ジーニアス・レッド 第三十四話 大人になるということ(2)

 入試と日程が重なったため、雪代は高校の卒業式に出席しなかった。行く予定もない大学のテストを受けたところで、大した意味もないが、部屋にこもりきりの彼女にとっては、いい息抜きになる。
 全ての試験が終了した時には、日も傾きかけ、肌寒さが増していた。一人で受験会場を後にし、佐々木のマンションへ戻りながら、雪代は数式を思い浮かべていた。
(π2/6 1/1-r=1+r2+r3……)
 オイラーの積算は、彼女が疲れ果てるまで、限りなく続いていく。これで終わりだ、と自分が納得するまで、延々と描き続けることができる油絵に、どこか似ていた。
(絵が描きたいな)
 スケッチブックに描き散らすのではなく、思う存分キャンバスに絵の具を乗せ、絵の世界に浸りたかった。
(もう体を傷つけたりしないって、約束して、静岡の家から画材を全部、送ってもらおう)
 新しい生活に向けた準備をしながら、再び絵を描き始めるのだ。
 進学すると決めた時点で、久志の母親が援助を申し出てくれたが、当座のお金に困っていない雪代は、断っている。大学へ通いながら、出来るところまで、何とか一人でやってみようと、固く決心していた。
 夕焼けを眺めながら、卒業証書をもらうべきか、どうか、悩んだ。これだけ遅い時間に行けば、学校も静かだろうし、大学の合否をうるさく聞いてくるクラスメートや先生達とも、さほど会話を交わす必要もないように思える。
 雪代は電車を乗り換え、学校へ向かった。校舎には入らず、事務局の窓口へ行き、卒業証書を取りに来たと告げた。
 しばらく待たされたが、黒い筒を渡され、あっけなく用事は済んでしまった。
(もう、ここに来ることもない)
 校舎の間を抜け、球を打つバットの金属音が響き渡る、野球部のグラウンドをのぞいた。白いユニフォームに身を包んだ部員達が、相変わらず元気なかけ声を発していた。
 彼らが春の選抜大会に出るかどうかさえ、雪代は知らない。久志を通してしか、彼女にとって野球は、縁のないものだった。
 グラウンドに背を向け、今度はアトリエへ足を伸ばした。置きっぱなしだった雪代の絵は、冬休み明けに久志が学校の寮を引き払うのと時を同じくして、静岡へ運ばれ、彼の実家に保管されている。
「雪代」
 暗い校舎の中をのぞき込んでいると、後ろから名前を呼ばれた。ゆっくりと振り向いた先に、詰め襟姿の大きな男子生徒が、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ、お馴染みの姿で立っている。
「久志……」
 答えると同時に、何かがぽーんと放られ、雪代は慌てて両手を出し、受け取った。
「オレのケータイの番号とメルアドが入ってる。ぜってー連絡して来い!」
 毎日だぞっ! と目の前で怒鳴られ、手元にある、赤色の携帯電話を見る。
「雨でダメになったあと、買い換えもしねーで、何やってんだよ。正月も静岡へ帰って来ねーし、オレもキャンプとかでガッコー行けねえから、イチイチ佐々木さんを通してしか連絡取れなくって、すっげえストレスだった」
「ごめん」
「今日も卒業式が終わったあと、ずっと待ってたんだ。オレは先発デビューの日が、もう決まってんだよっ。明日には千葉の寮から、北海道の合宿所へ行っちまうんだぞ! 当分、会えなくなるっつーのに、ドコでナニしてたんだっ!」
 ええと、と視線を宙に泳がせる雪代へ、
「オレ、もう行かなきゃなんね。球団の車が職員用の駐車場で、オレを待ってっから。ソコのアトリエにいたんだけどさ、もう戻るトコだった」
と、久志は腕を伸ばしてきた。
「すげえギリギリだった」
 抱き締められ、耳元で彼の声を聞き、雪代は目を閉じる。
「いいか。新しく住むトコが決まったら、必ず教えろ。きっと会いに行く」
 オレ負けねーから、と彼の体が離れた。
「雪代! 世の中バカばっかだけど、オレとオマエは違う」
 大バカだよ! と暗くなった中庭で、一歩一歩遠ざかりながら、彼は叫んだ。
「他にもっとマトモな相手がいそうなのにさっ、どうあっても離れらんねー! だから、オレのコト待ってろ! いつか必ず、プロで成功してみせっから。そしたら、オレの嫁になれっ!」
 じゃあな、と右手を挙げ、駆け出していった久志に、彼女も手を振って応えた。



 ――どうあっても離れられない。
 彼がいった、その言葉通りだった。
(あたしは、久志と結婚した)
 久志の元へ嫁いだ今でも、どこか信じられず、雪代は部屋でぼんやりとしていた。
 床の間まである、広い立派な客間だった。布団が二組敷かれた部屋の隅に、久志と雪代の持ち込んだ荷物が並んでいる。
 それらが見渡せる窓の下で、壁に寄りかかりながら、あの日渡された赤い携帯の画面を見ていた。久志の番号とメールアドレスの他に、一度もかけたことのない、別の番号が登録されている。
(もう十二時半……)
 遅い時間だったが、かけずにはいられなかった。発信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
 呼び出し音が8回鳴ったところで、
『もしもし。三浦です』
と、懐かしくも、厳しい声がした。
「……お母さん」
 何も返事はなかった。
「雪代、です」
 息が詰まりそうになりながら、必死で呼びかける。
『電話が……来るかもしれないと、思っていました』
 他人行儀な口調だったが、雪代にとっては当たり前だ。
「遅くに、ごめんなさい」
『結婚の報告、かしら』
 はい、と静かに電話口でうなずく。
「あたし、久志と結婚した」
『私は仲田久志さんと結婚しました、でしょう?』
 鋭く言葉の使い方を直され、口をつぐんだ。
『ニュースで仲田選手が、高校の頃から付き合っていた女性と結婚したと、報道されていたのを聞いて、あなたじゃないかと、お父さんとも話をしていました』
 どこから電話を? と訊かれ、
「静岡から」
と返答した途端、
『静岡の、久志さんのご実家です、ときちんといえないの? どこまで幼くて、情けないしゃべり方をするの、あなたは』
と、さらに言葉遣いをとがめられ、雪代の額に汗が浮かぶ。
「すみません。あたし……」
『高校を卒業して、どうしていたの?』
 いいかけて、先に質問をされた。
「大学へ……東大に入りました」
『そう。大学に通いながらの結婚ですか』
「いえ……大学は一年で中退して……」
『絵を、描いているのね?』
 矢継ぎ早に訊かれ、雪代も懸命に答える。
「はい。静岡の……久志さんのご実家で、お世話になっていました」
 お母さん、と携帯を強く、握り締めた。
「生んでくれて、ありがとう。お父さんにも伝えて下さい。今まで育ててくれて、ありがとうございました」
 電話を切ろうとして、
『雪代』
と、母はいった。
『絵が描ける……ようやく安心して絵が描ける場所へ、落ちついたのね』
 母の声に、泣いている気配が感じられた。
『どうか、お幸せに』
「ありがとうございます」
 最後はやはり、他人のようなよそよそしさだった。
 電話が切れ、階段のきしむ音がすると、雪代は目尻を拭った。
 部屋に入ってきた久志は、携帯を持ったまま膝を抱える雪代を見て、怪訝な顔をする。
「こんな遅くに電話?」
 首を縦に振って、
「久志の携帯……電源切ったままで、大丈夫?」
と、彼女は逆にたずねた。
「めんどくせ。明日まとめて返信するから、今日は無視する」
 ごろんと布団の上へ寝転がり、天井を見ながらあくびをした彼が、ふと顔を傾け、
「開けないの?」
と、布団の脇にある箱を指差す。皆から贈られた、誕生日のプレゼントだった。
 雪代は窓際を離れ、綺麗にラッピングされた箱に触れた。
「これは、お母さんから」
 包装紙とリボンを丁寧に取り外し、中から出てきたものを、久志に見せる。
「お料理の本」
「いいな、コレ。カロリーと栄養の表示があるじゃん」
 ページをめくる彼の横で、雪代はもうひとつの包みを開けた。
「これは、お兄ちゃんと香奈さんから」
 にこにこしながらフタを開けて、動きを止めた。
「なに?」
 身を乗り出した久志は、
「ええと……オレの目の保養に、ってコト?」
と、ぎこちなく笑った。
「何だかお袋もアニキ達も、雪代へのプレゼントというより、オレ向けって感じがすんなー」
 箱に収まっている絹の下着は、可愛らしい、肩ひもとパンツの裾が凝ったレースで飾られた、真っ赤なキャミソールとフレアパンツだった。そっとフタを元に戻す雪代の頬も、赤く染まる。
「オレからもプレゼントがあるよ」
 気まずさを打ち消すように、久志は立ち上がった。荷物の中から長細い包みを二つ取り出して、彼女に差し出した。
「久志から? 何だろう」
 リボンをほどき、中身がわかった雪代は、歓喜の声をあげた。
「コリンスキーセーブルッ!」
「欲しがってただろ? 消耗品だし、高いからもったいないって、買うのを迷ってたみたいだからさ」
 急いで袋から出した筆の数々を、興奮した雪代が夢中になって畳の上に並べると、久志は満足そうに笑った。
 コリンスキーセーブルとは、イタチのことだ。筆の中でもイタチ毛は高級品とされ、価格も尋常ではない。
「オイルで溶いた薄い絵の具を広げるのに、これ以上の筆はない。毛髪とか唇とかラインを描くのにも、一番いい」
 すっかり浮かれ気分の雪代へ、
「コッチが、まあ、ホントは大事っていうか、何ていうか」
と、久志はいい、もうひとつの包みを自らの手で開け、中の物を指でそっとつまみ上げた。
「オレも、オマエも、左手とはいえ、指にジャマなモン、つけらんねえから」
 ふわりと雪代の首にかけられたのは、細い銀のネックレスだった。チェーンに通されたリングが、胸元でキラキラと光っている。
(結婚指輪……)
 リングを手の平に乗せ、まじまじと見つめる彼女に、
「あんま形式的なコトには、こだわんねーオレ達だけど、コレぐらいはいいだろ」
と、照れ笑いを浮かべながら、久志はいった。
「久志のは?」
「もちろん、あるけど。あんま得意じゃねえんだよな。こういうのつけんの」
 腰を上げ、バッグの中から同じデザインのネックレスを持ってきて、雪代の前で揺らす。
「得意も何もない」
 久志へ笑いかけた彼女は、
「つけて」
と、嫌がる彼の手から、そっとネックレスを取り上げる。
 畳に膝を突き、背伸びをした雪代が、それを彼の首にかけると、久志もリングを手にして、照れくさそうに笑った。