ジーニアス・レッド 第三十三話 大人になるということ(1)

 ――おめでたいニュースです。日本ハムの仲田久志投手が本日、結婚したことを明らかにしました。
 テレビで流れるたびに、皆が喜び、久志を冷やかした。
 ――神奈川東光一高出身の仲田投手は、甲子園での力投が注目されプロ入りし、3年目の今季は日本一にも貢献した、人気選手です。
 アナウンサーの声をバックに、ユニフォーム姿の久志が映し出される。
「また、やってるよ」
 すごいなあ、と兄の克己はビール片手に、画面を指差しながら、感嘆の声をあげた。
「これは東光一高と長坂商の決勝戦で、久志が投げているところだね。まだまだ甲子園のイメージが強いのかな。あとは、この間の日本シリーズでインタビューに答えて、ファンに帽子を振っている映像も多いな」
「変な感じよね。本人がここにいるんだから」
 テーブルを片づける手を止め、居間の隅で寝そべっている久志に、母が視線を投げて寄こす。
「けっこー男前じゃん」
 テレビを観ながら、にやりと笑ってみせる久志へ、
「自分でいわないの!」
と、空になった皿を重ね、母は忙しく台所へと持って行った。
 ――球団広報の発表によると、お相手は高校時代の同級生で以前から交際しており、先週に寮を出た仲田投手と、すでに新居で生活を共にしているとのことです。
「女性ファンから雪代は妬まれるよ、間違いなく」
 自分のいったことに自分でうなずいてみせた克己は、
「それにしても、大きい扱いだなあ。結婚しただけで、こんな派手にニュースで取り上げられるんだから」
と、今度はつくづく感心したという口ぶりになって、久志を見る。
「そういえば、雪代ちゃんは?」
 義理の姉である香奈が、母と入れ違いに姿を現し、居間を見回す間、久志は克己に座布団を投げつけた。
 香奈とは、佐々木のことだ。
 彼女は久志と雪代が高校を卒業すると同時に、横浜のマンションを引き払い、克己と結婚していた。
 きっかけは、雪代を刺した松山の裁判だ。この裁判で雪代は、調書とは明らかに違う、被告である松山に有利な陳述書を出している。当然のごとく、原告側である検察から、大変な怒りを買った。調書を作成した佐々木に、非難が集中したらしい。
 もともと官僚としてエリートの道を歩むことに消極的だった佐々木にとっては、警察を辞める良い機会だった。今では行政書士の資格を取り、夫である克己と久志の実家である静岡の、この家に暮らしながら、ほど近い個人事務所で働いている。
「達也と仏間で遊んでいたはずだけど、やけに静かだな」
 笑いながら座布団を受け止めた克己は、香奈にいい、居間の奥にある仏間へと顔を向ける。
 久志は起きあがると、二人の様子を見に立ち上がった。
「寝ちゃってるよ」
 克己と香奈の息子である達也は、畳の上で雪代と向き合い、静かに寝息をたてていた。
「あら、本当?」
 慌ててやって来た香奈は、並んで眠る二人を見て、小さく笑った。
「達也ったら、雪代ちゃんにすっかり懐いているのよね。彼女が北海道へ行ってから、毎日のように『ゆきおはどこ?』って、聞かれたわ」
 幼い達也は舌足らずな可愛い声で、雪代のことを『ゆきお』と呼ぶ。
 午後3時の便で札幌を発った久志と雪代は、夜の8時頃、ようやく静岡の家に到着した。しばらくは遠巻きに二人を見ていた達也だったが、すぐに馴れ、あとはずっと雪代にまとわりついていた。
「一年で、ずいぶんと大きくなったな」
 しばらくぶりに帰ってきた久志は、2歳になる成長した甥の寝顔に目を細める。
「よく食べるし、体も丈夫なの。将来は久志君のように、プロ野球選手を目指すかもね」
 片目をつぶってみせて、小さな達也の体を抱きかかえた香奈は、
「部屋で寝かせてくるわね。久志君は雪代ちゃんを起こしてあげて。こんなところで寝ていたら、風邪をひくわ」
と、いい置き、仏間を出て行った。
「あら、達也ったら眠っちゃったの。もう十二時だものね。子供には耐えられなかったんだわ」
 居間から母の声がして、久志は笑いながら、
「ここにも、もう一人子供がいるよ」
と、雪代の体を揺らした。
「ほら、雪代。寝るなら、布団で寝ろよ」
 うーん、と小さくうなり、目を覚ました彼女は、まぶたをこすりこすり、畳から体を起こした。
「達也は?」
「もう姉さんが抱いてったよ」
 寝惚け眼の雪代を連れて、久志が居間へ戻ると、テレビを消した克己は、
「そろそろ寝るか」
と、あくびをした。
「雪代、先にお風呂へ入ってらっしゃい。あなたも北海道からの長旅で疲れたでしょうから」
「ごめんね。片づけ手伝わなくて」
 居間の隅にちょこんと座り、小さな声で謝る雪代に、母は頭を振ってみせた。
「今日はあなたの誕生日だし、久志と入籍した、おめでたい日なのよ。主役はゆっくりとなさい。達也の面倒を見てくれたし、それで十分よ」
 ついさっきケーキに立てたロウソクの火を吹き消し、みんなからおめでとうといわれたことを思い出したのか、雪代は喜びを満面に浮かべ、はにかんだ。
「お風呂、入ってくる」
 笑顔のまま居間を立ち去る雪代を見送った途端、
「あんなに達也のことを可愛がっているのにねえ。子供が出来ないなんて、可哀相に」
と、母が静かにこぼす。
 それを聞き流した久志は、ことさら声を大きくして、伸びをした。
「オレも寝なきゃな。コッチへは遊びに戻って来たんじゃないし、明日からは杉浦も合流してのトレーニングだから」
 達也を寝かしつけ、居間に戻って来た香奈がそれを聞き、目を丸くする。
「結婚した翌日に、もうトレーニング?」
「毎年恒例の、体育館を借り切ってのトレーニングだろ。結婚報道のあとだから、人が集まるぞ」
「今日も夕方から、家の電話は鳴りっぱなしだったからね。明日にはたくさんの人が来るでしょうし、花や贈り物で、家中にぎやかになるわよ」
 克己と母が、共に苦笑いを交えていい、畳へ腰を下ろした香奈は、困惑する表情になった。
「杉浦君って、聞いたことあるけれど……」
 首を傾げる香奈に、克己が説明する。
「東光一高野球部のマネージャーだった子で、久志の親友。トレーナーを目指して、大学でスポーツ科学を学んでいるうえに、アメリカ留学もしたことがある勉強家なんだ」
「大学生なんかと練習しても、いいものなの?」
「プロ球団のトレーナーが、アマチュアを指導するのは禁止されてっけど、逆は問題ないよ」
 さらっといってのける久志へ、香奈はさらにたずねる。
「どんなトレーニングをするの?」 
「年明けの自主トレに向けたコンディショニングとストレングス」
「聞いても、素人にはわからないよ。とにかく専門的なトレーニングをたくさんやっていると思えばいいさ」
と、克己が付け加え、母も深くうなずいた。
「仕事よ、仕事。克己が毎日、警察へ出勤するのと同じ。ただちょっと違うのは、さっき久志がプロテインを飲んだり、カロリーを計算しながら、食事をしたりしていたように、起きてから寝るまでの、生活全てが仕事なの。プロ野球選手って、そういうものなのよ」
「もうこの家に来て3年だし、この時期になると毎年のように久志君も帰って来るけれど、未だ馴れないわ。何かもう野球の世界って、常人の感覚を超えたところにあるのね。本当に凄いわ」
 香奈から尊敬の眼差しを向けられ、久志もさすがに照れる。
「そっかな。それが普通になっちまったから、オレは何とも思わないけど」
「だから今日は特別なのよ、久志にとって。朝から一度も球に触ってないだろうし、走ってもいないんでしょ? そんな事、今まで一度だって無かったことよね」
 母からいわれ、
「まあな。走り込みについてはオーバーロード気味だから、そろそろ控えようと思ってるんだけど」
と、久志が答えたところで、雪代の声がした。
「お母さん」
 フリースの部屋着に着替えた雪代が、風呂上がりらしく頬を上気させて、廊下から居間をのぞいている。
「どうしたの、雪代」
 応じた母へ、彼女は戸惑いも露わに話しかけた。
「2階の客間に、お布団がふたつ敷いてある」
「久志と雪代の分だけど。それがどうしたの?」
「あたし、お母さんの部屋で寝ちゃダメかな」
 克己と香奈が顔を見合わせ、母も眉間にシワを寄せる。
「オレ達さ、札幌でも寝室は別にしてるんだ」
 久志が切り出し、暗に寝る部屋は別にしたいという二人の申し出を、母はぴしゃりとはねのけた。
「ダメよ。雪代には久志の体を整える、大切な仕事があるんだから」
 その場に居並ぶ、母を除いた全員が固まる。
「寝るとするか」
「そうね。もう遅いし、明日も仕事だから」
 克己と香奈がそそくさと居間を抜け出し、雪代も意味がわかったのか、わからないのか、何もいい返さずに、二階へと上がっていった。
「ほら、どうしたの。さっさとお風呂へ入って、休みなさい」
 母に促され、久志は居間を離れた。
 克己が結婚して子を為し、母と同居し始めた時点で、実家に戻る部屋は無くなると重々承知していた。自分の物は全て北海道へ送り終えたし、雪代が家族になった今は、彼女の暮らすところこそが、久志の住処となる。
(ずっと、オレの願っていたことだ)
 風呂場へ行くと、脱衣所には雪代が用意してくれた着替えが、きちんと整えられていた。
 服を脱ぎ、風呂へ入ると、丹念に体をチェックする。関節や筋肉に異常がないか確かめ、爪や皮膚の様子も細かに観察するのが、日課となっていた。特に指は大切で、湯船に浸かりながらも、ふやけてしまわないよう、細心の注意を払う。
 ――一緒に大人になろう。
 風呂から上がり、タオルで濡れた髪を拭きながら、高校生の時に雪代と交わした約束を、思い出していた。彼女と久志は、未だにあの頃と同じ、淡い恋の延長線上に立っている。
 ――セックスをしても、何も変わらない。
 子供が出来ないのならば、そういう行為に意味がないと思っている雪代との間に、性的な繋がりなどあるはずもなかった。
(雪代がそばにいれば、もっと野球に集中できる)
 それだけのことだ、と自分にいい聞かせ、久志はタオルをきつく、握り締めていた。