ジーニアス・レッド 最終話 そして世界は赤く染まる

 マウンドで身を屈め、キャッチャーのサインに目を凝らす。守備に着く前、打ちあわせた通りのストレートだった。
(プロって、やっぱスゲエ。オレが望んだコトとはいえ、よく付き合ってくれるよな)
 思わず口元が緩むのをこらえ、久志は体を起こすと、グラブにボールを収める。
 9回を迎えた最後の攻撃で、相手チームは代打を出してきた。抑えればラストバッターとなる、かつて4番も務めていたベテラン選手は、打席に立つだけで、息も詰まるようなプレッシャーをかけてくる。
(見送ったのは、たまたまなのか、見えてんのか。とにかく、速さが足んねえってコトだよな)
 初球を見送り、2球目を空振りした彼は、バットを短く握り直し、当てにきていた。3球目と4球目を再び見送り、5球目に彼がカットしたボールは、ファールとなっている。そして6球目は再度、見送った。
(直球に的を絞ってんだ、きっと)
 バッテリーを組む捕手は、それでもミットを前へ突き出し、悠然とかまえていた。対戦相手のバッターに負けず劣らずプロとして活躍し、選手生活も10年を超えている、やはりベテランだ。
(フツーは変化球を要求してくるだろ。長い間プロでやってるヤツは違うよ!)
 9回を迎えたここまで、味方の守備にエラーはなく、久志は一本のヒットも許していない。しかも今はツーストライク、スリーボール、ツーアウトの、フルカウントだ。
 走者はいないが、四死球さえ出していない久志にとって、次の球で全てが決める。
 ―― 一度でいいから、親父と同じことを、したかった。
 左足を地面から離し、右腕を大きく後ろへ引いた。左足で再びマウンドを踏み締め、体をひねり、腕を振り下ろす。
 一直線にホームベースへと向かっていく、指から放たれた白球は、久志が思い描いた通りのものだった。
 ――今のオレになら、わかるよ。
 練習段階ではコントロールが定まらず、実戦への投入は見送っていた。それを今ここで投げてみせるのは、7点差もある試合だからこそで、賭けでも何でもない。
 公式戦で試みるには、いい機会だった。それだけのことだ。
 ――投げたい球を投げるってのは、すっげえ気持ちイイじゃねえか。なあ、親父!
 キャッチャーミットに球が吸い込まれ、バッターが空振りした瞬間、球場がしんとなり、すぐに割れるような大歓声が巻き起こった。
 キャッチャーがマスクを放り投げて、マウンドに駆け寄ってくる。内野手や外野手達も走って来て、久志を取り囲んだ時、笑顔の彼に向けて、観客が一人、また一人と立ち上がり、手を叩いた。
 スタンディングオーべーションの嵐に包まれる球場で、味方チームのベンチも、相手チームのベンチも、グラウンドにいる誰もが、惜しみない拍手を久志に贈る。
(親父、見ているか?)
 久志は帽子をとって高く掲げると、スタンドをゆっくりと見回した。
 ――あんたに近づきたくて、記録がかかった大一番だからこそ、あんたのマネをしたんだ。
 野球の神様に惚れ込まれ、連れていかれた父が残したものは、とてつもなく大きかった。それをジーニアス・レッド、天才の赤、と表現したのは、雪代だ。
 ――オレの体を流れる、非凡な血。
 天を仰ぐ目に涙がにじみ、彼はそれをアンダーの袖で拭い去ると、胸に手をやった。
 雪代、と心の中で呼びかけた。
 ――ちゃんとオレの絵を描いてるか?
 やがて久志も老い衰え、現役を退く時が来るが、彼の投げる姿は、きっと彼女が描く絵の中で永遠に生き続けるだろう。だからこそ久志はマウンドに立つのだ。
 ――オレの一番輝いている姿を、オマエに見せてやる。
 燃え尽きるのは、まだ先だ。雪代はこれからも彼の絵を、たくさん描くことになる。
 ユニフォームの下で揺れる指輪の感触を確かめ、久志はそっと目を閉じた。
 ――オレは、野球が好きだ。きっと、もっと好きになる。そして、もっと、もっと雪代を好きになる。



 脚立に乗り、壁に立てかけた巨大なキャンバスの、特に厚く絵の具が載せられた部分を触る。
(大丈夫。十分に乾燥してる)
 雪代はコリンスキーセーブルの筆を持ち、つやを出すためのルツーセでピーチブラックを溶くと、薄く画面に塗り重ね、仕上げの陰影を描き込んだ。
 ユニフォームに身を包んだ久志の、鮮やかな投球フォームが、くっきりとキャンバスの上に浮かび上がる。
(本物はもっと、素晴らしい)
 試合開始前に、雪代はグラウンドへ入ることが許され、大勢の選手や関係者が彼女に好奇の目を向ける中、久志の投げる姿を直に見て、感じることができた。
 歯を食いしばり、全身の筋肉を余すところ無く使いこなす、その華麗なフォームは、高校の時よりさらに洗練され、力強かった。
(あたしはまだ、彼の全てを描き切れていない)
 脚立から床へ足を下ろし、少し離れた壁に寄りかかって、できあがったばかりの絵を眺める。
 うなずき、細いコリンスキーセーブルの筆に腕を伸ばしかけたところで、電話の鳴る音がした。
(誰だろう)
 アトリエとして使っている部屋を出ると、居間へ行き、受話器を取った。
「もしもし」
『雪代っ? どうして、そんな所にいるの! 早く球場へ行きなさいっ!』
 あまりの大きな声に、思わず電話から耳を離す。
(お母さん?)
 静岡に住む、久志の母からだった。
『久志が今夜の開幕戦で、完全試合をやってのけたのよ! 完全試合よ、わかるっ?』
 しかも、と息せき切って、彼女は一方的に話し続ける。
『最後のバッター相手に七球投げて、全部が球速150キロを超えるストレートだったうえ、最後の一球なんか、164キロよっ!』
 衛星放送で、久志が登板する試合をかかさずチェックしている母の声は、
『ひゃくろくじゅうよんきろっ!』
と、今まで聞いたこともない、極度の興奮に満ちていた。
『久志が憧れ続けた、160キロの壁を越えたのよ!』
 感極まって泣き出す彼女へ、何と答えたらいいのか、雪代には見当がつかない。
「ずっと練習では、160キロ台を出してたみたい」
と、ぽつりとこぼした途端、本当なの? と母から畳みかけるように訊かれた。
「ストライクに入らないって、久志が文句いってた」
『そんな球で完全試合を締めくくるなんて……』
 ほんと目立ちたがり屋なんだからっ! と、今度は怒り出す彼女をなだめる。
「明日の新聞が楽しみだね。一面に載るかも」
『当たり前よ! もともと開幕戦だし、あなたのダンナさんは球界でもイチニを争う、超人気選手ですからね。あっ、ヒーローインタビューが始まった! 一緒に聞く? 音を大きくしましょうか?』
「ううん、いい」
 久志が帰ってきたら電話するから、と苦笑いをしながら雪代はいい、電話を切った。
 居間を出て、元は雪代の寝室だったのが、久志と一緒に眠るようになって、今は野球の道具置き場と化している部屋を通り過ぎると、奥のアトリエに戻る。札幌へ越してきた当初から、絵が描けるようにと、久志が空けておいてくれた部屋だ。
 再び巨大なキャンバスの前に立ち、筆を手にする。
 絵全体を埋めるカドミウムレッドに合わせ、目立たないようスカーレットで、右下に小さく、
『N.Yukiyo』
と、サインを入れた。
(完成した)
 深く息をついた雪代は、絵を描く際に必ず着る青いツナギを脱ぎ、白いTシャツと紺のハーフパンツ姿となって、床に腰を下ろす。
 膝を抱えて、首を右へ左へ曲げながら、飽きもせず目の前の絵を見つめ続けた。
(次は何を描こう)
 ふと部屋の隅に置かれたままの、大きい姿見が視界に入った。自画像を描くため、真っ先に買いそろえたものだ。
 雪代は立ち上がり、鏡の前へ行くと、Tシャツとパンツを脱ぎ捨てて、誕生日に贈られた、赤い下着姿になる。
 ふっくらとした女らしい体型が、姿見を通して見えた。
 雪代は部屋の奥から木炭紙を持ってくると、床の上に広げ、今の自分を描き留める。
(自画像を描こう)
 海外で作品が展示される際、彼女独特の赤を使った画風は、
『It is called as Nakata's genius red. ナカタの非凡な赤と呼ばれる』
と、評されることが度々あった。
(下地は、カドミウムレッドがいい。これまでの暗い自画像とは、全く違うものにしたい)
 与えられた命と、体を流れる血に感謝する、自分を描くのだ。そうして新しい自画像を描き終えたら、また久志を描く。
 ――あたしも、久志も、変わっていく。
 壁に立てかけられた巨大な油絵と、木炭を使って描いたばかりの絵を見比べた。
 ――死ぬまで、あたしは彼を見続ける。どんなことがあっても、そばにいる。
 雪代は床へ寝転び、丸くなると、首にかけたチェーンの先にある指輪を握り締め、目を閉じた。
 ――あたしは、絵が好き。きっと、もっと好きになる。そして、もっと、もっと久志を好きになる。



 球場から飛び出した久志は車へ乗り込み、未だ熱気溢れるファン達が歩道でたわむれているのを横目に、雪代と暮らすマンションへと急いだ。
 部屋のカギを開け、中に入ったが、人の気配がない。そういう時は、一番奥の部屋をのぞくのが手っ取り早かった。
 予想通り雪代が床に横たわっていて、ため息を吐く。
 三月に入ったとはいえ、寒い日が続いていた。こんなところで寝るなと叱りたかったが、彼女の姿に体が熱くなる。
 雪代を抱きかかえ、寝室へ運ぶと、ベッドの上で彼女の肌に触れた。レースの肩ひもをずらし、現れた白く柔らかいふくらみに顔を埋める。
 すると涙が出てきて、止まらなくなった。
 とっくに目を覚ましていた雪代は、胸に顔を押し付けて泣く久志の髪を撫でた。
「起きてたのか」
 頭を持ち上げた彼に、笑いながらうなずいてみせると、久志の服に指を添え、そっと脱がす。身につけていたものを残らず取り払うと、二人は生まれたままの姿で抱き合った。
 雪代が喘ぎ、久志も荒く呼吸をする。繋がり、ベッドをきしませながら、体を揺らした。交わり続け、何度も全身に震えが走る。
「気持ちいい」
 彼女は口にした。
「いつまでも、こうしていたい」
 うわごとのように繰り返す雪代へ、
「いつまでも、こうしていよう」
と返事をし、久志はさらに激しく動く。
 彼と体を重ねながら、雪代は泣いた。何もかも承知している久志は、黙って彼女を抱き締める。
 二人はそろって、明け行く空を眺めた。燃えるような赤に包まれた太陽が、惜しみなく地上に光を注ぐ。世界はどこまでも明るく、まぶしく、美しかった。