ジーニアス・レッド 第七話 助けてといえたなら(1)

 改札口の手前で、押しのけられるように抜かされ、大きなメッセンジャーバッグをぶつけられた。同じ制服に身を包む生徒が肩にかけていたもので、ぶつけた本人は気づいていないのか、振り返りもしなかった。
 よろけながらも無言で定期券のカードをタッチし、駅から出ると、雪代は大きなため息をついた。
(せっかく、解けそうだったのに)
 繰り返し頭の中で計算した末、やっと見つけた難問の答えが、頭から吹き飛んでしまった。黒いバックパックを背負いながら、彼女は力ない足取りで学校へと歩き出す。
 早い時間にもかかわらず、学校へ向かう道は、大勢の東光一高生であふれかえっていた。
 高校では毎年、春になると、クラス替えが行われる。成績によってコース分けされるうえ、どのクラスに所属するかで、進学先の選択に大きな影響を与えることもある。誰もが早めに登校して、自分のコースとクラスを確認するのが常だった。
(そんなことも、忘れてたなんて)
 もっと早めに家を出れば良かったと、後悔していた時、
「もっちろん、仲田先輩!」
と、大きな声が耳に入り、雪代は反射的に顔を上げた。
「付き合うなら、アレくらいカッコいい人がいい!」
 真新しい制服を着た新入生だった。にぎやかな集団を早くも成しているところを見ると、付属の中学校から、エスカレーター式に上がって来た生徒達と思って間違いない。内部生と呼ばれていて、雪代がいる特進理系クラスでも大多数を占める。
 彼らの声は大きく、嫌でも会話が耳に入った。
「仲田先輩かー。春の甲子園には、出なかったんだよね」
「夏の大会はOKらしいよ」
「聞いた、聞いた! 野球部が帰って来た時、校門で出迎えてて、オマケにインタビューされてるの、見ちゃったもん!」
「そう、そう! あたし達ヒマだったから、高校へのぞきに行ったんだけど、怪我はほとんど治ってるって、いってた」
「プロのスカウトも全然問題ないって、いってるらしいよ。早くも来年のドラフト候補ナンバーワンだって!」
「ホントー? 本物のスターじゃない!」
「でも付き合うとなると、すっごい競争率高そうだよねー」
「チャンスはあるよ! カノジョいないって、聞いたもん」
「アレ? ちょっと噂なかったっけ。ほら、すっごい変人の外部生とさ」
 外部生というのは、雪代のように、入試を経て高校から入学した者を指す言葉で、圧倒的に数が少なかった。内部生が口にする場合の多くは、侮蔑の意を含んでいて、その証拠に、寮へ入るようなスポーツ特待生を、彼らは外部生と呼ばなかった。
「知ってる、知ってる! 編入試験で、全科目満点だったんでしょ?」
「すごーい! じゃ、やっぱり特進理系コース?」
「らしいよー」
「どうせ、目指せ東大! が合い言葉の、ガリ勉さんでしょ」
「鈴木先輩から聞いたんだけど、その通りらしいよ」
「モデルにスカウトされた、あの、鈴木先輩?」
「あの人も特進理系なんだよね。才色兼備って憧れちゃう」
「その鈴木先輩がいうには、難しい数学の問題を、これ見よがしに解いてみせて、自慢してるんだって」
「うわー、痛いね」
「で、鈴木先輩、他には何て?」
「仲田先輩はね、その外部生を、ちょこっと、からかっただけらしいよ」
「うん、うん。男の子って、そういう変なコにちょっかい出したがる!」
「でも真面目で、勉強しか取り柄のない子って、すぐ勘違いしちゃうから困るよねー」
 そういって高らかに笑う彼女達の横を、雪代はすり抜け、追い越した。
 鈴木はもちろん、特進理系のクラスメイト達の誰もが、確かにあか抜けていて、社交的だ。進学校にありがちな、勉強ばかりしているイメージとはほど遠い。
 経済的に恵まれている家庭の子が多いし、根が努力家で、負けず嫌いなせいもあるのだろう。勉強だけでなく、スポーツや行事にも積極的だ。
 暗にからかわれたり、笑われたりはしても、彼らの口からあからさまな悪口を聞かされたことなど、一度もなかった。
(そういえば、久志が嫌な思いさせたって、謝ってたっけ)
 こんな風に影で噂されていたのだと知り、残念に思いつつ、心のどこかで割り切ってもいた。
(いちいち、気にしちゃいけない)
 そう思い、再び記憶の底から数学の難問を引きずり出すと、果てしない計算を繰り返す。ところが学校が近づくにつれ、段々と単純な公式が頭の中を支配し、ぐるぐる回り出していた。
ln n! = n ln n - n▽・(▽×A)=0▽×(▽×A)=▽(▽・A)?▽2A……。
 明らかに集中力が落ちてきている。歩を緩め、バックパックを背負い直すと、雪代は再び深いため息をついた。
 気を取り直して正門をくぐり、校内に入ると、他の生徒達に従い、体育館脇の掲示板に貼られた、クラス分けの表示を見上げる。
 特進理系コースは、医学部や難関理系大を目指すクラスで、大抵は成績がトップクラスの生徒を中心に集められる。人数もせいぜい30人ほどで、他の理系コースや文系コースが合わせて10クラスもあるのとは違い、たった1クラスだ。
 ――三浦雪代(特別進学理系コース・3年A組・東校舎2F)
 当然のようにリストを一番上から見始め、自分の名前を確認すると、さっさと昇降口へ向かった。バックパックから上履きを取り出し、靴を指定のゲタ箱にしまうと、芸術棟へ行く。
 アトリエにたどり着き、油絵の具の匂いを嗅ぐと、ようやく人心地がついた。
 絵を前にイスへ座り、バックパックを脇に置くと、キャスターが付いた移動式の、油絵の道具をしまっている小さい棚からツナギを取り出し、もそもそと足を入れる。
 スカートを無理やりツナギの内側へ押し込み、ジッパーを上げると、目の前の絵に軽く指で触れ、絵の具の乾き具合を確かめた。
 うなづき、パレットを手に取ると、油絵の具のピーチブラックとバーントシェンナを、テレピン油が多めの、リンシード油と混ぜたオイルで溶いて、キャンバス上に薄く塗り重ね、陰影をつけていく。
 カドミウムレッドは強い色で、普段なら決して下地には使わない色だ。
 ――けれども、久志には良く似合う。
 おおよその形がハッキリしてきたところで、彼女は筆を置くと、バックパックを引き寄せて、中から携帯を取り出した。
 画面メモを開き、そこに現れた地元新聞社のページを見る。
 東光一高が春の選抜で敗退した翌日、戻ってきた野球部を出迎えた久志が、学校の前で応じたインタビューについて、まとめた記事だ。さっき新入生達が話題にしていた通りの内容だ。
 『夏の大会での雪辱を誓う』という題字の下に、久志の爽やかな笑顔を撮った写真が添えられている。
 自分の肩に寄りかかり、男泣きに泣いた彼が、その数時間後には笑っていた。
 その事実を確認するたびに、雪代はあの日、学校へ彼に会いに行って良かったと、安堵する。
 続いてメールを開くと、出会い系サイトを介して送られて来たメールをチェックした。
(この間、けっこう貰えたから、もう大丈夫かな)
 かたわらの絵に視線を走らせ、目を伏せた。
 あの久志の投球を見た日の、夜のことだ。
 もう、相手がどんな男だったかも、思い出せない。覚えているのは、道具を使われ、足の間が痛くなるほどに、ひどい扱いを受けた。何とか耐えきったが、結果、予想外の報酬をも得ることができた。
(今月の終わりまでに、この絵を仕上げるとして……)
 木枠はあるから、キャンバスを2枚、下地用のジェッソ、オイル、絵の具をあと数本――素早く頭の中で計算をする。
 お金は大丈夫、と決断し、受信メールを全て消去した。次いで携帯電話を操作して、メールアドレスの変更もする。
 携帯をバックパックへしまうと、雪代は膝に顔を埋めた。泣きたい気持ちなのに、涙がちっとも流れ出ない。
 ――世界は、そんなに優しくない。人間も弱肉強食を原則として、地球上に生きている。淘汰されていくのは当たり前で、その運命にあらがう事など、できやしない。
 自分の行き着く先がどこか、雪代は知っていた。
 ――誰のうえにも、平等に時は刻まれる。けれども確かに、人はその刻みを止めることもできる。
 彼女は立ち上がるとツナギを脱ぎ、バックパックを抱えてアトリエを出た。
 始業式で、久志と顔を合わせることになるかもしれない。そうしたら、メールアドレスを教えよう――そう思い、雪代は窓の外に顔を向けた。
 明るい春の日差しが、中庭に充ち満ちている。
 久志が自分を見つけたことに、何か意味があるのだとしたら、冬を乗り越え、この新しい季節を迎えたこと、それを彼と共に、喜び合うべきなのかもしれなかった。