ジーニアス・レッド 第三話 どうしてアタシなの?(1)

 玄関を開けると、外はようやく昇り始めた太陽によって、空が美しい色に染まっていた。
 まだ寝ている両親を起こさぬよう、そっとドアを閉め、バス停に向かう。朝食はもう何年も食べないのが習慣になっていた。
 カバンではなく、作業服と上履きが入った大きな紙袋を持ち、ブカブカなジャンパーを羽織った格好で、さっさと家を後にすると、いつも通りのバスで駅へ向かい、電車に乗り換える。混む時間帯にはまだ少し早かったが、それでも雪代はかなりの人から露骨な視線を向けられた。何度も袖をたくし上げながら、どれだけこのウィンドブレーカーはでかいんだ、と彼女自身は大して気にもしない。
 雪代は大体において、他人の視線に無頓着な|性質《たち》だった。だから人々が背中にある「東光第一高等学校」のロゴに目をとめ、左胸にある、桜の花にペンをあしらった校章のワッペンや、何よりも左袖にある「仲田久志」と刺繍された名前に釘付けなのも、気づかない。
 この女の子は熱心な彼のファンなのだろうか。それにしてもこんなに大きく、サイズも合わないジャンパーは、仲田本人のものではないだろうか。そう思い、雪代の顔を盗み見る人は案外多かった。
 やせすぎてはいるが、ほっそりとした顔立ちに、パッチリとした二重、大きな茶色味を帯びた瞳、何よりも肌が白く、化粧っ気のない頬は、自然と赤みを帯びていて、愛らしい。
 後ろでひとつに束ねただけの髪は染められておらず、その清楚な様子はいかにも名門、東光一高の生徒らしかった。
 ――仲田の彼女かもしれない。
 そう結論づけて、職場で、もしくは学校で、みんなに話してやろうと内心ほくそ笑み、やはり世の中というものは美男美女で結ばれるもんなんだ、と少し妬んでみたりもする。
 そうした人々の思惑や気配、周囲の様子といったものを、全くといっていいほど、雪代は察しなかった。
 彼女は学校でもどこでも、ほとんど人と口をきかない。
 たびたび痴漢にあったが、一度も声を上げたことがなく、助けを求めたこともなかった。何とかして逃げるだけだ。
 やがて電車を降り、歩いて高校に向かうのだが、彼女は昇降口で、毎朝のように鍵を解錠する中年の男性と顔を合わせるだろう。しかも彼は必ずといっていいほど、雪代に「毎日早いね」と声をかけるが、彼女は何も答えないし、挨拶さえもしない。
 絵を描いている時間を除けば、頭の中にはいつだって限りない数字が広がっている。つまるところ、雪代は数式と絵画の世界にしか、生きられなかった。
 0より大きい無数のn、素数のp、そして自然数のnが様々に組み合わさり、大きさを変えていく。その世界に没頭し、それ以外、何も考えられなくなってしまうのだ。それが彼女にとっては普通だった。
 ところがその日に限って、どうもいつもと様子が違う。
 たどりついたいつもの駅で、普段なら改札を抜けると延々フェルマーの問題を考え続けるはずが、学校が近づくにつれて、別のことに気を取られている自分がいる。
 普段とは違う格好をしているせいかもしれない、と雪代は歩きながらうつむき、膝まで伸びる、黒いウィンドブレーカーを眺めた。
(仲田久志……)
 東校舎や、音楽室と美術室がメインの芸術棟、このどちらかにしか行かない雪代は、西校舎、しかもスポーツコースに、全く馴染みがない。
 ――このブレーカーを返さなくちゃいけない。でも、いっそのこと知らぬフリをして、黙っていようか。
 どうしよう、と背中に嫌な汗がにじむ。
 駅前の商店街や住宅地を抜けると、背の高い木々に囲まれた高校の校舎が現れる。その敷地にそってフェンスがあり、それがやがて白い無機質な塀になると、正門が見た。
 そこから中に入ると西校舎や運動場には近いが、東校舎へ通う雪代にとっては遠くて不便である。もう少し歩いた裏の通用口へと回り、階段を上がる。
 青い芝生に、整然と木々が植えられた場所へと出るが、冬場は草も葉も枯れ、どうにもうら寂しい雰囲気だ。その中にある石造りのスロープを通り、上がって行く。
 立派な吹き抜けの玄関ホールがある建物があり、学生課や教務課へ繋がるその入口は、どういう訳か、久志と昨夜、一緒に出ることとなった場所だ。
 そこを過ぎて奥に回り込むと、特進理系クラスの生徒が通う教室の昇降口がある。その日も雪代が向かうと、頭の髪をきちんと七三になでつけたスーツ姿の初老の男性が、いつものように内側から鍵を開けていた。
「大き過ぎやしないかい」
 ドアを開き彼女を中に入れると、その男性はそういった。まるでサッカーのベンチコートだね、といい、何も答えない雪代を置いて、さっさと違う昇降口へ向かい、去って行く。
 それを見送って、彼女はローファーをうわばきに履き替えると、長い廊下を右へ左へ曲がり、隣の芸術棟一階にあるアトリエに向かう。
 ガラスに囲まれたその場所は広く、半分は美術の授業で石膏像を鉛筆で模写している生徒達のイーゼルがならび、もう半分にはバラの花が飾られたテーブルを囲むように、美術部のメンバーの絵が点在していた。
 その端である壁際には、一際(ひときわ)たくさんの道具が置かれ、100号を越える大きさのキャンバスがあった。雪代の定位置だ。
 横には鏡もあり、本来ならば授業で自画像を描くために必要な道具のはずだが、彼女の占有物と化していた。その鏡の裏で、雪代はツナギを制服の上に着込む。そうなるともう、絵を描くこと以外、頭から消えてなくなっていた。
 チャイムが鳴るまでの時間を、ほとんど描きかけの絵と鏡を見比べることに使い、時々思い出したように絵の具を筆やナイフに乗せ、キャンバスへとなすりつける。
 キャンバスに描かれた頬の、乾いた肌色の部分に小さく赤い色を置き、指でなそって広げながら、雪代はカドミウムレッドがもう残っていないことに気がついた。
 前々から買わなくてはいけないと思っていたが、とても高価な絵の具だということもあり、放っておいたのだった。
 絵の具が彩度に従って規則的に置かれ、固まり、いかにも使い込んだ風となったパレットに目をとめたまま動けないでいたが、雪代はやがて立ち上がると、アトリエの奥にある扉へ向かった。
 ドアを開くと中は倉庫だが、半分は美術部が部室がわりに使っていて、ロッカーもある。そのひとつを開けると、昨日は気が動転した余り、一晩ここに置き忘れてしまったカバンの中から携帯電話を取りだした。
 真っ先にメールを開き、チェックする。ブラインドが閉じられ、電気も点けていない暗い部屋の中、表示される受信メールのアドレスに目を走らせていた時だった。
「雪代ー、いんのかー?」 と、遠くに声がし、続いてガラスを叩く音も聞こえてくる。
 慌てて携帯を手にしたまま倉庫を出ると、野球部のユニフォーム姿が目に入った。
(久志!)
 ガラスの外からアトリエの床を指差し、「ねえねえ、それ返して」と何がおかしいのか、満面の笑みをその顔に浮かべ、騒いでいる。
「裏に回って!」
 雪代はガラスを挟んで彼にいい、下に放りっぱなしだった久志の上着を持って、階段の脇にある非常口へと走った。
「すげえ! こんな早くから、やっぱ来てた!」
 鍵を開けてドアを開くと、同じように走り寄ってきた久志が大きな声でいった。
「なんだよ、反対側に出入り口があるじゃんか」
「普段は締め切ったまんま」
「じゃあ、やっぱこっからは帰れないんか」
 うなづき、雪代は彼に向かってグイッとウィンドブレーカーを突き出した。
「コレ、コレ! 冬はやっぱコレ着てねーと、イマイチ汗も出ないし、体あったまんねー」
 受け取ったその場でウィンドブレーカーを羽織り、雪代の手元に目をとめた久志は、
「携帯発見! なあ、メルアド交換しようぜ」
と弾んだ声でいい、雪代は顔を強張らせた。
「後で雪代のクラスに行く!」
 じゃあな、と右手を上げたかと思うと、あっという間に久志は走り去ってしまった。
 ――クラスに来るって……。
 呆然としながら、2月の冷たい風に身震いをした。持っていた携帯を雪代が胸元で強く握り締めると、メールを表示する画面は汚れた手に赤く染まる。それはカドミウムレッドを通して、ちかちかと光っていた。