ジーニアス・レッド 第六話 これはきっと恋じゃない(2)

 学校にバスがたどり着いた時、遠い東の空に昇る太陽が、目に刺さるような光を放っていた。
 スタンドで一緒に声を枯らした、野球部の仲間達が次々とバスを降りる中、久志は一番後方の席でうずくまっていた。
 頭を抱えたまま深く息を吸い、目を閉じたまま長い時間をかけて、吐き出す。
「仲田、大丈夫か?」
 座席の間を縫って副部長の神崎がやって来ると、久志はようやく顔を上げた。
「大変だったな。ご苦労さん」
「いや、オレは」
「今日もカメラに追いかけ回されて……本当にすまなかった」
「先生が謝ること、ないっすよ」
 久志は焦って立ち上がったものの、足元がおぼつかなかった。
「まったく、マスコミも残酷だな」
 久志の背中に手を置き、神崎がバスのステップを下る際、ぽつりとつぶやいた言葉が、胸に突き刺さる。
 新聞に選抜大会の出場登録メンバーが掲載された時、学校には取材が殺到した。
 東光一高は夏に続く甲子園連覇を期待されていて、夏の大会で歴代第3位となる奪三振記録を作り、優勝の原動力ともなったエース仲田久志が、再び甲子園のマウンドへと帰ってくる。何よりもそこに注目が集まっていた。
 それなのに登録メンバーから久志は外され、しかも秋季大会後に靱帯を損傷していた事実までもが、発覚したのである。当然ながら、世間は大騒ぎとなった。
 少なくない非難や中傷もあり、学校も野球部も、そして久志自身が大会を前に、神経をすり減らしていた。
 それでも東光一高ナインは善戦し、3回戦まで進出したが、連覇を果たすことなく敗退した。
 困ったのは試合後、甲子園でプレーをした選手達よりも、アルプス席で応援していた久志に取材が殺到してしまったことだ。
 行き帰りを含め、バスが休憩に寄った先までもマスコミが待機している始末で、これではベストを尽くしたレギュラー達の努力は何だったのかと、報われない気持ちにもなる。
「オレ……絶対、この借りを返します」
 野球部のみんな全員に、と唇を噛む久志に、
「まあ、そう意気込むな」
と、神崎は教師らしい、温和な表情でいった。
「レギュラーの連中や監督も午後には帰ってくる。明日からはもう、通常の練習になるからな」
 頑張れ、と強く背中を叩かれ、久志はうなづくと、寮へ向かう野球部員の一団から離れ、一人ゆっくりと歩く。
 3月も、明日で終わろうとしていた。
 昨日の試合中、甲子園球場は汗ばむほどに暖かかったが、こうして神奈川に帰ってくると、ユニフォームに上着なしの格好では、さすがに肌寒い。それでも頬を撫でる風は柔らかく、春らしい香りをも運んでくる。
 後ろを振り返ると、歩いてきた小道の先から、構内を出ようと門に向かってバックするバスの音がした。それを除けば、早朝の春休みである学校は、恐ろしく静かだ。
 ガラス窓に朝日を反射して、キラキラと輝く校舎が、目に入る。手をかざし、しばらくそれを見ていた久志は、思い立ってそちらの方に歩いていくと、中庭を抜けて芸術棟の下に立った。
 最後にここへ来たのは、もう一ヶ月も前のことだ。
 ――なんだか、変な感じだな。
 腕を後ろへ回し、大きく伸びをした。勢いであくびが飛び出し、まぶたをこすりながらガラスをのぞき込む。
 来学期を迎えるためか、あんなにたくさん並んでいた絵は全て片づけられ、大きなホールの端に並ぶ白い石膏像が、外から丸見えだった。
(けど、コッチは相変わらずか……)
 久志は両手を腰に置き、口元をほころばせた。
 筆や絵の具、他にも様々な見知らぬ道具が並ぶ机や、小さなイス、そしてイーゼルに乗せられた巨大な絵。それらがまるで、定位置とばかりに、置かれたままだった。
(絵が……変わってる?)
 暗がりに目をこらすと、移動式の大きな鏡を前に描かれていた、彼女の自画像は消え去っていた。
 かわりに、一面の赤が踊る、描きかけの絵がある。
 何の絵だ? と目を細めた。燃えるような赤に、渦巻く様々な色の細い線が見え始め、確かに形を成しているのがわかる。
 久志は全身を貫かれたような衝撃を受けた。
  ――オレ?
 一度見えてしまえば、雪代の絵の中にそれを認めるのは、簡単だった。大きく前に出た左足、深く曲げられた膝、そしてわずかに傾くクセのある、長く後方に伸びた右腕。
 深く踏み込み、腕の振りが大きいフォームは、強い踏ん張りを必要とする。足に負担がかかり易く、故障の直接的な原因ではなかったが、一因には違いなかった。
 自分のピッチングフォームを撮ったビデオを、何度も監督と見直して、そう話し合った結果、復帰までの練習を、筋力アップを中心としたメニューに作り替えたのだ。
 見間違えるはずがなかった。
(一度しか見てないよな、アイツ)
 雑誌や新聞の写真を参考にした可能性もあるが、真横から写真を撮られる機会は、滅多に無い。彼女の絵に描かれた自分の姿は、あの日、彼女が見つめていたであろう方向、つまり真横から見たものに、違いなかった。
 久志は喉を鳴らした。
 ――スゴ……過ぎないか?
「久志」
「うおっ!」
 両手を置いて、鼻の頭がくっつくほどに顔を寄せていた窓から、久志は弾かれたように飛び退いた。
 白いシャツの襟元に、水色のリボンをきちんと結びつけ、濃紺のブレザーを羽織っている。下には、ほとんど目立たない薄いチェックが入っている、紺色のプリーツスカートを履いていた。
 黒いハイソックスに、同色のローファーを合わせたその姿は、典型的な東光一高の生徒だが、顔に目をやると、大きな、独特の強い光を帯びた瞳が、自分を見つめている。
 ――雪代!  考えるよりも、口を開くよりも先に、体が動いた。
 両手をいっぱいに広げると、それこそ押しつぶす勢いで小さな、細い体を腕の中に閉じこめる。
「く、苦しい」
「どうして雪代って、オレがピンチの時、必ずいんの?」
 ピンチ? とくぐもった声が聞こえ、今度は彼女の両肩をつかんで乱暴に胸から引き剥がすと、興奮に任せて揺すりまくる。
「最初に会ったのは、登録メンバーから外された時だろ? そんでもって今は、甲子園で負けて、すっげえ落ち込んでるし」
 ホントにスゲエー! と久志は再び彼女に抱きついた。
「昨日、第4試合が終わったのが、午後5時48分」
 何かしらの統計を発表するかのように、雪代は無機質な声を出す。
「甲子園から学校までの距離は、約500キロ。高速や一般道を通ってくるのを想定したうえで、途中の休憩時間も含めて換算すると、大体この時間になる」
 少し予想よりも早く着いたみたいだけど、と久志の体をようやくのことで押しのけ、雪代はこともなげにいった。
「寮へ行ったら、野球部はみんな疲れて部屋で休んでるし、部外者には取り次げない。コーチだっていう人に、そういわれた。だから、何となくコッチに寄ってみた」
「なあ、なあ。門のトコに、いっぱいカメラ来てなかった? 警備員までいたけど、オマエよっく中に入れたな!」
「担任の先生がいた。昨夜から学校にいるんだって。帰って来る応援バスの受け入れとか、ヤジ馬対策とか、色々あって大変だって、ぶうぶう文句いってた」
 そういって頬をふくらませる彼女を前に、久志は大きな笑い声をあげた。
「ねえ。ホントに落ち込んでる?」
 下から顔をのぞき込まれ、
「まあな」
と、少しどぎまぎしながら、久志は答えた。
「でもアレ見たら、何か元気出た」
 戸惑いを悟られないよう、わざと大きな声を出す。
「ああ、あれ……」
 久志が指差す先に顔を向け、雪代は素っ気なくいった。
「あの時の絵だろ? ユニフォーム着てっけどさ」
「学生服姿じゃ、おかしいから」
「たしかに」
 久志は白い歯をみせると、落ち着かない気持ちで、大げさにうなづいてみせた。
「でも、足りないな」
「何が?」
 首をかしげる雪代を見て、胸の鼓動が早くなる。
 背番号、と久志は彼女から目を背け、いった。
「あとストッキングとアンダーは紫で、帽子と胸には東光一の文字が入ってて」
「今、着てるような?」
「あの普段着てる白いヤツは練習用で、試合用のは違うんだ」
 じゃあ、と雪代は考え込むように、口元へ手をやった。
「背中に、背番号1を入れる」
「ひょっとして野球の勉強、したりした?」
 からかい半分でたずねると、真面目な顔つきになって雪代はうなづく。
「図書室で、野球の本を片っ端から読んだ」
「マジで?」
「スコアだって、付けられる」
「スゴイじゃん」
「日本学生野球憲章もいえる。おかげで、ゲーデルの不完全性定理を読む時間がなくなった」
 ふうん、とさすがに苦笑いをしながら、久志は彼女へと向き直った。
「オマエ、ホントに面白いな!」
 彼のことをひと睨みし、雪代は歩き出す。校舎を離れ、グラウンドに向かっていた。
 追うように後ろを歩きながら、
「雪代のこと、気になってたんだ」
と、小さな声でいった。
「色々と噂されて、ヤな気分にもなったろうけどさ」
 雪代を抱えて学校を走り回った結果、人の口を伝うだけでなく、ネットの掲示板でも、あることないこと、二人のことが話題になっていた。
 それも卒業式や終業式といった行事を挟み、自然と人々の口端に上ることも無くなっていたが、久志は頭の隅で、いつも雪代のことを気にかけていた。
 監督の言葉を受け入れ、結局のところ彼女との接触をあえて避け、顔を合わせなかったせいかもしれない。
 それでも雪代と再び会い、こうして話せたことで、気持ちが昂ぶるのを、どうにも抑えられなかった。
 ずっと会いたかった、と口にしそうになり、思わず足を止める。
 ――何なんだ? コレ。
 前を歩く雪代の背中を見つめる久志の頭上に、朝日が降り注ぐ。若葉の鮮やかな緑が広がる木立の中で、「久志」と、雪代が振り返った。
「桜が咲いてる」
 彼女が指差し、顔を上げると、そこかしこにピンク色のつぼみが見え、枝の先端には早くも花開いた桜がある。
「ホントだ」
 急いで追いつき、雪代に並ぶと、一緒に空を見上げながら、久志はたずねた。
「何で、野球を勉強する気になった?」
 雪代はさっさと歩き出すと、林を抜けた先のグラウンドでフェンスの金網に指をかけ、ぶら下がる。
「久志を、野球が追いつめる」
「オレが? 追いつめられてる?」
 そう、と彼女は金網から手を離し、フェンスに背を向け、寄りかかる。
「ヒトと違い過ぎて、どこにも行けない」
 不意に強い風が吹き付ける。巻き上がった砂をまともに受け、久志は顔を腕で覆った。
「だから、会いに来た」
 目を閉じたまま、彼女の声を聞く。
「久志が、野球をやめてしまわないように」
 ふと雪代の手が伸びてきて、そっと引き寄せられた。体を曲げ、彼女の肩に顔をうずめると、優しく頭を撫でられる。
 生まれて初めての怪我を経験し、半年近くにも及ぶリハビリで、野球という絶対の自信が、どんなにもろく、崩れやすいものかを、久志は知った。そして昨日、チームが試合に敗れるのを目の当たりにし、マウンドにうずくまる自分の姿を、想像せずにはいられなかったのだ。
 ――コレは、恋なんてもんじゃない。
 首の後ろにまわされた雪代の腕の中で、エースナンバーの無い背中が静かに震える。
 雪代が絵を描き続ける理由――行き場のない彼女のたどり着いた、その場所へ、連れて行かれるような気がした。