ジーニアス・レッド 第四話 どうしてアタシなの?(2)

 机に広げていたのは、高次元ポアンカレ予想について書かれている本だ。トポロジーも面白いと最近になって思い始め、今日も教室に入ってからずっと、読みふけっている。
 雪代の周囲で静かなざわめきが起こっていても、気づかずに夢中で数式を追いかけていたが、突然大きな手が視界に飛び込んできて、ようやく彼女は現実の世界へと引き戻された。
「うっわー、何見てんだよ!」
 耳をつんざくような声の主に、横から本をのぞき込まれ、
「すっげえ」
と息がふきかけられるほどに、顔が近づく。
「全然読めねー。コレ、日本語じゃねえよ」
   机を挟んだ目の前で、
「久志、これが文字な訳ないだろう。数学、いや物理……かな?」
と眼鏡をかけた、見知らぬ背の高い生徒にたずねられた。
「コイツ、同じ野球部の杉浦」
   馴れ馴れしく雪代の脇で久志が笑っていい、彼女は交互に二人を見上げた。
 やたらとデカイ体格が並んでいて、どの生徒も着ている見慣れた詰め襟姿であっても、そんな二人に挟まれたら、圧倒されてしまう。おまけに久志も杉浦も丸刈りで、迫力満点だ。
「もう題名からして、わかんねーよ」
 顔を強張らせる雪代を押しのけるように身を乗り出すと、久志は勝手にページをめくり、騒ぎ出す。
「ひる、ひるつえ……ぶる?」
「ヒルツェブルフの指数定理。これは日本語だぞ、久志」
「杉浦、知ってんのコレ?」
「まさか。でも一見したところ、学校で使われてる参考書や教科書には見えないね」
 感心と驚きの混じった声で杉浦がいい、
「三浦だけだよ」
と、斜め向かいで弁当を広げていた他の生徒が、会話に加わってきた。
「いくら特理クラスだからって、もちろんオレも含めてだけど、そんな本、理解できないよ。三浦は授業中もずっと、そんなのばっかり読んでるけど、先生も含めて誰からも注意されないのは、それがどんな入試問題よりも難しいって、みんな知ってるからね」
 そういったのは梶原という男子生徒で、男女を問わず人気が高く、生徒会の副会長も務めるクラスきっての秀才だった。
 彼のそばで一緒に昼食をとっている数人の生徒も、
「ほんと理解不能」
と、含み笑いをした。
 ふうん、とだけいい、学食にでも行ったのか座る者のいない隣の席から、久志はイスを引き寄せると、両足でまたぎ、雪代の横で背もたれを抱え込むようにして座った。
 それを見て杉浦は、
「じゃ、オレは先に学食へ行ってるよ」
と、久志の肩を叩いた。
「ありがとな、杉浦」
「午後練に遅れんなよ」
「りょーかい」
 またね、と杉浦は固まったままの雪代へ親しく右手をあげると、隣で手を振る久志にうなづき、教室を出て行った。
「特進理系クラスって、東校舎の一番端にあるのな。まさか4階のこんな離れた場所だとは思わなくて、すっげえ探しちまったよ。結局、杉浦が案内してくれてさー、ようやくわかったよ」
 落ち着きなくズボンの後ろポケットを探り、久志はメタリックシルバーの携帯を取り出すと、雪代に突きつけた。
「ほらっ」
 得意げにいい、
「雪代も携帯!」
と折りたたまれた携帯をいそいそと開く。
「メルアド、交換する約束だろ」
 そんな約束してない、と雪代はいいたかったが、どうしても口が開かない。代わりに教室の前方から、からかいの声が飛んだ。
「仲田クン、ナンパ? それとも運命の出会い?」
 いったのは鈴木という、街でモデルにスカウトされるほど、評判の美少女だ。制服をきちんと校則どおりに着こなしつつ、高価な時計や靴、カバン、コートで全身を固める、見るからに裕福な家庭の娘だが、頭の回転も抜群に速かった。
 いつも大勢の生徒とつるんでいるうえ、さっき声をかけてきた梶原も含め、しつこいほど積極的に話しかけてくる点では、雪代がもっとも苦手としている人間の一人に違いない。
「運命の出会いだって! でも、三浦さん相手に?」
「なに、なに? どういうこと?」
と、鈴木のまわりで昼食を共にとっていた他の女子達が、興味津々とばかりに、身を乗り出す。
「今朝、理系1クラスの石井先生がいってたよ。昨日ね、三浦さんが寝てるのを、倒れてると勘違いして、仲田クンが助けに行ったんだって」
 石井といえば昨夜、部室やアトリエを使うなら部へ入れといい、雪代を年中うんざりさせている美術部顧問の糸井と一緒に、久志のあとを追いかけ、やって来た先生だ。
 そういえば見覚えのある顔だと思っていたが、隣の担任だとは思わなかった。
 口の軽い教師だ、と雪代が苦々しく思う横で、見ると久志も携帯を開いたまま首の後ろに手をやり、床を向いている。
 ――あ、怒ってる……。
 雪代はすぐに察したが、鈴木をはじめ、周囲の人間は久志が照れていると勘違いしたらしい。男子生徒も女子生徒も、その場に居合わせた者みんなが、調子を合わせるように、次々と口を開いた。
「でも仲田君は野球部で寮通いでしょ? 西校舎しか普段、姿を見かけないよね」
「たまたま通りがかったんだろうけど、倒れてる人を見たら、すぐ駆けつけちゃうなんてスゴイ」
「三浦さん、また補習サボってると思ったけど、芸術棟にいてラッキーだったってコト?」
「そんなこといったら、ホラ。学校中の女の子が仲田クンの前で倒れたフリしちゃうよ」
「ちょっと待て。オレだって誰か倒れてたら、助けに行くさ」
「あー! 梶原までそんなこといったら、大変」
「そう、そう。文系3クラスあたりの女の子が、みんな三浦さんの真似をする羽目になっちゃう」
「それって、バカっぽいねー」
「でも、あり得るって!」
「ホント、あり得る、あり得る!」
 教室を揺らすほどに大きな笑いがわき起こり、
「ねえ、仲田クンも、そう思うでしょ?」
と馴れ馴れしげに鈴木がいった途端、久志はガタンと音をたて、イスから立ち上がった。
 雪代の手をつかみ、あごをしゃくって無言のうちに教室を出ようと合図する。
「バカに付き合ってるヒマ、ねえっつうの」
 久志の乱暴な物言いに驚いたのは、雪代ひとりではなかった。途端に教室の中が、しんとした。
 腕を引かれ、久志と一緒に雪代は急いで教室を後にしたが、昼休みということもあり、廊下には大勢の生徒達が行き交っていた。その誰もが仲田の姿を目で追い、ついで雪代と見比べる。真っ直ぐ進んだ突き当たりを指差し、
「行って」
と彼女は久志にいった。
 端には階段があり、そこを昇りきると広い踊り場がある。屋上への出口があるが、普段は閉鎖されていて、誰も近寄らない場所だ。
 雪代はそれを知っていて、久志に手首をつかまれたまま、そこへたどり着くやいなや、大声で彼に噛みついた。
「バカ久志ッ」
「お、ようやく口きいてくれた」
 さっきの態度が嘘のように、彼は優しい口調に戻っていった。
 雪代がまともに久志の顔を正面から、しかもきちんと見たのは、この時が初めてだった。
 日に焼けて黒く、鼻筋のとおった高い鼻と、濃い眉。つり上がった大きい目は、きゅっと結ばれた唇とあいまって、気の強さが見てとれる。
 整った精悍(せいかん)な顔立ちに嫌でも異性を意識してしまい、雪代は下を向くと、つぶやいた。
「メルアド、絶対教えない」
「なんで?」
 彼の手を振り払い、それでも雪代の口からは、自然と言葉が突いて出た。
「理由なんて、ない」
「あるだろー、絶対。それに、あんな奴らと一緒じゃ、毎日つまんなくね?」
「それと、どういう関係があるのか、わかんない」
「ほら、オレと二人っきりなら、いくらでもスラスラしゃべれるだろ?」
 眉間に深いシワを刻むと、雪代は上目遣いに久志を睨みつけた。
「雪代にはオレが必要ってコト」
「冗談、いわないで」
「わかんないなら、教えてやる!」
 次の瞬間、久志は彼女の腕を取り、
「行こう!」
といった。どこへ、と雪代が聞くのも待たず、彼はおかまいなしに大股で階段を下り始める。
 雪代の足はもつれ、ともすれば倒れそうになった。
「あー! 面倒くせえなっ」
 突然のことだった。いとも簡単にフワリと雪代の体は持ち上げられ、久志の肩へと乗せられていた。
 腰とお尻をつかまれ、走る彼の背中と地面を交互に見ながら、雪代は揺られに揺られ、目が回る。
「パ……パンツが……」
「押さえってっから、見えねえって!」
「でも、み、みんな、アタシ達を見てる」
「まあね!」
 彼女が懸命に、抗議の意味を含めて発した言葉を、久志は軽く受け流し、気にする様子もない。
(きっと、学校中の噂になる)
 まぶたを閉じ、担がれるままの雪代がたどり着いたのは、野球部のグラウンドだった。
 バックネットの前で、ようやく肩から降ろされると、彼女はヘナヘナと地べたへ座り込んだ。そんな雪代を尻目に、久志はすっくと両足を広げ、何かを見定めるように、遠くを眺めている。
 「何するつもり?」
 遠い視線の先に同じく目をやり、雪代がたずねると、彼はベンチに向かった。
 学生服の上着を脱いで、シャツの両袖をまくると、大きな木の箱をベンチの下から運び出してきた。中にはいくつものボールが隙間なく収められており、汚れてはいても、丁寧に扱われているのがわかる。
 雪代も絵の道具だけは雑然と置かず、使い終えたら決められた場所にきちんと整えるのが習慣となっている。それだけに野球部の物を大切に、機能的に使う姿勢を垣間見て、共感を覚えた。
 そこに所属する久志が好ましく、信頼できる人に思える。そんな雪代の心を知ってか、知らずか、久志はニッコリと彼女に振り返り、いった。
「見てろよ」
 ボールをひとつ手に取り、ぽーんと宙に一回放ったあと、右手にきつく、彼は握り直す。
 そして雪代に背を向け、足を広げたかと思うと、広い外野に向かって振りかぶった。
 上体をそらし、全身を使って彼の右腕が後方へ大きくしなったかと思うと、それこそゴウッという音をたてて、勢い良く地面へと振り下ろされる。瞬間、球は久志の指を離れ、一直線に飛んでいった。
 無意識のうちに雪代は立ち上がり、遥か向こうのフェンスを見た。
 瞬きをするのと同じくらい、ほんの少しの間をおいて、ガシャン、と球があたり、金網の揺れる音が、ほんのかすかに、しかしはっきりと彼女の耳に届いた。
「見たか?」
 久志がいい、雪代は呆然と遠くに転がる、小さな小さな白球を眺めながら、うなづいた。
「ほとんど山にならないで、真っ直ぐ行ったろ?」
 再び彼女が首を縦に振り、彼は早口になって言葉を継ぐ。
「センター後方、外野フェンスまで115メートルある。球速だって、150を超えてたハズ」
 野球に疎い雪代が、久志の話している言葉の意味を、正確に理解できるはずもなかった。
「……久志」
 それでも彼女は、確かに感じとることができた。
「なに?」
「どうしてアタシなの?」
「どうして?」
 いちいち質問を繰り返す彼に、必死でいい返す。
「なんで、こんなことをしてみせるの?」
「確かに。こんな全力投球、やたら滅多には、やらねーな」
 久志は膝に手を置き、身をかがめて、彼女と同じ目の高さになると、「わかるだろ」と低い声でいった。
「世の中なんて、バカばっか」
 でも、と彼は真面目な表情(かお)になる。
「オレとオマエだけは違う」
 そうだろ? と首をかたむける目の前の彼は、仲田久志でない、別の人間に見えた。自分ではない他の誰かを前に、もし彼が同じセリフを吐いたとして、恐らく誰もが聞き間違えたと思うだろう。
(でも……)
 そっと手を伸ばし、目の前の長く太い指に雪代は触れた。そんな彼女の手を捕らえ、久志はギュッと力を込めて握り返してくる。
「痛い」
 彼女が顔をしかめて告げると、面白がって顔いっぱいに久志は笑みを浮かべた。
「雪代、オマエは天才だよ」
「天才……」
「オレは?」
「久志? 久志は……」
「オレも天才だ。野球をやらせたら、誰にも負けない。雪代もだ。雪代の絵は、スゴイ」
「見たこと、ないクセに」
「見たよ」
 頬を赤らめ、雪代は激しく首を左右に振った。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響くのを聞きながら、冬にしては暖かい日だまりの中で、自分の手を握る久志の熱い体温を感じ取り、目の前がクラクラする。
 ――そういえば……。
 思い出し、カドミウムレッド、と雪代は小さくつぶやいた。
「何か、いった? よく聞こえなかった」
 久志に問われ、「赤」と短く答え、彼女はいった。
「絵の具のこと」
「ふうん。今日も残って絵を描くの?」
 たぶん、と曖昧にいい、久志の手を振りほどくと、雪代は教室へと駈けだした。
「メルアド、教えろよなー!」
 夕方また、あそこに寄るから、と背後から彼の声を聞いたが、雪代はもう、振り返りもしなかった。