ジーニアス・レッド 第五話 これはきっと恋じゃない(1)

 グラウンドの片隅でひっそりと、夕焼けに染まる空を見ながら、久志はダウンに入っていた。
 深呼吸を繰り返しながら、念入りにストレッチを行う。
「アイシングするんだろ」
 杉浦が声をかけてきて、彼の隣に腰かけた。
「もう固定しては、いないんだけどさ」
 ストレッチを切り上げて右足のズボンをたくし上げると、ストッキングとソックスを脱いで、久志はため息をつく。
「細くなった」
「焦るな。本調子になったら、きっとすぐに戻るから」
 なだめるようにいい、杉浦は持ってきたアイシング用のサポーターを、久志の足首に巻き付けた。
「痛みはないんだろ?」
「ない、ない。もう投球練習だって、いけると思うよ」
 それはダメだ、と後ろから大声で怒鳴られた。
「いっただろ。お前の復帰は関東大会からだ」
 久志は振り返り、負けず劣らず大きな声を出した。
「県大会はどーすんのさっ、監督?」
「センバツでベスト4に入れば、自動的に関東大会出場だ」
 そういって、真っ黒く日焼けした肌に深い笑いジワを刻みながら、小宮山監督は久志の両肩を勢い良く叩いた。
「今はまだ、お前の出番はないっ」
「ひっでえーっ、県大会もオレ抜きでシード取っちゃうの?」
なあ、そうなのか、と泣きついてくる久志に、
「落ち着け」
と杉浦はいい、困った子供をたしなめるような顔つきで監督を見上げると、巧みに話題を変える。
「説明会、終わったんですか?」
 おお、と答え、小宮山監督は久志と杉浦を前に胸を張り、満足顔でいった。
「来年は特待生で9人の選手を迎える」
「説明会って?」
「来年入ってくる、新入生向けのだよ」
 杉浦が久志に説明し、
「今年は何だか、スポーツ推薦も含めて、野球部への問い合わせが多かったらしいですね」
と、監督を見た。
「仲田久志効果だな」
「え、オレ?」
と自らを指差す久志に向かって身を乗り出し、監督はギリギリまで顔を近づけた。
「久志。お前がいれば、来年の夏は優勝間違いなしって、思われてるのさ。東光は甲子園への最短キップだってな」
 オレがいれば……と、久志は喜びもあらわな表情になったが、監督はそんな彼の額を派手に、はたいた。
「いってえーっ」
 頭を抱える久志に、
「俺はな、理事長と校長にまで詰め寄られたんだ。どうしてセンバツに仲田を出さないのか、そう散々いわれたんだぞ」
と、小宮山監督は語気を荒げる。
「だからいってやったんだ、仲田久志! お前さえいれば、来年の夏、東光は絶対、日本一になれる。だから、絶対に今は無理をさせない。そういったんだぞ? それなのに……お前ってヤツは!」
 監督は突然、久志の肩に腕を回した。
「女をグラウンドに連れ込んで、何やってんだっ」
「か、監督!」
 慌てて杉浦が止めに入ったが、
「聞いたぞっ、もの凄い遠投をしてみせたそうじゃねえか! 足も完治してねえってのに、このバカ者があ」
と、久志の首を締め上げる。
 ダグアウトの横で騒ぐ彼らに気付き、ダウンを終えてグラウンドの整備を始めていた他の部員達も、何事かと手を止める。
「可愛いのか?」
 ぼそりと耳元で囁かれ、久志は必死に頭を振る。
「嘘つけーっ。お前が面食いだってことを、俺はようく知っている。相手は誰だっ、答えろ!」
「あのー、特進理系クラスの三浦さんですよ」
 杉浦が監督に耳打ちし、久志は黙れとばかりに両腕をバタバタと振り上げた。
「特進の三浦?」
と小宮山監督は首をかしげ、ようやく腕の力を緩めた。
「昨日、レギュラーから外すって発表したあとに、お前が飛び出していった先で、一悶着を起こした相手っていう……」
「な、なんで知ってんすか」
と両手を地面に突いて、久志は激しく咳こんだ。
「そりゃあ、俺も教員の端くれだぞ。多少のことは、嫌でも耳に入る」
 週4つしか授業なんて受け持ってないクセに、と口を挟み、久志は再び派手に頭を叩かれた。
「それにしても……あの、三浦雪代か。驚いたな」
 おい、と監督は外野に向かって叫んだ。一年生達に何か指示を与えている最中だった、主将の長谷川を呼びつけたのだ。
「何すか、監督」
 すぐに長谷川は走り寄ってきて帽子をとると、生真面目な口調でいったが、久志にとっては「あの三浦雪代」と、つぶやいた監督の言葉が、妙にひっかかっていた。
「今日、午後練に一番乗りしたのはお前だな」
「はい」 と長谷川が申し訳なさそうに、ちらりと久志を見る。
「あっ、てめえか! 監督にチクったな、長谷川!」
「だってよ、あんな球、見たことないって! マジ、レーザービームなんてモンじゃなかったぞっ」
 二人の会話へ割り込むように、
「久志と一緒にいたのは、三浦雪代だったか?」
と、監督は長谷川へ声を放った。
 いかにも興味を隠せない風だったが、まるで雪代を知っていて当然という質問の仕方に、やはり久志はひっかかるものを感じる。
 ところが「はあ?」といったきり、長谷川は考え込んでしまった。
「美人だったか?」
と、監督は即座に質問を変える。
「あ、キレイな子でした」
 長谷川が拍子抜けしたように答えた。
「嘘いうなよ! フツー、あんなブスいねえしっ」
 久志が口をとがらせるのを見て、
「監督、これ以上、からかわないでやって下さい」
と、杉浦は呆れたようにいった。
「久志は身なりの派手な女の子ばっかにいっつも追いかけられてるから、それが当たり前だと思ってるんです。まともな女生徒はみんなブスって、ひとくくりにされちゃうから、厄介ですよねー」
 三浦さんは可愛いというより、綺麗っていう言葉が本当に似合う子ですよ、という杉浦の言葉を聞いて、久志はつい、口を滑らせた。
「うるせー! 雪代が美人だろうが、ブスだろうが、オレには関係ないんだよ!」
 周囲から一斉に喝采が巻き起こると、久志はしまったとばかりに帽子のつばへ手をやり、つま先で土を蹴った。
「久志」
「なんすかっ、監督」
   ふてくされながら監督へ向き直ると、その表情は予想外に険しかった。
「センバツが近づいて来ると、OBや父母会だけでなく、後援会やらマスコミやら、とにかく色んな連中が学校に詰めかけてくる」
 神妙な顔つきでうなづく久志を前に、監督はグラウンドにいる全員へ向かい、声を張り上げた。
「いいか! 死に物狂いで練習しろっ。試合に勝つことしか、考えるな! 応援してくれている、大勢の人達の期待を裏切るような、浮ついた態度の奴は、容赦なく練習から追い出すからな!」
 はい! とグラウンド中に部員達の声が響いた。
「長谷川、午後の練習を切り上げ、この後の自主練に参加する連中に、寮で食事をさせろ。戸辺と原田は食ったあと、田中コーチと一緒にピッチングだ。お前ら、センバツの先発候補だってことを忘れるな。投球フォームと変化球を入念にチェックするんだぞ。杉浦は竹下先生と、来週予定している原西学院との練習試合について、打ち合わせとけ」
 次々と監督の指示が飛び、選手達は一斉に動き出す。
「監督」
 久志は思い切って声をかけると、小宮山監督の前に進んだ。
「オレ、浮ついてないっすよ」
 監督は意外なものでも見るような顔つきになって、いった。
「あのな、久志。わかっていると思うが、何も男女交際を禁止している訳じゃない」
「そういう意味じゃなくって」
「やめとけ。三浦という生徒は、お前がちょっかいを出していい、相手じゃない」
 久志は身構えた。さっきまで同級生のような気軽さでじゃれ合っていた、いつも一番身近にいるはずの監督が、やはり雪代について色々知っていて、自分と付き合うにふさわしくない、といっているのだ。
「ほら、さっさと寮に戻れ。お前は医者と相談してたてた、リハビリトレーニングを順守だ」
「はい」
   返事しながらも、苛立ちを覚えてならない。
「失礼します」
 帽子をとって一礼すると、落ちていたストッキングとソックスを拾い上げて、後ろポケットにねじ込み、グラブを持ってグラウンドを出たが、胸に怒りが込み上げてくる。
 いったんは、校内に植えられた木々の間を抜け、体育館の先にある寮へと向かったが、途中で思い直し、引き返すと、東校舎へ向かった。
 部活帰りの生徒達が久志の姿を認め、何か声をかけてきた。恐らくこの時間だと、サッカー部で同じ寮に暮らす顔見知りだったのかもしれないが、目も合わさず、適当に返事をしたのち、走り出す。
 右足に巻いたサポーターの重さにウンザリしながら、ようやくたどり着いた先には、何の明かりもなかった。近づいてガラス越しに目を凝らしたところで、中は暗く、もちろん人の姿もない。
 ホールのまわりをガラスにそって移動し、何とか雪代の絵が見える場所に立つ。
 暗い色に塗りつぶされたキャンバスの中に、絵筆を持って立つ彼女の姿が、まるで強い光に照らされ、浮き上がったかのように見える。
 芸術棟に幽霊が出るという噂が、かつてあったのを思い出し、それはこの絵を見た誰かが、勘違いしたのではないだろうかと、ふと思った。
 それぐらい仔細に渡って描き込まれた絵の中で、雪代は真っ直ぐに前を向いている。
 ――何が見える? なあ、雪代……教えてくれよ。
 身じろぎもせず、時が止まったかのように、久志は立ち尽くしていた。