ジーニアス・レッド 第三十一話 こうして二人は結ばれた(1)

 北の大地は12月ともなると、雪が降り続き、昼間でも刺すような寒さに襲われる。
 久志は毎朝6時に目を覚ますが、この時期は外も暗く、街中はいくら雪が少ないといっても、走れる状況ではない。
 部屋でストレッチをしたり、食事をしたりして過ごしたのち、車で出かけ、どこかの施設内でトレーニングを行うのが普通だ。
(アイツ、耐えられっかな)
 ベッドから出て、着替えながら、どうしてもドームまで歩くという、雪代の心配をする。
(まあ途中でギブアップしたら、どっか店にでも入って、タクシー呼ぶか)
 カーゴパンツにグレーのパーカーという、学生のような格好になって、ブルゾンやマフラー、手袋、キャップを手に居間へ行くと、すでに彼女がいた。
「おはよう」
 雪代から柔らかい笑顔を向けられる。
「よう。恐らく外は氷点下だぞ」
 30階建てのマンションの最上階に位置する、この部屋のリビングには、雪代くらい小さいと楽に座れるくらい、大きく張り出した窓が二方に広がっていて、街の様子が一望できる。彼女はそこに腰かけ、コーヒーの入ったカップを片手に、まだ暗い外の風景を眺めていた。
「マジで歩くのか?」
 丸いダイニングテーブルとイスが2脚置かれているだけで、他には何もない、やたらと広いフローリングの部屋を横切り、久志が隣に立つと、雪代はゆっくりと彼に視線を移し、うなずいた。
「久志もコーヒー、飲む?」
「いらない。もう、行くぞ」
 黒のフード付きブルゾンを羽織る久志の横で、床に降りた雪代は腕を高く挙げる。
「しゃがんで。背中がゴワゴワしてるよ」
「ん? ああ」
 彼が中腰になると、彼女はパーカーのフードを引っ張り出し、ブルゾンのフードへ重ね直す。
「マフラーも」
 今度は前へ回り、久志から受け取った黒と白のチェック柄のマフラーを器用に結び合わすと、襟元で整え、雪代はにっこり笑った。
「格好いいね」
「オレはいつだってカッコイイさ」
 久志はいい返し、ブルゾンのジッパーを上げ、手袋をはめながら、彼女を見た。
 オリーブ色をしたタートルネックのセーターと、膝まであるふんわりとした黄色のワンピースを重ね着した下に、色あせた細身のジーンズを合わせている。
 寝グセがついて、あちこちはねている髪の毛は、耳が丸見えの変な長さだったが、不思議と可愛らしかった。
「さっさと用意しろ。あんま遅くなると、人がたくさん来るぞ」
 お互いに見とれている自分達が可笑しくて、久志は苦笑い半分に雪代を急かした。
「うん」
 イスの背にかけていた紺のマリンコートに腕を通し、ベージュの大きなマフラーを首に巻くと、白い耳当て付きのニット帽をかぶり、雪代は手袋を持って、一足先にリビングを出て行く。
 無造作に伸ばした前髪をかきあげ、ダークグレーのニットキャップをかぶると、久志も部屋の電気と暖房を切って、雪代の後を追った。
 茶色のムートンブーツを履き、すでに準備万端の様子で待っている雪代の前で、黒いコンバースのスニーカーに足を入れると、彼は玄関に置いてあった封筒を手にした。
「持ってると邪魔だよ」
 彼女は久志に背中を向け、白い手袋をはめた両手で、背負っているバックパックの長い肩ひもを、盛んに引っ張ってみせる。まるで高校生の頃そのままな雪代の仕草に吹き出しながら、目の前のバックパックを開け、中に書類をしまうと、彼はポンと上から軽く叩いた。
 それを合図に部屋を出てエレベーターに乗り、マンションのエントランスから歩道へ出ると、途端に息が真っ白になる。寒いというより、どこか痛く、全身が一気に引き締まった。
 冷えた空気の中を、二人は並んで歩き始める。
 ようやく昇り始めた朝日に照らされ、雪代の血管がうっすらと透けてみえた。白い肌に映える赤い唇と頬が、化粧もしていない彼女の顔を、鮮やかに彩る。
 ――綺麗になった。
 雪代の右手をつかみ、引き寄せると、久志は歩道の真ん中で立ち止まり、彼女と唇を重ねた。
「突然、どうしたの?」
 恥ずかしがる訳でもなく、ただ雪代は首を傾げ、微笑んだ。
「別に」
「変な久志」
 つぶやいて再び歩き出す彼女と手を繋いだまま、久志は朝焼けに染まる空を見上げた。
「天気、良さそうだな」
「うん」
 雪代も天を仰ぎ、白い息を吐いている。あまりの寒さに先を急ぎ、途中コーヒーショップのチェーン店で軽く朝食を済ませ、体を温めると、二人はドームまで歩き切った。
「おはようございます」
 北ゲートの関係者用入口には警備員が立っていて、久志は丁寧に挨拶をしたが、怪訝そうに顔をジッと見られる。やがて警備員も納得がいったのか、
「どうぞお入り下さい」
と、二人を通してくれた。
 雪代を連れて球団事務所へ行き、中に入ると、蒸し暑い位に暖房が効いていた。
「え? 仲田選手っ?」
 姿を現した久志に気付き、声をかけてきた職員は目を丸くして、
「どうしたんですかっ?」
と、驚いた様子だった。
「今日行くって、昨日電話で話しましたよね」
「違いますよ、その格好!」
と、その女性職員は、久志を上から下まで眺める。
「球場入りの時、ファッション誌から抜け出たように、いっつもパンツやジャケットにシャツを合わせて、革靴をキチンと履いてる仲田選手が、そんなラフな格好しているから、別人かと思いました」
 大学生みたい! と叫ばれ、警備員が見せた訝しげな表情にも納得がいき、久志は笑うしかなかった。
「オフはトレーニングウェア姿が当たり前だし、あとはスーツをバッチリ着こなしているでしょ? 正直ちょっと近寄りがたい雰囲気の仲田選手が、プライベートでは年相応にそういうカジュアルな服を着ていると知って、親近感わいちゃいました」
 まくし立てられ、閉口する久志の隣に彼女はふと目をやり、
「あ……ところで、こちらの方」
と、声をひそめた。
 あー、とかたわらの雪代を横目に見ながら、久志はぎこちなく答える。
「いちお……例のカノジョです」
 職員の女性は両手を口にやって一瞬絶句したのち、大げさな身振りを交えて、
「てっきり早朝自主トレをされるんだとばっかり……」
と、即座にいい、久志の苦笑を誘った。
「今日は完全休養日。この日に練習って、あり得なくないですか?」
「いえ、いえ。仲田選手ならあり得ます!」
 えへへ、と女性は照れ笑いをし、
「それにしても、まさか今日、お連れになるとは思いませんでした。午前中は他にも自主トレや契約更改で来られる選手がいらっしゃるんですが、皆さん見たがるでしょうね」
と、興奮に頬を赤らめる。
「人目を避けたくて、朝一番に来たんですけど」
「でも先週、合宿所を出られた時点で、かなり報道はされていますよ?」
と、女性が視線を走らせた先に、顔を強張らせて立ち尽くす雪代がいた。
「とにかく球場へ、入ってもいいですか」
 久志はしびれを切らし、女性との会話を打ち切る。
「あ、はい。もう関係者用の出入り口は解錠してもらってますから、中に入れますよ。照明と暖房もついてますから」
「ありがとうございます」
 お礼もそこそこに、雪代の手を引く久志へ、
「あとで必ず球団事務所に寄って下さいね。お約束通り広報の職員も、しばらくしたら出社しますから」
と、彼女は遠慮がちに付け加えてきた。
 球団事務所を出て、雪代と一緒にドームへ入る。久志は誰もいないロビーで手袋をとり、ブルゾンのポケットにねじり入れた。
「マウンド、どこ?」
 いきなりたずねられ、雪代の瞳をじっとのぞき込む。
「コッチだよ」
 すぐに顔を逸らすと、使い慣れたロッカールームを通り過ぎ、ブルペンやウォーミングアップルームの横を抜けてダッグアウトへ出た。
「ここが、オレの定位置」
 マウンドへ上がり、高いドームの屋根を見上げながらつぶやく久志の足元で、雪代はしゃがみ込んだ。
「固い……甲子園も、こんな風?」 
「甲子園? 甲子園はもっと柔らかいよ」
 手袋をとって土を触る彼女の質問に答えながら、久志はホームベースを見つめ、次にライト後方のスコアボードへと顔を向けた。
 今は真っ暗なあの画面に、彼の大きな顔が映し出され、『ピッチャー、仲田久志』とアナウンスされると、スタンドを埋める観客の歓声と拍手に、球場中が揺れる。自分の名前を記した横断幕やプラカードが掲げられ、かけられる声援や野次も、ケタ違いだ。
 ここは、と久志の声に力がこもる。
「甲子園とは、まるで違う」
「ふうん」
 立ち上がり、雪代もバックスタンドからメインスタンドまでをぐるりと見回した。
「あれ、何?」
 マウンドから彼女が指差したのは、ドームの天井に突き出した展望台と、そこへ上がるエスカレーターだった。
「行ってみるか?」
 興味津々にうなずく雪代とエレベーターに乗り、3階へあがる。
「高い……」
 着いた直後に彼女が喉を鳴らし、ここには入団して間もない球場見学で来たきりだった久志も、物珍しげに周囲を見渡した。3階は外野席の上に位置していて、広い立ち見席となっている。
 さらに上へあがるエスカレーターは止まっていて、
「どうする?」
と、彼は訊いた。
「けっこう長えし、メチャメチャ高いトコ登るけど、大丈夫か?」
 眉間にシワを寄せ、あからさまに怖がっている彼女が、
「行く」
といい張り、二人は長いエスカレーターの階段を延々と歩いた。
 かなりの急勾配で、手すりの向こう側には、目もくらむような景色が広がっている。ギュッと強く久志の左手を握ってきた、雪代の小さく柔らかな手の平は、うっすらと汗をかいていた。
「下りの方が、もっとこえーぞ」
 耳元で脅かし、面白がる久志をにらみつけようとして、はからずも遥か下のスコアボードが視界に入ってしまったのだろう。それきり彼女は目を伏せ、足元しか見ようとしなかった。