ジーニアス・レッド 第三十二話 こうして二人は結ばれた(2)

 ようやくたどり着いた筒状の薄暗い展望台で、胸に手を置き、ホッとした身振りをみせる雪代の手を引くと、グラウンドが見下ろせるフロアの端へ、久志は真っ先に向かう。
 ほぼ天井に近い高さから、ガラス越しに、さっきまで二人のいたマウンドどころか、ダイアモンド全体が、遠く真下に、小さく見えた。
「怖いんだろ」
「怖くない」
 彼がからかうと、雪代はガラスを背にし、向かいの窓から差し込む外の光に、目を細める。
「あっちは?」
 首を傾げる彼女の手を引っ張り、
「来いよ。ドームの外も見れんぞ」
と、久志は暗いトンネルのような展望台の通路を引き返した。
 エスカレーターを抜けた反対側には、うっすらと雪の積もった市街地が、ガラスの向こう側一面に広がっている。手すりに寄りかかり、二人は身を乗り出して、その美しい光景に目を凝らした。
「ねえ、久志」
 そういって身を翻した雪代がエスカレーターまで戻り、
「下まで競争しよっか」
と、いきなり階下へ駆け出すのを見て、久志は肝を潰した。
「バカッ! やめろ!」
 ありったけの声を出し、階段を凄い勢いでぽんぽん降りて行く、彼女を追う。
(マジかよ!)
 ドームの観客席は、かなり傾斜がきつかった。階段を上り下りするだけで、かなりのトレーニング量になるため、冬場はそこを走り込む選手も多い。
(でもココは、ねーだろっ、絶対!)
 ワイヤーだけで吊られている、足をすくませるに十分な高所だ。空中エスカレーターと呼ばれる|所以《ゆえん》が、良くわかる。
「落ちてケガでもしたら、どーすんだ!」
 階段を下り切り、3階の床へ足を着けると同時に、雪代を怒鳴りつけた。
「怖かった?」
 息を弾ませながら暗い通路の真ん中に立ち、楽しそうに訊いてくる彼女へ近寄り、
「怖かねえよっ!」
と、久志はうそぶいた。
「ごめん」
 素直に頭を下げる雪代の足が、ほんの少し震えている。久志は乱暴に上着を脱ぐと、かぶっていたキャップや首に巻いていたマフラーも取って、じんわりと汗がにじむ額にかかる前髪をかき上げた。
 でもね、と背負っていたバックパックを床に置き、
「あたし、怖くない。何にも」
と、彼にならい、コートや帽子、マフラーを腕に抱え直した雪代は、満面の笑顔になった。
「久志と一緒なら、大丈夫」
 床から白いバックパックを拾い上げ、彼女の代わりに肩へかけると、久志はぶっきらぼうにいい放った。
「なら一生、オレから離れるな」
「はい!」
 雪代が高校球児のようにお腹から声を出し、返事をすると、二人は笑い出した。最初は声を押し殺し、段々とこらえきれずに大声で、果てには転げ回る勢いでお腹を抱えて笑う。
「そろそろ行くか」
 先に笑うのを止めて、久志がエレベーターへ向かうと、後からついて来た彼女は、
「えー、もう? けっこう楽しいのに、この球場」
と、笑いすぎて涙がにじんだ目尻を拭いながら、不満げにいった。
「いつだって来れるだろ? それに大事な用を済ます方が先」
「うん、そうだね」
 嬉しそうに久志を見上げる雪代と、エレベーターへ乗り込み、下に降りる。
「何かオレさ、緊張してたみたいだ」
 ドームを出るところで歩みを止め、彼はぽつりとこぼした。
「事務所に顔出して、色々いわれただろ? 服装のことやら、自主トレのこと、マスコミのこと。そんでもってマウンドに立ったら、オレはプロなんだ、って妙に実感しちまった」
 人影はなく、どこからか聞こえる空調の音だけが、辺り一帯に響き渡る。
「どんなに世間でもてはやされようと、結果を出せなきゃ、すぐに消えちまうのが、プロの世界の常識なんだ。ひょっとしたら次のシーズンが、最後なのかもしれない。そんな不安と常に戦ってきたけど、雪代がそばにいてくれるのなら、きっと頑張れる」
 久志は自分の胸ほどの背しかない彼女の腰に腕を回し、その小さな体を引き寄せた。
「何も怖くなくなるんだ、雪代と一緒なら。それがわかって、緊張も解けた」
 体を深く曲げ、雪代と頬を重ね合わせる。
「オマエのいう通り、球場って、楽しい場所なんだよな。すっげえレベルの高い選手達と、好きなだけ野球ができる。ほんの一握りの人間にしかプレーすることが許されない、最高の場所だ」
「高校の頃から、何ひとつ久志は変わってない」
 見当違いな答えが返って来て、久志は口をつぐんだ。
「野球バカ。高校の時から野球のことしか考えてない、バカな久志」
 野球、野球、ずうっと野球、とうめく彼女の腕から、コートや手袋、帽子、マフラーが、次々と床へ滑り落ち、流れ落ちる涙が、その上に小さな染みを作った。
「野球に嫉妬すんな」
 強く雪代を抱き締める久志の声も、わずかに揺れる。
「高校を卒業したらオマエと暮らしたいっていったオレに、みんな何ていったと思ってんだ。お袋は未熟過ぎるオレじゃ、雪代を支えることができねえって反対するし、監督なんか、秀才の雪代はオレの手に負えないとまで、いったんだ。杉浦はダヴィンチみたいな本物の天才だって、雪代を褒めるし」
 嫉妬してたのはオレの方だよ、と吐き捨てるようにいった。
 佐々木のマンションで、雪代と激しいキスを交わしてから、すでに丸3年以上が経つ。
 久志は東光一高在学中にドラフト会議で一位指名され、プロ入りが決まった。千葉の鎌ヶ谷にある球団の寮へ移り、三学期は卒業式を含めたほんの数日しか、学校へも顔を出さず、シーズン開幕当初から一軍入りを果たした。
 プロのマウンドに立って3シーズンが過ぎた今では、押しも押されぬ球団の顔になりつつある。入団してたったの3年で、新人王、沢村賞、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振といった、数々のタイトルを獲得したのだ。
 今年の日本シリーズでは、2戦目と優勝を決める6戦目で完投完封勝利を収め、MVPにまで輝いている。
 ――オレは雪代にふさわしい男になりたかった。
 全ては人一倍プライドの高い久志が好きな女のために、男として精一杯、格好つけてみせた結果だった。
 ――誰からも認められる形で、雪代と一緒になる。
 だからチームが日本一になり、胴上げされた時、久志は決意した。球団の監督や首脳陣に雪代のことを打ち明け、合宿所を出ると決めたのだ。
「雪代も野球も大好きなんだ。ずうっと変わんねーよ」
 きっと死ぬまで、と笑ってみせる彼を見上げ、雪代はズッと派手に鼻を鳴らした。
「笑ったり、泣いたり。何だか、忙しい」
 バックパックからティッシュを取り出して、鼻をかむ彼女の捨てぜりふを聞き、吹き出しそうになる。
「すげえフツーの女になるんだな、オレの前だと」
 久志は笑いをこらえながら、雪代の両頬に手の平を添えた。
「オレも雪代と一緒にいる時は、平凡な男だよ。プロだったら、真冬の早朝、街を歩いたりするもんか。そんな体を冷やすようなこと、ぜってえしねーよ」
 人の目を気にせず、二人だけで、一緒に暮らすこの街を歩きたい――そんな理由だけで、ドームへ行くと雪代がいい、喜んで応じた自分も、彼女にとっては、ただの負けず嫌いで、野球好きな|一《いち》少年に過ぎない。
 顔を近づける彼の前で、まぶたを閉じた彼女と口付けを交わす。唇がほんの軽く触れ合っただけなのに、全身が燃えるように熱くなった。
 同時に二人は体を離すと、床に散らばったものをひろい集め、深呼吸をした。
「どうだ、落ちついたか?」
「久志は?」
「オレが動揺するかよ」
「そういうことに、しとく」
「カワイクねーぞっ!」
 照れを押し隠し、必要以上にはしゃぎながら球団事務所へ再び顔を出すと、すぐに広報を担当する職員が出てきた。
「こちらへ」
と、会議室のような個室へと二人を通す。
 そこで久志は夕方の5時に球団広報を通じてマスコミ各社に発表が行くことや、会見を開かないこと、雪代が一般人なので取材は遠慮するよう要請することなど、細かに打ち合わせを済ませた。
「間違いなく結婚するだろうって、一部のスポーツ紙や週刊誌では、すでに仲田君のことを記事にしているよ」
 タクシーを待つ間、広報担当者はテーブルを挟んで向かい合ったまま、ため息を吐いた。
「さすがだよね。合宿所を出ただけで、こうも注目を集めるんだから」
 球団出身の元選手である彼は、久志を相手に飾らない言葉で、ざっくばらんに打ち明ける。
「雪代さんの名前も、近々出されちゃうかもしれないな。現代美術学会に所属する、立派な先生だし、国際的なビエンナーレやトリエンナーレでの入賞経験もあるんだよね? ちょっと一般人としては、ギリギリかなあ」
「先生……」
と、頬を紅潮させてつぶやく雪代に、久志は囁いた。
「ホントの事だろ」
「久志が話したの?」
「まあ、大まかなトコだけ」
 うーん、と考え込む彼女を見て、広報担当者は笑う。
「東大を中退して、絵の道を選んだんだってね。変わってるなあ。学部はどこだったの?」
「どこだっけ?」
 久志が訊き、雪代は短く、
「理三」
と、答えた。
「理三っ?」
 広報の男性は目を剥き、
「本当なのか?」
と、息せき切って、久志を見る。
「リサンって、何ですか?」
「理科三類のことだよ! 日本で一番入るのが難しい学部で、医学部のことだよ!」
 へえ、と大して感心した様子もみせず、
「良くご存知ですね」
と、呑気にかまえる久志と、仏頂面の雪代を相手に、広報担当者は舌を巻く。
「参った。若手ナンバーワン剛速球投手と秀才洋画家のカップルか。見たことも、聞いたこともないな」
と、彼は両手を挙げた。
 雪代は東光一高3年生の時、22校もの大学を受験し、全てに合格した。卒業後、いったんは東大へ進学したが、1年で中退してしまい、その後は1週間前に久志と同居し始めるまで、静岡で久志の母と暮らし、絵の世界に没頭していた。
「あ、あたし」
 広報担当者に対して、初めて雪代が口を開き、
「東光一高生の時、事件を起こしてるんです」
と、つたない口調で伝えると、広報の男性はすぐに、
「ああ。仲田君から聞いているよ」
と、いった。
「多少は話題になるかもしれないけれど、球団としては、一切それについてコメントする予定はないから。あなたもどうか、気にせずに」
 ただし、と真剣な顔つきで、
「プロは実力の世界だからね。仲田選手が来シーズン、成績が振るわないようだったら、色んな事をネタに叩かれるよ。そこは覚悟して下さいね」
と、付け加えるのを忘れなかった。
「そんなのはいいんです。あたし、野球に興味ありませんから」
 素っ気ない雪代の受け答えに、男性は面喰らったようだ。口をぽかんと開け、久志を見た。
「こんなヤツです」
 肩をすくめ、久志はおどけてみせる。そこへ職員の女性がタクシーの到着を知らせに来て、全員が席を立った。
「どうぞ、お幸せに」
 帰り際に職員から声をかけられ、久志と雪代は頭を下げる。
 札幌ドームを後にし、球団事務所から区役所へ向かうタクシーの中で、久志は雪代のバックパックから封筒を取り出し、中身を確かめた。
「着きました」
 タクシーの運転手は丁寧にいい、後部座席へ振り返ると、お金や領収書の受け渡しをしたのち、
「ファイターズの仲田投手ですよね。応援しています」
と、久志に笑顔を向けた。
「頑張ります。これからも応援よろしくお願いします」
 ついつい気張った返事をして、久志はタクシーを降りた。
 区役所の正面玄関を入ってすぐの窓口へ行き、封筒から出した書類を出すと、雪代を伴って緊張の内に手続きをする。
「婚姻届を受理いたしました。おめでとうございます」
 窓口で二人を担当した若い男性がいい、
「奥様の転入手続きも完了です。ようこそ、札幌へ」
と、発行された住民票を差し出した。世帯主の欄に『仲田久志』とあり、その下には『仲田雪代、続柄・妻』とある。
 あまりにも簡単に事が運び、拍子抜けした二人は、顔を見合わせて、笑い出してしまった。