ジーニアス・レッド 第二十九話 過去との決別(1)

 10月には珍しい季節はずれの台風が上陸し、雨も風も急速に強まっていた。ビルの5階にある弁護士事務所では、窓を叩く雨が荒々しい音を発している。
 雪代は応接間に通され、向かい合った弁護士から、おおまかな事件後の経緯を聞かされていた。
「刑が確定して、賠償金も支払われる運びとなりました。肝心な被害者であるあなたとは、今日までお会いできず、申し訳なかったと思います」
 ソファで向かいに座る彼は、そういって頭を下げる。髪が白く薄い初老の男性で、被害者を前に慇懃な態度だった。
「ご両親が直接お会いすることを拒否されたので、今日までお顔を拝見することも叶わなかったのですが、こうして訪ねて来て下さって嬉しく思います。まあ、良かったら、お飲みください」
 いかにも作り笑いといった顔を上げ、目の前に出された暖かい紅茶をすすめる仕草から、雪代に過剰な気づかいをしている様子が見てとれる。
「父から話があったと思いますが」
 雪代は飲み物に手をつけることなく、単刀直入に話を切り出した。
「はい、確かに。書類はお持ちですか?」
 ここに、と手にしていた封筒を、雪代がテーブルに置くと、男性はすぐに中を調べ、取り出した用紙に素早く目を通す。
「あなたは未成年なので、本来なら後見人である保護者の方に渡されるべきなのですが……とにかくご両親の希望もありますから、支払われる500万円は、ここに記載された、あなた名義の口座へ数日中に振り込みましょう」
「よろしくお願いします」
「こんなに早く支払われるケースは、正直珍しいんですよ。彼のご実家も、早く決着をつけたかったんでしょうねえ」
 ソファの背もたれに深く身を沈め、腕組みをすると、男性は長い息を吐いた。
 雪代を刺した松山の父は、いくつもの会社や土地を所有する、資産家だった。美大へ息子を進学させたうえ、卒業後7年間も定職につかなかった、彼の面倒までみていた。
 松山が画家として、いずれは成功することを願っていたようだが、芽が出なかったのだろう。ツテを頼り、東光一高に美術教師としての働き口まで、世話していた。
 芸術家気取りの未熟な息子に振り回され、結局は高い代償を払わされたことになる。
「それにしても、まったくもって酷い裁判でした。教職についていながら、複数の生徒と性的な関係を持っていたとは……普通ならマスコミの格好の餌食ですよ」
 歯切れが悪いのは、この裁判を引き受けたことに、負い目を感じているのかもしれなかった。彼が弁護を担当した松山という男は、それぐらい34歳という年齢より、見た目も中身もはるかに幼く、女にだらしがなかった。
 道ですれ違う誰もが振り返るような、目立つ外見をしていたこともあり、東光一高の女生徒のみならず、同僚の女性達からも人気があったらしい。性行為にまで発展した相手は、生徒や教職員も含め、かなりの人数にのぼると噂されたが、法廷でも正確な数字は明らかにはされなかった。
 はっきりとわいせつ行為に及んだとわかったのは、雪代を含め、3人の女子生徒だけだった。しかも雪代以外の二人は、自分たちにも落ち度があったと非を認め、学校まで自主退学している。
 ――この部屋は『誰も使わない宿直室』って、呼ばれているんだ。つまりドアに使用中の表示があっても、中に人はいないっていうことにされてしまう。もちろん誰も、開けようとはしない。以前、理事長が愛人と、ここで過ごすことがあったからだよ。誰も口にしないけど、公然の秘密となっているんだ。
 彼はそういい、中へ入ると、君は天才だ、と何度も雪代の耳元で囁きながら、制服を脱がし、乱暴に彼女を抱いた。
(あたしの才能を認め、嫉妬していた)
 ぼんやりと回想するうちに、激しい吐き気がこみ上げてくる。必死で我慢する雪代の耳に、弁護士の声が響いた。
「学校のほうは、どうです? 判決が出て、取材が押しかけて来たりしませんでしたか?」
 雪代は首を左右に振った。
「夏休み中でしたし……私もずっと、退院後は知人の家に身を寄せていますから……」
「妹さんへの影響を考慮されて、ご家族は引っ越しをされたそうですね」
「ええ。妹は聖新女学院中等部の三年生で、来年は高等部へ進学予定なんです」
「驚きましたな。聖新といえば県下一のお嬢様学校で、中学からしか入れない一貫校ですよね」
「私が東光一高の特待生制度を利用して受験すると、中二の時に決めましたから。どうしても私に負けない学校へ、母は妹を入れたかったのでしょう。なりふりかまわず、親戚中からお金を集めたと聞いています」
 はあ、と曖昧にうなずき、弁護士は一見して高価な背広からハンカチを取り出し、額の汗を拭う、芝居じみたことをしてみせた。法廷で雪代の生い立ちについて語り、被告である松山への情状酌量を裁判官に訴えた彼は、彼女が家族から虐げられていることを、百も承知している。
 ――被害者である三浦雪代は、幼い頃より親権者より保護されるべきところを、食事が抜かれるなどして低栄養状態が続いていた。修学旅行などの学校行事にも一切、参加させてもらえず、服や下着なども最低限しか与えられていなかった。
 ――小学校では常に虐待を疑われていたが、|今日《こんにち》まで見逃され、本人も外部に助けを求めたことがなかった。中学校では学歴に秀で、単に協調性がないとしか、周囲は思っていなかった。そんな彼女に被告は深く同情し、過度な愛情を寄せたと思われる。
 ――学校を解雇され、被害者からも見捨てられたと感じた被告は、犯行当日ナイフを自殺するために持っていったと陳述しており、犯行当時も心因性うつ状態に加え,睡眠薬や精神安定剤の長期連用と睡眠薬を大量に服用したことの影響により、心神喪失ないしは心神耗弱の状態にあった。
 男性がそう主張したことにより、雪代と家族の断絶は避けられない事態となった。
 今日の午前中、雪代が新しい住居に家族を訪ねたところ、彼女の部屋も荷物も、全て消え去っていた。松山の実家から支払われる賠償金も、全額を雪代がひとりで生活するために使えと、決められてしまったのだ。
「どうしてあなたの家族は、こうも冷たいんでしょう」
 雪代の不幸を嘆く口調になって、弁護士はたずねる。
「それは私が、母の不義によって生まれた子供だからです。母の生涯の汚点、恥が、私なんです」
 それ以上は雪代も固く口を閉ざし、男性は話題を変えざるを得なかった。
「とにかく報道被害に遭われず、何よりでした。東光一高野球部が甲子園で大活躍していた時期でもありましたから。不祥事を暴き立てて、学校と揉めるのはマスコミにとって得策ではなかったのでしょう。それにしても大した学校です。うるさいマスコミを見事に抑え込んだのですから」
 8月の中頃、松山に実刑判決が下され、新聞各紙はもちろん、テレビや週刊誌などでも、その内容は報じられたが、全体的にあっさりとしていた感は否めない。週刊誌では多少の脚色が加えられ、面白おかしく取り上げていたが、それも目立つほどのものではなかった。
「理事長の手腕が|優《まさ》ったこともありますし、政界や経済界に卒業生も多い学校ですから」
 暗に学校があちらこちらへ手を回し、マスコミに圧力をかけたであろうことをほのめかし、雪代は窓の外に目を向けた。雨風が吹き荒れる光景を眺めながら、必死で胃のむかつきに耐える。
「私も学業に励むと、学校に誓いました」
 雪代が視線を弁護士に戻すと、彼は深くうなずいた。
「もう心配なさらないで下さい。こちらも結審が予想以上に早く、刑も軽かったことに、胸を撫で下ろしています。あなた以外の、松山とわいせつ行為を疑われた二人の生徒さんが、示談に応じて下さったお蔭でも無論ありますし、証拠採用とならない、あなたの陳述書が、裁判官の心証を左右したのかもしれません。異例なことでしたが、あなたは厳罰は望んでいませんでしたし、彼はあなたの境遇を心配し、絵を描き続ける手助けをしようとしたことが、明らかでしたから」
 性行為と引き換えでしたが、と弁護士は、先ほどまでの憐れむ口ぶりから一変し、皮肉を交えた声音になっている。
「殺意は認められましたが、傷は浅かったし、動機があなたへの一方的で、不可解な執着でしたからね。芸術を志す方は、やはり一風変わっていらっしゃる」
 あたしは、といいかけて、私は、と雪代はいい直す。
「松山の気持ちがわかります。絵を描く者は、自分を圧倒する作品に出会った時、葛藤にさらされます」
 正気を失うほどに、とつぶやき、目まいがした。
 高校に入学して間もない頃、美術の授業に出席し、学校から配られたアクリル絵の具で静物画を描いた。初めてそれを目にした松山の、興奮に満ちた瞳の輝きを、雪代は今でも覚えている。
 ――油絵の経験はあるかい?
 たずねられ、雪代が首を縦に振ると、彼は明日の放課後アトリエへ来るように、といった。翌日、いわれた通りに雪代が顔を出すと、油絵の道具を一式、与えられた。
 ――君には才能がある。
 松山は断言した。
 それからというもの、雪代は朝早くから夜遅くまで、絵を描くことに没頭した。同じアトリエで活動する美術部のメンバーから、一個人が学校の施設を勝手に使用することに対して不満が述べられ、美術部の顧問である糸井という教師から注意を受けたが、それも松山が上手く処理してくれた。
 絵を一枚、また一枚と描き上げる度に、松山は熱を帯びた視線を彼女へ向けるようになった。ついには絵を描くのに必要な材料を何でも買い与える約束と引き換えに、雪代を自分のものにしようとした。
 同じ理由で、幼い頃にも自分を欲した男がいたと記憶していた雪代は、そんな彼の要求に応え、体を重ねた。
 ――松山はあたしに愛される資格もなかったというのに。
 学校の美術教師として平凡な生き方を歩むには、あまりにも彼は子供だった。絵を描くという、孤独で寡黙な世界に浸っていた期間も、過去において長すぎた。雪代の絵に接して、再び画家になる夢を抱いたのは、無理もないことだったといえる。
 ――ちょっと見てくれるかな。
 ある日、自分が描いた絵を松山は持ってきたが、それは雪代をひどく失望させた。出会い系サイトで知り合った男たちから金を得る方法も覚え、彼の利害関係を越えた、自分に寄せる想いなど、雪代にとっては邪魔でしかなかった。
 彼女は学校へ匿名の手紙を出し、宿直室でいかがわしいことが行われていると、自ら告発するに到った。
「あなたの絵が、松山を犯行へ導いたとおっしゃるんですか? 大した自信ですな。人の人生を狂わすような、そんな絵が本当にあるんですかね」
 弁護士がいい、雪代は何も答えることなく、腰を上げた。
「そろそろ、失礼します」
「外は台風で、ひどい天気です」
 どうぞお気をつけて、と弁護士は儀礼的に声をかけ、雪代を見送ることもなく、奥の部屋へ消えてしまった。
 エレベーターで一階に降り、外へ出ると、手にしていた傘を差すことなく、雪代はビルをあとにした。途端に吐き気をもよおし、歩道の植え込みに身を乗り出すと、そのまま嘔吐を繰り返す。
 ダンプカーが目の前を通り、路肩にたまった水を跳ね飛ばすと、頭の先からつま先まで、これ以上ないほどに濡れた。そのまま雪代は駅へ行き、電車に乗ったが、大勢の乗客が好奇の目を向けてくる。その理由を知ったのは、やがて降りた駅で、鏡に映った自分を見つけた時だった。
(泥だらけ……)
 雪代は下を向き、自分の格好を眺める。
 普段なら学校へ行く時に履くはずのローファーを、素足にひっかけていた。おまけに黒い古びたトレーナーと、白地に小さな花模様がプリントされている膝丈のスカートを合わせた姿は、どう見ても変だった。
 ――そういえば学校に、もう何日行ってない?
 ここ数日間の確かな記憶も断片的で、思い出せないことの方が多かった。
 ――あたし、どこへ行こうとしている?
 駅から歩いて5分ほどの繁華街にあるマンションだ。赤いレンガの外観が目印で、大通りから一本裏へ入ったところにある。築年数は古いけれども、一階にコンビニエンスストアがあるし、リフォームされてフローリングとなったばかりの、とても綺麗で広い部屋を、佐々木はとても気に入っている。
 ――あたしは佐々木さんと暮らしてる。早く、あそこへ戻りたい。
 改札を出て、雪代は雨の中を駆け出した。息を切らしてマンションへたどり着くと、エレベーターに乗り、5階へ上がる。すると狭い通路の先に、うずくまる人の姿を認め、足を止めた。
 制服を着たまま、全身ずぶ濡れの彼がしゃがみ込むコンクリートの表面は、濡れて色が変わっている。
「久志」
 小さく名前を呼ぶと、彼は抱え込んだ膝の間から顔を上げ、小さく笑った。
「この雨ん中、どこほっつき歩いてんだよ」
 心配したじゃんか、と立ち上がる久志へ歩み寄り、雪代は顔についた水滴を指で払うと、カギを取り出して、部屋のドアを開けた。
 二人はそろってびしょ濡れのまま、中に入った。
 上がり口に腰を下ろし、ぼんやりとする雪代の隣で、久志は脱いだスニーカーをひっくり返し、中から流れ出る雨水を見ながら、顔をしかめる。
「風呂場、どこ?」
 彼に聞かれ、雪代は黙って玄関を上がり、廊下の途中にある扉を開けた。丸いガラスを正面にはめこんだ大きな洗面台と洗濯機が並ぶ部屋の奥に、バスルームへ通じるガラス戸がある。
 後ろから付いてきて、洗面所に足を踏み入れた久志は、
「ふうん。なんか落ち着かねー感じ」
と、凝った内装をぐるりと見回し、無愛想にいった。
「雪代、知ってるか。10月にもなって、台風だってさ。寮へ戻んの、マジめんどクセーよ」
 淡々としゃべりながら、ソックス、制服のシャツやズボンなどを脱ぎ捨て、どんどん床に重ねていく彼を見ながら、雪代もトレーナーの裾に手をやる。服も下着も、濡れて重くなったもの全て、体から取り払うと、床から拾い上げた彼の服と共に、洗濯機へ放り込んだ。
 洗えない制服のズボンだけ、棚から出したハンガーにかけ直す。ぽたぽたと裾から滴り落ちる水が床を濡らし、見かねた久志が腕を伸ばしてきた。洗面台で力任せに制服を絞りながら、
「オマエ、恥ずかしくないの?」
と、雪代から目を逸らしたまま、聞いてくる。
「オレのコト、男だと思ってねーだろ」
 久志はどこか悔しそうにいい、手近な棚へハンガーを引っかけた。
「きっと今のあたし、どうかしてる」
 雪代は答え、洗濯機のスイッチを入れると、バスルームの戸を開けた。疲れ切って頭は重く、体が思うように動かない。入った洗い場で床へ座り込み、顔を両手で覆った。
「しょうがねーなあ」
 後ろで声がして、やがて温かいお湯が頭上から降ってきた。
「どうやったら、こんな泥だらけになんだよ」
 文句をいいながら、乱暴に久志は雪代の髪をさわる。
「……道ばたで吐いてたら、トラックが通って、泥水が飛んできた」
「ひでえな。誰かとしゃべり過ぎて、気分が悪くなったか?」
 うつむいたまま、こくりとうなずく彼女に、
「まったく……変な気分だよ。子供がいて、風呂に入れてやってるみたいだ」
と、久志は不機嫌な声を出した。
「ごめん」
 雪代の返事に、
「謝られてもな」
と、つぶやく久志を肩越しに見上げようとして、頭を強く、両手で抑えつけられた。
「見んな。恥ずかしいから」
 そう告げられたかと思うと、雪代は腕を引っ張り上げられ、あっという間にバスルームの外へ追い出された。勢い良く閉められた戸の向こうでは、変わらずお湯の吹き出す音がしている。
(久志と一緒に……シャワーを浴びた)
 すっかり温まり、体もいうことをきくようになっていた。壁にかけてあったバスタオルを手にすると、上気した顔を真っ先に拭く。
(裸を……見られた)
 はっきりと自覚した途端、胸が苦しくて、呼吸も満足にできなかった。息を整えながら、必死で全身拭き終えると、棚から抜き出した真新しいバスタオルを、久志のために床へ置き、急いで洗面所を出る。
(久志に見られた! 胸も、お尻も……きっと全部!)
 廊下の一番奥にあるドアを開け、自分の部屋に入ると、クロゼットを引っかき回し、下着を身につけた。静岡にいる久志の母から送られてきた、秋らしい黒のニットワンピースにも腕を通すと、ベッドへもぐり込み、頭まで布団をかぶる。
 あまりの恥ずかしさに、雪代は体を丸めると、きつくまぶたを閉じた。