代のいる東校舎の間には、大きなフリースペースとテラスがあった。天気が良ければ、大勢の生徒達が弁当を広げ、楽しそうに昼食をとっている。
 外には真っ白な雲がぽっかりと浮かぶ、美しい青空が広がっていたが、まだ授業を終えて間もなかったせいもあり、人はまだまばらだった。
 そこを通り過ぎて、向こうから来る、小さな人影に目を留めた。大きすぎる黒いバックパックを背負いながら、少し内股にゆっくりと歩いてくる。
 いつも、せかせかと歩く彼女のイメージしかなかった久志は、それを意外に思いながらも、笑顔になった。向こうも久志に気付き、ぎこちなく笑ってみせる。
「よお」
 彼女の前に立つと、体を曲げ、顔をのぞきこんだ。雪代は何度もまばたきをし、やがて久志に背を向けると、無言のまま離れて行ってしまう。
「おい、おい。無視すんな」
 振り返り、彼女は首を左右に振った。
「ついて来て」
 小さな声でいわれ、雪代に並ぶ。一緒に歩きながら、久志は気が付いた。
 雪代がいつも小走りなのは、久志の歩調に合わせていたからだ。慌てて大股に、ゆっくり足を出すと、隣の彼女も普通に歩き始める。
(あー、オレって、ホントだめだな)
 女の子と一緒にいて、こんな風に思ったのは初めてだった。そんな久志の戸惑いなど、雪代が知るはずもなく、彼女は無表情に階段を降り、長い廊下を行き当たる。
「ここ、職員室じゃん」
 教務課の前を通り過ぎながら、久志はあたりを見回す。知った顔の教師が、廊下を行き来していた。
「こっち」
 雪代はさらに奥へ進み、ひっそりとした場所に出る。
 校長室、と表示があった。毎日のように来てたっけ、と甲子園直後の喧騒を、久志は懐かしく思い出した。
 校長室の向かいには、大きなガラスケースがあり、中には様々なトロフィーや賞状が飾られていた。久志は足を止め、ケースの中に見入った。
 ひときわ目立つ最前列には、昨年(さくねん)夏の全国高校野球選手権大会、優勝盾があった。一緒に贈られた深紅の大優勝旗は、夏まで学校の金庫にしまわれ、保管されるのだという。 
「ここ」
 ひっそりとした廊下に、雪代の声が響いた。見ると、彼女は一番奥にある扉の札を、勝手に触っている。『空室』から『使用中』へ表示を入れ替え、ドアを開けた。
「大丈夫なのかよ」
 雪代に続いて、中に入ると、古くさいイ草の匂いが、鼻についた。
「ちゃんと、鍵かけて」
「うーす」
 久志は後ろ手にドアを閉めると、ノブの鍵を横に回す。
「フツー、入っちゃいけねートコなんじゃね?」
 平気、と雪代は上履きを脱ぐと、どかどか畳に上がり込んだ。バックパックを中央の机に置き、中からプラスチックのトレイとペットボトルを取り出す。
「誰も使わない、宿直室」
 へえ、と部屋を見回しながら、久志も畳にあがると、肩からバッグを下ろし、床に置く。
(よくもまあ、見つけるよな。こんなトコ)
 部屋には小さいテーブルが置かれ、たたまれた布団のようなものもあった。
「何だか、いい匂いがするんだけど」
 気がついて、久志はテーブルの上を見た。
「牛丼」
 雪代はそういい、バックパックから卵まで取り出し、手に乗せている。 
 目を丸くして、
「いつ、買って来たんだよ」
と、トレイを引き寄せ、フタを開けてみた。
「うわー。マジ? うまそ」
「さっき、ちょっと授業をサボった」
 はい、と割り箸を渡される。
「杉浦……君から、聞いた」
「朝、会ったんだってな。 で、オレが昼休みに来ると思った?」
 うん、とうなずく雪代に、ペットボトルを渡される。中味は冷たいお茶で、表面に水滴がついていた。
 卵も受け取り、久志が牛丼の中に割り入れる。
「上手」
 彼の手から殻を拾い上げ、雪代はビニール袋に入れると、テーブルの下へしまい込んだ。
「卵を割るぐらい、誰にだって出来るだろ」
「あたし、必ずカラが入る」
 不器用なヤツ、と笑いながら、割り箸を、合わせた手に添え、
「いただきます」
と、久志は頭を下げた。
「どうぞ」
 雪代と会い、食事をご馳走される。しかも学校で、だ。不思議な気分だったが、とても彼女らしくて、笑ってしまう 。
「オマエ、ビックリするようなこと、平気でやるよなー」
 驚くやら、感心するやらで、久志は呆れたように、いった。
「ところで、オマエの分は?」
「いらない」
 そういって立ち上がり、ブレザーを脱ぐと、彼女は窓の下に座り込んだ。壁によりかかって首をひねり、ガラスの向こう側に見える青空を眺めている。
 久志はじっと、その様子を見つめた。
「どうかした?」
 慌てて具の上で卵をかき混ぜながら、
「別に……どーもしねーよ」
と、頬を赤らめた。
「食べてるとこ、見たりしない」
「喰ってるトコ見られたって、別に恥ずかしくも、何ともねーけどな」
「そっか」
 声を出さずに笑う彼女と、まともに目を合わせられなかった。可愛いな、と杉浦がいったのは、自分をからかってのことだろうが、今はその通りだと、深くうなずける。
 久志は牛丼を口に運びながら、
「コレさ、あの信号の角にある、花野井弁当の牛丼だろ」
と、ごまかすように、いった。
「うん。図書室にあった、新聞で読んだ」
「新聞?」
「去年、甲子園で優勝した時、花野井が紹介されてた」
「アソコ、合宿中、しょっちゅう差し入れしてくれたんだよな」
 勝利の牛丼、と雪代と久志が同時にいい、大笑いした。
「新聞に、そんな風に書かれてたなー」
 ひょっとして、と彼女を見た。
「その記事を覚えてて?」
「うん。関東大会も、優勝しよう」
 色々と応援の言葉をかけられる機会は多い。でも、こんな風に体が熱くなるほど、励まされたのは、初めてだ。
「寮に入ったばかりの頃さ、しょっちゅう先輩に夜中、この牛丼を買いに行かされたんだ」
 軽く興奮を覚え、それを押し隠すように、久志は思い出話をいって聞かせた。
「夜に、外出?」
「寮の裏手が学校職員用の駐車場でさ。通用門が24時間、開きっぱなし。そっから、いつだって外に出れる。門限は一応あるけど、別にアレコレ細かく注意されるワケじゃないし」
 食べながら説明すると、
「ふうん」
と、雪代は感心したように、いった。
「もっと、厳しいと思ってた」
「ウチの野球部はさ、自己管理も出来なくて、脱落してくよーな奴、どうでもいいんだよ」
 久志はトレイを傾け、ご飯をかき込んだ。
「でも、オレ負けねえから」絶対に、と心から誓い、告げる。
 雪代がうなずくのを見ながら、
「ごちそうさまっ」
と、箸を置いた。
「もう……食べ終わった?」
 ペットボトルのお茶もさっさと飲み干し、立ち上がると、雪代の隣で、彼女にならって壁へ寄りかかり、両足を投げ出して座った。
「雪代」
「なに?」
「オマエさ、何人家族?」
 頭の後ろで両手を組みながら、天井を見上げて、思いついたままにたずねた。
「4人。両親と妹」
「へえ。妹がいるんか」
「みっつ下」
「家では学校と違って、ペラペラしゃべってたりすんの?」
「全然」
「家族とも話、しないのか」
「してない。もう10年ぐらい」
 10年も、と内心びっくりしたが、雪代ならあり得ると、ひそかに思った。
 家族だけじゃない、と彼女は小さな声でいった。
「あたし、人と話せない」
「知ってる」
と、久志はあくびをした。
 昼食後はいつも、午後の練習が始まるまで、学食のテーブルや、部室のベンチで寝ている。それが習慣になってしまっていた。
「あと、雪代は人と会話したりすると、気分が悪くなって、吐く」
 そういって仰向けに寝転がると、腕を伸ばして、布団を引き寄せた。それを頭の下に入れ、枕にすると、久志は目をつぶる。彼女がそばにいれば、とても幸せな気分で、眠れそうな気がした。
「でも、二人きりなら、平気」
「オレ限定だろ」
 眠りに落ちる中、他愛もないことを口走っていた。
「雪代にとって、オレは特別だよな」
「うん」
 でも、と彼女はいった。
「大人の……男の人と、二人きりなら」
 冷水を浴びたような気分だった。ウトウトしかけていたのが、いっきに目が覚める。
「しゃべって、セックスして」
 彼は耳を疑った。
 ――お金をもらう。
 飛び起き、雪代を見た。
 何をいった? 今、彼女はオレにむかって、何といった?
 オマエ、とようやく口にしたが、うまく声にならなかった。
「ウリ……やってんのか?」
「もう、してない」
「もう、って、何だよ! ソレ!」
 嘘だろう? と、久志は大声を出した。
「何、へーきな顔して、いってんだよ!」
「去年、退職した、松山先生」
と、雪代は顔色ひとつ変えず、いった。
「体を悪くして、学校やめたことになってるけど」
 あの先生と、あたし――久志は、最後まで彼女の話を聞かなかった。立ち上がって、カバンをひったくるように持つと、乱暴に鍵を開け、部屋を飛び出す。
 めちゃくちゃに校内を歩き回った末、雪代と出合った、あのアトリエに出た。彼女がいつも座る場所には、新しいキャンバスが置かれ、木炭で何か下描きがされている。
 久志は忙しく周囲を見回し、倉庫の入り口を見つけると、勢い良くドアを開け、中を探し回った。薄暗い棚の間に、何枚かの大きなキャンバスが重ねられていて、その一番上に、探していた絵を認めると、外へ持ち出す。
 アトリエの壁に立てかけ、近くにあった絵の具を手にすると、怒りにまかせて、それを目の前の、自分が描かれた絵に、ぶちまける。何色もの、微妙に違う赤を重ね、描き上げられた美しい絵が、みるみる真っ黒に染まっていった。 中庭を歩いていた生徒達が、ガラス越しに彼の様子をうかがい、何事かと囁き合っている。 
 そろそろ昼休みも終わり、午後の練習が始まる。久志は手にしていた絵の具を放り投げると、忌まわしいものから逃れるかのように、急ぎ足で芸術棟を離れた。
 部室へ向かいながら、さわさわと、生い茂る新緑の若葉が、風に揺れる音を聞き、そういえば、と久志は木立の中で、足を止めた。
  ――オレは雪代のことを、何も知らない。
 少なくとも監督は、彼女がそういう問題を起こした生徒だと、知っていた。だからこそ、ちょっかいを出すな、といい、久志と彼女が会っていたことを、気にかけてもいた。
 ――雪代が特別なのは……。
 生徒と教員の、わいせつな関係が、何かの拍子で学校関係者の知るところとなった。学校は表沙汰にならないよう、事実をひた隠し、教員だけを辞めさせた。
 そうやって教師だけを処分し、彼女を学校に残したのは、その天才的な頭脳を、東大合格者を増やすため、しいては学校の宣伝に使うためにしか、他ならない。
 学校が生徒を集めるための広告塔でしかなく、野球をやっていなければ、誰からも振り向いてもらえない自分と、全く同じなのだ。
(でも、彼女は体を売って、何をしようとした?)
 杉浦が以前、油絵はとてもお金がかかる、と話していたのを、思い出した。彼はその時、雪代について触れ、親の理解があるのだろう、ともいっていた。しかし雪代本人は、親と10年もの長い間、何の会話もないといっている。
 ――絵を、描くために。
 久志は勢い良く、後ろを振り返った。空から降り注ぐ光がまぶしく、腕を上げると、手のひらで日差しをさえぎる。
 5月の太陽は、残酷過ぎるほどに、明るかった。