ジーニアス・レッド 第三十話 過去との決別(2)

 その日は朝から具合が悪かった。ひどくお腹が張って、少し歩いただけで息切れまでした。それでも学校へ行ったのは、家にいると母親から、とても普通なら口にもできないような、ひどい言葉をかけられるからだ。 
 腹痛の原因はわかっている。昨日、松山先生と『誰も使わない宿直室』で、セックスをしたからだ。あんなに苦しいものだとは、思いもしなかった。教室に入って席へ着くと、ずっと机に伏せ、ひたすら痛みをこらえた。 
 ところが運の悪いことに、3時限目は体育だった。男子は教室で着替える。女子は更衣室へ行く。どうしても教室を出なくちゃいけない。 
 何とか立ち上がり、歩き出したが、こらえきれず途中でうずくまってしまった。誰も助けてくれず、たくさんの生徒達が行き交う中、ひとりで廊下の壁に寄りかかり、なんとか痛みが治まるのを待つしかなかった。 
 チャイムが鳴り、授業が始まる。もうとっくに教室へ入っているはずの先生がひとり、遅れてやって来て、保健室へ行きなさい、と声をかけてきた。 
 だいぶ良くなった気もしたが、授業を受けられるような状態でもなかった。体を折り曲げながら、ようやく保健室へたどり着くと、養護の先生に色々と聞かれたが、何も答えられず、ひょっとして生理痛? とたずねられ、とにかく首を何度も縦に振った。 
 しばらく休むよういわれ、上履きを脱いでベッドへ横になろうとした瞬間、靴下にあいている穴を見つけた。たったそれだけのことなのに、泣きたくなった。 
 養護の先生からカーテンを引く時、用事で席を外すから大人しく休んでいてね、と告げられた。保健室のドアを開ける音がして、閉まる音がする。今なら誰もいない。枕に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。 
 すると隣のベッドから変な呻(うめ)き声がした。他にも休んでいる生徒がいることに気付き、慌てて目尻をぬぐうと息を殺し、耳を澄ます。 
 嗚咽(おえつ)だった。しかも男子生徒の声だ。 
 途端にこっちまで涙があふれてきた。どれくらい泣いただろう。カーテン越しに隣で休んでいた生徒が、ベッドから抜け出し、派手な音をたてて鼻をかむのがわかった。 
 水道の蛇口をひねり、顔まで洗っている。そして突然、いったのだ。 
 ――大丈夫か? 
 答えることなく、ベッドの上で身じろぎせずにいると、彼はカーテンの向こう側で、もう一度いった。 
 ――大丈夫か?
 ――うん。 
 返事をすると彼は歩き出し、足音はドアの外へと消えていった。 
 チャイムが鳴り、養護の先生が戻ってくると、彼女はナカタ君、ナカタヒサシ君、と名前を呼び、教室へ戻っちゃったのかしら、と独り言をいった。 
 結局その日は昼休みが終わるまで保健室で過ごし、午後はアトリエで寝て過ごした。美術部の女の子達が遠目にヒソヒソと何かいっているのが聞こえたが、無視していた。 
 それから1年以上も経った、冬の寒い日。アトリエの窓際は日差しが差し込んで、暖かい。ついウトウトと眠り込んでしまった。 
 ――大丈夫か? 
 聞いたことのある声だ。でも誰だか、わからない。目を覚ますと、大きな男の子に、体を抱きかかえられていた。 
 白い色が目に飛び込んできて、とっさに胸を押した。絵の具まみれのツナギを着ていたから、汚れるといけないと思ったのに、尻もちをついた彼はかんかんになって怒り出した。 
 すると不思議なことに、その時に限って、言葉が口を突いて出た。 
 ――白のユニフォーム。 
 思えば声を出すのも久しぶりで、彼とはその後も会話が続き、その後もずっと、ずっと――。
  
 
 
 目を覚ますと、差し込む西日が部屋中をオレンジ色に染めていた。いつ眠り込んでしまったのかわからなかったが、外は雨もやみ、鮮やかな夕焼け空がビルの谷間に広がって見える。 
 ゆっくり体を起こすと、ベッド脇の床で、雪代がかけていたはずの布団にくるまり、寝ている久志を見つけた。 
 彼を起こさないよう静かに床へ足を下ろし、そっと部屋を出る。濡れていたはずの廊下は綺麗に拭かれ、玄関には雪代の湿ったローファーだけがあった。 
(佐々木さんが帰って来るには早い時間だし、彼女の靴もまだ無い) 
 廊下を引き返すと、洗面所ものぞいてみた。バスルームでは浴室乾燥機が動いていて、天井から出ているポールにハンガーが吊るされていた。そこに雪代の服と久志の制服が、几帳面にかけてある。壁には久志のスニーカーまで、立てかけてあった。 
(やっぱり久志がやってくれたんだ) 
 手際の良い後始末は、静岡の家にいた時のことを、雪代に思い起こさせた。久志は料理から洗濯、掃除まで、自分で出来ることは何でも自分でやっていた。小さな頃から母親が働いていた彼にとって、家事をこなすことは、ごく当たり前らしかった。 
(野球部は整理整頓に厳しいっていうけど、久志からすれば普通の事なんだよね) 
 感心しながら洗濯機をのぞきこんで、思わず苦笑いをする。さすがの彼もさわることに抵抗があったのだろう。雪代は手を伸ばして中から自分の下着を拾い上げると、棚から取り出したハンガーにかけ、バスルームに干した。 
(あんなに具合が悪かったのに、洗濯機をまわすことだけは忘れなかったあたしも、やっぱり細かい性格みたい。それでも完璧主義の久志には負けるかな) 
 浴室の戸を閉め、目をやった洗面台の上には、久志が見つけたのか、雪代の携帯と財布が置かれていた。スカートのポケットに入れたまま、洗濯機で洗ってしまったらしい。携帯を手にすると、試しに電源を入れてみたが、まったく動かなかった。 
 あきらめて、中まで濡れてしまった財布と一緒に、部屋へ持ち帰ると、寝ている久志の横をすり抜け、財布と携帯を机の上に置いた。 
 ベッドと机しかない殺風景な部屋にあって唯一、受験対策用の問題集とスケッチブックが何冊も積まれた机は、雑然としていた。片づけようかな、と迷う雪代が振り返った先では、変わらず小さな寝息をたてて、久志が眠っている。 
 ――今日まで、まったく気付きもしなかった。 
 彼の横へ行き、しゃがみ込むと、寝顔を眺める。 
 ――初めて名前を耳にした時、聞いたことがあると思ったのは……。 
 1年生の6月頃だったと、記憶している。支え合ってきた家族と別れ、寮で暮らし始めたばかりの彼には、泣きたい理由なんて、たくさんあったはずだ。 
 野球部の監督である小宮山は、野球部を甲子園に出場させるのが仕事だ。中学生投手日本一と評判の高かった久志をあの手この手で東光一高に入学させ、チームの中心に育てあげたのは、当然のことだったといえる。 
 それ故に突出した才能を持つエースとして期待され、常に注目されながら、彼は重圧に耐え、野球を続けなければならなかった。競争が激しい世界には付き物の、妬みそねみも受けただろうし、他人には話せない苦悩もたくさんあったはずだ。 
 ――天才は常に孤立して生まれ、孤独の運命を持つ。 
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセの著作「ゲーテとベッティーナ」に登場する一文で、小宮山は国語の教師らしく、雪代と久志を称すのに、この言葉を用いた。 
 ――天才って何だろう。 
 指先で、そっと彼の頬を撫でる。久志、と雪代は床に両手を突いて、身を乗り出すと、顔を近づけた。まぶたを閉じ、ほんの一瞬だけ、彼の唇にふわりと自らの唇で触れる。 
「ううんっ」 
 雪代の下で寝返りを打ったかと思うと、また仰向けになって、久志は太い腕を突き出した。派手に伸びをして、ふわあ、と特大のあくびをする。 
 眩しいのか、額に手をやって目元を覆い、顔をしかめながら、うっすらとまぶたを開け、
「雪代?」
と、少しだけ嗄れた寝起きの声を出すと、彼は瞬きを繰り返した。 
「おはよ。もう朝だよ」
「おは……よ? 朝? マジでっ?」 
 ガバッと跳ね起きる久志の横で、口に両手を当てながら、クスクスと雪代は笑った。 
「オマエ、からかったなーっ?」 
 かたわらの雪代をにらみつけ、腕を後ろへ回した久志は、体を大きく左右にひねると深く息を吸い、クシャミをした。 
「床でなんか寝るモンじゃねーな。体が冷えちまった」 
 引っ張り上げた布団を肩にかけ直して、くるまると、ベッドに腰かけ、
「コッチに来いよ」
と、雪代をうながした。 
 雪代はベッドへ座り直すと、
「ねえ、久志」
と、話しかけた。 
 隣で未だ寝惚け眼(まなこ)の彼は、ん? と、まぶたをこすっていた。 
「天才って、なに?」
「天才?」
「そう」
「生まれつき才能があるヤツのことだろ」
「たとえば?」
「雪代とか、オレとか……自分で天才っていうのも、変だけどさ」 
 背中を丸めて鼻を鳴らし、怒ったように答える久志の、横顔を見ながら、雪代はいった。 
「あたしも、久志も、天才なんかじゃない。死ぬほど努力してきた」 
 陽が沈み、瞬くネオンの明かりが、部屋の中をぼんやりと照らし始る。 
「勉強なんて、生まれついての才能だけで、できるもんじゃない。ずっと孤独で、誰にも愛されないあたしが、たった一人で見つけた、あたしの存在理由。あたしは山のような本をひもときながら、知識を頭に詰め込んで、数字の中に逃げることができた。クラスメートから酷い格好をからかわれたって、楽しそうに話をするみんなの輪に入れなくたって、大人達からどうしてみんなと仲良くできないのかと、責められたって、勉強さえ出来れば、とりあえずの居場所ができる」 
 ひんやりとした空気が満ち、肌寒さが増していく。うつむき、奥歯を噛みしめる雪代の頭に久志は手を伸ばし、くしゃくしゃと乱暴に撫でた。 
「そんなの知ってんよ」 
 目を閉じて肩をすくめる雪代から手を離し、ため息混じりに久志も口を開いた。 
「でもさ、野球は間違いなく才能がねえと、ぜってー越えらんない壁がある。才能がなきゃ、すっげー早い段階で限界も来る。大抵のヤツはあきらめるし、やめちまう。だってよ、努力して芽が出んなら、オレよりスゲエ選手が世の中にはイッパイいるってことになるんだぜ? ありえっかよ、そんなバカなこと」 
 勘違いすんなよ、と彼はいい足した。 
「絵とか、数学なんて、オレにはわかんねーけど、野球と決定的に違うトコがある。野球はさ、相手が必要なんだよ。点を取り合ってく中で、結果が出るだろ? 絵と数学は、ひとりでも出来る。そんでもってさ、死んでから認められるヤツもいる。オレは今だけの天才かもしんねーけど、雪代はこれから先、ずっと未来でも認められる、スゲエ奴なんだろうな」 
 荒々しく首を左右に振る彼女へ、
「オレ、今日ここへ来る前、美術館に行ってきたんだ」
と、久志は意外なことを口にした。 
「オマエの絵にソックリな絵があった」 
 雪代は瞳を見開き、隣に座る彼を見上げる。 
「その絵をオマエは知ってて、恐らく描いた画家のことも知ってる」 
 違うか、と雪代を見据える彼の顔は、緊張と不安に強張っていた。 
 ――久志は何もかも、わかっている。 
 シーツをきつく握り締め、雪代は目を伏せた。 
「長い話だけど、聞く?」 
 膝を見つめながら、小声でたずねた。 
「無理すんな」
「あの絵の女の子は、8歳のあたし。描いたのは、あたしの父親」 
 告げた途端、久志が息を呑むのがわかった。 
「何もかもがおかしかった」 
 誰にも話したことがない、4日前にその絵を見つけるまで、遠い記憶の底に封印され、忘れ去られていた事実を、雪代は淡々と打ち明けた。 
「小学校に入ってすぐ、母親に連れられて毎週のように絵画教室へ通った。ずっと冷たいお母さんが、その日だけはとても優しくて、綺麗なお洋服を着せてくれたことを覚えてる。電車を乗り継いで、行ったその場所は、とてもとても大きな家で、あたし以外に誰も生徒なんていなかった。あたしは油絵を教えられ、お母さんと先生が、別の部屋へ消えてしまう間、ひとりでずっとキャンバスに絵を描いてた。たった一人でも、絵を描いていると、とても楽しかった。思えば小さい頃から、あたしは子供らしい絵なんて描いたことがない。空は水色、雲は白、葉っぱは緑で、水は青。そんな単純に世界をとらえられなかったあたしは、油絵という複雑な色の重なりが実現できる、魔法のような道具を手に入れて、有頂天だった。それこそ『見たまま』を絵に写し取って、子供ながらに幸せを感じていた。そうしたら先生がある日、こういったの。この子は天才だって」 
 久志は一切口を挟まず、ただ黙って、雪代の話に耳を傾けていた。 
「それからだった。あたしは一人で絵画教室へ通うことになった。そこであたしは服を脱いで、裸になって先生の前に立つの。別に変だと思わなかった。先生は裸のあたしを描きたかったんだもの。あたしも描きかけの絵を時々見せられて、優しく先生に頬ずりされるのが、とても楽しみだった。でも3ヶ月がたって絵が描き上がった時、あたしの中に先生の一部が入れられた。まだ生理さえない、8歳の女の子に、それがどういうことなのか、わかるはずもなかった」 
 雪代は両手で強く、自分の腕をつかんだ。烈しい頭痛に襲われ、胸まで潰れるような苦しさが、全身を襲う。 
「教室からの帰り、道行く人が、みんなあたしを振り返った。中には懸命に声をかけて、助けようとしてくれた人もいたけれど、それをみんな振り切って、あたしは家にたどり着いた。お母さんが助けてくれると思ったから。だってお母さんは、別の部屋であたしと同じことを、いつも先生としていたんだもの」 
 体が震え、視界が真っ白になった。胃からこみあげる吐き気に耐えながら、必死で話を続ける。 
「お母さんはあたしを見て、ひどく取り乱していた。そのあと、病院に連れて行かれたとばかり思っていたのに、本当は違っていた。お母さん、変なことをいっていた。娘を犯す父親なんか、いるはずないって」 
 雪代にはどうしても語り終えねばならない、理由があった。 
 混乱すると、もう一人の自分が現れて、如才なく人と語り合い、現実的に事を運んでいく。他人を信用しても傷付くだけだと、自分勝手に何でも決断して、心の奥から雪代に指図までする。 
 彼女は忌まわしい記憶をきちんと覚えていて、あの絵に美術館で再会するまでの長い間、決して雪代に引き継ごうとしなかった。 
 ――幼い話し方しか出来ず、上手く他人とも関われないけれども、あたしには、あたしの生き方がある。 
 逃げずに過去と向き合うことで、もう一人の自分を消し、強くなりたかった。 
「ようやく思い出したの。お母さんは病院ではなく、あたしを先生のところへ連れて行った。ひどく先生をなじって、この子はあなたの子供なのよ、と泣いてた。先生は知らないっていい張って、結局あたしは家に連れて帰られ、何日も布団に寝かされた挙げ句、放っておかれた」 
 それがきっかけで生殖機能に障害を負った雪代には、子供ができない。どんなに精子を運んでも、それは雪代の中で、決して生命にはならないのだ。 
 ――それが、あたしの現実。 
 一緒に暮らそうというのなら、久志にはその事実を知る義務がある。 
「今日、お母さんに会ってきた。彼女にはあたしの知らない過去がたくさんあって、高田一朗という画家と美大生の時に知り合って、関係を持ったこと。あたしを身ごもり、あたしがお父さんだと思っていた人と結婚したこと。自分には才能がないと画家になることは断念して、それでも高田とは関係を切ることができなかったこと。娘だとも思わず、あたしが描いた絵を通して、あたしにのめりこんでしまった高田の姿に絶望し、あたしに激しく嫉妬していたこと。ずっとあたしを産んだことを後悔していて、それが生涯、彼女の中で変わらないだろうということ。全てを聞いてきた」 
 興奮してまくしたてる訳でもなく、雪代はそこまでいい終えて、久志を見た。 
「それでも絵を描き続けようと思うあたしが天才なのだとしたら、それはきっと不幸でしかないと思う」 
 驚くほど心は静かで、いいようのない胸苦しさも、頭の痛みも、全て消え去っていた。 
 久志は体の前で重ね合わせた布団を持ち上げると、雪代の横でズッと大きな音をたてて、鼻をすする。 
「オレ、ちょっと顔を洗ってくる」 
 すっくと立ち上がり、彼が部屋を出て行くのを見ながら、雪代は深呼吸をした。 
 窓のカーテンを閉めて部屋を出ると、隣室のリビングへ行き、奥のキッチンでお湯を沸かした。カップをふたつ出して、インスタントコーヒーの粉を入れ、沸騰した湯を注ぐ。 
「雪代」 
 リビングから久志の声が聞こえ、
「待って」
と、カップの中身をかき混ぜながら、小さな声で返事をした。 
 いれたコーヒーを手に、リビングへ戻ると、ベランダに面した大きな窓を背に、ダイニングテーブルへ肘を突きながら、大きく足を広げてイスにふんぞり返る久志の姿があった。 
 きちんと制服を着た普段通りの格好で、目元はきついが、どこか幼い、日焼けした顔を小さく歪め、ほとんど笑顔とはいえない笑顔を作っている。 
「カッコわりいよな。泣いちまうなんて」 
 雪代が差し出したコーヒーを受け取る彼の目は赤かった。 
「格好悪くない。わかるから」
「わかる?」 
 テーブルを挟んで向かいに座り、カップに口をつけながら、雪代はこくりとうなずいた。 
「久志もきっと、天才っていわれ続けて、つらかったんだと思う」 
 カップを持ったまま、じっと考え込む彼からは、何も返事がなかった。 
「久志」 
 しばらくして彼の名を呼び、
「1年生の6月頃……覚えてる?」
と、コーヒーをすすってテーブルに置く雪代を、久志は怪訝そうに見つめ、首を傾げる。 
「保健室で……あたし達、一緒に泣いたんだよ」 
 1年、6月ごろ、と記憶をたどる彼の目が徐々に見開かれ、やがて向かいに座る雪代を真っ直ぐにとらえた。 
 まさか、とつぶやく声が、少しだけ上ずっている。 
「隣のベッド……雪代だったのか?」
「うん」
「そっか」 
 久志は微笑み、テーブルに肘を突いた手で額を触りながら
「どうあってもオレは、雪代のそばでしか泣けねーらしい」
と、雪代を上目遣いに見た。 
「オマエには驚かされるコトばっかだよ」 
 頬を緩め、話しかけてきた彼を前に、雪代も笑みを浮かべる。 
「オレもややこしい相手を好きになったよな」 
 久志は頬杖を突きながら、
「キスする時イチイチ屈(かが)まなきゃいけねーくらいチビっこくて、細っちいし」
と、不満そうな顔をした。 
「そのクセ、真ん丸なデッカイ目は茶色くて、めちゃくちゃ可愛いし」 
 彼にじっと見つめられ、雪代はコーヒーを飲みながらイスの上で縮こまると、視線を宙に泳がせた。 
「ソレ、似合ってんな」 
 いきなり褒められ、
「服のこと?」
と彼女が聞きかえすと、久志は首を縦に振った。 
「静岡のお母さんが送ってくれた」 
 黒いワンピースの長い袖をつまみあげ、雪代は照れ笑いをする。 
「夏休みの間も、何だかヒラヒラした服を着てたっけなー。お袋のヤツ、雪代を着せ替え人形にして遊んでたんだろ」
「似合ってなかったかな」
「いや、すっげー似合ってたよ。それこそ目のやり場に困るぐらい」 
 彼の頬がほんのりと赤く染まり、雪代まで落ち着かない気持ちになる。久志は目を逸らし、ぎこちなくコーヒーの入ったカップを口に運んだ。雪代も体を硬くしたまま、黙ってコーヒーを飲んだ。 
 二人して途方に暮れ、やがて久志の深いため息が聞こえた。 
「オレ、そろそろガッコー帰って、走り込みしなきゃなんねーから」 
 そういってイスから立ち上がり、制服のポケットから携帯を取り出すと、
「クソッ。雨のせいで、ダメになった」
と、久志は眉間にシワを寄せた。 
「しばらく携帯は使えねーから。何かあったら、学校で会った時にいえよ」 
 忙しくいい残し、さっさとリビングを出る久志の後に付いて行くと、雪代は玄関で彼を見送った。 
 彼の出て行ったドアがバタンと締まり、カギを閉めようとしたところで、突然また、ドアが開いた。 
 驚く間もなく、再び姿を現した久志に、有無をいわさない強さで雪代は抱きすくめられた。乱暴に彼の唇で口をふさがれ、小さく声を漏らすと、すかさず薄く開いた唇の間から、彼の舌が入ってくる。 
 久志は何度も顔を入れ替え、深く首を曲げると、雪代の舌をからめとり、きつく唇を吸う。彼の腕にもたれかかったまま、熱に浮かされたように、雪代も口を動かした。 
 首が痛くなるほどに彼を仰ぎ続け、交わした、長いキスがようやく終わると、雪代は力尽き、その場へしゃがみ込んだ。 
 同じように玄関へ腰かけた久志は、打って変わって優しく雪代の肩を抱き、長い髪をかき上げると、首に顔を埋めて、苦しそうにうめいた。 
「ホントはすっげえ、雪代としたい。ソレこそ、腰が抜けるまで」 
 久志の熱く荒い息が、首筋に吹きかかる。 
「それでも手を出さないのは、男の意地だ。つまんねー意地かもしんねえけど、今のオレが雪代にしてやれんのって、それくらいなんだ」 
 久志、といったきり、雪代は言葉に詰まった。 
「そのうえオレは頭ん中でいっつも野球のことばっか考えてて、雪代にかまってやれる時間も余裕もない」 
 雪代へ懸命にいい聞かす口調だった。 
「だから今、伝えとく。オマエもオレも、もう孤独じゃない」 
 不幸だなんていうな、と力強い声が響いた。 
「ぜってー許せねえクソな親父だけど、アイツがいなきゃ、今の雪代はいない。美術館であの絵を見て、オレはスゲエと思った。描いたヤツは死んでんのに、絵はずっとああして人に見られ続ける。雪代もきっと、あの絵に負けない、スゴイ絵が描ける。クソ野郎だけど、あの天才の血を受け継いでんなら、負けんじゃねーぞ。絶対に絵を描き続けて、アイツを越えるんだ」 
 うん、とうなずく雪代の目から、思いがけず涙がこぼれ落ちる。 
「誇りにしろ。オレが信じた才能だ。本物だよ」
「本物……」
「当たり前だろ! それぐらいスゴイ奴なんだよ、オマエは!」 
 雪代は床に膝を突いて、背伸びをすると、彼の首にしがみついた。 
「ありがとう、久志」 
 ――A genius red. ジーニアス・レッド。天才の血。あたしの体を流れる、美しい赤。あたしと久志の中にある、生きている証。 
 きっとまた全ては、確かにその色を見つけた、ここから始まる。