ジーニアス・レッド 第三十五話 大人になるということ(3)

「嬉しい。今迄で、一番幸せな誕生日」
 布団へ寝転がり、枕を胸に、雪代は喜んだ。
「子供みてーだな。達也と遊んでやってんじゃなく、アイツに遊んでもらってんだろ」
「うん。お母さんに幼くて、情けないって、いわれた」
「お母さん?」
 顔をしかめた久志から、訊き返される。
「あたしの、本当のお母さん」
 さっき電話した、と枕を横に置き、彼女はお腹の上で両手を組むと、天井を仰ぐ。
「結婚のこと、きちんと報告した」
「エライな」
 隣の布団へ寝転んで、腕を枕に、彼も天井を見る。
「お母さん、あたしが安心して絵を描ける場所に落ちついたって、泣いてた」
「そっか。近いうち、三浦の家にも挨拶へ行かなきゃな」
「その前に、大人になりたい。お母さんに情けないって、いわれないよう」
 久志は腕を伸ばし、彼女の髪に触った。
「無理すんな。今のままで十分だよ。球団事務所で、『あたし、野球に興味ありません』って、いってみせたのは、ケッサクだったな。以前のオマエだったら、黙っちゃうトコだろ」
「久志は大人になった」
 雪代がいい、髪を撫でる彼の手も止まる。
「服飾メーカーのテレビコマーシャルに出たり、女性誌のグラビアを飾ったり。野球選手らしくない仕事だって、きちんと引き受けてる。インタビューも丁寧な口調でそつ無くこなすし、外見も黒髪、短髪でさわやか。着ている服まで格好いい」
「よく知ってんな。テレビも新聞も見ないクセに」
「お母さんが久志のことは、何でもチェックしてる。だから嫌でもあたしの耳に入る」
「外でのオレは、人が望む姿を演じるのが上手いんだ。服だって、スタイリストが選んだのを、いわれるままに着てるだけ」
 それでいい、と久志はつぶやいた。
「注目されれば、たくさんの人が球場へ来てくれる。野球を思うままやるには、それなりの環境が必要なんだ。ファンが多ければ、多いほど、球団はチームのために金を使ってくれるし、選手もやる気になって、どんどんプレーが上達する。みんな野球が楽しくなる」
 小さく笑い、体を起こした彼が、雪代の額に、唇を落とす。
「オレは野球しか能のない、ガキだよ。雪代の前じゃ、口はワりいし、ちょっとしたことで恥ずかしがったり、怒ったり。偉そうにしたがるクセに、けっこう涙もろいし」
「よくわかってるね」
 久志に額を指で弾かれ、
「いたっ」
と、目をつぶった彼女は、肩をすくめる。
「雪代のそばにいると、ホッとする。いちいちカッコつけなくてイイもんな」
と、彼は柔らかい眼差しになって、雪代を見下ろした。
「それに雪代は、絵を描いてる時、真剣そのものだろ。それこそキツイんじゃねえかって、思うんだ。誰に指導を受けるワケでもなく、好き勝手やれんのに、あんだけ集中して、ひとつのことを続けんのはさ。札幌で朝から晩まで描いてるオマエを目(ま)の当たりにして、ちょっとビビッたし、オレも頑張んなきゃなって、すっげー気合いが入った」
「野球が好きだから頑張れる、久志と同じ。あたしも絵が好きだから、頑張れる」
「だよな。好きだから、やり通せる」
 深くうなずき、起きあがった久志は、肩越しに微笑んだ。
「そろそろ寝るぞ」
 突然伸びてきた彼の手が、雪代の右胸を触った。金縛りにあったように動けなくなる彼女の腹へと、そのまま指先を滑らせ、動きを止める。
「お袋のいったコトなんか、気にすんな」
 固い表情の彼と見つめ合い、雪代は気が付いた。久志が指を置いたのは、ナイフで刺された傷の跡が残る場所だった。
「おやすみ」
 顔を背けて短くいい、立ち上がった彼が電気を消すと、部屋も暗くなる。北海道の昼間より暖かい静岡の夜は、どこまでも静かだった。
 布団へもぐり込んだ久志の大きな背中を、雪代は見つめる。
 大学に通っていた頃、関東へ遠征中の彼が、東京のアパートへ雪代を訪ねてきたことがあった。寝食も忘れて絵を描いていた彼女の、醜く痩せた異様な姿を見ても、久志は決して驚かなかった。大学を辞めて、静岡へ戻るよう、いっただけだ。
 たった一人で絵を描き続け、孤独の中で彼女が目指すものは、あまりにも曖昧で、言葉では表せないし、数字にも、お金にも、換算できない。それでも朝から晩まで、決して妥協することなく、キャンバスに向かう雪代の世界を理解できるのは、久志ひとりだ。
「あたしが描いた絵は、久志との間にできた、子供なのかも」
 布団にくるまりながら、そっと彼にいった。
「突然どうしたんだよ」
 寝返りを打ち、雪代へ顔を向けた久志は、苦笑いをした。
「たくさん助けてもらった。だから描くことができた」
「お互い様だろ。オレも雪代には、たくさん助けてもらったよ」
 プロ野球選手は、一種の事業主だ。全ては契約を通して、社会と繋がっている。
 所属球団はもちろん、グローブなどの道具を提供してくれるスポーツ用品メーカーや、広告やテレビ出演といった野球以外の活動を管理してくれるマネージメント会社、契約更改に同席してくれる代理人と呼ばれる弁護士、個人的に指導をしてくれるトレーナーやスポーツドクターといった、様々な会社や個人と契約を結び、選手達は日々を送っている。
 選手個人で対応するには複雑で、手間のかかる部分もあり、久志は手に余ると、必ず雪代を頼ってきた。自身の暮らしには無頓着だが、様々な分野を調べ尽くし、知識をためこむのが得意な彼女は、相談相手として強い味方に成り得る。
 本来なら外には出ない球団スコアラーのデータを雪代へ渡し、配球についてアドバイスを求めてきたこともあった。実際には試合の流れに左右される部分が多く、あくまでも参考程度にしかならないが、彼女がゲーム理論を駆使して立てたバッター対策は、それなりに効果があったらしい。バッテリーを組む正捕手のベテラン選手から、どうやって手に入れたデータなのか不思議がられたと、久志から聞いている。
「あたしみたいな変わり者でも、役にたてる」
「いっただろ。役に立つ、立たないじゃなくて、オマエといると、楽なんだよ。雪代のことを一番わかってるのはオレで、オレのことを一番わかってるのも雪代だろ。そうでなきゃ、一緒になんか暮らせねえよ」
「うん。あたしも久志のそばにいると、楽しい」
 彼が腕を伸ばしてきて、雪代の鼻先をくすぐる。声をひそめて笑いながら、その手をつかまえ、彼女は頬を寄せた。
「相変わらず、きれい。久志の手」
 爪切りは使わず、やすりで手入れをし、クリームも塗っている。久志にいわせると、指の状態をベストに保てなければ、投球も乱れるということらしかった。
「雪代」
 彼女は頭をずらし、ぎゅっと手を握り返してくる久志に、目を向ける。
「面白い話をしてやろうか」
「なに?」
 高校に入ったばっかの時、と久志は話を始めた。
「上級生達から目の敵(かたき)にされた。監督の小宮山はオレを軸にチームを作って、甲子園を目指そうとしたんだ。入学した時から、オレにはレギュラーの座が、約束されてた。そんなオレの存在が面白くなかったんだろうな。細すぎるって、メシは20杯も食わされるし、夜中に寮の裏へ呼び出されて、スクワットは延々とやらされるし」
 雪代は黙って耳を澄ます。
「そんなことがあった次の日の授業中、落としたシャーペンを拾おうとして、気がつくと教室の天井を見てたんだ。スクワットはかなり長い時間やらされたんだけど、上級生達のほうが先に根を上げちまって、オレは部屋へ帰ることができたんだ。出し抜いてやったって、バカみたいに勝ち誇ってたのにさ。運ばれた保健室のベッドで、倒れた自分の弱さを恨んだよ」
 淡々と久志が話を続ける中、外で風のうなる音がした。雨戸が一瞬だけガタガタと揺れ、再び静寂が訪れる。
「また上級生にしごかれたら、ケガをしたら、野球ができなくなったらと、不安がどんどん広がってって、すっげえ落ち込んだ。そしたらさ、ハッキリと聞こえたワケじゃねーけど、泣き声がしたんだ。カーテンを挟んで、隣のベッドに寝てるヤツだった。つられて、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにするまで、泣いちまったよ」
 お蔭で気分がせいせいとした、と苦い笑い声が混じる。
「単純だろ? 泣き終わったあと、カーテン越しにソイツへ声をかけたんだ。大丈夫か? って。向こうも気まずかったんだろうな。最初は返事がなくってさ。もう一度、訊いたんだ。大丈夫か、って。そしたら、うん、って返事があった。たったそんだけなのに、その小さい、女の声が、めちゃめちゃ印象に残って、忘れらんなくなった。初恋ってヤツだよ。顔も知らねーヤツ相手に」
 息が詰まるほど驚く雪代に、視線を投げて寄こし、彼は口の端を上げてみせた。
「それからのオレは、どんなイジメにもめげなくなったんだけど、困ったことに、カーテンに遮られて、姿を見るはずも無かった女の子と、なぜか夢の中で抱き合うようになった。男ってしょーもないよな。恋愛感情みたいなのが、思いっきり下半身と直結してんだ」
 仰向けになった久志は、もう一方の手を頭へやり、恥ずかしさを紛らわすように、前髪をかき上げた。
「それ以来、頭ん中でその子相手にエッチなコトしまくった。顔はぼんやりしてんのに、胸やアソコはハッキリと想像できんだ。すっげえ後ろめたかったよ。だってさ、泣いてたんだぜ? 顔も知らない、そんな相手を犯しまくって、サイテーだよな」
 だから走った、と彼がため息混じりにいい、雪代も長い息を吐く。
「走って、走って、走りまくった。疲れたら、ぐっすり眠るだけ。そうしてる内に、やましさも薄れてきてさ」
 今度は雪代に会っちまった、と低い声で告げられ、気まずい沈黙が流れた。
 シーズンオフに二人は静岡の実家で必ず顔を合わせ、時にシーズン中、雪代が東京や大阪へ出かけ、久志に会ったこともある。いつだって外で食事を共にし、おしゃべりをするだけで、せいぜいキスを交わすくらいがやっとだった。札幌へ雪代が引っ越したあとも、寝室は別で、体を重ねたことなどない。
「杉浦が心配してたんだよな」
 戸惑う彼女を尻目に、久志はいった。
「いつ爆発するかわからないんだから、走ってごまかすなっていったんだ、アイツ」
「どうして、そんなに自分を抑える?」
「我慢することに、馴れてるっつうか、我慢を、我慢とも思わねえタチだから。それにさ、褒められたい、認められたいって気持ちが、人一倍強いんだろうな」
「完璧主義で、優等生の久志」
「ただ単に、負けず嫌いともいう」
「子供みたい」
 彼は吹き出し、布団の端をめくると、笑いながら雪代の手を引っ張った。
「コッチ、来いよ」
「うん」
 素直に久志の布団へ入り、大きな胸に顔を埋めて、彼女は目を閉じる。
「あたし、痛くて、苦しくて、セックスなんて、大嫌い。でもきっとそれは、好きでもない人としたからだと思う」
「オレとだったら、違う?」
「わかんない。久志は、どう思う?」
「オレにもわかんねーな」
「明日、トレーニングなんだよね」
「それを気にして、お袋の部屋で寝ようとした?」
「久志だって、寝る部屋を、別にしたそうだった」
「それはさ、栗原のカノジョに、セックスをしても何も変わんねえって、雪代がいったからだよ」
 雪代は呆然とした。あれから長い時間が経つが、もちろん覚えていた。
 久志と雪代が抱える複雑な事情など、おかまいなしにぶつけられた、ひどい質問に対する答えだった。怒りや軽蔑をも含めて、いったことだ。
「それを聞いて、オレまで思ったんだ。やったところで、どうなるワケでもない。生理もないし、子供もできない。そういう女と、気持ち良くなることだけを目的に抱き合うなんて、あんまカッコ良くねえって」
 違う、あれは、と顔を上げた雪代の唇が乱暴に奪われ、息つく暇もなく口をふさがれた。
「きちんと責任を持ちたかった。大切な初恋の相手で、守ってやんなきゃ消えちまうかもしれない、本当に危(あや)うい女なんだ」
 長いキスのあと、ようやく顔を離した彼は、本気で怒っていた。
「それぐらい大切に思ってるって、わかんねえの?」
 暗い部屋の中で雪代にまたがり、真っ直ぐ彼女を見つめる久志の瞳が、迷い、揺れていた。雪代は小さな、くぐもった声を出した。
「知ってる。そんなこと、前から知ってる」
 久志にそっと頬を撫でられ、彼女は自分が泣いていることに気づいた。
 ――一緒に大人になろう。
 そう約束を交わした、あの日、雨上がりの朝焼けに向かい、手の平をかざした。赤い血が透けて見え、生きていることを実感し、久志と出会えたことに感謝した。
「初めて、恋をした。彼に好きっていったら、好きって返事をしてくれた」
 打って変わって、優しく雪代の頬に口付けると、久志は体を大きく離し、天井を仰ぎながら、深呼吸をする。
「大人にして欲しい。まだ大切なことを知らない、子供のあたしを」
 再び下を向いた久志と目が合い、
「やせ我慢も、ここで終わりだな」
と、穏やかに告げられた。
「一緒に、大人になろう」
 彼が笑っていい、二人は再び唇を重ねた。
 外で木枯らしの舞う音がする。雪代と久志は布団の中で、体を温め合った。
 天から授かった才能を生かす道しか歩けない不器用な二人が、人間らしい営みに深く安堵した夜だった。