ジーニアス・レッド 第二話 こうして二人は出合った(2)

 あっという間に日が暮れ、窓の外には外灯の明かりしか見えない。ひと気は全くといっていいほど無かった。
 並んで渡り廊下を歩きながら、いささか険のある目付きで大仰に久志を見上げる三浦の様子が、ガラスに反射してうかがえる。
 自分の胸ほどまでしかない背の彼女に顔を向け、
「どうやって外、出んの? もう昇降口は鍵かかってんじゃね」
と、笑いながらたずねると、彼女はプイと前を向いて、つっけんどんに問い返した。
「仲田は?」
「オレは教職員用の玄関から入ったから」
「じゃ、あたしもそっから出る」
 立ち止まり、もぞもぞとツナギのジッパーを下げ、胸元からゴロンと靴を取り出したかと思うと、彼女はあっという間にツナギも脱ぎ捨て、制服の白い長袖シャツとチェックのプリーツスカート姿になった。
「慣れてんのな」
 笑うのをやめ、感心したようにいう久志の横で、三浦は手際よくツナギを丸め、脇へと抱え込む。そして黒いベルト付きのローファーを手に、さっさと階段を降りて行った。
 たどり着いた教職員用の玄関には、誰かが揃えてくれたのか、久志のスパイクが綺麗に並べられていた。大きい体を窮屈そうに折り曲げ、久志は丁寧にスパイクを履くと、靴ヒモを確かめ、足首で面ファスナーを几帳面に閉じる。
 ようやく立ち上がり、先に出た三浦を追うと、彼女はツナギと上履きを手に、震えながら宙を仰いでいた。澄んだ冬の空気は冷え切っていて、空には白い三日月が輝いている。
「カバンは?」
 彼女の後ろに立って空を見上げ、久志は今さらのような疑問を口にした。
 うつむいて首を左右に振り、ふくらんだスカートの脇を、彼女はポンポンと手の平で叩いてみせた。どうやら財布など貴重品は全てポケットの中にあり、ツナギと上履きは両手で抱えたまま帰るらしかった。
 はあ、と吐いた久志の息は白く、言葉よりも雄弁にものを語った。2月の寒空に、冬服である紺のブレザーばかりか、コートも羽織らないその姿は、どう見ても頭が良すぎてイカレてしまった、有名高校の生徒にしか見えないだろう。
 久志は少し考えたのち、
「ついて来な」
と、彼女を手招きして歩き出した。
 黙々と歩く三浦が履くローファーの、コツコツという足音が細かに後ろから響いてくるのを聞きながら、久志はガチャガチャとスパイクを鳴らし、そびえ立つ校舎をすり抜ける。
 その先には木々が植えられ、鬱蒼とした小道に差し込む、野球部専用グラウンドのまばゆい光が、垣間見えた。
「ほんとにあったんだ」
「何が?」
 背後に首をひねり、久志は三浦を見る。
「野球部。学校にいると嫌でも噂話が耳に入るんだけど、こんなとこにいた」
 もう何も驚くまいと思っていた久志だったが、この言葉には耳を疑った。
 夏の甲子園出場、全国制覇、優勝報告会、祝勝会。とにかく学校どころか、地域全体を巻き込んでの大騒ぎに続いて、今回決まった春の選抜大会出場。この学校の野球部は県内のみならず、夏春連覇に向けて、全国からの注目を浴びている。
 ――こんな奴、いるんだ。
 心の底から感嘆したといっていい。そんな久志の気持ちに気づくことなく、彼女は淡々と言葉を続けた。
「仲田は何年? 3年?」
「おい、おい。3年なんて、とっくに引退してんよ。受験も始まったこの時期に何いってんだよ」
 オレのことも知らないのか、と喝采を叫びたくなる。
「三浦は?」
「あたしは2年」
「オレも」
 へえ、と大して関心もなさそうに相づちを打つ背後の人間が、宇宙人か何かに思えてきた。もっと話を続けたかったが、野球場のフェンスがハッキリと見える場所に来ては、打ち切らざるを得ない。
「ちょっとさ、ここで待っててくれる?」
 グラウンドは女人禁制――それが暗黙の了解となっている。無言のまま立ち止まった彼女を背に走り出すと、フェンスのドアをくぐり抜けた。
「スンマセンでしたあ!」
 緊張した面持ちになって大きな声を出すと、グラウンドで白球を追っていた、大勢の野球部員達が一斉に動きを止める。痛いほどの視線を注がれ、それを避けるように久志はベンチへと走った。
「監督は?」
 ユニフォームの上にウィンドコートを着た姿でベンチ脇に立ち、練習メニューのファイルをめくるマネージャーの杉浦へ、真っ先に声をかけた。
「室内練習場に行ってるか、部室で部長とミーティングをしてるか」
 どっちかな、と普段と全く変わらない様子で微笑み、杉浦はいった。
「ミーティングの途中なのに、飛び出しちゃったからさ」
「大丈夫。ちゃんとお前は戻って来るって、いってたよ」
「オレのこと、心配してくれてるもんな」
「みんなだよ、久志。野球部員全員、お前の怪我が一日も早く直るよう、本気で願ってるんだ」
 頭を下げることに慣れていない久志はぎこちなくうなづき、ベンチの奥へと向かった。
「わりい。ちょっとだけ、また抜ける」
 気恥ずかしさも手伝って、ベンチの背にかけてあったウィンドブレーカーを手にすると、駆け足にグラウンドを飛び出した。
「久志ぃー、すぐに戻って来いよー!」
「待ってんぞー、久志ッ」
 次々と部員達からかけられる声援を背に、胸へこみあげるものがあった。センバツで先発メンバーから外されるだけでなく、ベンチ入りさえも許されないと告げられた屈辱に、いつまでも一人、ふてくされている場合ではない。
(夏だ……来年の夏までには、きっと)
 興奮に顔を紅潮させながら戻った先で、三浦はぼんやりと木に寄りかかっていた。
「久志……仲田久志」
「ん? なに」
「ううん、どっかで聞いたことのある名前だと思ったから」
「ま、それなりに有名だから。オレも」
 屈託無く笑いながら、久志は手にしていた上着を差し出した。
「ほら。何も上に着ないよりはマシだろ」
 目の前でツナギと上履きを地べたへ置き、なぜか顔をしかめて三浦は渡されたウィンドブレーカーに袖を通す。
「久志のクラス、教えて」
 年上と思っていたクセに名字で呼び捨てたり、知ったばかりの名前を親しげに口にしたり、本当に変わっている。
「スポーツコース。西校舎の端、1階だよ」
 グラウンド脇にある、一番近い校舎を指差してみせた。嫌味ではなく、彼女にはそこまで教えてやらないといけない気がしただけだ。
「三浦のクラスは?」
「特進理系」
 拾い上げたツナギと上履きを抱え、そういい捨てると、彼女は踵を返して走り出す。
「名前! 下の名前も教えろよっ」
 ゆきよー、と遠くから答えが返ってきた。
「降る雪に、代々木の、よ」
 膝まで届く裾をヒラヒラさせて、まるでコウモリのように夜へと同化していく雪代の姿が、暗い校舎の奥に消える。
 ものを抱える袖も長すぎて、ますます怪しい姿と化していることだろう。ひょっとしたら、胸の校章や背中のロゴ、袖に刺繍された「仲田久志」の名に気が付き、何者かと想像をふくらませる通りすがりの人だっているかもしれないが、それはそれで面白いと思う。
 ――経験のない故障、レギュラー落ち、そして……。
 久志は帽子をかぶり直し、鼻を鳴らした。
「……さむっ」
 両腕を抱えて走り出すと、2年生にして夏の甲子園のマウンドに立ち、全国を制した東光第一(とうこうだいいち)高校の豪腕投手は、カクテル光線が飛び交うグラウンドへと、舞い戻って行った。